野口さん:MLへの連載より・私の還暦過去帳




日本から南米へそして現在は北米に住んでいる野口さん、:パラグアイMLに投稿されたものをまとめたものです。





03・私の還暦過去帳

01
私の南米生活もかれこれ40年もの前になります、時間が経つのが早いので、ふと〜!思い出す事が時代的にどこで有ったか戸惑う事が有ります、しかしーー、自分の心の画像にしっかりと焼きついた景色は迷う事無く思い浮かべる事が出来ます。

ある晴れた日でした。直ぐ前の日に雨が少し降りまして、空には雲一つ無くて、青と言うより、濃紺の感じがする空の色でした。近くには一番近いと言っても180キロ離れた所に小さな精油所が有るだけで、工場は同じく190キロぐらい離れた精糖工場が有りましたが、季節的に稼動していません、砂糖きびの収穫時期だけでした。

インジオが薪にする木々を取りに行く小道を伝って歩いていました。持っているものは水筒と、ズボンのベルトに差した拳銃だけで、いつものインジオ老人の案内で歩いていましたが、彼の話しを聞きながらゆっくりと歩いていると、一部何も生えていない所に出て来たら、そこに大きな木が一本だけ立っていましたので話しを聞くと「オンブー」と言う木だそうでした。別名、水木と言われて、どんな山火事でも必ず残る木でした。その地域はインジオが薪にして、ほとんど伐採してしまったそうで、残った木が薪にならないオンブーの木だけ残っていました。少し小高い斜面を登ると、パットーー!と開けた頂上に出て、地平線まで広がる、広大なジャングルが目に飛びこんで来ました。そこから見る空の色の素晴らしさーー、色鮮やかさーー、現在の空からするとあの時の空の色は、人生で一番綺麗な素晴らしい空の色でした。現在は晴れても白味掛かった青空です、抜けるような濃紺のどんな青色でも染める事が出来ない色と思いました。遠くは黒味掛かった色彩で空があくまで澄んでいると言う感じでしたが、空に感動したのはその時が初めてでした。

遠くのジャングルのかなたに、一本の煙が真っ直ぐに、真っ直ぐに、立ち上っていました。あそこには誰か住んで居るのだと、風も無いその空に、人恋しく誰かを呼ぶ様に、立ち上っていました。何百キロと言う広い広大な面積に、地球と言う丸みさえ感じる広大なジャングルが広がっていました。側でインジオが腰を下ろして、黙って空を見上げていました。
「昔は毎日がこんな空だったーーー!、」
「今では雨上がりしか見られないーー」
人間と馬しか歩けない道で、誰もこの土地を荒らす人は居なかったそうです、40年もの前に見た空が恋しくて時々思い出す事が有ります、空が毎年毎年ーー、汚くなって行くみたいです、私の人生も、時間も、全てが過去に流れてーー、年取った人生の様に、空も汚くなっていったと思います、
それにしては早過ぎると思いますーー、

02・
南米のパラグワイなどの移住地では戦後外地からの引揚者が沢山南米に再移住して来ていました。それは祖国日本に帰国しても、耕す農地も無くて、貧困と戦後の混乱から逃れる為、新天地を求めて政府が渡航費援助や、生活資金の貸し付けなどで援助していましたので、沢山の引揚者が南米に移住して行きました。パラグワイで会った方でした。

その方は満州からの引揚者でした、ロシア軍が国境を超えてなだれ込んで来た時に、ご主人は動員されて前線に配備されて子供3人と家に居たそうです、近所の方々と避難所に逃げる時子供は8歳、4歳、それと生まれて間も無い、誕生日も迎えてはいない赤子だったそうで、持てるだけの食料と、毛布、着替えなどやっと歩けるだけで、子供は赤子を背中に背負い、両手に荷物を持って歩いていたが、すぐに4歳の子供が歩き疲れて座り込み、いかに手を引いても動かない様に疲れて、道端の草むらで寝込み、日も暮れ始めて、このままでは四人家族が行き倒れとなると思い、4歳の男の子供を道端で寝かせたまま、側におにぎりと水が入った水筒を置いて、身体に毛布をかぶせて両手を合わせて許してと寝入った子供をそこに置いて、歩き始めたそうです、

しばらく歩いて居たら廻りには近所の人は誰も居なくて、はぐれたと感じて、どうしようかと思案にくれていたら、突然トラックが停車して、ロシア兵が3人ほど降りた来て、「ダワイーー!」「ダワイーー!」と身体を触り、貴重品を探して取り上げてしまい、赤子を背中から下ろしてまで、捜していたそうですがすると突然一人のロシア兵が彼女を草むらに引き込み、二人が見張りをして、彼女に乱暴を始めたそうです、しかし彼女は護身術も知っていたので激しく抵抗していたら、8歳の長男が母親の危機を感じて、近くを通過中のジープに手を上げて、飛び出して助けを呼んだそうで、直ぐにジープが止まり引き帰して来て、そこには女性の士官が護衛の運転手と乗って居て、子供が指差す方を見て、直ぐにロシア兵の行動を察知して、腰のベルトから拳銃を引き抜くと、まさに暴行しようと彼女の上に乗っている、男の頭を長靴で蹴倒すと、のけぞった男の頭をいきなり拳銃で撃ち抜いて射殺してしまったそうです、見張りをしていた二人のロシア兵も持ち物を検査されて、略奪品を沢山所持していたので、女性士官から詰問されて、その時、後から走って来たトラックが止まり、そこに日本人の若い女性が乗って居て、彼女に二人の顔の検分をさせると、通訳が女性士官に、「この男達に間違いが無い」と報告すると、二人のロシア兵を問答無用で、その場で射殺してしまったそうで、ロシア軍の女性兵士の凄さを目の当たりして驚いてしまったと話してくれました。

道端に寝かした来た子供は、直ぐにその女性士官がジープを飛ばして捜して来てくれて、そのまま日本人収容所まで送ってくれたそうです、道端の子供は、片手におにぎりを握りしめて「お母さん〜!どこ行ったのーー!」と泣いていたそうです、私に「その時の子供がーー、ほら〜!この若者ですーー!」と紹介してくれました。たくましく育った若者を見て、少し目頭が熱くなったのを覚えています、戦争は絶対起してはいけません、その時、心に深く焼きついた思いがします、祖国日本を出てはるか、かなたのパラグワイまで移住して来た人達に頭が下がる思いでした。

03・
40年ほど前になりますーー、私の若い時のエピソードです、昔の話ですが、パラグワイに行った時です、友人が住んで居た近くには、沢山のドイツ系の移住者が住んで居ました。大統領もドイツ系の2世で、かなりの勢力がありました。友人の家の近くに、ドイツ人の家族が住んで居まして、直ぐに仲良しになり、そこの娘さんとも話しをする様になりました。19歳ぐらいで、金髪で中々の美人でしたが、親の農作業を手伝うので、肩幅も大きく、胸も若い私が「どきん〜!」とするような感じのグラマーでした。

毎朝の乳絞りもして、バターやチーズも加工していたみたいです、一度土曜日の夜、ダンスパーテイにも近所の三人の男女の若者と行きましたが、彼女の胸に抱かれて踊るのは私ぐらいで、下手なダンスを上手くリードしてくれました。時々、彼女がぎゅ〜と私を抱いてターンしてくれますが、胸圧が掛るのには驚きました。若い時です、ダンスが終った時には、シャツがびっしょりでした。それと言うのも彼女のくびれた腰や、はち切れんばかりのお尻など刺激が強過ぎたのも有りました。一度などは、ジルバを踊ってスカートがふんわりですーー、彼女のぴっちり密着した下着が「チラリ〜!」です、私の胸はドキドキーー、おたおたーーと高鳴り、それを隠そうとがぶ飲みした、ビールがこれーーいけなかった思います、「きゆ〜」と効いたビールにフラフラになりまして、すっかり彼女の世話になり、車に乗せられて友人の家に帰って来たのもうつろでした。

彼女は小型トラックを運転して、その夜は帰って来たそうですが、ずっと帰り着くまで彼女の腰を抱いていたそうです、あきれた事でしたが、翌朝見が覚めてその事を友人から聞かされて、近所の彼女の家に謝りに行きましたが、すると丁度、豚を解体してソセージを作る所でした。彼女が一人で、豚の前で準備しています、すでに両足は縛られて転がされています、タライを準備して、肉きり包丁で、いよいよ「ブスリーー」です、豚は「ヒーーーー」と絶叫しています、彼女は平気で、金タライを前に豚の首に包丁を入れました。豚の最後の絶叫が「ブーーーーヒ〜!」と泣くと、グイとえぐって血液を出します、少し塩を入れてかき混ぜて、ゼラチンの様に固まり、後でそれを原料にソセージを作るそうです、彼女の大きなお尻がどん〜と豚の胴の上に乗り、血を絞り出します、見ている私は、少しドキドキして来ました。それが済むと、あお向けにして、お腹を切れる包丁で「スーー」と切って内臓を掻き出します、その頃になると胸が「グ〜ッ!」と何かこみ上げてきて、ビールをがぶ飲みした以上に変な気分で、臓物をより分けている彼女の後ろ背中を見て、狩猟民族の子孫だとつくずく感じました。

それからしたら、私などは定住稲作民族の末裔だとはっきり覚り沢庵でお茶ずけを食べるのが好きな者は到底彼女などは手を出してはいけないと思いました。もしこの事が無かったら、私は彼女にイカレテ、腑抜けになりーー、結婚などと言う悲劇になっていたと思います、そして、彼女の巨大な胸に抱かれてーー、その先を思うと〜!今では笑いがこみ上げて来ますが、あの時の豚ちゃんの悲鳴が私の心に正常な感覚を冷静に取り戻させたのだと思います、でも彼女の作ったソセージは美味しかったですーー、


04・
 死と言う事は人生の終末です。私も時々、眠りに就いて「スーーッ」と引きこまれる様に記憶がなくなる直前にふとーー思うことが有ります。それは、「明日の朝、目が覚めないのではないかーー。」と言う思いが頭をよぎる時が有ります。「死とは永遠の眠りー」私はそう思います。物理的に眠りに就く、機械的な力での眠りに就く、自然の生理的な現象での睡眠、言葉が違えども眠りの夢の世界に就く事は一部は同じ事と思います。

15年以上も前です。昔住んで居ました家の近くで、有る人が自分で命を絶ってあの世とやらに旅だって行きました。夕方、少し薄暗くなって、夏の日長の夏時間を楽しんでいました。すると突然「パンー!」と銃声がして、私はとっさに銃声と感じましたが、ライフルの様でした。家族には黙って外に出て見ましたが、誰も外には人は居ませんでした。アメリカでは隣家の間が広いので、関心がないのか静かで、私も直ぐに家に入ってしまいましたが、しばらくして、外が騒々しくなり、ポリスが沢山来ていました。3軒ほど先の道路を隔てた家でしたが、しばらく借家になって中年の女性が一人で住んで居ました。

ポリスに聞くと、「引き金を引く前に、家族に別れの電話をしたので、家族からの連絡で、来て見たら全てが終っていた」と話してくれました。彼女は庭の外で、小屋によりかかる様にして、ライフルで口から頭を撃ちぬいて死んでいました。「寂しいーー」と近所にタバコを貰いに来て話していました。生活保護者はフードスタンプでは酒、タバコは買えないからです。離婚して、仕事も無くして、一人生活保護での生活では心寂しくて自分で自分の命を、もてあましてしまったと思います。しかし文明社会では沢山の人が死を自分で選んで、自分で解決しています。昔ジャングルでのインジオ達は、見事と言うほど何も持っていません。自殺するような話も聞いた覚えは有りません。一度晴れた日にインジオの労働者が6人ほど、河岸で毛布を被っています。側では洗濯物が石の上に乾して有ります。着たきり、スズメですので、乾くまで毛布を被って待っているのでした。見事と言うほど何も持っていません。

金など有ってもお店が有りませんので、買う事が出来ません。どうするかと言うと、カゴを持って、近所を一軒ずつ廻って食べ物を貰って廻ります。皆は有る物を少しずつあげます。玉ねぎ、ジャガイモ、トマト、マンジョーカー芋、魚の干物、乾し肉など、見て居ても直ぐにカゴが一杯になります。完全な原始共済の世界です。生きると言う事が連帯の世界で成り立っているからです。彼等は死と言う事は、自分の寿命が終る事です。貧しさが必ず不幸とは思っていません。貧困が必ず、不幸となる事も思っていません。最低は食べる事は出来ます。現金が必要になると、仕事をして、必要なお金を稼ぎます。文明社会は心の連帯を破壊して個人主義になり、金が無いと葬式も出せない社会にしてしまいました。死と言う観点から見ると、文明社会が幸せなのかーー、原始社会が不幸なのかーー、物質文明が幸せなのかーー、はたしてどちらが正しいのかーー、皆様はどう感じますかーー。

私は新婚旅行に着ていった背広一枚、紳士靴1足で、未だにそれを着られる体形で、体重も同じです。お笑い下さいーー。それで生きて居ます。何も恥ずかしいと思った事も有りません。35年も過ぎて、それで生きて来ました。そんなジジイの人生ですーー。

いまも昔、引き売りして歩いた「トマト売り」をスペイン語で上手に出来ますーー。いまも毎日作業着で、太陽の下で働けることを感謝しています。それと元気で丈夫な身体に、育ててくれた母親にいつも感謝して居ます。そんなジジイですーー、あはは〜!


05・
人はそれぞれの違った道を、運命と言う道筋の見えない、神と言う啓示の様に、それにしたがって歩いて行きます。同じ年齢で、年代で時代の流れも同じ時に、しかし人はそれぞれの思いで歩いて行くものです。私の好きな言葉で、『過去を見て、現在を考え、未来を予測する』と言う言葉です、この言葉はほとけ様の教えの中の言葉と聞きました。未来を予測して夢見る事は、過去の出来事や、あやまちや、人の過去の体験などを見て、初めて迷いのない未来が見えて来ると感じます、それで過去帳と名付けました。これからの未来に向けて、将来の希望を持って、時代を歩んで行かれる方に読んでもらいたく筆をとりました。

人は様々な生き方の人生を歩み、走り、疾走して終着点まで到着します。早い人、遅い人それぞれです。私が会った方で、探検家として冒険家として有名な植村直己氏です。私が彼を知ったのは1962年ぐらいの頃と思います。大学に居た当時、明大の山岳部には凄いタフな男がいると聞いた事があります。その人が植村氏でした。彼は1964年明大を卒業して、5月にアメリカに旅立つたが、私は8月に南米のパラグワイに単身移住をして、横浜を出航して行きました。そのあとは彼の消息を知ったのは、アルゼンチンのブエノスアイレスで丁度、彼が南米最高峰アコンカグワに単独登頂して戻って来た頃で仲間の友人と安宿に滞在していました。彼はアマゾン河の筏降りを計画していた頃と思います、彼は冒険家として常日頃、ニユースで消息が載っていましたが、私は彼が冒険家としての職業を選ぶとすればいつの日か彼は危険な局面に出会い、命の危険もあると感じていました。

彼は単独登頂と言う登山、人が試みない冒険など、話題が絶えない人でした。私は土に情熱を掛けて人生の道行きを試して居た頃で、南米のジャングルでの開拓に人生の面白さを見出して、熱中していた頃でした。それぞれ人は一つの物語を残すと言いますが私は平凡な百姓の農業の道でした。一度日本に帰国して1976年にアメリカのカリフォルニアに家族を連れて移住して来て、3人の子供達と平凡な家庭生活を楽しく営み、子育てに親の生き甲斐も見出していた頃でしたが、確か1984年頃で、アラスカのマッキンレー冬季登山をして、登頂に成功して下山途中に行方不明となり、帰らぬ人となりましたが、そのニユースを聞いた時は悲しくなり、同じ歳の人間として、その冥福を祈っていました。私は彼の生き方が何か、つきものに取りつかれた様に人生を走り抜けて行った人だと、今でも感じます。

人はそれぞれで、人生は一度しか有りません、しかしその命短い人生をどの様に使うか、その人の人生ですーー!貴方はどの様に計画して実行していきますかーー!、一つだけの貴方の人生です。植村直己氏は確か43歳でアラスカの冬山に消えて行かれました。


06・
ブラジル『ニッケイ新聞』が報じていましたが、今日のお話は国境貿易の昔話です。『行商人やタクシー運転手ら五千人が十五日朝から夕方までパラグアイとの国境にあるポンテ・デ・アミザージ(友情の橋)を封鎖し、八日から始まったブラジル側の密輸撲滅作戦(取り締まり強化)に抗議した。抗議行動はパラグアイのシウダーデ・デル・レステ市長も音頭を取り、同国大統領も今回の問題の解決に乗り出した。ブラジルの国庫局は作戦を続行すると表明。取り締まり開始後四日間で百三十万レアル相当の密輸、偽造品が押収され、レステ市の商店の人通りは八割近く減っていた。』

私がパラグワイに居た頃はまだイグワス河に架かる橋もなく、パラグワイ縦断道路もなく、エステ市も余り聞かない所でした。その頃エンカルとアルゼンチンのポサダを結んで担ぎ屋のおばさん達が沢山、行き来していました。僅かな口銭を稼いで、日々の生活用品を運んで居たようです。一度話したら、なんとパラグワイからビーノのワインボトルを運んで来ていました。アルゼンチンで高く引き取ってくれるからだそうでした。今では考えられないような品物です、これだと税関の白豚と言われた、女性の意地悪な税関司が何も検査なしで通過させてくれると話していました。エンカルとポサダの連絡船の渡し代以上も口銭が出て、生活が成り立っていた様です。白豚と言われた検査官は針金の検査棒で机をパンパンと叩きながら彼女達が船から上がって来るのを待っていました。側の鉄道のフエーリーボートにガラガラとワイヤーで貨物列車の貨車を船に載せてい
た音が響き、濁った河の水に揺られて河を渡った思い出は今では懐かしく思います。。

07・
人生の運命を操るドライブも、その本人の生き方で随分変って来ます。その運命と言う道を走ってーー、時には歩いてーー、時には立ち止まってーー、運命の道筋を振り返る事が有ります。今日の思い出の話は、アルゼンチンで1964年頃、ボリビア国境近くの、南回帰線から100kmは入った所でした。

農場で仕事をしていた時です。収穫したトマトを15Kmぐらいトラックを運転して、大型トラックに積み替えて、町で夕食も済ませて、かなり遅く帰宅する時でした。空が曇って来て、雨季の前触れの雨が降りそうな感じでした。町を出るときは少し雷鳴が鳴り、黒い雲が暗黒の闇をますます黒く塗りつぶしていました。ヘッドライトの明るさだけが頼りの運転で、風が出ると突風で倒木が道を塞ぎ、通行止めになる事が有り、ブルドーザーが排土板で押した土の幅しかない道でした。かなりの傾斜の坂が2ヶ所有りまして、其の他、長い緩やかな坂道が1ヶ所有りました。

そこを通過する時はすれ違いが出来ないので、荷物を積んだトラックが優先でした。長い緩やかな坂道は、山を削っただけで他に避ける所が無いので鉢合わせした時は大変でした。荷物を積んで長い坂道に来ると、まず坂道を登る前にインジオに拳銃を持たせて、歩いて坂を登らせて頂上からの合図の銃声を聞いてから登ります。その間もし他のトラックが降り様としたら待つ様にさせていました。緩いスピードでノロノロと、ローギアで登って行きますが、いっも緊張して運転して行きました。そんな坂も真夜中では誰も通過しませんので、それとヘッドライトで対向車が直ぐに分ります。真っ暗で光はかなりの輝きを遠くまで照らしますので夜はかえって安心でした。

急な坂はそれぞれ名前がありました。「クルーアスール」「クルーネグロ」と名前がありまして、それぞれの場所で、一人ずつ交通事故で昔に誰れか死亡していました。それはトラックターで牽引してきたトレラーの台車に押されてギアを切り替え様として、ギアが入らず、走り出したトレラーとトラックターに挿まれて死んだ事故です。昔のギアのチエンジはダブルでクラッチを踏まなくてはなりません。フルシンクロの軽くて簡単な操作では無かったからです。

クルーアスールの坂に着いた時、坂の頂上から谷の底を見ると、谷底の茂みで、何か「ボーッ」と明るく輝いていたので、確かあのあたりでは、死んだインジオの名前が入った十字架が有ったのだと思いながら、星も見えない真っ暗な闇のジャングルの道を降りて行きました。「ドキドキーー」と心臓が時めき、いよいよ化けて出たかと拳銃をベルトに確かめて、帰りたいーー、帰って寝たい一心でかなりのスピードで降りて行きましたら、そこには風除けを付けた、ロウソクがゆるゆると燃えていました。「やれやれーー!」ホットしてそこを通過する時、花も手向けて有ったのが見え、家族がそこに訪れていたのだとわかりました。そこを通過すると平坦な道に出ます。両側はジャングルです。雷鳴も凄くなりまして、青白い光がジャングルの木々を照らしていました。その時です、ポツポツと大粒の雨が降ってきたので慌ててワイパーを付けて、後僅かな道を走れるだけ走ろうと考えてトラックを飛ばしました。しかしそれは300mも走らないで緩いカーブでハンドルを取られて、スピンして反対方向を向いて止まりました。道は石鹸の上を走る様に、「つるーーつるーー!」と滑り、最悪の状態になっていました。道を塞がない様に、水の流れを妨げない様に、路肩に寄せるのが精一杯でした。トラックに寝るのもイヤなので、売り上げ金をプラスチックに入れ、ポケットにしまい歩き始めました。あと僅かで1、5kmチョットです。ジャングルの道は雨が降ると川になります。よく毒蛇が流れて噛まれる事が有りますので、稲妻の光で道の先を確認して歩きます。拳銃の弾は散弾の粒を仕込んだ蛇撃ち用の弾に詰め替えて、ベルトに挿んでいました。「ドカン〜!、バリバリーーー!」と雷鳴が鳴るたびに立ち止まって、先を透かして確認して歩きます。

時々近くで「バリ〜!キーン〜!」と落雷しました。ジャングルの大木が「バリバリーー!ズシーン〜!」と地響きを立てて倒れる音も聞こえて、少し不安と心細い感じでしたが、突然に稲光の中で、川になって流れる道の真中に黒い細長いものが流れるのを見ました。「毒蛇〜!」一瞬緊張して身構えました。次ぎの雷鳴が鳴り、稲妻の青白い光が真昼の様に照らした時に無意識で腰から拳銃を引き抜き、2発連続して撃っていました。黒い細長い毒蛇の様な廻りで30センチぐらいの大きな水飛沫が上がり、一瞬見えなくなりましたが、確実に散弾の粒が命中しているのが分りました。動かずーー、ジットーー!次ぎの稲妻を待ちました。「ガーン〜!」と雷鳴がとどろき稲妻も派手に光った時、その黒い細長い物が、木の枯れ枝と分りホットしました。やれやれでーー、疲れて、緊張の余りジャングルを抜けて農場の灯りが見えた時は、ドット疲れが出て涙ぐんでしまいました。

その夜は家に着くと、びしょぬれに濡れた服を着替えて、熱く湧かしたミルク.コーヒーと、コニャックを飲んで気持ちを落着けて、窓の外で自然が繰り広げるスペクタルな大自然のショウーを見ていました。今でもその雄大ですばらしい稲妻の輝きを思い出します。トラックは翌日午後から乾いた道を運転して、取りに行きました。

08・
私がパラグワイを出て、南米のアルゼンチンの奥地で農業をしていた時代は、まだ沢山の開拓されない未開の土地が有りました。その頃、1960年代の始めは、まだ南米に沢山の国から移民が移住して来ていました。フランスの植民地であった、アルジェリアから独立を嫌って、フランス政府の補助のもとに、アルゼンチンに移住して来たフランス人達、韓国の軍事独裁政権を嫌って当時の1960年代南米に移住して来た韓国人、日本政府の移住事業団のドミニカ共和国移住地から再転住してきた日本人、台湾から新天地を求めて移住して来た台湾人達、全てが自分の運命を掛けて新天地を目指して移住して来た人ばかりでした。

アルゼンチンの貧民街で靴屋をしていた韓国人が、祖国では軍人として、第二次大戦前は、日本軍の士官学校も出ていて、かなりの地位に有った人が、達者な日本語で、私の質問にーーー、「ここには自由があるーー、民主主義が残っているーー、子供の将来を考えたら、自分は土台で子供達を伸ばしてやりたいからーー、」そう話して、黙々と仕事をしていました。また、ポーランドから社会主義政権を嫌って逃れて来た難民達、ハンガリー動乱からの難民、沢山の移住者が数知れぬ物語を背負って生活していました。ドイツ人で大戦中は、ロシア軍と激しく戦い、ベルリン陥落まで戦って生き残って、戦後の冷戦に嫌気をさして、移住して来たドイツ人家族、現在の平和な島国日本から見たら、地を這う様にして生きて来た人達でした。平和とはーー、幸福とはーー、希望とはーー、将来とはーー、みんな自分で頑張って、一つずつ勝ち取らなければならない新天地の世界でしたが、それを成し遂げて、根を下ろして、家庭を築き、子供を養い、教育して次ぎの世代を伸ばしていました。

ハンガリー動乱でロシア軍の戦車と装甲車に追われて、必死に国境を超えて逃れて来た人が、親が息子だけでも逃したいとあらゆる手段を使って、国境を超えさせてくれたと話して、最後に別れる時に、「どんな事をしても生き抜けーー、命だけは大切にしろーー、生きていれば、いつか、どこかで再会出来るからーー、」そう話して、抱擁して、新天地への道を与えてくれたと話していました。話してくれたハンガリー人が生活も落着いて、成功して、親を本国から呼び寄せて、裏庭の綺麗な庭園で親子そろってお茶を入れて私を招待してくれ、両親を紹介してくれた時に生きると言うことーー、幸せと言うことーー、どこの世界でも同じだと、心から感じました。


09・
私が40年前にアルゼンチンの奥地にいた時、その頃鉄道貨物からトラック便に変っていた頃でした。鉄道輸送は、その頃ストライキが多発して、突然輸送が止まり生鮮野菜のトマトや、果樹生産でバナナやオレンジなどの輸送が止まり、多大な被害が出てトラック便が全盛を迎える時期でした。ボリビア国境近くからの奥地です。エンバルカシヨンの町から、ブエノス、アイレスまで丁度1658Km有りました。片道が日本縦断するくらいの距離でしたので、運転席の後ろにはベッドが有りまして、二人で交替して運転して行きました。

12トン近くのトマトを積んでいます。自分の荷物だけでトラックは満載出来ない時は、近所の荷物も積みますーー。道が余り良くありません。途中には舗装の無い所も有りまして、せいぜい35〜40キロでしか走れ無い所もあり、到着まで2日半ぐらい掛かりました。休憩は燃料補給と食事の時だけです、あとはひたすら走ります。道が悪いので良くパンクします。タイヤも3本予備を積んでいました。燃料の予備も50リツタ持っていました。それはガス、スタンドが売り切れで在庫が無い時が有るからです。私も一度経験が有ります。余りガス、スタンドが無いからで、燃料補給が狂うと次までだいぶ走らなくてはなりません。売り切れの話を聞いて、直ぐに50リッタの予備のタンクを入れて、丘の頂上では坂の下まで、惰性で走り登り、坂のみエンジンを吹かして登りました。でもストの影響で輸送がストップして、次のガス、スタンドまでタンクローリが配達しているか心配でした。かなり走って、50リッタも心細くなって、お腹も減ってランチとしました。食事も終って、何気なくそこのマネージャー氏に聞いたら、「200リッタぐらいは売っていいーー」と聞いて嬉しくなってしまいました。レストランの裏に行くと、古い旧式の手回しの給油機があり、交替でハンドルを廻して、200リッタ売ってもらいました。かなり高めの値段でしたが、有り難く感謝して代金を払い、ぎりぎりで次ぎのガス、スタンドまで走る事が出来ました。

サンチャーゴ、エステーロの砂漠地帯では燃料が無いと悲劇です。丁度真中当りでオアシスと言う、ガス、スタンドとレストランが有りました。良く品切れで、慌てていました。しかし、レストランのヤギの肉はいっも沢山置いて有りまして、注文すると直ぐに美味しく焼けた肉を出してくれました。そこは牛肉は値段が高くて、硬くてヤギ肉を専門で出していて、それに岩塩の潰した粗塩をまぶして焼きますが、美味しくていつもそこに寄って食べていました。砂漠の荒野を走って帰り道、ブエノス、アイレスを出てから1000Kmの標識が有りました。

丁度夜が明ける時間で、ほのぼのと朝日が濃紺のベールを立ち切って、荒野の荒れ果てた中に輝く光の束をさしこんで全てを光の輝くオレンジ色に染め上げていました。光の余りの美しさに見惚れて、トラックを止めてエンジンはアイドリングしたまま、相棒の運転手は後ろで寝たままでした。トラックを降りて、身体をほぐす為に少し荒地を歩いていたら道端の岩陰に十字架が有りまして昔、誰かがそこで事故で死んだ様でした。近寄って見ると枯れた花が風でゆれて、微かな音が有り、どこかで啜り泣いているみたいで、グーっと心が閉めつけられる感じで、良く見ると家族の写真が置いてあり、写真の上の石を除けると、そこには「愛するお父さんへ〜!」と書いて有り日に焼けて色あせていました。かなり前に、ここに訪ねて来たものと思われました。冷たい朝風が吹きぬける中で、私も合掌してトラックに戻り発進させました。

今度ここを通過する時は、花でも上げ様と思っていましたがとうとう、そのチャンスは有りませんでした。今でも荒野の道を走るときは風にゆれて、啜り泣くような枯れた花の音が聞こえます。そしてサンチャーゴ、エステーロの砂漠地帯が目に浮かびますーー。

10・
パラグワイの移住は1864年から1870年までブラジル、アルゼンチンウルグワイの3国を相手に戦い、大敗して人口が激減して、総人口が推定で30万人ほどになり、国力回復の為に移民を受け入れる事で、国力を回復する事に、当時の日本政府の政策と一致して、1936年に始めての移住がパラグワイに始まったのでした。日本政府はパラグワイ拓殖部を創設して、現地調査して首都アスンションから130キロも離れた、ラ.コルメナに移住地を開き、そこに1936年6月にまずブラジルから、日本人移住者が転移住して来て、8月頃に日本から直接に現地入りした11家族81人がに入植しました。それから第二次大戦で中断するまで、700人ぐらいが移住して入植しましたが、その日本からの移住者で1936年に移住した隈部友吉氏家族。ラ.コルメナでの惨劇に遭った青木家の家族を今でも良く覚えています、強盗に襲われて子供三人が生き残り現在では二人が元気でアルゼンチンに住んでいますが、一番下の弟は20年ほど前に交通事故で家族を置いて急死されたと、今年の2月にブエノスを訪ねた時に、兄から聞きました。お姉さんは元気で居られるとの事で久しぶりに近況を聞かせてもらい安心して、懐かしい思い出を感じました。ラ.コルメナも1954年にパラグワイ移住が再会されて、第2移住地が開かれてそこに入植した人を、1964年に訪ねた事がありました。その時は昔の青木家の家も『ただ、あの辺に有ったーー!』と指差してくれた所は一面の綿畑でした。しかし当時、ブエノスとアスンションまでの河船貨物船の船賃とブエノスから日本までの船賃が同じ状態であった時代に、内陸国のアスンションから130キロも離れた場所での移住地の開設は当時の私でも少し疑問が残りました。近郊野菜栽培でも出来て、現金収入が有れば生活がもっと良くなり農家経営が安定して将来も、もっと希望が有ったと感じました。

隈部氏家族は子供四人が全て男の子で、パラグワイに移住してくる前は、一度ペルーに移住していたと聞きまし。スペイン語もかなり話して、長男はペルーでの生まれで、語学は達者であったので、戦後直ぐにパラグワイから長男をまずブエノスに送り、そこで家族の基地を作って全員をアルゼンチンに呼び寄せたと聞きました。70年近く前の初期の初めての、ラ.コルメナ移住者の家族の話ですが、こんな話しでも歴史として、少し書き残しておきたいと思います、この続きはまた書きます。


11・
人生は遠き道を、重き荷物を持って旅する如きーー。現実のドライブはその道路、運転する車両によって変わって来ます。私が一日で一番沢山運転したのは、約1500Kmでした。朝の3時頃から、夜の9時近い時間まで運転しましたが、アメリカの高速道路では、かなりの速度で走れます。平均すると時速100Kmで走っていると思います。

一番遅く走ったのはパラグワイのポンタポランの郊外で、まったく道のない所を、トヨタのランドクルーザーで走った時でした。移住地を訪ねて行く時に、雨の後で道路がすっかり消えてしまい川床をたどって走って行きました。道なき道を走ると言う事は、この事かと思いました。また車も結構タフに造って有る事を感じて、体感で思い知りましたが、道の無い所を走ると言う事は時間の掛かる走行だとしみじみ感じた思いがします。激しい衝撃で計器類がほとんど壊れていました。一番早く走ったのはアフリカで、南アフリカのヨハネスブルグに行く道を、新車のオペールのレンタルカーで、大きくうねる波状地形の一番丘の上から、突進する様に全速で降りたら、160Kmのスピードが、メーターに出ていました。同乗していた友達に気がついたら、「なんまいだ〜!」と叫んでいました。ひきつった顔で、「こらえてくれ〜!」「止めてくれ〜!」と怒鳴って、最後は「ヒーー〜!」と座席にしがみ付いていましたので、よほど怖かったと思います。当時1966年頃でーーー、車の性能的にも、余り知らなかったから出来た事で、最後はエンジンが「ドドドドーー!」と少し異常な音を出していました。

一番古い型の車はフォードのT型で、アルゼンチンのブエノス郊外の農場でそこの農場主が、おじいちゃん時代からの車を全部丹念に保存して、手入れして、残していたからでした。一度でエンジンが掛かり、スパスパーー!と音を立てて走ってくれました。今でも思い出します、田舎の草ぼうぼうの道をパタパタと走ってくれた事は。この自動車のハンドルを握って当時の古き良き時代を思い出しながら、歴史の移り変わりを身体で実感していました。車が変化して新しく生まれ変わる様に、人間の人生も時代の過去に老いと言う変化に乗って、変って行く様に感じます。


12・
昔40年前、パラグワイにブラジルに入植した韓国人が行商に来ていました。国境を超えて、その当時は日本も韓国も外貨のドルは厳しい持ち出し制限がありまして、韓国人は祖国韓国を出る時は余りドルは持ち出しは出来なかった様です。彼等が外貨の代りにブラジルにもって来ていたもにはなんと『韓国海苔』でした。その当時は日本の海苔箱と同じ感じの茶箱に似た箱に沢山の韓国海苔を詰めてもって来ていた様で、ブラジルの移住地に入植して、開拓もそこそこに海苔を担いで行商に歩いていた様で、ブラジル各地にある日本人の入植地を廻って居た様ですが、そこを歩き尽くすと、パラグワイ各地の日本人の入植地を歩いていました。達者な日本語で3〜4人でのグループで歩いていました。入植地の日本人は韓国海苔でも、喜んで買っていました。何か有ると、必ず海苔巻や、おにぎりが作られて、そこで海苔は貴重品でした。彼等はそこで海苔を現金化すると、帰りはその金で、コンチネンタルと言うタバコに変えてブラジルに持ち返り、そこでまた利ざやを稼いで居た様です。往復行商と言われていました。韓国人のしたたかな根性です、私は感心して見ていました。私がアルゼンチンに移動しても、奥地の辺ぴなボリビア国境近くまで来ていたのを覚えています、韓国の移住者はかなり知識人が居ました。それだけの資金があり、教養と行動力が備わった人達も居ました。友達から聞いたの
ですがブラジルで入植地に入つた韓国人はしばらくしたら、殆どが居なくなって都会に出てしまつたと聞きました。現在でもニユーヨーク市などは雑貨店の多くが韓国人経営者が居ます、東部の大きな都市には必ずハングルが見られ、西部のロスの都市でもコリアンタウンが出来上がっています、1964年時代にアルゼンチンの国勢調査では韓国人は250名ぐらいとき聞きましたが、現在ではコリアンタウンが出来ていて、韓国料理の焼肉も、美味しいキムチも食べられるのを見て、今年春のブエノス訪問で驚きました。それからしたら、日本人は40年間で1万人ぐらいしか日系人は増えてはいません、逆に出稼ぎで田舎の地方では激減した日本人で日系社会が崩壊した所も有ります。時代の変化は時と共に激しく変わって行くと思います。


13・
その方はアルゼンチンで会った方です。ブエノス.アイレスの郊外で野菜を栽培していました。家族3人で、子供は女の子供が一人居ました。彼女はその頃22歳ぐらいで、親の手助けをして、言葉が出来ない親を助けて、経営を一人で切り盛りしていましたが、最初に入植したパラグワイに見切りをつけて、アルゼンチンに再転住された苦労の家族でした。

その父親の話ですーー。その方も満州からの引き上げ者で、戦後東北から移住してきた方でした。ロシア軍が満州になだれを打って押し寄せた時に、国境線の近くで、ロシア軍と対峙して戦っていたそうです。しかし圧倒的な、ロシア軍の機械化師団にはどうする事も出来ずに、最後に包囲された状態で、最後の突撃をしたそうです。夜になる前に、全ての弾薬は配分されて、タバコ、甘味食なども全部配布され、牛肉大和煮の缶詰で最後の晩餐として、食後に身支度して整列してその前で隊長が、短く「靖国神社で会おう!」「避難民を逃す為にも、夜襲をしてロシア軍に打撃を与える!」そう話すと、軍刀を抜いて「突撃〜!、バンザイ〜!」と言うと、一番前に出て突撃開始したそうです。その前には、ロシア軍のトラック、装甲車などの音の響きが聞こえて、軍靴の行進してくる音も聞こえていたそうです。彼が話してくれた時、「生涯であんなに緊張して、バンザイ〜!」と叫んだのは、なかったと言っていました。

しかし彼はその時、生まれたばかりの子供と妻の顔を思い浮かべてどうしても一緒に走っては行けなかったと言っていました。気がつくと反対の方向に逃げていたそうです。直ぐにロシア軍の自動小銃のすさまじい曵光弾の交差する中で、手投弾の炸裂する音と、バンザイ〜!バンザイ〜!と連呼してすさまじい白兵戦が行なわれている様子を感じて、身震いして茂みに隠れていたそうですが、夜が開けてから戦場からの生還者一人と再会して、逃げ回っていたそうですが、生還者が言う事はロシア軍は、かなりの損害を出して行動不能になっていたと言う事です。どこに隠れても、逃げても、どこに行っても、どこからか狙い撃たれて、最後はロシア軍に投降して、シベリアに送られて、やっとの事で日本に帰って来たそうです。

先に帰還していた妻と子供に再会して、貧困と食べるだけの生活から逃げ出す為に、新天地を求めて南米に移住して来たと話してくれました。数少ないバンザイ突撃からの生還者の話を聞いて、彼らが日本と言う国を守る為に、家族を守ろうと思って死んで行ったと感じました。若年の身でその当時、戦争の無残さ、悲惨さを考えさせられた事は有りませんでした。

その方は40年ほど前に脳内出血で急死されました。私も最後に立会い、足が冷たくなるのを感じながらベッドの足元で涙が止まらなかった事を覚えています。枕の両側で親子が、泣きながら「どうして私達を置いて行くのか、これから、どうやって生きて行けば良いのかーーー!」と泣き叫んでいたのを見て、居たたまれなくなり外に出た思い出が有ります。しかし父親の死後、娘が結婚して現在では養蜂業で成功して、家族も増えて平和に暮しています。

14・
昔の話になりますが、かれこれ40年前です、エンカルからミクロバスで初めてアスンションに出かけた時でした。そのころはまだ道路の舗装がアスンションの近郊までしたかなくて、殆どはジャリ道でした。そこをかなりのスピードで走って行きます、揺れと振動と埃と、ジーゼルエンジンの轟音でぐったりとして乗っていました。途中、牧場の中を通過するような感じの所も有り、そこを通過する時は、ゲートの前に子供が待っていて、バスが近かずくと開けて待っています、運転手は窓を開けていくらかの金を丸めて投げ与えていました。かなりのスピードで走り抜けて行きますが、廻りを見ても、どこにも家らしきものも見えません、どこから子供が来たかは知りませんが暑い日の中に辛抱強く、バスが通過するのを待っていたのかは知りません、余り通過する車両も無い所で、子供はこずかいを稼いで居た様です。途中で小休止があり、バスが止るとおばさん達が一斉に『チーパ、チーパー!』とパンを売りに来ました。食べる気力は有りませんでしたが。ふと見るとパイナップルを切って、アイスキャンデーに様に串に刺して売っています、側に寄ると、甘い香りと、見ただけで蜜が入って居る感じの果肉です、物売りの中で一番衛生的な感じもします、オレンジジュースなどはコップの中のアイスはそのままで、人が飲んでししまうと、またその上から注いで飲ませていました。食欲が無いのでそれを買って食べました。その時の美味しさは今でも思い出します、幾らだったかは思い出しませんが、直ぐに元気が出て来て、車酔いもしないでアスンションまで着きました。今では舗装道路で時間的にも短縮されている聞きましたが、旅の途中のパイナップルの懐かしい思い出です。


15・
私は終戦で台湾から引き上げて来ました。九州の福岡に引き上げて来るまで、まず九州弁は話せませんでした。それから引き上げて来る時に一番高価で、良い物を持って帰りましたので、それが物資不足の時に田舎では、ねたみの元でした。散々いじめられて強くなって行きました。そんなわけで、ハングリー精神が心に生きています。「米の飯と、お天道様はついて廻る、」正解ですーー。現在は帰化もして、パスポートはアメリカです。墓も造りまして、永の住処としての場所も持っています。何の心の迷いも有りません。淡々と生活して、悔いの無い時間を過ごしています。

今までの時間と、過去の行き方を振返っても何の悔やみも湧いて来ません。それだけ自分の人生を一生懸命生きて来たと思います。三人の子供を連れてアメリカに移住して来て、子供の将来に掛けて頑張って来ましたが、私はあくまで土台作りです。それも成し遂げたと思います。02年の5月11日、母の日でしたが、次男から電話が有りまして、18日の日曜日に、大学と、大学院の卒業式総代で主席スピーチをすると話してくれました。ワイフとそれを聞いた時に、「ジーン!」とこみ上げて来るものが有りました。

バークレーを出てから、大工の見習いをしながら、奨学金を貰える大学を二ヵ年捜して、特待生での授業料免除での大学院生活を始めて、生活費はスクールローンと夏休みでの仕事で賄い、二年目はローンを取らなかったと言っていました。夏休みの間、大工の仕事で稼ぎローンの二年目は銀行に返したと話したいましたが、そんな生活をしていながら、学位の最終、口頭審査での試験を、四人もの審査官での、二時間の質問にも、答え切ったと言った息子の声に、これまでに積み上げた自分の研究成果が実ったと言う自信が現れていました。現在はフルブライト奨学金を貰い、自分の研究成果の実績を生かしてインドのニユーデリーで大学の研究所で研究に打ち込んでいます、それまではLAのゲテイー.ミユージアムでの研究生として、親の援助も受ける事なく、奨学金を受けて勉学に励んでいました。

29年前にサンフランシスコの飛行場で国際線の出口から、オムツを付けて、ヨチヨチと出てきて、「パパ〜!」と声を掛けてくれた次男が目に焼き付いて忘れられません。親にも迷惑掛けずに、アメリカ流に自分で仕事をして、これまでたどり着いた次男を思って、電話の前で涙が込み上げてきました。私のアンリカーン.ドリームが実現したのです。私は子供にチャンスのみ与えて、育てました。子供達は自立心と言う二本の足で立ち、歩いています。60近くで子供に貰った中古パソコンで始めたインターネットですが、お祝いのメールを打つ、キーボードにこれまでの苦労が全て消えて行く様でした。

ひとそれぞれ、行く道は違えどもーー、人間たどり着く所は、皆同じです。悔いの無い人生、これこそ自分に一番幸せな生き方では無いかと思います。これから眠りに付きますが、明日の朝に永遠に目が覚めなくともこれまでの自分に生き方には何も悔いは有りません。後わずかになった我人生ですが、好きな有機野菜栽培でもしながら淡々と過ごして行きたいと思っています。


16・
今日の話は1964年頃、ブラジルとパラグワイの国境の、ポンタ.ポランとペドロ.ファン.カバイェロのお話です。その当時、ペドロ.ファン(パラグワイ側)には、アマンバイ農協と言う日本人の農業組合がありまして、移住地を作っていました。主にコーヒーの植え付けをしてその他養鶏の仕事も沢山始めていました。ブラジルとパラグワイの間の国境はその当時、土道のボコボコ道でした。真中の国境線の真中に沢山の十字架が並んでいましたので、「何故か!」と聞きました所が、「殺し合いをして、国境の真中に死体を置いておく
と両国に裁判権が無いとの事、」驚きでした。

昔、ブラジルとパラグワイの兵隊が仲間を喧嘩で殺されて、殺しあって国境の真中に捨てたそうです。その他殺人事件で証拠隠滅と、裁判権を無くす為に捨てたそうですが恐ろしい事を考えたものです。その当時驚く事に、フォードのA型がタクシーで走っていました。 勿論オープン.カーですがホロが付いていました。スパスパーー!パタパター!とエンジンを吹かして走っていましたが、その当時でも珍しく、立ち止まって見ていました。パラグワイ側の国境警備兵が夜中に通行人を脅して、勿論ライフルを付きつけて、「タバコをくれーー」です。時には「お金もくれーー」と言いますので強盗です。暗闇からヌ〜ッとライフルを付きつけられると、あまり気持ちの良い物では有りません。しかし一度兵隊が脅した相手が反撃して、拳銃で抜き打ちに射殺してしまい、相棒の兵隊は詰所の中で朝の交替時間まで、ライフルを抱えて、ふるえていたそうです。

その当時のライフルはボルト.アクションですので発砲するまで時間がかかります。拳銃がもっと早く発射出来ます。私もその当時いつも小型の22口径の拳銃を所持していましたので、それとかなり熟練して、上手に撃てました。一度兵隊が呼び止めましたので、一人がライフルを構えて、相棒の兵隊がポケットの中に手を入れ様としましたので、腰の後に隠していた拳銃を引き抜きざまに相手に向けましたら驚いて、それと相手のライフルの銃口部を左手で握って横に向けていましたので、此方も撃たれる恐れがないので、私が有利です。直ぐに兵隊が、「撃たないでくれーー!」と言います、私も「いくら欲しいかーー?」「タバコ代ぐらい欲しい」と言います。10ガラニーほどやりまして、タバコを2本火を付けてやり、吸わせてやりました。

18〜9の若い兵隊です。それから仲良しになりまして、同じ兵隊が立ち番している時には、良くタバコの一箱をくれてやりました。その当時、首都アスンションまでは直通の道がなくて、コンセッションまではトラックで下りて、そこから河船で行きました。昔の事です昼間暑いので夜に走ります、荷物の上に乗って行きました。暗くなって同乗していた兵士が、ライフルに実弾をポケットから1発、1発出して詰めていきます。私は大豆の袋の間で夜風を避けて寝ていました。兵士が同乗しているので、少しは安心の旅でした。その当時ブラジル側の鉄道線路工夫は皆、腰には38口径の拳銃をベルトに吊っていた時代です。昔のなつかし思い出です。


17・
だいぶ昔になります、28年ぐらいと思いますーー。そろそろーー、記憶が薄れて来て思い出せない時が有ります。その方はサンフランシスコで会った方で、日系2世でした。現在生きていられたら、80歳ぐらいだと思います。その方がアメリカ軍の報道部隊に居た頃、べトナム戦争で米軍が激しくべトナム民族解放戦線と戦っていた頃でした。ベトナム政府がアメリカの後押しで作った村落を撮影する為に一番安全と言われていた所にヘリで降りて、撮影して歩いていたと話していました。護衛のアメリカ海兵隊員が6名ばかり、報道部員の相棒と二人を護衛してくれていたそうですが、一つの村を撮影して終り、次ぎの村落まであぜ道を歩いていた時、突然ー!、激しい銃声がして、先頭を歩いていた海兵隊員が即死して倒れたそうです。それと同時に、全員はあぜ道の下の田んぼに飛びこんで隠れたそうですが、直ぐ先の茂みから少数のベトコン・ゲリラが攻撃して来た様で、相棒のカメラマンがカメラを構えて、首をあぜ道から出したとたんーー、 頭を打ち抜かれて泥水に即死状態で倒れて、まったく身動き出来ない状態で、泥水の中に釘付けされてしまったそうですが、直ぐに反撃の為に、対人用の炸裂弾を詰めたロケット・ランチャーを木々の茂った中に打ち込み攻撃をストップさせたそうです。

報道部員であった日系2世も兵役で武器の訓練を受けて、射撃の自信が有ったので、戦死した海兵隊員のライフルを貸してくれと言ったら、海兵隊員が「お客の護衛に来て、お客も守れないのであれば恥じだーー!」「必ず守りとうして見せるーー、俺達が死んだら使ってくれ」「それまでは、弾の来ない場所で隠れて居てくれーー!」そう言うと、まずラジオで砲兵部隊を呼び出して、正確な場所を地図を見ながら教えて、それから救助のヘリコプターを呼んだそうです。するとーー、まず着弾観測の為に、砲弾が打ちこまれて目標から、150mぐらい離れた田んぼの中で炸裂して、それからラジオが修整の方角を教えると、次ぎからは5発ずつ茂みの中や、廻りで連続して着弾して、ベトコン攻撃はピタリと止まって、しばらくはジッとーー、あぜ道の陰で様子を見ていたそうです。すると救助のヘリからラジオで、どこに隠れているか聞いて来たので、発煙筒が投げられて、ヘリが着陸地点を探していたら、突然、茂みの外れから顔面から血を流して、負傷したベトコン兵が突撃銃をヘリに発射しながら、よろめく様に出て来たそうですが、直ぐに海兵隊員の反撃と、ヘリの機関砲の猛射で立っているベトコン兵の廻りが水飛沫で覆われて、ゆっくりと泥水の中に崩れ落ちていったその時、そのベトコン兵が女性である事が分ったと言っていました。長い髪の毛がふんわりと舞い上り、銃を片手に倒れる姿をはっきり確認したと話していました。

帰りのヘリの中は、戦死した二人の死体がヘリの床に引きずり込まれたままの姿で横たわり、滲み出す鮮血で濡れて、来る時に冗談を言ってーー、「クラブで今夜は冷たいビールを飲もう」「それから今夜はお袋の誕生日だから、電話もしたいーー」そう話していた彼が、無言で横たわって、彼が涙ながらにーーー!「あんな辛い時間はなかったーー、」「あんな悲しい飛行はなかったーー」「30分も掛からない基地までの帰途ーー、自分の人生の全ての楽しみが消えてしまった感じだーー!」「戦争なんて〜!くそくらえーーー!」そう言って、両手で顔を覆って泣いていました。

18・
近くて遠い国を語る時の思いで話しーー。今日は私が子供の頃、まだ終戦後でラジオしかない時代で、夏の夜は近所の庭先でよく話しを聞いたものです。井戸で冷やしたスイカなど食べながら、昔話や、戦争へ従軍した話しなど良く聞いたもので、そろそろ50年近くなります。話してくれた近所の方々は全て過去に消えて行かれた方達です。その中で昔、鉱山の炭坑夫をして、その当時は大工をしていましたが、戦争中は中国戦線から、南方戦線に転進して、最後はインパール作戦に参加してやっと生き残って帰って来た人でした。連合軍に追われて、撤退している時に伝令業務の為に部隊より遅れて歩いていた時、ある部落の近くの小屋に雨宿りして飛び込むと、そこには前に撤退した慰安所に居た朝鮮人慰安婦が二人居たそうです。どちらもマラリアと栄養失調で殆ど動けないような状態で寝ていたそうですが、彼が入って行くと一人だけが起き上がり、水をくれと話して空の水筒を差し出して頼んだそうですが、それもやっとの様子で、もう一人は身動きもしなかったそうです。彼が水を汲んでくるとそれを口に含んで身動きしない女性に口移しで飲ませ、カビの生えかかった保存食のカタパンを噛み砕いて、それも口移しで食べさせ様として居たそうですが、それがダメと分かると水筒の水で身動きしない女性の顔を綺麗にふいて髪の毛も水筒の水で洗い、櫛を入れて整えて、ちびた口紅をポケットから出して、小声で「アリラン」の唄を歌いながら、口に紅を引いてやったそうですが、その時今まで身動きもしなかった若い女性の目から涙がポロポロと、落ちているのを見たそうです。死期の迫ったやせ衰えた若い女性の最後の涙ではなかったかと話していました。それが終ると胸にしまっていたお守りを出して、これをどこかの河に流してくれと話して、二つのお守りを彼に差し出して頼んだそうですが、「どうしてなのかーー」と訪ねると、いつの日か魂だけでも国の故郷に帰りたいと思い、河は海に流れ込み、海は自分の故郷の海にも流れて行き、繋がっていると言うと、彼の手に握らせて拝んだそうですが、「生きて私が大河にたどり着いたら、必ず流れに入れておくよーー。」と話して、別れを言って出ようとすると、彼女は「もうこの食料は要らない、貴方が持って行きなさい。」と言って、カタパンや2個の缶詰めを差出て、小さな瓶に入った塩もくれたそうですが、当時の状況では大変貴重なものだったそうです。

そして、彼女は最後にもし貴方が手投弾を持っているのならと言ってそれを下さいと両手を差し出して彼を拝んだそうですが、彼も最後の自決用に一つ持っていたそうですが、それをその両手に握らせて小屋を出て、部隊を追いかけて歩き始めてしばらくして、無人の部落の外れに来た時、遠くで爆発音が、かすかに山にこだまして消えて行つたそうですが、その時、音の方角に彼は両手を合わせて冥福を祈り、涙がこらえきれなかったと話していました。日本軍の撤退道は白骨街道とも呼ばれた悲惨な道です。彼は自決用の手投弾も与えてしまい、代りに貰った食料で草木の根や、雑草まで食べ尽くされた街道を何とか生き長らえて撤退して来て、部隊が降伏して、終戦後復員して祖国日本に帰って来るまで、預かったお守りは河に流せなくて、佐世保に入港する前に、朝鮮半島の近くで復員船から海に流したそうです。彼は良くお酒を飲むと必ず唄っていたのが「アリラン」のメロデーです。そして必ず泣いていました。そして「戦争はムゴカ(悲惨)コツばするーー」と言って子供達に話しを聞かしていました。まだTVも無いような時代です。私達も良く話しを聞きに行きました。そして時には涙して聞いていました。還暦も過ぎ、あれから50年、近くて遠い国がまだ日本の隣国に存在して、その隣国で祖国を思い、故郷を思い、家族を思い、帰国を念じて無念の最後をとげた方々を同時に思うとき、現在の平和が夢幻の夢想では無く、我々多くの人間が未来を見つめて生きて行ける、若い子供達が未来を希望として生きて行ける社会にしたいものです。時代の犠牲になられた方々の、ご冥福を深くお祈りすると共に、これからの世の中が、子供達の明るい未来の世界で有ります事も、深くお祈りするもので有ります。


19・
今日のお話は最近亡くなられたビルさんと言う方の話です。彼はアメリカ海兵隊員として、硫黄島の戦闘に参加された方です。彼から硫黄島の激戦の話を直接聞きました。彼は硫黄島でも一番の激戦であった、すり鉢山のふもとの海岸に第一波の強襲部隊として参加したそうです。上陸舟艇で海岸の砂浜に接岸すると、直ぐに激しい射撃がすり鉢山から有ったそうです。砂浜に伏せたとたん、「ガツーン」と激しい衝撃を鉄兜に受けて、そのまま失神してしまったそうですが幸いに弾は貫通せずに「べこり〜!」とひしゃげて砂浜にのびてしまったそうです。幸いに直ぐ側に看護兵が居たので、そのまま引きずられて、乗ってきた上陸舟艇で沖合いの病院船に連れて行かれましたが、幸いにコブが出来ただけで、命には別状無いとの事ですぐに、第一波が苦戦との事で、第二波の攻撃部隊に参加して、自分の部隊に戻ったそうです、その時は橋頭堡を築き、部隊は100mぐらい内陸部に入った、砂丘の下に隠れていたそうです。彼はブロウニング自動ライフルの射手として、味方の歩兵の援護射撃をしていた様ですが、弾倉を撃ち終わって砂丘の淵から弾倉を入れ替えて立ち上がったとたん、腹部を撃ち抜かれて砂丘の下に転げ落ちてのびていたそうです。そこでも彼に幸運の女神が微笑んで、なんと〜!そこには看護兵が激しい銃弾を避けて、負傷者を看護していたそうで、直ぐに上陸舟艇に担ぎ込まれて、手当てを受けながら病院船に運ばれて腹部の切開手術を受けて腹部重傷ながら命を取りとめて、本国に送
 還されたそうです。

彼が話してくれましたが、上陸したアメリカ海兵師団第4、第5、師団は戦闘消耗率が75%に達したと言っていました。サイパンではわずか20%の消耗率で有ったことを考えるといかに激しい戦いであったか分ります。彼は勇敢に戦って玉砕した日本兵に敬意を払い、祈っていました。戦闘開始時に日本軍、2万1千の守備隊で、7万5千の上陸部隊を迎え撃ち、2万5851名の死傷者を与えて戦闘は終りました。彼は戦後日本にビジネスマンとして行き、長い間仕事をして、最初の奥さんを病気で亡くすと、日本人の奥さんと再婚して、亡くなるまでカリフォルニアで仲良く暮していました。


20・
夏になりますと、いつも思い出す事は縁台で近所の叔父さんや、叔母さんが昔話をして、スイカを食べて、麦茶を飲んで、線香花火を楽しんで過ごした夏の日です。まだTVもない時代で、近所のおじさんから聞いた話です。九州でも沢山の若者がシナ事変の戦場に駆り出されて行きました。近所の方も中国奥地で激しく中国軍と戦争していたと言っていましたが、ある時日本軍の陣地が攻撃を受けてかなりの被害を受けて、反撃して撃退したそうです。それから中国軍の部隊を追跡して、追いかけて行ったそうですが、強行軍での追撃で、まる2日間はろくに睡眠も取らずに偵察機の情報のもとに、先回りして山間の谷を見下ろす頂上に陣取り下の谷間の道を登って来る中国軍を待ち伏せしていたそうです。

40人ぐらいの小部隊で、小銃と軽機関銃の軽装で急ぎ足で登って来た所を、日本軍が一斉射撃でほとんど、なぎ倒してしまったそうですが、生存兵がいるか見ていたら、赤十字の腕章を腕に巻いた丸腰の看護兵が、一人だけ生き残っていたそうです。それも無傷でーー。誰も戦場の混乱する中で、看護兵は撃たなかった様でした。彼は平然と倒れた仲間の中国兵を一人ずつ見てまわり、隠れ様ともしなかったそうですが、一人の倒れた仲間が生きていて負傷して動けなかった様です。すると肩に担いだカバンから応急手当の包帯などを出して手当てをすると、肩にかついで仲間の兵隊を引きずり、励まし、急な斜面では気違いの様にぐったりとした仲間の兵士を一歩一歩と引きずり上げて行ったそうでした。日本兵は「シーン」として銃を構えたまま、地面に伏せて見ていたそうです。隊長殿がーー。「丸腰の看護兵じゃ〜!、撃ってはならんーー。」「国際条約で決められているのじゃ〜!」「わかったか〜!」言われなくても、仲間の戦友を必死で助け様としている看護兵を撃つ者は居なかったそうです。側に居た軍曹殿が、「それそれーー、もうちょっとだ〜!」「くそ〜!何しているーー、引っ張れ、それそれーー!」大声で怒鳴り、皆は手に汗を握り閉めて拳を突き出して、「それーー、それーー、」と掛け声を掛けて応援したそうです。丘の分岐点の直ぐ下で力尽きたのか、負傷兵を抱えたまま、看護兵ものびてしまい、水筒からの水を負傷兵に飲ませて、自分も飲んで一息入れて、肩に担ぐと最後の斜面を登り切って向かい側の丘の頂上に出て、谷の向かい側に並んで見ている日本兵に軽く頭を下げると、負傷兵を肩におんぶして歩き去ったと話してくれました。そのあと帰りは荷物も少なく、駆け足のごとく無事に部隊の駐屯地の戻ったそうです。


21・
私が移住を決意したのは中学生の頃でした。 まだ終戦直後の困窮と、食料不足の残る時代で、戦後海外からの引き上げ者としての惨めさを味わい、日本国の将来も余り期待が 子供心にも持てなかったからでした。その心は成長しても変らず、ますます、それが確信として心に焼き付くことになりました。私の生まれは台湾で、現在はその様な事を言ってみても、中国人かと言われるくらいです、今は日本の領土では有りません。県人会などはなじみが有りません、子供心に九州弁が話せなくて言葉でいじめられ『ぬしゃ〜!ナンバは話しょるかーー!』と言われて『ボカ〜!』と殴られていました。台湾は標準語を話していたからでした。それから成人して、学生時代に生涯の心の指数となった本に会い、それはパール、バックの『大地』を図書館でめぐり合い、私のバイブルと なりました。私が全巻を14回も読みなおして、その小説をアメリカ人が書いた事にも驚き、その主人公の生き方に共感を覚えたからでした。『土地は盗む事も出来ず、この世から消える事もないーー』と流浪の旅に出る時の言葉を深く心に刻み、移民したアルゼンチンのブエノスで会ったユダヤ人が、住めば都ーー、ユダヤ人は千年の流浪の旅に出ても民族は国家なりと。生きる、生き残る、生き抜く、生き残る為の子孫を残す、生き残る為の資財を作り、蓄える。それを力に民族を絶やさず、力蓄えて。頭脳と資財と言う民族国家財産を創り、蓄え、増やすと言う集団力を創る事が、イスラエルと言う国家再建をユダヤが成した原動力と言った事に少なからず驚きました。国家を創造する思想、日本人にもその様な信念を所持する人間が居ても、移住を前提に世界のあらゆる国に根をおろして、土地を構え、家を作り、家族を養い、子孫を増す事も面白い人生かもしれないと感じ、その後は私の考えが信念と昇華して、人生を歩き、現在を迎えています。国家とは何か民族とは何か一度考えて見て下さい、私が命題としてここに提議します。

ここに掲載しました『浮雲の流れ』と言う短編小説を駄文ですが是非、目を通して下さい。実話を元にして書いております。ロサンゼルスの『羅府新報』とブラジルの『ニッケイ新聞』で私が書いた政府批判を主題にしたこの文を採用掲載して頂いて、広く重国籍の認識と認知を求めて啓蒙運動をしております。
        
『浮雲の流れ』
今朝の朝焼けの色を思い出して何か、心の中に有る思いでの何かを考えていた。長年の友人、金田氏の旅立ちの日を追想して、輝くばかりの人生の幕を閉じた日の朝の思い出でが胸にこみ上げてきた。
 
金田氏のお兄さんの遺骨を、アルゼンチンから預かって来てから暫らくたって、金田氏から相談の電話が有ったのは、私が、日本行きの話しをしてから2日ばかりの時が過ぎた後で、シニア.アパートを訪ねて行ったのは、その翌日で有った。私が訪ねて行くと、彼はお茶を進めてくれると、おもむろに話し始めた。
 
「貴方が日本に行くのなら、私も同行さして下さらないか、私は歳で、無理も出来ず、心配なので良ければお願いしたいのだが」と言うと、簡単な予定表を持ってきた。それは、凄く簡単なもので、たった二行の文が有った。東京に二泊、靖国神社参拝、そして後は、兄の納骨と法要、両親の墓参り、の簡単なもので、それを私に見せると彼は、「その代わりに、私が飛行機代を持ちます」と話した。
 
私が答えを戸惑っていると、「お願いします」ともう一度声を大きくして私に話したので、私は慌てて、「ひきうけました。」と答えて彼と握手した。珍しく金田氏が私の家を訪ねて来たのは暫らくしてからで、日本行きの切符を持つて来たのであった。
 
金田氏は、私の切符を取り出すと、出されたお茶を手に、私に差し出した。私はその切符を見て驚いた、なんとファースト.クラスでは、彼は私の戸惑いを見て、「これが最後の飛行機になると思うので、一度乗ってみたかったので、」と話した。私も、一度も乗った事も無いファースト.クラスで行けると、内心はどきっとしていたが、金田氏の言葉が何か心の中でジーンと来ていた。日本行きの日は、よく晴れてすがすがしい朝であった。
 
ワイフが運転する車で、金田氏のシニア.アパートに迎えに行った。ドアを開けると、仏壇に線香があがり、良い香りがしていた背広をきちっと着た金田氏を見るのは久しぶりで、かなり若く見えた。全ての用意も済んで、トランクが一個、ドアの横に置いてあったので、私が、「では、行きますか、」と声を掛けると、亡くなった奥さんの遺影に手を合わせると、線香を消し、火の元を確かめると、「では、行きましょう、」と歩き出した。

その日は混雑も無く、サンフランシスコの飛行場まで一時間もせず着いた。。荷物を預け、待合所のホールで寛ぎながら、出発の時間を待ったが、金田氏は、窓際の外が見える場所に立ち、考え深げに外を見ていた。「私ら夫婦は、昔よく、日本町へ買い物に来た帰り、足を伸ばして日本の日の丸の付いた日航機を見に来たものですよ、」 と思いで深く見入っていた。出発のアナウンスが有り、日航001の搭乗の開始を告げた。
 
乗りなれた日航機であるが、ファースト.クラスは初めてで、緊張していた。金田氏と隣り同士の席で、彼も安心感が有るのか、飛行機が安定飛行に入ると、出された飲み物を手に、私と話し始めた。
 
「私はこの日本行きの直ぐ前に、吉田氏のアメリカ帰化試験のお手伝いをしましたが、彼はアメリカ国籍でないと社会保障のべネフェクトを受ける事が制限されるので心配して、帰化試験に通訳を付けて、アメリカ国籍を取られたが、日本も二重国籍を認めてくれるのであれば、彼の様に九十歳を迎えて、帰化試験の苦しみを味あわせなくとも良いのだがと、思うのですがネ!彼が話していたのは、二重国籍が認めて有れば、五十年前にアメリカ国籍を取っていたそうですーー、」と、少し考え込む様に話した。そして、「吉田氏らは、戦後日本が敗戦で混乱と困窮の時代に、日本に救援物資を送り、学校にオルガンを送り、医薬品を送り、戦時中は砂漠の凍るような、夏には四十五度にもなる気温の中、砂漠の砂嵐の下で、壁はタール.ペーパーを打ちつけただけのバラックで生活した、強制収容所の過酷な経験者たちです。
 
生前、アルゼンチンに居た兄が、手紙で書いて来た事を思うと悲しくなります、それは、一方で日本語も話さない、日本人の心も持たない、日本人の血を持っていると言うだけで、三世ながら、アルゼンチンから日本のパスポートで、出稼ぎに行き、日本で働いている人達がいると言う事です!、もう、日本の労働力を補うとしてだけの、日本国籍法ではないと思うのですが、日本人として真の大和魂を持ち、現在の日本人以上に日本を愛し、また憂いて、日本の国旗に敬愛の念を込めて、胸に手を当て、日本国歌を歌う人達を、外国に帰化したと言うだけで、日本政府は一瞥も呉れずに、日本国籍を放棄する様に卑下して、国籍放棄の署名を強制する、その様な仕打ちを、止めさせる様にしないと、そして、ほんの僅かしか生き残っていない人達の為にも、日本政府は、国籍法の改正に取り組むべきですョ、」彼は其処まで言うと、手にしていた飲み物を置くと、涙をぬぐった。彼の心の中に差別と偏見と迫害に耐え、この歳までの長い幾歳月のわだかまりの感情が言葉になり、吹きだした様な感じを受けた。素敵な笑顔の、スチュワデスが枕を金田氏に整えて、イスの姿勢を変えたので、金田氏はゆったりとした姿勢に寛いで、又話し始めた。
 
「自国の国民に、二重国籍を認めている国は、世界で約60カ国もあります、イギリス、フランス、スイス、イタリア、ギリシャ、そしてイラン、イスラエルでも認めています、中南米では、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、コロンビアなど、沢山有ります、アメリカに住むメキシコ人は推定で、二千万は二重国籍の恩恵を受けている様ですョ!、カナダでは、2パーセントが、二重国籍とされています、日本は先進国と言われていますが、なかなか他の先進諸国に追い付くのは無理な様ですーーー、」
 
私は頭の中が暫らく整理出来なく、考えてしまった。この後、直ぐに出て来た素晴らしい、食べきれないほどの食事に満足して、出されたワインに少し酔いを感じた様であつた。金田氏は、ワインの酔いに少し顔をほんのりと染めて、また話し始めた。
 
「私の廻りの、多くの友達や、家族が戦争中には、日本に居たブラジル、アメリカの二世達が、皇軍兵士として出征して、戦死していますーー!、私の弟もその一人です、今回最後となる日本訪問に、靖国神社を訪ねるのもその為です、弟は、両親と乳飲み子の時帰国して、父が日本滞在中、健康を損ねてアメリカに戻る事が出来なくなり、日米の戦争も始まり、弟は海軍航空隊から、終戦の年に神風特攻隊員として、沖縄の海へ散りました。」金田氏は、其処まで言うと、食後のコーヒーをゆっくりと飲み干して、涙を隠す様に窓の方を見た。其処には青く染まった空の色と、白い雲の流れが、入り混じり見事な模様を浮かび上げていたので、暫らくは無言で眺めていた。金田氏は自分の最後となるで在ろう、此の度の日本旅行に私を誘ったのは、長い付き合いの中で、一度も話した事のない自分の人生の物語を聞いてもらい、心の中の声を残しておきたいと思って、誘ったのではと、感じた。私はこの様な金田氏の声を初めて聞いたので、胸の内で感激の波が起きていた。
 
金田氏は自分の最後の旅をするにあたり、私を誘ったのは、自分の言葉を私に聞いてもらいたいと考え、そしてその言葉を残そうと思っているのだと感じ、私はその事を心に感じると、なんだか彼の長い人生の物語を全て聞きたいと思う様になつた。金田氏は食事も済み、気分的にも飛行機の快適さに満足してか、軽く目を閉じ、ゆったりとイスにもたれていたが、また言葉を探して話し始めた。
 
「私達、海外日系人は、長きにわたり選挙権はなく、やっと最近投票が出来る様になりましたが、比例代表のみの選挙で、自分達の代議士を国会に送る事も出来ず、まして、日本の人口の数にも入らない人達の声は無視されて、代議士達も力を貸そうとしません、しかし日本赤軍の最高幹部で被告人席に座る人物の子供は、父親は外国人で、しかも被告の次ぎの身代わりとして、獄中の代弁者として、レバノンの大学で政治学の理論的武装もした者を、日本政府は人権の名のもとに、安易にも、日本の国益をも考えずに、また北朝鮮からも日本赤軍の幹部の子供を日本人として、入国の許可を出しています、彼等は武装闘争を持って、民主主義の日本の政治を破壊しようとした者達です、そして幾多の事件を起こして、日本の威信を傷つけ、身代金として、日本の血税を多額のドルとして奪い、その金を資金として、事件を起こし、日本の司法の下で罪の償いの為に拘束された者まで、暴力で奪い取る活動をした者達を、日本政府は日本国民がどの様に考えるかも顧慮せず、外国の人々がどのような目で見ているかも考えずに、彼等の次ぎの世代の代弁者として、日本人として認めて、日本入国を許す、役人の矛盾に満ちた、愚劣な国籍法――!、真の日本人として、戦後沖縄復興の為に奉仕活動と、募金により、輸送船一隻の、種豚を沖縄県人に送り、それが幾年もせずに、戦争で廃墟と化した沖縄の養豚業を、

戦前以上に復興させた人々や、戦後の日本を担うのは子供達と、強制収容所から出て、貧しい生活の中から、学校給食に、ハムの一切れ、パンの一個、粉ミルク一杯を、募金して送った人達を思い起しても見ない日本政府を、そして、今の五十歳から、六十歳の日本人の血の一滴、身の一片がその様な人々により送られた物である事を思い起こして、真の国籍法とは何かと言う事を考えなければなりません、大和魂を持ち、真の日本人として生きる人が、帰化しても日本人の心は奪えないし、消えません、犯罪者が優遇される矛盾を早く直さないと、ほんの僅かしか生き残っていない日系人達は、誓願の願を持って大使館に訪れても、日本の国籍法に有りますからと、石でもって追い払う様に、防弾ガラスの内に座り、誓願の願を握り潰して、通常の業務に差し支える、との一言で追い払う様な仕打ちを受けながら、これまで沢山の願空しく遠い異国の地に亡くなられた方達の事を思うと、悲しくなりますよ!」金田氏は、そこまで一気に話すと、心のわだかまりが取れたのか、涙をぬぐおうともせず、目をつぶりシートに身を沈めていたが、暫らくすると眠りに誘われたのか、微かに寝息が聞こえてきた。
 
乗務員が彼に毛布を掛けてくれたので、私もそれを見て眠気がして来た。どのくらい寝入ったか知らなかったが、目を覚ますとスチユワデスが、お絞りのタオルを配っている時であつた。その後、食事が出て、食後のお茶を済ませ、窓を見ると良く晴れた空の輝きが見えた。成田には予定時刻に到着して、通関もすぐに済み、金田氏と都内のホテルにバスで向かったが、高速道路は混みもせず、五時にはホテルに着いたので、荷物をかたずけると、二人でホテルの周りを散歩して、東京の賑やかな商店街を楽しんだ。しばらく歩くと、蕎麦屋の美味しい、だしの効いた汁の匂いがして、二人して申し合わせた様に、暖簾をかき分けて入り、久しぶりの美味しい蕎麦を堪能した。ホテルに帰ると、早めにシャワーを浴びて、眠りについたが、なかなか眠れずに時を過ごしていたが、いっのまにか寝入っていた。翌朝早く、カラスの鳴き声で、目を覚まして隣のベツドを見ると、金田氏は目を覚まして窓際のイスで、新聞を読んでいた。
 
「目覚めましたかー!」と声を掛けてくれ、「朝食は、八時からですよ、」と教えてくれた。八時に食堂に行くと、予約して在ったので直ぐに座れ、日本食のバフェー.スタイルの、朝食を味わった。  色々と珍しい佃煮や、煮物で久しぶりの本格的な朝食を味わい、金田氏は、食後の緑茶を飲みながら、「ひさしぶりです!、朝にこんなに日本式の朝食を食べたのはーー、」満足気味に話していた。
 
「今日は、靖国神社に行きますが、私の弟の戦友が来てくれます、戦友会の人で、戦死した弟の出撃の最後を見送った人です、十時に入り口で待ち合わせています、そして私と共に、お参りしてくれるそうです、」と話して、席を立った。靖国神社の前で、タクシーを降りると、金田氏は姿勢をただすと正面に一礼して、歩き出したが、直ぐに人影が近寄り声を掛けて来た。「金田氏ですかー!」、「はいーそうですー!」と言うなり、二人は固い握手をしていた。鈴木と名乗り、私とも握手を交わして、「今日は良い天気で何よりです、さあー行きましょう」と話して、歩き始めた。正面の拝殿前に来ると、鈴木氏は姿勢をただして、「今日は、お兄様を案内してきました、」と言うと、深く頭を垂れて、顔を上げなかった。暫らく、沈黙の長い時間が過ぎ、廻りの人も、遠い騒音も気にならず立ち尽くしていた。どのくらい時間が経ったのか分からないが、自分の耳に鳥の声が聞こえて来た。金田氏と、鈴木氏を見ると、目に涙しているのが分かった。
 
私達は参拝を終えてから、近くの喫茶店で休憩して、話しを始めた。鈴木氏は、おもむろに背広のポケットから、小さい包みを取り出して、テーブルの上に置いて話し始めた。「これは、弟さんが出撃の日に、形見として呉れたオルゴールです、そしてこれは、攻撃最後の突入前の通信電文です、」そう話すと、彼は粗末なザラ紙の、一枚の電文用紙を広げた。其処には、ただ一行の文章が走り書きで書いてあつた。
 
「 サクラ、サクラ、ヤヨイノソラニ。トツ――連打有リ、目標突撃成功。」
 
金田氏はその電文を見ると、弟さんが最後の突入の瞬間までキーを押した文を見ながら溢れ来る涙を隠そうとしなかつた。どのくらいの時間が経ったのか、突然オルゴールの音色がしてきたが、それは「サクラ、サクラ、」のメロデーであった。なんどか同じ音色を奏でて、音も小さくなり、何時しか自然に止まつた。鈴木氏は、別れの時に、電文用紙と、オルゴールを、金田氏に渡すと、金田氏の手を握り締め、「私の心の荷が少し軽くなりました、生き残った私が出来る事は、このくらいです、これからの日本の旅を楽しんで下さいーー、」 彼はそう話すと、手を振りながら、別れて行った。
 
二人で、鈴木氏と別れてから、暫らく皇居の方に歩いた、晴れあがった天気に、皇居の木々が青々として、風にゆれていた。歩き疲れて、タクシーを拾うと、ホテルまで帰って来た。金田氏は、部屋に戻ると背広を脱ぐなり、「疲れました!」と言うなり、窓際のイスに腰を下ろした。
 
二人で、遅いランチを食べて、部屋に戻ると、金田氏は昼寝をするからと、横になったので、私はその間に、明日のハトバス都内観光の予約を取りに行った。翌朝、金田氏の希望で、都内観光バスの、始発場まで送ると、私は今回の訪日の用件、同窓会の会場へ向かった。赤坂のホテルの会場では、大学時代の同期が久しぶりに顔を揃え、賑やかなもので、時間の経つのも忘れて、話に夢中になり、会場が閉まり、その後の二次会まで流れて、まだ話しが続いた。
 
その夜、ホテルに帰りドアを開けると、金田氏は窓際のイスに座り、綺麗な都内の夜景を、眺めていた、私が、「遅くなりました.」と、声を掛けると、「綺麗ですね!」と、窓際から離れずに答えた。「この日本の繁栄の影に隠れてしまい、忘れられた中で、戦後の苦しい混乱期に、アメリカ日系人の援助と、幾多の救援活動をした人々がいる事を、今の日本の方は、誰も覚えてはいない様ですねーー!、悲しい事です、これだけ見事に繁栄の日本が蘇ったのにーー!」 金田氏は、じっと立ち尽くしていた。
 
次の朝、私達二人は新幹線で、金田氏の故郷に向かった。新幹線で一時間、宇都宮駅まで行き、その後、タクシーで益子の町を過ぎ、茂木の町まで一時間走り、予約していた日本式旅館に着いた。金田氏の話では、誰も親類は残っていないとの事で、法事と言っても、金田氏と、私の二人だけで、お墓の有るお寺で取り行うとの事であった。旅館に荷物を下ろして、庭の池の鯉を見ながらお茶を飲んでいると、女将が、挨拶にやって来たので、お寺の場所を聞くと、直ぐ其処の、五分もしない所ですと教えてくれた。
 
近くで、祭ばやしの音がしていたので、「お祭りですかー!、」と聞くと、「子供の、祭囃子の練習ですよ!、」と教えてくれた。二人で、笛や太鼓の音を聞きながら、近くのお寺まで歩いて訪ねていった。古びたお寺の玄関口で、声を掛けると、住職が、「お待ち致していました.。」と、直ぐに、座敷に案内してくれて、明日の法要の説明をしてくれた。
 
金田氏は、持参した兄の遺骨を前に、アメリカからのお土産と、法要のお香典を、さしだして、「明日は宜しく御願いたします、」と頭をさげた。そのあと、お寺の共同納骨堂に安置してある、両親と弟の前で、花と、線香を上げ、長い間立ち尽くして、動かなかった。
 
翌朝、開け放された、本堂の中で、しめやかに、金田家の法要が営なまれた。住職のお経の声と、鳥の鳴き声、廻りの竹林の、風でそよぐ音が交互して、時の経つのも忘れていた。法要が終り、お茶の接待を受け、その席で、金田氏は、「私はもう歳ですので、再び法要に訪れる事はありません、永代供養料として、お納めいたしますので、末永く御願致します、」と話して、少し分厚い封筒を差し出して、頭を下げた。そしてもう一つ、封筒を差し出して、「これは私と、亡くなりました妻の頭髪です、妻の遺骨は、アメリカに有ります、私が死んだら、二人揃って、太平洋に、散骨するつもりですので、これを弟の遺髪が入って居る壷に収めて下さい、弟の遺骨は有りません、どこか沖縄の近くの、太平洋に眠って居る事でしょう、私は、弟の近くに妻と行きます、妻が生きている時に話をして、決めた事です、」と話し終えると、涙を隠す様に、窓の方を向いた。住職は、何も言わずに、ただ、「かしこまりました。」と、ひとこと口にした。その夜、温泉に入り、久々の大浴場での温泉気分を満喫して、あゆの塩焼きで、冷たいビールを飲んだ。すべての予定を終えて、金田氏は安心したのか、気分良く杯を重ね、床についた。その夜は、私も翌朝まで、何も知らずに寝入っていた。
 
朝早く、鳥達の賑やかなさえずりで目を覚ました。珍しく、金田氏はまだ床の中に居たが、「目が覚めましたか――!」と声を掛けて、起きあがって、窓のカーテンを開けた。「朝食は遅くに頼みましたので、今から散歩でもしますかー、」と話して着替え始めた。旅館の横から、わき道に入り、暫らく歩くと、横を小川の流れる道に出た。あたりは、静かな住宅街で、畑がまばらに有るのんびりしたところで在った。「私の両親が良く話していたような場所です、小川があり、萱葺きの農家があれば、子供の頃の話しとそっくりです、」 金田氏は思い出深く眺めていた。私は、ポケット.カメラを出して、一枚、金田氏を写して、記念にした。
 
その日の朝食は、よく歩いたせいか、お代わりして、沢山食べたので、二人して、空になったご飯入れを見て笑ってしまった。食後に、一休みして荷作りをしてしまい、新幹線の時間を確認した。東京駅から、成田エキスプレスに乗り換えて、成田に着いたのは、出発の二時間前で、直ぐに搭乗手続を済ませ、お土産の買い物をした。若い学生達が、修学旅行で出かけるところか、お揃いの制服で、賑やかにはしゃいでいた。金田氏は、「うらやましいですねーー!」と、驚いていた。そして、「時代が変わり、私が歳を取ったということですかーー、」と、話すと、学生達を、ずっと眺めていた。
 
日航の002は、予定どうり飛び立ち、帰りの飛行は緊張もせず、金田氏と話をして、過ごしていたが、ひと眠りして、アメリカに着く二時間前頃、金田氏は改まって、「今回は私の思い出になる、最後の日本訪問でした、おかげで全て予定どうりに済み、思い残す事は在りません、帰りましたら、貴方が私から借りている土地も、売買の契約をして置きましょう、リースの契約も切れますのでーー、それに近頃よく妻が、迎えに来る夢を見ます、そして両親とも夢で会います、私も旅立ちの用意をして置きたいと考える様になりました。、子供がいませんので、元気のよい時に済ませておきたいと考えています、是非貴方に、私ら夫婦の散骨をお願したいと考えていますが、引き受けてくださらないでしょうか!、遺言にも書いておきたいと思っています、宜しくお願致しますーー!、」私は何も言えず、無言で、金田氏の手を堅くにぎり締めた。予定どうり到着して、ワイフの迎えの車で、金田氏のアパートに着いたのは、一時間も掛からなかった。金田氏は荷物のトランクを開けると、奥さんが好きだったお菓子を仏壇に上げ、線香をつけて両手を合わした。ワイフは今夜の食事ですと、持参した弁当を置いて帰り道についた。
 
金田氏との別れは、日本から帰ってから暫らくして、秋も深まりかけた日であった。気分が良くないと電話が有り、直ぐに訪ねて行った。昨日、ワイフが届けた食事も半分残っていたので、少し心配になり、様態を聞いたが、金田氏は、ベッドに寝たままで、「胸が息苦しい感じで、起きあがれないー、」と話して、私が、「病院に行きましょうかー!」と話すと、「近頃時々起きます、おさまらない時は、連れて行って下さい、」と話した、その夜私は、金田氏のアパートに泊まった。
 
金田氏の隣りの昔、奥さんが寝ていたベッドで寝ていた。 すると、「起きていますかー!、今、夢を見ていました、茂木の町で、小川の横の道を、私の妻や、両親、兄弟と、秋祭りの参拝に行く所でした、私だけが遅れて、幾ら歩いても、ついて行けずに目を覚ましました。」 私はコップに水を入れて来ると、金田氏に少し飲ませた。「落ち着きました、ありがとうー!、皆が迎えに来たみたいですー、その様な感じがします、長い間、お世話になり、ありがとうー!、実の息子の様に世話してくれ、ありがとうー!、」そこまで言うと、私の手を握り、目を閉じて、静かになった。私は、慌てて電話を取り、救急車を呼んだ、金田氏の手から、力が抜けて行くのが判った。何度も、金田氏の名前を呼んだ、呼びながら涙が溢れて、止まらなかった。金田氏の葬儀は、しめやかに家族的雰囲気で行われた。沢山の友人が見送り、ホールには花が溢れ、彼の人柄が偲ばれた。荼毘に送る前、私は彼のポケットに、テーブルにいつも飾ってあつた、奥さんの写真と、弟が、突入の最後に打つた、電文用紙を入れた、そして、彼の胸の上には、星条旗を、掛け、赤いバラの花で埋め尽くした。金田氏の、きちんと整理された簡素な部屋は、半日でかたずき、奥さんと金田氏の遺骨は、私の家に連れて来て、仏壇に安置していた。散骨の日は、良く晴れた日で、私と、友人のボブが操縦する、セスナで飛び立った。秋の柔らかい日の輝きに照らされながら、飛行して、サンフランシスコの町の上を旋回してして、太平洋の海へ出た、青いキラキラ輝く海原がまぶしかった。、その時、ボブが指さして叫んだ。「あれは日航のジャンボ機だー!」翼に日の丸の赤が確認でき、尾翼に鶴のマークがはっきりと見えた。私は、夫妻の遺骨を入れたバックを用意すると、弟が出撃の日に、遺品として残した、オルゴールを開けた。「サクラ、サクラ、ヤヨイノ空二、ミワタスカギリーー、」奏でて、私は、窓を開けて、一気に空中に散布した、 そして、オルゴールも、霞みの様に、たなびく遺骨の中に、投げ入れた。
 
日航機が消えたかなたに、一筋の飛行機雲が出来ていた、「さー日本に帰りましょうーー!」と誘う様であり、また「さあーついておいでーー!」と指差す様でもあった。私はその時、白い鶴が飛んでいるのを見た、涙で曇る目には、白い浮雲が鶴の様に見えた。そして、浮雲は飛行機雲を追う様に、流れて行った。  

  おわり。


22・
私もだんだんと歳を重ねると、思い出す事が沢山出てきます。1976年でした、アルゼンチンとブラジルを訪問するので二ヶ月ほど旅をしていました。行き道でした。ペルーのリマの飛行場を飛び立ちまして、最終到着のサンパウロに着く予定が夜中でした。リマの飛行場を飛び立ったのは夕方で、かなりの明るさに夕日を浴びて飛び立ったのを覚えています。しばらく飛んで、アンデスの山頂の雪を被った山々の頂きを見ながらその夕日で輝きの赤ね色に染まった山肌を見て、その下のアマゾンの緑濃いい輝きの中に細く、くねくねと曲がって流れて居る河の水面もかすかに色ずいて、赤き絵の具を混ぜている錯覚を覚えました。

その10キロもの上空から眺める展望は、この世のものとは思われない天地創造の時代を彷彿させる想像の世界で、心の画像にしっかりと写していました。かなり離れた地平線のかなたは、どす黒く墨を流した様に染め上げて、その中に雷鳴が飛び散る様は、息を呑む感じで緑の群生の木々がまるで空高い上空から見ると、まったく緑の濃いい絨毯を見ている感じでした。黒くびっしりと地平線を埋めた黒雲は、その切れ間に、光輝く光帯の細かな幾筋の五月雨のごとく細かな光の糸を垂らして、神々がその光の筋に照らされて天上から降りて来るのではないかと想うのでありました。天地創造の世界がこの様な世界ではないかとふと〜! 感じまして、何か涙が込み上げて来た不思議な感じでした。今でも時々、Matsui Keikoの癒しの音楽をかけて、ゆったりとソフワーに身を沈めて、目を瞑りーー、心のページを開いていくと、今でもその景色が音もなく神々の世界の光景のごとく現れて来ます。景色の中で自由に飛び回りながら、自分が空中を鳥の様になっていつしか飛び回っている幸せを見る事が有ります。

心のアルバムにしまっていますので、いつの日か私の命が消えるとき、同時にこの景色も消え果てると想います。


23・
事実は小説より奇なりと言いますが、確かに私もそう感じます。だいぶ昔に、サンフランシスコで会った方でした。その女性は歴史を背負って歩いて来た様です。父親がロシア革命から逃れて、満州のハルピンに居たそうですが、それから韓国の日本海側の、ある町に住んで居たと言っていました。父親は韓国語を上手に話して、戦争が激しくなるまでは平和に暮していたそうです。終戦となり赤軍のロシア兵が南下して来て、ロシア革命での避難民的なロシア人はロシアに連れ戻される危険が有ったので、 家族は上海に逃れて行ったそうですが、彼女は、そこでアメリカ空軍の兵士として、上海に来ていたご主人と知り合い結婚して、アメリカに移住して来たそうです。ご主人はアメリカンクラブで知り合い、それまでは中国軍にアメリカからフライング.タイガーとして有名なアメリ カからの義勇軍に参加して、中国の上空で日本軍と激戦の空中戦をしていたそうですが、その戦場から生きて生還して、当時は輸送機のパイロットをして、良く上海から台湾まで、バナナや熱帯果実を運ぶのに彼女を乗せて飛んでくれたそうです。しばらくして復員してアメリカ本土の空軍基地で、ご主人が勤務していた時、夜に帰宅する時に交通事故で急死してしまい、死んだ彼の同僚が余り英語も上手ではなかった彼女の世話をしてくれる様になって、親しくなり、結婚して子供も生まれて幸せな家庭を過ごして居た時に、べトナム戦争が始まり、ご主人は戦闘機のパイロットとして出撃して、ベトナム軍に撃墜され、ヘリコプターで救助されて病院に収容されたが、それから3ヶ月後に後遺症で亡くなったそうです。

彼女は歴史にふり廻された一人だと感じます。彼女が見せてくれた蒋介石総統からの直筆の感謝状を見て、ご主人がフライング.タイガー時代、仲間のアメリカ人パイロット達と、どのような戦いをしたかが偲ばれました。飛行服の皮ジャンの背中に漢字で、撃墜された時の用心に「このパイロットは中国軍に協力するアメリカ人で有る。救助して、安全な所まで避難させ、当局に引き渡したら、多額の賞金を支払う」と書かれていました。彼女が見せてくれた、ご主人の遺品でした。その当時、子供も育ってしまい、一人アパートに住んで居ました。彼女は時々、御主人の遺品を出して日に当てていました。

飛行服を抱きしめてーー、「どこかに彼等はーー遠くに飛び立ってしまった」「みんなーー、みんなーー、急いで、私を置いてーー!」彼女は晴れた爽やかな日に良く思い出す事は、中国大陸から台湾の台北まで、DCー3の輸送機でバナナやその他の荷物を取りに行った帰り、操縦席に座らせてくれて、台湾海峡をのどかに、爽やかな日差しの下に飛んだ事がいっも思い出されると話していました。


24・
今日のお話は、私がアルゼンチンのブエノス.アイレスの町に居た時です、ボッカと言われる港町の近くに、二ヶ月ほど住んだ事が有ります。そこはイタリア系の人が沢山住んで居ました。そして、有名なアルゼンチン.タンゴの発祥の地としても有名です。カラフルな色の家が有りまして、沢山の芸術家と言う人も、ここに住んで居ました。古い石畳の道が有りまして、昔のヨーロッパの感じがするところで、週末になると沢山の人がレストランやカンテーナと呼ばれる所に遊びに来ていました。

私もそこに住んで居る時は、良く出歩いて町の中を歩いてタンゴの生演奏を聞き、美味しいイタリアン料理を食べに行きました。ある時、早めに仕事が終り、町のバールで寛いでいました。アルゼンチンの夕食は遅く始まります、夜の8時過ぎですーー。その日は平日でしたので、そんなには混んでいなくて、歩道に出たテーブルでコーヒーを飲んでぼんやり町の通りを眺めていたら、一台の高級車が止まり、中からかなりの年配の老婦人が息子と思われる中年の男性に抱えられて降りて来ました。

どうやら三人の息子達の様です。二人が両脇を抱えて、その後ろに、一人が車のトランクから出した車イスを押して付いて来ます。老婦人は杖を付き、ゆつくりと歩いて、街中のお店を覗いていました。時々立ち止まっては、息子達に説明している様子です。パン屋の前に立ち止まると、息子が母親の指差すパンをお店に入って買って来ました。母親はそれを受け取ると、手で細かく分けて、一人ずつの手にのせてやっています。三人の息子達はまるで小さな子供の様にそれを口元に運びながら、母親の説明を囲む様にして聞いていました。そこに歩いて通りかかった小柄な老人が挨拶すると、母親の紹介で一人ずつ大きな身体を折り曲げて握手して、挨拶しています。

それから通りを少し歩いて、小さなイタリアン.レストランの前に来ると、母親は店の看板の説明をして、息子達を従えて中に入って行きました。窓際のテラスのテーブルに座り、息子達は母親を囲む様にして、メニユーを見ています。指差しながら母親は説明している様です。その時かなりの年配の婦人がエプロンを掛けたまま、ワインの瓶を持って出て来ました。それを母親に見せて、ボーイに言いつけてグラスを並べると、エプロンを取り、自分で注ぎ始めました。各自グラスを取ると、まず母親と乾杯して、それから皆で乾杯して席に着き、それを合図に次々と料理が出て来ました。見ていると母親は料理を子供に取り分けて息子達に説明しています。うなずきながら息子達は食べていますが、まるで子供がおとなしく家族のテーブルで食事している様です。通りかかったギター弾きを呼びとめて、イタリア民謡もテーブルに流れて、賑やかな時間が過ぎていきました。

見ている私も何かほほえましく、心和むものでした。街灯に光りもともり、食事も済んで母親は両脇を息子に抱えられてゆっくりと歩道を歩いて車に戻ります。後ろには車イスを押した息子が歩いていますが、ふと立ち止まると母親は、少し離れた歩道を歩く老人をジット見つめていました。側の長男らしい中年の息子に何か話しています。するとそれを見た息子は、うなずいて見ていました。母親は、両手にカバンを重そうにも持っている動作をすると息子達に何か話しをしています、それはーー、「お父さんは船から降りた時は、ああやって大きなカバンを両手で下げて歩いて来たのだよ〜!」「私はお前の手を引いて、赤子のお前を抱いてーー」 何かその様な動作をしていました。長男は母親の側で肩を抱いて、じっと先ほどの老人を目で追っていましたが、こぶしで涙を拭いているみたいでした。後ろに立っている息子達もジット涙をこらえて、うつむいています。母親がハンカチを出して涙を拭くと、息子達の涙もこらえる事が出来ないとみえて、母親の肩を抱いて泣いていますーー。

母親は優しく子供達の肩を両手で抱いて抱擁して、「泣くのではないよ〜!」と優しく、さとしているみたいで、車に乗り込んで、動き始めた自動車の窓が開き、薄暗い街灯の光に白いハンカチが微かに揺れていました。それは、「さようならーー、さようならーー」と言っているみたいで、いっまでも続いていました。

ボッカの町でギター弾きが唄っていた歌です、
ここに来ればお袋の味が有るーー、
ここに来れば故郷のお国言葉があるーー、

ここは故郷の匂いが漂うーー、
ここは昔の思い出の故郷ーー、
   
いっもここでは故郷の地酒が飲めるーー、
酔って心豊かに故郷の民謡を唄えばーー、
はるかかなたの故郷に訪れたみたいだーー、


25・
今日の話は40年ほど前に、アルゼンチンで農業をしていた時でした。田舎の山奥のジャングルでの生活は単調な繰り返しで毎日が激しい労働でした。遊びと言う休息は魚釣り、鉄砲撃ち、酒を飲に町へ行き若い女の子達とぎや〜!と歌って踊って、馬鹿騒ぎをしている事などでした。或る時近所で山豚が出て来たとの事で、インジオの案内で鉄砲撃ちに出かけました。

狩猟はガイドが居ないと危険で、獲物を撃つ事は中々出来ません。撃ち方は二名で、ガイドのインジオが道案内してくれましたが、猟犬を3匹連れて来ました。私達二名は木の上で待つ事になり、インジオが犬を連れて山豚を河の近くの藪から追い出して来ました。7〜8頭の山豚が犬に追われて逃げて来ましたので、その中の大き目の一頭をライフルで狙い上手く倒す事が出来ました。しかしもう一人の友人は打ち損ねて、傷を負わせてしまいました。

大きな山豚は強暴な鳴声を上げて、犬達に襲いかかり傷で動きが鈍くなって逆襲してきたのです。逃げられないと観念しての逆襲であつたと思います。ライフルで狙っても近くに犬が居ますので撃てません。インジオが犬達と山豚との格闘している所に追い付いて来まして、直ぐに至近距離から山豚を散弾銃で打ち倒してしまいましたが、猟犬の1匹が牙でやられてかなり腹部を切り裂かれて居ました。彼は直ぐに犬を膝に抱いて、消毒をアルコールですると、縫い針で腹部を縫合してやりました。しかし出血が止まらず、直ぐに犬も弱って来ましたがどうする事も出来ずに止血する為に必死で看護していました。しかし犬は主人の膝で弱り行くのが分りました。しばらくして、ふと見ると、他の犬も近くでじっと見ています。膝の上で抱かれている犬は主人をゆっくりと見上げて、抱いている手を「どうもーー、長いあいだ世話になりましたーー!」と言うかの様に、ゆっくりとーー、ゆっくりとーー、舌で優しく舐めると最後は彼の手にあごを乗せて目をつぶると二度と開きませんでした。

インジオは山豚の両目を復讐するかの様に撃ち抜き、山刀で頭を切り落としてしまいました。河の岸辺の小高い所にシャベルで穴を掘ると、その山豚の頭を枕にして、その猟犬を寝かせて土をかぶせると石を乗せて、お墓の様子を作り、その前で生き残った犬とジット座っていました。私達が帰ろうと誘っても動きませんでした。彼は低い声で何か歌っていた様です。先に帰ってくれと言いますので、歩き始めてもしばらくは彼の悲しい歌声が低く流れて聞こえていました。かなり離れた所からでも彼の泣くような歌声が聞こえていました。


26・
だいぶ昔の話になりますが、面白い話しが有ります。カリフォルニアではスクールバスが生徒の送り迎えをしている所が沢山有ります。朝のラッシュアワーでした。仕事に出かける所で信号を待っていましたところ、隣りの車線にスクールバスが止まり、並びました。すると窓から小学生らしい生徒ですが、こましゃくれてひねた感じの子供がこちらを見ています、パチンーー!と目が会いましたとたん、白人の子供は中指を立てて、何かアジアンをケナス言葉を吐きました。ジジイも歳も忘れて、「カチン〜!」です。朝から気分が悪くなりました。例のごとくジジイの反骨の意地悪精神が「むらむらーー」です。黒人運転手のおばさんがチラリとみて、子供に注意しています。私は近くの小学校を知っていますので先回りして、スクールバスが停車する隣りのパーキングに入れました。

まずシャツの腕をまくり上げて、野球帽子をアミダにかぶりなおすと外で立って待っていました。中々来ませんので時間潰しにタイヤの空気圧をテストする棍棒でタイヤを「ボンー、ボンー」と叩いて音を聞いていました。するとそこにバスが入ってきました。「チラリーー」と見ると先ほどの子供が目を見開いて「ぎょ〜!」と見ています。今度は目が会うと「ピヨン〜!」で瞬間で消えてしまいました。バスの出口で口をひん曲げて、細い目を益々細くして、腕組みして立っていました。黒人のバスのおばさんは「げらげらーー」笑っています。中々先ほどの白人の子供は降りて来ません。友達が大きな声で、「そらみろ〜!いわんこっちゃない〜!」とさとしています。「出ていってあやまれ〜!」と廻りから言われています。私は何も、一言も言いません。出口で立っているだけですが、凄い効果があります。バスのおばさんが早く降りろと怒鳴っています。すると先ほどの子供が両脇を友達に抱えられて、13段の死刑執行の階段を歩くごとく、とぼとぼーーと出て来ました。うつむいたままです、友達が、「早くおじさんにあやまれ〜!」と怒鳴っています。「お前があやまらないと絶交だ〜!」と隣りの子供も、「先生にいいつけてやるーー」と怒鳴っています。その時、蚊の泣くような声で、べそかいて、「ごめんなさい〜!」「二度としませんーー」と言いました。

子供達は「おら〜い!それでなくちゃ〜!」と口々に言います。一人の子供が私に「あいつは謝ったのだからーー、握手してくれる」と聞きました。私も「OKーー!」です。私と子供が握手すると「ワ〜!」と歓声が上がり、先ほどの子供はもう一度、「ごめんなさいーー」と言うと、走って学校の中に消えて行きました。バスの黒人のおばさんもニコニコして見ています。私は手を振って挨拶して、車を発車させました。時々、スクールバスを見るとその事を思い出します。


27・
今日のお話は、昔の移住者の移住前の日本での生活と、移住後の開拓地の生活を両方を見ましたので、この様な調査は現在の日本人としての記録が余りないと思いますので書いて見ます。その当時、日本では戦後の経済の苦しい時代で特に田舎では外地からの引揚者の対応に、南米に移住した時代が有りました。政府の渡航貸付け金が出て、家族で、独身での移民が多数移住して行きましたが、1959年の時代に高知の山奥で、平家の落ち武者と言われる所でしたが、四国高知の街からバスで半日もの時間揺られて行きました。バスは舗装もない所をガタガタと僅かな乗客を乗せて、終点の山奥に着いて、そこで夜は泊まり朝に、又おり返して運転していくバスでした。冬は3時には日が暮れてしまう谷間の僅かな耕地を耕して、段段畑の造成された農地は少なくて、殆ど山林労働者としての兼業農家でした。僅かな陸稲での米と、あとはソバとヒエの栽培での食料生産では家族が食べるだけで、とても出荷出来るものでは有りませんでした。

冬は阪神地方に出稼ぎに行く人が多くて、瀬戸内の松山まで山越しに歩いても5時間で行けると言う山奥でした。朝はそば粉を囲炉裏で沸かしたお湯で練って、そばがきですーー。それを昨夜の大根などの煮しめの、たれにつけて食べると言う時代で戦後紙が不足した時、和紙透きでの生産で少し潤ったそうですが、それも直ぐにお終いになり、それから沢山の人が外地からの引き上げ者も含めて、南米に移住して行ったと聞きました。私が訪ねて行った時は冬の寒い時期で、早々と薄暗くなった山肌で、段段畑を造成する、石を砕く音が聞こえていました。

それから5年して同じ家族を南米のパラグワイの移住地を訪ねた時、訪問しましたが、先ず一番先に見せてくれたのは、広々とした一枚が1町歩も有ります田圃でした、それを二枚、2町歩も有りました。それに、たわわに実ったお米が頭を垂れていましたが、その時の感激は昔、高知で見た貧しい農地と比較して豊かさと、その開拓の努力に驚きましたが、その他野菜を植えた畑も有りまして、毎年コーヒーも植えつけていると話していました。昔、私の先生が、「百姓は砂を黄金に変える」と話していたのを思い出しました。そこの奥さんが特別のコーヒーを飲ませて上げると話して、自分でコーヒー豆をフライパンで炒っていましたので、どこで収穫したのかと聞くと、「此れは近所の大木に巣を作っている鳥が取ってきた、一番熟れた、大きなコーヒー実だ」と教えてくれました。硬い実の芯は食べませんので、それが巣の下の落ちています、それを丹念に拾って来て、洗って干して、一番美味しいと言われるコーヒーを作っていました。

現地人も金では中々買えない物だと話していましたが、それをご馳走になりました。今でもその香りと福与かな味が忘れません。その方もこんな土地に移住してこなければ、コーヒーなどは飲む事はなかったと話していました。その時、日本のお茶代わりにコーヒーを飲んでいました。たっぷりとお砂糖を入れて、濃いく入れて飲んでいましたので、歯が悪い人が多いのにも驚きました。夕方になって涼しくなると街に野菜や取れたてのフルーツ、卵などを持って屋台で現金収入を図っていまして、そこで沢山の日本人と出会い、話しする事も出来ました。その当時12〜17歳頃の子供達が現在後を継いでいますが、今はだいぶ日本に出稼ぎに出ていると言う事です。その後一度も訪れていませんが、ブラジル国境に近いその土地で多くの日本人が根を降ろして生活されています。

現在では移住政策も有りません。日本からの海外居留民としての学生、国際結婚での居住などでの日本人に変わってしまいましたが、此れからの日本人、日系人としての日本政府の対応をこれからの百年の先まで見透す事が出来ます様な政策と、政治をお願いしたいものです。


28・
日本では拳銃など所持出来るのは、警察、自衛隊、オリンピック 選手など、それから非合法でヤクザと言われる方々が、所持して いますが、南米では昔は特に田舎では制限無しといった感じでしたが、アメリカでもつい最近まで、簡単な申請で拳銃を買う事が 出来ました。ライフルなどは、昔は代金と引き換えで「ぽい〜!」と持って 帰る事が出来ました。

今日の話は和製ガンマン誕生記ですーー!、 アルゼンチンの郊外で、日本から行って間も無い時で野菜を作っていました。土地を借りて、一人で住んで居ました。トマトを作る為に、日本から持ってきた種子を大切に、箱を作って育てていましたが、どうしても夜中に箱の周りが騒がしくて、朝見ると、土が掘り起こしてあり、種子が無くなって食べられていました。

これでは大切な種子が全滅です、夜中に起きていてランプを点けていましたので、野ネズミが襲撃するのを見てしまいました。「こんちきしょう〜!」です、頭に来てしまい、早速箱を高くかさ上げして、ネズミが届かなくしました。夜中にランプを小さく点けて、見ていると沢山のネズミがどこからか出てきます、用心に持っていた拳銃で遊び半分にネズミを狙って、一発撃ちました。「ガン〜!」と狙って撃ったネズミが、音と共に吹き飛んで即死です、これで退屈な夜中の時間が無くなりました。日本語で言えばーーー、「このネズミの標的射撃に、はまってしまいました」面白くて止められません、始めは弾倉回転式拳銃で6発の内、2〜3発当れば喜んでいました。餌も、チーズ、乾し肉、ビスケット、美味しい物を沢山用意してお出ましを待っていました。

待っている間に引き金を削り、滑らかになる様にして、撃鉄の落ち具合も調節しました。光の当りを考えて、ランプの置き場所も考えました。それから、しばらく練習してからは、100発、100中で当る様に成りました。そうする内にネズミが居なくなりまして、いくら美味しい餌を置いても駄目でした、標的にして殺してしまった様です、週末など近所の町に歩いて遊びに行きます、パンパの大草原です、4キロばかり離れた町が草原に小さな、ぼんぼりの様に明るく丸く輝いて、真っ暗な草原に明るく光っていました。草原を真っすぐに電柱が草原を横切って、町まで繋がっています、それを伝って歩いて行きます、歩きながら50mごとに立って居る電柱を標的で歩きながら撃ちます、始めは5mぐらいから撃ち始めて、だんだんと遠くから撃つ様にして行きました。いくら撃っても近所は誰も住んで居ませんので、何も心配は有りません、電柱の中間で撃っても当る様に成りまして、今度はそれが上手に出来る様に成ってから、歩きながら、弾を詰め替えながらバンバンと撃ちまくりました。月の明かりのない真っ暗な中でも、電柱のウスぼんやりした白色をめがけて撃ちまくりまして、当れば「チユーン〜!」と音が出ます、それが励みで腰に差して、振り向きながら抜き打ちで何度も同じポーズを研究して、右の親指がスリむけるほど、撃ちまくりましたので、弾代も馬鹿になりませんでしたが、射撃の腕は自分でも驚くほど上手になりました。

真っ暗な闇夜でも、ポケットから出した弾を一つも落としたりしないで、確実に詰め替えられる様に成り、それも瞬時で出来る様に成りました。15mぐらいでしたら、自分が当てたいと思う所に、抜き撃ちで撃ってもそこに弾が当る様に成りまして、一度友達の家で、裏の畑で皆で射撃大会をしましたが、最後に5mぐらい離れた所に マッチの棒を立てて、それを吹き飛ばす事を競争しました。誰も出来ません、私は焼肉の掛りをしていたので、友達が呼びにきましたので、私も撃つ事になりました。私は皆に「一度で当てたら何を呉れるーー」と聞きました。皆は笑って、その当時で一万円ぐらいの金額を呉れると言いましたので、持ってきた拳銃で狙って、一発でマッチ棒を吹き飛ばしました。皆は「シーーン!」です、誰かが「まぐれで当ったーー!」と言いましたので、もう一度、狙い定めて隣りのマッチ棒をき飛ばしました。今度は何も、誰も言いません、「シーーン!」です、ネズミ撃ちの要領です、簡単で慣れて、どれだけ撃ちまくったか皆は知りません、おかげで一万円近いお金も手にして、あっけに取られている友達からだいぶ用心される様に成りました。「あいつは凄腕だとーーー!」 おかげで自己流で自分で学んだ射撃法ですが、後でどれだけ役に立ったか分りません、その事は後ほど書きますがーー、つい最近、ハワイに遊びに行ってホノルルで射撃場に入りまして、拳銃を撃ちました。観光客相手の、街中の射撃場です、くたびれたアロハシャツを着たジジイがヒョコ、ヒョコーー!とサンダル姿で、「兄ちゃんや〜!ハジキとやらを撃ちたいのだが〜!」「ジイサンーー、あんた撃った事あるのかいーー?」「まあナ〜!」「そんじゃ〜!これから撃ちな〜!」「あいよ〜!」弾を詰めてくれて、一番初歩、22口径の回転式拳銃を持たせて 呉れました。5mが手頃かなと言っていましたが、10mにしてもらい、 始めの二発はテストで、その後は「バババーン」で終りました。皆様にその時のお兄さんの顔を写真を取っていて、見せたいくらいでした。真中の9と10の黒点をぶち抜いていたからです、「ぎょ〜!」とした顔で、言葉つきまで変り、どこかのヤーーさんの親分と勘違いしたらしいのです、「あはははーー!」でした。感で身体に染み付いた芸は、目が悪くなっても反射神経での対応で今でも少しは撃つ事が出来ます、
でもこんな芸は、余り必要では有りませんーー。


29・
今日のお話ですーー、
私には昔のバレンタインデーの思いでが有ります。40年ほど前ですがアルゼンチンのボリビア国境近くで野菜栽培の農場支配人をしていた時です。そこは南回帰線から100Kmぐらい入った所でした。2月は真夏で野菜栽培は出来ずに、その時期は果樹の手入れやバナナの収穫をしていました。余り暑過ぎて野菜は枯れてしまいます。覆いをして、日陰を作ら無いと夏野菜は出来ませんでしたので、時期としては暇な時で、しかしその頃、ボリビアに居たカストロ派のゲリラがアルゼンチン側にも進入して来ていましたので、国境警備兵が巡回して来ていました。ゲリラは朝早く一度しか炊飯しませんので、それを探してセスナ機が探索に飛んで来ていましたが、その無線連絡で探しに来ている兵士が朝露でびっしょりと濡れて、よく農場に馬で来ていました。「何か暖かい食べ物を下さい」と若い兵士が殆で、此方もなれたもので干し肉とジャガイモのトマトソースでの煮込みが出来るまで、ワインでも開けて飲ませていました。

彼らは持ってきた小銃は、開け放したドアの前に、3つに組んで立て決して家の中には入れません。全部実包が装填されていて、それと指揮官の持っている自動小銃はドアに立掛けていました。暖かい湯気が立っている煮込みの皿がテーブルに並ぶと、パンも配られ兵士達は短くお祈りすると、一斉に食べ始めます。外では開け放されたドアの前に犬達が座りジット、兵士達の食べる姿を見ていました。捜索中は缶詰か、簡単な携帯口糧での食事で、彼等はいっも農場に来ると、出される食事を美味そうに食べていました。その代わり彼等も検問所などでは、我々のトラックなどは検査無しで通過させてくれ、色々な便宜をしてくれました。お互いに友達同士になり、休みの時は魚釣りや、町で一緒に飲む事も有りまして、辺ぴな場所での農場の安全を守ってくれました。

私は彼らが来た日がバレンタインデーとは知りませんでした。食事が終り、コーヒーを出すと馬の皮袋からお菓子の袋を指揮官が持って来て、「今日はバレンタインデーだから」と言ってテーブルの上に置き、「食べて下さい」と進めてくれました。食事が済んだばかりでしたので、チョコレートを一つ貰い、ポケットに入れておきましたが、兵士達が帰った後に僅かに残っている農閑期の作業員の内に家族連れの出稼ぎ農夫が居ました。その作業員の子供が泣きながら父親と歩いていましたので、ぐずって居る子供に、チョコレートをあげると、ピッタリと泣き止み直ぐに笑顔となって、「どうもー、有り難うーー。」と言ってめったには買って貰えないお菓子のチョコを大事そうに抱えて、ぼこぼこと乾き切った道を、走って家に帰って行きました。その笑顔を思い出すと、またバレンタインデーを思い出します。おやつなどはマンジョーカの芋をから揚げして、砂糖をまぶした物ぐらいでしたので、余ほど嬉しかったのと思います。今でも思い出す笑顔です。私のささやかな思いでと成っています。


30・
皆様お元気ですか。今日のお話は現在、沢山の老齢になって永久の旅立ちにつかれている、多くの戦後アメリカに来られた人達、及び南米での移民達の最後の、御世への世界に旅立ちの有り様です。第二次大戦後、多くの日本人が祖国日本を離れて海外に移住して、又結婚して海外の見知らぬ土地に居を構えて子供を育て、ながきに渡り日本に帰国する事も無く、へんぴな田舎で廻りに同胞の日本人も居ない様な土地で、孤独に耐え、短波ラジオのNHKの放送を聞くのが楽しみだった昔の人達が、ご主人も亡くして、子供も都会へ去り家庭を築き、訪れる事も無く田舎の寂しい生活に耐えて、自分では運転する事も出来ずに、親しい友達と電話で話する事が一番の楽しみとして、弱った体を窓際に寄せて、郵便屋さんが毎日訪れるのを楽しみにしている婦人も、昔はご主人が元気な時は、4時間もドライブして、シカゴの町まで、毎月出ていくのを楽しみにしていたそうです。日本料理を食べて、食材を仕入れて日本語の雑誌など買い込み、連休などの時は、一晩泊まって知り合いと待ち合わせて、楽しい時間を過ごしたそうですが、時が経つに連れて、友達も一人去り、二人去り、して、寂しくなっていったそうです。この様にして日本の祖国を思いながら人生を閉じられた方々が沢山アメリカの田舎には居られます。

私の近所のご婦人は、65歳過ぎて、昔の思い出に主人とアメリカ大陸横断のトラックに、助手席に乗ってドライブした思いでを探りながら、一人その道をたどって運転して、シカゴ郊外の田舎で、まさに祖国日本の山河に思いをはせながら、臨終の床に有る友達を訪ねて行ったそうですが、サンフランシスコから、大陸を横断してのドライブをどのような心で運転していったか、心が熱くなる感じがします。中には結婚に反対されてアメリカに渡り、一度も日本に帰国する事もなく、東の空に両手を合わして、両親の冥福を祈って自分もその生涯を閉じられ方も居ます。多くの邦人が祖国日本に思いをはせながら、異国の草葉の陰に墓標としてだけ残って、過去に消えて行きました。そのような方々に深く哀悼の意を捧げ、影ながら日本国を支へてくれた感謝の気持ちを、ここに深く表すもので有ります。


31・
ハワイ、オアフ島の一世移民の夢のあとーー。
皆様お元気ですか。今日はハワイのオアフ島の北側にあります、小さなハレイワ(HALEIWA)と言う田舎町を紹介します。私はカリフォルニアに住んでいますがこれまで7度もハワイを訪ねて居ます。昔、初めて訪れた時は、隣り町にワイアルア(WAIALUA)と言う砂糖きび畑と関連した工場が有りました。そこには沢山の日本人が働いていましたので、日系人の経営のお店も沢山有りまして、日本語の看板も見られて、のどかなハワイの田舎町と言う感じがしていました。

現在はハレイワの町の外を道が走るようになりまして、街道から少し横道になります。一番初めに訪れた時は、町の中で昔の白熱灯の光の下で、アロハシャツの住民がポーチの前に出したテーブルで食事をしている光景が目に飛びこんで来ました。椰子の木の茂る海風のそよぐバルコニーにもたれて、ビールの瓶を片手に夕食の後の憩いの時間と言う感じの人も居て、凄く温かみの有る町の風景で、今でも心に深く印象が残っています。

その町に松本かき氷店が有ります。50年の歴史が有る、古い日本式のかき氷です。勿論ハワイ式の物も有ります。炎天下の砂糖きび畑で働いた人達が憩いを求めて休息と楽しみに訪れた町と思います。かき氷を口にしながら畑で汗を流して働いた人達が、この店に立ち寄り喉を潤して疲れを癒していた頃を思い浮かべます。このお店は、松本マモルさんと言うハワイ生れの方が始めましたが、開店は1951年です。開店当時は地元の人が多かった様ですが、1960年代からはノースショアに世界中からサーファー達がやって来てヒッピー達にも知られる様になり、お店は広く知られる様になりまして暑い日には一日に千杯ものかき氷が売れると言うのですから驚きです。

あずきは自家製で、あずきの大盛りで綿菓子のような細かい氷が入ってその上には定番のシュロップが程よい甘さで、お好みでかけて貰えます。50年の昔から変わらぬ味で、昔砂糖きび畑で働いた人達が、この店に立ち寄り、お国言葉で話しながら味わったかき氷の味を貴方もどうぞホノルルに遊びにこられたら、是非味わって下さい。レンタカーでゆっくりとドライブして、北側の地元の人しか週末に来ない静かな海岸で一人ゆっくり泳いでから、訪ねるのも良いものです。昔は沢山の手書きの日本語の看板も見られましたが、現在は少なくなり新しいショッピングセンターも出来、様変わりしていますが、松本かき氷店の味は変わりません。家族、友達などでこられて口にして、その味を確かめて、その時には私が話したことを思い出して下さい。そして、そこに沢山の日本人が住んでいた事も話して、昔の思い出の夢の後です。もし貴方が子供さんと来ていたら、ここに昔は沢山の砂糖きび労働者が並んで、喉を潤していた事を話して下さい。
  松本かき氷店、電話ハワイ、(808)637−4827、  www.matsumotoshaveice.com


32・
今日は昔、私が出会った人の生き様を書き残して置きます。約40年近く前の話ですが、私が書き残さなければ誰もこの話をする事も無いと思い、皆様にお話します。

私がアルゼンチンのパラグワイとの国境に有ります、ミッショネス州を旅していた時の話です。其の州の中ほどにハルディーン.アメリカと言う町に来た時です。小さな町で車で3分も有れば通過してしまうような所でした。町まで来て、そこから山に入った所で、お茶を栽培している日本人を訪ようと思い道を尋ねると、あそこの雑貨店は主人が日本人だと教えてくれました。

お店に入るとそこには70歳過ぎの日本人の男性が、店番をしていましたので、「こんにちわーー。」と挨拶すると、びっくりして、「どこから来たーー。」「誰か訪ねて来たのか?ーー」と尋ねて来ましたので、山に入った所でお茶を栽培している日本人を訪ねて来たと言うと、「今日は無理だ、明日になれば誰か山から降りて来るから、その時車に乗せてもらって行きなさい」と教えてくれました。「どこかホテルは有りますか―ー」と尋ねると「そんなものは無い」と話してくれましたので、困って居ると、「一晩泊まりなさいーー。心配しなくてもいいよ。」と声を掛けてくれましたので、その夜はお店の裏の小屋に泊まらせてもらう事になりました。

鈴木さん(仮名)と言って、一世の人でしたが、若い頃はあちこちと仕事をして歩いたそうです。歳を取り働けなくなり、ここにお店を開いて生活する様になったと言っていました。独身かと思っていたら、白人の若い20代の女性を紹介してくれましたので、「娘さんですかーー。」と聞くと、「とんでもない、ワイフだよーー。」と言うので、びっくりしていると、笑いながら話してくれました。このワイフは、14歳で子供を産み、コブ付きで誰も貰ってくれないので、親がホトホト困っていたので、身体も弱り心臓も障害が出て最後の遺産残しと、その親を尋ねて子供ずれで娘をくれないかと話すと二つ返事で了承したそうです。その代わり全部の遺産を娘に残すと約束を交わして連れて来たそうですが、母親と子供が年齢の差が余り無いので、姉妹の様でした。鈴木さんはその夜、お米のご飯を炊いてくれ、イワシ缶詰を開けて自家製のラッキョの漬物でご馳走してくれました。70歳過ぎで元気な人でしたが食事の後、お茶を飲みながら話してくれましたが、「だいぶ頑張ったがーー子供は作れなかったョ!」と笑っていました。

「日本にも帰りたいのだが、戦災で実家も兄弟も亡なり、50年も帰っていないので、浦島太郎だよーー。」と懐かしむ様子でした。一度日本の温泉にゆっくり入りたいと話していましたが、お風呂は無く小屋の裏で、水浴びするだけでした。翌朝、朝早くに通過するバスの客が来て、早くからお店は開けていましたので白人の奥さんは、子供を学校に出すとコーヒーを片手にお店を手伝っていました。かなりのグラマーで、ポーランド系の美人でしたが、私が荷物をかたずけて出発の準備をしていると、コーヒーを入れてくれ、「8時頃には、誰か山から降りて来るから、外で待っていなさい」と教えてくれました。

鈴木さんも「去年、心臓発作が有ったから、又来ても生きているか分からないよ!」と笑って送り出してくれました。それから友達を訪ねて、ブエノス.アイレスに戻って暫らくして、当時の亜国日報を見ていたら、その方の死亡記事が乗っていました。その記事を読んだ夜、夜空を見上げて合掌して、冥福を祈りました。「日本の温泉にゆっくり入りたいネ〜。」と言う言葉を今でも思い出す事が有ります。その方はお店の有った。その町はずれの墓地に永眠されています。


33・
私が元気な時に皆様に昔の移住者の、遠い異国での物語を語っておきたいと思っていますが、中々はかどりませんこの歳になりますと一世と呼ばれた方々が殆ど居なくなって、私らの年齢がそれを語りついで行かなければと思っています。現在ではインターネットでのメールなどは瞬時です。40年も昔では南米の奥地に日本からの郵便は40日も掛かって来ていました。これは航空便でしたが、船便ですと三ヶ月も掛かって来ていましたので、昔のことを思うと夢の様です。今日の話しはアルゼンチンでの悲しい物語です。

1964年のブエノス、アイレスで、その方から直接聞いたものです。その方は世界恐慌の時に日本を出てアルゼンチンにやって来たそうで、暫らくはお金持ちの家に住み込みで仕事しながら言葉を覚え、お金も貯めて奥さんを日本から呼び寄せて、パラグワイの国境との州でミショネスと呼ばれる亜熱帯の肥沃な土地に当時マテ茶の栽培に入植したそうです。入植した当時には男の子供も生れて、家も建てジャングルを切り開いた土地には沢山のゼルバ、マテの木を植えて親子三人で幸せな生活を初めていたそうですが、ある日の夕方、夕食のかたずけをするのに直ぐ側の小川に下りて洗い物をカゴに入れてさあー!と思って洗いかけた時に、草むらに隠れて居た毒蛇に足のくるぶし部を噛まれて、直ぐに悲鳴を上げて助けを求めて、家に戻ると直ぐに噛まれた所を切開して、毒を吸い出したそうですがその時はすでに遅く、足の血管を噛んでいたので毒の廻るのが早くて、直ぐに痙攣と口から泡を吹いて倒れたそうです。近くには人家も無く近所も離れていますのでどうする事も出来ず、必死で足のふと腿部分を硬く縛って、毒の廻るのを遅らして居たそうですが、奥さんは薄れ行く意識の僅かな時間に子供を側に抱き寄せて、そのままご主人に抱かれて亡くなったそうですが、乳のみ子を抱えて、暫らくは怒泣して呆然として居たそうです。

子供の泣き声で気がついて、それから子供を抱えて近所の日本人、入植者に救いを求めて行ったそうです。それから2〜3日はよく覚えてはいないと、言っていました。それだけ混乱して、気も動転して嘆き悲しんで居たようです。それから暫らくして、ブエノス、アイレスで住み込みで仕事をしていたお金持ちの主人と奥さんから、電報が入り子供を連れてブエノスの街に戻る様に書いてあったそうです。それと言うのも、その乳のみ子の洗礼の立会い人で、名付け親で、ガット、マザーとファーザーで有ったのでとりあえず帰って来る様にと連絡が有り、他にどうする事も出来ずに子供を抱えてイタリア系で、金持ちの前の主人の屋敷に戻ったそうですが、直ぐに生活の世話をして呉れて、実の母親の様に子供にも世話をしてくれ、普通の生活も出来る様になっていったそうです。敬けんなカトリックの奥さんは神に誓った、もし何か不測の事態になり産みの親が亡くなった時は、自分が子供の世話をしなくてはと誓った以上、神様から天罰を受けると言って、その子供が大学を出て成人するまで面倒みて呉れたそうで、第二次大戦に入り日本にも帰国することが出来ず、再婚もせず、そのまま金持ちの夫婦が亡くなるまで仕事をして居たそうで、その後、日系の植木屋さんで管理の仕事を住み込みでしていました。その方は植木屋の近くの、倉庫の片隅で住んでいましたが、その頃70歳近い歳でした、訪ねて行くとワインを出してくれて、よく昔話をして呉れアルゼンチンの初期、日本人開拓者の話しを教えてくれました。

その頃の方々は全て亡くなられて、誰も話す事も有りません。私の同級生もアマゾンでの生活で同じく夕方に近くの小川に足を洗いに行って、毒蛇に噛まれて、でも直ぐに車を飛ばして近所で血清を注射して一命を取りとめたと話していました。これからも時間の許す限りお話致します。


34・
私もアメリカに住みついて早、29年の歳月が流れました。子供がアメリカでの成長を楽しみに頑張って来ましたが、のびのびと育つ姿を見て、励みになった事を覚えています。三人の子供達にはスポーツをさせまして、特にスイミングは兄弟で通算6ヵ年以上も泳いでいました。始めたばかりの時、一番下の次男が何かまじめな顔をして、食後のひとときに、私に何か話が有ると言って来ました。何か深刻そうで、子供にしては悩んだ顔をしていましたが、まだ8歳ぐらいの歳だったと思います。

「俺のおちんこは、アメリカ人のおちんこと型が違うーー!」私は直ぐに感ずきまして、割礼をしているアメリカ人の男子のあそこを見て、比べて、驚いてショックを受けたものと思われます。無理無い事で、「はは〜んーー!」です。大人並みに先が、松茸並みにちゃんと出来上がっているからです。「よしや〜!」教えてやる事にしました。日本人は産まれた時にやらないからと、「割礼」の仕方を教えて、その意味も教えてやりました。今からでもやりたかったら、直ぐにやってやるよと、話すと少し乗り気の様子ーー、「でも痛い様だよーー!」と話すと、ビビッテーー、おどおどしています。ちょいーー、こんな風にと、次男のおちんこの先の皮を「ぎゅ〜!」と力を入れて引っ張り、伸びきった所の根元の皮をここから切れるはさみで、「チョン〜!」と切ってしまうと指で実演ですーー。次男はガタガタふるえています。「大きくなって切るのは痛そうだ、それでも切るかいーー?」と話しますと、べそかいています。「おしっこもしばらくは、立って出来ないよ」と言うと、「もうーーいいよ〜!」と言うと、ダダダーーっと走って逃げて行きました。アメリカ人の若い女性もこの事を知らずに、日本人のあそこは全部奇形だと話した馬鹿がいるそうです。(笑)多分、アメリカ人と、日本人を試して、比較してーー、ちょい〜!ーー馬鹿な思い込みをしたと感じます。所変れば、あそこも変ると言うお話でしたーー。35歳にもなった息子達の子供時代を思い出します。


35・
貴方は意地悪された事が有りますかーー。弱気だったりで、いびられる事はその様な心の隙間から入って来るのではないかと思います。カリフォルニアに住んでいて、私のやり方をお話し致します。簡単に言えば、人種差別と言う偏見の対応の仕方です。アジアンの日本人や、中国人、韓国人、ベトナム人等全部顔つきはそっくりです。アメリカ人達は見分ける事が難しく、私が一番多いのは、韓国人に間違えられる事です。不動産管理の仕事で預かって、管理していた家でした。NYからカリフォルニアへ戻って来るので改築して長い間、レントハウスにしていた家を綺麗にしていました。NYに居るオーナーから携帯に連絡が有りまして、仕事が始まり挨拶に行きましたが、そこの工務店のオーナーが中々酷い南部訛りの英語で話していました。

私が「Hello〜!」と声を掛けても、「ジロリーー」です。何か「カチ―ン」と来ました。 何か見下げた感じで、返事もしません。それから相手は長々と携帯で話し始めて、無視ですーー。「そうかい〜!」その気なら、こっちも筋金入りのヘソ曲がりです。ド〜ンと来いです、その日はそれで帰りました。

しばらくして工事の進みの様子を見に、時々見回りに寄ります。 窓の工事、配線の工事全てがミスして居ますので、オーナーに電話し て、クレームを掛けます。配線工事は市の改築許可も取って居ず工事中止です。相手もおたおたーーしています。オーナーは大喜びで、私の仕事ぶりをほめてくれます。ある時、相手もどうしても聞かないと分らない事が有り声を掛けて来ました。それまで一度も「Hello!」も言いませんでした。私が何と返事したか分りますか??「アナタノ、英語全然ワカラナイーー!」「ナニモシラナイ―ー」 相手は、ほとほと困っていますが、私の関係ない事です。自分でやれーーです。誰が助けてやるものかです。契約で庭に放り出しているものは、捨てる物として許可なくかたずけて良いとなっています。これも「しめた〜!」です。ドンドン捨ててやりました。捨てられて悲鳴を上げています。大工の助士はカンカンで怒鳴って来ましたが、「ジロリーー」です、「もんくあっか〜!」契約書を見せます、「ここに書いてあるーー、サインを見ろ!」「チャンとお前のボスがサインしている。警察でも裁判所でもどこでも行くぞーー、」大工の助士はーー、「−−−−〜!」

「お前は英語を上手に話すではないか!」「お前の英語は分かるが、ボスの英語は分らない」散々意地悪しましたので相手もだいぶ、さとって来た様です。あのジジイはただものではないーー、こっちは法律はキチンと守っていますので、「ぐ〜!」も言えません。「ザマミヤガレーー」です。工事もあらかた終り近くなって態度がガラリですーー。相手もこれ以上ジジイのヘソを曲げたら何をされるかと、心配してきた様です。「へらへらーー」笑いかけて来ます。軽くあごで挨拶するくらいです、「無視です」相手は何かしょんぼりしています。少し後悔している感じを受けますが、相手は見上げるような大男です。それも何人も仕事しています。しかし気迫だけはこちらが上です。いつも細い目を細めてーー、「ぎろり〜!」です。しっかりと相手の目を見て話します。逸らす事は有りません。ニタリともしないで話しますので、緊張感が有ります。おそらく相手は一度も日本人と仕事などした事が無かったと思います。最後はまったく人が変った様になり、「日本人はお前の様にサムライが多いのか」と聞きました。ま〜!、私に言わせるとサムライではなく、へそ曲がりが正解でしょう。


36・
だいぶ前ですが、母親がカリフォルニアに来た時でした。かれこれ15年ほど前になります。ワイフとそろって休暇を取りロサンゼルスを訪問して少し足を伸ばして、メキシコに観光に訪れました。母もメキシコなどは期待していなかったので喜んでくれました。ワイフと母親が買物している時に、若い青年がアルバイトの感じで、お土産屋の片隅で、演奏して小銭を稼いでいた様です、私は彼等にアルゼンチンの音楽で『サンバ、デ、ミ、エスペランサ』の唄を知っているか聞きましたら、歌えると言うので一曲頼みました。彼等は5人ほどで歌い出しました。私の大好きな曲です、上手に楽器も合わせて演奏してくれます、二番目を歌い出して、気がつくと側の靴磨きの子供や、通りかかった仕事帰りの労働者が立ち止まって小声で歌っていました。『私は大変眠くて、眠くて仕方がないけれど、サンバの唄を歌いながら夜明けを待っているーー!』と言う 底辺の労働者の切ない心を歌った歌詞でした。その歌の最後の頃は沢山の人が立ち止まり、歌ったり、また聞いていました。その時私の心にこみ上げて来るものが有りました。ブエノスで丁度パラグワイから出て来て、ブエノスにいた時でした。クリスマスのイブで同じペンションに寝泊りしていた、チャコから来ていた青年が、この曲を教えてくれまして、近くのレストランで食事をして、食後カフェーに席を移してコニャックとコーヒーで寛いでいた時に、彼が古びたギターでこの曲を歌ってくれました。心にジーンと来る物が有りました。彼は朝早くから、一日、二つの仕事をこなして稼いでいました。

彼は歌い終わると、少し涙ぐんでいました。その気持ちが分ったのは私がサルタ州に行って、チャコ地方に狩猟で行った時、アドベの日干しレンガで造った家に泊まらせてもらい、早朝まだ星が微かに瞬いている頃、東の空が微かに色着いて来た時、毛布をかぶってマテ茶のボンベで手を温めながら、太陽が昇るのを待っていた私の心の中で、彼が歌って涙したことが、ジーンと感じて来ました。そして彼が口ずさんでいた歌詞が、ギターの音色が、わたしの耳に聞えて来ました。今年もまたクリスマスが廻って来ました。きっと彼もどこか南米の空の下で、元気でいると信じています。

37・
40年も昔になります、その当時は私はアルゼンチンの奥地で農業をしていました。トマトの収穫も山を越えて、やっと一息ついた時でした。それと言うのは、ブエノス、アイレスに近い場所での出荷が始まったのです、距離的、コスト的、野菜ですから鮮度も大切です、全部負けてしまいますので、そこでバトンタッチして、近所の市場のみ出荷します、しかし狭い市場ですので殆どがトマト、ケチャップの工場行きです、私の農場は最後まで残り、出荷していました。

有る時、町のバーでケチャップ工場の支配人と話しをして、一箱、15キロが120ペソで引き取ると話しが決まりました。朝早く、使用人に40箱ばかりトラックに積み込みをさせて町に買い物がてら、配達する事にして、出かけて行きました。町外れの国道から、私道を100mぐらい入った所に小さな工場がありました。事務所に着くと、支配人が出てきて、「80ペソしか買えない」と言います、「かち〜ン!」とトサカに来ましたが、他ではもう収穫していません、近所の出荷状況を良く知っていますので、「120ペソと話しが決まって、納得できないーー」とごねます、あたり前ですーー、使用人がトラックからすでに10箱ばかり降ろし始めています、直ぐに中止させて、もう一度交渉しました。

中々しぶとい返事ですーー、「ダメーー!」「そうかい〜!」大声で使用人に声を掛け、トマトを又、積み戻しさせました。慌て出したのは支配人です、いっもの古い日本人では直ぐにあきらめて置いて行くのにと、考えていたと思います、その手には乗りませんーー、細い目をもっと細くしてーー、「ジロリ〜!」あいての目を見て、無言のままーー、トラックのエンジンを掛けて、工場を出ました。国道の入り口の前で車を止めると、使用人に声を掛けて、10箱ばかり捨てさせました。真っ赤に熟れたトマトです、ケチャップにすれば最高に美味しい物が出来たはずです、支配人と従業員が奥の工場の前で見ています、トラックを前後に移動させて、タイヤでトマトペーストを作りましたが、もったいなそうにインジオが欲しそうに見ています、夫婦もので、子供も二名連れています、背中にカゴを背負ってわずかな買物が入っています、町からの帰りみたいです、
車を止めて、「欲しいか〜!」「シーーー!!!セニョ〜ル!!」使用人に言って、一箱ずつ夫婦の頭の上に乗せてやり、空箱は必ずもってこいよーー、と念を押してくれてやりました。新品の出荷箱を作るには150ペソ、その保証金は100ぺソですから、念を押したのはあたり前です、「町外れの雑貨屋に夕方まで居るから、」と声を掛けておきました。

工場の支配人は、私がいっも座席の下には散弾銃、ベルトの後ろには使いなれた拳銃を持っている事を知っています、決してトラックには近ずきません、支配人の弟達とつい最近酒を飲みながら、拳銃の標的射撃をして、6個のビールの詮を5m離れて全部、アッと言う間にはじき飛ばしてしまった、凄腕の射撃を知っているからです、町外れの雑貨屋で腰を落ちつけて、残ったトマトをどうするか考えていましたがーー、この際、最後ですから配る事にしました。ドイツ人の肉屋、ソーセージが美味しいお店です、車を止めて、使用人が二箱店に置きました。

すると奥さんが飛んで来て、もっとくれですーー、「あいよ〜!」3箱追加です、トマトソースを作るそうです、何とーー、お土産は、ソーセージが2キロぐらい、ワインが二本でした。駅前の露天のボリビア人のおばさんに捕まり、安く売ってくれです「あいよ〜!」ここでも大判ぶるまい、一箱80ペソです、喜んで、三箱買ってくれました。いっも美味しいパンを出してくれる、パン屋の女将さんに、ここも二箱です、お返しはチーズパンでした。小さな町です、友人の家などアッと言う間に配ってしまい、町外れの雑貨屋でビールを飲んでいましたら、まだ残っているトマトを欲しそうに見ているインジオに、少しずつ配ってしまい、木陰でトマトの空き箱をベットにして、昼寝をしていました。目が覚めると、空箱が6個とナマズの干物が少しトラックに置いて有ります、さっきトマトをやったインジオが空箱を余計にもって来たのですーー、家に有った物をもって来たと思います、空箱を返品すると400ペソの保証金を返してくれます、「ありがたや〜!」です、夕方になりまして、帰る頃には、空箱も全部帰って来て、余計に15個ほど有りました。

お土産や、貰いもので差し引ほとんど損にはなりませんでした。しかしーー、工場ではトマトが入らなかったので、用意していた仕事が出来ずに大事だった様です、私の知らない事ですーー、それからは、一度決めた値段は必ず、払ってくれました。それから、私のことを純粋日本人、サムライと言ってくれました。

38・(今回のお話は、99年度、羅府新報に応募した作品からです。)
貴方は銃を持って人を撃ち、傷つけ、生き物を殺した事がありますか?

生きると言う事は、時には命をかけて、戦って生き残る事を勝ち取らねばなりません。今日のこの話は、生残る為に用意した武器を持って生への執着を持って戦い、人を撃ち、傷つけ、そして誰かが愛していたものを殺した、慙愧の念を心の中より引きずり出して書いたものです。夕方の涼しい風が、アルゼンチンのブエノスアイレスから1700キロも上がったボリビア国境地帯のジャングルの木々の中を通り始め、ブルドーザーで押しただけの山路をトラックで走りだした。南回帰線より100キロも内側に入ったボリビア国境に近い町、車で走れば2、3分で通り過ぎてしまう、エンバルカションの町より12キロは山に入った農場の戻るためである。町での雑用と明日の月末の給料をインデイオの労働者に支払うための現金を銀行へ、ボスの代りに取りに
行って、帰途についたのは太陽もだいぶ西に下りてからだった。

町で一ヶ所だけの日本人の洗濯屋をしている大城さんの奥さんより貰ったチキンのローストを、ハンドルを握りながら食べていた。現金を持っているので、夜道を走るのは物騒なので、大城さんに夕食を食べる様にと、さかんに言われたが、次にすると断って町を出てから30分ぐらいダラダラと続く小道のカーブを曲がって、やっと川の流れが見える農場まであと4キロぐらいの所であった。

カーブを曲がると、突然、鋭い銃声が一発、それと同時に手に持って口に入れかけたチキンの足が吹き飛んだ。唇がジーンとしびれた様になり、フロントガラスに肉片とソースがべチャリと飛び散った。片手運転のトラックは左側の川岸の方向へ少々傾きながら走って止まり、ペッタリとシートにへばり付いて、気が静まるのを待った。弾は右から左へ、開け放した窓をカスリもせずに通り抜けたらしかった。チキンを食べる前まで、昨日の夜遅くまでトマトの荷作リパッキングの作業で少々疲れたのか、眠くなりかけた目を開けさせるためにコカの葉をかんでいたので、なにか頭の中はピーンといやに落ちついている気がした。遠くでかすかな音がしたーー。ゆっくりと右のサイドミラーをシートの上から寝たままで見ると、チラリと人影が見え、二人ぐらいか、そして左のミラーにも、もう一人、ピストルを手にしているのがチラリと見えた。

ゆっくりと用心深く、近ずいて来る足音が聞こえる。もう一度右を見ると男と若い女で、男の手にカービンらしい小型のライフルが見えた。今、逃げたら必ず撃たれると考えて、こうなったらいちかバチか、銀行に行く時には必ず自分もピストルを持って行くので、逆に、食らいついてやろうと決心した。金を入れているカバンより、小型のブラジル製のレボルバーをホルスターより取り出して、ハンマーを上げて身構えた。足音は二つ、右からだ、そして足音が止まり、かすかにドアにさわる音がした。「弾が当たったらしい、ガラスに肉片が飛んでいる、死んだかな、」と言う声と同時に、カチッとドアのラッチを開ける音がした。私は思い切リ足でドアを勢い良く蹴った。

ガ−ンと金属のぶつかリ合う音、同時に私のピストルの発射音、ドサーッと人間が倒れる音、私はシートから飛び起きて、倒れた男の影に向けてもう一発撃った。男の黒い影がギャ−ッと声を出した。当たったかと思う間もなく、左側で走り去る足音、左の窓から手だけ出してメクラ撃ちで二発、ダブル.アクションで撃った。一発がトラックの荷台の横板でもかすったのか、バチャーンとすごい音を出した。シートにへばりつきながらサイドミラーを見ると、男が転がる様に走って逃げる様子がチラリと見え、開い右側のドアから二の人影が助け合うようにして、逃げる姿を見た。

今だと思い、いっもトラックのシートの下に入れて有るマチェーテと、単発の散弾銃、二十発入りのベルトをつかむと、トラックの下にもぐり込んだ。エンジンとマフラーの熱気が伝わって来る、まず散弾を一発、中折れの単発銃に装填して、右側の男が倒れた方向に向けて銃口を向けたが、そこにはだらりと片手を落とした男をかばいながら、女がその男を引きずる様に近くのヤブの中に入る所であった。よく見ると、トラックの直ぐ近くに軍用のMIカービンが一丁、かなり近い所に、小型のザック型のカバンが一つ転がっている。私は威嚇のために二人が消えたヤブの中へ散弾を一発撃った。狭いトラックの下で撃った音は「ド〜ン」と、物凄く、また土ぼこりで前が見えなくなる様にまきあがった。遠くの林の中までエコーが響き、シーンとそのあと静かになるまでの短い時間、どこかで犬の吼える声を聞いたような気がした。しばらくトラックの下で様子を見ていたが、今の威嚇が効いたのか、静まりかえっている、トラックの下より手を出して、荷台の横板を下ろした。ガターンと大きな音がして横板が落ち、これでバリケードが出来た。

砂地の地面に銃を構えて、ピストルの空薬莢を出し弾をつめ替え、その後、目線をヤブの方に向けると、小型の犬がゆっくりと、用心深くトラックの方を見ながら、転がったカバンの方に近ずいて来る。かすかに女の声が犬に何か命令しているようだ、犬はカバンを目指して駆け寄ると、カバンのベルトをくわえてヤブの方向に引きずり出した。私は慌てて中折れを開け、次の弾を入れた。今度は鹿弾を入れた。犬を地面に伏せたまま、ゆっくりと狙った。

犬は必死にカバンを引きずっている。女の声が聞こえる。犬を励ましている。私は犬をめがけて撃った。「ドーン」と言う音がして、土ぼこりが消えるまで何も見えない、暗くなりかけた荷台の下でじっとしていた。すると突然、「ヒー!」と言う泣き声ともつかない女の声が聞こえた。見ると、犬は両足を伸ばしたままベルトを口にして横たわっている。ヤブの中で女が「タシャ、タシャ、」と激しく犬を呼ぶ声がする。すると、犬は尾をゆっくりと振って答えている。そのうち女のーー、「おいで、おいでーー、タシャ」と言う泣き声につられるように足をゆっくりと動かし始めた。しかし、横たはったままでの動きは、何か走っているようにも見えた。空を切る足の動きは、私にはもの悲しく切なく、女の泣き声がいっそう辛いものにした。しかし、犬の動きは必死に走っているように見え、それからだんだんと、ゆっくりした動きになり、何時の間にか前足の動きが止まり、後ろ足だけが、かすかに動いている。

その時、ヤブの中から女の姿が見え、それを止めようとする男の影がからまった。女は引きずられるように男に連れ戻された。女の絶叫に近い『タシャ〜!』と呼ぶ声がした、犬の尾がゆっくりと、2〜3度動くと、まったく静かになった。ピクリともしなくなった。私は犬がカバンをくわえたまま、ポッンと横になって死んでいる姿を見るのが辛くてなった。私は女がカバンを取りに来ていたら撃っていただろうかと考えた。ジャングルは、アッと言う間もなく暗くなり、静かになった。何も見えない、暗い静かな夜が何もかも消してしまった。ガンをかまえたまま、トラックの荷台の下でじっと砂の中に横たわっていた。しばらくすると、唇がヒリヒリするのに気が付いた。

トラックのエンジンが冷えてきたのか、少々寒くなって来た。私はトラックの運転席にある救急箱を取り、エンジンをスタートさせた。トラックの下は急に賑やかになり、単調なアイドリングの音が静けさを吹き消した。救急箱から取り出したアルコールで唇を拭いた。少々血が出ている、ポケットの中に少し残っていたコカの葉をゆっくりとかみ出した。エンジンとマフラーの熱気が顔に伝わってくる。今日のこの時間では誰も通ることはない。この道で夜を明かすことを決めた。とても夜道を運転して残り4キロぐらい走る気持ちにはなれなかった。その前に、トラックの直ぐ近くに転がっているMIカービンを地面を這ったまま取りに行った。荷台の下の工具箱の中にある、シートを引きずり出し、砂の中で二丁のガンを手に、シートにくるまって単調なアイドリングの音を聞いていた。

夜に入り、ジャングルに風が吹き出して、木々の枝が女の泣き声のように鳴り出した。いつの間にか、昨日の荷造り作業の疲れからか、コカの葉を口に入れたままで眠っていた。朝はすぐ近くにあった。トロトロと、まどろんだような気がしたーー。近くでオウム達の群れが飛んで行く、かすかに空が朝焼けの色で染まり始めている、荷台の下から這い出してエンジンを止めた。

朝日の中で、砂の中に犬が一匹、カバンを枕に寝ているように見える、男が落としいったカービンを用心深く構えながら、犬に近ずいて行った。白と黒のブチの雑種の小型犬であった。首のまわりに少々血が出ている。目を閉じて寝ているようであった。私は女の『タシャ-ー!』と言う絶叫をを思い出した。カバンを取り中を見た。銃の弾倉が3個、缶詰、地図、アルゼンチンのペソとドルの現金が入ったプラスチックの袋があった。カバンをかたずけると、冷たくなった犬の死体を両手に川岸へ下りて行った。ゆっくりと水の中に横たえた。そして、急にノドの渇きを覚え、コカをかんだ口をゆすいで冷たい水を飲んだ、犬の首のまわりの血を洗い流し、岩の上に横たえた。トラックに戻り、マチェーテを手に取り、野生のバナナの葉を切り取った。犬の死体をバナナの葉でくるみ、川岸の岩の上の平たな所にあるくぼみに入れ、そして、まわりにある石をかなりの時間をかけて積み上げた。気がついて終った時は、石はかなりの高さになっていた。朝日は熱帯の太陽の力を持って輝き始めている。今日の生命が躍動始めている、ギラギラとした太陽の下で、トラックの下のシートや、銃をかたずけ、エンジンをスタートさせ、ラジオのスイッチを入れると、インデイオの歌うこの地方の聖歌が流れている。

物悲しく、ドラムとギターのリズムで、トラックの窓の下には昨日の男と女の足跡が砂にくっきりと見える。シートの席の上のカバンと男が落としていった銃が昨日のドラマを思いださせる。ラジオからはーー、『母なる大地よ、天なる父よ、今日も我らに恵みを与えたまえーー』と歌っている。私はギアをバックに入れ道に出した。砂埃がゆっくりと舞い上がった。

39・たかが寿司、されど寿司なりーー、たかが刺身、されど刺身なりーー、祖国を遠く離れて、恋しき思いは故郷の山河や、親兄弟ばかりでは有りません、思いきり食べたい物も有ります、時代はかわれど、思いは同じーー、死ぬ前に思い切り寿司を食べたいと言って亡くなった人も居ますーー、今日のお話は約40年前のお正月の話です。
                     
今日は早く起きて太陽が顔を出す前に畑の見回りに行き、農場のクリスマスから正月にかけて働く人間もいないガランとした小屋の前を通ると、犬がのんびりと道に寝ている。出稼ぎのインジオ達がクリスマスの前から田舎に帰って、農場の食堂も三名のボリビアから来たインジオが居るだけで静かだ。南米の正月は真夏で暑い盛りで、日本のような正月のイメージは余りないが、正月にはエンバルカション町の近郊の日本人が集まり、新年会をするのが決まりである。今年は私が新年会の幹事を受け持ったので、今日は何だか忙しくなりそうな一日である。先ずは食道でコーヒーをコップに一杯もらうと、ミルクを入れてゆっくりと飲んだ。

出口の所にぶら下げってあるバナナを一本取ると、食べながら歩き出した。一人のインジオが飛び出して来て何時に町に出るか聞いた。「8時だーー!」と言うと、町まで乗せてくれと言った。トラックをスタートさせる前にふと思いつき、庭の赤い花を5本ばかり切り取り、町へと出発した。途中、川の近くで、前に強盗に襲われた時に一味の犬を射殺して埋めた、石を盛り上げて作った墓に花を添え、廻りの草を取り綺麗に掃除した。トラックの荷台に乗っているインジオ達が黙ってジッーと見ている。かまわず全部終らせるとトラックをスタートさせた。暑い太陽の下、乾き切った土道から砂埃が舞い上がった。ジャングルの細い道をしばらく走っていると、一本の倒木が道を塞いでいた。三人のインジオ達が降りて来て、マチェーテで枝を切り始めた。トラックから斧を持って行くと、一人が手際よく半分に切り取り道から押し出した。インジオ達は汗を拭いもせず、アッと言う間に片付けてしまった。ヤレヤレ自分でやらなくて済んだと思う間もなく町に着いた。町外れの雑貨屋でビールを買った。「さあ〜!今日は正月だーー!」まず冷たいビールで前祝をした。ビールを貰ったインジオ達は嬉しそうに廻し飲みをしている、今日は何をするのかと聞くと、何も無いーー、ただ休みだから町に出て来たとの事である。三人と別れて、大城氏の洗濯屋に行った。今日の新年会の会場である。そこにはバケーションでブエノス.アイレスから来ている健ちゃんこと、吉田健一氏が待っていた。

彼はブエノスの大洋漁業の経営する「マグロの家」と言うレストランの板前である。大城氏と知り合ったのは二年前、ボリビアからヒッチハイクでトラックに乗ってこの町に来た時、この小さな町でトラックが止まり行く所が無く、ブラリと入って来たのが初めてである。彼は「包丁一本、さらしに巻いて」の歌にあるような人生で、中学卒業と同時に、板前の修業に出て20歳でアメリカに渡り、メキシコ、ペルー、チリー、ボリビアを経てアルゼンチンに来た渡り人生である。彼がブエノス.アイレスから月桂冠の特級6本、4本の1升ビン入りの富士の銘水の瓶詰、輸出用の樽入りキッコーマンの醤油一樽を持って来てくれた。これは全部私の注文で、港で日本船から買って来た物である。今日は8家族くらいは集まる予定で、新年会のご馳走は各自持参、そして幹事が考えて作る特別御馳走とで、半分ずつと言う割合で毎年作っている。健ちゃんがニヤリとして店から出て来ると、「あとは、魚が着くだけだーー!」と言った。アントニオのトラックはタルタガールの町を出発したと電話が有ったので、あと一時間で着く様子だ。チリーの太平洋の港町からアンデスの山をマグロが超えて来る。ドライアイスを詰めた茶箱に大城氏の知り合いのチリー在住の大原氏の世話で、アントニオのトラックに魚を載せて貰った。

真夏の太陽がジリジリと朝の冷気を溶かしている。健ちゃんが「暑くなりそうだ、今日は刺身と寿司で驚かせてやろうーー」と言うと、ニヤリとした。日本米は隣りのパラグワイから、坂梨氏が日本人移住地から集めた米を、モチ米と共に分けてもらった。今日の為に三ヶ月も前から用意している。この新年会で刺身のトロを腹が緩くなる程食べさせてやろうと考えた時、大城氏は「やめとけ〜!」と言っていたが、今では一番熱心に協力してくれる。

この秘密は大城夫妻、健ちゃん、そして私の四名しか知らない。大城氏の洗濯屋の隣りの前がレストラン、裏が小さなホテルのロベルトの店にも今日はレストランが休みなので、一部調理場を貸してくれるとの話しもついている。隣りのレストランのポーチのテーブルに座り、ゆっくりと通りを見ていると、健ちゃんがコーヒーを持ってきた。一口飲んだ所で町の中を通り抜ける道に土埃りが遠く見えて来た。ゆっくりと、スピードをおとして、ジーゼルエンジンの音を響かせてアントニオのトラックが止まった。アントニオがゆっくりとトラックから降りて来ると、「予定どおりだ。約束の魚は間違いなく持ってきた」と言って、大型の茶箱で作ったアイスボックスをロベルトの調理場に運び込んだ。中にはギッシリと魚とドライアイスが詰まっている。健ちゃんがアントニオの朝食を出した。

私が入れたコーヒーを飲み終えるとポケットの金を押さえて、ニコニコして出て行った。健ちゃんはもう箱から魚を出して用意を始めた。大城氏の裏庭で煙りが上がり、大釜で御飯を炊いて、その横でアサード(アルゼンチン風バーベキュー)の用意を大城氏の奥さんが始めた。大城家の広い裏庭のパテイオと広間が新年会の会場である。健ちゃんは運び込まれた箱から手際良く魚を次々と出して調理している。その見事な包丁さばき、プロの板前の仕事を見せられた。魚の大鯛二尾は姿造りの刺身として大皿に踊っている。金城氏が一月二日に、80歳の誕生日なので、丁度良いお祝いの一品だ。健ちゃんは、マグロは特上のトロが沢山あると言ってご機嫌である。その時、一番乗りで鈴木氏夫妻が重箱を抱えて「何かヘルプする事は有りませんかーー」と、調理場に入って来た。入って来るなり、『ワ〜!』と唸り声、そして奥さんのーーー、『アー!アー!アー!』と声にならない言葉で喉を詰まらせている。
    
私が「今日は、健ちゃんの板前さんで刺身と寿司でに皆さんを驚かそうと思っています」と言うと、鈴木氏は私の顔を見るなり涙ぐんだ目で「有り難うーー!、有り難うーー!」と繰り返している。奥さんは止められない衝動なのか大城氏の電話を借りて、早速に皆に電話している。その弾んだ声の中で「刺身〜!刺身〜!マグロのトロの刺身〜!鉄火巻き〜!」と言う声が家中に響いている。電話のある家に全部かけ終えると早速近所の子供を呼び、電話の無い家に手紙を持たせて自転車を走らせた。そして遠くて子供が行けない家にはタクシーを呼ぶと運転手に手紙を持たせて、そして強く「何がなんでも、必ず連れて来なさい。おばあちゃんには首に縄をかけても乗せて来てくれーー」と何度も、何度も頼んでいる。そして「今日は全員集合、日本人会はじまって以来の重大ニユース〜!」と一人でハッスルしている。

大城氏の奥さんが寿司用にパタパタと団扇で寿司米を冷やしている。健ちゃんが「あと30分であらかた用意が出来るよ〜!」と言った。彼は寿司用にアナゴの焼いた物、数の子など色々と持参し、寿司のネタには困らないと満足気。午後二時、時間より少々早めに金城氏夫妻がやって来た。大城氏のクーラーの効いたホールに飾り付けられた刺身を見るなり、金城氏は「ホ〜!」と溜め息をつくなりポロポロと涙を流している。同じく奥さんも「私が神戸を出航する時、兄にその前日食べ納めと言って御馳走してもらったきりーーー」と感慨深氣に言う。大皿の大鯛の姿盛りを見て、これが自分の80歳のお祝いの為と聞くなり、両手を合わせて合掌している。ドヤドヤと皆が店に駆け込んで来た。ホールの中に飾り付けられた刺身の数々を見ると『ウーオ〜!』と言うなり言葉を無くす者、涙する者、大変な騒ぎになった。

私は幹事として皆を鎮め、金城氏に新年の万歳の音頭を頼んだ。庭の外に追い出されて居る子供も揃い、「日本国バンザイ〜!、亜国バンザイ〜!、天皇陛下バンザイ〜!」と、金城氏の挨拶が済むと、後はギラギラした皆の目を感じながら、私が金城氏に頼んで刺身に箸をつけてもらった。そして月桂冠の酒をグラスに注ぎ回すと健ちゃんに「今日はご苦労さん〜!」と声を掛けた。そして全員で乾杯!、健ちゃんの声で、「サア〜!、ドンドン食べて下さい」と言う声と同時に、ギラギラした目が老いも若きも無く、箸を握りしめ、獲物に飛び付くように食べ始めた。私のボスもテーブルの一番前に来て、トロとハマチ、そしてアワビを取って来ると、茶碗に白御飯を一杯、大城氏の奥さんについでもらうと、涙を流しながら食べ始めた。

涙を隠す様に「久ぶりのワサビは効きますね〜!」と言う。「日本の醤油は美味しいーー!」と刺身を泳がせる様にしてトロを口に入れるボスの奥さん、別のテーブルに有る各自が持って来た正月料理は箸が付かずに、そのまま誰も食べる人は居なかった。時折子供が皿に取っている以外は、刺身と寿司の前で動こうとはしなかった。健ちゃんが握る寿司の手さばきに、皆の目が吸い付いたように動かず、トロの塊の山があれよあれよと言う間に消えて行った。

私は裏庭に出て見た、16歳になるオラシオが5人ばかりの子供達とアサードのバーべキュウを見ている。山と残っている焼肉の塊とパンを持って行って、塀の外に居る5〜6名のインジオ達に分けてやった。その中にはボリビアから出稼ぎに来ている今朝、同じトラックで来たインジオも居た。そのインジオに足の悪い老いたマタッコ族のインジオの女に届ける様に、良く焼けた肉を持たせた。ホールでは蛇味線が鳴り始めた。酒が心を緩め、美味しい寿司と刺身が歌を誘い、身体にエネルーギーが満ち溢れて、踊りも飛び出した。口笛も鳴り、琉球太鼓の音も響いている。みんな幸福そうな顔、今日は幸せを口にした日かもしれない、その幸せが身体の中で爆発している、私も冷酒の月桂冠をコップでグイと飲むと、踊りの輪の中に飛び込んで行った。

このお話は00年に、羅府新報に応募した作品からです。祖国日本を思う時、故郷のふるさとの押寿司や、なれ寿司など思い焦がれて食べたくなる時が有ります、たかが寿司と言えどもーー!


40・
私が南米に居た頃は。NHKの短波ラジオが、ただ一つのニユース速報が入る、祖国からの声でした。紅白歌合戦を聞きながら近所や友達と酒を飲んで、盛り上がっていました。紅白の応援で、船舶電報が遠く遠洋漁業のマグロ船からの、応援電報が読まれて、我々も送るかと話していた事が有ります。しかし、国際電報一本でその当時の5日分ぐらいの給料が吹き飛ぶ感じでした。今では考えられない事ですが、今は衛星TVで瞬時に見えます。南米に居ると言う感じさえ忘れてしまいます。有りがたい世の中になりました。ブエノスの日本人相手の商店で、カマボコを買ったら、ソセージの様に丸い保存が利くカマボコでした。食べる時は真中を縦に切り、それからカマボコ状に普通に切っていました。お餅は、もち米が無い時は、イタリア米を『すりこぎ』でこねて、大豆を炒って、黄粉を砂糖を混ぜて作り、黄粉餅として食べました。それでも、餅の感じがあり、有りがたく食べた思い出が有ります。すき焼きを作り、パパイヤの青い実を切って入れますと、固い肉が柔らかく美味しくなり、同じくパパイヤの木の根の地中の細い根をゴボウ代わり、キンピラにしても美味しいものです。今では食べろと言われても、中々口には出来ないと思いますが、何も無い時はそんな物でも美味しいと感じて食べていた様です。大抵はアサードをして、ビールやビーノで海苔巻などが有れば最高でした。そんな正月の料理でしたが、一世と呼ばれた戦前の人達は、律義に元旦の朝に東の空に向かって、かしわ手を叩き、最敬礼をして、『天皇陛下バンザ−イ』『日本帝国バンザーイ』と三唱してそれから元旦の御屠蘇をしていました。たとえどんなに忙しくても必ず着替えて客間の正面に飾られた、日本国旗と天皇陛下の写真にお神酒を捧げて、祖国の国家繁栄と平安を祈り、祖国の親兄弟の健康と無事を祈っていました。それを見た時、私も身体が引き締まる感じがして、異国の地に住んでも、正月の新年を日本人の心で祝う人を見て、その事を今でも鮮明に覚えています。時代は変わりましたがその当時より、日本人の心が衰退していると感じるこの頃です。皆様も良いお年を迎えられます事をお祈り致します。そして05年が世界平和で、災害の無い平穏な世の中で有ります様にーー!


41・
私がアスンシヨンからエンカルにバスで行く時に、乗り合わせたコルメナの戦前の移住者、一世の方でした。パラグワイは楽園の将来ある国だと話していました。その当時始めて聞いた意見でした。多くの移住者が隣国に再転住していたからでした。楽園ーー!パラダイスと言うこの言葉は多くの意味が有ります。アメリカで出会った、多くの人々が話してくれたアメリカーン、ドリームこれこそ、彼等がが夢見た楽園ではないかと感じます。アメリカは移民と奴隷と難民で形成された社会です。本来の現地アメリカの原住民はインデアン達です、アメリカは建国してまだ浅い国です230年の歴史しか有りません、これは私の田舎の本家の母家の年齢より若い国です、私がアメリカに移住してきてから29年ぐらいですが、今まで沢山のアメリカに移住して来た人々と出会いました。古い方は、ロシア革命で逃れて、日本で育ち、戦後日本に進駐して来たアメリカのGIと結婚して、サンフランシスコに移住してきた人でした。日本語はペラペラで、現在のアメリカの幸せを話してくれました。もう一人は、同じロシア革命から逃れて、ハルピンから上海に逃げて、戦後はやはり、アメリカのGIと結婚してカリフォルニアに移住して来た人でした。その当時かなりの年齢でしたが、ご主人はべトナム戦争で亡くして一人アパートに住んで居ました。アメリカでは移民と難民の判断がつきにくく、判断に困る時が有ります。還暦過ぎた私のボケた頭で覚えている限りでも、アルメニア移民達、オスマントルコからの迫害から逃れて来た人達です、ナチスドイツのポーランド進攻でアメリカに逃れて来た人。バルト3国のロシア併合から逃れて来た人。ハンガリー動乱からの難民、コンゴ動乱での難民、エチオピアからの難民、ソマリア動乱からの難民、べトナム戦争の難民、カンボジアのポルポト政権の迫害からの難民、アルゼンチン軍政からの迫害の難民、チーリ軍政からの難民、パキスタン国境紛争での避難民、フランス政府の支配下であったアルジェリア独立を嫌って移住して来た人。チベットの中国政府の迫害からの難民、イラン&イラク戦争での戦争難民、日本の鹿児島県からの戦争難民枠でのアメリカ移住者達。台湾の独立運動家の台湾政府の迫害からのアメリカ移民。アフガニスタン内戦での難民。ロシアのスターリン迫害からのユダヤ人の難民。ロシアのユダヤ人で、イスラエルに移住したが、兵役忌避の為にアメリカに再移住してきた人。キューバのカストロ政権を嫌って逃げて来た人達。中米のグァテマラ紛争の難民。 ああ〜!書き出したら止らない、まだ覚えていました。この頭でーー!それから私の様に、『お天道様と米の飯はついて廻る』の考えで、子供の将来を考えてアメリカを選択して移住して来たも者。これら全ての人々がアメリカーン、ドリームを夢見て生きて居るのであり、それを達成して掴んだ人もいるのであります。努力すれば報われる世界が、アメリカではないかとしみじみ感じる事が有ります。見て聞いて、そして自分で体験して、そうだと思いました。


42・
今日のお話は、私の子育てーー!私には三人の子供がいます、2男、1女です、アメリカに来た時は、長男が7歳、長女が4歳、次男が2歳でした。まず語学教育はパラグワイに居た時に見た、『メノニータ』のドイツ人家族が子供に与えていた、語学教育を見ていましたので、それを基本に参考として行ないました。ドイツ人家族の二世や三世もドイツ語を読み、書き、話します。メノニータの勤勉とその教育のやり方も気に入っていました。早速に私がアメリカに来る前に用意した物は、沢山の本でした。『シートン動物記全集』『ファーブル昆虫記全集』これと、『世界子供童話全集』を用意して来ました。長男は来てから直ぐに毎日、シートン動物記の1ページを書いて、それを読まないと、夕食は食べれない事にしていました。夏休みは2ページに増やしていました。6ヵ年毎日、その事を繰り返して勉強させていました。『繰り返しは学問の素』と言います、その間二度ほどストライキをして、夕食を食べる事が出来ませんでした。そして、『アメリカに住んで、何で日本語など勉強しなくてはならないか??』と言って泣いて喚いていました。しかし、成人して、大学に行く様になって、翻訳などで、それを活かして生活出来る事を身にしみて感じた時、『日本語を教えてくれて有り難うーー!』感謝してくれました。バークレー大学では、自分から日本語クラスを取り、古文まで学びました。現在の長男の水準は同時通訳、読み書き完全に出来ます、文法では、私が今では注意されます、正式に勉強していますので、親が子供に聞く事が有ります。長女は平仮名程度で、話す事は日常会話は不自由は有りません、次男はパソコンが入りましたので、書けませんが、少しは読めます、話す事は不自由は有りません。次男も日本語をバークレー大学で、日本語クラスを取りましたので、かなり理解しています。

私の子供の語学教育の原点はパラグワイのメノニータのドイツ人家族です。成功したと感じています、第三外国語は長男はスペイン語で高校卒業時、スペイン語の首席で、並み居るヒスパニックの生徒を押し退けてトップを取って居た様です、次男はイングリッシュで首席で卆業していました。娘はイングリッシュのスペーリングコンテストで学校代表までなりましたが、何せ親が英語の発音も上手く出来ない両親ですから、教える事も出来ずに残念でした。一番下の次男は小さい時に日本に行って、ハンバーガーも上手く注文出来なかった事がショックだった様で、それから真剣に身を入れて勉強していた様です、そんな事で、私の第二外国語、第三外国語教育はパラグワイのメノニータに感謝をしています。実行して、成功し、実績として成果が残ったからです。貴方の子供さんもいかがですか?簡単で、安上がりで、確実ですから、一度、長男を日本語学校に行かしたら、自分で程度が低いからと辞めて帰って来ました。


43・
私が昔、アルゼンチンの奥地に住んで居た所は、南回帰線から、100キロも中に入っていましたが、夏は野菜栽培は、ほんの少しの種類しか出来ませんでした。真夏の一番暑い時期は、青野菜は河の岸辺に出来る水セリでした。覆いをして、沢山水を掛けてやっと栽培する事が出来まして、野菜栽培の時期は冬の期間でした。真夏の暑い時期に水せりを現地人から買って、昼のランチに食べるのに、売りに来るのが朝早い時間で、それから水に入れてぐったりしない様に、気を付けていました。コップに挿して、好きなだけ取って食べます。オリーブ油とレモン醤油での、たれに付けて食べます。あっさりととして、沢山のビタミンが有り貴重な夏の食べ物でした。インヂオも良く食べていた様です。夏は40℃も温度が上がりますと11時には仕事を止めて、昼休みに入ります。真夏では3時頃まで昼休みです。昼寝していました。家の壁はアドベと言われる、日干しレンガです日本の土蔵と感じが同じです。屋根は椰子の木を真中で割って、芯をくりぬいて、竹の屋根の様に互いに組んで屋根を葺きます。百年もの長い間、腐らないと言っていました。

椰子の木の下は、土をかぶせて断熱の役目をしています。二重です。40℃以上に気温が上がると、窓を閉めて、土間に水を撒いて家の中でジットしていました。42℃近くなると、鳥も飛びません。暑くて底の薄い靴では歩けません。鉄の部分は一切触る事は出来ません。直ぐに火傷をします。外に駐車しておいたトラックのボンネットで一度卵をポンと落としたら、「ジーーッ」と言って目玉焼きが出来たのには驚きました。電気も有りませんので、勿論クーラーも有りません。でも土蔵作りの家ですので、中に入ると「ひんやり〜!」です。暑い時間帯はブヨも、蚊も飛びません、しかしーー、家の外の掘建て小屋便所の、深く掘られた便壷の中でブヨが隠れて居ます。刺されると痛痒い、しびれる様な感じで、そこが数日は赤く腫れて、酷い熱を出すことも有ります。特にアレルギーの人は悲惨です。そこが膿んで崩れます。最初に来た時に、しみじみと話しをしてくれましたー。「このブヨに刺されて、免疫が出来るまでは、どんなに苦しくても我慢して下さい、お願しますーー。二ヶ月は辛抱ですーー、それが出来ないと、ここでは住めません、」刺される一番の酷い所は、まぶた、唇、です。それから女性は便所でやられ得る事が有るそうですが、あそこですーー!まぶたでは直ぐに目が開かない様になります。酷いものです。私はなれるまでは、まぶた唇には必ず防虫クリームは欠かさず塗っていました。なれてもその習慣は取れませんで、塗り続けていました。奥地に居る間は、現地の葉巻をくわえていました。外に居る時だけです、防虫効果はバッグンです。肺には煙は吸いこまずに、くわえているだけでした。手の甲は刺されて、刺されてーー、刺され尽くして、真っ黒になるほどでした。野球のグローブの様になりまして、箸を持ってご飯を食べる事が出来ずに、スプーンで食べていました。そうする内に有る時期から刺されても、赤くもならず、かゆみもほとんど感じず、黒くポッンと斑点が出来るだけで済む様になり、免疫が出来てブヨなど考えなくなりまして、都会からお客が来て便所などで刺されると、悲鳴を上げて、大騒ぎをしていました。便所に入る時は、まず新聞紙などをねじって火を付けて、便壷に投げこみます。それから少し間を置いて入ります。火と煙で、ブヨは死ぬか逃げ出して、しばらくは安心して用を済ませる事が出来ました。しかし都会からの訪問者はその要領が分らず、一度に沢山の新聞紙や、トウモロコシの皮などに火を付けて投げこみ、便所を燃やしてしまうほどで、大騒ぎをした事が有ります、一般的な女性の訪問者の服装です。スカートの下にズボンをはきます、足首も隠れるような長い物です。勿論長袖シャツです。手袋をして、顔には防虫クリームを塗り、スッポリと網のベールを頭からかぶって、車か、訪問した家から帰るまで外に出ません。トイレも家の中に便所を作って有る家で用を済ませる事にしていました。野菜の仲買人がサファリールックでカッコ良く何も知らずに尋ねて来て、悲鳴を上げて、30分もしない内に刺された所を冷やしながら車で猛スピードで町に帰って行った事を見たことが有ります。都会人などとは何とヒヨワな事かとーー、現地人や、インジオはここで営々と生活して来たのですから、夏の日が暮れて、涼風がジャングルの木々をなびかせてる頃、インジオ達が竹笛を吹いて唄っていた曲を思い出します。「母なる大地よーー、天なる父よーー、今日も我らに恵みをあたえたまえーー、恵みの大地よーー、豊かな実りを神に感謝してーー、永久の命を恵み賜えーー」

44・
だいぶ昔の事でした。アメリカには沢山の難民が住んでいます。サンフランシスコの近くフリモントの近くには、アフガン難民が2万人以上も集団で住んでいます。アメリカで一番多くまとまって住んで居る所と言われて居ます。日本では年間数えるだけの難民しか受け入れてはいません。それだけアメリカでは寛大な移民政策が取られているからです。私はアフガンの友人の結婚式にも招待されて行った事が有ります。レーガン大統領が政権を持って居た頃に、難民でアメリカに入国した沢山のアジアからの難民達が、英語を覚えなければ生活保護を切られてしまう法律が出来て、英語を学び、職業訓練を受けてアメリカ社会に入って行きました。

私の仕事は不動産管理の仕事です。お客の不動産のレントハウス、アパート、オフイスビルなど、それからお歳寄りの家の管理もしています。何でも屋です。直ぐやる課の課長ですがーー、器用な性質で何でもこなします。中国人のレントハウスでの仕事でした。テナントが出ていき、残した家財の不用品や、ゴミのかたずけを頼んだ所が、カンボジア人の夫婦が仕事でやって来ました。家主との契約で私が管理しているので、全てを私が見ていました。使える物と、捨てる物に分けて、トラックに積み込み家の中をかたずけ行きました。お昼のランチになって、私は夫婦とお昼ご飯の弁当を食べる事になりましたが、弁当を開いて、手を合わせて、「イタダキマス〜!」と声を出して食べ始めると、彼等も同じく手を合わせて、何か言って食べ始めました。

同じお米のお昼ご飯の弁当です。彼等はスプーンで、丸い重ねた弁当入れを広げて食べ始めましたが、何か美味しい匂いがします。鳥肉をカレーで煮たような感じの食べ物でした。それをご飯と食べていました。あらかた食事が終ってから、お互いに下手な英語で話しに夢中になっていました。お互いに仏教徒で、そんな話しから、「仏陀を信じているかーー、」と聞いて来ました。私が「少しはーー!」と話すと、彼は「私は心から信じている、」と言うと、小さな石のカケラを見せてくれました。真中に穴が開けられて、皮ひもで首に掛けていましたが、両手で挿むと、それを拝む様にして見せてくれました。

それから彼がどうして、この石を身に付ける様になったか話してくれました。夫妻はカンボジアを、ポルポト政府の兵士に追われてタイまで逃げて来たと話してくれました。途中で沢山の人が国境を越えられず捕まって殺されていったと、話していましたが、奥さんがタイ語が上手く話せて、前に木材をタイに運んでいた事で知り合いが沢山いて、逃げる手引きをしてくれた様です。しかし全ての全財産をドルと貴金属に換えてわずかな食料を持って国境近くまで逃れて来たそうですが、すでにその時は、ポルポト兵士が、逃げ道に地雷を敷設して、安全な抜け道は無くなって、夫婦と二歳の子供は先に逃げた人の足跡を探しながら、奥さんが子供を、主人が荷物を背負って一歩、一歩とジャングルを歩いて来たそうですが、途中でポルポト兵士に捕まり、後ろ手に縛られて頭からビニールの袋をかぶせられて、窒息死している無残な死骸を沢山見たそうです。中には、首を切り落とされたり、激しい拷問を加えた死体も見たと涙ながらに話してくれました。逃げてくる人々の財産が目的と、それと知的なインテリー達が死の迫害を逃れて来るのを摘発する為に、ポルポト兵士は情け容赦無く殺して居たそうで、彼等もあとわずかな距離で国境に近くなった時にポルポト兵士に発見されて、追跡を受ける様になり、死を覚悟して地雷の埋まった場所を歩いて行ったと言う事でした。

有る所まで来ると、そこから先は誰も歩いた足跡が無かったそうです。爆死した死骸が腐りかけて、そこから先は水溜りと最悪な地雷原の様子を見せた土地で、そこに座り込んでしまい、追いかけて来る兵士から身を隠していたそうですが、その時爆死した人の身の近くに砕けた仏像の一部が有って、それを手に取り必死に祈ったそうですが、子供の声を聞き付けて足跡を探して、その足跡を伝って来た兵士が発見して、今にも銃を構えて、狙いを付けて溜まり水に半身浸かって隠れて居る場所を探して、少し離れた所からポルポト兵士がまさに撃とうとしたところ、仏陀に祈った奇跡が起りました。

カンボジアから難民でアメリカに来て、英語を覚えてアメリカ社会に溶け込んで仕事をしていた夫婦ですが、真の仏教徒らしくその態度から感じられました。彼は最後と感じて、ポルポト兵士が狙いを付けて、まさに撃つ瞬間、妻と子供に覆い被さって、泥水に伏せたそうです。「バ〜ン!」と銃声がして、背中に背負っていた荷物に弾が命中して、パラパラと降り出した大粒の雨の中で、これで最後と観念して、ドロの塊を手にポルポト兵士に投げつけたそうです。すると、そのドロの塊を除け様として、兵士がバランスを崩して足を滑らせて、銃を片手に草むらに転んだ瞬間ーー、「ドカ〜ン!」と地雷を踏んだのか大爆発が起きて、半身が吹き飛んでしまった。

雨は激しく降り出して、雷も鳴り出して、激しい雨のしぶきで視界も近くがぼんやりしか見えなくなり、そっと身を起してタイ側の国境の方を見ると、そこに誰か手招きする人影が有り、正面ではなく右側の木立のジャングルの外れで直ぐ側でした。土砂降りの雨の中、泥水があふれて、ぬかるみの荒地を左に子供、右手にワイフの手を引き、死に物狂いで歩き出したら、人影がゆっくりとうなずいて、佇んで居るような感じで、それをめがけてがむしゃらに歩き、たどり着いて見ると、そこには何も無くーー、見廻すと、タイ側の方に通じる道が遠くに微かに見えて、地雷原を乗り切り、生き長らえた事を知ったそうです。

安心して、ワイフの手を離したら、そこから仏像の破片がポロリと落ちたそうで、全然自分が握り締めていたとは信じられ無かったと話してくれました。綺麗に洗って泥を落としてポケットにしまい、それからは肌身放さず、アメリカに難民として移住して来てからも、一度も肌から放したことが無いと言っていました。彼は仕事が終り、別れの時にその仏像の石片を手に私と握手して、「貴方が心平和で、幸せな人生で有ります様にーー」と、祈ってくれました。お互いに合掌して別れましたが、彼が今も元気で平和な家庭をこのアメリカでいとなんで居ると信じていますーー。


45・
そろそろ40年前になります。私が仕事をしていた農場で、ある時、農場から離れた所にあるオレンジ畑の収穫に泊まりがけで出かけました。10人ほどの現地人を連れて、トラックで出かけて小屋に泊まっていましたが、それぞれ好きな所に陣取って、夜は楽しくキヤンプ生活で食事も色々な現地食が出されて、バナナの料理には少し驚いていました。調理用のバナナは種類が違います、揚げて蜂蜜を付けたお菓子に近い食べ物は気に入りまして、良く食べていました。

ある日、若い夫婦者のワイフが毎朝に何か特別な飲み物をコップで飲んでいます。私が側を通ると直ぐに隠してしまいます。私は内心、「けしからん〜!、俺に内緒で何か美味しい物を 飲んでいる様だが――!」と思っていました。それが毎日ですから、ある日、側を通ると「ぽい〜!」と取り上げて「ガ〜ぶっと」飲みました。何も美味しくもない、煎じ薬のような味です。空のコップを返して「よくこんな物を毎日飲んでいるな〜!」と言って畑に出ました。そのお昼でした、皆が私の顔を見てクスクス笑いますーー。男達は笑いを我慢するのがつらいらしくて、私の前には出てきません。ちょい〜!何かおかしい様子で、はてな??どうも、あのお茶らしき物を飲んでから、様子がおかしくなってしまったので、いっも飲んでいた若い女性を捉まえて、「お前は何を飲んでいたのか〜!!」「教えなかったら、首だー!」と脅しました。まだ20歳なるか、ならない若い女性です。真っ赤な顔をして―ー、もじもじーーして、下を向いてーー、消え入る様な小さな声で、「避妊の為の煎じ薬ですーー。あれをした後に飲むと、妊娠しないのですーー」私は飛び上がりー!!、まさに「ギヤ〜! ひえ〜!」と叫んでいました。胃の中が――むかむかして来まして、まさに晴天の霹靂です。男が飲んで何の効果があるかーー、それより衝撃が胃を直撃しています。「まいった〜!」

その日のお昼のランチはとうとう食べられませんでした。あたり前ですーー。でもインカ時代からの薬草で作っていると話しを聞きました。確かに効果があるとーー!、それにしても、毎日飲んでいた女性にも驚きでした。「あの後に飲むと効果が有り、妊娠しない――!」ま〜いった〜! それでは毎夜のお仕事で、毎朝のお決りのお薬とは、その当時若かった私もショックでした。その夜は酒を買って来て皆とーーー!、それ〜!飲め〜!唄え〜!!踊れ〜!と、どんちゃん騒ぎをして、したたかに飲んで例の彼女に抱き付いてダンスをしましたがーー、皆が「ぎゃ〜!」と、おおはしゃぎーー!。それで、一件落着でした。彼女の福与かで見事なお尻を「ぎゅ〜!」と抱いて踊った思いでは、私の青春の忘れられない、1ページです。

46・
パラグワイの農業成長の展望における、過去と現在。満州開拓団長であった、吉崎千秋先生が定年退職して、40年以上も前に、パラグワイでの牧畜と森林開発を支配人として、入植された事は余り知られては居ません、満州から開拓民を引き連れて、日本の祖国に連れ戻どされた努力は頭が下がる思いがしました。

先生は農大の講師としても教鞭を取られ、満蒙開拓のてん末を詳しく解説して、それと比較しての、これからのブラジル、アルゼンチンや、パラグワイの展望を見て推測されました。先生が力入れられて開発した牧場は、現在は日系のコーヒー会社が経営をしていると聞いています。先生もだいぶ前に亡くなられ、我々が先生の思いを、また、その理念を思い浮かべる時、現在のパラグワイの生産体系をほぼ予測していました。その裏付けは農業経済博士、故、杉野忠夫教授も同じく同意見を述べられていました。今までに予測が少し外れたのは核戦争の危険が去り、社会主義ソビエット、ロシアが解体して、新しいロシアが誕生した事です。その他は、ほぼ予測した筋書きを見る事が出来ます、インドの人口増加、インドネシアも同じ、特に中国が産児制限を国家的目標にして、一人子政策まで国家で決め、推し進めた事は自然増が年間、1千万人ぐらいで留まり、インドが中国の人口増加を抜いた事です。今年の中国の都市開発、人口増加による都市開発の顕著か、灌漑用水の地下水利用においての塩害などにての耕地面積の減少は、加速的な早さでの減少となっています。このような総体的なネガテイブの要因を加味すすと、現在の経済成長が中国人民の生活向上と合わせると、ますます持って穀物輸入の増加は避けられ得ない事です、去年のアルゼンチン訪問にてパンパの穀倉地帯が、行けども行けどもーー、大豆畑に変化していた事は、驚きでした。世界第4位の大豆輸出国までなったパラグワイのこれからの将来を注目して行きたいと思う所存です。満蒙開拓精神はパラグワイにも関係して、生きて居るのです、イグワスにおいて開かれた杉野農場も、満州での軍部の政策に反対して野に下り、石川県で、農民道場を開いた精神が、農大教授となられて生徒達との信念が積み上げでられて開かれたと、私は聞いて感激した思いが有ります。満蒙開拓の精神と夢は、パラグワイに有ると感じます、それと多くの満州開拓引き上げ者が移住もしているからと、心思う時が有ります。

47・
今日は韓国人の国籍観について少し意見をのべてみたいと思います。 長い間に私は三代の韓国人の世代を観察する事が、付き合いの中で有りました。これはカリフォルニアで29年も在米しての経験から私の個人的な主観から書いているものです。韓国人の国籍問題、それに関する感情の移行を見る事が出来ました。在日で娘がアメリカに結婚して移住してきて、アメリカ国籍も取り両親を呼び寄せたのです。それに伴い彼は50年以上居た日本では帰化しなくて、5年の待機期間が過ぎると直ぐに帰化してしまいました。アメリカには何にも抵抗なく帰化して行きました。そして嬉々として帰化した事を喜んでいました。その娘はやはり韓国から幼い時にアメリカに移住してきた韓国人と結婚していましたので、その同じ韓国人でも感情の違う同士の組み合わせを観察する事が出来ました。その子供はまったくのアメリカ人で、英語を話して韓国語は第二外国語の範囲で、私と話す時も違和感が有りませんでした。ご主人は小さい時にアメリカに移住して来て、此方の学校を出ていますので感覚的に違和感がありませんでした。

しかしその家族でソウルからアメリカにたよって来ていた家族の子供は私が日本人と言うこと自体で、何か違和感が有りまして、暫らくして英語も上手になってから話す時も、何か打ち解けない感じでした。話しの端はしに反日教育がされた文句が出て驚いた事があります。同じ韓国人でも世代、教育環境においてこれだけ一人の主観が子供でも変化して、変わって行くのを観察して、色々と勉強になった事は多いと思います。私はこれまで自分の仕事の関係で韓国人を雇った事もありまして、これまでに沢山の韓国人の心理的な物の考え方を学ぶ事で、批判と言う目が養えたと感じています。特に在日韓国人でも朝鮮学校での教育を受けた人は理論が偏って、批判と言う対称をする物差しが偏屈で有ると感じました。仕方がない事です。それだけの教育環境しかなかったのですから。

しかし日本人で、これに反発する人が沢山出ている事をもっと理解して貰えばと感じています。人間は相互理解がないといっまでも違和感と、いがみ合いの精神しか出来ません。アメリカで育った韓国人の子供が自由な発想と精神で日本を見ている事にも驚いた事が有ります。教育の大切さが良く分かりました。これからの韓国と日本の相互理解と平和的関係は、根本の教育改革が是非必要と感じます。それにより国籍と言う民族の理解が深まる事と思います。


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40年前に南米で農業をしていた頃でした。暑い日々でした。11時には仕事を切り上げて昼休みに入り、食事のあと2時過ぎまで、昼寝をしていました。家は土蔵作りの日干しレンガの建物で、屋根は椰子の木を半分に割った物を竹の様に真中を削り、交互のかぶせて屋根にしていました。40年もの昔で、田舎のジャングルの百姓家です。自家発電の設備も有りません。飲み水は屋根を利用して天水(雨水)を飲料水としていました。それは塩分が多いので井戸を掘っても飲み水としては使用出来ませんでした。

乾季になりますと、雨が降りません。馬鹿でかいタンクでしたがしばらくすると無くなります。すると毎日朝早く、ドラム缶を二本トラックターの後ろに乗せて、河のかなり深いところまで乗り入れてそれに汲んで来ます。それを濾過器に入れて、下から出てきた水を汲み、薬缶で煮沸して飲んでいました。大変な時間と、労力が要ります。河の上流で雨が降り、ボリビアの鉱山から排出される危険な物質が混じった水が流れて来る時が有りました。その時は直ぐ解かりましたので水は汲めません。1時間も離れた町まで水を汲みに行きます。水は貴重ですーー。畑に灌漑する水は溜め池に貯水してありますので、余り心配は有りませんしかし、人間が飲む水は苦労しました。

インジオは溜め池の水を濾過して飲んでいた様です。でも塩分が有りまして、長く飲む事は出来ません。彼らは水を得る事は良く知っていました。狩猟に行って、喉が乾くとツタのつるを切って、そこから滴り落ちる水分を飲みます。少しですが喉を潤す事が出来ます。雨季の時河床であった場所では、そこの湿った砂土を掘り、かなり深く掘っておきます。しばらくすると滲んだ水が底の下に溜まりそれを汲み上げて使います。2〜3人が飲める水が採取で来ます。使用したお皿などは水は使いません。焚き火の灰で汚れを取り、後は綺麗に紙でふいて起きます。鍋の底に少し水を入れて、その中に使用した食器を入れて、火にかけて煮沸して消毒します。蓋をして、蒸して少しの水で消毒します。全て水は貴重でした。雨が降り始めると、屋根から滴り落ちる雨水が嬉しくて全てタンクに溜めていました。夏になり家の中が涼しくなります。窓を閉めて、土間に打ち水をして、外からの外気が家に入らないようにして、じっと家の中で休んでいました。

その様な場所で生活している人が現在も沢山います。世界の半分近くの20億と言われる人々が良い飲料水を飲めずに苦しんでいます。特にアフリカです。!モザンビークで見た水運びの若い女、子供達はそれが仕事でした。頭に水がめを載せて、裸足で暑い日の下を、じっとこらえて歩いていました。たかが水ーー、されど万金に値する水ーー。熱帯では一日、10リッタの水が無いと生きられません。直ぐに脱水症状で死んでしまいます。人間の65%は水分ですーー。活きる基本はまず水ですーー。今日も一日、美味しい水が口にできました事を、感謝いたします。


49・
いつも夏になると思い出す事が有ります。今日のお話は題して、「真夏の昼夢」と私が心に感じている事です。かれこれ20年以上にもなりますが、思い出は鮮明に今でも覚えています。それは夏休みに入り、かなり暑くなった時期でした。私はその頃、大きな集合住宅のアメリカでコンデミニアムと言う、住宅の管理を請け負っていましたが、夏になると、散水装置の故障や、その修理に追われていました。

かなりゆったりとした緑地の中に建物が建てられていましたので、見回りは自転車でしていました。その集合住宅も古くなって、あちこちと痛みが出ていた時期でした。散水装置のスプリンクラーの配管装置はPVCのプラスチックのパイプで、接続部分の接着剤が老化で、良く水が漏れて修理に追われていましたが、有る日、3インチの本管が木の根で押し上げられ破裂して、大仕事になりましたが週末に散水装置を修理しておかないとその当時かなりの暑さが続いていて、水を庭園に散水しないと、えらい事になり、平日は決まった仕事が山の様に有って、行列していましたので、どうしても週末にかたを付けて、修理を終わらせてしまいたいと思っていました。

週末の休み、朝早くからまず大きな穴を掘り出して、かなり掘りましたが沢山大きな松の根が有ってそれを切って処理するのに手間が掛り、中々はかどりません、土も粘土質のコンクリートの様に固い土でシャベルでは歯が立ちません、つるはしで少しずつ掘り、シャベルで土を出していました。集合住宅の直ぐ近くに高校が有り、賑やかなスポーツ大会が有っている様でしたが、パーキングが出来ない車が、こちら側のコンデミニアムの来客用パーキングにも来ていました。一台の小型スクールバスがどこかの高校のチェアーガールを乗せて来て、パーキングしてそこから応援に道路を隔てて歩いて競技場に行つたのを知っていました。

お昼のランチ時間も過ぎて、かなりの格闘の末に穴も深く掘りプラスチックのパイプも見えて来ましたが、破裂してかなり穴の奥はドロドロのぬかるみで私も汚れ放題で必死に綺麗に土をかたずけて、修理のスペースを確保するのに木の根を切って、また伸びてパイプが破損しない様に切りとっていました。そんな事でかなりの時間を食い、あらかた見込みが立った頃は夕方近くなって、お腹も空いて、持って来た水も飲み終えて、疲れ果ててドロだらけで、まるで泥人形のていで仕事をしていました。

疲れてペタンと穴の中に座り込んで、まるで墓穴の中にいる感じでしたが。やっと最終の接続を済ませ、接着剤が乾燥するのを待っていたと思います。その時です、松の根っ子の茂みの向こうの塀を境にしたパーキングから賑やかな若い女子高校生らしいチェアガール達がドヤドヤと高校から帰って来た感じで賑やかな話し声が聞こえていました。塀の僅かな隙間から見ると色鮮やかなユニホームが見え、若いピチピチしたミニスカートの女の子が沢山見えます、すると中の一人が廻りを見廻すと、こちらの茂みに駆け込んで来ました。それからが私がアッと仰天して、腰を抜かした事が起きました。私が見ているのも知らず、いきなり『じや〜!』です、板塀の隙間から生暖かい飛沫も飛んで来ました。穴の中からピョコンと少し顔を出しているぐらいでしたが、多分誰かが見ていたら、いいかげん良い年したオッチャンが目を見開いて、仰天して、驚愕の表情で、飛沫を浴びながら放心して、ドロだらけの顔が引きつっていたと思います、多分口は開けてはいなかったと思います、それは変な味がした飛沫が口の中に飛び込んで来た記憶が無いからです、古い板塀の下はかなり痛んで隙間が有ったから、口を開けてポカンとしていたら、たっぷりと味見をする羽目になっていたと思います。『次ぎーー早くおいで〜!』との声と同時にまた、今度は『シーーーーーー!』と穏やか系の音、しかしえらい物を見てしまいました。あそこの色がチラリと見えたからです。平凡な普通のオッチャンです、『ドキーン〜!』と心臓が高鳴り、ドキドキと心臓の異常鼓動がしているのが自分でも分かりました。その時です、スーッと腰の力が抜けてくるのが分かり、穴の中でペタンと座り込んでしまいました。晴天の霹靂とはこの事です、次ぎの『ジョーーーー!』と音が変わると、怖いもの見たさに自分の意思に反して身体はヨタヨタと動いて覗いていました。その時ですーーー!一瞬、「ギャー!」と言う感じで本当に腰が抜けてしまいました。それは、沢山いた女の子の中で金髪のスラリとした、可愛い子チャンだったからです、トンカチで一発、頭を「コチン〜!」のショックぐらい有りました。ヘナヘナと腰が砕け、後は本当に穴の底にペタンです。

まあ〜!皆様考えて見てくださいこれまさに、腑抜けになるとはこの事です、産まれて初めてそして最後でした。直ぐにバスは賑やかな若い女の子達の、はしゃぎ声を残して消えて行きました。穴の底では放心して、ペタンと座り込んだ、良い歳をしたオッチャンが仰天と驚愕の表情で、穴グマの様にうずくまっているのを想像してみて下さい。そなん事で、しばらくは頭の中は真っ白で、空腹も、疲れも、腰の痛みも全部忘れていました。どのくらい穴の中に座り込んでいたかは、今では覚えてはいませんが、「はっ〜!」と気を取りなおして我に帰り、主バルブを開けてテストしました。水が漏れません、一回で成功して3インチパイプの修理が終りました。やれやれーー!で庭園に散水のスプリンクラーを全開して、その中でドロで汚れた身体を服を着たまま洗っていました。穴を掘っていた直ぐ近くに野生のブラックベーリーを発見して手のひら一杯取りまして、それを口に入れながらニタ〜!か、へらーへらーかは覚えていませんが、笑いながらーー!どこかのホームレスか、キチガイの風体で、シャワー代わりに水を浴びていました。

長年にわたり仕事をしていた場所ですから、誰も警察には電話しませんでしたが、代わりに、コンデミニアムに住んでいる人が、「修理終った〜!」「Hello〜!」などと声を掛けてくれました。私はその時、疲れて、空腹で、腰も痛み我慢の限界に来て、少しイライラして頭に来ていました。打ちしおがれた私を神様が元気ずけに、チョイトいたずらをしたのだと信じておます、有り難い事です。この様な話しをジジイが棺桶に入れて、あの世とらに持って行っても、何も神様はお喜びはなさらないと感じ、ボケて忘れない内に皆様のお耳に入れたしだいです、この話しはワイフ殿にも内緒の丸秘の話しですので、どうか心して読んで下さい。そしてその夜、ワイフ殿がのたまわく「今夜はいやにしつこいね〜!」と、どやされましたことも書いておきます。はいー!そんなことで今回は終りです。


50・
40年もの昔で、その当時まだ日本人の一世が生きていた頃です。ボリビア国境のエンバルカシオンの町からトラックターの部品を買いにサルタ州の州都に出かけて行きました。夜行便のバスで行き、昼頃には着いて用事を済ませて、その夜は泊まり、翌朝の一番のバスで帰っていました。話に聞いていた、日本人の床屋に散髪に行きました。黙ってドアを開けて入り、新聞を読んでいた老人に「こんにちわーー!」と挨拶するとびっくりして、「どこから来たーー、どこの県人かーー、」と聞いてきました。「福岡ですーー、エンバルカシオンから部品を買いに来ました」と言うと、「そうですかーー、佐藤さんはお元気ですか―」 そんな会話をし
て散髪を始めました。ブラジルの最初の移民船、笠戸丸より昔の人でした。その方はハワイの砂糖きび農場での仕事を抜け出して、船でペールーに仲間と来て、砂糖きび農園で仕事をしていたそうですが、当時、アマゾンでのゴム景気の話を聞いて、一人アンデスの山を歩いて超えて来たと話してくれました。途中、アルゼンチン国境警備兵の荷駄のラバにつかまって、山越えしたと話していましたが、荷物は毛布に包んだだけでそれを肩に担ぎ、腰に山刀を差して当時の砂糖きび労働者の姿で歩いていたと言っていました。山越えして、お金が無いのでアルゼンチンの砂糖きび工場で仕事を見つけて、そこで仕事をしていたそうですが、真面目に仕事をして、器用な性格で機械の操作と修理が出来たので給料が良く、腰を落ち付けて住みついてしまったと話してくれましたが、その当時75歳ぐらいでした。

散髪が済んで、マテ茶を出してくれて、死ぬ前に一度でいいから祖国日本に帰りたいと話していましたが、「金も無くーー、この歳ではーー、」と言って笑っていました。しばらく話して、外に出る時ドアまで送ってくれて、「元気でー!、こちらに来たら又、寄って下さいーー」と話して握手して別れましたが、それが最後でしたーー。故郷は遠きに有りて思うものーー、懐かしきものーー、思いは懐かしく思うものーー、家族や友の思い出を心浮かべーー、東の空に無事を祈るべきものーー、沢山の異国の土になられた方々に、深く哀悼の意を捧げます。


51・
皆様お元気ですか、今日の話しは是非聞いてもらいたい私の思いでの話です。戦争の悲惨さ、それで難民として流浪の旅に出た人々が思い出として語ってくれた物語です。昔、ボリビア国境近くからブエノス、アイレスの首都に出てきた時は、「奥地から出てきた」と言っていました。街中にあった日本人会館の宿泊所に泊まっていました。1階は食堂や事務所、大きなホールも有りました。日本食も食べる事が出来まして、何かと便利で色々な情報も沢山入って来ますので、便利な場所でした。食事は近くにイタリア人が経営する、美味しくて、安くて、魚料理が沢山有るレストランに通っていましたが、直ぐにそこのウエイターと仲良くなり、鯛のから揚げにオリーブ油のピリカラソースを掛けた物を発見して、ブエノスに滞在している時は毎日飽きもせず食べていました。30cmも有る大きな鯛です、皿からはみ出しています。アルゼンチンでは小骨の沢山有る、鯛は余り歓迎されない魚ですからレストランで安く食べる事が出来ました。

揚げ物専門でカウンターの近くで仕事をしている、アントニオと言う若者とも仲良くなり、インジオの叔母さんが自家製で作る葉巻を沢山お土産に持って来ていましたので、三本ほどプレゼントして、明日のお昼も来るから、必ず俺の分は残しておいてと、念を押して帰りました。自家製の葉巻は特製で、タバコの葉をラム酒と砂糖で醗酵させてそこに叔母さんの秘密の何かを混ぜて作ります。その香りの良い事、20mも離れた所からでも分かります。

おかげでお昼にレストランに入り、カウンターの中に入るアントニオに手を上げて挨拶すると、「あいよ〜!」と言う感じで、テーブルに座ってスープが来て飲み始めると直ぐに鯛のから揚げが出てきます。隣りに座っているおやじが「じろ〜ッ」と見ています。いっも会っているおやじです。「又、あの日本人は魚を食べている」。そんな感じです。それと余りに早く注文が出てきますので驚いています。白ワインを頼んで飲んでいますが、ボトルを全部ポンと置いて行きます。食事が終って勘定の時に瓶の残りを見てその瓶の飲んだ分だけ払って勘定する、おおらかな物でした。

私はこのレストランが気に入って、昼と夜の2回も食事に通っていましたが、いっも同じ所に座っていましたのですが、私の隣りに同じ様に座っていたユダヤ人の老人がいました。私が魚を良く食べるので、目立っていたのか、彼らも宗教の何かの日にはお肉は食べ無い事を知りました。そんなわけで食後のコーヒーの時に、コニヤックの酒をおごってくれまして、話をする様になりました。昼時は混雑しますので食後は外で話していました。ポーランド系のユダヤ人で、戦後兄を頼って移民して来たと話していましたが、家族は全部死んでしまったと言っていました。私も戦後台湾から引き上げて来る時、リュックサックのみで着たきりスズメの、お腹を空かして、悲しい思いをした事を下手なスペイン語で話すと、彼も余り上手ではなかったスペイン語で、慰めてくれました。一人暮しで、時々兄の貴金属加工の手伝いをすると話していましたが細い指先は、繊細な仕事をこなすプロの感じでした。どこに住んで居るかは聞きませんでしたが、歩いて直ぐのアパートに住んで居ると言っていました。

ある時、何気なく「お前はこんなものを見たことが有るかーー!」と言って腕の袖をまくり、数字の刺青を見せてくれました。私は「ガ〜ン!」と心に衝撃が走りました。話には聞いていた事です。本でも読んだ事が有りましたが、現実に見せられたショックは大きかったのを覚えています。アウシュビッツの死の収容所で付けられたと言っていましたが、それとポーランドで彼が住んで居た町で生き残ったユダヤ人は数えるほどしか居なかったそうです。彼が特殊な金属加工と研磨の技術を持っていたから、軍需工場での強制労働、通称奴隷労働での仕事をしていたから、終戦まで生き長らえたと話していました。だんだんと色々な話を聞くに連れて、衝撃と悲しみと、悲惨さが滲み出す話に私は涙が止まらなかったのを覚えています。人はそれぞれ一つの人生を担って歩いていると言いますが、重き荷や軽い荷など、それぞれの人生の終着駅を目指して絶え間無く歩いて行かなければなりません。

ユダヤ人の老人と出会って話をする様になってから、自分の人生感が少し変った様です。彼の話は人の心を揺さぶり、衝撃と感動を人の心に与える力が有りました。ポーランド系、ユダヤ人としてワルシャワの町で生まれたそうですが、ナチ、ドイツがポーランド進攻してきたから全てが変ったと言っていました。全てのユダヤ人はゲットと呼ばれる居住地に押し込められて、そこから強制労働などに駆り出されて行ったそうです。ある時ドイツ軍から、トラックに乗せられて、強制労働に連れ出されて、昔のユダヤ人の金持ち達が住んで居た場所で、家財道具の整理や、隠匿物資の捜索を手伝わされたそうです。ある屋敷に着いたらドイツ軍将校が中庭の空き地に拳銃を持って立っていたそうですが、その足元には射殺されたユダヤ人の家族が並んでいたそうです。隠れて、どこかに潜んでいた家族の様でした。

そのようなユダヤ人はその場で射殺されて行ったのです。両親と娘が二人、頭を後ろから打ち抜かれて血を流して死んでいたその遺体をトラックに運び、かたずける時に娘二人はあきらかにドイツ兵の強姦を受けた後がなま生しく残って、目をそむけて遺体を運んだと話してくれました。まだほんのりと温かみが残る遺体だったと話していましたが、その話をしている時に、彼も泣いていたのを覚えています。そこをかたずけて次ぎの屋敷に行くと、そこでは軍用犬を使って潜んでいるユダヤ人の捜索が行われていました。屋敷の離れで使用人が住んでいた様な家を探していた時、犬が吼え誰か隠れている事が分り、ドイツ兵が銃を持って取り囲み、捜索を始めると直ぐに親子4人の家族が連れ出されて来ました。子供は娘とその弟の様で、両親は子供をかばって命ごいをして、ドイツ兵の前で地にひれ伏して、涙ながらに懇願していましたが、情け容赦無くーー、まず両親が銃殺の為に庭に立たされると、男の子供が泣きながらそれを止め様として、その場でまず射殺されてしまい、直ぐに同時に両親も並んで銃殺されてしまいました。

残った若い20歳頃の娘は死を覚悟をしていた様ですが、ドイツ軍将校は何を思ったのか、強制労働で連れ出されて来たユダヤ人を指差して、この娘を犯す様に命令しましたが、誰も娘を前に行動を起す人は無かったそうです。将校は一人の初老のユダヤ人を指差すと、「お前が初めにやれーー」と指名して命令しました。娘は家の中に連れこまれて、下半身裸にされて指名されたユダヤ人の背中を押して犯す様に再度命令したが、初老のユダヤ人はその将校の顔につばを吐きかけて、拒否したそうです。その場で射殺されてしまい、次ぎはこの話をしてくれたユダヤ人の番だったそうです。彼は死を覚悟して動かなかったそうですが、将校は「あと20数える内に行動を起さないと、射殺するーー」と言って数を数え始めたそうですが、すると、娘は彼の手を取って、「生きなさいーー、どんな事をしても生きなさいーー、」と小声で早口のポーランド語で話すと彼をソファーの前に連れていき、生きる為の、生き残る行為を彼にさせたそうです。しかし緊張と、恐怖の前では真似事だけで、ドイツ兵を喜ばすだけだったと話してくれました。その時オートバイに乗った伝令が来て将校に、近所でユダヤ人が銃で抵抗して、死傷者も出ていると話すと、「遊びは終ったーー」と言って、死体をかたずける様に言って、四人の死体をトラックに乗せると、「お前達は地下室に入っておれーー!」と命令して、真っ暗な電気も無い部屋に入れられて、上から蓋をかぶせて鍵を掛けられて、放置されてしまったそうです。ドイツ兵は応援に出かけてしまい、暗い部屋で遠くで聞こえる銃声を聞きながら動かなかったそうですが、娘は真っ暗な中で彼にしっかりと抱きつき、緊張と狂気の嵐の時間を耐えていたそうですが、強制労働に連れてこられて残った彼を入れて三人と、娘は何一つ話さず、真っ暗な中でジーッと耐えていたそうですが、時間が経つほどに緊張も緩み、抱いている彼女の体温も感じ、彼女の皮膚の感覚も感じて来て、いつしか、しっかりと彼女と真っ暗な地下室で抱き合っていたと話してくれました。

彼女は遅くなって戻って来たドイツ兵に外に連れ出されると庭の中に立たされて、銃殺されてしまったと涙ながらに話してくれました。地下室から出る時、「天国で貴方の子供を育てるからーー」と言って出ていったそうですが、撃たれる直前に手を上げて投げキスをして倒れて行ったと言う事です。彼は独身だと言っていましたがーー。「一瞬の時間に人生のすべての情熱を燃やし尽くして行く人と、一生連れ添っても、単なる同居人で人生を終る人も居る」と彼が話したことを、私は一生忘れる事は出来ません。愛とは何かーー、愛するとは何かーー、今でも考える事が有ります。彼とはその後二度と会う事は有りませんでした。


52・
私がアルゼンチンのサルタ州に住んで仕事をしていた時代です。州都まで機械の部品を買いに行った時でした。夕食になり、美味しい和食と考えましたが有りません、それでタクシーに聞くと、中華レストランが有るとの事で、早速に出かけて行きました。お米の御飯が食べたくて、チャーハンなどと考えていました。余り場所の良い所では有りません、しかし見た所はまぎれもない中華料理と分る店でした。タクシーを降りて、中に入ると直ぐに店員が、ジッーーと眺めていました。直ぐに裏のキッチンの方に声を掛けて、驚いた事に裏方のコックなどが全員出て来ました。全員が中国人と言う感じで、中国語で何か話しかけて来ました。手を取らんばかりにして、テーブルに案内してくれ、もう一度言いましたが、私が生まれは台湾だが日本人だと言うと、喜んでくれコック自らカタコトの日本語で、『コレオイシイ〜!』と教えてくれました。メニューをコレと、コレが日本人の口に合うからと話して、私が注文すると、喜んで裏に入っていきました。店に居た若い中国人の青年はかなりスペイン語も上手でしたので、彼が色々な事を話してくれました。余りお客は居ませんでしたので、料理が出来て来るまで、ビールでも飲みながら話していました。東洋人は月に4〜5人ぐらいしか来ないと言っていましたが、ここは特に少ないと話していました。貴方は今月に入って始めての東洋人と教えてくれました。その夜私は、彼等の心ずくしの中華料理を食べ、横浜の中華街でお別れの食事を、友達と食べた事を思い出していいました。店を出る時に中のキッチンに居るコックにお礼を言って別れましたが、私がアルゼンチンに居た間で一番美味しかった店でした。


53・
私もアメリカに住み始めて29年になります、早いものでアッと言う間の感じです、一度引っ越しましたので、今住んでいる家は14年目です、ここは前に住んでいた所より、幾分か所得の有る中産階級の住宅地です、家の間も広く、庭も大きいので、一軒の間が有りますので日本の様に隣り三軒両隣と言う感じでは有りません、昼間はシーンとしています、それと小さな子供が居る家庭は二軒しかありませんから、静かなものです、150mぐらいの短い道路です、それも突き当りになる、アメリカでコートと呼ぶ道です、殆どが70歳近いリタイヤした人達です、そんなわけで親しく付き合って居る近所は有りません、

隣などは12月8日の真珠湾攻撃のアメリカで言う、パールハーバーデーの記念日には星条旗をわざわざと、私の家の横に突き出して飾ります、いやみですーー!私は無視です、なれたものでど〜ん!来いです、いちいち関っていたらアメリカなど住んで居られません、知らんふりをして居ますが、それも今年で14年目です、ハロ〜!も言いませんので、言葉も交わしません、しかし私の目つきが鋭いのか、細い目をますます細くして、現在は目が悪いので目つきまで悪くなっていますから、相手は絶対に目を合わす事は有りません、これも慣れたもので平気です、若い頃に南米の奥地で住んで居た頃は生意気で、血気盛んな一匹野良猫でしたから、ふてぶてしくて、町のガキどもが、「ハーポーネ〜!の大根野郎ーー!」など通りの街角で合唱して、はやしたてなどしたらその中の一番強そうな奴を「ボカーン」と殴リつけて喧嘩を売っていました。若く見えても実戦の経験が沢山有りますし、拳銃はいっも背中の後ろのベルトに隠していましたから、威勢が良かった頃です、

たしかに殺気に似た気迫も有った様です、あの頃でしたら弾の数だけは倒す腕も有りましたから、町のガキどもは私には一切口は出さなくなりましたが、差別などされておとなしく引き下がっていてはますます図に乗って来る者も居ますから、注意が必要です、次男が子供の頃にスイミングの練習でいつも意地悪して、差別をする子供がいましたので有る日、迎えに行って更衣部屋のロッカーの前のベンチでーー、意地悪する子供の横に座り「お前の着替えを便所のションベンの中に漬けたら嬉しいかーー!」小声で言い「お前は俺の息子の着替えを漬けて喜んでいたそうだが-ー」そこまで言うと、黙ってしばらく相手の目を見据えていました。目は口よりも、ものを言ます子供はガタガタと震え出していましたが、それっきりピタリト止めましたので、いくらかは効果があった様です。長男などは妹や弟がいじめられると、必ずその家に行って親に抗議していましたので、私が出る事は有りませんでした。

そんな中で、私がアメリカに移住して来て、一番初めに住んだ所の家の前に、第二次大戦で日本軍の捕虜となり、終戦まで八幡製鉄の工場で働かされた、私が「ジグー」と呼んでいる87歳になる老人が居ますが、彼は一切そんな差別のそぶりはしません、親切で何もアメリカ生活を知らない、私達家族を助けてくれました。日本海軍が真珠湾を攻撃した日、彼が乗船した居た潜水艦は湾外に出ていて、損害は免れたそうですが、攻撃後しばらくして湾に帰航すると、黒煙と火災で大混乱の最中だったそうです、それから二ヶ月ほどして真珠湾から、南下する日本軍の輸送船団を攻撃しに出撃して行ったと話してくれました。

オーストラリアのシドニーからインド洋に出て、最後のオーストラリアのどこかの港で補給をすると、ヒリッピン近海で作戦行動をしていて、日本の二隻の輸送船を撃沈して、次ぎの目標を探して航海していた時にゼロ戦の襲撃を受けて急速潜航をしたが、爆弾を投下されて、その爆弾の被害で、彼が居たソナーの船室の天井の鉄板は30センチぐらい凹んだそうですが、水漏れはするが沈没は免れて、電気も消えて衝撃で破壊された蓄電池の動力も動かず、有毒ガスも発生してやっと非常灯だけの灯りでソナーの探知をしていたそうですが、かなりの時間が経った時に遠くで、駆逐艦のスクリューウの音が探知されて、動けない海底に鎮座している潜水艦などは、爆雷で直ぐに破壊されてしまう事は間違いないので、船長に報告すると直ぐに最後の動力のジイゼルエンジンを動かして浮上して、日本軍に降伏したと話していました。

その後、日本の八幡製鉄所近くの捕虜収容所に送られて、そこで製鉄所の仕事をさせられていたと言う事です、冬は寒くて火鉢しかなく、お腹が空いて悲しかったと話していました。辛い事が沢山有ったそうですが、親切な通訳が居て色々な事を助けてくれたと話していましたが、だいぶ昔に黄色く変色した、ざら紙のノートに書いた住所を見せてくれ、この人のおかげで生き延びたと言っていました。八幡製鉄所に三年半も居て、終戦の日に天皇の降伏のラジオ放送が有って、それからは仕事もしないで収容所に居たそうですが、翌日に沖縄から飛来した飛行機が無線機と医薬品を投下して連絡が取れて沖縄の基地と収容所を結ぶ無線連絡が定期的に取れ、直ぐに輸送機がパラシュートで沢山の食料や医療品を投下して来ました。余りの正確な投下で収容所の屋根に沢山の荷物が落下して来て、危うく命の危険を感じたそうです、空中で荷物が分解して、缶詰めなどがバラバラと落ちて来て、負傷者も出たと話してくれました。その夜、収容所の便所は長い列が出来ていたそうです、突然の大量の食事と高蛋白のコンビーフなど肉類の接収で、皆が下痢を起していたそうで、慣れるのにかなりの時間が掛かったと言っていました。

沖縄からの指令でアメリカ軍が進駐して来るまで、そこに滞在して待っている様に命令されたそうですが、横浜にはその頃にはアメリカ軍の先発隊が来ていて、その情報をラジオでキャッチすると、持てるだけの食料とタバコを持って仲間三人と、製鉄所で支給された国民服を着たまま、東京行きの列車に乗車して小倉駅を出発したと言っていました。広島あたりまではデッキにぶら下がって居たそうで、それ以降は座れたと話してくれました、食べ物は沢山のタバコと、缶詰めを持っていたので、どうしてもお腹の調子が悪くて、おにぎりと缶詰を交換してそれから良くなってきたそうで、タバコがお金の役をして、何でも交換出来た様です、ミカンもお芋も食べたと言っていました。

途中から乗車して来た将校が腰に差していた軍刀を土産に上げると言ってくれたが、断ると窓を開けて捨ててしまったそうです、そして降りる時に英語で「これからは両国民は仲良くしよう!」と言うと敬礼してホームに消えて行ったと言っていましたが、横浜駅が近くなって駅にアメリカ兵が警備で立っているのを見て、あの感激は忘れられないと話していました。直ぐに横浜駅に到着して、ホームに出て、警備のアメリカ兵を探して、三人で大声でわめきながら抱き付いて行ったら兵隊が仰天して、薄汚れた国民服を着たアメリカ兵など見た事もなかった様で、カービン銃を付きつけて「俺にちかずくなーーー!」と怒鳴っていたそうです、でも直ぐに気が付いて、泣きじゃくる三人を連れて、ジープで基地まで運んでくれたと話してくれました。

彼は戦争とは国と国が起したもの、一人の人間同士は同じ人間だと言って、私の家族に親切にしてくれました。「私も親切な日本人の助けがなければ、命を永らえる事は出来なかつた、偏見や人種差別はその人の生まれた生活環境や教育で決まると思う、しかし憎しみや憎悪を偏見や差別の心で育ててしまう人も沢山居る様だがーー」と話していました。私はアメリカに来て、一番感謝して、ありがたく思ったのは良き人に巡り会った事と思います、彼がパールハーバーデーの日に掲げる星条旗は、日本軍の真珠湾攻撃で戦死した仲間と、捕虜時代に病気で亡くなった潜水艦の乗組員の霊を慰める為です、しかし彼も歳を取り、アルツハイマーの進行でそれもしなくなり、いっも窓際に座ってTVを見ています、私が訪ねると必ず手を振ってくれ、そして「Hello〜!」と声を掛けてくれます。

54・
今日のお話は、かれこれ38年前の南アフリカのケープタウンでのお話です。題して、「アパルトヘイトは怖くない」。私が南米から日本に帰国する時で、ケープタウン経由で船便で帰ってくる時でした。南アフリカで停泊していた時、場所はケープタウンの町でした。まだその当時はアパルトヘイトが施行されていましたので、黒人と白人の分離政策がなされていて、夜になると黒人は黒人居住区に帰ってしまい街は静かなものでした。船はオランダ船籍で高級船員は皆オランダ人でした。下級船員は全部中国人で、広東系の人で殆ど香港で雇われていた様です。船長以下高級船員の家族は南アフリカに住んでいましたので、停泊が永かったのです。船は日本と南米を結ぶ、当時の南米行き、アフリカ経由の定期航路でしたので、家族は殆どケープタウンに住んでいた様です。おかげでだいぶ永く停泊してくれましたので、あちこち見物する事が出来ました。

日本語の分かる中国人が皮肉に「高級船員の生理休暇だ!」と笑っていたのが印象に残っています。南アフリカはオランダ人が開拓した所も多くて英語もオランダ語が混ざった独特の英語です。それだけにオランダ人の勢力が強かったのだと思います。当時の私は若かったので人種差別など、「クソ食らえ――!」と、それと南米は余り差別は感じさせませんので、特にブラジルでは楽しい思い出が沢山有りましたので、疎の落差が大きいのには驚きました。

黒人が白人と対して、「サー」「マスター」などと返事に必ず使っています。我々の感覚からすると卑屈な感じです。港で働く労働者は特に白人に注意している様でした。船から下りて街に遊びに行く時、税関のゲートを通る時生意気な若い白人の税関使が居たのです。その言葉使いが先ず「カチーン」です。そこを通過して、その時友達4人で「ナメルンジャ〜ネーー!」と日本語でやり返しました。相手は我々を中国人と思っていたのです。オランダ船は殆ど下級船員は中国人でしたので、ろくにパスポートを見もしないで脇に居た若い税関使が「カチーン」と来る言葉で歓迎してくれたので、ますます印象が悪くなりまして、あまり良い気分では有りませんでした。港の近くの酒場でまず冷たいビールを飲もうと出かけましたが、我々4人が入ると一瞬「シーン〜ーー!」です。中は全部白人です。勿論全部カウンターの中の人間も白人でした。4人でカウンターで、ビールを注文しました。無言でしたが、注文したビールが出てきましたので内心「ホット」して飲み始めましたら、近くで飲んで居た船員らしき白人が「日本人か?」と話しかけて来ましたので、少し気分が楽になりまして飲んでいました。

日本にも行った事が有るそうで、南アフリカでの注意も教えてくれましたので、だいぶ役に立ちました。レンタ・カーを借りて内陸部にドライブした時、黒人居住区の貧しい住宅地を過ぎた時にケープタウンの町との格差に驚いたものです。それと公園などで、準白人待遇の東洋人も締め出す、「ヨーロッパ人専用」と書かれた標識が有るのには驚きました。当時まだ世界でも有数の黒人分離政策をしていましたので、白人優位の政策が浸透していたと思います。毎日の様に通過していた税関のゲートで例の若い白人の役人とだんだん剣悪な様子になって来ました。英語の上手い友達が、からかったのです。それもキングス・イングリシュで。売り言葉に買い言葉でーー。それとその役人が近くの倉庫で 荷役労働者の黒人を何か怒鳴りながら、こずき回しているのを見てしまいました。

これで仲の良い友達4人が切れてしまいました。「頭にキターー!」のです。出航の日、計画は実行されました。若い白人の役人が乗って来ている自家用車をイタズラする事でた。ピカピカに磨かれて、事務所の近くに置いて有ります。出航10分前のドラがなる前に、さーっと降りて、風の様に、時間にしたら20秒ぐらいです。「ぎぎーー、がりがり、ぶちゅう〜、ガッンーー、キーーー」そんな感じで4人ですので、タラップが上がる時には船室でTVでも見ていました。血の気の溢れた若い日本人の無謀なイタズラです。船は出ていく煙は残る、さぞかし若い白人の役人は、腰をぬかしていたと思います。誰かが言いました、「口は災いのもと」「人種差別の用語も災いのもと」
今から思えば、馬鹿な事をしたものです。皆様は真似してはいけません。このジジイも昔は若い時も有ったのです。友達もそれぞれ現在は良い親爺になって、孫も居ます。そして現在は、南アフリカは黒人政権が誕生して、人種差別のアパルトヘイトも無くなっています。


55・
アメリカは移民の国、また近年は難民の移住も凄いので、多民族国家の名にふさわしい感じです。私が初めて重国籍問題を感じたのは、40年もの前に農業技術者として移民船で南米に行くとき、日本に里帰りしていたブラジル移民の一番始めの笠戸丸の移住者と乗り合わせた事です。その当時かなりの高齢で中には身体の不自由な人も居ましたが、長い船旅の間に、色々な話を聞く事が出来ました。でも、一番思い出に残っているのは、横浜を出航してかなりの時間が経ってから、夕方近くになり、黒潮のうねりも出てきて、夕暮れの波間に犬吠岬の灯台の輝きが、波間に見え隠れしていた時、夫婦が甲板で両手を合わして、「これで日本も見納めだーー!両親の墓参りもした、兄弟、親戚にも会った、美味しい物も沢山食べた、これで何も思い残す事はない、安心して子供の居るブラジルの土になれる。」と話して居たのを聞いて、ジーンと来て目頭が熱くなったのを覚えています。

長いブラジル生活でも日本国籍は持たれて、二重国籍など、日本人として恥ずかしいと話していました。子供は全部日本大使館で、出生届を出していると話していましたので、子供達には、そうなるかも知れないと話していました。昔の古い移住地を訪ねて、家の中に入ると、天皇陛下の写真と日本の日の丸の旗が飾って有り、日本に住んで居る人以上に、日本人の心を持った方々に沢山お会いしました。

そろそろ、41年近く経ちますので、皆さんがブラジルの土になられたと思います。国を思う時、異国で日本の郷愁に家族を思い浮かべる時、今では簡単に電話で話す事も出来ますが、昔の時代ではそれも出来ず、老齢になり、移住して初めて里帰りする思いは如何な気持か。現在の私達の便利な世の中での思いとは、比べられないほど、感激の多い旅ではなかったかと、今でも思っています。アメリカ、カナダそのほかブラジル、アルゼンチン、ペルーなど沢山の日本人の先駆者達の努力の上に現在海外の日本人の基礎が有る事を感謝して、今日のお話を終ります。


56・
そろそろ40年も前の事です、その頃はアルゼンチンのサルタ州に居ました。有る時、農場で沢山のトラブルが起きた事が有ります、毎日罠をしかけてビスカッチャと言うウサギと狸の合いの子の様な動物を捕って、食料にしていました。週に二度ほど捕まえると、これで肉は心配有りませんでした。それが全部盗まれていました。それからトマト畑の盗難が凄く多くなりまして、誰か専門で盗んで居る事が分り、インヂオに捜させましたが、直ぐに犬を連れた、若い男と言う事を知らしてくれました。

ジャングルでは犬はレーダーとして、あらゆる事に第3の目を持って行動しているのと同じです、プロの仕業です、賢い犬の様で、此方がどんなに上手く隠していても直ぐに捜して無くなっています、生活が掛っていますので、インヂオに行動のパターンを捜させて、大体どこから入って来るか見当をつけて見張る事にしました。私は高性能のライフルを用意して、それにはスコープも付いていて、かなりの遠距離から撃てます、炎天下のトマト畑の近くの茂みに隠れていました。昼休みは、2時間は休みですから、畑に誰も居ませんので見張るのは真剣です、私もいいかげんくたびれた時です、犬があたりを用心しながら出てきました。

首を上げて、匂いを捜しています、耳も立てて音を探している事が分ります、150mは有りますので犬には分りません、その後に若い男が出てきました。ジャングルと畑の境です、男はトマトをドンドンと袋に入れています、かなりの量です、トマトの値が出て町で直接売ればかなりの値段になります、茂みの中で私はライフルの安全装置を外して、いっでも撃てる様にしました。スコープの中の+のサイトに犬の前足の心臓部分を狙いを付けて警告の為に犬を撃つ事にしました。ここからでは犬を撃つ事は簡単な事です、6倍のスコープで覗く目標は手が届く様に見えます、犬がいなければ男は何も出来ません、側の犬が撃たれる事は、あきらかに脅しと言う事が相手に分ります、犬ではなくて、「お前を撃つ事が出来るぞ〜!」と言う意思を分らせる事が出来ます、犬が立ち止まって男を見ている時、ライフルを撃ちました。「ガ―ン〜!」と言う音と同時に、犬が男の前にもんどり打って倒れて行きました。

それだけで後は静まり返ったジャングルの中で木霊が長く鳴っていましたが、男が伏せた畑の畦のすれすれに、もう一発撃ちました。畑の土から土煙が上がり、後はシーンとして何も動く物は無く、音も聞こえませんでした。後でインヂオに偵察に行かせたら、血だまりの土が有ったと、その他は何も無かったと言って来ました。それからは、ピタリとトラブルが止まり、何事も無く仕事が出来る様になりました。たしかに犬は男が持って逃げた様です、何も捜しても有りませんでしたが、捨てられたトマトが入った袋だけが畑に残されていました。ライフルを撃った後に、ふと見上げた空の青さが今でも思い出されます、生きると言う事に激しい環境の世界で、自然だけは何も変らずに動いている思いを心に感じた日でした。


57・
かれこれ41年前になります。私がブエノス・アイレスに居た時でしたが、当時パラグワイから出て来て友人の紹介で園芸店で仕事をしていた時でした。そこの事務所と温室が有る所は、そこの経営者が昔、住んで居た所で、かなり古びた感じの木造の家でした。ブエノスでは珍しい家で平屋の作りが何か日本風な感じがしていましたので、そこに長く仕事をしていた老人の使用人の方に聞いたら、材木は全部アメリカから送られて来た、フォードなどの車を梱包してあった枠木を解体して作ったと教えてくれました。良く見ると米松の板が使われて、今で言う2x4の感じの板と枠木を組み合わせて作られていました。その当時は車は全部アメリカからの輸入品でしたから、一台、一台を木枠での梱包をして貨物船の船倉に入れて、ブエノスまで運んで来ていたと感じます。ブエノスの街は全てがレンガとセメントで作られた当時、南米のパリと言われた首都です、そんな所で梱包木枠を解体して作った家に住んでいた日本人一世は確かに質素で、勤勉で仕事をしたと感じました。家族で作ったと話していましたが、当時の1964年頃にそこの長男には3世の16歳ぐらいの子供が居ました。長くアルゼンチンに住んで居たと思います、当時その長男の母親が生きていましたが84歳ぐらいで、初期のアルゼンチンの移住者でした。お花の鉢植えを買いに来た中年の女性が、懐かしそうに見まわして、『私が子供の頃に母親と来た覚えがあるーー!』と言って話していました。

当時、その母親と家族は隣りの敷地に家を建てて住んで居ましたが、母親が時々そこの事務所にしてある旧住宅に来て、椅子に座りマテ茶を飲みながら、ブエノスに来た当時、食べるのにも困り、日本で言う『すいとん』を作って食べたと話していました。出汁は牛の骨を使い大鍋で作って家族で食べていたと話して居ましたが、少し稼いで御金が入った時に、イタリア米を買って御飯を炊いて食べた感激は忘れ無いと話してくれた時、目に涙が光っていたのを覚えています。御飯を異国で噛み締めて食べる感激はいかがな思いか、今でも思うと胸が熱くなります


58・
このお話はかなり昔の話ですが、確か1965年頃のブエノス・アイレスの町中でした。当時は海外旅行と言っても、旅行者外貨持ち出し制限があり、しかしどのくらい持ち出せたかは覚えてはいません。しかし移住者にはその制限がありませんでした。日本の財産を処理して、有り金全財産を南米の移住地に、入植するのに持って来る事が出来ました。しかしお隣りの韓国では南米への移住に関しても外貨のドルを移住者が自由に持ち出す事が出来ずに、『韓国海苔』にして、持ちこんでいました。そして日本人の移住地を売り歩いて元金を回収して資金としていましたが、そのような中で、当時も数少ない旅行者が居ました。中には今で言う、バックサックを背負ったヒッチハイカーです、数も少なく気合が入った方が沢山居たようです、私が一番感心して驚いた青年は東大在学中で、1ヵ年休学して世界中で、『女性の千人切り』を心に志して、当時はブエノス・アイレス市内でレストランの給仕をしていました。

当時の東京大学などは、かなりの頭が良い学生が行く所と聞いていましたので、チョイ!落ちこぼれかと感じていました。とんでもない、ただの休学という事でした。『女性の千人切り』と言っても、日本刀でバッサリ!と言うような物騒な話では有りません、ただ商売女でも、なんでもかまわずに『セックス』して、その数で千人を達成したいと、願をかけて心に持っていた様でした。私が子供の頃に『赤線が廃止』となり、公娼と言う事も禁止となりましたので、日本では簡単にそのような事を実行出来る事は無理な様でした。しかし彼はそれを実行して、南米各地を働きながら経験して廻っていた様でした。私も友人から聞いた時は、『ヘエー!』と驚きの声を出したくらいでした。考えてみても、『千人ですよー!』とにかく数をこなすには大変な事です、金と体力、それに根気と情熱、その他、性病にも注意しなければなりません。ご苦労な願掛けです・・・、その昔は、エイズとか言う物騒な死の病は有りませんでしたが、そこそこに風土病的な恐ろしい病があったと思います。東大と言う名前と、若いハンサムな日本人男性と聞いて、私も彼が働いて居ると言うレストランを外から見に行きました。確かに居ました。当時はドル持ち出し制限で、限られた金額しか持っては日本から出られませんでした。闇ドルと言うと1ドルが400円近くもする頃で、普通の交換でも350円から360円程度はしていましたので、大学卒で初任給が10万もなかった時代、大変な金額です。それと渡航手段が船の時代で、旅客機などは羽田からブラジルのサンパウロまで、当時は田舎で家一軒が買える値段でした。そんな事で今からすると各段に大変で困難な時代でした。友人の話しではすでにその東大生は600人近い人数をこなしていたと言う事ですから、奥の深い、いや、欲の深い人物だったと感じます。私がブエノスにいた時代に女性で、その世界漫遊の女性は金策尽きて、仕事もなくて、ブエノスにて丁度に世界の裏のアルゼンチンまで来て身体も具合が悪くなり、心も寂しかった様で彼女が取った行動は、ブエノスの町中の中央にある噴水の池に、全裸でドボンと飛び込み、目出度く日本国政府の『国援法』の適用を受けて、飛行機で強制帰国をさせられたと聞きました。世の中には雑多な考えで、歩いていた方が昔から結構沢山居たと感じます。今はもっと簡単で、便利な世になりました。貴方も世界漫遊はいかがですか?


59・
私がパラグワイから出て来て、アルゼンチンのブエノス・アイレスに住んで居た頃でした。下宿と言っても、安宿の当時、ブエノスではペンションと言っていました。ベッドと安物の家具があるだけのガラ―ンとして部屋でしたが、相部屋の仲間が気さくで、話好きで、親切な男でした。時々、近所の飲み屋兼、簡易食堂という感じの所を紹介してくれ、暇な時は誘って食べに行く時も有りました。彼は田舎から来て、仕事も二ヶ所も持って働いていました。将来は田舎で自分の仕事を持ち、アルゼンチンの現地人として故郷の田舎では、どこにもそのような仕事をしている人が居ないので、ベッドなどのマットと寝台のフレームを製造する会社を開きたいと夢見ていました。その様な関連企業に働いて居る様でしたが、安い労賃での仕事の様でした。 彼が暇な時にバーに一緒に行った時に、入り口横のカウンターの側で、一人の若い女性が座っていまして、我々若い、少し毛色の変わった男二人を見ていましたので、席に付いて酒を注文してから見ると、なんとも可愛いいのですが、それが丸々と肥って、それこそ真白の肌がこんもりと、たわわにヒダとなっている感じでした。漫画に出てくる豚ちゃんを主題にして書いた漫画を瞬間、思い出したくらいでした。顔はまるで小作りの顔形で、目が大きくて髪は長い赤毛の様でした。まるで人形の様でしたが、足はまるで私の胴ぐらいは有りそうな感じがしましたが、それなのに短いスカートをはいているので強烈な感じでした。

彼女には誰も声を掛ける人も居なくて、彼女はポツ―ンと良く一人で座っているのを見ました。その食堂で夕食を食べていましたので、それこそ行く度に会い、会釈をして挨拶をするまでになりました。段々とそこの店にも慣れて、色々な話も聞く事が出来ました。彼女は一人娘で両親はすでに亡くなり、遺産のアパートや家なども有り、食べることには何も困らないで、遊んで暮らしていると聞きました。しかしながら見ただけで分る、超肥満の身体では、誰も恐れをなして相手する男は出てこなかった様でした。顔はまるで人形の様に愛くるしく、可愛いい若い女性です、肌は真白な綺麗な肌で、ポツ―ンとカウンターの横に深くイスに座って、足元にじゃれる猫と遊んでいましたが、友人が耳もとでささやきました。『誘ってみたら!、肥った女性が好きならばー!』私はその言葉を聞いたとたん、『ヒエー!』と感じました。誰か話していましたが150kgはあるだろうと、すると日本の相撲取りと同じ体重では有りませんか、どんなベッドに寝ているのだろうかと、彼女の裸体を想像するだけで国技館のお相撲さん達のシコを踏むのを思い出していました。しかし有る日、とうとう彼女から声を掛けて来ました。私が日本人でただ一人の毎日のような利用者だったからでした。話して見ると知性が有り、世間一般の事も良く新聞などを読んで知っていました。そして私の下手なスペイン語を訂正して、教えてくれました。そして彼女が世間で噂するような感じの娼婦的な女性では無い事がはっきりしましたので、時々はカウンターに座り彼女とバーテンダーと挟んで会話の練習にもなりますので、一杯のワインを手に遅くまで話す事が有りました。近くで良く見るとその巨大な乳房と首とが凄く真白で、ネックレスだけが金で輝いていました。彼女がトイレに離れた時に、バーテンダーが『彼女は自尊心の高い女性で、自分が好きでなければ、一瞥も与えない』と話していました。口も聞かないとは恐ろしく自尊心の高い女性と思いました。私と色々な世間話をして酒代やつまみ代を払うように財布を出すと、バーテンダーが笑いながら、そのお金を貰うと私は『首』になると笑っていました。驚いて聞くと『彼女の父親だった店で、経営権は彼女が所有している』との事で驚いたことが有りました。彼女が座る場所も他の人は絶対に座る事は出来ないと話していました。しばらくして、そこの食堂で食べることも仕事が新しく出来て最後と思っていた時に、彼女と話をしていた時に急に彼女が背中が痒くなり、短い肥った両手ではどうする事も出来なくて、背中を掻いてくれとせがまれて、カウンター横の小さな事務所の中にヨチヨチと巨体を動かして机に両手を置いて、背中を見せて真中を掻くようにせがんでいました。片手を入れて柔らかな肌をカリカリと掻いてやりました。特大のブラジャーのヒモが肌に当たって少しすれていまして、そこが痒いと思いました。

彼女はそれを外してくれと言っていましたので、それを外してやるとブラジャーを取リ外して出してくれと言われて、どぎまぎしていました。彼女は私の手を掴むとシャツの前を開いて、巨大な乳房を覆っているブラジャーを引っ張って外せと言って頼みますので、巨大な乳房から剥がす様にして取り出して渡すと、驚く事にポイとゴミ缶に捨ててしまいました。剥がす時に彼女の乳房に触りましたがまるで、つきたてのお餅のように柔らかい肌でした。汗ばんだ肌を思い出します。彼女も少し顔を赤らめていましたが、ホッとしている感じでした。ただそれだけの事でしたが、今でもその時の事を思い出しては同じような体型の女性を見ると彼女の人形の様な顔を思い出します。


60・
先日の土曜日に私はシリコン・バレーの中心にあるサンノゼ市を訪ねました。内々の仲間の集まりで、越南米粉麺の試食とお話と、その後に全米で一番大きなベトナム系・ショッピングセンターを見学に行きました。私は初めての訪問でワイフと興味深く見て廻りましたが、彼等の心安らぐ場所と感じました。私の住んでいる所から車で一時間かかります、ワイフの知合いのベトナム人も良く買物に訪ねるショッピングセンターだと聞きました。大きなスーパーも有りまして、かなりの人出があり賑わっていました。中庭と言う感じの所で、かなりの男達の人だかりがしていました。覗くと、そこではベトナム将棋が二局ほど開かれて、丸い駒を動かして真剣な眼差しで駒を進めていましたが、中の一人がかなりの年配で、少し足が不自由な様でした。そばには杖もありましたが、時々歓声を上げて駒を進めていました。私はその時、ふと20年以上も前にアパートの管理で訪れていた時の事を思い出していました。仕事が終ってランチを食べていた時にそこを訪ねて来ていた人が、私に高速道路の入り口を聞いて来たのでしたが、私が東洋人で下手な英語で教えていたので、彼ははじめに韓国人かと聞きましたが、私が日本人と答えると、興味があるのか、私も第2次大戦の後に日本に居たと言っていました。息子もベトナム戦争の時に日本に居て、日本人の恋人も居た様だと言ってゆっくりと話していましたので、丁度食事が終り、私も食後の時間潰しに話しを始めました。

気さくな感じの人でしたが、彼の息子はヘリコプターの操縦士でベトナム戦争中は救出専門のヘリを操縦していたようでした。ある日、彼の息子は孤立した偵察部隊の救出を命令され、二機のヘリで出掛けた時に二機は着陸する場所がなくて、一機のみ着陸して部隊の救出をしていた時に、彼の息子は上空で待機して廻りのジャングルを監視した居た時に、地上からの攻撃で機体が破損して、ジャングルに不時着して負傷した様でした。一機のみでは全員は救助出来ないので、かなりの南ベトナム兵がジャングルに残り、助けに来てくれたそうで、彼の息子を支えて安全な場所に移動して隠れたと言っていました。救助に来て、彼等に逆に助けられたと言っていましたが、アメリカ兵の軍事顧問の将校と南ベトナム軍兵士で彼の息子を守って、逃げて安全な場所まで逃れられたそうです、それはヘリが持ってきた弾薬と食料があったからと話して居ましたが、当時の南ベトナム兵が現在はアメリカに移住して来て、再会してその内の二名とサンノゼで会った様でした。息子はこのアパートに住んで居ると言っていましたが、戦場からの長い付き合いの固さを感じました。沢山のベトナム人の姿を見て、その中には昔、戦場で苦しい戦いをして来た人も居ることを感じて何か今の世界が、平和な将棋の盤での戦いで歓声を上げている世界を見ていると、不思議な感じがしました。


61・
私もこれまで南北アメリカ各地で生活して来ましたが、そこでは現地の色々な面白い話がありました。今日の話は神様が人間に与へられた本能の生命を維持すると言う、二ッの性と食の本能の話しです。これは人が教えて貰わなくとも、習わなくても生まれて直ぐに母親の乳房を吸うという本能的行動をしますが、性は年頃となって初めてホルモン的な刺激で行動を起すものですが、私が今でも聞いた時に驚いて、『ウワー!』と驚きの声を出した覚えが有ります。それは私が42年前にパラグワイに単身移住して、アルゼンチンから汽車でポサダに着き、渡し船でエンカルに着いた時でした。移住地から出て来ていた日本人達が何か話していましたので、何事かと聞き耳を立てていましたら、話し声が聞えて来ました。『パラグワイ人の12歳の女の子が双子を生んだ』と話していました。それを聞いて一瞬びっくりして『ほんとかね〜!』と耳を疑いましたが、どうやら中の一人は実際に見てきた様でした。そんな事で陽気の良い、亜熱帯では人間の成長するのが早いものかと思いました。しかし、その当時では、かなり早く結婚をする事は珍しいことでは有りませんでした。私がアルゼンチンのサルタ州で農場で仕事をしていた時、インジオの若夫婦が居ましたが、16歳と14歳の夫婦でした。結婚適齢期が16から19歳頃が若い女性では一番結婚する事が多いと聞きました。その年齢は原住民のインジオなどの結婚でした。普通はもっと平均が高いと感じましたが、白人のポーランド人で、14歳で子供を産んで誰も相手にしてくれなくて、その女性が22歳ぐらいの時に、独身の日本人男性でしたが、75歳は過ぎていたと思います、ミッショネス州の田舎町で長い事、雑貨店を開いていましたが、一度、心臓発作を起して、亡くなっても身寄りがないので財産を政府が持って行くだけと、親に話してその女性と結婚して一緒に住んで居るのを見ました。死んだら財産は全部その親子に譲ると話していました。そしたら一生涯生活には困らないと話して居ましたが、カトリック教の世界ですから、あちこちでそのような話を聞きました。しかし、私の友人はアルゼンチンで一度見たと話してくれましたが、若い女の堕胎する所を見たと話していました。まだ子供で親がその子供の将来を考えて金を使い堕胎させていたようでした。しばらくしてからもその時の子供の泣き声と叫び声を忘れられないと友人が話していました。パラグワイでも当時はかなりの女性が一人もので子供を抱えて生活しているのを見ました。現在もかなり多い様だと聞きましたが、当時、エンカルに開いていたペンション滝本というホテルで働いていたパラグワイ人の女中さんが二人とも妊娠して辞めて行ったと聞いた事が有ります。後で辞めた女性は私も泊まって知っていましたので驚いた事があります。若いドイツ系の血が混じるパラグワイ人でした。あちこちと歩いて、ブラジルの友人の家で泊まった時に聞いた話ですが、そこで仕事をしていた使用人の娘が14歳で結婚すると話して居た事を覚えています。ブラジルを旅行していた時、バス停でお腹の大きな子供としか見えない年齢の若い女性が、ジッと店に並べてある食べ物を見ていたので、話をすると、『田舎の実家に帰る所だーー』と聞きましたので、サンドイッチを買って食べさせた事があります、どんな事情か知りませんが美味しそうに食べる姿を見て、余分の食料を持たせてバスに乗せ、別れ際に窓から手を出して私の手を握り、『ムイト・オブリガードーー!』と笑顔でしたが、涙声で言ったのを忘れることは出来ません。昔の事ですが僅かな小銭を手に握らせた覚えが有ります。


62・
カリフォルニアも春の陽気となり、若葉が伸びて来ていますが、二月の終わり頃に良く遅霜が降りる事がありまして、油断は出来ません。先日もTVで今年の冬で一番の大霜が降りると予報していましたので、オレンジの実を全部収穫してしまいました。私が42年前にパラグワイからアルゼンチンのブエノス・アイレス州に出て来て、友人と160kmぐらい首都のブエノスから離れた町で蔬菜栽培を始めていた時です、チビリコイと言う田舎町でその町がイタリア人達の入植者で開かれ、建設されたのはまだ日が浅い1900年の頃で、当時やっと町の中央に有る公園に植えてあった並木が10cmぐらいの木に育っている頃でした。1964年で、公園の隣りの街角に建っていた銀行に警備の警察官が旧式なレバー・アクションの西部劇映画に出てくるライフルを構えて入り口に立っていた時代です。その町はペロン大統領の奥さんとなった、エバ・ペロン(エビ―タ)と呼ばれた彼女が幼年期に一時期過ごした町でも有ります。戦前の侘しい田舎町では鉄道が唯一の首都からの交通機関でしたが、私が住み始めた頃はバス交通が全盛を迎える時代でした。

その頃は牧畜産業が唯一の町の基幹産業で春先の小麦生産と合わせてトウモロコシや食料油生産に利用されるヒマワリ、大豆などの農業も盛んでした。雨が降るとカンポと言う牧場地帯からは、馬車のみが走って出て来れると言う状態でした。田舎道を馬一頭で引く馬車が、ぬかるみの道をゆっくりと歩いて来る様は牧歌的でした。わだちの跡がくっきりと残り、どこまでも田舎道にレールの様に残っていました。大抵はそのような馬車は牛乳の缶を沢山後ろの荷台に載せて、町外れの牛乳処理工場に運んでいました。そんな雨降り後に農作業が出来ずに、近くの小さな池がある所に狩猟に歩いて出掛けていました。すれ違った乗馬の人が四匹ぐらいのグレーハウンド種の足の長い犬を連れて歩いていました。アメリカではバスの有名な看板犬としてバスの両側を飾っています。何しろ犬の中で一番早く走る事が出来る犬です、ウサギ狩に使います。私は持参していた狩猟用の双眼鏡でジットその後を覗いていました。先頭の犬がウサギを発見すると、先ずその犬だけが全速で追跡します、他の三匹は後から付いて走り、遅れて乗馬でその犬達を追っていました。緊張した数分が過ぎ、先頭の犬が疲れて速力が落ちると、次ぎの犬が交替で全速でウサギを追跡しています、ウサギは休む事も出来ずに、広いパンパの草原をひたすら追跡され疲れはてて最後は三匹目の犬辺りに追い付かれて、それで終りでした。私も生まれて初めて見たグレーハウンド犬の狩猟でした。アルゼンチンのパンパ草原での狩猟と感じましたが、その頃はパンパの大草原も余り植林されていなくて、広々とした地平線までの広がりが望めました。今ではそのような事は望めませんが、二年前に訪ねた時に町の公園に植えられていた並木が一抱えもある大木に成長していたのには驚きました。そしてどこにも馬車などは走ってはいませんでした。


63・
先日から二泊三日でバケーションで家族で出かけていました。モントレーと言う日本人にも馴染みがある場所です。今日のお話はSalinasとMonterey、その他Carmelの町の歴史のお話です。近くにはサリーナスと言う町はノーベル文学賞を貰った文豪のスタインベック氏の出身地です、彼が書いた『エデンの東』や『怒りの葡萄』などの著作の原典となった農村地帯が連なり戦前から多くの日本人が蔬菜栽培をしていました。現在ではお花の栽培が盛んで、温室が全米での有数の中に入る農家も居ます、それからイチゴの生産は戦前から日本人が草分け的な存在で活躍していました。モントレーには戦時中は米軍の語学学校が開設されて日系二世達がそこで専門的な日本語を習い、南太平洋戦線で活躍しました。今でもその学校は有りまして、夕方の5時に微かにラッパの音が町中まで聞こえて来ます。モントレーの町は昔、海岸には缶詰工場が並んで居ました。それはモントレー湾一帯がイワシの魚場で西海岸では有数の漁獲を記録していたからでした。そこには沢山の日本人の漁師が仕事をしていました。それと、そこの缶詰工場で働く日本人も居たからです、一時は海岸でアワビの潜水収穫をしてかなりの大きな加工工場も開いて居た日本人も居ました。今では戦前の歴史として記念のメモリアルが残っているだけです。カメールの町はお金持ちの引退者が住んで居る所で有名です、特にマカロニ・ウエスタンで有名になったハリウッド・スターが市長となった事で全米で有名になりました。彼の名前は俳優と監督で.最近高く評価された作品は「ミリオン・ダラー・ベイビー」。作品賞はもちろん、 監督賞もクリント・イストウッド氏が受賞しています。その彼が市長をしていた町です。綺麗でこじんまりとした町で海岸の砂が特に細かく綺麗です。そん事で海鮮レストランが有名です、一度訪ねて下さい。イカと貝類が現在ではかなりの漁獲量を上げていますが、イワシは現在では少なくなったそうです。

64・
私が上京して、だいぶ落ちついて来てから、遊びに出たのは新宿でした。その頃はまだ書生の住み込みを始めては居ませんでしたので、小田急の経堂駅から歩いて10分ぐらいの民家の離れを、友人と借りて住んでいました。その頃はバンカラ学生で、学生服で、高下駄の半分ほどに減った、感じが下駄のサイズとなったのを履いて、冬は足袋をはいていました。田舎の福岡県大牟田でも、田舎カッペも良い所でしたので、それと炭坑町の『ぬしゃー!なんばいよっちょか〜!』と言う感じで、『ボカー!』と殴られていましたので、見掛けは『借りて来た猫』と言う感じでしたが、それそこ、カッぺー!のクソ度胸です。『やられたらやり返す』反骨精神が生まれ、鍛えられていました。小学校時代から廻りは炭住街で、近くの炭坑電車の線路で5寸クギを鉄道線路のレールの上に置いて、平たくして先の尖ったナイフを作り、ゲタの歯の下に隠していました。絶対に先公には見つかる事は有りませんでした。折りたたみの肥後守のナイフも、いつもポケットに入れていましたし、それも隠し場所は下駄の歯の間に隠していました。下駄の鼻緒の中は皮ひもを入れ、その緒は同じく皮ひもを使い、丈夫で頑丈な下駄でした。下駄の歯にはクギを入れて磨り減らない様にしてあり、また喧嘩などの時は、鼻緒を握り丈夫な武器となりました。左手で片方の下駄を構えて盾の役目をして、右手で下駄を上段に構えて、振り回すと、かなりの武器となります。そんな中学生、高校生の生活も経ての東京生活でしたからクソ度胸は持っていました。その頃はまだ東京オリンピックの前で、1964年8月のオリンピック開会式までにはと、それに合わせてどこでも工事中でした。新宿駅から歩いて歌舞伎町の映画街に行き、封切映画を見て、ラーメンでも食べて帰るのが楽しみでしたが、そんな田舎学生をカツ上げする、ヤーサンのチンピラが居て『顔を貸しナ』と暗がりに連れこまれて、金を巻き上げられていました。

私もアルバイトで稼いだ小金を懐に、喜んで夕方遅くなり最後の映画を見ようと歌舞伎町の近くを歩いていたら、いきなり『オイ学生ー!顔かしな〜!』とチンピラが肩で風を切って、顎で路地を示して、一人が路地の前で見張りに立ち、そこへチンピラに連れこまれました。しかし何と無防備に私の前を肩を怒らして歩いて居るでは有りませか、『馬鹿ジアーあるまいし!』と感じましたが、そこは田舎での経験が物を言う感じで、直ぐに下駄を脱ぎ、右手に握りまして、チンピラの後ろ頭を『パカーン!』と殴り、足袋裸足で走り戻りましたが、路地の入り口に見張りしていたチンピラが、飛び上がる様に驚いて、ヤラレタ兄貴分に駆けより、慌てて『このやろー!兄貴をやりやがったな〜!』と殴り掛かって来ました。『こいつも馬鹿ジアあるまいか〜!』と感じる程度で、手に持っていた下駄を顔めがけて投げつけると、それを手で避けると、小気持ち良い音でチンピラの顔の額に『ゴチンー!』と跳ね返り、相手は後ろにひっくり返りました。拾い上げた下駄でオマケニもう一度、相手の手をふんずけると、両手に下駄を持って足袋で韋駄天に走って逃げました。直ぐに表道に出て、人混みに入り、バス停に止まっていた都バスに飛び乗りまして、『ハイーさよなら!』と逃げましたが、都会と田舎とはかなり差があると感じました。田舎の炭坑町では私などは恐ろしくて、不良チンピラなどと言うと避けて歩いていましたが、都会では格好だけで肩怒からせている、チンピラが沢山居る事を知りましたが、その経験から田舎カッペ!の格好は止めるようにしました。カモになって喧嘩ばかりしなくてはならないと感じたからです。今では懐かしい思い出です。


65・
私が上京して勤労学生として、スタートしてから稼いだお金で買った最初の物は電気ガマでした。当時の3合炊きという小型の電気ガマでしたが、どんなに便利だったか助かりました。それと言うのも自炊を始めたばかりで焦げ、半煮え、ごっちんおこわなどと失敗が多くてこまっていました。電気ガマを買ってからはピッタリとそれが無くなり、随分と便利でいつも一度に3合を炊いて一日それを食べていました。少しばかり外食もしていましたが、毎食がかなりの経費となり、量も少なく18歳の食べ盛りでは、寂しい思いでしたから、自炊では腹一杯食べることが出来ますので自分で買物して、自炊する事は歓迎でした。直ぐに特売日などを覚えて、どこで安く買えるかなども覚えてしまいましてスーパーの惣菜屋で閉店間際に、夕食の惣菜物や特にメンチやコロッケ、天婦羅のかき揚などの残り物を学生だからと、また値引きして、おまけを付けてくれて、おかげで貧乏学生には助かりました。ソースもドバーと掛けてくれ、包みを開けたら直ぐに食べる事が出来ました。学校の授業が終ってから、近所に有った鉄鋼所で夜勤の仕事を見つけて、当時は景気が良くて、残業が多すぎて工員達が悲鳴を上げていた頃でしたので、夜の9時頃まで仕事が有り、夜食と風呂を貰って帰宅していました。そこの職人さんが溶接、旋盤、ボーリングの穴あけ、工具の使い方などを『おい〜!学生!もたもたするなーー!』と怒鳴りながら、親切に教えてくれ、特にヤスリ掛けの仕事などは万力に挟んだ物を丁寧に削る事を教えてくれました。おかげでこの年になっても覚えていますし、かなりの仕事も出来ます。夜もふけて十時頃に風呂も貰い、握り飯を口にしながら歩いて下宿まで帰ることは、やはり寂しい思いでした。田舎の自宅では母親がいつもお腹が満腹まで食べさしてくれ、食べると言う事は一度も心配などした事は有りませんでしたので、お袋の有り難さを感じていました。おかげで南米に移住してからも、自炊が出来ましたのでだいぶ役にたちましたから、今では懐かしく思い出します。書生の仕事さがして住み込みで働く様になるまでは、土曜、日曜も休まずに働いていました。色々なアルバイトをしてして、一番良かったのはやはり植木屋さんで、ここも色々な仕事を親方が手取り足取りで教えてくれ、ここでは職人さんが『おい〜!学生!もたもたするなーー!』と怒鳴っても、帰りはコップ酒を『飲め〜!』と言って勧めてくれ、『夕食を食べて帰れーー!』と、言ってくれました。色々な植木屋の仕事を覚えまして、今でもどんなにか役にたって庭仕事も出来ますし、私の今の仕事でも役に立っています。


66・
私の東京生活も直ぐに慣れまして、アルバイトと学生生活が成り立っていましたが、当時は東京オリンピック前で、かなり東京は活気が有り,古い町並みが壊されて、建て替えされていました。そんな中で新宿西口はまだかなりの終戦後からの、バラック建ての店が残っていました。一部は戦後の闇市を連想させる建物でした。今ではどこを見ても、西口からの展望は近代的な建物だけです、私も当時のバンカラ田舎カッペから、少し都会の水にも慣れて、それと不良チンピラとのトラブル防止の為に、スタイルも変えていました。それは都会風にジャンパーなどを着て、皮靴を履いていました。有る時、新宿西口から出て、中央線のガード下近くにあった鯨肉のカツを食べさしてくれる店が有り、良く通っていました。安くてボリューム一杯で九州の田舎で良く食べた鯨肉料理が懐かしかったからでした。改札口を出ると前に、中年の男性がカバンを小脇に抱えて、何か5時の疲れの影を背負っている感じで、歩いていました。その人はバラック街に入り、私の前を歩いていましたので、付いて行きました。その中は大抵は飲み屋街で、沢山の勤め帰りのサラリーマンが、焼き鳥屋の前でコップ酒などを飲んでいました。焼き鳥の匂いがたちこめ、どこと無く騒々しい感じで、その中で特に騒がしい店が有りました。その名は『軍隊酒場』という、酒場の入り口は帝国陸軍の二等兵の制服姿の衛兵が立ち、模擬小銃を構えて立っていました。当時は浅草や下町などにも沢山有りました。軍隊に出征した人が昔を思って軍歌などを組んで歌って賑やかな酒場でした。私の前を歩いていた中年の男性は酒場から軍歌が聞えてくると、今まで疲れた足取りがシャキンとなり、背筋を伸ばして、5時の暗い影もどこかに吹き飛んでいました。後ろから見ていると、少し頭が薄くなって、どこと無くサラリーマンの生活に疲れた感じが滲んでいましたが、軍隊酒場の前に居た少し若い男性がその方に走り寄ると『隊長殿ー!お待ち致しておりました』と言うと、カバンを取り先を案内する様に歩いていました。『軍曹もご苦労ー!』と声を返すとまるで先ほどとは全然、人が変わった様になり、入り口の衛兵が捧げ筒の構えをすると、軽く敬礼を返して、酒場に入って行きました。

当時の『軍隊酒場』の入り口は土嚢を積んで有り、まるで戦地の中での雰囲気を作り出してありました。その頃はまだ戦地からの復員兵が祖国日本に外地から戻り、やっと落ちついて、日本の復興がなされて居た時代で、当時の東京オリンピックをバネに日本と言う国が飛躍することを模索していた時代でした。私はその軍隊酒場の近くの焼き鳥屋に入り、梅割りのチュウハイを飲みながら眺めていました。中からは軍歌の『同期の桜』が声高く響き、外まで聞えていました。先ほど軍曹と呼ばれた男性は、まだ酒場の前で誰かを待っている様でした。そこに杖をついて足が不自由な感じの男性が来ると、酒場の中へ大声で『OOが来てくれたー!』と声を掛けると、6〜7名の人達が飛び出して来て、中の先ほど『隊長』と呼ばれた人が、抱き付く様に飛び付き、抱きかかえる様にして皆に囲まれて酒場に入って行きました。中には涙している人も居ました。感激の再会だったと感じます、私の若い頃の1960年始めの、ほんの一こまの記憶ですが深く心に残っています。その当時の方々は、すでの沢山の方がこの世から姿を消していますが、これを書いている時に、私が最初に移住した南米パラグワイの移住地で、うっそうと茂るジャングルを前に、焚き火の炎に照らされて、火酒のグラスを片手に軍歌を歌っていた人を覚えています。『ここはお国から何千里、遠く離れたパラグワイ』と歌詞は変えて歌
った居ましたが、何かジーンと来るものがあった事を覚えています。


67・
私がアメリカに来た30年も前の年でした。正月過ぎて家族がサンフランシスコに来ると言う計画で、すっかり準備して待っていました。早目に仕事をかたずけて、帰宅してガラーンとした静かな家で日本のワイフの郷里広島の田舎に電話して、一人大晦日を過ごす予定でいました。家族がこちらに来てから正月をやりなおす考えで、真夜中の零時の新年を待っていました。十分ぐらい前から花火が上がり、町全体が何か異様な騒音となった感じでした。2〜3分前には下の道を走る車が警笛を鳴らして、何か静かだった町が騒音で沸きあがる感じでした。零時と同時に、ポン〜!と大きな花火が上がり、それと同時にかなりの銃器の発射音が連続して聞えて来ました。

『ドドーー!』『パンパンーー!』と時々は『ドーン』と言うかなり強烈な音も有りました。それと同時に、裏のパテイオの広い窓に、『サラサラーー』『ピンピンーー!』と散弾の弾が当たる音がしています。一瞬、ぎょ〜!として、飲みかけていたビールをおいて、窓際から離れて外の様子を見ていました。誰か私がこの家を買って引っ越してきたのを歓迎している感じでした。『ドーン』と言う轟音が鳴り響くと、直ぐにパラパラと言う音が屋根や壁に響くのが分り、『こんちきしょう〜!やりやがったな!』と言う感じが心にむらむらと湧いて来ました。当時はまるで野放しの感じで、30年も前は銃器での祝砲がライフルや散弾銃、ピストルなど自動拳銃の連射音も聞えて、『すげー!やはりアメリカでは、やりあがるな〜!』と言う感じでした。

現在私がパソコンを叩いている窓の外では、そろそろ花火が上がり出しました。現在では静かです、それと言うのも法律で禁止されたからです。違反すると、拘留され、罰金と使った銃器類は没収となります、それから音響探査レーダーがピンポイントでの発射地点を割り出して、直ぐに警察のパトカーがすっ飛んで来ますから、逃げられません。そんな事で現在は午前零時の新年に実弾が飛んで来る事は有りません、しかし私は翌年には昔、南米での実戦の経験と、イヤと言うぐらい射撃はしましたので、それも農場の作物を守る為に、散弾銃を一日中撃ちまくる事は、肩が青く脹れるくらいになります。一番被害の多かったのはオレンジとピーマンでした。オレンジは中の果肉のジユースを突付いて食べます、ピーマンは10cmぐらいの大きな実で、中の種を食べますのでかなり大きな穴を開けるので売り物にはなりません。そんな事で経験豊富でしたので、だいたいの発射地点は覚えていましたので、次ぎの年の大晦日の午前零時には準備万端で用意していました。第二次大戦で使用された旧ドイツ陸軍の主力ライフルK98の8MM口径と、ガンショウーで買ってきた実弾が一山いくらと言う感じで買って来て有り、耳栓をして轟音を避ける用意もしていました。その時も同じくドカン!と始まり、なべ釜、フライパンなどを叩く音が近くのアパートなどからしてきましたが、それそれと!私もワイフがオロオロするのを尻目に撃ちました。『ドカーン!ドカーン!』と連続して弾倉に五発実包を装填していましたので、連射して最終の弾を撃ち終わり、ボルトを引いて空薬莢を排出しました音が、『ガシャーン』と言う音と同時に、下のコンクリートにピーンと音を立てて転がって行くのが分りました。しかしおかしい事に静かです!空薬莢が転がる音まで聞こえました。気がつくと近所のアパートもフライパンなどバンバン叩いていたのが聞えません。はてはてーー!と思っていたら、轟音の連続しての発射音で、たぶん近所ではあの日本人が気が狂ったかと思った様でした。後でワイフが話してくれたのでしたが一瞬、『ビシー!』と言う音の衝撃が窓に走ったと言っていました。銃口から火炎が30cmも吹き上がり肝を冷やしていた様でした。それもそのはずワイフなどは鉄砲の『テ』の字も知らなかったからでした。しかしその年は私の家には散弾銃の弾の雨が降ってくる事は有りませんでした。そして近所で私に歓迎してくれた住人もそれ以降はまったく静かになりました。それからしばらくして、近所が話してくれた事は・・・・『お前にはぶったまげた〜!』と言っていました。今の時刻は零時を少し回ったところです、もう静かです。シーンとして、新年の朝を迎えて居る様です。おやすみなさいーー!2006年が開けました。


68・
昔の子供の頃の正月を思い出すと、懐かしい思い出を感じます、その頃はまだ戦後という時代を引きずっている頃で、やっと物資が出てきた感じでしたが、欲しい物を買って貰えるのはやはり盆と正月でした。今では何でも好きなものを買えますが、その当時は庶民が望んで買えるのは夏と冬のボーナスが出た時でした。子供心にも嬉しくて今度は何を買ってもらえるか楽しみでした。それからしばらくして東京に出て来て一人で生活する様になってからは、今度は自分の生活に追われて自分が買いたい物は中々、買う事が出来ませんでした。18歳と三ヶ月の時に郷里の福岡県から上京して、勤労学生として仕事をしながら学校に通っていましたが、当時は東京オリンピック前でどこでも工事中でしたが、青山通りにはまだ都電が走って、屋根瓦の商店が残っていた時代でした。今では青山通りにはそんな家は一軒も残っては居ませんが、時々自転車で世田谷三丁目から赤阪見付け辺りまでサイクリングしていました。

日曜日の車が少ない朝の時間に、普通の自転車でえっちらおっちらとペタルを漕いで、渋谷の道玄坂は押して登っていました。随分あちこちと歩いた覚えが有ります、金がない学生ですからこれが一番の都内見物となりまして、直ぐに都内の地理もだいぶ覚えました。渋谷の高級住宅街では外国人のメイドが子守りしながら散歩していて、珍しく感じまして、声を掛けたらどこか東南アジアから来ていた若い女性でした。発音がまったく分らない英語で何と答えて良いか困りましたが、直ぐに仲良しになり、何かクッキーらしき物を貰った覚えが有ります。それから有名人の邸宅などに突然行き当たると『へー!凄い邸宅』と驚いていましたが、福岡から上京して来た田舎学生です。見た事もない外車の車が車庫に止めてある邸宅など初めて目にして、ぶったまげていました。それからしばらくして、アルバイト先を学生課から紹介されて植木屋の下働きで町の植木屋さんにアルバイトに正月前に手伝いに行きました。

これは金になるアルバイトで普通より2割は稼ぎが良い仕事先でした。それとお昼は必ず何かおソバかカツ丼などを取ってくれ、3時のお茶の時間などはかなりの豪華なケーキや御菓子が出ました。仕事が終ると下働きの学生にも必ずお捻りの僅かでしたがこずかいが貰えて、親方に付いて渋谷あたりから自転車で三茶辺りまで帰って来ました。雨が降りそうな時は息子がオート3輪で迎えに来てくれ、親方の家で親方の紋を染めた法被を脱いで着替えていました。法被を着ると学生でも見た目はいっぱしの職人となり、親方は一人前に手間賃を貰っていたようでした。我々学生はそこの親方の家で良く夕食をご馳走になり、お酒も相手させられ、当時20円ぐらいのコロッケやメンチカツなどで、ソースをドバー!とかけて、キャベツの千切りを付けて食べされてくれ、お腹もふくらみ、ほろ酔い機嫌で下宿に帰宅していました。薄暗くなった道を自転車で下宿まで帰る道すがら、流行歌など歌いながら走って帰るのが、親元から自立して生活する最初の一歩でした。

しかし生活費が高い東京では直ぐに追いつかなくなり、映画監督の住み込み書生として生活する様になりました。庭の手入れと犬の散歩、夜は必ず家に居る事で用心棒の役目も有りました。犬が三匹居ましたので夜中に吼えると見に行くぐらいで、合計して四年間ぐらい居た間に一度も何事も無く無事すごしました。夜は主人が映画監督の仕事と脚本書きで、かなりの大きな書庫が有りまして、毎日読書に励みました。脚本もかなり昔からの古い脚本が有り、それを絵コンテ付きで読むのが楽しみでした。そんな事で学生生活を過ごして、有意義な時間を持てたと思います。この続きも書いてみたいと思っています。


69・ 
だいぶ昔になります、私がアルゼンチンのサルタ州で農場支配人の仕事をしていた時期です、かれこれ41年ほど前になります。当時のアルゼンチンとボリビア国境は、ゲバラのゲリラ活動でかなりの緊張がありました。私が住んで居た河岸の対岸では農場の売店が襲われて、かなりの物資が盗まれたと聞きましたがその時、一人の農場関係者が後ろから1発撃たれましたが命は助かりました。そん事で田舎の余り人の行き来がない場所でしたので、用心していまして、銃器類もかなり揃えていました。雨が降ると道は泥土で、馬も人間もまして車などは走行困難でした。降ってから2日ぐらいすると馬や人間は歩いては町まで行けましたが、荷物などは少量しか町から持ち返る事が出来ずに、肉などは直ぐに貯蔵して居る冷蔵庫が灯油の貧弱な冷凍機能しかなくて腐りますので、僅かな量しか買って来れませんでした。

泊まり込みの現地人が仕事で居ますので、毎日の食事に肉は欠かせませんので、雨が降ると食べる肉も無くなり、山ハトを撃ちに行きました。かなりの肉がとれ、から揚げなどは美味しい料理でした。ある日、何も肉類が無くなり仕方なくライフルを持って山ハトを撃ちに出掛けると、ジャングルの中でオオムが片羽根を傷めて木の枝に止まっていました。物陰から見ていると、つがいの夫婦の様で、仲良く並んで一羽が羽根をくちばしでつくろっていました。少し垂れた羽根を癒す様にしてくちばしで優しく押し上げているのを見ていると、人間の夫婦のような感じがします。しばらく見ていて騒がせない様にして、他の場所に移動して、山ハトを食べる数を狩猟すると帰りにまた見に行きました。今度はなにか食べ物をくわえて来ていて、仲良く食べていました。夕方の灌漑用水の見回り時間にも見に行きましたが、集団で暮らすオオムとしてはめずらしく、つがいだけで仲良く寄り添って木陰の夜露が濡れない場所でジッと動きません、山猫などに襲われないように注意して見ましたが安全の様で安心しました。

翌日も同じ場所でつがいが居ました。子供がゴムのパチンコでオオムを打ち落とさない様に、当時仲良くしていた子供にキャンデーとこずかいをを渡して、見張りと子供の仲間達に注意させる様に頼みました。パチンコで使う玉は、粘土をパチンコ玉ぐらいに丸めて影干して固い弾になり、かなり威力が有りました。一度粘土で弾を作る所を見ましたが、粘土を鉛筆の様に細く長くして、それを1cmぐらいに切り取り、一度に沢山の粘土を軽く板に挟んでコロコロと廻して丸めます、簡単に丸い玉が出来ましてそれを並べて陰干ししていました。それを首から下げた袋に入れていまして、使っている様でした。忙しいので毎日は見に行けませんでしたが、夜になると子供が私に状況を知らせてくれましたので、その日の状態は知ることが出来ました。それから2日ばかりして、私が畑でトラックターで土起こしをして居たら、子供が走って来ましたので、何事かと聞くと『オオムが見えないので近所を捜したら、かなり離れた溜池の近くの木に仲良く止まっていた』と話して『直ぐに飛んで居なくなるから見に来い』と言ってくれました。私は仕事を中止して、エンジン止め子供と連れ立って見に行きました。溜池の柵の上で仲良く止まっていまして、水を飲んで居たようでした。オオムの片羽根は垂れていなく、元気な様子で安心しました。傷が治った様でこれから彼等の住家のある山まで帰ると思いました。それからしばらくは、毎朝早い時間、エサ場に集団で飛んで行くオオムの鳴声がすると、あの中に傷が治ったオオムが居ると思い見ていました。朝焼けの空に、まだ大陸性の冷え込みが激しい朝の冷気に鳴声を響かせて飛ぶ姿を今でも思い出します。


70・ 
ここカリフォルニアも雨が良く降る様になりました。今までは例年と比べて雨量は少ない様でしたが、ここ12月に入りかなり降る様になりました。今日は気温も低目で一日、コタツに入っていました。これは金曜日の午後遅くから崩れてきて、土曜日は朝から降り出して、とうとう日曜日も一日中、日本の梅雨時の様に大雨で、降ったりやんだりの天気でした。乾燥の激しい所に住んでみると分りますが、熱帯性気候でも乾燥地帯と高温多湿の熱帯雨林の場所が有ります。一度、私が旅行した所で飛行機から見たアマゾンのジャングルの凄さを見て、同乗していた2世のブラジル日系人に聞いたら、ここはアマゾンの上流でペルー国境に近い世界で一番雨量が多い所と話を聞きました。うっそうと茂る原始林の緑濃い、密生したジャングルを眼下に見た時に感じたのは、ここがあのアマゾン河の河口で、対岸が見えないくらいの川幅の大河水源として雨が降り注ぐ大地と、目を皿の様にして窓から眺めていましたが、その時写した写真を見ると、今でもその凄さを思い出します。

私が南米で農業をしていた時代は、まだ肥沃な開発可能な土地がかなり有りました。今ではそれも無くなり、過度の開発で環境の激変を憂いていいます。人間が自分達の生活の手段として開発して、自然を破壊している事の自覚も無く、ただ利益追求の手段として、利用されていると感じます。30年前にアマゾン河中流のマナオスからベレンに夜間飛行で飛んだ時に真っ暗な下界のジャングルの中が、鬼火が燃える様にチラチラと赤く瞬いていた事を覚えています、それが延々と続いていたことは、いかに多くのジャングルを焼き払っていたかと言う事です。それも食肉用に牧場を切り開く為に開墾されていたのです、ブラジルは現在では世界でも有数な食肉輸出国になっています。それと大豆生産の為に切り開かれ1500万トンの大豆生産が行なわれ輸出されています。中国はそのブラジル一国の全生産量を輸入しています。世界は変わりつつ有ります、それも激変の変わりを予測することが出来ます。

小さなパイを巨人が二人、世界の人口の半分を占めるインドと中国が食いちぎる勢いで伸びています。日本は人口減少とそれに自国の自給生産を28%以下に落とし、鉱物資源、石油資源の無さに加えて、穀物資源の先細りも見えて来ました。1960年には75%近くあった自給率が日本の産業の繁栄と正比例して落ちに落ち、下がりに下がった農業生産率を思い、食として日本人の生命維持機構を他国に任せて、活きなければならない政治と、その官僚が握る将来のプランを見て、日本のこれからの生きる源を憂い、悲しみ、悲観してばかりでは、これからは生きて行けません。牛肉の食肉として消費される日本国内の需要の20%近い数がアメリカ産です。これまで50年近くの日本の農業の歴史を見て憂いだけが湧いて来ます、50年近い昔ですが、その当時でも農業をすると言うだけで、変わり者扱いを受け、軽蔑された覚えが有ります。私が百姓をしている言うだけで『ゲラゲラ』と笑い出した友人も居ます。『お前は彼女も恋人もつくれないぞ』と忠告してくれた人も居ます。私が一番感じ、心に今でも思うのは、その様な思考をする人間を育てた教育、家庭、社会環境に激しい、いきどうりを感じます。これからの世界で日本が生き残るのは、また生き残れるのは科学者を育てることも大切ですが、土に命を賭けて生きる人間、その報いがある社会を作らないと日本と言う国が滅んでしまうと感じるこの頃です。


71・ 
私がアメリカに来てからの隣人で、大変にお世話になったジグと言う名前の友達が亡くなりました。彼は今年でちょうど87歳でしたが、今年の始め頃からはかなり衰弱していました。夏に一度、倒れてからはますます酷くなっていた様でした。先日近所の病院でひっそりと亡くなりましたが、子供が居なくて少し寂しいお別れでした。彼の話しは前に書きましたがそれを載せて、その後の様子を今日は書いてみたいと思います。

以下は前回のお話です
私がアメリカに移住して来て、一番初めに住んだ所の家の前に、第二次大戦で日本軍の捕虜となり、終戦まで八幡製鉄の工場で働かされた、私が「ジグ」と呼んでいる87歳になる老人が居ますが、彼は一切そんな差別のそぶりはしません、親切で何もアメリカ生活を知らない、私達家族を助けてくれました。日本海軍が真珠湾を攻撃した日、彼が乗船した居た潜水艦は湾外に出ていて、損害は免れたそうですが、攻撃後しばらくして湾に帰航すると、黒煙と火災で大混乱の最中だったそうです、それから二ヶ月ほどして真珠湾から、南下する日本軍の輸送船団を攻撃しに出撃して行ったと話してくれました。オーストラリアのシドニーからインド洋に出て、最後のオーストラリアのどこかの港で補給をすると、ヒリッピン近海で作戦行動をしていて、日本の二隻の輸送船を撃沈して、次ぎの目標を探して航海していた時にゼロ戦の襲撃を受けて急速潜航をしたが、爆弾を投下されて、その爆弾の被害で、彼が居たソナーの船室の天井の鉄板は30センチぐらい凹んだそうですが、水漏れはするが沈没は免れて、電気も消えて衝撃で破壊された蓄電池の動力も動かず、有毒ガスも発生してやっと非常灯だけの灯りでソナーの探知をしていたそうですが、かなりの時間が経った時に遠くで、駆逐艦のスクリューウの音が探知されて、動けない海底に鎮座している潜水艦などは、爆雷で直ぐに破壊されてしまう事は間違いないので、船長に報告すると直ぐに最後の動力のジイゼルエンジンを動かして浮上して、日本軍に降伏したと話していました。その後、日本の八幡製鉄所近くの捕虜収容所に送られて、そこで製鉄所の仕事をさせられていたと言う事です、冬は寒くて火鉢しかなく、お腹が空いて悲しかったと話していました。辛い事が沢山有ったそうですが、親切な通訳が居て色々な事を助けてくれたと話していましたが、だいぶ昔に黄色く変色した、ざら紙のノートに書いた住所を見せてくれ、この人のおかげで生き延びたと言っていました。

八幡製鉄所に三年半も居て、終戦の日に天皇の降伏のラジオ放送が有って、それからは仕事もしないで収容所に居たそうですが、翌日に沖縄から飛来した飛行機が無線機と医薬品を投下して連絡が取れて沖縄の基地と収容所を結ぶ無線連絡が定期的に取れ、直ぐに輸送機がパラシュートで沢山の食料や医療品を投下してきて、余りの正確な投下で収容所の屋根に沢山の荷物が落下して来て、危うく命の危険を感じたそうです、空中で荷物が分解して、缶詰めなどがバラバラと落ちて来て、負傷者も出たと話してくれました。その夜、収容所の便所は長い列が出来ていたそうです、突然の大量の食事と高蛋白のコンビーフなど肉類の接収で、皆が下痢を起していたそうで慣れるのに、かなりの時間が掛かったと言っていました。沖縄からの指令でアメリカ軍が進駐して来るまで、そこに滞在して待っている様に命令されたそうですが、横浜にはその頃にはアメリカ軍の先発隊が来ていて、その情報をラジオでキャッチすると、持てるだけの食料とタバコを持って仲間三人と、製鉄所で支給された国民服を着たまま、東京行きの列車に乗車して小倉駅を出発したと言っていました。広島あたりまではデッキにぶら下がって居たそうで、それ以降は座れたと話してくれました、食べ物は沢山のタバコと、缶詰めを持っていたので、どうしてもお腹の調子が悪くて、おにぎりと缶詰を交換してそれから良くなってきたそうで、タバコがお金の役をして、何でも交換出来た様です、ミカンもお芋も食べたと言っていました。途中から乗車して来た将校が腰に差していた軍刀を土産に上げると言ってくれたが、断ると窓を開けて捨ててしまったそうです、そして降りる時に英語で「これからは両国民は仲良くしよう!」と言うと敬礼してホームに消えて行ったと言っていましたが、横浜駅が近くなって駅にアメリカ兵が警備で立っているのを見て、あの感激は忘れられないと話していました、直ぐに横浜駅に到着して、ホームに出て、警備のアメリカ兵を探して、三人で大声でわめきながら抱き付いて行ったら兵隊が仰天して、薄汚れた国民服を着たアメリカ兵など見た事もなかった様で、カービン銃を付きつけて「俺にちかずくなーーー!」と怒鳴っていたそうです、でも直ぐに気が付いて、泣きじゃくる三人を連れて、ジープで基地まで運んでくれたと話してくれました。

彼は戦争とは国と国が起したもの、一人の人間同士は同じ人間だと言って、私の家族に親切にしてくれました。「私も親切な日本人の助けがなければ、命を永らえる事は出来なかつた、偏見や人種差別はその人の生まれた生活環境や教育で決まると思う、しかし憎しみや憎悪を偏見や差別の心で育ててしまう人も沢山居る様だがーー」と話していました。私はアメリカに来て、一番感謝して、ありがたく思ったのは良き人に巡り会った事と思います、彼がパールハーバーデーの日に掲げる星条旗は、日本軍の真珠湾攻撃で戦死した仲間と、捕虜時代に病気で亡くなった潜水艦の乗組員の霊を慰める為です、しかし彼も歳を取り、アルツハイマーの進行でそれもしなくなり、いっも窓際に座ってTVを見ています、私が訪ねると必ず手を振ってくれ、そして「Hello〜!」と声を掛けてくれます。終り、

今日はその続です。彼は横浜にしばらく滞在して健康診断などを受けて、厚木基地からグワムまでは輸送機で飛んで、そこから輸送船でカリフォルニアの南に在る、サンデイエゴの軍港まで行き、そこで解散となり、捕虜時代の労賃として一日、一ドルの報酬をアメリカ政府より日本政府が支払うべき賃金を代わりに貰い、軍隊時代の給料と合わせてかなりの、当時としてはまとまった金額を掴んで、オハイオ州の実家に帰宅したそうです。しかし、そこでは一週間も居ると、死んだような静かな田舎の生活に耐えられず、ロサンゼルスに出て昔の仲間と楽しく、懐の豊かなお金に任して酒と女でしばらくは遊びほうけていたと話していました。その金も尽きると、当時、兄が住んで居たサンフランシスコ郊外に移り住み、タクシーの運転手をしていたが、日本での捕虜時代に八幡製鉄での経歴が買われて、直ぐにアメリカ鉄鋼の製鉄所に勤務を始めて、62歳で引退するまでそこで仕事をしていました。

引退してからは、狩猟クラブに参加して、クラブハウスを作り良く狩猟と魚釣に行っていました。平凡で静かな生活を楽しんでいました。アメリカの典型的な引退後の生活を過ごしていまして、毎週に綺麗に刈り込まれる前庭の芝生を手入れして、裏庭にはバラのお花を植えて自分の子供のように猟犬を可愛がり、私の三人の子供達も色々と世話をしてくれました。一度彼とTVで記録映画のフイルムを見ていたら、戦時中にトラック諸島で沈没した日本海軍の潜水艦の引き揚げ記録を見ていて、引き揚げられた潜水艦から遺骨が収拾され、家族がその骨を積み上げて荼毘にする場面を見ていた彼がメガネを外して、泣きながら見ていた事を覚えています。そして『自分もあと僅かに爆弾が炸裂するのが早かったら、あの様にして、死んでいただろう・・』と涙だながらに話してくれました。その彼もサンフランシスコ湾の39番桟橋に係留されている同じ第二次大戦で活躍した潜水艦を訪れた時に、暗い非常灯の下で、同じソナー探査装置の机の前でジッとたたずんで動かなかったのを思い出します。彼の任務がソナーの係だったからです。それは戦後初めてでそれが最後でした。潜水艦から下りて、桟橋で艦が全部見渡せる場所に来ると、はためく星条旗に背筋を伸ばして敬礼すると、後も振り返る事無く歩き去りました。その彼も今度は彼の昔の仲間が待っている天国に旅立ちました。


72・ 
早くも12月に入り、秋深しの感じとなりましたが、すっかり冬篭りと言う感じで、葉が落ちた木にリスの巣がポツンと剥き出しになって見えています。来春の3月までは剥き出しになったままで風に吹かれて居る様です。今日の話しは私が経験したヘビの話です、蛇が好きな方は余り居ないと思いますが、私は苦手なくちで、どうも好きにはなれません、私が子供の頃は農薬の集団散布もまだなかった時代はカエルが沢山いまして、またヘビも沢山住んでいたと思います。それと言うのも良くザリガニを採りに行って、カエルが蛇にくわえられて、『ギー!』と悲鳴をあげているのを何度も見ましたが、シマヘビが多かった様でした。蓮根を植えてある池に行くと池の中を蛇が、スイースイーと身体をくねらせて泳いでいるのを見て、その泳ぎの早さに驚いていました。

しかし農薬の集団散布がおこなわれる様になってからは余り見なくなりました。それと言うのもカエルが極端に少なくなったからです、田んぼの中に沢山のカエル達がお腹を白くむき出して沢山死んでいました。どこも一斉に散布をしますので逃げ場が無くなった様です、オタマジャクシの子供も見られ無くなり、それにつれてヘビが急に少なくなった感じがしました。あれほど夏の夜長を『ゲロゲロ』と大合唱をしていたカエル達が居なくなるとすぐに、多くの小動物も居なくなりました。昔の農薬散布前はかなりの、マムシという毒蛇も居ましたが、それも見なくなりました。子供の頃にマムシを見ると震え上がって逃げていましたが、大きな三角の頭とずんぐりとした胴体がいかにも凶悪な感じがして、子供でもすぐに見分けがつき皆でそろって『それ!出た!』と叫んで注意して走って逃げたのを覚えています。

近所に有った屑屋さんに良く遊びに行っていましたが、そこには田舎の農家を廻って廃品や紙屑などをリヤカーで集めて来る人が戦後まだ沢山いた時代でした。その様な人が田舎で買ってくるマムシの乾燥干物を日に乾してありました。必ずマムシと分る様に頭が付いていて鋭い毒牙も有りましたので、ぶら下げて乾してあるマムシを見て、気持ちが悪い感じがしていましたが、それを3本ばかり焼酎に漬けて有る物を、マムシ酒と言って飲んでいる人がいて、それにも子供心に恐ろしく感じていました。秋も深まり丁度今ごろでしたが、正月前の漬物用半生干し大根を、屑屋さんがリヤカーに沢山載せ廃品や紙くずなどの代わりに田舎から運んで来ていました。時には干し柿を串に刺した物を沢山載せてきていましたが、もち米なども注文しておくとすぐに配達してくれていました。のどかな田舎の風景でしたが、子供心に夏の季節に田舎から生きたマムシを袋に入れて持ってきて、コンロで岡ウナギと言って調理して食べていた人からは富裕柿をあげるからと言われても、中々手を出して貰うことが出来なかった思い出が有ります。焼酎を片手に一日仕事を終ってコンロの廻りでコップ酒を飲んで話していた人達が、時にはスルメを焼いたりメザシの串刺しを火にあぶって、沢庵を切り、白菜の漬物をお鉢に山の様に盛って肴としていた、なっかしい場面を思い出します。


73・ 
今日のお話もヘビが出てきます、それと言うのもこの話は思い出すと今でも冷やりとして、心臓がドキドキする時が有るからです。確かにあの時ぐらいヘビで緊張して、生アセを垂らしてぞー!っと心冷やした思いは初めてでした。それはアルゼンチン奥地での農場で仕事をしていた頃でした。水掛の作業で水路を流している農業灌漑用水の流れを見て廻っていた時でした。河岸から最終時点までは約2kmは有りかなり複雑な水路の流れを、農場の高低に合わせて流していたからでした。一人で犬も付けずに歩いていました。しばらく歩いて畑が切れ藪も有る所に来て、歩き出した時でした。突然にガラガラヘビの尻尾の鈴が一番の危険信号の『ビーー!』と言う連続の乾いた音を真近に聞いたからでした。『しゃら!しゃら!』と言う音は警戒信号ではCクラスであまり接近はしていませんので、噛まれる事は有りませんでした。しかし、今日の『ビーー!』と言う音は聞いただけでキモを潰す音です、幸いにニッカズボンの様に、鳶職がはいて居るようなズボンをはいていましたし、靴は半長靴で一応はヘビに注意して用心をしていました。だぶだぶのズボンは噛まれてもヘビは当たった瞬間を噛みますのでズボンがだぶだぶのすそが広がったズボンでしたら、当たった瞬間を噛まれてもズボンの布地を噛む事が大きくて、大事には到りませんので安心でした。それにしても音が全ての私の筋肉を硬直させ、身が凍るとはその事と思いました。

私はインジオから教えられていた様に、ジッと動きを止めて、ピタリともしないで足元を探して、見回りましたが、なんと40cmぐらいの近所の足元で鳴らしていました。しかし見るとすでに誰かが、棒かなにかで骨が折れるくらい叩いていましたので、飛びつかれなかったのでした。見つけると、私はゆっくりと腰に挿していた拳銃を引き抜き、ヘビ撃ち用の散弾が装填されている事を確認すると、確実に狙い定めて頭を撃ち飛ばしていました。瞬間、私の足がガクガクして来ました。それと言うのもかなりの大きさで、毒牙の凄さを目の前に見てびっくりしていました。どうしてインジオが生半可で殺すとはと考えていました。しかし、助かりました。畑の奥で仕事をしていたインジオに聞くと、理由は簡単でした。叩いた棒が折れてそれ以上は出来なかったそうです。二度叩いたそうですが三度目に叩いた時に折れ、廻りに手頃な棒がなく、ヘビも動かなかったのでそのままにしておいたと話てくれましたので、ひとまず安心でした。その時ぐらい犬を飼っていないと、とんだ事になると感じました。近所の友人は利口な犬を持っていたので、ヘビなどはすぐに見つけ出して殺していました。ぐるぐるとヘビのまわりを廻り、そのすばやい行動と機敏な動作で瞬時に飛びついて噛み殺していました。くわえると物凄い速さで地面に犬の首を振って叩き付けていまして、時間にしたら、一分も掛からない早業でした。犬も良く知っていて毒蛇は必ず首根を噛んでいましたが、毒が無いと胴の真中あたりをくわえて、気持ち良い音を立てて『パンパン!』と軽い音を響かせて地面に何度も叩き付け、犬も得意になって、人間に見せ付けていました。そのあとしばらくはガラガラヘビの鈴の音を聞くと、思い出してはジト―!と冷や汗を流していたのを覚えています。


74・ 
今日は晴れて暖かい日でした。感謝祭のお休みで里帰りしていた娘も帰りまして、急に静かになりましたが、この素晴らしい天気に私の有機栽培をしていた家庭菜園のかたずけをしました。5月から収穫を始めて、長い期間沢山の野菜を食べて余った物は多くの近所や知り合いに配りまして、喜んでもらいました。今日も最後のトマトをかたずけていたら、トマトの茂みから青いトマトが沢山採れまして、保存して赤くなったら食べる様にしています。これで例年同じ様にクリスマスまで食べる事が出来ます。今日の思い出話しは、かれこれ41年前となりますがアルゼンチンの郊外で体験した初めての、大陸内陸部の嵐のすさまじい様子を書く事にします。私がパラグワイを出て、ブエノス・アイレスの郊外で知合いとトマト栽培を始めた頃です、苗を植えてその支柱を立てる為に、パンパス草原の中に整然と作られた牧場の中に支柱となる竹を切りに行っていた時でした。だいぶ変わりやすい天気で、朝早く現場に行ってかなり切り出して居た時でした。急に風が出て来て雲行きが怪しくなり、暗く空が雲で覆われて、微かに遠くで雷鳴が聞えて、地平線は空との境が分らない様にどす黒く、まるで墨を塗りたくった様に真っ暗となりました。風はますます強くなり、牧場の防風林のユーカリの木々が音を立てて唸って、小枝が風で飛び散っているのが分り少し心細くなってきました。そのにパラパラと雹も降り出して、牧場の干草を囲ってあるトタン屋根の小屋が『カンカンーー!』と乾いた音を立てて、まるで危険信号の様に鳴り、かなり遠くまで聞えていました。その時です、多くの牧場の牛が列を作り急いでユーカリの日陰を作る小さな林の中に集まり出しました。ボスと見られる牛が吼える様に鳴いています。その時雷鳴が近くで鳴り、火柱が近所のユーカリの頂上で炸裂する様に光ると、あとは『キ―ン!』と耳が鳴る感じで、ズドーンと衝撃が直に身体に感じました。その時は私もナタや山刀などは遠くに放り出して、防風林の中に避難していました。50センチは直径があるかと思う大きな木でその根元に座って、嵐が過ぎるのをジッと待っていました。

列を作って牛達が集まり、日陰樹の林はまるで牛の群れの塊が押合い、圧し合いして居る感じでしたが、ちゃんと統制が取れ、真中は子牛達が居て、外側は親牛が全部尻を外に向けて見事に空きもなく丸く並んでいます。びっしりと隙間なく、まるで装甲車が並んでいる感じがしました。突然真っ暗くなった空から、かなりの大きさの雹が落ち始め、パンパの草原の草が少し白く見える感じに染まりました。私は初めての体験で少し身体に震えが来て、膝がガクガクしていました。『えらいこっちゃ〜!』とこれでは迎えに来るトラックもいつの事やらと、シュ―ン!と落ちこんでいました。遠くに見える牧場主の水揚げポンプ用風車が物凄い速さで廻っていますが、連結は外してあるのかポンプは止まっている様でした。いつもはゆっくりと風車が『カターン、カターン』と軽い音を響かせて水を汲み上げていましたが、今日はまるで恐ろしいような感じで廻っていました。その時、地平線からまるで渦巻きが涌き出る感じで竜巻が突然に現れ天と地がその竜巻で繋がって居る感じで、どす黒い雲が凄い早さで雪崩を打つ様に流れています。時々その真っ黒い雲の中に雷鳴が飛び散り、『ズシーン』と言う音が伝わって来る感じがしました。

その頃は『なむあみだぶつ!』などと口で唱えていました。威勢の良かったお兄さんがまるで、震えながらユーカリの木にしがみ付いている感じで、まるで恥じも外聞も無く、ひたすら嵐が過ぎるのを祈っていました。なんと自然の偉大さ、すさまじさ、強烈さに、ただただ恐れ入っていました。おそらく近くで『ドーン!』と落雷でもあり、樹上の木が『バリバリ〜』などと音を立てていたら、これまさに、おしっこでも漏らす事になったと感じていました。その頃は喉はカラカラ、緊張で膀胱が破裂しそうになっても、出るものも出ない状態で、少しショック状態でいました。生まれて初めての体験で一人で来た事がますます悔やまれました。誰かと来ていたら、少しは心強い感じだったと思いましたが、時はすでに嵐の真っ最中で、あるのは口の中で、もごもごとつぶやく『なむあみだぶつ!』のみで、生きた心地がしませんでした。そうしている内に遠くで雲が切れ、少しどす黒い雲がちぎれて行き、僅かですが空が見え雷鳴もダンダンと遠くに鳴る様に聞えまして、どうやら峠を越した感じがしました。近くの牛達の群れも、何か鳴き声が変わり、落ちついて来た感じがします。
私もホッとして、心の緊張が取れ少し安心したのか、さっきまで堪えていた物が急に緊急信号をだして来ました。しがみついていたユーカリの木根に、それこそ『ジョー!』と激しい音を立てて出す物を出してしまいました。やれやれと言う感じが心から湧いて来て、ホッとした気分も出て来ました。その時に地平線のかなたに光りが輝き、七色の虹が出て居るのを見付けて、その神々しい輝きに何か神秘な感じを受けた思いがします。
自然の雄大さ、凄さ、神々しさ、神秘さを今でも忘れることは出来ません。


75・ 
今日はアメリカでは感謝祭のイブで、先ほど娘も帰宅して愛犬も付いて来て、急に賑やかになりました。犬はチワワの小型犬ですから部屋で遊んでいますが、いっもの犬の玩具も沢山私の家に置いて有りますので、それを引っ張り出して来て、まるで子供の様に遊んでいますので、孫が来たみたいです。ワイフも明日の感謝祭の用意で今年も七面鳥(ターキー)とハニーベイクのハムを買って来てありますが一番小さな塊と言っても、ターキーが約5キロぐらいあり、ハムが2キロ半ぐらいです、それが一番小さなサイズとは驚きです。家族の多い人は10キロも有るターキーを焼くと言う事ですから大変です、かなりの時間が掛ります。まるで日本の正月と言う感じです。ご馳走を作り家族全員が集まり、一日かけて飲み、食べ、大いに語り合います、大抵は一週間はお休みする人が居ます。当地の正月は元旦の一日のみお休みで、2日からは普通の仕事となります。ですから感謝祭は米国の正月の感じがします、今日の水曜日だけで1100万の人が交機関を利用して家族のもとに帰省すると言う事ですからまさに日本の正月の里帰りと言う感じがします。

これまでアメリカに来て30年も同じ感じで、感謝祭を祝って来ましたが、それぞれの年で感謝祭を祝ったテーブルでの育ち行く子供達の様子を思い出します。今年の感謝祭は次男が不在となり12月29日にインドから帰宅したら、正月を次男を入れて家族全員で祝う予定で居ます。明日は午後から長男も帰宅する事になっていますので、テーブルを飾り祝う事にしています。今日、午後の高速道路もガラガラに空いていて、明日の木曜日の感謝祭を家族で祝うために皆が早めに帰宅した様です、今夜は少しゆっくりして、明日の用意もする予定でいます。長い30年でしたが、今、思うとアッと言う感じの時間でした。その年、その年でテーブルを飾るご馳走も少しは変わりますが、我が家ではターキーとハムは必ず出す事にしています。飲み物はワインとビールが私の家では必ず出す飲み物となっています、28年も前に、私が仕事をしていた集合住宅に住んで居たイタリア人の老人が、私が修理などを手助けしていたお礼に、1977年物のワインを感謝祭で飲みなさいとプレゼントしてくれましたが、今だに戸棚にしまいこんでいます、私が引退する時に開け様と思って居ますが、かなり高級品です、彼のイタリア故郷の一番美味しいワインと話していましたが、余り温度管理もして居ない戸棚ですから中身は保障は有りません、誰かが『それでは中身はお酢になっているか、腐っているよ〜!』と脅かしてくれましたが、飲むと言うより記念品でプレゼントしてくれた、仲良しだった老人も今ではこの世に居なく、思い出の品として飾りに戸棚に入れています。そのワインの瓶を見るたびに、彼がバスで降りて来て、手提げカバンからパンや故郷のチーズやワインなど、色々なイタリアからの輸入品を見せて、説明してくれた穏やかな語り口を思い出します、エチオピア遠征に行ったと話していたのを覚えていますが、アフリカで暑い砂漠を小銃を肩に行軍して水に苦労したと話して、その時飲んだイタリアのミネラル水の瓶がこれだと、袋からわざわざ出して見せてくれた記憶が有ります。そして、彼が28年も前に家族で感謝祭を祝うと言って、献立を丹念に教えてくれた事を、今では懐かしい思い出として覚えています。


76・ 
私も運転を始めてからかなりの年月になります、あるとあらゆる車を運転しました。しかし運転で根気と体力と集中力の一番多く要るのはトラックの長距離運転です、アルゼンチンで農業をしていた時代に良く、ブエノス・アイレスまで野菜の荷物満載で走りました。約12トンは積載していますので、当時の北のボリビアまで行く道路はかなり酷い舗装と一部は、ジャリ道のデコボコ道で40キロぐらいしか最大スピードを出せない所も有りました。野菜の生鮮食料品を運びますので、なにぶんスピードを要求され大型トラックでも当時のトレラー型の連結して走るトラックは積載量はかなり有りますが、途中のスピードはかなり遅くなりますので、敬遠されていました。荷台一つのトラックはかなりスピードを出して走りますので、時間の競争では三日間近く走る長距離走行では最終的には5時間から、半日ぐらいの時間的差が出てしまいます。鮮度は落ち、ブエノスの競りの時間に間に合わないと次ぎの日の市場の競りに廻されて、値段もグッと下がりますので、運行時間短縮は重要でした。特にナスなどは時間が遅れると、しぼんで張りの有るナスの光沢が無くなり、まったく売れない時が有りました。それで途中で収穫を中止して畑で捨ててしまった時も有りました。オレンジやバナナなどは日保ちがしてそれに合わせて収穫しますので安心でしたが、トマトはいつも時間との戦いで、収穫する時はトマトの真中が少し赤くなった時に収穫します、それから三日して、ブエノスの市場で競りに掛けられる時に全体的に赤く熟れているのが最高の値段が出るので、同じ一年間の労働として働く報酬がタイミングが合わないと、一瞬で半分の値段しかなら無い時がありました。

私が農業をしていた農場はブエノスから丁度、1658Kmの標識が町の入り口に有りましたので、そこから12Kmぐらいジャングルに入った所の河岸で生産していました。かなりの距離を走る事になります、荷物満載で走り始めるタイミングはかなり重要ですから、時には満載にならなくても走り始める時が有りました。特にブエノスなどでトマトなどが品薄で値段が高騰した時は少なくても値段がカバーして採算が合いますので飛ばして行きました。二人で交替で運転して行きます、夜は昔のトラックですからラジオだけで、それも短波ラジオがない長波のローカルしか聞えないラジオでしたので夜になると雑音だけでジー!と言う音しか聞こえなくて切っていました。途中のジャングル地帯を抜ける時までは、道に夜タカの鳥が道路で轢かれた動物などの死骸を目当てに居るのには最初は恐ろしくて、道路の黒いアスファルトの中がランランと輝いているのでドキリとしてブレーキを踏んだ事が何度かありました。日本では夜タカと言うのは昔から道端で、通行人を目当てに春を引く女性の意味でしたがアルゼンチンの奥地のジャングル地帯では本当の鳥でした。夜も飛べる鳥はフクロウと夜タカだけではないかと思います。最初はヘッドライトに飛ぶ影を見て、コウモリかと思っていたらなんと夜タカでした。真夜中の擦れ違うトラックや車も無い道で道路の真中で光輝く点が有ればそれは夜タカに間違い無い光でしたが、慣れるまでは気持ちが悪くて、不気味な感じがしていました。相棒の運転手は後ろのベッドに寝ていて、一人ハンドルを握る寂しい時間帯に、真夜中の暗黒の夜に吸い込まれる恐怖が有りました。

ジャングルの木陰の闇にチラチラと輝く光があると木の枝と混じり合い揺れている錯覚を覚えて何か人魂の光かと感じて、心臓が『ドキドキーー!』と高鳴り、グッとツバを飲みこんで息を凝らして走る抜けた覚えが有ります。その時は近くで、交通事故で亡くなった人の十字架が立てて有り、その思いが心に有りまして、ポツン!と夜中の運転で心侘しかったかもしれません、サンチャーゴエステーロの砂漠地帯では真夜中に滅多に擦れ違うトラックも無い時間帯にヘッドライトを見つけると嬉しくて、何度もかなり前からライトを点滅して、窓を開けスピードを落して、轟音の中に大声で挨拶して擦れ違う嬉しさは、眠気も吹き飛ぶ感じでいつも楽しみでした。時々休憩所などで再開して握手して、情報交換などをして走っていましたが、アメリカの高速道路で18輪の超大型トラックの風圧を感じる重量感を自分の車に感じて走る時代の変遷が、私の思い出が過去に過ぎ去って行く感じがします。時にはトレラーが三両も連結して貨物列車のごとく走る姿を見るとなおさらです。


77・ 
私も外国生活が長くなりましたが、食べる物は日本食です、こればかりは変える事は出来ません。日本に帰国してサンフランシスコの我が家に帰宅すると、ホットして安らぎを感じます。ここが我が家と感じ、日本ではお客様と言う感じで、もう安住の土地とは思わなくなりました。ワイフとの二人の墓も造り、産まれてすぐに早産で死んだ我が子が今はそこで眠っています。一月に一度訪ねていくのが決まりです、カリフォルニアの青空の下で、いつか私もこの土地に骨を埋める覚悟での生活ですが、こと食生活だけはいかに長く住んでも、変える事は有りません。自己の本能としてDNAに焼きついた記憶は、死ぬまで変わることはないと感じます。私が40年前にアルゼンチンのブエノスの町で知合った日系二世が、彼はそこで生まれて育ったのですがステーキとサラダそしてパンの食事でしたが、最後に冷蔵庫から御飯を出してくると、私にも勧めて茶碗に御飯を入れて、熱い日本茶をかけると漬物と佃煮を出して、『お茶漬けだよー!』と言って食べさせてくれました。こればかりは親の遺伝だからと言って笑っていましたが、戦前の移住者は両親が完全な日本食で子供を育てた人が多くて、食事にこと関しては、『日本食でなくては一日もダメだー!』と何度も聞いた事が有ります。私の近所に住んでいるハワイからのご主人は三世、奥さんは二世の方ですが食事は日本食で生活しています、私が作る有機栽培の日本のキューリなどをあげると喜んで漬物やキユーリもみをして、シソの葉を入れて喜んで食べているのを知っています。日本人が稲作民族としての長い民族的生活が体の遺伝子まで染みついて、その事をそう簡単には変えることは出来ないと感じます。アメリカに50年前に白人と結婚してながきに住み付いている日本人のご婦人が、やはりご主人が不在の時や、友達と外で外食の時は必ず日本食を選び、食べていると話していましたが、日本食を口に入れるという、心やすらかになる行為が、今ままでカリフォルニアに住んで、色々なことを我慢できた一番の大きな要因だったと聞いた事が有ります。

私が南米に移住して、田舎のボリビア国境の辺ぴな田舎町で農業をしていて、時々思い出して食べたくなる物は、味噌汁と沢庵。熱い天ぷらソバでした。味噌汁と沢庵は難しいことではなく材料さえ手に入れば食べる事は簡単でしたが、天ぷらソバと言うのは、そばつゆの出汁の効いたあの香りと、しゃきしゃきと歯ごたえの有る、カラリと揚がった天ぷらのエビがなくては食べた気になれません、時々思い出しては祖国日本で食べたソバを思い出し、少しホームシックに掛っていました。いつか日本に帰国したら特大の天ぷらそばを食べたいと思っていました。私が日本に帰国してその願望が実現した時は、大盛りで、上に載せる天ぷらは二人前と特別注文で、出てきたソバを見て感激したのを覚えています、天ぷらはソバの上に載りきれず、一人前は別に盛りつけて有りました。私はその時は、お茶碗に一杯の御飯をもらい、心ゆくまで食べました。今でもその時の満足感を覚えています。幸せな感じで全てを忘れて、むさぼる様に食べた満足感は人生の幸せとも通じるものが有ると心感じました。


78・ 
私もカリフォルニアに30年もながきに住んで、色々な方に出会いました。アメリカには145カ国からの移民が住んでいると言うことで、まさに人種のルツボと言う感じです。つい先日もアパートの管理に来ていたら、そこを下見に来たかなりの年齢のご婦人でしたが、案内してから少し話すと驚いた事に、ロシア革命で満州に両親が逃げて、そこで育ち日本に渡り東京に住んで、戦後日本に進駐して来たアメリカ兵と結婚して、当地アメリカの土を踏んで、住みついてしまったと話していました。ロシア語、日本語、英語の三カ国を上手に話して、これまで歩いて来た人生の道程を知ることが出来ました。私が仕事で出会った人で忘れられない人が居ます。レントハウスの修理の立会いで管理している貸家に行った時でした。エアコンのユニットの交換で助手と来て仕事をしていました。あらかた終り助手はランチを食べに出て、そのまま次ぎの仕事に行くと言って居なくなり、主人は配線などの取り付けと、点検をしていましたが、ランチの時間となり裏庭で一緒にランチを食べ始めました。彼はかなりの年配で、お互いに同じ年格好でしたので、仲良く話し始めました。彼は第二次大戦中は海兵隊で、南太平洋諸島を転戦したと話してくれ、彼がどうしても忘れる事が出来ない話しを、お前が日本人だからと言って話してくれました。

彼は戦争が激しくなり徴兵で海兵隊に入隊する事になり、カリフォルニアの当時、日本人が沢山農業で住んで居たスタクトンの町に居住していた様でした。学校では日本人がクラスに沢山居たと言っていましたが、戦争が始まっても急には日本人を憎む事などは出来なかったそうです、徴兵の検査も合格していよいよ入隊する日に、前の日に壮行会を開いてくれて、賑やかなパーテイで夜を明かしたと言っていました。当日両親が戸口で見送りサクラメントの集合場所に行く時に両親から『必ず生きて帰って来い』とせん別の言葉を貰い、涙ぐんでいたら母親がハンカチを取り出して、『さあ!これを持って行きなさい』と手に握らせてくれたそうです。入隊して訓練を受けて戦地に出陣する時に、母親から貰ったハンカチを真鍮製のタバコ入れに小さく折りたたんで入れ、中には家族の写真も二枚入れていたと言っていました。密閉出来るタバコ入れは薄くて頑丈で汗にも汚れず、シャツの胸ポケットに入れてもかさばらず、時々蓋を開けると、母親の香水の香りに混じり懐かしい、いつもつけていた化粧のほのかな香りがして、匂ったと話していました。タバコは吸わなかったのですが、タバコ入れは必ず肌身離さず持ち歩いていたと言っていました。

戦場でタバコ入れを開ける時は、心和む安らかな時間と感じていた様です。ある日、戦場の陣地で日本軍の襲撃を受けて、激しい戦いの後、爆風に飛ばされて陣地の塹壕の中で倒れて居た様でした。彼は気が付くと近くに同じ様に日本兵が倒れ、虫の息で横たわった居た様です、彼のすぐ側で若い日本人兵士の最後を見詰めていたと言っていました。若い日本兵は乾いた唇を動かして血だらけの胸で、荒い呼吸をしていたと言っていましたが、彼が見詰めていると、同じスタクトンの学校に居た日本人学友とそっくりで、哀れと空しさと、心が詰まって涙が滲んだと話してくれました。横たわる日本兵の胸も動かなくなり、ただ微かに唇が動き水を欲しがっている感じで、彼は腰の水筒から飲まそうとすると全てこぼれ落ち、彼はタバコ入れからハンカチを出して水に浸して口に含ませたと言っていました。すると微かな香水と化粧の香りが硝煙の匂いを吹き飛ばす感じで倒れている塹壕の中に広がり、今まで微かに唇を動かしていた若い日本兵が聞き取れないような声で『お・か・あ・ーーさん!』とつぶやいたそうです、彼もその日本語の意味は知っていたので見ていると、今まで死んだ様にしていた若い日本兵が微かに両手を動かして彼の手を掴み、閉じられたまぶたが微かに開いて、もう一度、今度ははっきりと聞える声で『おかあさん〜! おかあさん〜!』と二度もつぶやき、力を入れて彼の手を握り、ハンカチを唇に噛んで微かな笑顔で彼の手の中で息が絶えたと話してくれました。彼はそこまで話すと食べ掛けのサンドイッチをランチボックスに戻し、紙ナプキンを出して目頭を押さえていました。彼は別れの時に私の手を握り、握手して、『戦争など、人間はどうして起こすのだろう、ただ人の殺し合いをするだけなのに、むなしい事だ、私はあの瞬間から反戦主義者となった』と話してくれました。


79・ 
私がアメリカに住み始めてかれこれ30年となります、南米にいた時は独身で気楽なものでしたが、カリフォルニアに居をかまえて家族をやしない、子供の教育をして生活をする事は習慣や言葉の不自由も有りましたが、気候は良く、子供達がのびのびと成長するのが一番の楽しみでした。日本にはない自由な教育です、型にはまり込ませるやり方ではなく、その子の個性や長所を伸ばす教育にアメリカの精神を感じました。自分で自己を主張して、意見を述べる事をしないと学校のクラスでも取り残される感じがする様です、三人の子供達もスピーチのクラスで話し、自分の意見を皆の前で話す事を学び、仲間の友人やクラスの生徒の前で存在感をアッピールして個性を身に付けて、育て、自分の成長につれて自分の心と自己精神年齢をも育てて訓練している感じが私には受けていました。私自身の日本での学校教育での体験が、そう判断させたのかも知れません、生きるという事が、日本とアメリカでの違いとなる大きな差がそこで出てくると感じました。日本では同じ型にはまり、同じ流行を追い、格好までが一目で観光に来た日本人を見分けられる感じがします。それはしかたがない事ですが、そのような目で見ること自体がアメリカに長く住んで、対象物を見る目が変わったからと感じます。私も今では日本に行くと違和感を感じる時が有ります、生活に実感として入り込む色々な事から感じます。私がこれまで沢山の海外で居住する日本人を見て来て、住む国でまた人の考えの価値判断が変わり、その対象とする見方が変わる事に戸惑う事があります、日本では『ところ変われば、品変わる、』ということわざで、住む所が変わると、住む人もそれに合わせて変化すると感じましたが、それも日本語を話す人と話さない人で、また大きな差があると感じます。私の子供達も兄弟同士では話す言葉は英語で、親を含めた家族同士では日本語と言う変化が有ります、これも一つは生活からくる変化と感じます。今までじっと多くの日本人の生活を見て来ましたが、中には戦前の日本人で70年近くも、アメリカに住んで、今日本に住んで居る日本人以上の大和魂を持つ一世の日本人を見ると、何か偉大な感じがします。彼等が『今の日本人はおかしな言葉を話して、ヨ〜!と長く言葉尻を伸ばすのには驚いた』と話していた事を聞いて、私も笑ったことがありますが、これが現実の差だと感じました。時代は刻々と変化して変わります、私もそれに負けずに追いついていかなければならない事と感じています。


80・ 
私が仕事をしていたアルゼンチンとボリビア国境の農場は、かなり暑い所でした。かれこれ今年で41年前になります、当時はクラーなどは数えるほどしか個人では所持していません、特に私が住んでいたエンバルカションの町は貧しい田舎町でした。車で通過するのに5分もかかる事は有りませんでした。北回帰線から100キロは内に入っていたので、夏はかなり暑さが厳しい所でしたので、午後一時過ぎると農閑期などは死んだ様
に昼寝をしていました。トラックも余り通過する事なく、昼間は小さな町がゴースト・タウンの感じがしていました。今でも思い出します、町の中を通過する、ボリビアに上る国道が車一つ通過する事なく静まり返り、昼寝の時間で商店も店を閉め未舗装のジャリ道が風に吹かれて埃が舞い、どこか西部劇の映画に出てくる感じの町並みと一致して、どこと無く国境の町という感じでした。商店は夕方涼しくなって開き、夜の9時過ぎまで開いていました。涼しくなると、どこからか人が出て来て少し賑やかな感じとなり、バーも開いて冷たいビールも飲むことが出来ました。私が季節的に農閑期も過ぎ、そろそろ人手が要ると感じていた時です、町の鉄道駅の近くのレストラン兼バーという感じの店の前テーブルで座って、生ハムのサンドイッチとビールを飲んでいました。その時、近くの木の下で数人のボリビアから来た出稼ぎの労務者が、仕事を探している様でした。肩に担いだ毛布に、自分の全ての財産のわずかな持ち物をまとめて入れていますのでまるで職探しのサインをしている感じでした。その中の若い一人が、遠慮がちに近寄ってくると、『仕事が欲しいのですが、何か仕事は有りませんか』と聞いてきました。真面目そうな若い青年です、『トマトの栽培だが経験はあるのか、』と聞きました。『請負で生育の管理もした事がある』と答えたので、いくつかの質問にも全部答えて、かなり経験がありそうな感じでしたから、農場に連れて帰ることにしました。植付けの準備を始めていましたので、即戦力のある経験者を優遇していました。

しばらく待たせることになるので、サンドイッチとビールを買ってやり、街角に駐車しているトラックで待つ様に指示してその夜、農場に連れて帰りましたが、翌日から良く仕事をしてくれて、自分から進んで仕事をしてくれ、すぐにかなりの広さのトマト畑の管理を請け負うことにさせました。良く仕事をすればかなりの
収入になります、私は良いボリビア人の労務者を雇ったと感じていましたが、彼の生活ぶりは爪に火を灯すと言う感じで、節約して金を貯めていましたので、感心して見ていました。労務者の小屋で自炊をして、酒やタバコは一切手を出す事なく、休みの日は河で魚釣して、ナマズなどは干物にしていました。ボリビアの労務者が良くコカの葉を噛んで居ますが、彼はその様なことに手を出す事なく、何しろひたすらに稼いだ金を貯めていましたので、何か訳があると感じていました。私が町に肥料を取りに行った時に、トラックの荷降ろしの助士として連れて行き、帰りのトラックの中で、何気なく聞きました。すると、『母親が病気でその手術の費用がかかるので、頑張っている』と話してくれました。急いで稼いで帰らないと、手術に間に合わないと話してくれ、その真剣な口ぶりが、今でも忘れることは出来ません。彼は良く仕事をしてくれ、若いながらトマト管理の責任者としても良いと感じていました。ある日、彼の知合いが農場を訪ねて来て、母親の様態が急変してすぐに帰郷する様に知らせを持って来ました。彼は私のことろに来ると、今までの労賃を精算してくれる様に頼みましたので、途中で襲われて金を強奪されない様に高額紙幣にして靴の中に隠す様にして、わずかな金額を古いぶよぶよの小額紙幣にして見せ金にしてやりました。過去に幾度も強盗に襲われて身包み盗られた、ボリビアからの労務者を知っていたからでした。翌朝、町に出かける用事で、彼も連れて乗せて駅まで行きましたがしかし、ボリビアまで行く列車の3等は夜は危険で私も駅に行き、これまで彼がよく仕事をしてくれたお返しに2等の切符を買ってやり、いくらかの食料も持たせました。彼は何度も感謝して、私の手を握り、彼が暇な時に作った竹笛をプレゼントしてくれました。私が欲しかった物で、私も貰い物のナイフでしたが、細身の握りが鹿の角で出来た折りたたみの大型ナイフをプレゼントしました。ベルトに差していても目立たないナイフでした。その日はあまりボリビアに上る汽車は込んではいませんでしたが、3等はいつも出稼ぎの労務者が溢れ、木のベンチは固くて長旅には辛い乗車となると思いました。彼は2等車両の窓から顔を出して見えなくなるまで手を振っていましたが、彼と別れてしばらくして、町の郵便局の私書箱に手紙が来ていました。彼の手紙で『汽車がボリビア領内に入った所で、列車の夜の便所に出た所を、デッキで強盗に襲われて、用心にナイフの刃を開いてズボンのベルトに差していたので、それを振り回して助かった』と書いて有り、母親も手術をして今は様態も快方に向かっていると便りに知らせが有りました。私は駅の近くの行き付けの、レストラン兼バーのテーブルで読みながら、人生の僅かな時間にめぐり会いい、別れて行った男の平凡な当時の成り行きを思い、『袖すり合うのも多少の縁』で人生の奇遇さを感じていました。


81・ 
私が子供の頃でした。九州の福岡県に住んで居ましたが、炭坑町で、その頃はだいぶ賑やかに栄えていました。近所に南方から復員して来た、若い青年がいましたが、未婚で独身の気楽くさから、よく子供達の世話をして草野球の監督などをしてくれました。本業はプロの競輪の選手でしたが、競技大会が無い時はいつも子供を集めて、近所の小学校の校庭で草野球の試合を監督して終ってからは、色々な野球の話しや、戦場での体験を聞かせてくれました。ニユーギニア戦線で戦って、最後は餓死寸前で生き残り帰国が出来たと話してくれました。当時は小学生の低学年でしたが戦災で校舎が焼けて、二部授業でしたので、午後から学校に行く事もありました。特に私の住んで居た炭坑町は景気が良くて、沢山の人が仕事で町に来ていましたのでその頃は、子供が溢れるくらい学校のクラスで勉強していまして、大変に賑やかな時代でした。二部授業でしたが、1クラスが55名ぐらいも居た事を覚えています、ですから草野球などは、選手がいくらでも居ました。監督をしていた青年が、しばらく姿を見せなくてどうしているかと心配していたら、ひょっこりと来て、草野球が終ってから『僕は三男だから、結婚してお嫁さんの家族と同伴でブラジルに移住する事になった。』と話してくれました。『それまでは草野球の監督は続けるから』と話して面倒を見てくれ、楽しい試合をする事が出来ました。しかし、いよいよブラジルに移住して、神戸から移民船での出航が決まった時に、練習試合が終ってから、焼きイモと今川焼を買ってくれ、ラムネを飲みながら子供達に話してくれた物語が有ります。それはニユーギニア戦線で撤退して海岸までくる時に、あと僅かな距離まで来た時には、すべての食料は尽き、食べる物は雑草と僅かな熱帯果樹だけで、やっとジャングルを歩いていたと言う事でした。小部隊を率いていた隊長がマラリアと負傷していた足が化膿して、一歩も歩けなくなった時に下士官の軍曹を呼んで『俺はもう余り生きられないから、死んだら俺の軍刀で遺体を切り、お前達が胃の中に入れて日本まで持ち返ってくれ』と命令をして、軍曹に軍刀を渡して、『良いかーー!これは隊長の命令だ誰も拒むことはならぬ、お前達は生きろ!生きて日本に帰るのだ、そして、あの小高い丘を超えれば、おそらくは海岸にたどり着けるからーー!』と言うと『この中で誰か生きて日本に帰国したら俺の家族に会って最後を話してくれ、そして、俺の墓を造ってくれ』と言うと、それからしばらくして息を引き取ったと言うことです、軍曹は命令を実行して、僅かに生き残っている兵隊に飯盒二つ分を食料として、後は丁寧に埋葬していつの日か遺骨を探せる様に石をのせ、最後の丘を越えて海岸にたどり着いたと言うことです。彼はその最後を話して居る時は泣いていましたが、なぜブラジルに移住する前に、子供達にその事を話したかは、当時はまったく分りませんでした。しかし成人して色々な
本も読んで、ニユーギニアの戦時情勢も分り、彼が子供達に残した悲惨な戦場の物語を理解することが出来ました。今ではその話しを聞いていて良かったと感じます。またその事を話すのには、どのくらいの勇気が要ったかと今では感じます。戦争の悲惨さと無残さを、これからの子供に話しておこうと考えた彼の心に今では感謝しています。


82・ 
私のつれずれなる裏話し〜!私が起床するのは6時です。毎朝同じ時間にベルが鳴ります。今は日が昇るのは7時20分頃ですから真っ暗で、ワイフとずるずると寝ています。夏は6時には飛び起きて、畑仕事ですが、私の有機野菜も殆どが終りで、仕事も有りませんから寝ている事になります。やっと明るくなると起き出して来て、朝食となりますが、豆乳とトースト1枚、あとはフルーツとなります。それが終ると、現在は8時に仕事に出ます、終って帰宅するのは大抵は5時頃です、土、日はお休みしています。昔は土曜日もフルで仕事をしていましたが、なにせ歳を取りだいぶ仕事を減らしました。ランチはサンドイッチと玄米パンにジャムを挟んだ二つを持って行きます、飲み物はグレープフルーツジユースの酸っぱいものです。スナックはドライフルーツのプラムを5個ばかりとニンジンとセロリーを切ったもの少々です。これを一年中飽きもせず繰返していますが、飽きもせず食べています。帰宅すると、しばらくはパソコンの前でインターネット新聞を20分ぐらい読んでいます、夏はその前に畑の手入れと収穫の仕事を1時間ほどするのが日課となっています。夕食はだいたい6時半ごろからで、衛星TVの録画を見ながらワイフと仲良く1時間ほど食べていますが、その後日系新聞を2社と英語の地方紙を1社全部で3部読んでそれから、『やるぞー!』との大声の掛け声と共に、片手に湯呑みの大型になみなみと注いだお茶を持って、書斎に入ります。先ずはメールの返事と、送られてきたメルマガなどを見て、飽きもせず杉野先生の紀行文を先ず打ち始めます。それが終るのがだいたい9時半ごろまでは終らせます、それからは乱れ打ちで、なんでも手当たりしだいに資料を探して打ちまくり研究、調査などのレポートをまとめていますが、時々はお茶を居間に飲みに行きます。気分転換に時々はチャットなどで子供をからかって遊んでいます。本が来た時や、何か資料が手に入った時は、それを読んでいます。気が付くとだいたい11時近い時間でワイフの一声で、『11時よ〜!』これが終りの合図です。『良く書くわね〜!』とワイフ殿がのたまわく、誉め言葉か、けなしか分りませんが、『ハイハイ〜!』と答えて二階の寝室に行き、そこで一日の終りですが、週末はそれから先に歯を磨いて、パジャマを階下の洗面所でパジャマに着替えて、懐中電燈を手にやれやれと眠くなり、そーっと寝室に行きまして、ベッドにもぐり込むと、ワイフの足が『スー』と来ます、絡むかと思いきや、『ボカ〜!』と蹴飛ばされ『何時と思うの〜!』の一声で、『しゅーン!』として寝につくのが決まりとなっています。『老いぼれて夢はパンパを駆け巡り』の一句でグーっと寝付きます。はいーー、そう言うことで今日も一日が終りました。 あははーー!


83・ 
私がだいぶ前に、かれこれ25年ほどなります。契約管理していたアメリカで言う、コンデミニアムの集合住宅で仕事をしていた時でした。そこの集合住宅管理は依託されていましたので殆ど毎日の様に見回りに来て仕事をしていまして、よく内部の住人達の事情も分る様になっていました。誰か近所の金持ちがかなり投資で買って、レントハウスとして貸し出している家もありました。私はどのユニットがレントハウスかも覚えて、仕事をしていましたがある時、東洋人の女性が若い白人の男と入居して生活をはじめた事を知り、興味が有りましたので注意していました。それからしばらくして、集合住宅の前にあるバス停に若い東洋人の15〜6歳の女性が降りてきました。近くで仕事をしていた私に住所を書いた紙を見せて、場所を聞きましたので指差して教えました。私は一瞬、あの東洋人の女性の家とすぐに感じました。しばらくしてプールハウスの清掃を見ての帰りに、先ほどの彼女が、とぼとぼと歩いてバス停に戻る所でした。何か落ち込んでいる感じで、容貌は日系人の感じがしますが、髪が少しちじれ毛で黒人の容貌も有り、しかし何かおとなしい感じの女性でした。入り口のカギを貸して下さい』と訪ねて来ました。私は入り口のカギを貸すと、しばらくして彼女が戻って来て、『ママは居なかったーー!』と話すと今度は日本語で『日本人ですか?』と聞いてきました。彼女は少し話せると言っていましたが、カタコトの日本語でした。バスは昼間は一時間に一台ぐらいしか通っていません、私もすぐにランチタイムですので、仕事の手を休めて話していましたが、彼女が話す事は、私の幸せな家族の事を考えると少し悲しくなる感じでした。彼女は『ママを訪ねてきたけれど、私には会おうともしない、今は白人の世界に住んでいて、わたしが訪ねて行くと迷惑な感じをする』と言うと下を向いて唇を噛んでいました。離婚して、ママは家を出ていったそうですが、どの様ないきさつで子供を母親が捨てたかは計り知れない事ですが、彼女の目に何か、ひかるものが見えたときに、私には心に感じる何かが有りました。

そこの集合住宅は私が知っているだけで殆どが、白人で占められていまして、廻りは高級住宅が連なる古い住宅街でした。公民権運動が始まる前は、その地域の家を売る時は『黒人やアジア人種には売却してはならない』と仲介業者に一筆入れさせていたと言う地域でした。それだけ廻りが白人社会で固まっていたからでした。高級住宅地で一画が500坪の大きな敷地です、昔はそれ以下の敷地では建築許可が出なかったと言う所で、それなりに格式がある地域でした。彼女はバス停のベンチに座っていますが、バスは先ほど通り過ぎていましたので、かなり待つ事になると感じまして、『ランチは食べた〜?』と聞きましたら、彼女は正直に『お金が無いーー!』と答えました。どこまで帰るのか聞いたら、『バスと電車で一時間半は掛る』と心許して答えてくれました。すぐ近くに高校が有りますから、近くには沢山の軽食の店があり、コーヒーショップも有りました。近くに止めていた私のトラックで、ハンバーガーとソーダーを買うと、その暖かい包みを持ってバス停に戻ると、近くのプールハウスのベンチで食べる様に進め『一時間はバスは来ないから安心して食べて』と言って包みを渡しました。彼女は昔、子供の頃に日本の横浜に住んでいた時に会った親戚のおじさんと似ていると話してくれなした。彼女は私と話す事で、母親と会えなかった事も忘れて、ランチのハンバーガーを口にして、元気を取り戻していました。私が感じたことは『心の空腹も満たす事が出来れば』と感じた事でした。人は皆、両親に愛され、いとおしまれて育てられ、心豊かに育つと言う事は、たとえ貧しくてもその子供の人格形勢に多きな影響を与えると、その時に心に感じました。彼女がバス停からバスに乗り込む時に明るい声で、『おじさん〜!アリガトウーー!』と元気な声で別れたのが印象的でした。その後、母親がすぐに引っ越して行ったので、その女性にはそのあと二度と会う事は有りませんでした。


84・ 
私の息子達が30分ぐらいの所に有ります、UCバークレー校に通っていた頃です、15年ぐらい前です。バークレー校の近くは1960年台にヒッピー族の発祥地ですが、近所にはロフトと言う感じのアトリエや、得体の知れないバンドの溜まり場が有って、路上でもかなりの、これまた得体の知れない人が、店を歩道で開いていました。中にはかなりの腕が有る芸術家と感じる作品を展示して、即売している人もいました。有る時、用事が有って次男が当時、学生寮のマネージャーをしていましたのでそこを訪ねたら、食料の買出しでしばらく帰ってこないと言う事で、近所をブラブラと散歩に出ました。次男がマネージャーの仕事を取ったのは、もちろん選挙で選ばれたのですが、マネージャーは寮費が無料と言う特典があるからでした。しかし、かなり雑用があり大変な感じでした。ブラブラと歩いて下に降りて行き、賑やかな通りに出て太鼓の音が聞こえて来ましたので、見に行きましたら、黒人の若い青年がアフリカ太鼓の乾いた音をだして、リズミカルな踊りの伴奏をしていましたので、見ると、それまた若い東洋人の女性があらわな服装で、はだしのまま、何か得体の知れない踊りをおどり、腰をくねらせていましたので、これは面白いと見ていました。しかし、太鼓のリズムをとる黒人の青年はビシ〜!と決まって中々上手い打ち方で、4個ぐらいの大小の太鼓を打ち鳴らして、見ていても、聞いていても楽しい感じでした。しかし踊っている女性は何か場違いな感じがして、どうもピーンと来ません、それと言うのも、まさに胴長短足でステップの感覚が『ドテ〜!ドテ〜!』と相撲の四股を踏む感じがして、笑いがみ上げてきました。ご本人は得意満面で踊っています、しかし観客はチラリと横目で見て通る人だけです。私の気のせいか、笑って居るような人も居ます。きっと笑いを我慢して横を通過していると感じました。しばらく見ていて、日本語で『あ〜!これを両親が見たら、驚き、桃の木、サンショの木だなーー!』とつぶやいたら、途端に、その東洋人の女性が『ギー!』という感じで、私をねらみ付けて、凄い形相です。私も『ギョ〜!』と感じました。しかし、そんな事で引っ込むジジイでは有りません、意地悪爺さんですから、知らん振りして、『よせばいいのに、無理をして踊らなくてもーー!』と言った途端に、『要らんおせっかい〜!』と彼女が怒鳴りました。はははーー!やはり日本人でした。踊っている前に置いてある籠は空で、誰もお金は投げては居ませんでした。黒人の青年は盛んに威勢良く叩いていますので、かなりお腹も減ると感じまして、『お兄ちゃんや〜!あんたは上手いなーーハンバーガーでも、これで食べてーー!』と大枚10ドルをポンとカゴに入れました。もちろん日本語で言いました。驚いたことに大阪弁で『ほんまカイな〜!10ドルもーー!アリガトさん』と来ました。これには私も、まいりまして驚きました。そんな事で、時間潰しが楽しい時間となり、ますますバークレーの町が好きになりました。それにしても雑多な人種の町です。その時に、近くのエチオピア料理のレストランで食べた料理の味が今でも忘れません。雑穀の粟で作った料理でした。


85・ 
私がカリフォルニアに来て、そろそろ30年となります、早いもので、アッと言う感じです。来たばかりの頃です、隣りの市にローズモアという、引退者のかなり大きな町が有ります。55歳以上しか入居出来ません、どちらか夫婦の一人が55歳以上であれば許可になると聞いていました。最初にそこの近くを通過した時に、やたら年寄りの運転手が多いと感心していました。それと30年前です、ぎょ〜!とする、超大型のキャデラックが、それも1950年台の重量が2トン半もあるような、鉄の塊と言う感じで、バンパーも鋼鉄の、クロームメッキのビカビカと言う感じで、走っているのを見て驚きました。そして、また、ぎょ〜!としたのは、小柄なかなり歳のおばさんが、赤いドレスに赤い飾り帽子をチョコン!とかぶり、横には真っ白いプードルを乗せて走っていました。おばさんはハンドルにしがみついている感じでしたが、プードルは悠然と、私のトラックを見下げていました。冷房の効いた車内は快適らしく、お犬様がうらやましい感じでした。何せ〜!引退者ホームと言っても金持ちしか入居出来ません、中にはハーバードクラブとか、スタンフォードクラブとかが有る様な所で、毎月の管理費だけでも、安い引退者アパートぐらいの家賃です、ゴルフ場、テニスコート、水泳プールなど何でも揃い中は豪華な分譲の家は軽く億となります、中には古いコンデミニアムの形式で、2ベッドぐらいの部屋も有ると言う話です。私が一度、そこの入り口前の道路を走っていた時に、旧式な古き良き時代の超大型車が、まさにゆっくりと走っていました。追い越し禁止ですから、金魚のうんこで、仕方なく後ろを付いて走っていたら信号が近くになると、ブレーキをチョン!チョン!と踏んで減速です、こちらはイライラで、カチーン〜!と来ていました。私はまだその頃は中年の元気な時です。心の中で『もたもたするんじゃね〜!』と怒鳴っていました。すると、それが通じたのか、信号まじかでビユー!とスピードを上げると、あれよあれよで、排気音をグァ〜!と吹かして黄色の信号を突破して行きました。なんで信号前でスピードを落し、黄色では突き切りかと腹が立ちましたが、やっと追いついて追い越しが出来る車線に来て、横に並んで見たら、ぎょ〜!とするような感じの老夫妻が仲良く、アイスクリームを食べながら運転していました。アー!ここはアメリカだと、つくずく感じました。日本ではあんな歳寄りは運転はしないから、ふと感じていました。私の知合いのレデイーは今でも、リンカーンの6500CCのV8の大型エンジンの車で、84歳ですが、時速140kmでロスアンゼルスまで現在も飛ばして行きます。運転が大好きと話しています、五号線をフッとばす気分は堪えられないとか!、84歳ですぞ!。当地からでは450マイル(720km)は有ります。なにせ運転が出来ないと、買物にも困る社会ですから、しかしローズモアは近くの病院廻りや、買物コースのバスも走っていますし、門から出て1km以内には沢山のシニヤのケアホームが関連してあり、入院設備が整った老人専門の病院も有ります。中のコンデミニアム形式のアパートは、一日、ランチと夕食の2回食事が出る施設が有ります。私の友人は『天国の待合室』と陰口を叩きますが、日本にはない大規模引退者施設には感心します。私も歳になり、今では慣れて何とも感じませんが、でもローズモアの近所を走る時はいつも注意しています。いつ何時に時代物の超大型車で、『ドシーン!』とやられかねないからですーー!わたしの小型トラックなどは、ひとたまりもありませんからね〜!


86・ 
私がカリフォルニアに来て、すぐに日系人が集まって開いている、小さな信用組合に加入しました。お互いに相互援助の役目も果して、多くの日系人達が事業を起こし、運転資金を借り、家を買う頭金を借りる事が出来ました。当時、第2次大戦が終り、アメリカ政府が家族一人あたり20ドルの金額で強制収容所を退去する様に命令しましたので、当時の日系人達は、手元の現金が無くて、銀行にローンを借りる事も出来ずに、自分達で信用組合を作り、自分達の金融を始めたのでした。私も一時、役員となりまして、月末や年度末は良く事務の手伝いに夜、仕事が終ってから出掛けていました。休憩の時間にお茶を飲みながら、良く若い私に色々な戦前の話しや、戦争中のヨーロッパ戦線の激しい戦闘の話しを聞かしてくれました。当時かなりの年配の人でしたが、私が日本から来て、年齢的に一番若かったので、良く話しを聞かしてくれましたので、色々な話しを現在も覚えています。その方が話してくれた、戦闘場面の思い出は今でも良く覚えています、とても忘れる事は出来ません。印象が深かったと思います。ドイツ領に入りドイツ軍の抵抗が激しくなり、トラックで前線を移動中に、前方でドイツ軍が陣地を築いて進撃してくるアメリカ軍を阻止していた様でした。天気も悪くて戦闘機の援護も得られず、砲兵隊の援護も弾薬の砲弾の輸送が悪天候で遅れて、わずかな砲撃しかドイツ軍の陣地に打ち込むことが出来ない状態で、対峙していたと話していました。かなり広い牧場の開けた場所で、小高い丘に機関銃陣地を築きそこから狙い撃ちされて身動き出来ない様になって伏せていたと話していましたが、どうしてもそこを攻撃して潰さないと前進できず、攻撃命令が出て、小人数で藪の陰から3組に分かれて攻撃開始した様でした。中の二組が援護して一組が接近して対戦車擲弾筒と手投げ弾で機関銃陣地を襲う予定で、激しい機関銃の射撃を受けながら伏せて前進して、やっと攻撃圏に入り、先ず小銃の先に付けられた対戦車投擲弾で陣地の銃眼を狙い、一斉射撃で射撃を止め最後のとどめは手投げ弾での至近距離よりの陣地の破壊をして敵兵を制圧をする計画だった様でした。敵陣地の前で、全員が一斉射撃をして、機関銃の掃射を止め、一瞬の時間、最終にアタックするマイクと言う日系兵士が、『行くぞ〜!日本語ではバンザイと言うのかなーー!』と言って彼の手を硬く握ると、自動小銃を片手に安全ピンを抜いた手投げ弾を持ち、敵の機関銃陣地に走る様に飛び出して行ったと言う事です、それを阻止しようとするドイツ兵を自動小銃で撃ち、手投げ弾を陣地に投げ込み、崩れる様に伏せたと言っていましたが、彼は二度と起き上がらなかったと話していました。吹き飛んだ陣地からは何も反撃は無く、近寄ってマイクと言う戦友を起こすと、胸を一発撃ち抜かれて眠る様にうつぶせになって倒れていた様でした。彼はしんみりして『悲しかったな!』と言葉を詰まらせていました。彼の死は生まれた祖国アメリカの為と、強制収容所にいる両親や幼い兄弟の解放の為と、偏見と人種差別のアメリカ人達の打破の為に若い命を捧げたと話していました。戦争が終り、アメリカ大統領が『貴方達、日系兵士は敵のドイツと戦いそしてそれを破り、また多くの偏見とも戦った』と賞賛したことを思えば、第二次大戦中に一番多くの戦死者と負傷者を出して戦った部隊で有る事が証明している。


87・ 
アメリカに住んで、30年の歳月が流れ、私の永の住みかとなる墓地も造りました。今日はお彼岸の墓参りに行きましたが、現在は私の息子がそこで永眠しています、日本で35年前に生まれて直ぐに亡くなり、私の心の中に今でも生まれたばかりの息子の面影がまぶたに残っています。アメリカに来て、生活も落ちついて、直ぐに墓所を購入して墓を建て、ワイフが書道三段の腕で書いた文銘を刻んでもらい、石材店のオーナーからワイフの優しい字体に、他のお客からも是非碑文を書いてくれと頼まれた様な文字で、墓地の片隅に築かれた墓碑に、これからの百年も残る文字として、静かに東の空を見詰めている。そこに日本から連れて来た息子が一番に入り、毎月の墓参りに訪れる事が習慣となっているが、そこのコルマ日本人墓地ははるか昔の日本人達の移民の歴史ともなって、多くの日本人の魂が永の住みかとして眠っています。サンフランシスコで最初に葬られた日本人は、徳川幕府の軍艦『咸臨丸』の水夫等三名である。航海中に発病して衰弱して、1860年2月10日に到着したが、現地の海軍病院に入院して、3月22日に咸臨丸水夫、源之助、25歳が死去。同じく3月30日に富蔵、27歳が死去している。この両名は艦長の名により、日本国海軍水夫として墓が建てられているが、5月20日に死去した峰吉、(年齢不明)は咸臨丸出航後で、当時の日本の代理領事であったブロックスが幕府の命により墓を建立した。

1870年2月2日(明治3年)に死去した万屋常次郎、泉と言う人物が横浜で、ミセス・ヘボンについて英語を学び、勉学の目的でアメリカに来て、サンフランシスコで病に倒れ客死した。彼がアメリカに勉学で来た学生では第一号と言われる。1875年日本海軍最初の練習艦『築波』がサンフランシスコに来航したが、鈴木、伴寿、稲垣、松島各4名の水夫が病気で死去した。その後、1880年にも第2回目の来航時にも的場水夫が死去して同じコルマ日本人墓地に日本海軍水兵として埋葬されている。歴史の中に埋没して、忘れられている事が、今日も秋の日に照らされて年月を感じさせる墓標が、私の心の中で秋愁の思いを積もらせていた。1890年台から1906年頃までは多くの子供と若者の埋葬者が多いのも特徴で、その頃のアメリカに一旗上げるための出稼ぎに来た20台から30台の若者達の墓標の群れである。1901年7月にアメ行きさんと言われた娼婦が当時の黒死病で若き命を赤線区域で亡くしている。高木シナ(23歳)、池田ヨシ(22歳)、稲木ミネ(19歳)と今では寄りそう様にして、コルマ墓地に眠っているが、初めて訪れた時は、サンフランシスコ名物の霧に吹かれて濡れて、墓石が涙して泣いている感じを受けたことが有り、耳を澄ますと、太平洋から吹き付ける風がすすり泣く様に聞え、私の胸がグット、込上げる何かがあった。今日の墓参りは秋晴れの爽やかな日で、静かな墓碑が晴れ渡った東の空を群れて眺めている感じでした。貴方も一度、サンフランシスコを訪れたらぜひ訪問してください、きっと心感じ、深く思いする事が貴方の胸にあると感じます。


88・ 
アメリカには多くの移民が新天地として、難民や家族の呼び寄せ、学生として来て、結婚して居残り家族を作り、新しい人生を出発した人が沢山います。またアメリカの歴史として移民と奴隷と難民としてアメリカに来た人々で成り立つと言う人がいます。その事は私も実感として身体で感じます。戦後アジアの諸国から沢山の戦争難民がアメリカの土を踏んで、全米各地に根を降ろして伸びて行きましたが、その中で、私の知合いは台湾からの移民でした。特にサンフランシスコ湾岸はアジア系が沢山住んでいます。サンノゼはシリコンバレーとして世界的に有名ですが、そこがべトナム系の移民の集団で全米一の多さを誇っています。そこから少し下がった、フリーモントはアフガニスタン系の移民が全米で一番多い、2万5千人以上は住んでいます。アメリカ政府の難民政策が寛大で、受け入れも多数の難民を受け入れたからでした。私の知合いの台湾から移民して来た方は、苦労して店を持ち、やっと生活も落ちついて、息子をロサンゼルスの大学に出して子供の成長を楽しみにしていました。

夏休みも前のある週末の日に、ジェームスと言う名前の、彼の息子が近くの海岸にサーフインの波乗りに友人達と出掛けて行き、その前にいつも両親が電話を掛けて来るので、留守番電話にメッセージを残していました。『お母さん〜!直ぐに夏休みだから、来週は家に帰宅するから、僕の好きな物を沢山食べさせて下さい、エアポートまで迎えに来て下さいーー!』とメッセージを留守番電話に残して、サーフインに出かけて、友人が必死で探し、助け様としたが大きな波に呑まれて帰らぬ人となりました。両親は直ぐにロサンゼルスに駆けつけたが、全ては終って悲しい帰宅となった様です、しばらく母親は狂った様に嘆き悲しみ、悲嘆に暮れて、家に閉じこもって居たようでしたが、有る日息子のアパートに電話をしたら、同部屋の友人と同じ電話で
番号もメッセージもそのまま残っていて、生前の元気な息子の声で『お母さん〜!直ぐに夏休みだから、来週は家に帰宅するから、』という声が流れて来ました。それからと言うものは、毎朝必ず一度は昔の息子に電話を掛けて声を聞く事が習慣と成った様でした。同じ部屋の友人もそのメッセージは消す事もなく、彼がそこに住んでいる間は、そのまま同じ留守番電話をしていたと言う事です。それからは、母親も声を聞く事が元気を取り戻す要因となって少しずつ悲劇からの落ち込みを回復して、もとに戻ったと友人が話してくれました。その話しをしてくれた友人もつい最近、病気で亡くなりまして寂しくなり、戦前の日本統治時代に日本語教育を受けた台湾の古き良き時代の友人がひとりまた、消えて行きました。私の歳になると良くそのようなニユースが入って来ます。『年々再々、花は変わらず、再々年々、人同じからず』の言葉が胸に染みます。


89・ 
アメリカのサンフランシスコ湾のオークランドや、アラメダは戦前にはかなりの日系人が住んでいました。戦争で強制収容所に送られて、全てを無くしてキャンプから帰って来ても行く当てもなくて、当時の仏教会や、集会所、教会などで仮の住まいとして生活して仕事を見つけ、家族で住む家や貸家を探して、戦後の反日感情が激しい時を過ごしたと話してくれました。強制収容所を出る時はアメリカ政府は一人当りに当時の金で20ドルを渡して、退去を命じた様です。先ず家長が家族に支給されたお金を手元に自分が昔、住みなれた場所に戻り、つてを頼りに先ずは仏教会や日系の集会所などに寝泊まりして仕事を探して、家族を呼ぶ様に準備を始めた様でしたが、アパートや貸家を探すのは大変な苦労だったと話してくれ、仕事も中々、見つからず多くの日系人が戦前からの慣れた庭園業を始めて独立して行き、そこで資金を貯めた人が温室やナセリーと言う植木屋を始めて行きました。私が昔、知り合った2世は強制収容所から軍隊に志願して、当時の激戦が続くヨーロッパ戦線に出征する時、最後に家族との別れに収容所を訪ねて、前線に出動する事を話したら、両親が『私達の事は心配しなくて、自分の生まれた国に忠誠を誓って戦ってきなさいーー!』と話してくれたそうです。部隊に帰還する時に列車の窓から、遠くに見える監視塔に囲まれた強制収容所の夕暮れの砂漠の光景を見て、涙が出て来たと複雑な感情で別れをした当時の光景を思い出しながら話してくれ、その両親も今では亡くなり、自分が生きてヨーロッパ戦線から除隊して両親をの住んで入るところを探して訪ねて行く時に、バスに乗り合わせた白人の女が、アメリカ陸軍の制服を着ているのに日本人が沢山その頃、集まって住んでいた所に来ると、口汚く日本人の悪口を大声で叫び、聞えがましく喚きたてていたら、運転手が、バスを止めて『喚くほどに嫌いなら、自分がバスを降りろーー!』と怒鳴ったそうです、そして彼は『陸軍兵士として勲章まで胸に下げている帰還兵だ、感謝の言葉でも言うのが普通だ、俺はドイツ戦線で日系兵士が、部隊の殆どが消耗するほど戦って戦死したのを見た』と言うと、その女は黙ってバスから降りて行ったと話していました。彼も帰還して仕事を探したけれど難かしくて、その頃、復員兵に政府が与えていた奨学金で大学に行き、卒業して仕事を見つけてアメリカ社会に出ていったと言っていましたが、戦後多くの日本人が敗戦で困窮する生活から日本に救援物資を送り、援助活動をして、出身地の学校や、社会に多くの救援の手を差し伸べたのであるが今では全て忘れられてしまっていると嘆いていた。戦後の沖縄県に戦争で壊滅した、畜産業の養豚を育成する為に当時、輸送船一隻分の種豚を募金活動とボランテイアで沖縄に送り、それから幾年もしない内に戦前の水準まで取り戻したと話してくれ、沖縄県人の大きな栄養源と戦後の復興の原動力となったと教えてくれました。いくらアメリカで生まれて、アメリカで教育を受けても両親が日本語とそしてお米で育てたので、日本の心は持っていると言っていました。そして俺は『ヤンキー、サムライだよ〜!』と笑っていました。


90・ 
サルタ州で農場の仕事をしている内に、近所の町に住んでいる日本人の人達と知り合う様になり、仕事でその町に行くと必ず顔を見せていました。タルタガールの町は田舎としてはかなりの大きな町ですが、大都会の様には雑踏も有りません、その廻りの石油製品を賄うのに石油精油所が有るくらいでした。ボリビア国境のアルゼンチンも北の果てと言う感じで、ひなびた都会でした。私がトマトの作付け状況を偵察にタルタガール市場と仲買の話しを聞いて、今年はどのようなトマトの種子を植えるか、それも研究に歩いていました。その町には大城氏が洗濯屋を開いていまして、行くと必ず寄ってお茶を飲んでいました。時には食事もご馳走になっていまたので、近郊のトマト農家の現状も知ることが出来ました。町の住宅街の近くで小さなお店でしたが夫婦とパートの三人で仕事をしていましたが、子供は全部育ってしまい、ブエノスの町に住んでいると話していました。そろそろ引退して子供の近くに引っ越すと話してくれ、この店を売りに出すと話してくれましたが、中々適当な人が見つからなく困っていました。そん時に訪ねて行き、タルタガールに着いて直ぐに顔を出し挨拶して、それから市場に行きましたが朝の競りは終り、仲買と話すのには丁度良い時間でした。しばらく話して遅いランチを食べ様と市場の近くを歩いていると、誰か、何処かで会った感じの女性が見ていました。思い出せず側まで来て、その若いインジオの女性は、はにかんで笑顔でいます、私もはて〜!と考えていましたら、昔にトラックに乗せて、私の町まで来て、友人の家で一緒に夜を過ごしたあのインジオの女性でした。あの時からしたら、少し身体に肉が付いて福与かな感じがして前からしたら、美人に見える様になっていました。駅前の別れから、だいぶ時間が経っていましたが、彼女は忘れる事も無く笑顔で私を見ていました。私が両手を広げると、小柄な身体を飛び付く様に抱きしめてきて、久しぶりの再会を喜んでくれました。ランチを聞くと、まだ済んでいないと言うので、近所でピザを食べる事にしてテーブルを取り、注文してワインとソーダーをテーブルに置いて話し始めて、近況を知りました。彼女は世話になった事を感謝して何度もお礼を言って、ピザがテーブルに来るまで手短に話していました。インジオの田舎生活は結婚相手も難しいと嘆いていまして、また都会に出る事を考えていると教えてくれました。レストランでピザとサラダが出て来るまでに、あらかたの話しをしてくれ、現在は共同で姉夫婦と同居して、小さな雑貨屋をしながら洗濯屋の取り次ぎ業をして食べていると話してくれました。私が大城氏の洗濯屋を知っているかと聞くと、そこに頼んでいると言うので驚いてしまった。食後に彼女を連れて大城氏の店を訪ねると驚いて、大城氏が私を店の隅に連れて行き、小指を出して『あんたのコレーーかい〜!』と聞きました。私もつられて『やんぬる事が有り、一晩彼女が泊まったことが有る』と言うと、後は一人合点して、大喜びで『彼が彼女を連れて来たよーー!』と奥さんに声を掛け、その後は私が何と言っても『わかった〜!、わかった〜!』で終りでした。とうとう夕食まで付き合う事になり、リサと言う彼女も私の恋人として扱われ、夕食にはシャンペンも開けてくれ、『おめでとう』と声を掛けてくれ、私は返答に困り、苦笑いをしていました。しかしインジオの彼女は恥ずかしそうにしながら、内心は嬉しそうにしているのを感じました。彼女がインジオの少し小麦粉肌でしたが、顔立ちは日本人に似ていて黒髪の小柄な体格は、日焼けして無骨な私には似合っていたと感じます。私も生まれて初めての体験で、少しドキドキしていました。お酒の酔いも有って、大城夫妻ともリサが仕事の関係で知り合いであり、多いに話が弾んで、私に『彼女は働きもので、素直な良い女性だよ〜!』と話してくれました。私が結婚適齢期を迎えているのを知っているので、何度も声を掛けられ、女性を紹介された事がありました。大城氏の店先に止めていたトラックでそろそろ帰るからと言うと『2時間は運転しなくてはならないし、少し酔っているから今夜は家で泊まっていきなさい』と進めてくれ、奥さんが私のトラックのカギを取り上げてしまい、大声で『ダメよ〜!酔っ払い運転は』と、お祝いだからと今度はワインの上等な瓶を開けてくれ、グラスになみなみと注いでくれ、彼女にも注いでいました。私は誤解でも、楽しい雰囲気を壊したくはなかったので、乾杯の音頭を取り、ワインのグラスを合わせ、楽しく日本の歌を唄って、久しぶりに農作業の疲れも吹き飛ぶ感じで、過ごしていました。

かなり夜遅くなり、店の裏側に有る、昔の子供部屋が客間として用意されていましたので、その夜はそこで泊まる事になり、大城氏が『リサ!貴方も泊まるか、それともタクシーを呼んで帰るか』聞いていました。彼女はためらう事無く小声で『今夜はお邪魔ですが泊まらせて頂きますーー!』ときっぱりと答えていました。私は少し酔った頭でも『ドキリ〜!』とする言葉でした。前に友人の小屋で泊まった時に、ハンモックから素裸で私のベッドに朝方もぐり込んで来た、妖艶な彼女を思い出していました。今夜のこの時間と、前に経験した妖艶な時間とが重なり、彼女の身体に似合はない大きな乳房を思い出して、そして、友人の小屋でベッドから起き際に、私の両手にしっかりと握られえた乳房の感覚が手の平に蘇ってきました。それから露天風呂に汗を流す彼女の裸体を思い浮かべていました。何か前の続きが現実に起き様としている感じを受けて、若い独身男の何かが目覚めた感じでした。私と彼女を離れの客間に送り出す時、大城氏の奥さんが家族風呂の小さなものだけど、お湯を溜めておいたからと教えてくれ、浴槽に溢れたお湯を見て、久しぶりの日本式風呂に感激していました。綺麗な部屋の中で彼女は昔の続きを取り返す様に、私の前で乳房を出して素裸になり、少しはにかんで抱き付いて来ました。今回は何も止める事態も無く自然に抱きしめてやり、私の男の本能が目覚めていました。その夜は、独身の若い男の経験としては充分でした。まどろんで朝が来て、朝早く起きる習慣で目が覚め、起きて窓を透かすと、何時の間にか起きた彼女が、着替えてテラスのイスに座り、マテ茶をストローで飲んでいました。しばらく二人でマテ茶を廻し飲みして終ると、彼女が私を固く抱きしめて、唇を重ね、店の横のドアから出て行きました。見送ると、まだ人通りが少ない早朝の道を手を振りながら消えて行きました。別れ際に『神様が私の心のわだかまりを消してくれた』と一言つぶやいていました。


91・ 
私がアルゼンチンのサルタ州、エンバルカションの町で支配人の仕事を始めた時です、町から12kmは離れていて、農場に着いてからはしばらく身体が慣れるまでは、近所の様子を見ていました。それと前に支配人をしていたボリビア人が、契約が切れても残っていました。一作契約ですから歩合も私が少し高く、売上の3%が貰えるようになっていました。前の支配人の家族は先にボリビアに帰郷して、小屋に従弟と住んでいまして、オーナーが早く出て行く様に話していましたが、ずるずると居座って目障りでした。昼休みの時間に狩猟用の双眼鏡で家の廻りを見ていました。日本から持ってきた、凄く性能が良いもので、少し暗い日陰でも鮮明に覗く事ができました。離れた作業小屋から誰か出て来ました。双眼鏡で覗くと、手に何か持っている感じで隠す様にして包みを持って歩いて河岸の小屋の方に消えて行きましたが、今の時間は皆が昼寝をしている時間です、一瞬、おかしい〜!と胸騒ぎがして小屋に戻る男を見ていました。やはり前のボリビア人の支配人で農場に居残っている男でした。私は作業小屋まで行きましたが、農薬を管理するロッカーが少し誰か触った様で、不審に感じました。高価な農薬の箱を買い入れたばかりで、かなりまとめて積み上げていまして、用心に2重のカギを付けていました。 点検するとカギも壊れていなかったのですが、しかし何かおかしい感じで、ロッカーの前の土間の土を、綺麗に草箒平らにして誰か来たら直ぐに判る様にして、その日は午後の仕事を始めましたが、その翌日です、私は用心して昼寝もしなくて見張っていました。 しばらくして、ボリビア人の前支配人が歩いているのを見つけ、作業小屋に入るのを監視していました。今度も直ぐに出て来ると手に包みを隠すようにしています、彼が消えて直ぐに作業小屋に行くと、土間にくっきりと足跡が残り、ロッカーを開けた事が分りました。 昼休みが終り、私は農場のオーナーと話して、現行犯で捕まえる事にして許可を貰い、一切を任すと委任状を取りました。それから前支配人が午後に荷物を運ぶので、トラクターを貸してくれと話していたと聞き、直ぐに先回りして、トラックを用意してライフルと拳銃を車に入れていました。 監視をさせていた使用人が慌てて、彼がすでにトラクターで出かけたと知らせてきました。私は直ぐにトラックに飛び乗ると、微かに土ぼこりを上げて畑の農道を走るトラクターを発見して、追跡しました。 私有地の中で停めて尋問しなくてはなりません、外に出たら問題になります、ボリビア人は私に気が付いてボコボコの農道をかなりのスピードを上げて走り逃げ様としているのが感じられ、私はトラックを先回りして、ジャングルの切れ目の農場の境で車を止め待ち構えました。 150mぐらい離れていたと感じます、彼はトラクターを飛び降り畑の中を走って逃げ様としてあせっている様でしたが、土を起こしたばかりで上手く走る事が出来ません、私はライフルで逃げるボリビア人の前の土を威嚇射撃で、3発ぐらい連続して撃ちました。 微かに土煙が上がり、ボリビア人は両手を上げて止まり、私がライフルで撃った事で驚いて、近寄るとガタガタ震えているのが分りました。10mばかり前に来ると、両手を広げてうつぶせになる様に指示して、狙いを付けて見ていました。 慌ててボリビア人は伏せると、私は近寄り凶器を隠していないか調べている所に、銃声を聞いて先ほど見張りを頼んでいたインジオが飛んできました。彼は帽子に付けている細い皮ひもを取ると、後ろ手に縛り上げていました。そして『この野郎に、散々いじめられたーー!』と話していました。 トラックター後部の簡易荷台を探すと、ナイロンの袋に入った農薬、トラックの部品、トラクターの予備の新品部品などが出て来ました。ここでは農薬だけでも1kgが3000ペソで、使用人の一ヶ月の給料となり高価な品物でした。 総額でかなりの金額となり、オーナーも警察に連絡して引渡しました。夕方、警察のジープが引き取りに来て、手錠を掛けて連行して行きました。その日の内に、ボリビア人の身内の親戚も解雇して追い出してしまいました。警察でも私が威嚇射撃をしたのは私有地内で、逃亡を止める為の正当行為として、証人に見張りのインジオが見ていたので、それですべて終りでした。


92・ 
今年は終戦から60年目の年です、すでに終戦当時の方々は亡くなるか、高齢で記憶も薄れて当時の話しを聞く事も余り出来なくなりました。サンフランシスコ近郊で会った方でした。 20年ほど前です、まだ当時の方々が元気な頃でした。一度、終戦後日本に、アメリカ軍の語学兵として通訳で軍務に就いた居られた日系2世の方でした。 郷里は何処かと言う話しになり、福岡県の大牟田市が父親の田舎と話すと『私も軍務で通訳兼、戦略爆撃調査団の一員として、大牟田を訪ねた事が有る』と話してくれました。 台湾から引き上げて来て、しばらくは親戚のお寺に、お世話になっていた短い時期が有りました。そのお寺近くにB25の爆撃機の胴体の部分が撃墜されて落ちていました。 私も近所でしたので、見に行った事が何度か有りました。その時、ジープに乗った米兵が数人いまして、何か調査をして居る感じでした。通訳らしき日系人が説明している様子でしたが、その事は良く鮮明に覚えています。 生まれて初めて、沢山のアメリカ兵を見たからでした。そして、近所の中学生ぐらいの大きな子供達が、B25の積載機関銃の弾を、鉄の水道管パイプの中に入れて信管をハンマーで叩いて、発射しているのを遠くで見ていました。 危険な遊びでしたが、墜落現場には沢山落ちていたと聞きました。何処かに沢山隠していて、遊んでいた様でしたが、それも直ぐに朝鮮戦争が始まると、金屑景気が湧いて、アッと言う間に消えてしまいました。B25の胴体部分の大きな物もそうで、綺麗に消えていました。 そんな思い出を2世の方と話していたら、びっくりして、『それは私ではなかったかーー!』と直ぐに答えてくれました。『近所に鹿児島本線の踏切りが有ったのではーー?』と言う事で、まさに偶然の一致でした。 彼が話してくれた事は、大牟田市の工業都市、爆撃被害調査で、かなり詳しく調べたと教えてくれました。私が見ていたと話すと、『廻りに沢山の子供が来ていたから』と笑っていました。 B25が撃墜される前に落とした爆弾溝で、夏は良く泳いでいました。かなり深くて大きな穴でした。当時は溜池として利用をされていましたが、近所の蓮根田で、戦時中に捕虜を使って蓮根掘りをさせていたと聞いた事が有ります。 日系2世と話していて、捕虜収容所の事も聞く事が出来ました。彼は良く、色々な話しを知っていました。しかし、アメリカ兵の虐待の事は避けていました。米兵が劣悪な環境で仕事を強制されていた様でしたので、色々な トラブルが戦後あったと感じます、彼はさらりと話してくれ、最後に『戦時中、私の家族はアメリカ政府の強制収容所で生活していた、監視塔で囲まれ、鉄条網の柵の中に居た』と言うと アメリカ市民であっても、戦争となれば迫害と苦痛を味あう惨めな時が有った事を、それもさらりと話してくれました。彼はそれから語句を強めて、『この世に戦争は起してはならないーー!』とポツンと言った事を、いまでも心に残っています。


93・ 今日は私が見聞きしたガンマンの話です、南米の田舎町で会い、そして聞き、見ました。どの方もかなりの年齢でした。 その話の最初はガン修理をしていた職人でした。彼は狩猟が趣味で、案内してくれたので付いて行きましたが、当時のウズラの狩猟シーズンでした。町外れの潅木と草原の混じる所で、ウズラ を犬で探させると、上手くポイントして見つけ出していました。彼が使う銃器は単発の22口径のライフルでした。それでウズラを狙います、散弾銃ではありません、22口径の弾はネズミの糞ぐらいの小さな物です、それで撃ちますから 余ほど腕が良くないと当りません、犬が飛びかかり、ウズラが『びーー!』と大きな羽音を響かして滑空して逃げます、そこを狙って撃ちますので、そのバッグンの感と経験がないと当りま せん、滑空して一直線に真っ直ぐに飛びますので、彼はそこを小口径のライフルで狙い、撃ち落としていました。単発ですから、撃ち損じるとそれで終りです。しかし上手に撃ち落としていました。私は良く当ると感心して見ていた覚えが有ります。一度、狩猟の好きな人に話したら信用して貰えませんでした。そのくらい難しい射撃なのです。 第2話は、かなりの年齢のお爺さんでしたが、持っていた拳銃はアメリカの南北戦争時代に使われた、旧式なピストルです。弾倉のシリンダーに弾と黒色火薬を手詰めして撃ちます。型もかなり大型で、それに弾を装填して、ワインのビン口にコルク を載せてそれを撃つのですが、驚いた事に射撃が正確で、反動も凄い旧式な銃身の長い拳銃ですが、6発撃って全弾が命中で、瓶の口に載せていたコルクを見事に吹き飛ばしていました。距離は7〜8mはあったと思います。 彼は射撃の後に、『ここではこんなものが必要になる時が有る』と話していました。それにしても年齢からしたら凄い腕でした。チョット恐ろしい感じがしました。確かマカロニ・ウエスタンで主人公が腰に提げて、使っていたガンと同じだったと思います。 第3話、その方は中年過ぎた感じがする体格でしたが、かなり年期が入っている感じがします。オレンジを空中に投げ上げてそれを拳銃で撃つ、曲撃ちでした。 自分でオレンジを投げ上げると、全弾命中でした。他人が投げ上げると、タイミングがずれて外れる事も有りましたが、それにしても、凄腕の射撃でした。実弾を使い、散弾などのごまかしでは有りません、38口径を使っていた様でした。 空中で炸裂する様に、オレンジが飛び散る様は見事でした。南米の田舎町にはそんなガンマンがいた頃です。そのガンマン達が生まれた時代は1890年代から1910年頃だったと推定します。1964年頃の昔の話です。


94・ 
40年前の南米の田舎です、TVは有りましたが、2チャンネルで、昼間はお休みと言う白黒TVの時代でした。ラジオも短波放送が有りましたが、受信するラジオが貧弱で、あまり綺麗には聞く事は出来ませんでした。 娯楽と言うのは、酒を飲むか、釣か、狩猟で、それと若い女性とワイワイと騒ぐ事でした。勿論その後は、たまには酒も入り、ドンちゃん騒ぎをして、ダンスをして酔いつぶれていました。 有る日、私の友人が狩猟に誘ってくれました。ビスカッチャと言う、ウサギと狸との合いの子のような動物で、肉はかなりチキンに似て、美味しい味でした。 私の友人は毎日罠を掛けて、週に2〜3匹も掴まえていました。それで肉は充分でしたので、かなり節約になっていたと思います。夜行性で集団で生活している動物です、大きさはウサギの大きな物と同じです、それをハントする事になり初めてで、ただインジオの後ろを付いて行きました。 狩猟と言っても、拳銃で撃つかなり上級な狩猟です、夜間狩猟でだいぶ危険な事も有り、注意が必要でした。用意は拳銃と弾、懐中電燈の大きな光源の有るもの、夜の潅木の草原を歩きますので、夜行性の毒蛇の用心に皮の長靴を履いていました。 刺の有る潅木の中を夜間に歩きますので、皮のジャンバーを着て皮の手袋をしていましたので、大陸性の夜間冷え込む草原を歩くのには充分でした。歩きながら懐中電燈で草原を照らして、ビスカッチャを探します、うじゃうじゃ居ますので、焦点を 懐中電燈で合わせて、2〜3度点滅させると驚いて、ピヨンー!と停止して、こちらを見ますので、その時に撃つのです。当ればそれで『一丁上がりーー!』と言う事で、当らない時は漫画映画で、ぴょん〜!と消える感じで、瞬間に消えて行きます。 余り威力の無い22口径の拳銃を使います、弾代が格安だからと、急所を狙って撃ち、即死させますので22口径で充分でした。下手な人が狙うと、5回撃って一度当れば良い方でした。 私が連れて行かれた所は、人家も無く、わびしい潅木の生い茂る草原でした。微かに半月の輝やきに照らされた、壊れかかった小屋が有り、そこが狩猟の基地でした。 インジオのガイドが3名いまして、全てを案内して世話をしてくれましたので、私達三名は、ただ撃つだけでした。車が入れる所の終点はインジオの家があり、案内する時に使う乗馬が囲いに5〜6頭居ました。 私達三名はその馬で何処を歩いたかも知らないで、狩猟場に着き暗くなった草原の中で、一息付いて焚き火を起こして、お茶を沸して飲んでいまして、コーヒーを飲む者、マテ茶を飲む者に分れて、持ってきたサンドイッチを食べて、その夜の準備をしていました。 インジオから射撃の注意を受けて、夜間射撃の危険性を教えて貰い、一人にインジオのガイドが一人同行します。ズボンのベルトにホルスターを提げて、皮ジャンのポケットには22口径のマグナムの弾を100発バラで入れていました。 小さな肩掛けカバンの中には予備の弾を100発と懐中電燈の電池の予備を四本、後は水筒でした。緊急医薬品などはガイドのインジオが持っていまして、私達はなるべく身軽にして歩いて狩猟をする様にインジオが考えていました。 始める前にインジオが天地の神々に祈り、夜空に向かって祈りの言葉を捧げていました。それが済むと各自がインジオのガイドと分れて歩き始めて、危険がない様に別方向に分かれて歩き始めてものの100mも行かない内に、インジオが懐中電燈で照らして ビスカッチャを竦ませて、撃つ様に教えてくれました。私は昔のネズミ撃ちの要領で、後ろ足で立ち上がった獲物を1発で倒しました。距離が20mぐらいで獲物が大きかったので外す事は有りませんでした。 それからは、無我の境地の様に点滅する懐中電燈の光に、空薬莢を取り出して、弾を詰め替えながら撃ち、銃口の閃光が弾けてどれだけ獲物を仕留めたかも、数える事もなく、ただひたすらに夜の潅木の中を歩きながら撃ちまくった。 ふと喉の乾きを覚えて小休止を取ると、遠くで銃声が聞え、心までが渇き切った感じがしてきた。水筒の水を飲み干すと、自分の右手の手袋がドロドロに硝煙で汚れて、蒸れていた。 見上げた夜空が微かに色濃い濃紺の流れから、漏れる様に夜明けの輝きが感じられ、朝が近い事を知った。どーッと疲れが出て来て、後ろを歩いていたインジオに、戻るかどうか聞いた。彼は短く『戻りましょうーー!あと僅かです、直ぐに夜が開けます』と話すと、私を案内して明け方の道を戻り始めた。 微かに夜明けの輝きの中で、ここに三匹、しばらく歩いて二匹と、獲物が集められていた。頭から血を流して死んでいる獲物。首を撃ち抜かれて死んでいる獲物。口から血を流して死んでいる獲物。歩きながらそれらを見て、思わず心に何かグーッと来る物が有った。 小屋の近くでは、インジオが獲物を処理していた。小さな穴が掘られ、中には血で汚れた臓物が投げ込まれ、肉が棚に吊るされて、下で焚き火が燃やされ、いぶされていた。どす黒く血で濡れた両手を動かして、無心に処理するインジオ が内臓を掻き出すと、穴の中に投げ捨てた。『ぐちゃり〜!』と音を立てて血が飛び散り、胃の中で『ムカーー!』と込上げる物が有った。私は小屋からウイスキーの小瓶を取り出すと、瓶ごとラッパ飲みして、フラフラと小屋の横の藪に歩いていき、お思い切り胃の中から吐き出した。 皮ジャンのポケットに残っている弾を右手で掴むと、思い切り朝焼けの草原に向けて投げ捨てた。拳銃のシリンダー弾倉から残りの弾も抜き取ると、それも投げ捨て、ホルスターに差し込むと、スーッと燃える様に草原に輝きながら朝日が昇るのに向かって歩き出した。 何か空しい心が湧いてきて、涙が出て来た。涙が冷えて、寒いような冷気に冷やされて流れていた。


95・ 
昔の南米の田舎です、リオ・ブランコ(白い河)と呼ばれる所の河岸から2kmぐらいが耕作地帯でした。そこの一番奥からは、町まで約15kmはありましたが、道幅が狭くて、場所によっては車がすれ違う事が出来ませんでした。 ラプラタ河のボリビアから流れて来た支流でしたが、河口までかなりの距離が有り、確か1700kmぐらいの上流と思います。川幅もそんな上流ですが、100m近く有り、渇水期で30mぐらいの流れでしたが、一度上流で大雨が降ると川幅一杯で流れていました。 流木も凄くて、大雨の後はインジオ達が流木拾いに精を出していまして、かなり製材して使える材木が流れて来ますので、河岸に流れ着いた材木を牛に引かせて道路まで持ち出していました。しかし、ボリビア上流で鉱山の排水を洪水の流れに放流して捨てますので、注意が必要でした。 40年も昔です、河には沢山の魚が生息して居ました。インジオが毎日、漁をして生活が成り立つほど魚が取れていまして、彼等の昔からの習慣と、仲間のインジオの約束事として、産卵に上がってくる、雌の魚は絶対に取らないと言う不文律が有りました。 沢山お腹に卵を抱えて来て、上流の浅瀬に卵を産み付けて孵化させていました。有る時、町に仲買のイタリア人ボスの息子が来てだいぶ勝手な振る舞いをして、のさばっていました。シシリア島出身で、マフイーアにも繋がりも有る、野菜仲買の息子でした。 私達の農場は河岸まで車が下りられて、魚取りでは絶好な場所でしたが、私有地で許可を貰わないと立ち入り禁止でした。そこに、ボスの息子が新車の小型トラックで網を乗せて魚取りに来ていました。その事は後で知りましたが、夜の内に来て、 網を河に張り、朝方に網を上げていた様でした。車に乗せてきていたゴムボートで網を張って、魚を追い込んでかなりの魚を一網打尽と網に追い込んでいた様で、産卵期に、まして私有地に無断で入り込み、勝手に魚を取っているボスの息子 に、連絡を受けて河岸に行って『このやろう〜!なめるんじゃーねえーー!』と頭に来まして、河の浅瀬に入り網を絞り、魚を一ヶ所に集めているボスの息子に声を掛けました。『止めてくれ〜!、ここは私有地で、産卵期は捕獲禁止だ』と怒鳴りました。 その時、私が激怒し『なめるんじゃね〜!』と頭に来た言葉を男がはきました。『チーノが何を言うーー!』 私は瞬間切れました。誰からも、一度も言われた事も無い言葉でした。 いつも背中の後ろのホルスターに入れて隠していた拳銃を引き抜くと、相手の後頭部のうなじに銃口を押し付けました。まさに処刑する格好です、『びたりーー!』と凍りついた様に動きが止まり、相手の素肌に鳥肌が立つ感じで、スーッと血の気が相手の顔から引くのが分りました。 私はゆっくりと『ここはサルタ州だ、サルタの州法では私有地で、無断で狩猟や魚取りをしたり、家畜を盗んだり、殺したりしたら、その場で射殺してもお構いなしだぞーー!』相手はガタガタと震えだしていました。 後方で見ていたインジオの飯炊き婆さんが『早く支配人のドンに謝りなさい、そうでないとお前は犬死にだよ〜!』と声を掛け私の横に来ると『まだ若いムチャチョだからーー、ブエノスしか知らない様だから、許してやって下さいナーー!』と懇願しましたが、確かに私に殺気がみなぎって居た様でした。 私は拳銃のハンマーの撃鉄を押し上げると、弾倉のシリンダーが回転して、かすかな音がしました。瞬間、『ひー〜!』と言うような声がして、『ドン、ノグチーー!許して下さい、』と言う、声を絞り出すような口調で、何度もつぶやいていました。 私は撃鉄を戻すと、ホルスターに入れ、『さあ〜!雄の魚を各自1匹だけ取ると後は河に逃がす様にしてくれーー!』と見物に来ていたインジオに話しました。インジオ達はそれぞれ魚を取ると、私はマチエーテで網と縄を切ると、魚達が銀鱗を、きらめかして深みに逃げて行きました。 ボスの息子は町から連れて来ていた、インジオの使用人に網を持たすと、トラックに戻り、手ぶらで帰って行きました。しかし、インジオ達が彼のトラックに細工して、エンジンに砂糖きびを絞ったシロップを入れて、座席にサボテンの綿毛を叩いておいた ので、トラックのエンジンは焼き付き、ボスの息子は2〜3日は死ぬ様なかゆみと、火ぶくれの様になった皮膚で病院で転げ回っていたそうです。そして2度と現地に顔を見せる事は有りませんでした。


96・ 
私が犬の話を思い出すと、この話も書いて置きたいと思います。私が40年前にアルゼンチンのサルタ州で農業をしていた頃です、季節労働者が収穫時期に沢山仕事に来ます。大抵は近所のインジオでしたが遠くボリビアからも来ていました。 時々、収穫時に来ていた中年のインジオでしたが、何時も犬を連れていました。ワイフは居なくて子供を一人連れていましたが、町の近所の部落に親戚がいて、仕事に来る時は子供を預けて来ていました。 週末は忙しい時も必ず町に帰り、子供と過ごしていた様でしたが、子供の学校が休みの時には農場に連れて来ていました。彼の仕事は請負いで、トマトなどの手入れを請負作業する仕事で、トマトの芽かきや、成長に合わせてそれを縛る仕事で50m 単位で、1本幾らと言う勘定で仕事をしていました。子供を側の畑に犬と共において、自分は暑い盛りを仕事に精を出していました。有る日、彼が珍しく仕事に出て来ませんので様子を仲間に聞くと、彼の子供が嵐で町の高圧電線が倒木 で架線が切れて、誤ってそれを踏んで感電死したと教えてくれました。悲しい突発的な出来事でした。彼は小屋で酔って寝ていまして、起こしても起きないほど溺酔して、全ての気力を失っていました。 彼の犬が側でジッと座り、見守る様にして薄ぐらい小屋で座り込む姿が見られました。私も心配で見廻りの時に小屋に寄りますと、犬がジッと小屋でうずくまって居ました。何も犬の食べ物は有りません、水瓶が小屋の中に有るだけで、 私はその小屋に彼にはトウモロコシのお粥と、犬には筋肉の乾肉を幾らか持たせました。静かな小屋の中で、お粥が入った鉢の側で犬が心配そうに飼い主を見て居るのが、見廻りで寄った時に見かけまして、私は酒瓶を小屋から持ち出すと、その中身の焼酎を全て捨てて仕舞いました。 しかし、仕事には出て来ませんでした。気力を失った様でした。河の岸辺の水揚げポンプ小屋に見廻りに行った時に、岸辺で犬を抱いて河の流れを見ている姿が有り、やつれた後姿を今でも思い出します。時々、仲間が運ぶ食事も残している様でした。 岸辺に座り込む飼い主の顔を、犬が優しく傷ついた彼の心を慰める様に舐めていました。私が仲間のインジオに酒は絶対に売ったり、与えてはいけないと注意して厳命していましたので、酔い潰れる事は有りませんでした。 しかし、彼が何処に行く時も、犬は後ろを付いて歩いていました。週末に焼肉のバーベキューをしていたら、犬がおこぼれの骨などを貰いに来ていました。アバラ骨の、まだ肉がかなり残った所を与え、食べさせました。しばらくは、ろくな食物を貰ってはいなかったのか、かなりやつれていました。 沢山食べて犬も満足そうにして、側の灌漑用水の水を飲んでいまして、私も安心しましたが、ふと思いついて、パンに焼肉を挟んで新聞紙に包むと、まだ暖かい包みを犬を呼んでくわえさせ、小屋を指差して、持ち返る様に指示しました。 犬は私の顔を見上げると、包みをくわえてボコボコに乾いて埃っぽい道を、嬉しそうに尻尾を振りながら小走りに帰って行きました。その翌日です、彼が犬を連れ訪ねて来て、請負いの仕事を精算してくれと話して、昨日の焼肉のお礼を言ってくれました。 少し精気が戻っていました。これから子供が死んだ現場に十字架とお花を捧げて、南のリンゴ地帯に、手入れと収穫に行くと話して、タバコをトウモロコシの薄皮に手巻きして、吸っていました。彼は精算した現金を懐に入れると、農場の売店でいくらかの 食料品を買うと、犬と町に続く道を歩き出しました。暑い日差しの下で、犬と僅かな荷物を持った後姿をジャングルの木陰に消えるまで見送りました。別れぎわに、『南に下りてリオネグロあたりでしばらく全てを忘れるまで、そこで仕事をする』とポツリと話したのを覚えています。 ボコボコに乾いた農道のかげろうの揺らめく中を、犬と並んで歩き、小さくなる姿が今でも忘れることは出来ません。


97・ このお話はだいぶ前です、かれこれ20年ほどになると思います私がアメリカでコンデミニアムと言う集合住宅の管理をしていた頃です、そこではかなりの大きなプールも有りまして、最低週四回は行って見廻りをしていました。 私がいつもトラックを駐車していた所は、大きな松の木が有り、夏でも涼しい風が通過して、直ぐ近くには小川も有りました。行くと必ずランチはそこで食べていました。直ぐ側の家にはお婆ちゃんがバニーと言う子犬と住んで居ました。 近所に娘が結婚して住んで居まして、時々見に来ていました。バニーと言う子犬も娘からの贈り物でした。可愛いい子犬で、毎日散歩に近所をお婆ちゃんと歩いていましたが、私がランチを食べていて、その時、丁度弁当に卵焼きが有り、 それを食べる途中で、ポロリと一切れ落として、捨て様と思い弁当の蓋に置いていました。丁度、バニーが歩いていて、私のランチの匂いに誘われてクンクンと私のトラックの下に来て見上げていました。 私はこれ幸いに卵焼きの一切れを小さく切って、先ず試しに食べさせました。バニーは尻尾を猛烈に振って、『もっと頂戴〜!』と騒いでいました。その強烈なジェスチャーで、私はそれそれと次ぎを、三ッぐらいに分けて与えました。 お婆ちゃんが後ろからバニーに追い付いて来て、直ぐ側の家に入ろうと誘いますが、拒否ですーー!見ていると、バニーは『もっと呉れ〜!』と騒いでいました。丁度お腹も空いていたと感じます。バニーは首輪にヒモを付けら れ、しぶしぶ家にひきずられて帰って行きました。しかし翌日です、同じ時間帯に散歩に出ますので、私のランチ時間と丁度同じ時間となり、バニーが家を出ると私のトラックに飛んで来ます。お婆ちゃんはびっくりして見ていました。 『ワンワン』と吼えて、『卵焼きを呉れ〜!』と騒いでいます、私が食べていまして、その匂いを覚えている様でした。ランチのオカズには必ず卵焼きが入れて有りましたので、その時は食べかけを『チョン〜!』とあげましたら『もっと呉れ』と、いくつかの芸を自分から見せてくれました。 クルクルと回転する、上手な芸には驚いてしまいました。その日も芸を見せて貰ったご褒美に一切れの大きな卵焼きをプレゼントしました。多分それが悪かった様でした。それから毎日です、私のランチ時間を覚えてしまい、何時もその時間帯、散歩が無いと、『ワンワン〜!』と外に出るまで吼えていました。 私もついつい、その吼え声を聞いて、直ぐ側の家で、塀の中に居るバニーに卵焼きを配達していました。すっかり仲良くなり必ず、色々な芸をして見せてくれました。特にネギとシラス干しが入った卵焼きは、目を細くして犬でも美味しそうに食べていました。 しかし有る日、私が朝早くトラックを駐車させると、娘が泣きながらバニーを抱いて家の前に居ます、何事かと聞きますと、『昨夜、心筋梗塞で急死した』と話してくれました。そしてその翌日、近くの教会でお葬式が有りました。 私はこれがバニーと最後の別れとなると感じて、ワイフに卵焼きの特大を作ってもらい、サンドイッチの袋に入れて持参して、娘に卵焼きの作り方を書いたメモを入れて置きました。お婆ちゃんのお葬式ですが、バニーは娘の膝で私が渡した包みの匂いを知り、目を輝かせていました。 その姿がバニーを見た最後でした。その年のクリスマスにカードが娘から来て、バニーの可愛いリボンを首に巻いて写った写真が同封されていました。今も私の机の引出しの中に、大切に仕舞って有ります。お婆ちゃんが急死してから、ランチ時間となるといつもバニーが転がる様に走って来た事を思い出していました。


98・ 
戦争が終り、戦地から復員してくる人がボツボツと郷里の町に見られる様になった頃でした。私の家族は当時はまだ焼け野原の市街地から離れた、住宅地の新興住宅地でマーケットを開いていました。その頃はまだ子供で、現在では余り記憶も残っては 居ませんが、このお話は良く心に刻まれて残っています。その話しの老婦夫のご主人は目が見えなくて、そのワイフが杖を片手にして、ご主人を引いて店先に来ます。そして大声で。 『きたきたーーほいなら、きたきたホーイ〜! アラーーがまだしゃ(頑張れば) はいやー、ホイのホイー!』と言う簡単で、直ぐに覚えられる唄でした。 かなりの高齢で、戦災で家を焼かれ、まだ防空壕に住んでいましたが、かなりの距離をゲタを履いて歩いて来ていました。すると、直ぐに子供達が、廻りを囲み、今日は何が要るか聞いて居ました。米、味噌、砂糖、塩、ロウソクなど全て、生活用品でした。 終戦後まだ日が浅い時期です、食べる物にも困っていた時代で、皆が助け合い、分けち合い、支え合い、生きていた頃です。 餓鬼大将がすばやく、手分けして近所に知らせに走ります。まだ朝の食事も済んでいないと言う事も、知らせていました。それからが老婦夫が門付けの唄を歌うと、湯呑み茶碗に米が山盛り盛られて、子供達が各自下げた袋に入れられ、子供が 大声で『おばさん〜!お米、有り難う御座いますーー!』と近所に聞える様に、デカイ声で怒鳴ります。次ぎは味噌を竹の皮に包んで貰い、そこでも大声でお礼を叫んでいます。袋は直ぐに沢山の生活用品が入れられて、それを子供が担いで 側を歩いています。時には卵や、乾魚なども有りました。卵など貰うと、米の中に入れて割れない様にして担ぎます。リヤカーを引いた近所の農家のおばさんが、ネギなど野菜を沢山持たせてくれ、子供達が全員で『おばさん〜!ありがとうー!』と声を掛けていました。 田舎町の有名人でした。食事が貰えると老夫婦は玄関先で並んでゆっくりと食べます、目が見えない主人をかばって時々はオカズを茶碗に取り分けて食べさしていました。その時は子供達は黙って見ていました。時々、子供が『美味しいーー?』と聞いていました。二人はうなずいて、黙って食べていました。 食べ終わると、ご主人と二人で並んで、その食事を振舞ってくれた家の人に両手を合わせて『どうもーーご馳走様でした』と言うと、門付けの唄をもう一度歌います。その時は子供達も合唱して歌います。その家人は喜んで『良く寄りやしゃんさった』 と言って、子供達にもキャラメルなどを与えていました。当時、田舎の助け合いの相互扶助の精神でした。生活保護などがまだ出来上がっていなくて、近所の近隣の住人がその様な人を助けていました。全てが終ると、子供の代表が荷物の袋を手に 後を付いて歩き、防空壕の住家まで送って行きました。そこに着くと、バケツで井戸から水を汲むと、水桶に一杯入れて、時々貰う炭を割り、火が直ぐに起こせる様にしていました。子供達の親も、そこの老夫妻の手助けに行く時は何も言う事は有りませんでした。そして何か直ぐに食べられる物を持たせていました。 その夫妻の子供が戦地から復員して帰えると、直ぐに息子が近所の口利きで炭坑で仕事を始めて、鉱山会社の社宅に入り、両親を引き取り、面倒を見ていました。戦災で焼けた家も息子が頑張って建て治して、結婚して両親と住んでいました。


99・ 私が終戦記念日に思い出す話は沢山有ります、当時の私が育った環境では忘れられない思いとなって、心に残って居るからです。この話は戦争が人間の愛と絆をも壊す事無く、悲しい思い出として残っていた事実の出来事です。 私が住んで居たのは、九州の大牟田市でした。私の祖父が今から百年近く前に住み始めたからでした。私の父と台湾から家族で戦争が終り、引き上げて来ました。当時まだ祖父が住んで居た家が残っていて、そこに落ちついて生活を始めて、九州弁も話す 事が出来る様になり、確か小学生の高学年の時と思います。近所で親子二人で生活している家族が居ました。子供といってもかなりの歳の女性です。その頃35歳は過ぎていたと感じます。母親は市の公園課で、その子供の女性は会社で仕事をしていました。 近所で婚礼が有り、若いお嫁さんが来て賑やかでした。有る日、近所の友達の家で遊んでいた時に、そこのお婆さんに婚礼の賑やかさを話して、『どうしてあの綺麗な女の人は結婚しないかーー?』と聞いていました。 すると、『まだ子供がそんな事を聞くものではないーー!』と叱られましたが、お婆さんが『全てが戦争のおかげでそうなった』と言うと『気の毒な人だよーー!』と言うと、涙ぐんでいました。 その話の続きは友人宅でおやつの蒸かし芋を出されて、そこの友人の母親と食べながら話して、教えてもらいました。 彼女が戦時中の勤労動員で女学校から、工場で仕事をする者、飛行場で戦闘機の仕上げの磨きと、清掃をする者などに別れて勤労奉仕の作業をしていた時に、飛行機を受け取りの業務で 来ていた若い海軍の飛行士と知り会った様でした。戦争が激しくなり、神風特別攻撃隊が編成され、特攻作戦が開始された頃に、彼女との仲も婚約者としての仲になっていた様でした。終戦間際に沖縄に米軍が上陸開始して、特攻作戦も激しく なり、彼女の恋人もその一人の中に入り、全てを捨てて突入する攻撃命令が出て、最後の帰郷の許可が出た時に、その二人の間でどの様な話が交わされ、短い時間を過ごしたかは誰も知りませんが、恋人のパイロットは彼女が贈った純白の絹のマフラーを巻き悠然と手を振りながら、離陸して行ったと言う事でした。 鹿児島突端の知覧飛行場から沖縄の海に向けて、二度と帰らぬ出撃に彼女がどのような心で見送ったかは知りませんが、悲しい別れであつたと感じます、身も心も狂う様な別れと感じます。 友人のお母さんが話しながら、目頭を押えて居た事を覚えています。彼女はその当時、8月15日の旧盆休みには必ず、恋人が出撃した知覧飛行場の供養塔に行き、お花を捧げて祈り、帰りに、熊本市内に有る恋人のお墓に参拝して来るのが決まりと言う事でした。 私が彼女を最後に見たのは、アメリカに移住する為、お別れに両親の家に帰郷した時、裏の河の土手の上から、近くの橋の上を歩く彼女を見たのが最後でした。その当時彼女も50歳近い年齢であったと感じますが、一人者で独身を貫いていると聞いた事を覚えています。


100・ 
夏休みの暑い盛りでした。丁度、その日が8月6日でした。暑い九州の夏です、セミ時雨が絶え間無く泣き、昼下がりの市民プールからの水泳の帰りでした。急に曇り、風も出て来て何か夕立の感じでした。一緒に行った友人と分れ、一人で歩いていた時です、雷が鳴ると同時に雨がパラパラと降り出しました。私は慌てて公民館の建物の軒下に飛び込み、傘も無くてぼんやりして、夕立の凄い雨を見ていました。気がつくと側に誰か雨宿りをしているのが感じられ、良く見るとお坊さんでした。目が不自由な感じで、盲人が持って居る白い杖を右手に持って小さな木造の公民館の縁側に座って座禅を組んでいました。『そこの雨宿りさんーー!ここにお座りなさい!』と言うと手真似して私を呼びました。ニコニコして愛想の良さそうな感じの坊さんでした。肩から斜めに掛けていた袋から、『法事のお下がりの饅頭だが』と言って私に2個の饅頭を差し出して、『食べなさいーー!』と勧めてくれました。プールで泳いでいたので、かなりお腹が減っていましたので、有りがたく頂いて口に入れて食べていました。食べ終わると、また袋から小さな水筒を出すと『麦茶だけどー』と言ってフタに注いでくれ、勧めてくれました。私は丁度、何か飲みたかったので、それも有り難く飲みました。雨はまだ激しく降っていました。ぼんやりしていて、私はフト!気が付くと訊ねました。『お坊さんは何でも、僕の心が分る様だーー!』『お腹が空いていた事も、何か飲みたい事もーー!』『どうして分かったの?』と聞いていました。その頃は、まだ中学生頃で、何でも興味があった頃です。ズケズケと聞いていました。坊さんは笑いながら『目が殆ど見えないから、心で感じる』と話してくれました。私は不仕付けに『どうして目が悪くなったのーー!』聞いていましたが、坊さんはいやな顔一つしないで『広島のピカドンで!』と答えてくれました。『防空監視壕からB29を見上げて、パラシュートが投下され たのを見ていたーー!そしたら、閃光が走り一瞬で、全てが 消し飛ぶ感じで監視壕の中に叩きつけられ気絶していた』と話してくれ、それ以来、目が見えないと言って、にこやかに私に『命が助かっただけでも、仏様に感謝しているーー!』と言うと『部隊に居た沢山の、仲間の兵隊さんが原爆で死んでしまった』と言うと、数珠を手に拝む様に手を合わせていました。私の心はシーンとして、聞いていました。お坊さんは空を見上げて、『今日はお天道様も泣いているよーー!』と言うと白く濁った目から涙がこぼれていました。そしてひとり言を話す様に、 『同じ監視壕に居た仲間の兵士に助けられて、手を引いてくれる道すがら、何人もの原爆で死んだ人に行き当たった』 『それから沢山の人が水・水ーー!と叫んで苦しがって、欲しが って叫んでいた』と言うと、ポロポロと涙をこぼして泣いていました。私は『シューン』として聞いていました。 気が付くと雨が小止みとなり、虹が遠くの空で綺麗に七色の橋を作っていました。お坊さんは衣の袖で涙を拭くと、  『今日は何の日か知っているかいーー!今日が広島の原爆投下 の日だよーー!』『死んだ仲間の兵隊さんの法要で、お経を上 げて来た帰りだよーー!』と言うと、 『戦争はむなしいねー!悲しいねー!悲惨だねー!』 つぶやくと、雨上がりの、虹が輝く空に両手を合わせて祈っていました。



101・ 
今年も8月15日の終戦の日が近づいて来ました。半世紀も過ぎて、過去の出来事と消える事も無く、多くの人が心に残している物語が有ると思います。この話しは終戦後20年ほどして南米に移住した人が心に抱えていた物語です。 彼は私より5〜6歳は年上でした。現在生きていたら70歳は過ぎていると思います、1965年当時、彼はアルゼンチンのボリビア国境近くの町に住んでいました。小さな地域社会です、彼がその町に流れて来たのはボリビアから降りて来て、無銭乗車していたトラックが町で停車して、そこの町に僅かな日本人が農業で住んでいたからでした。 国道沿いに農場を開いていた日本人の家を、ふらりと訪ねた事がその町に居付く事になったのでした。彼は誰にでも好かれる人柄で、当時小さな土地を借りてトマトを作り、現金を握ろうとしていました。 私は町に出るとよく訪ねて行きました。話しが合い、年齢的にも考えが合っていたと思います。当時近所の農家が日本種のサツマイモを作りまして、少しずつ配ってくれました。私達が栗イモと言う、ホクホクの甘いサツマイモでしたので、有り難く食べていました。彼にも食べさせたくて、イモを蒸かすと熱々の美味しそうなイモを持って訪ねて行きました。 夕方の涼しくなった時間だったと思います、彼も農作業が終りまして井戸ばたで夕食の支度の準備を始めていました。私が持参したイモを見ると、急に戸惑った感じで、私が差し出すイモを見て、私が『美味しいから〜!熱い内に食べたらーー!』と勧めると、急に涙声で 『俺は食べられないーー!食べてはいけないーー!仏のバチが当るーー』と言って、涙をポロポロと落として唇を噛んでいました。私は彼の態度に驚いて、彼が少し落ちついた頃に聞きました。 彼はその理由をゆっくりと話してくれましたので、全てを理解する事が出来ました。彼はカンニヤーの焼酎を素焼きの水瓶から冷えた水で割ると、飲みながら話してくれ、彼が南太平洋のサイパン島で育った事を初めて知りました。 戦争が始まりサイパン島にも米軍が上陸して来て、疎開をしていなかった彼の家族は戦火に巻き込まれ、逃げ惑う事になった様です。なぜ日本本土に疎開しなかったかは知りませんが、当時父親は出征しており南方戦線に居た様でした。母親と子供三人が島を逃げ惑い、隠れて居た 様です、砲撃と艦載機の襲撃で最後は、海岸の絶壁に近い洞窟に家族と隠れて居たと話していました。家族が持っていたのは大きな水入れのヤカンと飯盒、各自が水筒を提げ、僅かな医薬品と包帯代わりの真っ白なエプロンを持っていたと言っていました。 砲撃が激しくて外には一歩も出られなくて、僅かな食料も残りの固パンを食べ尽くすと、しばらくは水だけで飢えをしのいでいた様でした。彼は一番下のまだ小さな頃で、母親に『おイモでも食べたいね〜!』と母親に ねだって、シクシクと『お腹が空いたーー!』と泣いていた様です。母親は上の兄に下の妹と弟を面倒を見る様に言って、もし帰ってこない時は、包帯代わりに取ってある木綿の真っ白のエプロンを持って、米軍に投降する様に言い含め て、一人一人、子供達を抱きしめると、暗くなった暗夜にまぎれて食料のイモを探しに出かけて行ったと話していました。地下足袋を履いて、モンペ姿で消えた母親が忘れられないと言って、目頭を押さえ涙をこらえていました。 翌朝になって、日が昇り、太陽が真上に来ても母親は帰っては来ませんでした。一番上の兄が洞窟の入り口から出て探しに行ったけれど、どこにも居なく、ついに兄は母親が言い残した様に、真っ白な母親のエプロンを広げ、木に かざして、妹に持たせ、自分は片手に水の入ったヤカンを持ち、弟の手を引いてスピーカーで投降を呼びかける場所に出て行った様です。直ぐに米軍に発見され、通訳の日系2世の案内で収容所まで送られて、手 厚い保護を受けて、先に占領されていたフィリピンに送られて、終戦後に日本に兄弟妹三名で帰国したと話してくれました。収容所では、いくら母親の事を聞いても、誰もその消息を知る人は居なかったと言っていました。 田舎では先に復員して帰っていた父親が迎えてくれ、母親の遺骨代わりにエプロンの四分の一が壷に入れられて埋葬され、あとはの3つは三人の子供達に母親の形見として、分けられたと言っていました。 彼はそこまで話すと、暗くなった畑に出ると、星空に向かって吼える様に、 『おかあさん〜! おか〜あさんーーーー!』『お母さん、ごめんなさいーー!僕がイモを食べたいといったばかりにーー!』『ゆるして下さいーー!僕をゆるしてーーー!』 薄ぐらい夕闇の中で、彼の手に握りしめられている白いハンカチ状の物を固く夜空に突き上げて、怒泣するがごとく両膝を土に付けて泣き崩れている姿を見て、涙が止まらなかった思いが有ります。 戦争は人間同士の殺し合いだけではなく、多くの人々の心まで殺し、傷付いて、いつまでもそれを引きずって、歩かなければならないのです。


102・ 夏になり、カリフォルニアも連日の猛暑です。しかし日が陰ると涼しい風が吹いてきて、乾燥した大陸性の気候で木陰も風が有ると,時には寒い感じがすることが有ります。 私がカリフォルニアに住みついたのは地中海性気候の乾燥したアルゼンチンと同じ感じの気候でサンフランシスコ沿岸地域はブエノス・アイレスと同じ感じがしたからでした。現在のブエノスは人口も増えて、車の台数も40年前とは比べ られ無いほどで、大気汚染も酷く、70年代の始めのロサンゼルスと同じ感じがします。私がアルゼンチンのサルタ州に住んでいた時代は今から40年も前になります、その頃は私の住んで居た小さな町は人口も少なく、そこから12kmは、またジャングルの中に入って行かなければなりませんでした。 丁度,ブルドーザーが押して作った道の終点の河岸に、四軒の日本人の農場が固まっていました。その農場に遠くはボリビアからの出稼ぎが来ていました。家族ずれは余り居ませんでしたが、独身の若い男が来ていました。 彼等はインジオより良く仕事をして、監督などの頭になって仕事をしていまして、農場では大きな戦力でした。その中に若い男の世帯持ちが居て、ワイフもボリビアから連れて来ていて、農場の小屋に住んで居ましたが、小柄な若い綺麗な女性でした。 私も時々、河岸で洗濯や、魚取りをしている彼女を見ていました。時々、挨拶するくらいでしたが、ある日その小屋で事件が発生して支配人の私に現場に来るように誰か飛んで来ました。かなり慌てている様で、私もすっ飛んで小屋に行きました。 驚いた事にその若い女性がテンカン持ちで、発作を起して炊事の焚き火に転倒して、かなりの火傷を腰と尻の部分に負っていましたので、オタオタする人間を追い払い、焼けたスカートを切り取り下半身から、皮膚が崩れない様にして衣類を剥がしました。 私は救急処置の方法を日本で学んでいましたので、すぐさまに冷たい水を汲んで来させると、綺麗なタオルを火傷の患部に乗せドンドンと冷やしました。白い下半身が一部赤くなって水膨れとなり、私は運転手に命じてトラックを小屋に横付けして、ベッド に寝て居るままで、荷台に運び込み、町の病院に搬送させました。若い女性の夫と兄弟2人が運転手と夜中の道をトラックで飛ばして行きましたが、翌日私が町に出た時に病院に寄ると、医者が緊急処置が良かったので、酷いケロイド状にはならないと話していました。 しかしサルタ州都の町まで送らないと、ここではこれ以上は治療が出来ないと話していました。彼女が行く前に病院に寄った時、私はいくらかの現金を彼女の手に握らせていました。それからしばらくして、彼女は州都の町に送られて行った様でした。 私がトラックター部品を買いに州都に出掛けて行くと聞いて夫が僅かな見舞いの品を私に託しましたが、金銭は有りませんでした。仕事が済んでから帰りに病院に寄ると喜んでくれ、誰も見舞いも無い病室でポツーンと寝ていました。 腰の廻りは半円の金具で毛布が掛けて有り、中は何もはいては居ない下半身がチラリと見えて、ガーゼが腰に張って有り、暑い病室で彼女が『何か冷たい物を飲みたい』と、つぶやいていました。私は近くの売店で冷たいオレンジ・ジュースを買うと、 与えて別れを言って病室を出ようとすると、何か言いにくそうにして私を見ます、何か用事が有るのか訪ねました。『汗をかいて背中が痒いーー!』と言います、可愛そうに寝たきりで、かなり汗に蒸れて居る様でした。 背中がびっしょりで蒸れています、ベッドから上半身起して病院服を脱がせて乳房も剥き出しで、冷たい水にタオルを浸して拭いてやりました。同室の患者は歳寄りの、かなりの年齢で身動き一つしません、静かな部屋で彼女が甘えているのが感じられ、 乳房の周りを拭いている時に、彼女の手が私の手を誘う様に乳房にタオルを寄せます、そして気持ち良さそうに乳房を冷たいタオルで拭いてもらうのを、楽しんでいる感じがしました。小さくて先の尖った乳房です、はにかんで私の顔を見ると、うつむいてジッとして、女の快感を堪えている感じがしました。 農作業で無骨な私の手です、かなりゴシゴシとタオルを使い、拭きますので、彼女が堪え切れない感じで、私の手を取り乳房に強く押しつけました。その時、電流が走る感じで私の手に感じる衝撃が有りました。それが何かーー!私には感じました。 それから彼女の身体を横にして、下半身も簡単にタオルで拭いてやると、その間彼女は無言で私のするがままでいました。終ると感謝の言葉を何度も言うと、そーっと私の手を握り、はにかんでうつむいていました。私は帰りに売店で色々な食料品と肌着など彼女が、声小さく欲し がるのを買ってやると、いくらかの現金を手に握らせて帰途に付きました。今でも彼女の感謝の眼差しと、女としての彼女の手の感触を覚えています。 彼女は火傷の傷が癒えると、迎えに行った夫とボリビアの故郷に帰って行きました。


103・ 
私の夏休みは金曜日から娘の住んで居ます、サンタ・バーバラに遊びに行っていました。日曜日に帰宅しても、まだお休み気分が取れません、今日などかなり日中は気温が上がり、グターと夏枯れ状態です。夕食後、TVを見て少しトロトロとしていて、やっと今頃パソコンの前でキーボードを叩いています。 『犬が歩けば棒に当る』と言いますが、しかし人間が歩けばそれは何に当るか、想像もつきません。この話しは私が思い出すと笑いがこみ上げて来る出来事でした。それはリオ・デ・ジャネイロの港に停泊していた時です、乗船していた船から降りて町に出かける時でした。 オランダ船の貨客船は高級船員以外は殆どが中国人でした。日本人乗客に為に日本人コックが一人乗っていました。それから、事務長は戦前の日本陸軍の士官学校を卒業している人でしたので、日本語はベラベラでした。 船から降りる時、中国人船員が何か騒いでいます、出口のゲートが厳しくなって船員手帳のみでは、身体検査で徹底的に調べられると話していました。彼等の内職がこれでは出来ません。彼等の内職の一番は時計の密輸です、小さくて金になる品物です 当時、日本製のセイコー時計が殆どで、1966年当時の金で12000円ぐらいの時計が売れていました。私が船を下りてゲートに行くと、パスポートを提示して通過しようとすると、水兵の制服を着た衛兵が止まれと言いました。 私が東洋人で、中国人と勘違いしたと思いました。若い水兵です、下手な英語で『服装検査するーー!』と言いまして、衛兵の小屋に呼び込まれ、『何か隠していないかーー?』と聞いて来ました。若い水兵の傲慢な態度に『カチーン〜!』と来ていました。 しっこく『何か密輸品を隠していないかーー?』と聞いて来ます、私はからかって『大型ピストルを所持している』と答えました。その途端に肩に掛けていた小銃を構えると『隊長殿ーーー!』と大声で隣りの事務所を呼んでいます、近所に居た仲間の水兵も銃を構えて私を囲んでしまいました。 私は『チョイーー!まずい事になった』と考えていました。ハンサムな若い将校が来ると、何事かと聞いています。若い水兵は『彼が大型ピストルを所持していると白状しました』と報告して得意な顔で私を見ました。 将校が私の前に来ると、上手な英語で、『ピストルを出して見せて下さい』と丁寧な言葉で聞いて来ました。私は『ズボンから取り出しては見せられないーー!』と答えてニヤリ〜!として笑っていました。 将校は私がズボンのベルトを緩めて、上のボタンを外して『ここに入れている』と言うと、ひょいと覗き込み、ニタリ〜!と笑うと『デカイ大型ピストルであるーー!』と言うと、若い衛兵の首を掴むと『見てみろ〜!あれもピストルと言うーー!』とギユー! と若い衛兵の首をズボンの前に差し出して、見せ付けました。そしておもむろに私のパスポートを見ると『あのピストルの事を日本語ではなんと言うーー!』聞きました。私は『ちんぽこ〜!』と言うと教えました。 それからが大変でした。若い将校はパット姿勢を正すと、おもむろに『大型チンポコ殿に敬礼ーー!』と衛兵に命じました。四人ぐらい居た衛兵が一斉に、小銃を捧げ筒の構えで並んでいまして、私はどぎまぎして慌てていました。 将校は敬礼して、パスポートを返してくれ、『ニタリ〜!』と笑うと『どうぞ通過して下さいー!』と声を掛けてくれました。ドーッと衛兵の水兵達がどよめいて笑い、それからは必ず私が通過する時は、衛兵が『大型チンポコ殿に敬礼ーー!』とやり笑っていました。 しかし、他の通行人は若い日本人に、衛兵が小銃の捧げ筒の礼で通過させるので、目を丸くして驚いていました。それも何の検査無しでしたから、しかし直ぐに日本人コックから話しが来て、『一度に2個までは時計は船から合法で持ち出せる』と有り、早速に中国人船員が頼みに来ました。 『降りる度に2個ずつ持って降りてくれ〜!』です、そして『貴方だけは大丈夫ーー!』と笑っていました。港のゲートを出て、タクシーに乗り近所を一周して来て、時計を運転手に渡すと、当時の金で20ドル貰えました。 合法的な船から時計の持ち出しです、私も余禄の金を握り、中国人船員はホットして、衛兵は私が通過するたびに大喜びで『敬礼』と叫んでは大声で、『大型チンポコ殿に敬礼ーー!』と、はしゃいでいました。私のブラブラしている物で、皆が八方、にこやかに納まったのには、私も当時驚いていました。


104・ 
私がパラグワイを出て、アルゼンチンのブエノスの来て知人の紹介で、街中の日本人のナセリーの仕事をしていた頃です、そこに時々、草花の苗を買いに来ていた、かなり年配の日本人庭師が居ました。 彼は独身で、第二次大戦になり、帰国する事も、恋人を呼び寄せることも出来なくて、ついついと時間が経ち、老いてしまったと話していました。一人小さな部屋を借りてそこに住んで居た様で一度訪ねた事があります。その時近所のレストランで食事をしな がら話して呉れたそれまでの人生行路を聞いて、戦争が人の人生を全て変える事を感じました。好きな女性がブエノスで出来たが、彼女が水商売で、どうしても過去の事にこだわり、貴方の様な真面目な人とは結婚出来ないと断られたと話していました。 彼は若い時は写真家を目指して頑張った時も有り、少し写真を飾っていました。それからしばらくして、急にナセリーに来なくなったと思ったら、心筋梗塞で急死していました。県人会の友人が、全てを頼まれていて、僅かに残して有った 荷物を整理して処分していました。私は彼が住んで居た家を訪ねたら、ガランとした空き部屋が有るだけで、僅かなゴミが部屋の前に置いてあり、その中に『このまま開けずに捨てる』と日本語で書かれた紙袋を見つけました。 私は友人が約束を守っ、開けもせずに捨てたと感じました。私は興味が有り、それを拾うと家に持ち返り、夕食後に寝台の上に開けて広げました。わずかな写真が出て来て、セピア色に変色した古い写真でした、おそらく彼が若い時に写した 写真と直感で感じ、めくっていくとその中に全裸の若い日本人女性の愛らしい姿が、はにかんで、恥ずかしそうにポーズを作り、写っていました。可憐な姿で浴衣がずれて、可愛い乳房が見え、細い足が浴衣からのぞき、丁寧に和紙で包んだ様子から、特別に大事に仕舞って 居た感じがしました。おそらく彼の若い時の恋人と直感しました。僅か三枚の、全てを写した写真です。彼が片時も離さず死ぬまで所持していた物と感じると、おそらく彼にとって大切な、大切な物であったと感じました。何か有ったらそのまま捨てる様に いつも袋に厳重に入れて、友人にも触れない様に注意書きして有り、そして、彼の希望どうりに捨てて有ったと感じました。私は見終わると、直ぐに袋に写真を戻し、封をしてしまい二度と触る事は有りませんでした。週末に友人との、バベキューの焚き火の中で灰となってしまいました。今では遠い昔の夢での出来事と感じます。


105・ 私がこの歳まで歩いて来て、長い年月の過ぎた過去を振り返り、思い出からのお話をして居ますが、あとどのくらい、パソコンの前でキーボードを叩けるかは分りませんが、歳を取ると一番に衰えるのが視力です、身体は鍛えていますので、今でも 毎日の歩行距離は、万歩計での計算では15kmは歩いていますが、昔は土曜日まで週6日でしたが、今では5日となり週末はお休みとしています。朝は6時に起きて、夏はそれから有機野菜の収穫をして、水掛をしてから仕事に出ます、帰宅するのが だいたい5時頃で、また家庭菜園の手入れをして、水掛をして夕食となります、7時頃に衛星TVの録画した日本語放送を見ながらワイフと二人で一日の団欒として、楽しい一時を過ごしていますが、それからお茶を片手に書斎に入り、パソコンに向き合いメールの点検と、返事を書いて、それから書き始めます。 私が41年前に農業をしていた、アルゼンチンのサルタ州はその当時はまだ、首都ブエノス・アイレスから遠く離れ、かなりの過疎地でした。仕事を終って寝椅子に転がって夜空の星を見る事が好きでした。 時たま人工衛星がスーッと流れ星の様に過ぎ去るのは、感激の思いでした。このまま夜空に吸い込まれる感じがして、宇宙の偉大さを感じました。人間の命は、たかがその当時平均70歳も有りませんでしたが、男と女が寄り添い、夫婦として生活営む 時間も実際は僅かと感じました。農場で仕事に来る若いカップルは沢山居ましたが、当時農作業で仕事をする労働者は殆どがインジオでした。彼等は一年間の現金収入をその収穫の時期で稼いでいましたが、若いカップルの中には仕事に来て、仲違いをして、部落に帰る女性もいました。 有る時、丁度祭日で農場も一日の休みとして、給料を払い仕事を完全に一日休みとして、静かな日でした。私は水揚げポンプや休日を利用して、トラックターのオイル交換など忙しい日でした。夕暮れとなり我々農場に居残った数人の 人間がバーべキューをして、ワインを開け、休日を楽しんでいましたが、誰か小屋に若い女が残って荷物を整理して、部落に帰る支度をしていると話していました。私は気が付いていましたが残りの焼けた肉とパンを持って小屋を訪ねると、ポッンと小屋 の横で座っていました。彼女は『今夜涼しくなったら歩いて部落まで帰る』と話していました。驚いた事にその距離が25kmは有ります、夜中の涼しい時間に夜どうし歩く様です、彼女は私が持参した肉とパンに感謝して、食べ始めました。 私に『彼とは別れてブエノスの都会に姉を頼って仕事に出る』と教えてくれました。私は家に戻り、今夜の水揚げポンプを始動する為に、夜食とワインのボトルを持って岸辺のポンプ小屋に出かけて行きました。ポンプ小屋でしばらくは燃料の補給や ベルトの点検などをして、エンジンを始動させ、水揚げの点検で水路の流れを見に河岸に裸で降りて、水路の掃除をしていましたが、ふとー!誰か近くに居る様でした。素裸ですー、ギョー!として気が付くと、先ほど肉とパンを届けたインジオの女性です、 小屋の横の木陰に彼女達が荷物運びに使う、丸いカゴをを担ぎ見ていました。中には僅かな荷物が入っていましたが、それを下に降ろすと、座り込んで私のすることを見ていました。素裸です、下がブラブラするままでの仕事で、私も困っていました。 私は仕事が終ると手で前を隠して、小屋でパンツをはいて来ました。彼女は小屋の横に座り込み、笑っていましたが、私も毎日忙しくて彼女と話す機会も無く、どんな女性かも知りませんでした。私も誰も居ない静かな農場で、人に見られることも無く 少し大胆だったと思います。暗くなりかけた小屋でランプを点けて単調なエンジンの音を聞きながら、ワインの蓋を開け、彼女にも勧めました。彼女は喜んでコップを受けてくれ、飲んでくれました。私も皆が一時帰宅か、町に遊びに出かけて誰も居ない 農場でボケーとしているのが、少し気に触っていました。飲むごとに陽気になる彼女に嬉しくなり、馬鹿を言ってふざけて、私もすっかりお祭り気分で彼女と騒いでいました。彼女にインジオの踊りが出来るか聞くと、驚いた事に、私の前で 上半身を脱ぎ捨て、乳房を出して腰に巻いたスカートだけで踊り出しました。完全なインジオの昔の踊りのスタイルです、福与かな乳房が揺れて、座り込んだ私に絡む様に官能的な腰付きで踊ります、その時、気が付いたのですがスカートの下は何もはい ては居ない感じでした。彼女は完全なインジオのスタイルで居たのでした。彼女は口ずさむ唄で踊りながら、私は両手で調子を取っていました。ランプの光に浮び上がり、乳房の谷間に汗が流れて彼女の熱演が、私の為に演じていると感じる踊りでした。 彼女の求愛のダンスと心に感じ、ジッと見ていました。目の前で福与かな大きな乳房が揺れ、細かくゆれる腰が、私の男の本能を呼び起こし、目覚めていました。私の耳にはエンジンの音も何も聞えなくなり、彼女の潤んだ眼差しと、先の尖った乳房と、 スカートの下で、はち切れる様なお尻の福与かなふくらみが目の前に有りました。私は目の前に近ずいた乳房に手を出していました。彼女は動きを止め、それを受けてくれました。それから私は自然と彼女の腰を引き寄せて、抱きしめていました。 独身の若い男の激情を受けてくれ、それが終ると河岸で水を浴び身支度すると、コーラーの瓶に詰めた灯油に芯を差した松明に点火すると、薄明るい光の輝きで私を照らすと『これでサルタ州には思い残す事はないーー!一度部落に帰りブエノスに出る』と 話すと、笑いながら小さなカプセルを見せて、『最後の錠剤が残っていたーー!』と言ってそれを私に見せるとポンと空を河に投げ捨て、激しく抱きしめると暗闇の河岸の小道を歩き始めました。そして二度と振り返る事も無く、戻って来る事も有りませんでした。 今でもゆらゆらと、ジャングルの小道をゆれて消えるような松明の光を思い出します。


106・ 私が農場で仕事をしていた時は独身でした。しかし独身でも農場の支配人をして、収穫からの歩合も貰えましたので、かなりの収入でした。食事や住居は一切タダでしたし、仕事も上手くこなして、かなりモテていました。特にチャワンコ族は日本人にそっくりさんが沢山いました。 真っ黒い髪と日本人と同じ胴長短足の特徴が有りました。そんな事で私も、日に焼けてインジオの感じが出ていましたので、彼等にも親密感が有った様です、良く独身の女性が3〜4人で仕事に来て、小屋に泊まって長く収穫の仕事をしている時が 有りましたので、時には親しく話しをする事も有りました。チャワンコ族は河で漁師をして、岸辺で農耕をしてトウモロコシやカボチャなどを作り生活していました。性格は穏やかな感じで、顔が日本人と似て居るので、親しみが有りました。 日本人が風呂好きな様に、彼等も一日、一度はどんな寒い日でも必ず水浴びして居る様でした。寒い日は身体の汗を流す程度で簡単でしたが、夏は洗濯なども同時にしていました。私も夏は河の流れで気持ち良く、身体を洗う事は好きでしたので 時々彼女達と河で仲良く水浴びして、楽しんでいました。チャワンコ族は河岸で育っているので泳ぎが上手で、私は彼等と競争しても敵いませんでしたが、有る日、かなり気温が上昇した日でした。11時頃には昼休み入り、汗を流すのにトラックター を運転して、河のだいぶ深い所まで入り、そこから裸で河に飛び込み汗を流して、濡れたパンツ1枚でトラックターを運転して家に帰ろうとして、エンジンを掛けた時です、かなり離れた所で彼女達が同じく汗を流して洗濯をしている感じでした。 流れで洗濯物をゆすいで居る時に、腰に巻いているスカートの様な感じの布地を流してしまい、あわてて追っかけて来ました。私が河の中に居るので、彼女達はあわてて素肌を隠して水の中に座っていましたが、私一人で近所に誰も居ない事を知ると、急に 大胆になりまして、その時四人居た彼女達が『ワー!』と歓声を上げて追い掛け始めて、全裸の素肌が丸見えでした。丁度私がエンジンを掛けたトラックターの側で布地を捕まえて彼女達が歓声を上げていました。私が停車して目の置き場に困 って四人の若い彼女達の素肌をチラリと見ていたら、『ワ〜!』とはしゃいで、大胆にも私を河に引きずり込み、あれよ〜!と言う間に私のはいていたパンツを脱がしてしまいました。一人の若い女の子が、『ここまでおいでーー!』と言う様に 私のパンツをヒラヒラさせて、からかっていました。私は水の中で、ブラブラする物を隠していましたが、今度はそこを攻撃して来て、いきなり『ギユー!』とさわられ、水の中に足をすくわれて、ひっくり返り、支配人も哀れな格好で彼女達の玩具となっていました。 私も反撃の為に、彼女達の一人を後ろから抱きついて両手で乳房を『ギュー!』と握り、水の中に倒していました。しかし、そこまでで、後は彼女達の攻撃に『コテンパテン』に転がされ、あそこもかなり酷く掴まれて、河の水もだいぶ飲まされて、降参しました。 彼女達は私のパンツを私の頭の上に載せると、ワイワイ騒ぎながら、プリプリとしたお尻を揺らして水の中を駆けて逃げて行きました。全裸の素肌が太陽に輝いて、水飛沫の中で四人の若いインジオの彼女達の天心爛漫ないたずらに、その日、一日が何か楽しい感じで過ごしていました。 その時、私が偶然に触った一人の若い女のあそこが、何も生えている物が付いていなく、すべすべの『つるりー!』とした感じだったのを今でも覚えています。


108・ 
私がアルゼンチン奥地のサルタ州のボリビア国境近くの小さな町で農業をしていた時代です。時々、近所の小さな田舎都市に用事で出かけていました。殆どは耕作機械の部品買いでした。トラックターなどの部品で 緊急な時は、夜中でも出かけて、翌朝店が開店したら一番で飛び込で目指す部品を買って農場に帰っていました。その時は昼過ぎにトラックターの燃料漏れでパッキングのシールを交換しないと動かせ無くなり、あわてて出掛けて行きました。 店には電話で部品のストックも確認していましたので、閉店間際に飛び込み、部品を手にする事が出来ました。パッキングと言っても手の平に入る小さな物ですが、それが無いとエンジンが危険で動かせません、帰りは急いでいましたので トラックに燃料を満載して、予備のタンクにも入れて、夜中はガソリンスタンドなど開いてはいない田舎道です、僅かな食べ物を紙袋に入れて、走っていました。直ぐに夕暮れとなり、サンドイッチを片手に夜道をかなりのスピードで飛ばしていましたが、両側は砂糖きび畑で人家などは無いわびしい田舎道でした。 オランと言う飛行場も有る田舎の小さな都市に行く、交差点で若いインジオの女性が小さなカバンを手に、暗くなった国道の道端に立って、手を上げていました。私は夜中の一人旅で、ラジオも途切れ途切れに聞える田舎道で 寂しいトラックのエンジン音だけの道中です、そこの交差点を過ぎると、ジャングルがうっそうと茂る中を走る道となります、私はその女性からかなり行き過ぎて止まり、窓から手真似で、呼びましてた。彼女は走ってくるなり『アグワ・ブランコまで 行きたいーー』と話して、乗せて呉れる様に頼みました。私は彼女がボリビア国境近い所まで帰るのだと感じ、乗せる事にしました。彼女は走り出したトラックの助手席で私が食べるサンドイッチをチラリと見ていました。 私は紙袋から残りの物を出すと、彼女に勧め食べさせました。農場で沢山収穫するオレンジもカゴに入れて足元に置いて有り、それも食べる様に勧めて、それまでは人恋しく、寂しい感じで夜道を走っていたので、狭い運転席で、彼女の汗の匂う体臭も余り気になりませんでした。 やつれた感じのインジオの女性で、まだ20歳前と感じました。私は日に焼けてインジオの雰囲気を出す現地人風です、彼女も心許して少し、食べ終わると話しを始めました。お手伝いとして、サルタ州都の町で仕事をしていた様でした。 それから2時間ばかり、でこぼこ道の砂利道を走って私の町に着きました。彼女は目的地まであと2時間は走らなくてはなりません、遅くなり、私も町から12kmは有るジャングルの小道を真夜中に走るのはいやで、町外れの友人の小屋で泊まる事に して、その夜は友達を訪ねました。彼は慣れたもので、私のトラックに乗ってきたインジオの女性も気にする事無く、『泊まれ〜!、明日朝早く農場に帰れば安全だーー!』と言って、離れの小屋に案内してくれ、日本式風呂もお湯が 暖かいから浴びろと勧めてくれました。彼は何一つ質問する事無く、母家に戻って行きました。私は彼の小屋に少しの着替えを置いていましたので、直ぐに風呂に入りました。彼女は初めて、野外の日本式風呂を見て驚いていました。 まだお湯はポカポカと熱くて心地良い感じでした。彼女にも風呂に入り、汗を流す様に勧めて私は風呂上りのワインをグラスに注いで、チビリと飲んでいました。時々、野外の風呂場のランプの光に彼女の裸体が浮んで見えます、 少し痩せた、引き締まった身体で、小柄なインジオの体格でしたが、乳房は大きく身体には似合わない感じがしていました。彼女は私が見ているのを知っている感じで、汗を流していました。私も若い頃です、若い女体の全裸は興味があり、小麦粉色の 輝く肌が綺麗な彼女に少し興味がありました。彼女はシャツをお湯で洗い、濡れた髪を解かしながら小屋に戻りまして、シャツを軒下に乾して、私が勧めるワインを受けてくれました。友人の犬が挨拶に小屋に来て見ていました。 静かな夜更けです、私はワインを飲んで、疲れから直ぐに眠くなり私がいつも使うベッドから、毛布を取ると部屋の隅に釣ってあるハンモックに彼女が寝る様に教えて、『明日は夜明けにはここを出るーー!』と言ってランプを消し、眠りに付きました。 疲れからと、酔いも有って直ぐに寝入ってしまいました。翌朝、微かに日が昇り始めて、鳥の鳴き声がして目が覚めました。ハンモックが揺れ、全裸の彼女が降りて私のベッドに来るのが感じられ、私の毛布を退かすと横に滑り込んで来ました。 大きな乳房が揺れて、小声で、『抱いてもいいから〜!』と話すと、しっかりと私を抱きしめて、絡んできました。その時です、外でトラックターのエンジンが始動始め、犬が吼え一日の活動が始まった感じでした。友人の声がして、 『コーヒーの用意が出来たぞ〜!起きろーー!』と外で怒鳴っています、私は一瞬、男の本能が消し飛ぶ感じがして、起上ると一度だけ彼女の乳房を両手で握り、抱きしめると無言で外に着替えて出ました。朝は躍動し、朝焼けの空に冷たい空気が流れていました。 熱いコーヒーを友人と、外のテラスで飲みながら、今日の一日を考えていました。その朝、近くの駅までトラックで彼女を送り、切符を買ってやり、物売りからチーズ入りのチーパのパンを買い与え、昨夜洗濯していたシャツを着た彼女が、今朝の 妖艶な女から普通のインジオの女性に戻り、駅前の雑踏に居ました。私が駐車したトラックに戻る時、追い掛けて来ると、トラックのドアを開けて乗り込む私に、右手の先を自分の唇に当てると私の唇に微かに触り、其のまま走って消えて行きました。 しばらくトラックで走って、駅の方角から機関車の警笛が発車の『ぽーーーー!』と長い響きが聞えていました。


109・ 
私が日本の長野県の白樺湖近くの山の中で実習を兼ねて、牧場の造成をブルドーザーなどの重機を使って仕事をしていました。かなりの重労働です、一日、重機の振動とエンジンの轟音での仕事です。夏の盛りですが白樺湖近くですから、涼しい仕事でした。 監督が用事で出かけてしまい、ブルドーザーもエンジンを止めて、ズル休みをしていました。近くの小川から冷たい水を汲んできて、水筒に入れて飲んでいました。 すると谷を隔てた向こう側の牧草地に、車が入って来ました。ぼんやりと眺めていましたが、牧場の柵で車は止まり、若い男女が降りて来ました。 谷の向こうはまったくの無人の牧草地です、柵を乗り越えて、中に入りしばらく歩いて居るのが見えていました。すると突然に動きが止まり、二人は抱き合い激しくキスを交わしているのが見えていました。 私が谷の向こうで見ているとは全然知らない様でした。抱え込む様にして乳房を、むさぼって吸っているのが良く見えていました。私はとっさに測量計測のスコープを思い出しました。かなりの倍率です、プレハブの事務所 からスコープを持ち出して来ると、向こうの谷が見える場所に戻りまして、現場をスコープで覗くと、『あっ〜!』と驚きました。すでに始まっていたからでした。高倍率のスコープで覗く光景は、まさにドキドキの光景でした。 彼女がスカートを捲り上げて、下半身が手に取るように見えます、時間的には余り長い時間では有りませんでしたが、私には二人が事終って、並んで草むらに寝ているのを見て、頭が『ジーンーー!』としていました。 私も若い頃です、カーッ!としてきて、ブルドーザーのエンジンを掛けると、『グワー!』と吼呼させて、谷間にこだまさせました。若い二人は飛び起きて、慌てて身支度すると、こちら側を見て慌てて逃げて行きました。それにしても、青空の下で牧草の緑のベッドで横たわり、抱き合う二人をうらやましく感じました。

110・  私が南米から日本に帰国する時でした。当時はまだ客船の時代で飛行機などは金持ちか、会社関係でも社長などのお偉方が利用している時代でした。飛行料金はブラジルから東京まで利用すると、日本の田舎では家が買える値段でした。 そんな事で、私がブエノスから乗船して、当時のアフリカ経由で横浜まで乗っていました。リオ.デ.ジャネイロの港には3日間ぐらい停泊していて、船に泊まるのは暑くて、狭い船室ではとてもでは有りません、それと3等船客は船底の部屋で、荷物が が載せられていましたので、日中はうるさくて、街に逃げ出していました。リオの港の直ぐ近くには沢山の安ホテルが有り、船を待っている乗客や、船員達が家族と再会する為に泊まっていました。訪ねて来た家族と数日間楽しい夫婦生活を過ごして、また 船は出航して行きます。それから若い船員を相手する女達もそこに住んでいました。賑やかで、華やいた感じのする場所で、ホテルの下は大抵は酒場となり、レストランなども有りまして食事や酒を楽しめる、港の歓楽街となって夜も遅くまで賑やかに 人が絶える事無く、歌声や声高く人を呼び込む声などがして、我々が好んで行く様な所でした。私も船の食事は美味しくも無くステーキとサラダを食べたくて、レストランに入り友達と食事を楽しんでいました。食事の後は、酒場に移動して飲んでいまし たが賑やかで、沢山の若い女の子が遊びに来ていました。私もダンスをして、飲んで、踊り、すっかり浮かれて気が合う白人と黒人の混血の若い子と、しこたま飲んでかなり酔ってだいぶ遅くなった時間に、予約してあったホテルの部屋に戻り ましたが、彼女が付いて来て、泊まりたいと言って私の腕を掴んで部屋まで来ました。私は船からは簡単な着替えと洗面用具だけ、小さなバッグに入れてもって来ていました。彼女はTシャツにマンボ.ズボンで底抜けに陽気な感じの子で したが、部屋に入るといきなり、ポンと全てを脱ぎ捨てて、シャワーに入るなり、何か唄いながら汗を流している様で、終ると腰にタオルを巻き付けて出て来ました。私にもシャワーを浴びる様に言って、さっさとベッドに座り髪を乾かしていました。 私もシャワーを浴び、腰にタオルを巻き付けて、冷たい水を飲んでいました。その時ですーー!突然に悲鳴とも、絶叫ともつかないあえぎ声で、こちらが『ぎょー!』とする様な大声で高く、時にはすすり泣く様な、まるで女性が拷問でも受けている かの様な感じを受けましたが、耳を澄ますと激しく肉体を打ち合う様な音も聞こえます。安ホテルの防音などの装置も無い昔の部屋です、私はそーッとドアを開けて廊下を見ると、何と〜!そこにはすでに四組ぐらいのカップルがドアを開けて 声がする部屋を見ていました。お互いにニッコリと笑いーー!一人の若い男が、手であのしぐさをしてから、大げさに口を開けて声を出すゼェスチャーをして、皆を笑わせました。しかし誰も声を出して笑う人は居なくて、『ニタリ〜!』です、 しかし驚きました。遠慮なく、絶叫に近い声で、おそらくホテル中に聞える声で、わめくとはーー!さすが南米の国のおおらかさと感じました。その内に絶叫は今にも絞め殺される様な、あえぎ声と、悲鳴に近い堪え切れない『ウーガャ〜!』と言う一声で シーンと静まり返りました。良く見ると廊下には6組ぐらいは顔がドアから覗いていました。お互いに手を振り、『ヤーヤ!』と言う感じで挨拶して、中の一組は、『俺達もこれからやるからーー!』と言う感じのジェスチャーをするとドアを閉めました。 今でも思い出します、その夜の光景を!、若い時でしたが忘れられない思い出として今でも持っています。次回もリオの夜に起きた思い出を書きます。


111・ 
リオの港は、世界でも有名な観光地です、私もこの歳になっても、もう一度訪ねて行きたい所です。リオのカーニバルと言えば、世界で一番有名なサンバの踊りで始まるサンバのショーは息を呑むと言う感じだそうです。 そこは40年も前でしたが、マンゲと言う公娼の区域が有り当時の血気がみなぎる若い頃です、世界でも当時有名な場所でした。私もこれまで色々な場所を見ましたが、まさにそのとうりと感じる場所でした。現在、その様な場所は昔のセックス産業 で繁栄した面影は無いと聞いていますので、ここに書いて置きます。マンゲの入り口はポリスが居て、カメラや撮影機などは持ち込み禁止でした。知り合いのブラジル滞在の長い日本人が案内してくれ、タクシーでそこまで行きました。 降りてから少し歩くと、若い男達がゾロゾロと連なって歩いて居ます、先ず度肝を抜かれたのはオーラル専門のかなり年配の娼婦が居た事です。そこの区域は別で、通称日本で「おかま」と言われた男娼の区域も有りまして、それぞれに特徴が有り、 若い私達の度肝もが、ひっくり返る様でした。今でも思いますがかなりの『ショックーー!』でした。神様が御作りなさったと言う人間ですが、これでは雄と雌の本能の世界と感じました。若い娼婦が居る、そこで一番の賑やかな場所でした。 少し高い窓が有り、その内側に女性が居ました。若くて綺麗な、まさに良くもこんな女性が娼婦をしていると思うぐらいの可愛くて、綺麗な女性でした。そこの区域のナンバーワンの女性と感じましたが、イスに座り通りを見ていますが、大勢の男達がある一点を凝視しています、 彼女が時々、軽くミニ.スカートを開いているのを見て、仰天の『ドキーン〜!』とショックを感じる所が見えまして、なるほどと理解しました。彼女は金を差し出して男が指名しても無視です。彼女が気に入らなければ決して動きません。 その前は黒山の人が集まり、人気が高い事が知れました。私も後ろ手で見ていました。しばらくして若くて感じが良い白人の男に彼女が指名しました。皆が『ドーッ』と沸き、その男を見ました。その男は恥ずかしそうにして、皆に押されて前に来ました。 横のドアを開けて彼女が男を引き寄せて、手を取り部屋の中に連れて行きました。皆は溜め息を付く様にして見ていました。しばらくは男と消えた彼女の背中を見ていましたが、カーテンの内側に消えると、誰かが『ギヤー!』と奇声を発して、 変な踊りを始めたのには驚きました。そこから少し離れた場所でしたが、少し格が下がる娼婦が廊下の洗面器に跨ってあそこを洗っている光景が見え、これも度肝を抜かれた光景でした。しばらくは心臓がドキドキと酒を飲みすぎた感じの動悸が有り、 少し刺激が強過ぎる感じでした。それにしても人間の性欲はすさまじい感じです。リオの夜が世界でも有数の場所と言われるのは本当と感じました。次回もリオの港町の事を書きます。


112・  リオには2回行きました。私の心に残る港町です、昔も今も賑わいは変はりません、青空の中、丘の頂上に建っているキリストの像、そこの向かいにそびえるポン.デ.アスーカルの岩山、そこの頂上から見下ろす港と海岸の美しさ、大西洋の 輝きと白く砕ける波頭。港の近くからフラミンゴ、少し行ってコカカバーナの海岸、それから続いてイパネマの海岸と、リオを代表する綺麗な海岸が連なり、サンバの音楽と踊りが夜のクラブの賑わいを一層に高めている感じがします。 乗船していた船が出航する前の日は、コカカバーナの海岸近くのレストランで波の音を聞きながら食事をして、ダンスをして、夜遅く港近くのホテルに帰って来ました。部屋に入るなリ、酔いも有ってそのまま『バターン〜!』とベッドに倒れて寝てしまいました。 翌朝、窓から差し込む朝日に目が覚めて、シャワーを浴びて下着を取り替えて、下のカフェーで朝のコヒーを飲んでいました。朝の11時までにはホテルを出なくてはいけませんので、午後に出航する船に戻る為に部屋に帰り、荷物をかたずけて窓から空を 見ていました。ホテルのLになった建物の斜め前下の部屋の窓が開いて、時々風でカーテンが揺れている、のどかな朝の風景をぼんやり見ていました。一階下の階の部屋です、L字型のホテルで、私の部屋から良く見えていました。気が付くと窓際にベッドが有り、誰か寝ている感じがしていました。片側の白い足先が見え、その時に急に風が カーテンを押し開き、太腿の近くまで綺麗な足が丸見えになりました。駒落としの画面の様に風がカーテンを押し開きそのつど緩やかに両足を開いた全裸の若い女性の姿が一瞬見え、隠れして彼女の太腿の付け根の草むらに右腕が伸びていました。 私は一瞬、『ドキーン!』とする感じが身体に走りました。見え隠れする裸体の綺麗な足が緩やかに開いたポーズから、緊張と興奮に硬直して直線になり、足先が痙攣するかの様に私の窓からも見えます、直感で彼女がマスターベーションをしていると感じました。 駒落としの画面の様に途切れ途切れの光景です。妖艶で、エロチックな、私の生涯で初めてで最後の光景でした。緩やかに吹きぬける海風に、遠くで聞える汽船の警笛が鳴り、短い時間が、白く消えた様に止まり、目の中の網膜に焼き付いてしまいました。 私の頭の中は真っ白になり、少し思考が停止して、下の窓を凝視していました。どれだけ時間が経過したか私には覚えがまったく有りません。気が付くと私の下腹部が緊張して、痛いぐらいに張り、男が目覚めて騒いでいました。 私は服を脱ぎ捨ててシャワーに入り、冷たい水を頭からかぶりジッと立っていました。無我の境地でしばらく冷たい水を頭から浴びて、心まで冷やしていました。どのくらいシャワーを浴びたか覚えてはいませんが、気が付くと平常の心に戻っていました。 その日の午後、リオから出航する船の船上から眺めた港は忘れない景色となり、今でも思い出します。


113・  余り論説などと、固い話ばかりでは面白くないと言う事で、今回から軟鋼交ぜてお話致します。かれこれ50年ほど前です、私が住んで居た田舎での話です。私の友達の家は市の公園の直ぐ側にあり、静かな環境の所で、時々、静かな日には市の小さな動物園から、かすかに動物の鳴声が聞えて来ました。 ある日、私は町の本屋に出かけたついでに、友人宅に寄りまして彼と出されたスイカをご馳走になりながら、彼が話してくれた事は、当時やっと色気などと言うことが分りかけた時期で、聞いてしばらくはその話しの凄さに驚いていました。 彼は親から余り他人には話すなー!と口止めをされていた様です、しかし、彼とは大の親友で、私がペラペラと余り話さないことを知っているかもしれませんが、食べながら先日の夜に起きた出来事を順序だてて話してくれました。彼の話しでは夜11時過ぎに 事件が起きた様です。友人は試験の準備で、その時間は起きていたと言っていました。両親はすでに寝ていた様で、誰かが玄関を叩いている様で、彼は直ぐに何事かと玄関に出てみると、若い女性がブラウスのシャツ1枚で下は腰に新聞紙を巻き付けて、 助けて下さいと玄関に入ると土下座して懇願したそうです。彼はびっくり仰天、新聞紙が揺れて、チラリと見えた下は何も穿いていない様で、靴も履いていなくて、靴下のみで、彼はとっさに女性が強姦か、暴行を受けたと感じた様です。 彼は両親を起そうとしたら、彼女がそれは止めてくれと懇願して小声で口早に事情を話してくれた事は、彼氏と二人で夜遅く公園でデートを楽しんでいたら、抱き合う内に、ついつい彼が激情を押える事が出来なくて、公園の草むらで事を始めた様です 11時過ぎの夜も深けた時間、こんな静かな公園ですから安心して下半身を脱ぎ捨てて情事を楽しみそれが終ってサア〜!とズボンをはこうと、どこを探しても無く、女性のスカートも靴もハンドバックも全てが誰かが盗んで行った様で、残ったのは 草にしいた新聞紙のみで、当時、近所で横行していた『釣り上げ』と言う方法で、全てを釣り上げられて、盗まれた様でした。夢中で激情の最中です、とてもそこまで神経は届かないと感じます、彼氏は仰天して狼狽して混乱の精神状態で、靴もパンツも ズボンも財布も全て盗まれて、狂乱の様だったそうで、彼女が勇気を振るって新聞紙を腰にまとい、人目を避けて彼の家まで来て助けを求めたと言う事です、彼は運動用のトレパンを彼女に渡して、彼が普段着ではいている替えをズボンを渡すと彼女は 玄関で後ろ向きでトレパンをはいて、かれのサンダルを履いて何度もお礼を言って、ズボンを手に公園に戻って行ったそうですしかし、勇気が有る女性です、狂乱する彼氏を落ちつかせて、腰に新聞紙を巻き付けて、彼の家まで来て服を借りて行った 女性は直ぐにその翌日に洗濯してアイロンをかけたトレパンとズボンを持って、彼の家にお礼に来たそうです。あいにく母親しか家に居なくて彼女が全てを話して、何度もお礼を言ってケーキと彼におこずかいと言って、かなりの金額を封筒に入れて 置いて行ったと話していました。彼は彼女のお尻が丸くて真っ白で綺麗だったと話していたのには、うらやましい感じでした。そんな事で今夜はこれでーー!


114・ だいぶ昔になります、日本に里帰りをしていた時です、帰りの飛行機が 福岡から成田までの便が無くて、福岡より羽田まで飛んで成田には 連絡バスで高速道路を走っていた時です、前にパトカーに先導された 救急車が走っていました。 おかげでパトカーのスピードでバスも走りますので、同時に成田に到着 しました。私はその時は何か知りませんでしたが、出国の審査も済み、 出発の為に機内に乗り込み、先ほどの救急車で運ばれてきたのはまだ 若い心臓に障害がある少年でした。心臓移植しか生き残る手段がないと聞きました。エコノミークラスの座席を潰して寝台にして有りカーテンで 中は見えない様にして有りました。医者と看護婦が付いていまして、側に 母親も居ました。座席はかなり満席に近い状態で、丁度私が座った椅子 の少し後ろでしたのでサンフランシスコに到着するまで全部観察して見る 事が出来ました。成田を夕方飛び立ってしばらくして水平飛行に入り、 飲み物が配られ、しばらく寛いでから後部トイレに行く時に少し開いた カーテンの隙間から小柄な少年が見え、簡易ベッドに寝て居ました。 その時、医者が聴診器で少年を診察していましたが、少しやつれた感じ で、小さな声で何か答えている様でした。その時少年が母親を呼ぶ声が して、『お母さん〜!』と聞えた感じがしました。そのまま行き過ぎて後部 トイレに行き、用を済ませて、帰りにまた少年を見る事がが出来ました。 母親が子供を抱きかかえる様にして何か飲ませ様としていました。 少年が母親を掴んでいる腕を見て、一瞬『どきり〜!』としました、それは 余りにも細い感じの腕だったからです、血管が浮き出てやつれ果てた感じが、 私の心に痛いほど突き刺さりました。座席に戻ってから私の心に『なぜ〜』 と言う感じで、疑問が湧いて来ました。なぜ日本の医学水準があれだけ高い のに、移植治療が出来ないのかとーー! その当時はまだコンセンサスが出来ていないと言う事で移植治療は法律で 禁止されていました。ばかげた事です、日本国内では禁止で海外ではお構い 無しと言う、矛盾に満ちた法律です、それも一部の医学者や、代議士達や、 その移植医療に反対する団体が全国民を代表するかの様に、声高く反対 していました。『日本ではまだ時期早期だとーー!』脳死判定法も確立して 居ないと言う事でした。その法律制定も待てずに死んで行く人が沢山居る のにと思いました。その現実を目の前で見て、肌で感じて、感情で学び悟り ムラムラと怒りが湧いてきました。食事時間になって、私は余り食欲も有りま せんでした。機内乗務員が忙しく通路を行きかい、少年にも何が食べたい か聞いていました。母親が子供に聞いて、何か話している感じが分かり母親 が『何か少しでも食べないと〜!』と子供に諭している感じで、医者も同意 していました。機内食が運ばれ看護婦が食べさせて居るようでした。 側で医者も医療カバンを側に退けて食事をしていました。落ちつかない、 騒然とした機内での雰囲気では、食事も満足には出来ません。看護婦から 母親に交替して、食事を子供に食べさせていました。看護婦も側で落ちつ かない食事をしている様でした。全てが狭い機内です、直に肌に伝わって 来ます。しばらくして、食後のお茶が再度配られる頃に、子供が食べていた 膳が乗務員にて運ばれて行きましたが、側を通過する時「チラリーー!」と 見えたのは殆ど手が付けられない食事の膳でした。その後映画があり、 それが終ると機内は暗くなって仮眠をする人が沢山いました。薄暗い機内 でカーテンの中が明るく電灯が輝いて、外に漏れていました。医者が聴診器 で時々、診察しているのが感じられ子供と母親の話し声も聞こえていました。薄暗い機内でささやくような声ですーー! 『早く元気になって、また日本に帰ろうね〜!』と母親が子供に掛ける声が していました。私は眠れない夜間飛行のエコノミー席で、朝まで子供が微か にうめくような声を聞いていました。サンフランシスコ到着30分前のアナウンス があった時、私の心は『なんで〜!なんで〜!こんな子供を移植治療の為 にアメリカまで送らなければならないかーー!、それもその母親が話してくれた、 募金カンパの資金での渡米でした。 狂っているーー!日本の政治は良心も恥じも無いような代議士と、政治家 と役人が人の命もかえりみない政策をしているのかと感じました。移植治療に 反対する人間を一晩この夜間飛行の子供の側で、座らせてやりたいと感じま した。それとーー! 反対する人達の自分自身の身に同じ事が起きたらーー! もしも家族の自分の妻や、子供達、親兄弟など、親族の中で、移植治療し か生きる手段が無いと宣言されたら、反対する立場の人間はどう答えるか 知りたいと思った。その前も新聞などで、長い間臓器移植に望みを掛けて亡 くなられた人の話しを見て、胸が痛む思いがしていたが、現実に私にとって 憤激の感情が渦巻いていた。『それで良いのかーー!日本の臓器移植 治療はーー!』と、それからしばらくして、日本も移植治療が国内で出来る 様になりましたが、まだ子供の提供は法で禁止されています、子供は臓器 提供の判断が自分では出来ないからと言う理由です。 カリフォルニアからイタリアに家族で休暇中のアメリカ人家族が高速道路で 銃撃を受けて子供が脳死状態になり、両親はその子供の臓器をイタリアで 移植治療に望みを掛ける子供達に提供しました。怨念を超えた行為に イタリア政府は国家を代表してイタリア空軍の特別輸送機で家族と少年の 遺体をカリフォルニアまで送り届けました。アメリカの友人が『もし日本で同じ 事が起きたら、日本国政府は同じ様な行為をすると思うかーー?』と聞かれ ました。私は答えに困り、上手く返答が出来ませんでした。 そして、アメリカ人の友人が、日本では親の判断一つで、まったくお腹の 子供の意思も関係無く親の勝手な判断で、堕胎をが行なわれていると嘆いていた。おそらく出生してくる赤子よりも多いかもしれない数だと話していた。 アメリカは州によって変わるが、日本国内から比べたらまだ良い方だ、日本は 私が見たら『人命無視の堕胎天国だ〜!、』とアメリカ人が批判していた。 彼は堕胎は殺人だと言っていたが、それを非難して、反対して禁止する政治 が無いと嘆いていた。彼が皮肉にも『お腹の子供の殺人は良くて、子供の 臓器提供はダメとは』と嘆いていた。それが現実の日本の政治ならば、どこか 狂っている政治だとーー!アメリカ人にその話しを突き付けられた時に、 私は何も返す言葉が無かった。   私と同じ飛行機に同乗した少年は、移植治療の甲斐も無く日本に帰国する 時は、小さな箱で母親の膝に抱かれて帰国したと言う事です。ご冥福を深く お祈りすると共に、これからの日本の社会が臓器移植治療に理解と一層の 推進を願っております。


115・  私が家族用にバンの車を購入したのが1985年頃でした。あちこちと家族で旅行しまして、カナダまでカリフォルニアから出かけた事が有ります、アリゾナにも行きました。 その車は日本製の000社でしたが、その当時日本車で初めて小型バンを売り出して、かなり人気が有りました。私の家族も後部に寝るようなスペースを作り、遠出のドライブを楽しみましたが、有る日、家の前で急に運転不能になり、パワーステアリングが効かなくなり、ハンドル操作が出来なくなりました。 幸いに家の前で、私も週末に家にいたので、早速に下にもぐり原因を捜しました。すると簡単に分かりました。パワーステアリングからの動作を伝える腕のようなアームがジョイントからポンと外れていましたので驚きまして、早速に自在継ぎ手のジョイントの中に押し込みました。 すると驚く事に簡単に軽くハンマーで叩いただけで、もとに挿入出来ました。これでは簡単にショックでも抜けると思いました。これが高速道路でしたら、車が制御出来なくて大事故になっていたと考え 000社のカスタマーサービスに電話しました。専門の係がその原因を探すので、その取り替えた部品を見せてくれと電話が有り、000社のデーラーで待ち合わせて見せますと,「ハンマーで叩いたあとが有る、お前が何かいじって外れた」と言って取り合いません、カチンです、 それと白人の係は見下げたような感じで、いかにも横柄でした。私はデーラーのアジア系整備工を知っていて、彼が同じトラブルが有って修理したと話してくれた事が有りました。早速レモン車専門の問題を受付ける弁護士に電話をしました。 サンフランシスコと、ロサンゼルスの専門弁護士です、どちらも調べてくれ、同じケースのトラブルが余り無いので、000社はアメリカでも勢力があり、中々難しいと話してくれました。それと000社に電話して、弁護士を立てて調査すると言うとそれきり、いかなる連絡も受け付けないと答えて来ました。「クレームがあれば、000社の法律事務所に言って来いーー!」です。 そうかい〜!それではへそ曲がりジジイの骨頂を見せてやるですーー!、早速に首都ワシントンに有る、連邦政府の交通運輸安全局見たいな所に地元の警察から紹介されて、事故の詳しい状況、写真、ビデオテープなど作り、これまでの経緯を書いて送りました。ビデオテープはコピーできないので、これは手元に残しました。 それからです、十年ぐらい経ってからです、突然ある弁護士事務所から電話があり、貴方のレポートを交通運輸安全局で見つけたと連絡があり、同じ様な事故で、高速道路の側壁に制御出来なくて激突して怪我人が出たと話していました。「それ--見ろ〜!です、とうとう起きたか〜!ここでもカチンですーー!」 「裁判中で貴方が証人となって証言してくれですーー!」これ幸い〜!裁判所で全部の写真、ビデオテープ、経緯、それから取り替えた部品など全部持って行って話すと言うと喜んでいました。000社はそんなデータ-は無いと言い張っていたからです、そなん事はウソ!私がカスタマーサービスに電話した日時もちゃんと記録していたからです、 係は私の問い合せの件も、パソコンを見ながら答えていたからです、それも教えてやりました。相手の弁護士は興奮して喜んでいました。こんな証人がいれば必ず裁判に勝つと言っていました。ミリヨンダラーの訴訟ですから、真剣な様子が電話でも伝わって来ました。私の住所から連絡先など全部教えて、「裁判の日取りが決まったら 連絡するから、その時は是非宜しく証言してくださいーー、」と話して電話を切りました。しかし連絡は有りませんでした。「ハハ〜ン!」です、000社が和解か、賠償金を払ったかは知りませんが、ジジイの溜飲が下がりました。昔は百姓ですから気が長い事は誰にも負けません、「イワンの馬鹿〜!」ですから。 それと、今まで長い年月に37台もの車を私の知り合いや、お客に000社以外の車を買えと教えて、それを成功させています、息子も2台も000社以外で買っています、沢山の不動産管理の仕事で香港や台湾からアメリカに移住して来て、先ず車ですから、良き相談相手となって、実行しました。 これからも、ジジイがくたばるまでには、どれだけの台数を記録させるか心の内でニタリ〜!です、


116・  40年もの昔に私が農業をしていたのは、ボリビア国境のアルゼンチンでした。近所には、ラプラタ河の支流でアグワ、ブランコと言う河が流れていましたので、魚は河魚ですが沢山食べられました。 いっも朝早く、インデオが魚を売りに来ていましたので、買って食べていましたが、魚の頭は切って捨てるのですが、猫がいっも「ニャ〜!」と嗅ぎ付けて待っていました。 ポーイとあげると、サッとくわえて、バリバリと食べていましたが、いっも来ていた猫がいませんので心配していました。有る時、昼の畑の灌漑配水の見回りの時に、ハゲタカが旋回していましたので、何かトラブルが有ったかと、その下あたりを見に行きました。 トマトの畦の間に、水が配水され少しぬかって、ベトベトの土に、猫の足跡が付いていましたので、それに付いて歩いて行くと、猫が水溜りのふちで、虫の息であえいでいました。その上にはハゲタカが舞っています、死ぬ寸前でした。 楽にしてやろうと、拳銃を出して狙いをつけて、今にも引きがねを引こうとした瞬間、かすかに目が開きました。その目はーー、 「心配いらないよ〜!、直ぐにあの世へ行くからーー!」私は撃鉄を戻して、ホルスターに入れました。 日陰のトマトの茂みの中に入れて、ハゲタカから守ってやり、又、見回りに行きましたが、しばらくして戻って来たら、眠る様にして死んでいました。 トマトの空き箱に入れて、近くの溜池の見晴らしの良い場所に埋めてやりました。 獣に掘り起こされ無い様に、大きな石をひとつ置いておきましたが、それから魚を調理して、魚の頭をその石の上に置いて置くと、いっも直ぐになくなりますが、それから時々魚釣りに行く時、その石に「猫や〜!釣りにいくぞ〜!、」と声を掛けて行きます、そしたら、必ず大漁でした。 私は下手で、釣りはせいぜい1〜2匹でしたが、時々は5匹ほど釣ることも有りまして、驚いた事が有りました。そのつど石の上には魚の頭が並んでいました。 鳥達が喜んでさらって行きますが、何か猫がいっも見て居る様でそこに住んで居る間はその石の上に置いていました。時々、新しく来た猫も来て食べていた様ですが、「ニヤ〜!」と言って待っていた猫はその猫だけでしたので、今でも時々、魚を下ろす時は思い出します。  


117・     人生廻り廻って糸車、見えぬ糸の紡ぎ様、   如何様にも心のひだで紡ぎ致しまするーー、 人は生まれて一つの人生の、そして運命の道を歩きますが、その彼女を私が40年の長きに見詰めて来た人ですーー、 彼女は東北の山奥の村から、南米のパラブワイに家族に連れられて移住して来た人でした。親がパラグワイでの入植地での経営に失敗して、ブラジルに新しい生活の場を求めて再移住していく時、親が近所の若い青年に娘を托して嫁にやったのでした。 彼とは10歳も年齢が離れていましたが、18歳になったばかりで僅かな服と、着替えを風呂敷に包んだだけで,簡単な結婚式を教会で挙げただけでした。 しかし結婚した青年も両親を抱えて、頑張って営農に励んだのでしたが、結局はアルゼンチンに再移住して行きました。パラグワイでは余りに販路が狭くて、農作物を作っても売れなかったからです、当時彼女は22歳で二人目の子供を産んだばかりでした。 私が先にアルゼンチンに出ていたご主人と知り合い、パラグワイの入植地を訪ねて行った時、彼女はご主人の両親と子供二人を抱えて、毎日農作業に精出して働いていました。 朝は4時には起きて、家畜の世話をしてから、朝食の準備をしていました。一晩でしたが泊まりまして、彼女の生活の一日を見たのでしたが、とても現在の若い女性では、半日でも耐えられない仕事だと思います、それは男の私でさえ唸らせた仕事ぶりだからなのです。 東北人の粘リ強さ、それしか出来ないと言う、思い込みでの熱心な仕事の打ち込み方、家族を思うひたむきな情熱、、生きて行かなければならないと言う執念ーーー、どれを見ても男の私が気押されてしまう感じでした。 アルゼンチンに再移住しても、愚痴一つ出さずに、ご主人の両親を支えて、バラックの小屋で、真冬の寒い日に井戸水で洗い板での洗濯をしている姿を見て、胸に「グーッ〜!」と来るものが有りました。 パラグワイでは亜熱帯の気候でブエノス郊外での真冬の寒さは有りません、あかぎれに、がさがさになった両手にワセリンを塗って手袋をして鍬を持って草取りをしていました。かなり寒さになれている東北人の執念を見ました。 南米のおしんですーー、 ブエノスから160Kmぐらい離れた小さな町で、パンパから吹きすさぶ風に手ぬぐいで、ほお被りして野菜畑で仕事をしている姿を訪ねて行く度に見ました、そしてーー、側の畑の畦の間では、風を避けて子供を毛布で包んで寝かしていました。 この様にひたすら仕事に明け暮れての生活でしたが、ご主人がすい臓ガンであっけなく亡くなると、その借金を清算する為に2ヵ年間日本に出稼ぎに行って、病院の付き添い婦として昼夜の別なく仕事をして、ご主人が残した多額の借金を全部払ってしまいました。 アルゼンチンに帰って来てホットするまもなく、交通事故で3ヶ月もの間ギブスに入っていた、両足骨折での車イスの生活をしていました。 現在ではやっと杖を付いて歩ける様になり、暇な時に時々畑に出て草花を作って、生活の糧にしているそうです、生活は出稼ぎで日本に居る息子の仕送りと、僅かな年金を貰い平穏な暮らしをしている様です。 先日の国際電話で、彼女の声でーーー、「私の人生てーー、なんで有ったのだろうか〜!」と、疑問の声を出していました、しかしーー、 「でもーー、精一杯頑張ったのであったから、後悔は無い〜!」と言っていました。彼女は今年で63歳になります。 貴方でしたら、彼女の人生をどう感じますかーー?


118・ 
だいぶ昔の事です、30年ぐらい前でした。リオ、デ、ジャネイロからアルゼンチンのブエノス、アイレスまで国際バスが走っていました。 3日近く掛ります、サンパウロから乗車していました。バスは沢山の人が乗車しては、又降りて行きます、運転手は見習いを入れて3名いました。舗装道路ではかなりのスピードで走ります。たしか、レジストロと言う日本人がお茶を栽培している所を過ぎて、夜道をかなり走った所でした。 朝早く、ほのぼのと明けてきて空がまだ薄赤く染まっている頃でしたが、トイレ休憩で10分間と言って停車しました。店はまだ開いていなくて、バス停の事務所だけが開いていました。私はバスのトイレは汚いので、そこの事務所の横に有る、トイレに 入りましたが、そこで掃除をしている人がどうも東洋人で、掃除もブラジル人とは思えない、きちんと整理されて、たいした事もないありふれたバス停のトイレでしたが、何か違う感じでした。水道の蛇口も綺麗に磨かれて、入り口の横には花も咲いており、管理人の人柄が感じさせられる所でした。 町外れの長距離バスのバス停にしては、余り見かけない綺麗なバス停と感じましたが、トイレを済ましてバスに戻ると運転手がタイヤを見て騒いでいます、釘が刺さっていると話しています。タイヤの交換をするから、最低30分は停まっていると乗客に言って交換作業を始めました。 そうする内にコーヒーショップも開いて、ぞろぞろとお店に入って行きました。乗客は「それではここで朝食とするか〜!」と話しています、私はトイレを掃除していた東洋人が気になり、サンパウロの友人に貰った日本の週刊誌や、月刊誌を全部読み終えていましたので、バスからそれを抱えて、トイレのゴミ箱まで持って行きました。年配のその人はまだ掃除を続けていましたので、目立つ様に雑誌を「ドン〜!」とゴミ箱の横の台に置いて、大声で、 「誰かこんな日本語の本を読む人がバス停にくればいいのだが―ー」と言って、置いてきました。私も朝食を注文して、先にコーヒーを飲んでいました。窓から見ていましたら、その年配の管理人が掃除道具を横に置いて本をめくっています、やはり日本人の方だと感じました。 運転手は乗客がほとんどお店で食事や、コーヒーを飲み出したので、「1時間の休憩です―!」と告げると自分もコーヒーを注文してテーブルに座ってしまいました。早めに朝食を済ませて、管理人が本を抱えて消えた事務所の裏に散歩に行きました。 少し歩くと林のような木がありそこに、こじんまりとした人家が有り、畑も綺麗に野菜が作られていて、廻りではニワトリが囲いの中で餌を食べていました。どこか日本の田舎の感じがする風景で、畑には大根も植えられている事が分りました。 畑のそばで管理人が、その方の奥さんらしき人に本を見せています、覗き込む様に見ていますので、私は何か安心した気持ちでした。こんな見も知らない土地で、のどかな日本的な風景を感じて、幸せそうな老夫婦を見て、心安らぐ感じを受けてバスまで戻りました。どこに住んでも、生活しても生の営みは、平和の安らぎが有れば、お金では買えられない何物かが有ると、心に感じました。 のどかに時を告げるニワトリや、老夫妻の足元のじゃれる猫達を遠くに眺めて、ここまでにたどり着く長い道のりを思うと、人それぞれに歩んだ長い道のりを、「人生、幸せとはーー、」出発したバスの中で考えていました。 このバスもまた人生の縮図だとーー、誰か退屈しのぎにギターを弾き始めて、その曲を聞きながら眠ってしまいました。


119・ 農場での仕事は収穫の忙しい時は1週間で、2〜3日しか寝られない時も有ります、しかし暇な時はのんびりと魚釣りにでも行ける時間が有ります、日本人ですので、良く魚は食べました。 河魚でしたが、近所に住んで居たインジオは森に住んでいる、狩猟が得意のマタッコ族、漁師として河の近くでトウモロコシやカボチャなどを作って生活している、チャワンコ族、荒野や、山岳地帯にヤギや羊の牧畜などで暮らす、トーバ族、などが居ましたが、独特の生活様式が有りました。 チャワンコ族は魚捕りが得意で良く100キロも有る大きなナマズを捕獲していました。一度畑で仕事をしていたら、遠くで二人が何か棒をかついで来ます、近くに来て驚きました、何と大ナマズでした。両側でかついでいたインジオは重そうで、100キロは有ると言います、買わないかと言って見せてくれました。日本人はカマボコの材料にします、早速近所の日本人と話して買う事にしました。 インジオのおばさんを呼んで来て、早速カマボコの製造です、なれたものでおばさんは頭を切り捨て、身を骨から分けると手回しのひき肉機でメンチにかけます、二度ほど機械を通して、それから臼に入れて、澱粉粉を混ぜて杵で突いてモチの様に綺麗に均したすり身を、竹の型に入れて蒸したり、 揚げカマボコにします、勿論さつま揚げや、チーズカマボコなど加工して保存しておきます、冷蔵庫は灯油の余り冷えない物で、夕食時に一度氷を取ると、翌日までは次ぎが出来ません、出来上がると近所に配ります、配っておくと次ぎに又、誰かカマボコ造った時に貰えます、揚げカマボコは人気の有るカマボコで誰でも、喜んで食べていました。 手伝いに来たおばさんは魚の大きな頭はスープにして食べていた様です、手間賃を払い、カマボコを持たせて帰って行きました。カマボコを切って、酒の肴で夕風に吹かれて、カンニヤーと言われる砂糖きびから製造した焼酎を飲みながら一杯飲む酒の美味しかった事、ナマズの身を沢山入れた、トマトや、玉ねぎ、ジャガイモなどとの煮込みも、酒の後の美味い食べ物でした、変化のない食材でしたが、工夫して食べていました。 懐かしい思い出です。


120・ 
私は人間の貧困は2つ有ると思います、それはーー、  心貧しく、他人や廻りの人々を省みる事が出来ない人々です。 自分を中心に社会が動いていると言う妄想と、被害者意識で、 ねたみと反抗と羨望の心で物事を見ている人です。 その様な人が少し財産を作っても、預金通帳の数字が増えるのを 眺めるだけで、それが楽しみで生きている人を知っています。  心豊かとは、いっも他人の心となり、廻りの人々の心の痛みを 感じて、分かち合い慰め合い、自分の心と、財力を施すと言う 慈悲の心を持っている人だと思います。 その様な人は猫や犬などにも救いの手を差し伸べて、いっも命の大切さを身体で表現します、行動ですーー、それから地球環境などの森林資源の保護や、海洋生物などの保護にも熱心です。全てがその人の親からの教育と、それを下地とした理解の賜物です。 その様な人は新しい医学の臓器移植のドーナーとして登録して、命の再生を理解して、啓蒙運動もしています。親の教育が子供に与える大きさは計り知れません、子供の心を作り、育て、理解する力を作ります。その様な心を親から育てられ、理解する心を持った人が現在の社会では少なくなったと感じます。 あるアメリカに来た留学生は20年以上も昔ですが、潜水マリーンスポーツが好きで、数の子昆布と言う、ニシンが昆布に産みつけた卵の貴重な海洋資源を乱獲して、お土産屋や、それが嵩じて日本に輸出までする様に成り、ニシンが激減してアメリカ政府は規制するまでになりました。 日本で消費されるウニもそうです、昔は海のごみと言われたものが潜水捕獲の大量の輸出で、これも激減して、規制が始まっています。タラの水産資源もそうです、タラコの珍味の原料として、乱獲され全てが稀少海洋生物としての保護が必要になっています。 日本人が好む、本マグロと言う、200キロ近くなるマグロなどは全て飛行機での輸送で生で氷詰めで送られています。その内、数の子昆布とウニを扱っていた人を少し知っていますがやはり口に出る言葉は、「金にしたらいくら儲かる」と言う、その言葉だけです。 他人を省みる余裕などは有りません、いっも同業者を疑り、ねたみ競争して、自分の心貧しさも自然の尊さも微塵も分ってはいません。日本のグルメと言う通を喜ばす食材を破壊と撃滅に近い方法で収穫、捕獲してそれを金に変えて送り続けています。また、それを何のためらいも無く、「金を出せば食える」と言う心貧しき発想で消費されています。 これからの日本の消費の原点はまず、教育が原点ではないかと近頃感じてきました。日本の農産物の国内生産は38%を切ったと言う事ですが、「食」と言う命の源を、外国の「食」の植民地として支配されて行くのでは無いかと思います、悲しい事ですーー。


121・ 
私もカリフォルニアに30年、南米、終戦で引き上げるまで住んでい ました台湾などを計算に入れると、人生の半分以上は海外での生活に なります。友人が称して「アメリカボケ」「はんぱーー、日本人」 「お前の脳みそはチーズ」などなどーー、酷いことを言います。近頃 は「あ〜!そぉ〜!」でお終いですが。  成田空港で出発ロビーでの待合をしていたら、ペルーの日系3世がカ タコトの日本語で、「貴方はスペイン語を話しますかーー」と聞いて 来ました。  どうやら日本人でもニッポン人らしい風体に見えた様です。「シーー、 セニョル〜!」で答えると、「にっこり」ですーー。 しばらくスペイン語で話していたら、英語が沢山混じっているそうで す。私は気がつかないのですが、おかしなスペイン語だと言っていま した。 でも話が通じましたので、時間潰しにはなりました。  おじいちゃんは熊本県人で、お父さんはニッポン語は少し話すそうで 私は「ちょっぴりーー」と言っていました。 世界も広くなったものです。でも一番今まで驚いたのは、ブラジルで 会った子供でした。  現地ブラジル人そっくりで、褐色の肌とスラリとした肢体でした。 いきなり「お前〜、どこから来たんだべ〜!」との日本語でした。 「だべ〜!」と言うのは茨城弁です。私の友人が話していたので「ぎ ょ〜!」でした。  その時私は標準語で話していました。すると子供は「お前はー、日本 人け〜!」」と言う事で、もっと驚きました。 「お前のニッポン語はおかしいーー」これも参りました。 その時父親が出て来て、「この子はブラジルでとれたから、少し色も 付いているよーー。」と話してくれました。  その時母親が出て来て、紹介してくれましたが、黒人と白人の混血で 綺麗な方でした。  「近所が茨城県出身で、入植したのが同県人でしたのでこの子供まで 茨城弁しか話さないのですーー」「でも日本語学校も行っているので 少しは日本語を維持しています」。たいしたものです。  御国訛りの言葉で、話を聞くのも日本を思い出して懐かしいものです。 私も正確な日本語を話しているつもりですが、日本に行って、買い物 などで「え〜!」と聞きなおされるのは、ショックですーー。それだ け「ボケ」たのかも知れません。 しらない間に英語で話していた様ですーー。  お恥ずかしいーー。歳は取りたくないものです。


122・ 今日は私が慣れ親しんだトラックを手放す日です。そのトラックは私がかれこれ14年間ほど乗ってから次男に譲りました。彼はそのトラックに自分の荷物を満載して、アメリカ東部の ピッツバーグの大学院に大陸横断して運転して行きましたが、そこで三ヵ年間滞在して卒業して、またカリフォルニアのロサンゼルスに来て、ゲテイーミュージアムでインターンをして、一年間滞在していました。かなり古いトラックです、 トヨタの小型トラックで当時でもそろそろ30万キロ近く走っていましたので、私が趣味でパーツを良く交換していました。こまめにやりましたので、殆ど新品に交換してしまいました。1986年の古いトラックですが電気関係は いつも注意して時間で点検と交換をしていました。アメリカ横断を二回もして長旅も故障無く出来る車でした。アメリカでは車は自分で責任を持って整備しなくてはなりません、二年に一度だけ車のスモッグテストを受けて、パスしないと車の新しいライセンスを貰えません、 カリフォルニアは自動車保険も加入していないと同じくライセンスが発行されません、それと事故を良く起す人、飲酒運転などで免許を無くした人は自動車保険を買えませんので車は運転出来なくなります。次男はロサンゼルスに一年滞在して、それからインドにまた勉学の為 に行き、私の車庫の置いてありました。毎週エンジンを掛けてテストして、バッテリーなどが上がらない様にして、車体もワックスを掛けて磨いて手入れしていたおかげで良好なコンデションを保っていましたので、また次男がインドに行くので、今回は手放すことにしました ので、インターネットに掲載して売り出しました。写真を撮り、それも添付していたので、インターネットに出して15分ぐらいで電話がありまして,『買いたいー!』と来ましたが、それは余りに安いオファーで、お流れとなりました。次男が合気道の練習に出かけて、携帯 に、たてつずけに四回ほど電話があり、その中の二名は近所だったので、飛んで来た様でした。一人と直ぐにその場で満額で決まり今日の週末、土曜日の受け渡しが決まり本日となりました。電車で受け取りにサンフランシスコから来て、もうしばらくしたら、永年の愛着を持ったトラックが居なくなります。 次男の今回、インド行きは二カ年間も長くなる可能性ですから、それとかなり現在では手入れも良くて高値で売れますので、驚く無かれ、20年も古いトラックが日本円で30万近い値段に売れることは、インドに行ってもかなりの生活資金となりますので、決めた様です、しかし 良く働いてくれたトラックです、不動産管理の仕事で巡回する為に使いましたが、たいした故障もありませんでした。今電話が有り、電車が駅に着いた様です、お別れの時間もあと僅かになりました。別れにもう一度ハンドルに触りたいと思っています。(Yahoo!フオートにトラックの最後の写真を掲載致しています、暇な方は覗いて下さい。)
http://photos.yahoo.co.jp/ph/bigbluesky7jp/lst?.dir=/1385


123・ 
次男のインドへの旅立ち、 今日、朝早く午前零時30分にインドに旅立ちました。去年の12月も押し迫った29日に帰宅しましたが、帰宅する少し前にインドの首都ニユーデリーで、合気道の道場練習中に左腕の筋を切り 手術をして筋を縫い合わせる6時間近い緊急手術を受けて、ギブスをして、片手で荷物を押して空港の出口から出て来ました。やつれて、かなり精神的なストレスもあったのか、青白い顔に、頬が扱けてげっそりしていました。 それと言うのも、フルブライト留学終了して、三ヶ月ほどボランテイヤで国連のNPO関係の仕事を無給で手伝っていました。医療健康保険が切れていたので、全部自分の責任で払わなければなりません、医療費の安いインド でもかなりの高額です、しかしアメリカからしたら10分の一ぐらいです、しかし奨学資金も終っていましたので、収入が途絶えて、友人宅に居候してカレーとライスの食事をしていた様です、週10ドル程度の食事では肉などは食べられず、豆のカレーだった様で質素な食事をしていたのか、食べる量も帰宅 した時は少ない量でした。しかし帰宅して自宅の食卓に上る美味しい日本食を食べだすと、自然にインド式カレーも自分では作らなくなり、お肉が沢山入った『とろける中辛ビーフカレー』などを食べる様になると、こちらが『ギョッ』と するほど沢山お代りして食べていました。 しばらくして、ステーキとサラダにガーリック・パンなどの食事となると、まるで狼で『ヤンキー食』をガッついて食べていました。美味しいワインもたらふく飲んで食後はケーキのクリーム、バターゴッテリ超カローリー食をパクリとたいらげ、げそー! と落ちていた頬もふっくらとしてきて、それと朝は10時頃まで寝ていて、昔の『小原庄助』さんではないが、朝寝、朝酒(これは無し)、朝湯が大好きで〜!と歌になるような生活でした。しかし有り難い事に、18歳で家を出て初めて 三ヶ月も居てくれましたので、まるで殿様待遇でした。13年ぶりにしてゆっくりと食事などしながら話も出来ましたし、しばらく夫婦二人だけの生活でしたので潤いが出来まして、晩酌などを次男と交わす幸せも感じました。 ニユーデリーで合気道の道場に通って居るうちに、そこでインド財閥の三本指に入る、インドのビル・ゲーツと言われる人物が丁度道場に練習に来ていて、そこで知合い声を掛けられたそうです、彼はイギリスのオクツフォード大学に在学中 に合気道を学び、熱烈な支持者でした。そん事で『またインドにおいでー!』と誘われた様でした。彼の父親は熱心なガンジー翁の支持者で、初めてその当時危険分子とされた、ガンジー翁を支え、支援していた有力者だったそうです。 そん事で彼の会社が大きなNPOを開いて、インド国民の為に奉仕活動をしているので次男はそこで仕事をする様です、あとの余暇は合気道の普及に力を入れると話していました。『あと二ヵ年ぐらい自分が何が出来るか試してみたい』と 話して出掛けましたが、少し雨が降る中で、長男も会社を少し早仕舞いして見送る事になり、長男の家で待ち合わせして、彼の車で飛行場まで送る事になり、途中で早めの夕食に、サンフランシスコでも三本指に入る、ベトナム・ラーメンを食べに行く事にしました。 フォーの麺が出て来るまで、話していたら、長男が現在、オーストラリアとニユージーランドの二国に一カ月おきにビジネス出張していて、それで何かを感じたのか、『もしチャンスがあればオーストラリアのシドニーに移住したい』と話し始めました。 気候もサンフランシスコと同じ感じで、これからの長い将来を賭けるには面白いと話して、カリフォルニアは物価が高く、住宅も全米一の高値では、とても大きな家一軒も買えないし、生活をエンジョイ出来る環境が少なく、特に仕事の需要 が多いコンピユーターソフト関係では国境が無いと言っていました。パソコンさえあればどこでも仕事が出来るからと話して、かなり真剣に心に思っている感じを受けました。次男のインド行きと、長男のオーストラリア移住の話しで、それぞれの 夢と、希望と人生の活き様を考えていると思いました。ただひとつしかない人生、己の夢と希望を海外にぶつけた自分を思い出して、良く育ってくれたと感じました。 フォー麺がテーブルに並び、親子で食べる味も格別で、見送りの僅かな時間が 格別な親子の対話と心通う場になって、ワイフと幸せな気持ちでした。食後のコーヒーを飲んで、時間どうりにチックインして、荷物を入れると、お互いにハグし て肩を抱いて記念写真を写して、次男がチエック・ポイントから消えて見えなくなるまで手を振って別れを惜しみました。 おそらくあと僅かな時間で子供達が大きく羽ばたいて、二度とは私達夫婦のもとには戻って来る事はないと思いました。『子供らよー!飛んで行け、大きな希望と自由な大地にー!』


124・ 今日のサンフランシスコ沿岸は曇り時々晴れと言う感じです。先月から降り続いた長雨で、どこも緑濃いい景色が見られますが、夏が思い悩まれます、草木の成長が良い年は、夏に山火事の危険が有ります。先日もラジオがその心配の特集をしていました。 山には記録的な13.5mの積雪がある場所が、あちこちで見られその雪もかなりの水分が多く含んでいるとの事で、雪解けの洪水危険が叫ばれています、今から放水や貯水池の汲み出しをしていますが5月から6月までは注意が必要です。 私がアルゼンチン奥地で農業をしていた頃に、ボリビアの奥地で大雨が降ると、何百キロの下流でも注意報が出ていました。濁流が突然に鉄砲水となり、流れて来るからでした。100mくらいの河幅が有りましたが、ブエノスから1300kmは上流です、ラプラタ 河の支流でしたが、地鳴りとなるような凄まじい水音がして流れますので自然の驚異として見ていました。流木も凄くて、かなり大きな木が流れて来るのが分りました。私が居た農場の近くが丁度河の緩いカーブの有る所でしたので、岩盤の崖にぶち当たる水の凄まじい音と轟音がかなり遠くまで聞えていました。 その濁流が始まるとインジオのチャワンコ族が良くモリを使ってかなり大きな魚を取っていました。モリの先は尖って、牛の角を削りそのばねを利用して魚を突くモリの返しを作り、先は獲物に命中して刺さったら先が取れるしかけでした。彼等インジオ達が狙うのは大型のナマズが多かった様でした。 スルビーという鯉に似た大きな魚もモリで突いていました。長さが4mぐらいの竹などでモリの槍で構えて、先のモリは紐を付けて有り、腰に巻いていました。しかし百キロもある大ナマズを仕留めると身体が河に引き込まれて紐をナイフで切り、助かったと聞いた事が有ります。チャワンコ族は河岸に 住んで農耕と魚取りで生活しています、農耕と言っても、トウモロコシやカボチャ、マンジョウカ芋などを作り、バナナやパパイヤなども家の廻りに植えていました。モンゴロイドの顔で、中にはまったく昔の日本で、近所に住んでいた女の子と感じが似ている女性もいました。真っ黒な髪と丸顔 のどことなく東洋人とそっくりの顔立ちに、親密感を持っていました。魚が取れるとその夕方はどこでも、その料理の匂いがしていました。農場の売店にも食料油をビンをもって買いに来ていましたが、大抵はフライで食べて居たようです、岩塩を潰して、ガーリックをおろして魚に漬けて、小麦粉を まぶして揚げていた様です、揚げたての熱々の魚にレモンを絞り、カンニャーの酒を飲むのも楽しいものでした。私はレモン醤油が好きでした。晩酌の後にトマトとジャガイモを沢山入れたナマズのスープを食べるのが楽しみで、インジオが遠くで吹く竹笛が聞えて・・・・、 『ここはお国から遠いアルゼンチン・・、南十字星の空の下で・・・』と替え歌を歌っていました。


125・  カリフォルニは今日の4月13日の春の季節であるけれど、雨降りの天気です。畑の露地栽培イチゴは腐り、病気が発生して、葉物の野菜も機械収穫が出来ずにかなり被害が出ています。 私はカリフォルニアの気候に惚れたのは、その抜ける様な青空と乾燥した気温、オレンジの甘い香りと、豊富な果物、私が居たアルゼンチンの北部と似ていたからでした。私も農場で仕事をしていた頃は、沢山オレンジを栽培していました。 トマトやピーマンなどの野菜ばかりでは、いったん霜害にやられると収穫が皆無となり、経営が破綻することがありますので、比較的安定して霜害が影響しないオレンジを持つ事は、安定経営として重要でした。バナナは霜害にやられる被害は大きく、大きな葉が溶けた様にだらりと 垂れ下がっている畑を見ると哀れな感じでした。オレンジは霜にもかなり強くて、被害に遭って霜に焼けたオレンジも安価ですが売れますし、ジユースなどに加工する業者が引き取ってくれました。原始林の伐採をしていると巨木を切って、インジオが教えてくれましたが、年代を示す 年輪の環を見て、百年近い長い年月を見ていると、時々その伐採した場所にも大霜が降りたことを示していた。彼等の示す年輪が時を経て過去の気候を示す重要な記録と成り、教訓となる事を教えていた。インジオが自然を大切にして、守り、育て、生活に密着した生き方をした 過去の現代貨幣社会の影響も無い時代を思い、彼等の生活態度が現代社会を批判していると感じました。我々が利益追及の為に破壊と汚染と、人間性までも否定して生活しなければならない。今の世の中が勝ち組み、6本木ヒルズ界隈の居住者と、負け組みと指差される、東京 下町の足立区の年収200万にも満たない生活を送る都営住宅の居住者など、富の格差の歪みと成って、日本人社会を蝕んでいるが、全てが金銭対価の価値観を物差しにした生き方しかない、日本はこれからどうなるのか、アメリカに住んで祖国日本を思い、複雑な考えとなる。 アルゼンチンの奥地、パラグワイ国境近い原生林で生活していたインジオのマタッコ族が仕事に来て、働き者の真面目な家族持ちでしたが、ある時『今日で仕事をやめる・・・』と言って来た。理由を聞く、『もう田舎で一年は十分に食べれられる現金収入が出来たので、それと当分は間に合う服や狩猟で使う弾や、医薬品も買い貯めしたので、これで十分だと』 私はそれを聞いた時に、しばらくは価値観の余りの差に『茫然』としていた。竹笛が上手な男で、一日の仕事を終って夕方のそよ風に吹かれて、カンニャーの酒を側に、家族に聞かせていた曲を今でも時々思い出します。


126・ 
  意地悪爺さんのお話です。歳をとると段々と子供帰りをすると言いますが、たしかにそれは本当と思います。頑固になり『へそ曲がり』となり、ムキに感情を出して子供の様に行動している事があるからです。 だいぶ前でしたが、あるタウン・ハウスを管理していました。余り建数は有りませんでしたが、こじんまりとした家でかなりの家が投資で買われ、レント・ハウスに貸し出されていました。 ある時、どこかアメリカ中西部の州から引っ越して来たみたいで、大きな18輪のトラックが来ていました。するとそれは私の予想どうりにアメリカ中西部州から来た家族でした。 まだ子供は7〜8歳の男の子供が一人で、余り気も掛けて居ませんでした。所が驚くなかれ、『ヒデ−!悪ガキ』でこちらも初めて『こんな悪る』感じる子供でした。親が放任、甘えホウダイ!と感じ、 子供の態度から『これはチョイ、用心しなくては・・・』と感じていました。先ず手始めは学校から同じ様な仲間の『悪ガキ連中』を引っ張って来ました。週二回見回りに行っていましたが、手始めはプールに置いてあるイスやテーブルを全部プールの中に『ドブン〜!』と投げ 込んで有りました。私も直ぐに『やりあがったなー!』とカチーンと来ていました。そこはそれ・・・、直ぐに鎖でイスとテーブルを鉄柵に留めておきました。『ざま−見やがれー!』でそれは終りました。次ぎは プール廻りの刈り込まれた茂みの中に入り、全部踏み倒して遊んでいます、これも『カチ−ン!』です、めちゃくちゃとなった綺麗な茂みは台無しです。これは近所の犬の散歩道から『犬のウンコ』を沢山拾うと適当に茂みに投げ込んでおきました。それは私が考えた以上に効果抜群でした。 子供達の幾人かは簡単に私が仕掛けた『犬のうんこ地雷』に引っかかって悲鳴を上げていました。これも『ざま−見やがれー!』でジジイの勝利でした。運動グツとパンツを脱いで洗い場から引いたホースで片隅で洗って居ました。それも見事に一回で止みました。やれやれ・・、でした。 しかし、悪ガキ連中は、夜間の街灯のガラス・カバーを『ガシャン!』とやり、かなりの数をやられました。散水装置のノズルの先を反対に水が出る様に曲げてあります。プラントが枯れて来て、『ギョーー!』とした事も有ります。かなりの被害が連続して起きていました。 しかしそれが止んだ後は、彼等が目指した所は、危険な『ポイズン・オーク』が藪の中に混じって生えている危険な場所でした。普通の樫の木と同じ様な葉をしているが、それに触ると酷い『かぶれ』が起きて火傷の様になり、皮膚が弱い人などは寝込んでしまいます。 直ぐに注意しようとすると、なんと『悪ガキ連中』は藪の茂みの中から石を投げてくるでは有りませんか!せっかく危ないので注意しようとして、近ずくとこの様です、これも『カチ−ン!』です、それでは注意のしようが有りません。『他人の好くせざる事に、施す無かれ!』です。危うい事にかなり大きな 石がストーンと飛んできました。私はあわてて逃げました。その日はそれで終りまして、その次の週に見回りに行くと、どこかおかしいのです。その20軒ばかりのタウン・ハウスが昔と同じ様に『シーン』と静まり返っていますので、『あれー!』と思っていました。知合いのおばさんに聞くと なんと・・・、子供達が見事に『ポイズン・オーク』にやられて中の二名は入院したと話していました。『子供達は4日ばかりな見た事が無い・・』と話していましたが、次ぎの週も同じです。それからしばらくして『悪ガキ』の家族が急に引っ越してしまい、他の子供達が来ることも無くなり、もとの状態に戻りました。しかし、しばらくは子供が暴れていた時を懐かしく思っていました。


127・ 
はや40年以上も前になります。アルゼンチンの奥地で農業をして居た頃です。その農場では、殆どが近所の部落から来たインジオ達が働いていました。一部は隣国のボリビアから来た ボリビア人が仕事をしていましたが、彼等は全部現地人の混血でした。祭りが町で開催されると、大抵はその日はお休みとなり、灌漑用水の水引などの、どうしても手が離せない人間だけが居ました。そんな中で町から農場に遊びに来ていた日本人が居ました。ガラ−ンとした農場ですが、幾家族は普通に農場で過ごしている家族も居て、中の若夫婦が町から遊ぶに来ていた日本人と交渉していますので、興味が有りましたので見ていました。そしたら驚くなかれ、今で言う『援助交際』のような話です。 夫はまだ27歳ぐらいですが子供が居ませんでした。結婚したのは10年ぐらい前で、ワイフが16歳頃の歳でした。まだ若いインジオの夫婦です、話しを聞いてびっくりしました。夫が町に祭りの行くのにお金が無いので、ワイフを借りないかという相談でした。当時の金で300ペソぐらいで、働き者が1ヶ月で稼ぐ金が3000ペソぐらいでしたから、かなりの金額です。 夫が200ペソ取り、ワイフが100ペソ取ってワイフを、夫が町から帰ってくるまで6時間ぐらい自由にして、洗濯をさせても、ベッドに連れて行っても何をしても良いのです。私は話しに聞いた事は有りましたが、その時が初めてでした。いやはや驚きまして、町から来ていた若い日本人に聞きました。『前に経験したことが有るのか?』と聞いた所が、 『ある・・!』と言うのではありませんかー!、黙ってその女性に手を出したら殺されると話していましたが、話しをして、前金を払い、女性も承諾したら、交渉成立と言うことでした。 昔の話ですが、現実に見たのです・・!そしてその日本人はインジオの女性を借り切り、6時間ほど楽しく過ごしていました。ワインを開けて、バーべキユーを楽しみ、もちろんベッドにも連れて行った様です、それにしても普通のワイフを時間で借りる事など、今の現代社会では無理ですね!





パラグワイ国盗り計画
今度書きます予定は、41年も前に遊びで、暇に任して仲間で考えた、パラグワイ国政府転覆、乗っ取りクデーター計画青写真です。遊びで始めたクーデター計画ですが、だんだんと熱が入り、興味が出てきて、何だか一時は本気で考えたことが有ります、今と なっては笑いがこみ上げて来ますが、この話は自衛隊出身の移住者が、初めは口を開いて話し出した事です。それが何も無い夜の酒の肴となり、それがだんだんと熱を帯びて来て、卓上計画を描き、図面と地図を揃えてパラグワイ攻略の青写真を描いて見て、 後でパラグワイ陸軍士官学校出の日系二世に見せた所が、驚いて可能性は半分以上は有ると言ってくれました。遊びで始めた事ですが、『ヒヨウタンから駒ーー!』で、意外な方向となり、今から思えば良くそんなことを考えたと思っていますが、何せ今では昔の思い出しか有りませんが、この事を書いて 見たいと考えています、今の若い人が他国のクデータ−などを計画してお遊びでも計画する人は居ないと思います。これから書きますが、週に一度か二度ぐらい書きます、不定期でここに書きますので、どうぞパラグワイの地図でも見ながら読んで下さい。次回より始めますーー!

パラグワイ国盗り計画・第1回

パラグワイは戦前の1936年ごろから日本人移住の企画がなされ、第二次大戦が始まる前までに、かなりの人数が移住して行きました。しかし移住地での生産物販売が上手く機能しなくて多くの人が隣国に再移住して行きました。戦後また移住が再開 されたがその1950年終り頃から1960年の始めにかけて移住してきた移民も戦前と同じく、多くの人がブラジルやアルゼンチンなどに再移住して行きました。私がその中でアルゼンチンに再移住して来ていた自衛隊出身の移住者と仲良くなり、ブエノス 近郊で野菜栽培を少しの間していました。昔の田舎の電気も無い農家でしたので、夜は酒でも飲みながら四方山話をしていました時に、誰と無くパラグワイは長閑な田舎の国だーー!と言って自衛隊出身者の山本氏が精鋭2000名もあれば首都スンシヨン を攻略出来ると切り出しました。彼は6年近くパラグワイに住んでいましたので、各地を歩いて見ていました。その当時パラグワイはアメリカからの第二次大戦余剰武器の中古武器での装備で、訓練も貧弱なものでした。国境警備などの兵隊が所持して居たのは 旧式なボルト・アクションのライフルでしたので、殆ど戦闘能力は限られた地域を守るのが精一杯と思われ、誰が見ても感じ、そう思っていました。そこから計画が生まれて来ました。パラグワイ国盗りを立案してみようとーー! パラグワイの人口は日本から比べたら、比較になら無いような少なさです、1871年には戦争で僅か22万人まで減少して、そこからまた人口が増えて行きましたが、広い日本と同じ面積に匹敵する大きな大地に、僅かばかりの人が住んでいたのです。
1863年   525,000
1871年   221,000
1900年   490,000
1936年   931,000
1940年  1,014,800
1942年  1,071,700
1871年に人口は大きく減少しているが、1871年は、パラグアイが ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの3国同盟を相手に戦った(パラグアイ戦争三国同盟戦争)が終わった翌年で、この221,000人の内訳は女性が106,254人、86,079人が子供男性はわずか28,746人だったといいます。(パラグワイ在住、田中氏のHPの数字より抜粋) 私がパラグワイに移住した時はまだ沢山の移民がヨーロッパやアジアの日本や韓国、それからパラグワイは南米でも数少ない台湾を承認している国で、かなりの台湾の移住者が来ていました。 しかし数はたかが知れた人数で、ブラジルなどとは比較が出来ません、政府も一党独裁で一人のドイツ系2世の大統領が長い間、パラグワイの国土を押えていました。政治も停滞して眠る様な感じだと聞いた事が有ります、そこに移住してきた日本人が 先ほどの第二次大戦の戦争の経験が有る人から見れば、乗っ取りを考える事は、笑い話ではない真剣さが含まれていたと感じます。当時、日本はまだ高度成長期に入る前でした。冷戦の狭間で日本の将来も不安が沢山あり、戦後海外から引き上げてきた日本人 が沢山、農村や都会に溢れて住んでいた時代でした。アメリカが沢山の政治干渉をして、経済的にもパワー溢れる政策で世界戦略の構図を動かしていた時代です。その頃の日本人が憧れていた世界の構図でした。なぜか引かれる事があつたと思います。 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画・第2回

パラグワイに行くと、何せ広い事が分ります、点と線の僅かな町と道路が繋がった国です。そこの首都アスンシヨンから1時間半ぐらい車で走った所に、ラ・コルメナと言う移住地を開いたのが初めてでした。そこは第二次大戦で後続の移住者も途切れて 過酷な経済的な困窮で、脱落して今では僅かな日本人が住んで居ますが、そこで育った2世がかなりパラグワイ社会に入っていきました。中には隣国のアルゼンチンで教育を受けて戦後の日系社会のリーダーとなった人もいます、パラグワイはガラニー族 の原住民とスペイン人の侵略者との混血が大多数を占めていますが、ヨーロッパからの移住者もかなり住んで居ます、ガラニ−族は混血していない純粋なインジオはアジア人の象徴である、蒙古斑点が幼児の時にお尻に有ると言われています。言葉も日本語に 近い単語が有りまして、私が『雨が降り出したーー!雨雨!』と言ったら、インジオが『あまーー!あまーー!』と言っていたので聞いたら、雨の事でした。同じ様な感じの発音で、驚いた事が有ります。そんな事で、バス停で立ち話をしていたら、驚いた 事にインジオの言葉のガラニー語で話し掛けられた事が有ります、『お前はどこから来た種族かとーー!』そんな経験も有りますのでパラグワイは昔、昔にアジアの国から流れて行った民族が創った国でないかと感じます、そんな感じで仲間が話していく内に、 誰かがここを日本人に第二の郷にしたらと言う話を切り出しました。『そだ、そだーー!』と酔った勢いで話しが進み始め、まず地図と図面を用意して来ました。かなり詳しいパラグワイの政治と軍隊の構造を記した本も買ってきて、まずその勉強会から 手始めに始め、だんだんと面白くなって来ました。そんな事で調べると興味から、実行計画にまで立案してみたら、と言う事になり、夜になると集まって話をして、検討したプランを組み立て、壊して、ますます面白くなって来ました。 パラグワイは余り知られていませんが世界で一番物価が安い都市です、アスンシオンの首都は昨年に続いて、今年も世界で一番物価の安い、住みやすい所と認められています、そんな国ですが、40年前はもっとのんびりとした雰囲気が有り、日本からの移住者 が当時の世界情勢を見て、激動する国際社会の力関係を移住した国と照らし合わせて、余りの隙の有る内陸国の政治とその社会を肌で感じて、一つ国盗りの計画を立ててみたらと言う気持ちになつたと感じます。内陸国ですから、海軍などは有りませんので、 当時のパラグワイの軍備は戦車が第二次大戦で使用された旧式なアメリカの余剰軍備品のタンクを僅かに所持していたぐらいで、軍の歩兵が使用していたライフルもこれまた第二次大戦の払い下げ品でした。当時、自衛隊も同じ装備でしたので、訓練を受けた 自衛隊出身の移住者がそれを見て、だいたいのパラグワイ軍の火力の推定をしていました。答えは『自衛隊と比較にならないほど小規模なパラグワイ軍の火力だーー!』と答えを出していました。その当時、旧日本軍の実戦経験の有る、有能な下士官が沢山就職 して、自衛隊の中核を作っていたからでした。立案した原案を彼が見せてくれ、議論が始まりました。だんだんと興味と関心が湧いてきて、毎夜遅くまで話していました。 ではまた、次回をお楽しみに!  

パラグワイ国盗り計画・第3回

まず1960年代の世界の動きを見ていると、社会主義国家と資本主義国家で民主主義を押し進める国とが分裂、抗争していました。特にアメリカは世界の警察として、あらゆる世界の国々に影響を与え、政治力と経済力を合わせて、そこに世界最大 の軍事力をバックに、ドルと言う貨幣が通用して、その総合の力があらゆる国の政治、経済の中に浸透して、動いていました。一国を動かして政権を握る事は、 自由な選挙での政権把握。独裁に近い中での選挙で対立候補を迫害、抹殺して政権獲得。軍事クデターでの現政権を倒し、政権の座に居るものを抹殺又は追放、幽閉して、政権を獲得。 まず、このどれかに相当しますが、私達が考えて計画したのは世界の政治社会から、まあー!受け入れられる政権交替でした。それにはジックリと下準備をして、底辺のパラグワイ社会でこれからの新しい国としたいと考える人々を動かして、それに反対し その様なな動きを止め様としたり、軍事力で制圧しようとする時だけ、対抗の為に軍事力の使用をその様な人々を訓練して行ない、新しい国作りの原動力と考えていました。 その為の工作員と、軍事顧問的な日本人移住者をパラグワイに送る為に日本で訓練して、あらゆる事態に即応出来る優秀な人材を少数集めて草の根的な活動を起して、連絡通信網を築き、 移住地を拠点に底辺の活動拠点を確保して、パラグワイ各地に分散して、移住地の拠点を広げ、放送設備を確保してラジオとTVでパラグワイ国民に宣伝、啓蒙放送出来る体制を作り、 日本政府の後押しでパラグワイ新政権を樹立させる事を狙っていました。これがだいたいの粗筋で、これから検討を重ねてプランを練り直し、現実に即応して行動出来る態勢は何かと考えて行きました。 1960年代のパラグワイは貧困の差が激しくて、一部の地主と高級官僚、首都や都市部で事業をしている中産階級の上部がビジネスを独占して、それに当てはまらない階級の差が大きくて貧困レベルにいる多くのパラグワイ人は隣国のアルゼンチンや、ブラジルに出稼ぎに出ていました。 アルゼンチンのブエノスの首都の工事現場などで働く労働者の一部はパラグワイからの出稼ぎが多くを占めていました。1960年代のキューバの革命いらい、多くの社会主義者の活動が起きて、ボリビアなどはすでに、ゲバラの革命主義者の活動がすでに起きていました。 カストロ政権の目標とする社会主義は、かなり難しくて、ボリビアやパラグワイなどでは、ほんの一部の人間が賛成して耳を貸すぐらいで、革命的社会主義など、否定的な考えの人が多数を占めていました。それは貧しくても食べる事に困るほどの貧困ではなかったからでした。 キューバの様に砂糖きび産業とアメリカ相手の歓楽観光の大きな2つの産業しか無かった時代、どこかで革命的社会主義が受け入れられた余地があったと思います、パラグワイでの政権交替を考える時、まったく新しい底辺から積み上げて行く、生活改善 と向上がもたらす、社会の裕福な環境を目指せば必ず、広い土地と豊かな肥えた大地で、将来の基盤が出来上がり、新しい政権を支持して、賛同する人々がパラグワイ人の中から多数出てくると感じました。当時日本が東京オリンピックを開催して、国の 躍進を計り、成功して、国民総資産が倍増して、道路、公共設備鉄道整備、湾口整備などの多くの事業が動いて、日本と言う国が躍進して、向上し、改善され、新しい国に生まれ変わって行きました。当時私達が議論して、目標としたのは、その当時日本が 取った政策でした。そのような政策活動で一つの国が日本と言う国と連携して動く様になれば多きな収穫と感じました。アルベルト、フジモリ前大統領が、ペルーの国を改善して、向上した事は多くの実績が功績となって一国を動かした事を見れば分ります、実現可能な事などですーー! ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画・第4回
パラグワイでの移住地を考える時、当時停滞がすでに始まった移住地の経済を考えると、もし、私達が考えて、立案した国盗り計画を推進したら、一石2鳥の利点が有ると感じました。 戦前の満州国の建設当時、日本人の入植を計る為に東北地方などから多くの、次男三男などの土地を持てない人を集団で移住させ、ロシアとの国境線付近に移住地を展開させて、国防の役目も持たせていました。しかし当時の軍部は満州の現地住民の土地を ただ同然で取り上げて土地から追い出して、入植地を作ったのでしたが、この様なやり方では成功するはずが無く、終戦時に多くの日本人入植者達が襲われて、悲劇が起きた事が証明しています。当時のパラグワイには沢山の満州からの引上げ者が再び 移住して来た人達が居ました。詳しく話しを聞く事が出来まして国盗りの本質とは何かーー!と言う根本を感じていました。それはパラグワイ国民を主体に協力と協和を基本に移住地を開き、国民生活の向上を図り、生活基盤の安定とその持続が有れ ば必ず、パラグワイ人と日本人が力合わせて政権を取れると思いました。まず若い優秀なパラグワイ人を日本に送り、農業や工業の原点を教えて、日本的な技術を収得させ、教育を通じて洗脳的な新しい政治の運営を学ぶ事をさせれば、一番の協力者となると 感じていました。その様な人をリーダーとして、中核として日本人入植地を基地にして、現地で軽工業の建設と農地の大規模開発を合わせて進めれば、多くの現地人の就職も作る事が出来て、基本的な運動となると感じていました。 パラグワイでの国盗りを企画する時、肝心な資金をどうするかが一番の悩みでした。この様な企画をしている、素っ頓狂の若者を当時の政治家や資本家などが資金を出してくれる事は100%無いと思っていました。政治家などは自分の選挙区に予算の分捕 りは汚い手を使っても、人気を維持する為にはあらゆる工作をして、分捕って来ている様でした。日本の国家百年の先を見て時代を読める政治家などは居ないと感じていましたが、私がふと思いついた人は、戦時中は中国の上海を中心にOO機関として 特務工作、対中国戦略の分析、戦略物資の獲得、満州国での産業育成の為の政界と財界工作を表舞台から隠れた所で遂行し、ドンと言われていました。戦後は政治の世界でも昔の繋がりを持って深く関り、財界の中でも広い人脈を維持して、特に任侠 の義理と兄弟分として杯を交わした親分衆を把ねて居た人物と知っていました。その様な人物であれば、パラグワイ国盗りなどの話しを、真面目に聞いてくれると感じました。一説では旧軍の隠匿資産をかなり隠して、持っていると噂されていた人です。 それと当時の社会でドンが口を挿んで仲介して、それに逆らうと杯を交わした親分が『先生の為なら、この命は惜しくは無い!』と交渉相手に凄みを効かして、上手く揉め事も収める力量が有る人物でした。まずその様な人物が納得して力貸してくれるのであ れば、財界などからの裏金的な寄付も受ける事が出来て、政治家の協力も得られると思っていました。当時の金額にして100億ぐらいの資金でした。実質的にはその半分の予算があれば実行が可能ではないかと思っていました。後の半分は予備の資金として 国盗りが成功した後の活動資金と一部は軍資金と思っていました。私達が資金の一番の協力者と感じていた人物の名前は、ここでは書く事は控えます、時代の中で歴史を刻んだ人ですから、過去に消え去った事ですが、この文を読んで人物を想定して下さい。 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画・第5回

パラグワイで、日本政府の移住政策は長期的な展望が欠けていたと指摘されていましたが、その事は直ぐに生産物の販路の閉塞として移住地に帰って来ていました。農家では生産物だ売れない事には、生活の設計が作れません。まずラ.コルメナと言う首都 アスンシヨンに近い最初の移住地では綿花、大豆などが栽培されましたが、内陸国の悲しさ運送費が掛り採算が厳しい情勢でした。戦後移住地と開かれた所では、ツングー(油桐の実)を栽培して短期作物に大豆や、トウモロコシなどを栽培していました。 一部、ブラジル国境の移住地ではコーヒーなどの栽培もしていました。アマンバイ農協と言われていましたが、原始林の伐採後はハッカの草を植えて、収穫してエキスを取り一時はかなりの栽培でしたがそれも直ぐに下火となり、桐の植林なども行なわれて 色々な作物を模索して、首都で需要がある養鶏の卵が注目されて居ました。しかしこれと言った決定打が有りませんでした。このままでは移住者が生活苦で移住地を放棄して、隣国のブラジルや、アルゼンチンに再移住して行く、事例が増えていました。 私達はその先例で当時アルゼンチンに来ていました。的確な将来を模索する内に、国盗りが具体化して、日本政府の政策としてはその様な事は不可能ですから、個人の集団が模索の中から最上の将来の方針を掴んだと感じました。 その当時かなりの数の若者が仕事を求めて移住地などで頑張って居ましたが、移住者の子供も毎年かなりの数が育って移住地ではその求職を埋めることは不可能で、まずそこから考えて行きました。彼等は語学としてはスペイン語を話して、日本語も日本語 学校に通い、かなりある程度の基礎は出来ていました。その様な若者を移住地で訓練して、日本に現地パラグワイ人と組んで研修に送れば成果が倍増すると思っていました。実行してその運動に賛成してくれる人間が居なければ何事も動きません。 パラグワイ移住者の子弟と、パラグワイ人の若者を組み合せて日本に研修に送り、教育と実習をもとに、これからのパラグワイの未来を研究させ、自分達で将来の国をいかに動かすかの自覚を付けさせるのが一番重要と感じました。 これは当時発展して成長している日本を見れば、まだかなり遅れたパラグワイの発展を、もし自分達が参加して新しい国作りをして日本の様に、ダイナミックに変革させる事が出来ると思えば必ず成功すると感じていました。当時アメリカなどが中南米など で裏工作して政権を動かしていた事は、かなりの政治腐敗と貧困が付いていました。その様な事が無い、下から組上げて行く変革です。まだ当時のパラグワイの文盲率はかなり有り、徴兵制度で新兵として来た若者を軍隊で読み書きを指導していた時代です。 お隣りのアルゼンチンでも読み書きに支障がある新兵は22%ぐが居て、その中の17%ぐらいは完全に再教育が必要と、当時の新聞に出ていました。その様な時代です、無から染め上げて行く事はもっと効果が有り、その熱烈な支持者とすることが出来る と感じていました。中国の社会主義の誕生を見ても若い成年男女が、農村や辺地での思想改造運動を起して成功させています。我々は日本に手紙を送りその事を打診しました。答えは我々が期待する良い返事でした。農民塾と言う感じの、これからの若者 を訓練する施設でした。そこでは機械の整備から修理まで農業に関する基礎と、これからの機械耕作を教え、新しい国造りを目指すクラスでした。 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画・第6回

パラグワイを40年前に日本で話しても、どこかと聞かれるのが普通でした。ブラジルを知っている人は沢山いましたが、その隣りの国だと言うと、『それは知りませんでしたーー!』と言う人が大勢いました。内陸国で海が無いと言うと、魚は食べられる のかと聞く人が多く居ました。日本から見たらそれが普通です、しかし当時、日本から移住していた国は、ブラジル、アルゼンチンパラグワイ、ボリビア、それから中米のドミニカでした。しかし60年の初めにはドミニカ移住も破綻していて、パラグワイ などに再移住して来ていました。中には日本に帰国した人達もいました。私達が当時の状況を見て、パラグワイを安定した、希望のある移住地にする事と、これからの日本の将来を考えて、日本以外で日本人の民族的発展をさせる事が出来る国は無いか考えた時、 パラグワイでメノニータと言う宗教集団が新天地を作る為に移住して来て、独自の自治と農業集団的な集落を作り、パラグワイ政府から徴兵などを受けない取り決めをして、発展していました。私達がその方法を土台に、日本人移住地を拡大して政治的な力を 作り、その輪を広げて、いざと言う時の為に、爪を砥ぎその爪を武器と出来る様に考えていました。必ず政治的な運動の推進には反対勢力の抵抗が有るからです、簡単に倒せる事も有ると思っていました。また反対に多くの犠牲も出る可能性も考えていま したが、その様なシナリオは何度も推測して、犠牲を最小限に止める事を考えて、計画を練り上げていました。メタニーノはドイツ系の集団が多くて、当時のドイツ系2世の大統領が多大に援助して、便宜を図っていた事は広く知られていました。 その様なことで、我々が目指す天下盗りはパラグワイに日系の息が掛った大統領か首相を据える事でした。それからアメとムチでの建設を目指していました。アメは投資と融資と無償援助で、多くの大学を建設して、日本から留学したら授業料免除で卒業後 三ヵ年仕事をしたら、多額の一時金と日本と同じ卒業資格を与え、パラグワイ永住希望者には土地と資金と5ヵ年先までの生活保障を与えて、安心して開発と事業の推進が出来る様に考えていました。 昔、戦前の台湾政策を見ても、日本政府が予算の半分近くに相当する資金を投資して、成功した事を考えると、それと台湾に国立大学を建設して、教育と学問的な平等で誰でもが教育を受けることが出来る様になり、その土台となった事が解ります。 ペルーのフジモリ前大統領は、学校建設を10年先の国の為の投資として建設して、それが成功していました。基本的な国盗りはそれが目標でした。  パラグワイの国盗りを計画しだして、アメの美味しい餌は書きましたが、ムチの方は計画遂行をする上での障害と反対派の抵抗を考えて、それを叩き潰すか、側面からの工作で根回しして切り崩すか、しかし、人の考えと心理を動かす事は中々出来ません。 その事を考えて、最終的には武力的抵抗があると感じていました。しかし、移住地と言う所は、日本からの移住者の中には色々な方が来ていました。旧日本軍で大戦中は南方戦線で迫撃砲中隊で指揮官をしていた人や、東北の田舎から軍隊に召集されて下士官 として最前線のトチカや陣地の爆破の専門家として、訓練を受けて実際に上陸作戦で部下を指揮して、上陸地点を確保して成功させた人など、満州国境に居た人は、ロシア軍が雪崩を撃って進撃して来た時に、対峙して僅かな兵で狙撃銃を使い、ロシア兵を多 数倒し進撃を止めた人も居ました。話しを聞くと、ロシア軍の輸送トラックの隊列を襲撃して、燃料と弾薬を多数破壊した様に、小人数での訓練された兵士は、多大の成果を上げることを聞いていました。そこで我々は、まだ旧軍出身で自衛隊にも居た事が有 る実戦経験豊富な方々から、話しを聞き、少人数での戦闘ゲリラ的な行動方法を聞きました。戦後故郷の東北の田舎で、雪が積もると炭焼きの傍ら狩猟もしていたと言う、まさにパラグワイのジャングルでもインジオが顔負けの活動をしている人も居ました。 その様な人と連絡を取りました。返事は『面白い話しだ!』と答えてくれました。どちらかと言うと、その様な方は行動力があり、地球の裏側のパラグワイまで自分の人生と将来を賭けて移住して来る考えの人でした。私達が酒の席から始めた話ですが、その様 な方々が賛成してくれた事を考えると、パラグワイは当時国盗りに一番最適で、日本人がその行動を起す最適な場所と、国で有ると感じる人が沢山居たと言う事です、話しを具体化して行くと、昔、サラリーマン的な生活をしていた人はまずダメで、話しの 夢も持っていない、枠に入った人間が多かった感じを受けました。手応えとして少数、新鋭、事前に準備周到に用意して計画して、表の政治工作と平行しながら裏では爪を磨くと言う両面の活動を維持して、いざと言う時の即応が出来る事を考えていました。  では次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画・第7回

私が現在書いています、当時のパラグワイ国盗り計画を立案構成した人は思い出すと、中心となって話した人は全て過去に消えてこの世に居ない事に気が付きました。自衛隊出身で、酒の席で一番先、話しを切り出した人はアルゼンチンに長く住んでいて、 6年ほど前にガンで亡くなられて、興味を示して話しに加わりこれが本当に実行出来ればと言った人も、15年ほど前に同じく病気で亡くなられていました。パラグワイで話しを聞いた人もブラジルに再移住したり、パラグワイで亡くなり子供の代にな っています、時代が変わり変化していく中、昔120年もの前に、ドイツ人達が自由を求めて、『新ゲルマーニア』と言う新しい移住地を開いて居たと言う事は、今は名前のみ残りましたが、桃源郷を求める人がパラグワイに沢山移住して来ていたと言 う事です、現代はメノニータと言う宗教集団が根を下ろして、ドイツ系集団を作り、パラグワイで生活しています。成功してこれからも伸びて行くと感じています。40年前にこれが実行されていたら今の日本の政治もいくらかは変化があつたと思い ます。アメリカがハワイやアラスカ、プエル.トリコなど本土から遠く離れた場所を確保して其の他南太平洋でアメリカ領サモアなどを保有しています。それから南米に近い、ヴァージン.アイランドの島もアメリカ領です。その様に日本では余り知られては 居ませんが、日本もその様な飛び地でも確保して、政治を根付かせる事を真剣に考えていたら、現在はかなりの変化が有ったと確信しています。戦前に日本が所有していた南海諸島も全て無く、当時その島で生産される砂糖や、熱帯果樹などが日本の消費を 多くカバーして居た事を考えると、単に夢で終わらせる事はしたくは無かったのでした。イギリスなどは今の世でも海外に領土を確保して、大英帝国の力を残していますが、アルゼンチンと領土紛争を起した、フォークランド諸島も英国の領土です、南極 に近い場所ですが、地下資源を抱えて重要な島となっています。歴史を見ても、、武力を持って侵略した植民地政策は今では無理です、しかし選挙で交替する政権からでは、人が作る国ですからどこからも文句を付けられる事は有りません。反共、親米政策 を掲げていれば、南米諸国では余り摩擦がない平凡な内陸国としして居られ、パラグワイは他国からの経済的な交渉は受けるかもしれないが、それは資本主義の世界、常識の事ですーー。計画は細部に渡り、暇に任して練り上げて組み立てて行きました。 私達が立案して、細部の検討に入り、仮定として政権を選挙でこれから6〜7年の先に取ったとすると、逆算してどの時点でどの様な具体的な設定を築き、、それを訓練又は用意して具体化する行程を詰めました。まったくの卓上計算の想定でした が何か、パラグワイの将来を我々が担うと言う気迫までその頃持っていました。パラグワイは女性が裏では主導権を握る国です、三国戦争で男が少なくなり、女性に優遇されて、誰かが話していましたが、『甘やかされた〜!』などと言う時代も存在し たと感じます、でも当時ストロエスネル将軍の独裁政権下でしたが、独裁と言う感じは世間一般生活では余り感じませんでした。経済は安定して、外国為替でガラニーの交換比率も悪くは無く、当時アルゼンチンより外国物資の贅沢品が市場に有りました。 ロドリゲス将軍が1982年の、35年の独裁政権打倒が成立するまでは、コロラド党(通称赤党)と言われた政党が53年以上も独裁政権を保持していましたので、1989年の39年ぶりの文民政権誕生までは、選挙での公正さは無かったと言われていました。 私達がパラグワイ選挙の一票を握る女性の政治的啓蒙を考えて若いパラグワイ女性を目に付けていました。日本に研修に送り出す時は、女性を多くと考えていました。その優秀な女性が日本人男性と結ばれれば、これは一番の得策です、住宅や生活 援助を計画して、パラグワイでの振興に関連する農業、軽工業などを、側面的な改革と合わせて、実行していく計画でした。昔、スペインの南米侵略はインジオ部落を襲撃して、奴隷として沢山の女性を拉致して、一人のスペイン侵略者の男性が短期間に 奴隷とした多数の女性に、150人以上も沢山の子供を産ませてその子供達を家族として、成人した暁に自分の手勢と訓練してまた奥地のインジオ達の領域を、侵略して行った歴史を見れば特に南米の家族主義の連携を考えると、もっと日本人の移住を 日本で啓蒙して、推進することも計画に入れていました。パラグワイの国盗りはこれが一番と感じ、一番の基本として、土台を固める計画を立て、立案した計画に加えて行きました。若い我々が何も思考的に制約なく、自由な発想で未来を考えていたのではないかと感じました。  ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画・第8回
パラグワイは多くのヨーロッパ人達が昔から、宗教で、信条で、桃源郷として、自分達の楽園を夢見て来た人が多い場所です、しかし、日本人移住地ではその当時、一部の移住者が隣国に再移住を始めた時期でした。一番の理由は、農作物を作っても 売れない、販売価格が低い、輸送経費が掛かり過ぎる、その為生活が成り立たず、ジリ貧の希望が見えない生活に陥っていた時期でした。僅かにアスンション近郊で野菜栽培でいくらか儲けて居る人が居たぐらいでした。 その様な時期で、当時のアスンション日本大使館を訪ねても、『パラグワイは、まだ開拓が始まったばかりだからーー!』と言う感じで、近所の日本人レストランで食事をしているる大使館員の話しを、近くのテーブルで偶然聞いた事は、『早く本省に帰 国したいと言う話ばかりで、どのくらいドルが貯まった』と言う話しでした。それが一般的な公務員の考え方と感じました。我々が計画する事は、世間常識からしたらキチガイか、少し頭がおかしい妄想主義者の話しか、危険分子のたくらみと思われて 話しをする人にも用心して、相談や参考になる話を聞きに行っていました。日本人移住者は田舎の保守的な、村社会の中で育った人が多い感じでしたので、特に言葉は注意して、心許した人以外は、余り話す事は有りませんでした。 計画は段取りの設計から抜け出て、具体的な数字と詰めの計算を緻密にして、前の見本が無い手探りの計画立案を描いて行きました。その途中で歴史の本を見ていたら、スペイン人で一番多く奴隷としたインジオの女性に子供を産ませた男は、260人近い 数字だったと書いてありました。嘘か真かは、その真偽は知りませんが驚く数字です。仮に260人を産ませたら、20年先はどえらい人数となります、結婚年齢が低い時代です、それで一族固まれば、恐ろしいパワーとなったと感じます、昔ですー! 余り人口がいない時代、その様な家族が固まって、分家して力合わせて、領土を拡張して行ったら、直ぐに大きな領地を持ち、大きな政治の勢力となったと感じます。日本人移住者が結束して力合わせて、一大勢力とする事は、移住者の年齢からしたら当時 の状況は大変厳しい情勢と判断しました。余りにも地域が密でそれ以外は交渉が無い、日本の村社会をそのまま持ってきた感じがしたからです。理想とする事が余りにも小さく、金や仲間の近所より、一山多く儲ける事が目標でした。下準備が整った時点で、その事が大きな壁となりました。 最終の計画が済んだ時点で、我々が一番心配したのはやはり、移住地の日本人の集団でした。儲け話しには直ぐに乗って来るのに、先の見えない、先の分らない、金にもならない話しはそっぽを向いて、用心して心開いて話し合う事も出来ませんでした。日本の田舎から部落総出で移住してきた人達もいましたので、中には日本の村社会より、厳しい環境が有る地域が存在して、狭い移住地を作り、親戚や家族でないと信用してくれない風潮が有り、とても我々の計画を話し、相談する事も無理と感ずる 所も有りました。そこが一番の難点を感じ、打開点を探していましたが、生活に追われ、なおかつ現実に迫られた生活苦が我々が百年の先を見て語る事を、夢物語として拒否していました。現実の厳しさが夢を見るのも、それを実行するのも、 全てが大きなギャップとなり、改革を夢見てーー!将来を思い、計画した数字が現実との埋まらない差に、先にこの計画を進め様とすればするほど、壁に出会い、パラグワイの日本人社会では、時期早朝と感じる様になりました。 武力で政府転覆をすると、どのくらいの人数で成功するか考えた事は、2500名の精鋭がいたら出来ると、自衛隊出身者が話していました。200輌の戦闘車両、トラック、ジープなどが有れば、それを支える分散した移住地の支援があれば成功は間違い無いと言っていました。 しかし、その様な事は当時のパラグワイ社会では受け入れてくれる余地も無く、日本政府が援助と支援があればと話す、自衛隊出身者も現実を見て、夢で終るか〜!と嘆いていました。計画を詰めた時点で、もう一度改めて見直す事にしました。 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画・第9回
パラグワイを見て感じる事は、まだまだ余裕の有る国です、しかし、人と財力と教育と、情熱が不足していると感じました。豊かな土地を持ち、僅かな人口ではとても開発は無理と思い、またそれに一番必要な資金も不足していました。 アルベルト.フジモリ前ペルー大統領が日本から移住した移民の子供で初めて一国の大統領と成った事は、かなりの衝撃でした。泡沫候補とささやかれながら、最後まで残り、大統領までなった事は、選挙の恐ろしさと、意外さが有ります。 ペルーは原住民の血を引く人が80%以上も居ると言われて、一部スペイン人侵略者の血を維持する一握りの白人がペルーの社会を押えています、その中でフジモリ氏が大統領に就任した事は、我々、南米を知るものとして衝撃の心を持ちました。 彼が辞任しなくて、あと10年間以上、大統領を維持したら、かなり南米の政治地図が変わっていたと感じます、彼が長年隣国と争ってきた国境紛争も解決して、彼の改革と建設で3000以上の学校建設がなされ、その成果が完全に出てき たら加速されたスピードと成って、ペルーが新しい国となったと感じます。我々が夢見た事は、後になってフジモリ氏により形は変われど実現した事は、パラグワイでも夢では無かったのでした。今から思うと当時のパラグワイの移住形態が複雑で、移住者のレベルが余りにも狭かった事を感じます。 私達が計画を立案して、最終的なプランを整理していました。ストロエスネル将軍が当時のパラグワイの大統領で、かなりの独裁政治をしていましたが、彼はドイツ人移民の2世です。1964年頃に当時のアルゼンチンのポサダで、ある日本人の 一世から話しを聞いたのでしたが、戦前、アルゼンチンのポサダでカフェー屋を開いていたが、いきなり『あいつは学生時代に俺の店でコーヒーを飲み、そのコーヒー代も無かった時代が有り、こずかいを与えていたーー』と話していました。 彼はその後、パラグワイで政権を取り、大統領まで登りつめた男でした。そんなドイツ人2世がパラグワイで政権が取れたわけですから、日本人が団結すれば必ず日系か、その支持者が大統領になれると確信していました。 それは裏を支える、ドイツ人の移民を見逃す事は出来ません、彼等は団結力が強くて、お互いに力を出し合って前に進む事を考えています。あるパラグワイに移民で来ていた日本人が話てくれた事があります、その事は良く日本人の性格を表していると感じました。 彼は戦時中、満州でロシア軍の捕虜となり、シべリアに送られて、そこの捕虜収容所でドイツ人の捕虜と一緒になり、彼等が団結して権利を主張して仲間を守り、仕事でもノルマ以上は絶対に手を貸さなかったそうですが、日本人は仲間割れして、仲間 を裏切り、お互いが疑心と猜疑心での付き合いで、まとまりが無くその事がもとで、多くの人が死亡した原因ともなったと話していました。そのような話を具体的に聞くと、心乱れました。果してこの話を日本人社会で話して、同士を集める事は出来る か、大きな壁に突き当たりました。それは致命的な計画の壁となりまして、移住地の村社会から、もっと小さな部落社会と細分化された付き合いでは一度話すと、取り返しがつかない事態となると予測されました。開拓初期にお互いが森林伐採 を競い合い、『俺の土地は20町歩開拓したーー!』『俺は23町歩がーー!』と、後も、先も考えずに資金を注ぎ込み気が付いたら、仲間割れと、いがみ合いと猜疑心が残ったと話してくれた人が居ました。それで植えつけた永年作物が先の見え ない産物で、販売市場が無くて破綻の道を歩き出した時代と一致して、我々が計画の時期として、一番の不適切な次期に始めたと感じました。それは深く探りを入れるほど分って来ました。自衛隊出身者がパラグワイに用事で行き、確かめて確信して来ました。彼は帰宅して、その夜一番に口を開いた事は『時期早々ーー!』の一言でした。  次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画・第10回

『時期早々ー!』との答えに我々は頭を抱えて考えていました。しかし、情勢は変わりませんので、これからどうするか協議しました。アルゼンチンのミッショネス州に僅かですが昔からの日本人移住者が落ちついていました。 中にはかなりパラグワイからの、昔の転住者がいました。それと婚姻関係でパラグワイから嫁に行った人も居ました。それらの日本人とブエノスに出て来て、パラグワイの将来を思う人達を集めて話しを進めるか、検討することにしました。 これは時間的に、距離的に難しい事です、その当時は汽車でブエノスからパラグワイ国境のポサダの町まで一日掛かり、それからバスで2〜3時間は掛かる所ばかりです、話しと言っても電話などない時代、とても通信連絡が出来ません、話しを すれば必ずや理解をしてくれる人も居ましたが、所詮が無理と感じる様になって、当時のブエノス近郊でのパラグワイからの転住者は生活に追われて、かなりの人が時間的な余裕を無くして生活していましたので、両方の日本人と日系人に話しを持って 行くチャンスが無く、ここでも壁に突き当たり、しばらくは我々の頭を冷やして、冷却期間とする事にしました。要点は一冊のノートに全部まとめて、他の検討資料は全部廃棄してしまいました。残ったのは一冊のノートと、パラグワイの 地図類でした。全てを記載して、その要点が全ての計画を組み立て、実行後のプランも練って記載されていました。その全てを私が預かり保管して、しばらくは夜の集会も中止する事にしました。丁度その頃でした、ある人から話しが 有りまして、アルゼンチンの北部、サルタ州で農場の支配人の仕事を持って来ましたので、私も心乱れて考え、一度下見がてらサルタ州に行き、帰りにパラグワイに寄って私も現実の確認をする事にしました。仲間にその事を話して、出発していきました。おそらくそれで、この話しの決着を付けるつもりでした。 ブエノスを出て、汽車で先ずパラグワイの隣りのミッショネス州のポサダまで行き、そこから渡しでエンカルの町に渡りました。パラナ河の流れが両国を二分して、悠長にかなりの水量を湛えて流れて行くのを見て、この雄大な観景に見惚れていました。 渡し場で幾人かの日本人と会い、中には家族でパラグワイを離れて、隣国のアルゼンチンに転住する家族と見られる人達も居ました。私は複雑な気持ちを抱きながら、乗合小型バスで移住地の奥に友を訪ねて行きました。 ブエノスからのお土産を抱えた私を歓迎して迎えてくれまして、その夜は二人で酒を酌み交わして、持参したノートを見せました。彼はしばらくはノートを熟読していましたが、最後に一言ーー!『あとはパラグワイ移住地に居る日本人が動けば、必ずや成功す  ると思うーー!しかしそれはかなりの難題で、誰かここで営農 して移住地に住んで、一人ずつ口説いて行かなければ誰もその 話しは信じてくれないし、また話しの相手もしてくれない』と彼は話してくれた。私も同感の心を持って、その夜は床に付い たが中々眠れなかった。その翌朝、彼は朝の仕事が一段落した時点で、話してくれた。その話しはかなり私の心に染みて聞いていたが、彼は『パラグワイの時間と、日本の社会が動いて行く時間との差が余りにも大きいので、こちらの話しがまとまり動い た時は、日本ははるか彼方の方に移動しており、その民族的な国民性を埋めるギャップは難しいーー!』との彼の話しに何かこの計画の一番の誤差が有る感じを受けた。レベルの違いと、早さが噛み合わないのであれば、計画事態が 実行のチャンスを掴む事はますます困難になると感じた。私はパラグワイまで来て良かったと感じた。私は一番大切な事を覚ったと感じ、具体的な計画を中止する決意が付いた。後は何も後悔は無かった。全てが済んだと感じた。 彼は私が中止の決定をすると言うと、短く『それが良いーー!』と話すとまた畑に戻って行った。私も他の用事をかたずけて来ると話すと、『夜にまた話しに来まますからーー!』と告げて友達の家を出た。次回で最終回となります。

パラグワイ国盗り計画・最終回
パラグワイの国盗り計画を立案して、初めは色々な本や資料を集め、読んでから最後はノート一冊にまとめ、そこに全てが順序良く整理されて、まとめられていました。当時はパソコンも無く、全てをノートに記載しておく他は有り ませんでした。私はその日にエンカルの町に出て、町で商店を開いている日本人の知り合いを訪ねて、当時のパラグワイの状況と景気の先行きを聞きました。それは余り芳しくないのもでした。やはり日本人の農業経営が苦しくて、余裕など無い 生活の人が多いと話してくれ、野菜を作ってもエンカルの町が直ぐに溢れてしまう様に野菜が生産されて、このままでは半分の移住者が隣国に移転して行くと話してくれました。私はその話しを聞いて、心が寂しくなる感じでしたが、生活が 成り立たないのであれば、この話しはすべきでは無いと心に感じそれ以上は話す事は無く、買物を済ませると、またバスで友人の農場に戻って行った。私は昨夜の話しを最後に全てを心とカバンに深く仕舞い込み、パラグワイでは二度と話す事も無かった。 その夜、友人と別れの酒を酌み交わしていた。彼は私にブラジルに転移住すると、ポツリと漏らした。『兄がブラジルに移住していて、サンパウロで養鶏で成功して、家族で来る様にと誘ってくれて、決心がついて今度の収穫が終ると、私もこのパラグワイ には居ないーー!』と話してくれた。全てがこれで終ったと感じ別れの酒は苦かった。翌朝早くバスに乗り、いつ会えるか分らない友と肩を抱き合って最後の別れとした。彼は最後に『この話しは夢と思うなーー!いつの日かチャンスが来るからーー!』と 送り出してくれた。この別れが彼との最後であつた。その後二度と彼とは会う事は無かったが、今では最後まで残り、協議した人は全部亡くなるか、消息不明の事になり、ただこの計画が闇の彼方に消えてしまう前に、歴史のほんの僅かなページに書き残し て置きたいと思いました。そのあとだいぶ時間が経ってから、ペルーでアルベルト.フジモリ氏が大統領に就任した時の感激は同じ南米の国で現実に起きた快挙に、飛び上がって喜んだものでしたが、今ではすっかり世界情勢から、パラグワイの世の中も 様変わりして、今では夢物語にしか過ぎません。ノートや地図など全ては、私がボリビア国境のサルタ州から帰って、そこの農場に支配人として行く送別会の、アサードの焼肉を作る焚き火の火に投げ込まれて全てが灰となってしまった。 世の中にはヒョンな事から、人が考えない様な事が生まれて来る事が有ります、現代社会ではとてもその様な発想は無理かと感じますが、昔はそんな事を夢見る事が出来たのでした。終り。




4・『ブエノスに遠い国から来た狼達』
  
40年前に移住したアルゼンチンのブエノスで知り合い、親友になって出会ったユダヤ人が、住めば都ーー、ユダヤ人は千年の流浪の旅に出ても民族は国家なりと。生きる、生き残る、生き抜く、生き残る為の子孫を残す、生き残る為の資財を作り、蓄える。それを力に民族を絶やさず、力蓄えて。頭脳と資財と言う民族国家財産を創り、蓄え増やすと言う集団力を創る事が、イスラエルと言う国家再建をユダヤが成した原動力と言った事に少なからず驚きました。国家を創造する思想、日本人にもその様な信念を所持する人間が居ても、移住を前提に世界のあらゆる国に根をおろして、土地を構え、家を作り、家族を養い、子孫を増す事も面白い人生かもしれないと感じ、その後は私の考えが信念と昇華して、これまで生きて来ました。これからお話を連載するにあたって先ず、読んでおいてもらいたい物語です、この話しは是非聞いてもらいたい、そしてユダヤ人を理解しておいて貰いたいと思い、序文として書いた次第です。これは私の思いでの話です、戦争の悲惨さ、それで難民として流浪の旅に出た人々が思い出として語ってくれた物語です。この物語は以前、出た邦のメルマガに出したものですが、彼等の信条とする心を先ず理解して、なぜナチ戦犯を彼等が命を賭けてまで捜していたか理解してください。これを持って序文と致します。

第1回
朝早くにブエノスに到着して、11トンものトマトを下ろしてホットしていた。いつもの運転手が家族の結婚式で今回は休んで、私がハンドルを握り運転してきた。たまの長距離の運転でやれやれの感じがしていた。荷降ろしが済んでから私はブエノスでしばらくぶりに休暇を取り、遊ぶ予定をしていた。今回はマタッコ族のインジオでハンターのルーカスが助手として乗って来ていた。彼もブエノスに出稼ぎに来ている兄弟を見舞いに同乗して来た。犬も連れて来ていたが、しかし犬を乗せる条件として、良く洗ってから連れてくる様にと、犬用の石鹸を渡しておいた、おかげで匂いもしなくて、おとなしく足元に寝ていた。私も犬好きであったから、長い運転での気休めになるので、特に夜間運転では単調なドライブでの相手としては人間より犬の方が利口な感じであった。ルーカスが後ろのベッドでいびきをかいて寝ている時に、犬はおとなしく私の横で、シートに座り前を見ていた。時々鼻先で私の腕をさわり、『チャンと起きていますよーー!』と言う感じで私の顔を見上げていた。

メルカード.アバストの市場に荷物を降ろして、仲買の受け取りを貰うと、全てが済んだ感じで、気分がうきうきとして来た。ルーカスをさそってレストランで朝食を食べると、留守番にトラックの荷台に乗せていた犬にお土産に、朝開店したばかりの肉屋から骨付きの肉を買って、新聞に包んで持って帰った。犬のポンが喜んで、かぶり付いて食べていた。私達は駐車しているトラックに、売り歩いているコーヒー屋を呼び止め、熱いコーヒーを飲んでいた。コーヒー屋は肩から左右の大きな袋を掛けて、魔法瓶に入れたコーヒーを売り歩いていたが、安くて結構美味しいコーヒーであった。犬がガリガリと骨をかじっている音を聞きながら、ゆっくりと朝のコーヒーを楽しんでいた。それが終るとルーカスを兄弟がいるアパートまで送って行った。前もって予約してあった駐車場にトラックを止めて、ルーカスの兄弟達から歓迎されて昼食は皆で食べる事になった。それまでゆっくりとワインども手に田舎の話に花が咲いた。ルーカスも久しぶりの再会で喜んでいた。

私はその夜は友達と飲む予定になっていた。日本人の二世の女性が居るバーで、ブエノスでも日本語が話せる珍しい店で有った。しばらく日本人の若い女性と話す事もなかったので楽しみにしていた。しかしこれが事件に巻き込まれた始まりで長い間、命がちじむ感じで。時には命がけで戦わなければならなかった。しかしルーカスと犬が居たおかげで、何とか切り抜ける事が出来た。


第2回
ルーカスの兄弟達は今日は仕事を休んでいたが、何年ぶりかで会う兄弟達は皆元気で再会した事を喜んでいた。アルゼンチン北部の郷土料理を作り、焼肉のアサードも焼いて近所の知り合いのインジオも呼んで、賑やかな昼の食事が始まったが、ルーカスが持ってきたお土産も配られて、和やかな一時が過ぎ行った。遅くまで話して食べて、少し運転して来た疲れと、ワインの酔いで、いつのまにかアパートの中庭の木陰で寝ていた。誰も起す者が居なかったので、日が落ちて少し肌寒くなって目が覚めた。ルーカスも犬もみんな寝ていた。静かな一時で外の水道で口をゆすぎ顔を洗って、駐車場に歩いて行き、運転席の後ろのベッドの下に入れて有る着替えを出して服装を改めて、今夜の飲み会の友達に電話を入れ、挨拶して時間を確認して、再会の時間をを約束していた。そろそろ遊びながら町に出かけ様と思いアパートに寄り、ルーカスに「今夜は遅くなるのでアパートには泊まらない」と伝えていた。

すこし暗くなり、タクシーを拾うとセンターの繁華街に繰り出た。ピザ屋に寄り軽く二切ればかり食べて今夜のスタミナとした。カフェーに寄りコーヒーを注文して、店の外のテーブルで景色を眺めて、側を歩いて居る歩行者をぼんやりと眺めていたが、時間が来てタクシーを拾い、約束のバーが有る街に到着した。港の近くの小さなバーで、船の船員達が立ち寄る事でも知られていたので、日本船が入港した時は賑やかな時も有る様だ。タクシーから下りると港の船が停泊している感じがしていた。一方通行でタクシーが入れないので、そこまで歩き出した道すがら、汽船の『ぼーっ』と響く汽笛が聞こえて来た。

時計を見たらまだ待ち合わせに時間には少し早い時間で、歩きながら街の様子を見廻していた。するとタンゴの音楽が響きアコーデオンの響きが外の舗道まで響いてきたので中を見ると、バーの片隅で男女が絡まってタンゴを踊っていた。私もぶらりと入り、カウンターでコニャックを注文して、踊りを見ていた。官能的な女性の姿態が男に絡まり、巧みなステップで男と踊っていたが、皆はシーンと二人の情熱がふきだす絡み合いを見詰めていた。余り広くはないバーの中は、各国語が入り乱れロシア語、英語、ドイツ語、イタリア語など耳に飛び込んで来る言葉の数も、港の近くで雑多であった。

時計を見ると、そろそろ待ち合わせの時間となり、グイ〜!と酒を飲み乾して勘定を払い外に出た。外の舗道までタンゴの音楽が追いかけて来た。少し歩くと今日の待ち合わせのバーが見えて来た。ドアを肩で押し開けて中に入ると薄暗い中が、しばらく何も見えなかった。外のネオンが輝く明るい舗道から急に薄暗いバーの中で目が慣れるまで、しばらく入り口に立っていた。すると、奥で『いよ〜!』と声がして、『しばらくぶりーー』と友達が出てきた。ガッシリと握手して元気な再会を祝った。テーブルに座り、沖縄出身の二世の若い小柄な身体の女性がウイスキーを水割りで注いでくれ、皆と乾杯して今日の飲み会の幕を開いた。その時、私らのテーブルに若い、髪を長く伸ばした男が挨拶して割り込んで来た。名前は陳(チン)と名乗った。  

第3回
私は陳ですーー!と名乗ると、「初めましてーー」と流暢な日本語で挨拶してきた。私の友達の知り合いの様で、この店の常連とのことであった。私はウイスキーを進めて、グラスに氷を入れて、酒を注いだ。もう一度乾杯して、「グーッ!」と飲み乾して、酒席の話しの潤滑材とした。日本式におつまみの皿が出て来て、席も一度になごみ日本語で気軽に話しが出来る事も久しぶりで有った。席に座っている日系の女性も、上手な日本語で話しに加わり、冗談と馬鹿話でワイワイと酒も入って、楽しさがテーブルに溢れていた。久しぶりの酒の席で私もジャングルの単調な生活の息抜きとしては最高であった。まだその頃は農場の支配人でマリアとも知り合ってはいなかった時代で、気楽な一人者の時代であった。収穫高からの歩合で、かなりの金を稼いでいた時代で財布の重たい物を持っていた。まだクレジット.カードも無い時代、現金が全てであった。

陳氏は自分から自己紹介してくれ、九州の大分県出身と言っていたが、家族がドミニカ移民で移住して、それに付いて移民して行ったと話していたが、日本では日本名を名乗っていたと言った。広東語もかなり話せると言っていた。スペイン語はベラベラの口でかなり語学が達者な感じで、現在はユダヤ人のオーナーの繊維関係の貿易会社で仕事をしていると言っていた。仕入れ先が日本が主な所が多くて日本語と中国語が解る陳氏が適任の仕事場と私も感じた。あちこちと流れ歩いて、南米はかなり詳しい感じで柔道と空手が少し出来るので、ブラジルでは売春宿の用心棒もしたと笑っていた。客のギャングに半殺しにされかかって逃げて来たと言っていたが、何かふてぶてしい、ヤクザの蔭を持った男で有った。しばらくして酒もかなり廻り、その場の雰囲気から沖縄県人二世の女性、エミさんのどうやら「いい人ーー」らしい感じで、話しぶりから分かった。その時ドアが開いて、ジプシーの若い少女が花束を売りに来た。テーブルを廻り花束を売っていたが、陳氏が冷たい眼差しでにらむと、少女は私らのテーブルには近かずか無かった。ドスのある目で裏の社会を歩いて来た事を物語っていた。彼がトイレに立った時、座席に脱いであった背広のポケットから、小型の自動拳銃がチラリと見えた。無造作に注込んである拳銃が余りにも慣れた感じで、不気味な感じが伝わってきた。今日はそんな事より、楽しく話して、飲んで、騒いでいたかった。隣りのテーブルに座っていた登美ちゃんと呼ばれた女性も加わり、大きな声で日本語で話して、馬鹿を言って笑いこけていた。真夜中の零時を過ぎて何か食べに行こうと話しが決まり、店で日本人との混血の若い女性も誘って6人でタクシーに乗り、女の子は膝に乗せてワイワイ言って乗っていた。運転手が顔をしかめて見ていたが、その顔にひらひらとお札をぶら下げて見せると、ニコニコして黙ってしまった。カンテイーナのレストランに入り、小皿の各種のつまみと、各自の注文をすると、ホールで音楽に合わせて踊り出した。注文の皿が並び、一曲が終ると、皆はテーブルに戻り座った。その時、陳氏にスーッと近寄り、何か耳打ちする若い男がいた。陳氏は黙って聞いていたが、「あとでーー!」と言うとその白人の若い男は踊りの中に消えて行った。


第4回
賑やかな時間が過ぎて行き、踊り疲れてテーブルに座り、ワインをソーダーを割って、つまみを口にしながら乾いた喉を潤していた。陳氏が明日の午後に知り合いの農場でアサードの焼肉を開くので、一緒に行こうと誘ってくれた。予定は何も無いので喜んで受けた。待ち合わせはアバスト市場の直ぐ近くの場所に有る、カフェーであった。そこは私も知っているイタリア系の美味しいコーヒーとパスタが食べられる所で、かなり有名な場所であった。すこし遅くまで寝ていて、直ぐに行ける所であったので喜んでいた。ルーカス達の泊まって居るアパートには、今日は泊まる予定は無かった。直ぐそばに借りた駐車場にトラックも止めて有るので、他に泊まる所がなければ、トラックの後ろのベッドで寝る事が出来るので何も心配は無かった。そして私の全ての荷物もそこに置いてあるので、早く言えば私のアパートと同じであったが、駐車場は管理人が住んで居て、番犬もいて、24時間管理しているので、安心してトラックを置いていた。

トラックのタイヤ一本盗まれても、かなりの値段がするので、そこは安全な場所であった。気分的に解放されて、楽しい寛ぎと、久々に飲んだウイスキーに酔って、登美ちゃんと話しが合い、彼女だけが日本から来た経歴で、東京の話しも出来る彼女に嬉しかった。酔いと踊りの疲れで少し眠くなって来た時に四名ばかりのイタリア語を話している若い男達が酔った勢いで三人の日系の彼女達を踊りに引き込もうとして、テーブルに割って入って来た。少し『カチーンーー!』と来ていたが、陳氏はいきなり腕をねじ上げて、床に叩き付けてしまった。面目を潰された若い男はいきなり殴りかかって来た。他の三名の男達も加勢をするかの様に、ぐるりと囲んで見ていたが、陳氏は動ぜず、パンチをかわすと簡単に殴り倒してしまった。

店の人間が飛んで来て『騒ぎは外でやってくれーー!』と喚いた。我々は勘定を払うと外に出た。三人の彼女達を囲むようにして、イタリア人のごろつきを用心していた。先ほど殴り倒された男がポケットからナイフを出した。口が切れて血を垂らしているので少し『ギョットーー』した感じが伝わって来た。陳氏もためらう事も無く、ポケットから手の平にスッポリと入る小型のブローニングの自動拳銃を出すと、その男の顔に狙いを付けていた。朝の3時近い時間で歩道には余り人影も無かったので、これからどうなるか一瞬『どきりーー』とした。その時スーッと車が近ずき若い白人の男が『早く乗りな〜!』と言って誘った。陳氏は私達が全員乗りこむまで、拳銃を構えて動かなかった。陳氏が乗り込むと、タイヤが激しく音を立てて発進した。後ろで罵声がして、酒ビンが車道で砕ける音を聞いた。陳氏は『ゲラゲラーー』と笑っていた。それから彼は『今夜はこれでお開きにしようーー!』と言うと、運転する若い白人に指図して、先ず私の友人と混血の日系人を彼女のアパートの近くに降ろした。次ぎは私が頼んだアバスト市場の近くに来た時、登美ちゃんが『そこなら私のアパートに寄ってーー!』と声を掛けてくれた。私は一瞬ためらったが、直ぐに彼女が私の腕を取り、外に引っ張って降ろしてしまった。

陳氏とエミはそれを見ると嬉しそうに、『じゃーー楽しく!』と声を掛けて走り去って行った。私の腕を掴んだ彼女はぐいぐいと引っ張って歩き出した。直ぐに小さな小奇麗なアパートの前に来て、『遠慮しなくていいのよーー!』と言うなり、ドアを開けて誘ってくれた。直ぐに冷たいボトルの水を出してくれ、私は酔い覚ましに、グイーーと飲んだ。ソファーにどっかりと座ると眠気が一度に吹きだしてきた。彼女が私に何か言っていたが、半分も聞いてはいなかった。彼女は着ていた物をポンポンと脱ぎ捨てて、一番下のパンテイーを私の顔に投げて、シャワーに入った。そこまでは覚えていたが、後はシャワーの心地よい音が子守り唄で、後は何も知らずに寝入っていた。

第5回
私はどのくらい寝たかは覚えてはいなかった。脱ぎ捨てた上着が床に落ちて、ソファーにだらしなく寝ていた様だ。朝方の生理的現象で、目が覚めてトイレに行った。登美ちゃんがベッドで無心に寝息をたてていた。ネグリジェーの胸から福与かな乳房がのぞいていた。久しぶりの日本女性の綺麗な姿態に『どきり〜!』と男の何かが騒いだ。綺麗な素肌と、黒髪が私が好きな女性の思いと一致して何か知らないが、しばらく見詰めていた。彼女は無心に寝息を立てて、ベッドに寝ていたが、その綺麗な姿態を見て、欲情も湧いてきてふとー!彼女に手を伸ばして腰に掛けている毛布をはがそうとした時、ベッドのサイドテーブルに立ててある家族の写真が目に付いた。

まだ若い彼女が家族と、どこかの畑の中で収穫したトマトの箱の前で、彼女が真中で両親が脇に立ち、兄弟そろって写っていた。彼女の両手に大きなトマトが握られて、こぼれるような笑顔が微笑んでいた。私もつい先日まで収穫の忙しさで寝る暇が無い様に仕事をしていた。あらかた峠は超えていたが、まだ残りのトマトが沢山枝に残っていた。その忙しさから逃げる様にしてブエノスの市場まで、トマトを喜んで運んで来たので有ったが、ヒョンな所でまた仕事を思い出してしまった。それと同時に、男の欲望がどこかえ消えていた。伸ばしかけた手を引っ込めて、近くで彼女の乳房を見詰めて、その形の良いふくらみを愛でていた。しばらくしてふと時間を見て驚いた。お昼近い時間で、カーテンの隙間から太陽が照り付けていた。あわてて約束の時間を思い出して、彼女のキッチン、テーブルの上に有る、バナナとリンゴを取ると、電話のメモ用紙に「どうもお邪魔しました、よく寝込んでいるので起しません、 果物を貰って行きます、有り難うーー!」と書いて側にいくらかのお金を挟んで置いていた。静かに部屋を抜け出して外に出た。かなりの暑さの太陽が照り付けていたが、乾燥したそよ風が心地よかった。アバスト市場まで歩いてそんなには掛らないので、ゆっくりとリンゴをかじりながら歩いていた。行き交う野菜を満載したトラックと車が市場が近い事を教えていた。

私が待ち合わせていたカフェーはすぐ近くで、少し間が有ったのでミルクコーヒーとクロワッサンを注文して、テーブルに座っていた。それを食べ終わる頃に、陳氏が車でやって来た。彼は駐車が出来ないから、早く乗ってくれと窓から叫んでいた。私はあわてて、勘定を済ませると車に飛び乗った。陳氏と昨日の若い白人の男が乗っていた。エミちゃんは夕方から仕事が有るから今日は来れなかったと話して、登美ちゃんも同じだろうと言っていた。午後の1時近くに郊外に走り始めた。

雑踏を過ぎて、5号線の国道は余り混んではいなかった。ルハンを過ぎて、それから土道をしばらく走って、綺麗な牧場に着いた。入り口から母家が有る屋敷までは並木が並んでかなり古い牧場の感じがしていた。レンガ作りの屋敷は豪華な様子で白い馬囲いの柵もある馬場も見える落ちついた感じ、すでに何台かの車が止っていた。子供が子馬を馬場の中で歩かせて遊んでいた。近くの芝生の横で、大きなアサードの焼肉が始まっていた。焼肉の煙りが食欲をそそり、側のテーブルにオードブルやサラダ、ボールが飾り付けて有った。

陳氏は私をそこのオーナーに紹介してくれ、早速に廻りの屋敷を案内して見せてくれた。プールも有り、屋敷から300mぐらい離れた所にはセスナの軽飛行機の格納庫と滑走路が見えた。アルゼンチンの金持ちの豊かさを目にする事が出来たが、一巡して、戻った所でアサードの焼肉が始まり、まずオーナーの声で乾杯の音頭が上がり食事がスタートした。来客の話す言葉が私には解らなかった。側の陳氏に尋ねたら、「ヘブライ語だー!」と教えてくれた。初めて聞く言葉で私は知らなかった。私は単純に「それでは今日はユダヤ系の人が多いのかーー!」と聞いたら、即座に陳氏が「そうだー!」と言葉を返してきた。私は突然、「なぜ〜!」と感じた。私みたいな不精ヒゲをはやした若い田舎者の日本人を、金持ちのユダヤ系の集まりで呼んでくれるのはと疑問が 湧いてきた。

第6回
乾杯が済んでから、私はワインの味に驚いていた。かなりの高級品と感じた。いつも飲んでいるワインは安物で、山と積んで売っていた特売品で有ったから、一味違うワインに驚いて、もう一杯お代りと思って手を出したら、陳氏が「余り飲むなョーー!」と言った。「食事の後でこの家の裏側に有る射撃場で射撃大会をするから」と話してくれた。賞金が出るからと言われて、私はあわててグラスをおいて酒を控えた。ライフルは大口径のライフルが5丁用意されていると話してくれたので、楽しみにしていた。食事があらかた済んで、コーヒーとケーキが出て来て、コニャックのグラスが配られた。ゆっくりと葉巻をふかす紳士達が何か話していたが、皆目意味が解らなかった。私もチーズケーキを貰い、食べていたが、陳氏がオーナーが応接間に陳列してあるライフルを見て良いと許可を出してくれたので、グラスを片手に応接間に入った。そこには使用人が移動テーブルに並べたライフルを監視していた。許可を貰い、中の一丁に目を付けた。マウサー98Kのライフルの市販銃が新品同様で置いてあった。

戦争中にドイツ軍の正式ライフルとして、第二次大戦を戦ったライフルと同じ型であったが、それを狩猟用とした、高品質のライフルを広く販売していた様だ。ダブル、トリガーで2つの引き金が付いていた。一つ引き金を引き、後の引き金は羽毛で触っても撃てると言う、精密射撃に使われていた。銃身は特別注文の様に感じた。許可を貰いライフルに触った。私は早く撃ってみたいと感じたが、皆が来るのを待っていた。デザートも食べ終え、コニャックの酒が良い香りを出していた。ほどよい手の平の温度で酒の香りが漂っていた。

私は射撃をしたい一心で、酒は香りだけにして、テーブルに戻していた。その時オーナーが皆を制して声を出した。「これからご来場の方々と射撃競技を行ないます、外の射撃場まで足を運んで下さいーー!」彼はそう言うと、皆を案内して外に出て、レンガ作りの歩道を歩いて皆を案内して行った。屋敷から少し歩いた所に、こじんまりとした射撃場が有った。ライフルとピストルが撃てる、手入れされた綺麗な所で、100m離れた所には土を盛り上げた土手を築き、標的が置いて有った。射撃ベンチが有る所は、テーブルが一つずつレンガで壁を作り小部屋となっていた。5テーブル有り、雨除けの屋根もついている本格的な物であった。そこには先ほどのライフルが並べて置いて有り、好きな銃を選ぶ事が出来た。一度に5名が並び射撃に入った。射撃場の横のポールに赤い旗が上がり、射撃開始のサインが出た。標的の土手には白い旗が上がり、射撃準備のOKのサインが出た。各自好きなライフルを選び、中には自分の銃を持って来て射撃をしている人も居た。初めは5発の着点の総合を競う事になった。

赤い顔をして、少し酔った感じの人も居て、射撃はバラバラに標的を狙い始まった。私は先にマウサーを使った人がいて、次ぎの射撃にして最初を見ていた。100m先の土手に土煙を上げる人もいて、備え付けの望遠鏡でのぞくと標的に命中している人は少なかった。
 

第7回
私はしばらく後ろで見ていた。やはり自分のライフルを持参して来ている人は上手だった。標的に命中させてかなりの点を稼いでいた。それと横風の吹く時は標的から外れていたので、セスナの格納庫が有る横の赤と白の吹流しを見ていると、風の強さが直ぐに判断出来た。見ていて、早くも5発を撃ち尽くしてしまった人も居た。慎重に時間を掛けて一つ、一つ撃っている人も居た。私は狩猟にはない標的射撃のコツを見ていた。動かない的であったが、微妙な神経の居る射撃で、真中の黒点の10と9を撃抜く事は容易ではなかった。初めの5人は終り、土手に赤旗が上がり使用人が標的の紙を直ぐに回収してきた。新しい標的が貼られそこで小休止となった。各自の標的が集計されて、最高は50点満点で42点であった。次ぎのお客が並んでベンチに座った。その中に私とオーナーがいたが、私はマウサーのライフルを使って撃つ事にしていた。弾が各自に配られ、ボルトを開けて弾を5発入れた。最初の弾は慎重に狙い、横風を吹流しでにらみながら、風が止った一瞬を狙って先ず第一の引き金を引いて、次ぎの2回目を軽く指先で触って発射した。微妙なタイミングが合って、ド真中の10点から少しずれて9点に入った。私は少し自信がついて落ちついて来た。着点は後ろで誰れかが見ていて、撃つと直ぐに教えてくれた。望遠鏡でのぞいている人も、興味が有るらしくて私の射撃をジッと眺めていた。

次ぎの弾をボルトを引いて、空薬莢を排出して装填した。標的に狙いを付けて、軽く一番前の引き金を引いて、一瞬の風の微妙な流れを見ていた。横風が強く吹いて、その一瞬の波の間で撃った。後ろで『10点、真中に命中〜!』と声を掛けてくれた。次ぎも同じ動作をして、風を待った。しばらく間がありその時後ろに沢山の人の視線を感じた。三発を発射して残っているのは私が最後であった。後の人はすでに5発を撃ち終わり見ていた様であった。ここのオーナーも側で見ていた。私はすっかり無我の境地で残りを撃った。側に誰が居るのかも感じなかった。撃ち終わってボルトを引き空薬莢を出して、休止の動作で、ボルトを開いたままライフルをテーブルに置いた。直ぐに使用人が標的を持ってきた。真中、10点を3個も穴を開けていた。オーナーが近寄り、スコープも付けずに良く命中させたと驚いていた。あとの2発は9点の所に命中していた。全て黒点の中で、私の視力が良いことも有ったが、日頃からライフル射撃に慣れて居たからであった。私が南米に移住する時に、田舎の故郷に里帰りした時に近所の昔、中野学校出身で特務員でマレーシア半島で活動していた人がいた。連合軍の英国諜報部の摘発をしていた人であった。彼は実戦の経験も沢山あり、襲撃した時、反撃されて激しい撃ち合いをして、最後は軽機関銃で敵の諜報員を射殺して戦後はモンテンルパの刑務所に居た事も有る人であった。私に拳銃の射撃の要領や、ライフルの撃ち方を空気銃で教えてくれた人でもあった。彼は実戦での接近戦や、至近距離での拳銃の射撃の仕方を夕食の後、夏の夜長を縁台で聞かしてくれた。

彼はその当時も剣道は欠かさず4段の腕で、空手と合気道も逮捕術の稽古で習って、段を持っていた様であった。私はその事が後になってどれだけ役に立ったか知れなかった。有り難い教授であった。普通の人はその様な特技などは無縁で、ただ実戦での身で覚え、自分の命を賭けて戦った経験で学んだ人の教えは貴重であった。その事が私の一つしかない命を守る事にもなったと思っている。その時、射撃が一段落して、休憩が告げられて、コーヒーの盆が運ばれて来た。各自コーヒーカップを取り、今の射撃の反省をして話していた。オーナーが近ずき私に話しかけて来た。『今日の射撃は貴方と私が同点だーー!もう一度競技して、一番を決め様ではないか』と話してきた。私は賛成して貴方と競技するにあたって、何か賭けないかと誘った。即座に了承してくれた。私は先ほどから目を付けていた、22口径のレボルバーの拳銃が欲しかった。特注品で10連発の弾が撃てる様に改良してあった。競技用の22口径の弾を使えばかなり精密な射撃が出来た。見ただけで欲しくなっていた物であった。どこかの銃工が製作したと聞いたが、標的を狙う星門の照準は特注品が取りつけてあり、とても私などは注文出来ない品であった。オーナーはあっさりと了解してくれ、お前は何を賭けるか聞いて来た。私は持ち金の2万ペソをテーブルに置いた。田舎では半年の稼ぎであった。

オーナーは笑いながら、『俺が損をする〜!』と言ながら、使用人に屋敷から持ってこさせた。テーブルに金と拳銃が置かれ、私とオーナーがコーヒーで乾杯して、射撃競技が始まった。オーナーは自分の愛用のライフルを手に、私はマウサーを手にしていた。


第8回
オーナーは公平を規すためにコインを投げて席を決め、射撃順を定めた。弾は各5発を側の人が無作為で選んで渡してくれた。私は希望して銃身の内部をクリニングのブラシを通し、掃除して真新しい布を通して磨き上げた。ボルトを抜いて空にかざして銃身内部を覗いて、光る穿孔の溝を確かめた。私は負けたくはなかったから、マイナスになる要素は除いておきたかった。オーナーが感心して見ていた。最初にオーナーが撃ち始めた。皆は『シーン!』として注目して、標的と射手を交互に眺めていた。セキをする人も無かった。緊張が張り詰めて、私は少し心に『キユーンーー!』とこみ上げるものが有った。風向きを吹流しで睨みながら、そのタイミングを計っていた。オーナーが最初の一発を撃ち、9点の黒点を撃ち抜いた。

私は最初の引きがねを引き、次ぎを風の間合いを見て、次の引き金に軽く指をかけていた。吹流しがストンと落ち、風が瞬間途切れた間合いを逃さなかった。 引き金を引いた。『ド〜ン!』と言う銃声が終ると同時に、『命中、10点ー!』と言う声が後ろでした。オーナーのフーと言う声が小さく聞えた様だ。次ぎはオーナーが狙っていた。私が10点の黒点を撃ち抜いた事で動揺した様だ。かなり風が強くなって来た。風が止む事無しに吹き始めた。吹流しが真横になびいていた。

かなり難しい射撃となった。100mでも横風で弾がかなり流されるから、難しい標準をしなくてはならなかった。オーナーが狙った的にかなり時間を掛けているのが分かった。風の強さを計っている様だ。しかし余り時間を掛けると、神経と指の間合いがずれて、張り詰めた目の集中力が落ちてくる。私はこの時勝ったと思った。オーナーは私よりお酒をよけいに飲んで居たし、来客の前で日頃からの射撃の腕を自慢していたから、若造の私に追われて、かなりのストレスが有った様だ。私は面子も無し、気楽で、賭けに敗れても2万ペソで済む。その時、オーナーが撃った。『ドーン!』と風に遮られた音だ。直ぐに『8点ーー!』とそれだけ誰かが後ろで声を出した。私は直ぐにボルトを引き弾を装填した。あとは何も考えなかった。風を見て、真横になびく吹流しを見て、ド真中の直ぐ左の8と9の境あたりを狙い付けて風を計算に入れて撃った。

発射音が消えると同時に『9点、黒点に命中ーー!』と声を掛けてくれた。私は小声で右か左か聞いた。右の9点だと教えてくれた。やはり私が思ったより風が強かった様だ。流されているーー!風が左側から真横に吹いている、後は運を天に任して、推測して照準するしかないと思った。風がますます強くなって来た。オーナーは空を見上げて、雲の流れを見て溜め息をついた。「ますます風は強くなりそうだーー!」と言うとベンチに座り直すと、ボルトを引いて弾を装填して台尻を肩に当てた。かなり時間が掛ったが次ぎを発射した。『9点、黒点に入る!』と声がした。私は弾を装填して今度はあまり時間を掛けなかった。風はますます強くなり、真横からのパンパの草原を横殴りで吹く強い風だ。左の8点の線を見て、二度目の引き金を軽く引いた。風に流されて音が小さく聞えた。それと同時に『10点、ド真中に命中〜!』と声がすると、後ろでどよめきが起きた。その後は『シーン〜!』と声一つ無かった。風の音だけが聞えてオーナーが狙う標的を皆が凝視していた様だ。次ぎが発射され後ろで『7点、外れ〜!』と言った。おそらく7点と6点の境を撃ち抜いた様だ。その声と同時に私はこれで心がスーッと落ちつき、間違い無く勝ったと感じた。弾を装填するボルトを引く手が軽かった。今度は風の強さが分かっていたので、狙いは短かかった。

余り神経を使うことなく軽く引き金を引いた。それが良かった様だ、後ろで『今度もド真中〜!10点ーー!』と声がした。今度は拍手が起り、『ブラボー』と声が掛った。直ぐに静かになり最後の弾の発射を待った。風は止む事も無くますます強さを増して来た。オーナが最後の弾で狙って撃ったが、7点を撃ち抜いたのに留まった。私は最後も余り時間は掛けなかった。風がますます横殴りに吹いてきたから、前と同じに冷静に引き金を引いた。『9点、黒点命中〜!』と声がして、後ろで拍手と歓声が上がったが、オーナーも側に来て握手してくれた。私が一回り若く、視力は抜群で、酒も飲んでいなかった事で差がそれだけ有った様だ。私は直ぐにクリニングオイルで銃身の中を掃除していた。来客が私に握手をして来た。陳氏もお祝いを言ってくれた。そして『すげ〜射撃の腕をしているーー!』と驚いていたが、オーナーは直ぐに皆の前で、私に約束の拳銃を渡してくれ、『大切に使ってくれーー!』と言った。そして『どうせなら弾も貴方にあげましょう』と話してくれた。使用人がライフルをかたずけて掃除を始めた。皆はそろって屋敷に戻り、シャンパンを開けて私を祝ってくれた。オーナーは賞金とレミントンのマグナム22口径の弾、50発入りを4箱付けてくれた。飾り箱に入れた拳銃は掃除道具のセットも付いて、豪華な物であった。しかしこの射撃大会での競技で優勝した事が、私の災難の始まりであったが、その時は私は何も感じては居なかった。


第9回
その日、だいぶ遅くなって帰って来た。陳氏の車から降りてルーカスの兄弟が住んでいるアパートに来ると、犬が外で尻尾を振って待っていた。ルーカスも直ぐに外に出てくると「丁度良い時に帰って来た」と言って部屋に案内して、夕食のテーブルに座らしてくれた。

兄弟とそろつて食事が始まり、話しが弾んで尽きなかった。私が射撃競技で貰った拳銃は皆も垂涎の的で、その精巧な作りは誰が見ても、腕の良い職人が仕事をしていると感じていた。クルミ材の箱に入れられた拳銃は、私のそれからの長い間の護身用として、私の身を守ってくれた。兄弟の一人が靴屋で職人として仕事をしていたので、直ぐに拳銃を入れるホルスターを寸法を合わして作ってくれた。私のベルトに差して、簡単に抜ける様に工夫してくれ、弾を入れるシリンダーが少し大き目だったので、丁度良いものをデザインしてくれ、ピッタリと合うサイズは私も嬉しくなった。お客の注文で何度も作った事があると話していたが、慣れた手つきが職人の腕の良さを見せた。拳銃は普通、口径の大きい物は6発入りのシリンダーの弾倉が普通であったが、口径の小さい物で、8発が限度であった。

しかし口径が小さいながら10発のシリンダー弾倉とは私も驚いていた。自動拳銃では沢山有るが、シリンダー弾倉では珍しく、この事が後で私の命を救う事になった。それと22口径の普通の弾はどこでも安く買え、練習するのには最適で有った。その夜、遅くまで話していた。眠くなりルーカスに用意された部屋で私のベッドも入れた有ったので、そこで寝込んでしまった。翌日、目を覚ますと兄弟達はすでに仕事に出かけていた。ルーカスと顔を洗い、犬を連れてアバスト市場の近くのカフェーに行った。ゆっくりと朝のコーヒーを楽しみ、暖かいクロワッサンを食べた。食事の後、仲買人の事務所に寄り情報を聞いたが、トマトの値段が下がったので、サルタからの出荷は採算が合わなくなったから近所の都市に卸すと電報が来ていた。おかげであわてて帰る事は無くなった。

食後仲買人と話して、その後車庫に戻りトラックを洗車した。ルーカスと二人で丁寧に洗った。洗車が済んで空箱を積みに行った。ランチの時間まで全部終り、シートを被せて全ての梱包をしてしまった。後はエンジンを掛けるといつでもサルタに帰還することが出来る。しばらくはブエノスで息抜きをしてからサルタには帰る事にしていた。その夕方、ルーカスを日本食に誘った。彼は生魚と聞いただけで、「勘弁してくれーー!」と降参してきた。私は早目に夕食を日本人会館の食堂でして、それから登美ちゃんが居るバーで飲むと考えていた。会館食堂ではひさしぶり、刺身定食とお代りの味噌汁が美味しかった。食後は私が行き付けのイタリアン、レストランに行き、そこでコニャックとコーヒーを注文して、歩道のテーブルで飲んで居た。

小さな二人掛けのテーブルで、イスも2個しかなかった。コニャックを半分ぐらい飲んだ頃に、誰か無言でテーブルに来て座った。彼は中年の物静かな男の感じがして、廻りの景色に溶け混んで目立たない感じの風体であった。彼も私と同じものを注文して、しばらくは無言で私の顔を見ていた。テーブルにコーヒーとコニャックが来ると、私に「乾杯〜!」と言って飲み始めた。彼は私の仕事を聞いてきたが、言葉巧みに近寄って来る話術は心を引き付ける感じがした。彼はしばらく話して、私に「良い仕事が有るのだけれどーー!」切り出してきた。私が何の仕事かと質問すると、ひとこと「米ドルで3万になるー!」と答えた。
 ではまた、次回をお楽しみに!


第10回
その当時3万ドルとは、チョイ小さな農場がブエノスの郊外で買える金額であった。「話だけは聞いておきましょうーー」と鼻先であしらい、相手にしなかった。その当時、ざらにある話では無いが、聞いただけで何か危ない感じが本能的にして来た。相手は話の腰を折る事無く、今度は話題を変えて来た。穏やかな物腰に、少しアクセントが英語交じりのスペイン語を話していた。話す言葉は私よりずっと上手で、品の良い中年の感じが溢れていた。きちんとした服装で、私の田舎じみた百姓風体の感じとはかけ離れ、チョット紳士の雰囲気を持ち、何をして居るか皆目分からなかった。手は綺麗で、爪も磨いて有りネクタイも上品なタイピンを付けて服装は隙が無かった。しかし薄い背広の肩に何か近くで見ると、拳銃のホルスターのバンドの線が微かに浮き出ている感じを受けた。彼は右効きの腕だから、左肩の下に微か脇のふくらみも感じ、私は直感で拳銃を肩に提げていると思った。知らん顔であいまいな返事を返していた。私の現在の武装は小型の折りたたみのポケットナイフと、ルーカスが呉れたボールペンの先に仕込んだ小さな爪であったが、これで相手の皮膚を引っ掻くと2分ぐらいでそこがしびれて、しばらくはマヒしてしまうと言う、毒蛇の毒牙の先で有った。洋服の上から刺してもかなり効果があるとルーカスが話していたが、彼等はそれを狩猟の吹き矢の先に仕込むか、弓矢の先にその毒を塗っていた。私はブエノスで危険な事は起らないと思っていたので、何も銃器は所持してはいなかった。トラック座席の下の隠し場所にはいつもの拳銃が入れて有り、後ろのトラックの簡易ベッドの下には散弾銃がいつも収納してあった。射撃競技で貰った拳銃もトラックの隠し場所入れておいた。話が途切れ途切れになり、私が興味を示さないので、相手も困っている感じがしていた。相手は私を逃さない様に、今度はかなり下がった女の話を持ち出して来た。私も若くかなり興味がある話で、金髪の腰のしまつた小柄な女が相手をしてくれる、高級バーの話をしてくれた。私も登美ちゃんを訪ねる予定をしていたので、乗り気になった。しかし見も知らない男に付いて行くのは危険と感じ、用心していたが、陳氏の名前を出して来て、彼も呼ぶからといきなり切り出して、側の公衆電話に立ち、ダイヤルしていた。陳氏に繋がった様で、私を手招きして受話器を差し出した。受話器の中で陳氏の声がして、「心配しないでーー!俺も直ぐにそこに行くから」と誘ってきた。少し安心感が湧いて来た。コニャックを飲み干す頃に、陳氏がタクシーで乗り付けて来た。陳氏は車から手招きして我々を座席に呼んだ。陳氏は笑顔で話し出すと、「こいつはスケベ−だからーー!」といきなり切り出して、今夜の行き先を話してくれた。着いた所はかなり静かな品の良い店が並ぶ高級住宅街に近い、レストランやカフェーなどが並ぶ一角で、何か会員制のクラブの感じがしていた。ボーイが厚いドアを開けると、中は豪華な感じの造りで、生演奏のバンドが聞えていた。若い綺麗な白人の女が側によって来て座席に案内してくれた。私も初めて来た豪華なクラブであった。座席に座って初めて中年の男が自己紹介してくれた。マリオと言った。ウソか真かは知らないが穀物ブローカーと言った。そなん事はウソと感じたが何か紳士の中にドスの効いた何かが有った。その夜はしばらくぶりに気楽に飲んで、羽目を外していた。相手も少し私を信用して何か話したい感じであった。しかし、若い白人の女が中年の男に抱きついて騒いでいた時に若い女が「ぎょーー!」としたそぶりをしたのを見逃さなかった。肩に吊るした拳銃に触れたと思った。
 ではまた、次回をお楽しみに!


第10回
かなり酔って来て、テーブルの賑やかさは久しぶりの寛ぎとなった。サルタの農場では毎日が激しい労働で、稼いだ金も使う事がなかった。言葉を返すと使う場所さえ無かった。食事はタダ、車はトラックであったが使い放題、燃料もドラム缶から使い放題、金が出ることは無かった。女を抱きたかったら、声さえ掛ければインジオの若いまだ17歳ぐらいの、彼女達に言わせると、「結婚適齢期」だそうで、直ぐにデートが出来た。私も若かった時代で、金にも困る事もなく、インジオの若い女性から見たら、同じ黒髪で顔付きも殆ど同じ感じがする、日本人の真面目な働き者が独身でいたら興味があるのは私だけは無かった。彼女達も私以上に興味を示していた。そんな事で男女の事に関しては困る事は無かった。しかしここのクラブは飛び切りの上玉が居て、こちらが気押されするほどの綺麗どころが居たから、それとまったく雰囲気がそこらの飲み屋の感じのバーとは、比較が出来ない様な高級感が有り、バンドの生演奏もその事を盛り上げていた。程よく飲んで騒いで、小柄な金髪の若い女を側に寄せて、ダンスをしていた。陳氏も踊っていた。だいぶ遅くなって陳氏が小声で「そろそろ外に出ようか」と誘って来た。マリオと言った中年の男もうなずいていた。マリオが「これから俺の家で飲みなおす」と言って、若い女を連れて私達を呼んだ。

私も陳氏も若い白人の女を連れて外に出た。そこには高級車が待っていた。マリオが慣れたそぶりで女を抱きかかえる様にして乗りこみ、私達を手招きして呼んでくれた。どこをどう走ったかは覚えてはいなかった。しかし高級住宅街のどこかで降りて部屋数の多い家で、脇に女を抱いてレコードを掛けて静かに飲んで居た。気がついたら陳氏もマリオも居なかった。窓が開いていたがそれを閉めると、側に金髪の女を引き寄せて胸に手を入れた。大きな乳房が身体に似合わずブラジャーの中で小さく収まっていた。邪魔な物を取り去り後は自由になったふくらみが、手の中で収まらない大きさに膨れていた。私はそれからは、若い男の奔放な本能を押える事が出来ずに、金髪の女を身体の下に押さえ込んでいた。翌朝までの時間が凄く短い時間に感じた。トロトロと寝て居た様だ、目が覚めた時は女は居なかった。シャワーを浴びて外に出ると、着替えの下着が置いて有った。着替えて廊下に出ると美味しいコーヒーの香りがして来た。音楽も聞えていた。タンゴのリズムがして、そこにマリオと陳氏が居た。イスを進めてくれ、コーヒーを注いでくれた。果物とトーストにジャムを付けて出してくれ、昨夜のことなど何も無かった様にして話を始めた。
 ではまた、次回を楽しみに!

第12回
私はコーヒーカップを手に庭を眺めていた。小さな庭でも綺麗な花壇が作られて、季節の花が咲き乱れていた。私は話しを遮り綺麗な花の名前を聞いた。ランの一種と教えてくれた。その時、フト〜! 父親の言葉を思い出していた。『飲ませ、食わせ、抱かして、掴ませる時は注意してあたれ』と父が南米に出かける時に、送別会の席で教えてくれた事を思い出していた。今逃げ出すと必ずトラブルを巻き起こすと感じた。テーブルに戻り座りなおすと、コーヒーを再度注ぎ多すと真剣に話しを聞くふりをして聞いていた。マリオが主導で話しをして来た。『端的に言うと、一人の人間をこの地上から抹殺したい、幾多の怨念を晴らす為にーーー!』と言葉短く言った。私は彼の言葉を遮り『難しい事や、理屈は要らないーー!』と語気を強めて言った。『そなん事には巻き込まれたくは無い』と言ってマリオの顔を見た。側で陳氏が黙って見ていた。しかし、無言の圧力が有った。陳氏は『私では出来ないことだ、やれるのは貴方だけだ。』と言った。『是非お願したいーー!』と、もう一度口を挟んだ。話し方は丁重で真面目に頼んでいる感じで、私も興味が少し湧いてきて、『抹殺の標的の名前やその前歴は聞きたくないが、場所はどこかーー!』と聞いた。マリオがゆっくりと話し始めた。『場所はパラグワイとブラジルとアルゼンチンのパラナ河三角地帯の国境付近で、現場はパラグワイの日本人の入植地域でアルトパラナから少しイグアスの方に上がった場所だ。多分そこに今も住んで居ると思うーー!』と彼は答えた。『それだから射撃の腕が上手で、日本語を話し、百姓の強烈な個性を持っている日に焼けて、筋骨隆々たる若者でなければ現場に近ずくことは出来ない、誰もその条件を持っている人間は居ない、だいぶ捜したが一人も居なかった。』とそう話すと私ににじり寄って来て、『その標的にわたしの家族も親戚も全部殺されたからーー、そして幾多の同胞がそいつの為に死んでいった。』彼の目が潤んで泣きそうな顔になっていた。私は言葉少なくーー、『ただの復讐ならご免こうむるーー!』ときっぱりと言い切った。彼はハンカチで目頭を拭くと、『貴方は若いからーー、そしてアジア人で、ユダヤ人の歴史も、迫害の歴史も、流浪の歴史も、何も教えては貰う事無く日本を出て、南米の人種のルツボの中に入って来た人だ。』彼は少し私を責める様に話して来た。少し本では読んだ事は有るが、どこか遠い所の出来事で、私には関係ないと言う心が強かった。それと言うのも私の家系はお寺が先祖で、長男しか家を継がないから、後は普通の一般市民としてサラリーマンとして生きて来たのであるが、教えは『慈悲の心で、施しと寛容の精神』を祖母の時代から教えられえていたし。『三つ子の心、百までもーー!』で、それを捨てることは出来なかった。

『復讐が復讐を呼び、殺し合う事が有意義か、未来の糧になるのか、疑問が湧いてきた。』江戸時代の敵討ちの免許状を持っての時代ではない、私は何を根拠で抹殺ーー!暗殺ーー!するのかマリオに問いただした。彼は黙ってしまった。しばらく無言の時間が流れた。その無言の時間は殺気となって私に感じた。この家を承諾なしに出るとなれば私の命にも関る事になると、その場の雰囲気を肌で感じた。
 

第13回
私は覚悟を決め、まな板の鯉となった。ガタガタして見苦しい態度を見せるより、ふてぶてしい態度でマリオに当たった。私はトーストをバリバリと食べて、「こなんまずいパンは食べた事がないーー!ましなクロワッサンなど近所で買って来たら!」と、なじった。マリオはどぎまぎしていた様だ、「パンが古過ぎて固くて、味も素っ気もないーー!」と、もう一度言うと、「陳ーー!近所のパン屋で買ってこい〜!」と怒鳴った。陳氏が上着を取り、財布を確かめてドアから出ていった。チャンスが来た。先ほど殺気を感じた時、マリオが流し目を近くの机の引出しに注いだ所を見逃さなかった。確か何かあそこの中に凶器を隠しているに違いない、拳銃かナイフか手近な隠し場所だ。私はコーヒーにミルクをたっぷりと入れてカップを手にマリオの前に座りなおした。私が今度は少し質問するから答えてくれとマリオに言った。無言でうなずいて了承してくれた。

標的は今も同じ場所に住んでいるのかーー!銃は何を使用するのかーー!一発で仕損じたならーー、二度のチャンスは有るのかーー!現場からの逃走は誰が手助けして呉れるかーー!3万ドルもの現金を一度に貰っても携帯出来ないから、海外逃走の為の手引きや、飛行機の切符の手配はどうするかー!最後の土壇場で標的が気が付いて逃亡してしまったら、少しは金を払うのかーー!200m以上離れた模型の家の射撃練習場は有るのかーー!私はこれだけの事をマリオに突き付けた。彼はメモ用紙に書いていた。書き終わると『フ−ッ〜!』と溜め息を付き、コーヒーを飲み干した。『何も答えられないのなら今日は帰るーーー!』と席を立った。マリオは慌てて引き止めた。

陳氏が居ないのでこれ幸いーー!、押し退けてもドアから出ようとした。マリオの顔色が変わり、私の襟を掴んで掛った。ひょいと彼の手をかわして、合気道の要領で、利き腕の手の平を親指で押して腕を捻って曲げた。『ひ〜!』と言う悲鳴がして両膝を床に付いてもがいていた。私は左手を伸ばして机の引出しを開け中を見た。一瞬どきりとした。そこには消音器を付けたワルサーPPkが有った。拳銃のガンブルーはすれて片側はひかり、かなり使いなれた感じが見ただけで分かった。私はその拳銃を片手にして弾が装填されているか確かめた。弾は装填され、安全装置を掛けて有った。私はマリオを突き放して床に転がした。そしてゆっくりと彼の顔に狙いを付けて言った。『静かにしろ〜!陳氏が帰って来るまでここで待てーー!』と命令した。マリオは消音器を付けた拳銃の恐ろしさを知って居る様でこの日本人の若者なら簡単に撃ちかねないと、感じている様だ。確かその時点では私に凄い殺気が出ていた様だ。マリオの顔面が蒼白になり、身体を固くしているのが私にも感じた。

私は電話の受話器を取り、ルーカス兄の仕事場の靴屋に電話した。直ぐに出て来た。ルーカスも側に居ると電話で教えてくれ、今日はこの店に遊びに来ていると話してくれた。ルーカスを呼び手短く出来事を話して助けを求めた。彼はブエノスの地理には詳しくはなかったので、兄に頼んでラジオ、タクシーを呼んで来る様にして貰った。道と通りの番号を二度繰り返して教えた。ルーカスに最後に念を押して、『トラックから俺の恋人ちゃんも忘れずに持って来てくれーー!』と言った。ルーカスが笑っていた。陳氏がそろそろ戻って来る頃と思った。 


第14回
電話を置いて、窓の外を見るとそこに陳氏が紙袋を持って歩いて来るのが見えた。ドアのベルが鳴って私が開けてやらないので自分でカギを開けて入って来た。私が拳銃を持っているので、一瞬、『ギクリーー!』と身体をこわばらせていたが、私がイスを進めると安心した様に座り、紙袋からでき立てのクロワッサンを皿に出した。マリオもイスに座り私の様子を伺っていた。私は陳氏に『しばらくはこのマリオの拳銃は預っておくと話した。』陳氏のポケット小型拳銃は弾を全部抜いて返した。

私はコーヒーをもう一度入れ直して、クロワッサンとコーヒーにミルクをたっぷりと入れると、ゆっくりと食べ始めた。私は陳氏に先ほどマリオが書いた私の質問を見せた。彼も溜め息をついて何も答えなかった。私は念を押して言った。『私は自分の命を守る時は抵抗して、反撃してどんなことをしても、たとえ人殺しをしても生き残る手段を探す』と話した。マリオがどんな事情で一人の人間の命を抹殺しようとするのか私には計り知れない事だが、それなりの信念で行動していると感じたが。私はいがみ合い、猜疑心を前提での交渉は出来ないと話した。マリオもうなずいて聞いていた。せっかくの休暇をこんな事に使いたくは無かった。しかし何か同情心が少し湧いてきた。マリオと陳氏に私は提案した。『貴方達が希望して抹殺しょうとしても、肝心の標的が住んでいるか、可能性も調べて見なくては何も話しの土俵にも乗れない』と言った。マリオがうなずいて聞いていた。休みの間にパラグワイの現場を見て、それから肝心の話しをして具体化する前、標的が実在するのか確証を掴む事で話しは落ちついて決まった。その時、ドアのベルが鳴って誰か来た様だった。私はル−カスが来たと感じ、やはり彼が来た様だ。私がドアを開けて中に招き入れた。ルーカスはしばらくは落ちつかない態度をしていたが、いつもの皮の肩掛けのカバンを持って来ていた。私は彼をマリオと陳氏に紹介した。私は彼が現在もサルタのジャングルで狩猟をしていて、軍隊時代は狙撃手で部隊一の射撃の名手であった事を教えた。マリオの顔色が変わった。私は一度、みんなでパラグワイに出かけて現場を見て決め様と誘った。了承され、明日の朝にセスナの軽飛行機で行く事に話しがまとまった。私は話しが壊れても、3000ドルの報酬は欲しいと申し入れた。それは受け入れられ、モレ−ノの飛行場から明日の朝8時に飛ぶ事が決まり、私は知り合いの移住船の同船者達を尋ねて行く事を考えていた。お土産を買いに出かけて行こうと思っていた。マリオに弾を抜いた拳銃を返し、私はルーカスが持って来た自分の拳銃をベルトに差して言った。イザと言う時はこれを使うと明言した。緊張の中にも話しが決まった。
 
第15回
私は外に出て、タクシーを拾った。ルーカスも連れてパラグワイ行きの買物をして歩いた。宮本旅行社に寄り、先ず本と野菜の種を買った。ここでは旅行業務の他、色々な日本関係の物をあつかっていた。それから金城雑貨店に寄り、日本船から仕入れたキッコーマンの輸出用樽から小分けしたワイン瓶入り醤油を10本と一升瓶入りの特級の日本酒を四本買った。それで全てが済んで、ルーカスのアパートに帰って来た。荷物を下ろしてランチに出かけた。日本人会近くのイタリアン、レストランであった。

ルーカスも初めてで喜んでいた。彼にはアサードの焼肉を、私はいつもの魚を頼んでいた。食事も半ばを終った頃に友達のユダヤ人の老人がやって来たので、挨拶してルーカスを紹介した。食事をしながら奥地の農業の現状を教えていたが、興味があるのか真剣に聞いていた。食後は外のテラスの道路端のテーブルに移動して話しこんでいたが、いつものコーヒーとコニャックを頼んで3人で午後の一時を楽しんでいた。するとひょっこりとマリオがやって来た。私は彼をユダヤ人の老人に紹介した。

意外な展開となった。老人は直ぐにマリオを同じユダヤ民族の人間と感じた様であった。同じ民族の血が引きつけるのかもしれなかった。同じ外国からの移民で言葉はスペイン語を話しているが、アルゼンチンのこの様な場所でお互いに顔を合わせて話し始めることは珍しいと思った。老人がマリオに聞いた。『貴方はどこからこの国に来たのか−ー』『イギリス連邦のある国から』と言って答えていた。私はマリオが用心していると感じた。老人はしばらく普通のありきたりの話しをしていたが、突然にシャツの腕をまくり、死の刺青をマリオに見せた。マリオは一瞬どきりと飛び上がる様な感じで、老人をまじまじと見詰めていた。老人が『私にはウソは言わないでくれーー!』と言った。『私はこの日本人青年が、正直で実直な百姓だから年齢や民族を超えて仲良く友達で話している』とマリオに言った。

『私はワルシャワの街を追われて、ポーランドからアウシュビッツの収容所に送られた数少ない生還者で、それまで幾度となく生死の狭間をさまよい、人がウソをつき、だまして、陥れて、利用しようとするのを身体で体験して、心に刻んで学んだので、いまお前が心に考えて思っている事が私には感じる事が出来るーーー!』とマリオに突き付けた。その言葉はかなりの気迫が有った。マリオはたじたじとして、うろたえていた。老人の目を逃れてコーヒーカップを見詰めて下を向いていた。老人はゆっくりと『私に話してくれないかーー!』とマリオに訊ねた。私はふと考えて『お邪魔な様だからーー席を外す』と言った。老人は『そうしてくれーー!』と答え、腕時計を見て、私に『少し歩いた所に、雑貨屋があるからそこでミルクとオレンジを買って来てくれないか』と聞いたので、喜んで引き受けた。老人はポケットから金を出すと私の手に握らせて、『10分ばかりして来てくれーー、』と言った。ルーカスと二人でゆっくりと歩き出した。振り返ると老人とマリオが額が着く様な近さで何か真剣な言葉を交わしている感じが、かなり離れた所まで来た私にも感じた。何を話しているかは、まったく分からないが、その後マリオが意外な行動をしたので、何か有った事だけは確かと思った。10分間ぐらいの時間が私にはとても長く感じた。
 

第16回
私とルーカスが戻った時は、マリオはもう居なかった。老人は私から買物を受け取ると、中からオレンジを出してくれた。皮を剥きながら老人はゆっくりと話し始めた。『私は個人的には復讐とか報復での殺し合いは認められないーー!』『殺し合いはお互いに不信感と憎悪の感情のみ育てて、何も建設的な未来と、将来を作る物ではないーー!。しかしそれが集団となった民族的な解釈からすると、絶対に許せない事になってしまう様だ。イスラエルの建国からあまり時間は経ってはいないが建国したからこそ、それが出来るのかもしれないー!』と言った。

『貴方は日本人だ、しかしマリオの心を善意に解釈すれば彼が捜している標的は人類の敵だ、人間がしてはいけない事を人間に対して行なった。貴方も協力してくれないかーー!』私は考えて直ぐには答えが出なかった。標的が何をしたのか、何を戦争中にユダヤ人に対して行なったかーー!その事を聞こうか?それとも聞いて、一生涯忘れる事無く、心を悩まし続けるかーー!。私は悩んだ。確かにユダヤ民族に対して、個々のユダヤ人や家族に対して残虐な行為をした事は間違い無いと感じた。それだからこそ、マリオが執念となって捜し、追いかけ、その人間を標的として抹殺し様としている感じがひしひしと伝わって来た。老人はオレンジを食べ終わると口を開いた。『パラグワイに行って目標のターゲットを捜して、本当に住んで居るのか、確かに本人かを確認してからそれからの事だがーー!』そう話すと腕時計を見ていた。そこにタクシーが止まりマリオが降りて来た。彼は私達のテーブルに来ると、先ず老人に軽く会釈をすると、『貴方の言う様に、人に命がけな物事を頼む時に、信用してお互いの信頼がなければ、誰も本気では動いてはくれないー!』と彼は話すと、私の方を向いて、『これが報酬の前金3000ドルですーー、今まで一度も標的に接近して写真などの確認するものを撮った事が無いから、それを画像で捉えたらまた3000ドル払います』と言った。多額の現金である、私も『どきり〜!』として、封筒に入ったドルの現金を手にしていた。中には百ドル紙幣で、きっちりと30枚入っていた。私は何も訊ねる事無く黙って手を差し出した。そのくらいの調査なら休暇の期間に出来ると感じた。それよりパラグワイの昔の仲間を訪ねて行けることが嬉しかった。

ルーカスも暇な時期だから、何も心配ないと言ってくれた。マリオにルーカスの犬も乗せられるか聞いた。『狂犬病の予防注射を受けていたら、何も心配は無い、パラグワイ入国は簡単だ』と話してくれた。利口なルーカスの犬を是非連れて行きたいと思っていた。飛行機で飛ぶので、搭乗している時間が短いので、問題は無いと感じたが一応マリオに念を押していた。マリオは直ぐに『何も心配は無いーー!』と答え、明日は時間を守ってくれと念を押してきた。彼は老人の方を向くとおもむろに『私は日本人青年を信用して、前金を払いこれからの物事の解決の糸口を託した。私は彼がどこに住んで居るか、殆ど何も掴んではいないし、過去の事も知らない、しかしお互いがそれを受け入れて、信用しなくてはこんな事は頼めないー!』と老人に言った。老人は静かに、『私は今まで多くの人間と会い、すれ違ってきたがこの日本人青年は信頼出来ると心から思うーー!』と言ってくれた。私はパラグワイでの現地調査を請け負う事で老人の信頼に答えたいと感じた。私からマリオに握手の手を差し出して『明日の朝、8時の時間は守りますーー』と言った。

私は老人と握手をすると再会を約して別れた。ルーカスとタクシーを拾うとアパートに帰って来た。ルーカスの犬が喜んで迎えてくれた。私は駐車場に行くと、管理人を尋ね、かなりの金を握らせて管理人事務所横の日陰の安全な場所に移動して良いか訊ねた。管理人は喜んで、引き受けてくれた。そして『しばらく休暇で遊んで来ると言った−ー』トラックのカギを渡して、それからアバスト市場の仲買事務所に行き、『休暇はパラグワイの日本人移住地を訪ねる−ー』と話して、8日間の予定で行くと伝えておいた。これで明日の全ての用意が出来た。


第17回
翌日、朝早くタクシーが迎えに来た。予約してあった知り合いの運転手が迎えに来ていた。後ろのトランクに荷物を入れると混雑のする上り線の道路を反対に見ながら、モレ−ノの飛行場に行った。民間飛行場で旅客機は発着はしては居なかった。タクシーの中で、ルーカスの犬はおとなしく座って外を見ていた。首輪には狂犬病の予防注射の鑑札も付けて、毛の短い雑種の中型犬はよそ行き顔で、犬ながら嬉しそうな顔をしていた。飛行場に着いて、セスナの駐機場に行くとすでに準備が済んで居て、マリオが側で何か用意していた。我々に『コーヒーが入れて有るから、飲んでくれーー』と近くの事務所を指差した。荷物を下ろしてタクシーを返した。先ず荷物を飛行機に積み込みして、それから事務所に犬を連れて行った。コーヒーの良い香りが外までしていた。テーブルには私が好きなクロワッサンが置いて有り、コーヒーにクリームをたっぷりと入れると、ゆっくりと飲んだ。マリオが入って来て全ての準備が整ったことを知らせてくれて、マリオもコーヒーのカップを取ると飲んで居た。

彼もゆっくり飲んで居たが終って、私に彼は所持していた拳銃のワルサーを差し出して、陳氏も呼んで彼のポケット拳銃も一緒に渡してくれた。上着を脱いで何も武器を持っていない事を見せてくれた。私も安心した。私は腰の後ろにいっもと同じホルスターに入れた愛用の拳銃を隠していた。ルーカスも私の予備の拳銃をカバンの下に入れていた。そしてボールペンに仕込んだ毒牙を胸のポケットに差していた。それはボールペンの頭をポンと押すと僅かに毒蛇の牙が出てくる様になっていた。ダブルのペンで黒と赤の2色が出るタイプであったので、普通に黒インクでは文字が書けた。ルーカスが細工して私に用心の為に持たせてくれたのでいざと言う時の為に胸のポケットに仕舞っていた。離陸する前にトイレに行って、用を済ませて来た。プロペラがすでに旋回して轟音を出していたので、私達が乗ると直ぐにドアを閉めて、マリオがラジオの送受信器を耳に掛けると、管制塔に離陸の許可を求めた。直ぐにOKの返事が来て、誘導路を滑走し滑走路に入ると、アッと言う間に飛び立った。ぐんぐんと高度を上げて行った。ラプラタ河が濁った大河を見せて流れていた。しばらく飛んで水平飛行に入り、自動操縦に切り替えてマリオが、前の席より話し掛けて来た。『約束どうりの時間に来てくれて感謝します。現場は貴方とルーカスしか近寄れない様だ、その他の人間は直ぐに怪しまれる、最善の協力をするから必ず確信出来る情報を集めて下さい、お願いしますーー!』と誠意を込めて話し掛けてきた。陳氏も『是非とも、マリオの願いをかなえてやってくださいーー!』と言った。私は『出来るだけ貴方の希望に添いたいと思います、貴方が捜す標的が目指す場所に住んで居たら、あらためて最終目的の条件を話し合いましょうーー!』と言った。マリオは黙って握手をして来た。晴れた空は快適な飛行で揺れもしなかった。ルーカスの犬は床に寝そべって静かにしていた。

単調な飛行はパンパの景色も変わり映えしない様に、のどかに飛んでいた。眠くなってトロトロと夢心地でまどろんでいた。どのくらい飛んだか分らないが、マリオがエンカナシオンが見えて来たと教えてくれた。緑濃いいジャングルも見えていた。いよいよパラグワイでの戦いが始まった。


第18回
パラナ河を渡ると直ぐにエンカナシオンの街が見えて来た。郊外の飛行場にアッと言う間に着陸して、滑走して駐機場に止りプロペラを停止した。直ぐに近くの事務所から係官が出てきた。マリオと知り合いの感じで挨拶していたが、ルーカスの犬の鑑札を見て直ぐに返してくれた。入国と言っても簡単で、セドラと言う身分証明を見せるだけであった。荷物検査も無かった。マリオに係官が近ずいて来ると、「押収品の販売をしているが買わないかーー!」と話しかけて来た。ウイスキーとの事で直ぐに6本入りでジョニーウオ−カ−の黒が50ドルと格安の値段で有ったが。現地の人ではとても払う事が出来ない金額であった。私は1ケースを頼んだ。するとVWの小型バンが迎えに来た。荷物を全移し替える間に酒を運んで来たので、金を払いバンに乗せて出発した。飛行場から出て、しばらく走ると横道から耕運機がパタパタとリヤカーを引いて出てきた。私は一瞬「どきりー」とした。それは南米に日本から来る時に同船者だった吉田のおやじにそっくりだったからで、私は運転手に停止を頼んで、大声で『吉田のおっちゃん〜!』と叫んでいた。バンの車が止り、私は車から降りて走って近寄った。まぎれも無い吉田のおやじであったので驚いてしまった。マリオが下りて来て「お前の友人かーー?」と聞いた。私はおやじに抱きついて『ワーワー!』と叫んでいた。

これからエンカルの町に出かける所であった。おやじは直ぐに『俺の家に来い〜!』とエンジンを止めて、私の荷物を車から出せと言った。私はマリオと行動をするより、ここで別れて別行動を選んだ。ルーカスと犬も車から降りて来てマリオに用心の為にこれからは別行動をすると言った。移住地の奥には移住者の車が安全だと言った。マリオもその意味を理解して、これからは別行動をする事になった。その事が後で誰も怪しむ事無く行動が出来た要因となった。吉田のおっちゃんはエンジンを掛けると、来た道を戻り、『ついてこい〜!』と怒鳴って走り始めた。直ぐわき道に入り、突き当たりが彼の家で、奥さんと子供達が飛び出して来た。マリオに頼んで荷物を全部下ろすと彼の連絡先を聞いた。彼は名刺を出すと、『ここに居るからーー!』と教えてくれた。しばらくして落ちついたら顔を出すと言った。マリオと陳氏が運転手と共に、車でエンカルの町に消えて行った。私は荷物を家に運び込むと、家族の一人一人と握手して、再会を祝った。久しぶりの再会で嬉しくなり幸先が良いと感じた。吉田のおやじは『移住地の奥では現金収入も無く、ここで養鶏と野菜栽培をしている』と話してくれ、奥地の畑は現地人に任して油桐の木を管理させていると話してくれた。それにしても全ての話しも聞く事が出来て、これからの行動に非常に役に立った。その夜はルーカスも驚く家族パーテイーを開いた。遅くまで話しが尽きなかった。


第19回
何時の間にかテーブルの周りに人が増えて、沢山の昔の知り合いが並んでいた。今日はカンニヤ−と言う焼酎ではなく、初めは清酒で乾杯して、それからはウイスキーを出してカチ割り氷で飲んでいた。肴はそれぞれ沢山の自家製のサラミやソーセージを焼いたり、生ハムを冷やして刺身の様にしたり、コンニヤクの刺身を作って持って来ていた。ナマズも干物や、ぶつ切りのから揚げなど、テーブルに置き場が無いほど沢山有った。ルーカスも賑やかな宴会に驚いて見ていたが、皆と仲良く飲んでいた。宴会も終りになり、お土産を皆に配り、大切に日本から来た醤油を抱えて、『これは刺身醤油にする』と話して帰って行った。皆は必ず訪ねて来るようにと、くどい様に言って帰って行ったが、娯楽の無い世界ではこの様な集まりがどんなにか心豊かな連帯の輪を作っていた。吉田のおやじの子供達も大きく育って長男は17歳になっていた。次男も15歳になり、まだ赤子の様だった一番下の、女の子もシャツの胸がふくらみ、乳房が目立つ感じで、時間が過ぎて行くのが実感として目の前に有った。

その夜はひさしぶりに、日本式の風呂に入り、蚊帳を釣った部屋で寝た。板張りの床に布団をひいて、外の虫の鳴声を子守り唄にルーカスと枕を並べて寝入っていた。翌朝、目が覚めるとすでにルーカスは起きて、何か仕事を手伝って居る様だった。これから朝食を済ませたら、吉田のおやじさんと移住地の一番奥の佐藤さんが居た所を隣りのドイツ人が買い取って、そこに誰か住んで居ると言う話しを聞いたので、確かめ様と思った。佐藤氏はアルゼンチンに入居地を売り払い、転移住して行った。直ぐ側は吉田のおやじさんの入居地で、現在は油桐のツングーと言う木を植林して、少しトマトを植えて、それを現地人に管理させていた。週に2回は訪ねていると話してくれた。長男がエンカルの町に出るから朝食が済んだら案内すると言ってくれた。私は移住地の奥に行く前に、マリオと話しておきたいと感じて、先に長男と町に行く事にした。そこは意外な場所で、
これからの仕事に役になる物が手に入った。 


第20回
吉田氏の長男が朝食後、カロンベーと言う馬車を用意してくれた。家族で使う、乗用車兼トラックト言う感じの馬、一頭で引く馬車であった。軽く大人が4名は乗れて、車輪はタイヤで軽く走れる様に作ってあった。エンカルの町は当時はかなりの数の馬車が走っていた。長男の健ちゃんが操る馬車で町に出かけた。ルーカスの犬は後ろからトコトコとついて来た。ルーカスもエンカルの町は初めてで、興味があるらしくてキョロキョロと眺めていた。いつもの皮のカバンを斜めに掛けて、皮のツバ広い帽子をちょこんとかぶって、まったく現地人と同じ感じで乗っていた。ゆっくりと走る馬車は眺めは良かった、ちょこんと日除けの覆いが有り、廻りは何も無い剥き出しで眺めは最高であった。車輪がタイヤだったので、あまり振動も無くマリオが指定した

場所に着いた。健ちゃんはその場所は良く知っていた。彼が言うにには、『雑貨店兼質屋、古物商兼車とオートバイの中古店』と言う様な感じの『何でも屋』と話していた。車の部品も取りあつかい、日本人入植者には広く知られていた。また、アルゼンチンに転移住する日本人から沢山の機械類や家具も買って、かなりあくどい仕事もしている感じで有った。ちょっと下町に入った所に、ゆったりとした敷地に大きな倉庫と店舗が有った。表に馬車を止めて雑貨屋の方から入っていった。少し薄暗い店内で、目が慣れるまでしばらく掛った。店員が直ぐに話し掛けて来て、マリオが裏で待っていると教えてくれた。ザット店内を見回してから品数が豊富な事に驚いた。エンカルはかなりパラグワイ政府の貿易自由化であちこちの国からの品物が豊富に並んでいた。アルゼンチンより値段を気にしないと豊富な感じで品物が並んでいた。まだ朝早い感じで、お客はあまり居なかつたが、裏に通ずる小道を案内されて住宅の方に歩いて行った。犬が居るのか、ルーカスの犬が用心してクンクンと鼻で匂いを探っていた。健ちゃんは初めてこの奥に入ったと話してくれた。奥の庭から、マリオが陳氏とニコニコして出てきた。テラスの木陰の下で、テーブルが有り朝食のコーヒーが準備されフルーツが飾って有った。マリオはイスを勧めてくれた。

健ちゃんとルーカスはコーヒーをご馳走になり、ケーキを食べると店を見てくると話して席を外した。しばらくして小柄な初老の白人が出てきた。話しに聞いていたこの店のユダヤ系のオーナーであった。品の良い感じがして話すスペイン語もあまり訛りは無かったので、長い間この土地で仕事をしている感じがした。彼は奥の事務所に案内してくれ、椅子を勧めて、本題を話し始めたのであったが、物静かな話しぶりは何か『ドス』の効いた話しぶりであった。彼は机の引出しから小型カメラを出して『これで現場の写真を写して来てくれ−−』と言った。私はカメラを手にすると扱い方を聞いた。簡単で片手で操作でき20枚は写せると言った。そして『標的の画像を捉え、内部の写真を写したらその時点であと3000ドルを即金でここで払います』と言った。話しぶりは人に物を頼む感じの丁寧な物言いであった。彼はまだフイルムは入っていないと言って、操作の仕方を何度も私が納得するまで教えてくれた。カメラは簡単な操作で、どこにでも隠す事が出来る便利な型であった。終ると彼はフイルムを入れて私と握手して、『何か必要なものがこの店に有ったら持って行って良いーー!』と話してくれた。私は『ただで貰えるか』と聞いた。彼は笑って返事はしなかった。私は握手をしてカメラをポケットに入れた。マリオが『宜しく頼むーー!』と声を掛けてくれた。私は彼等と同席して、一緒の所を見られたくないので一人で店に戻った。ルーカスと健ちゃんが目を輝かして質屋の質流れの品を見ていた。そこにはブローニングの22口径小型ライフルがまだ新品同様で陳列してあった。私は拳銃だけしか持っていないので欲しくなった。ほっそりとして小型で、弾が30発も連射出来るタイプで信頼性が有るライフルだった。見せてもらうとスコープも出して来た。これも小型の簡単に取り外しが出来るタイプで、弾もマグナムの強壮弾を4箱も出してくれた。200発は有り私の射撃競技で貰った拳銃と相互に使える事が気に入った。私は『これを貰うとーー!』と店員に言った。直ぐに奥に入り出てくると『どうぞー、お持ち下さい』と言った。ソフトな魚釣り用、つり竿のケースがガンケースとなり私に手渡してくれた。これで用意が出来た感じで、後はこまごました雑用品を買い入れた。お土産に移住者が売り払ったジンギスカン鍋とすき焼き鍋を格安で貰った。健ちゃんが欲しがったホンダ.カブのオートバイ部品となる解体エンジンも買った。これで全部の今日の用事が済んだ。


第21回
その後、私達は馬車に乗ってもう一ヶ所に寄った。そこは日本人の経営する雑貨屋で、多くの日本食品がおいて有ったから、顔を出して移住地のニユースも聞いておきたかった。そこに行けば何でも、話が毎日のごとく入って来るので便利である。健ちゃんもそこに行くのは好きで、漫画の本を見れるからで、かなりの数の週刊誌などが、月遅れで日本から来ていた。私は移住地の奥に行くから、そこを訪ねる昔の友人にお土産としてかなりの日本食品を買い入れた。皆が喜ぶ物は余り口に出来ない日本食品であったからで、ダンボールに入れ切れない様に買った。ブラジルから来た物や、隣国のアルゼンチンから来た物も有った。佃煮や、昆布、海産物など皆が目を細めて喜ぶ物を、豊かな懐の金に任せて買い入れた。

健ちゃんが目を丸くして見ていた。私は彼が欲しそうにしていた日本の漫画や少年マガジンを買ってやった。店の横で出来立ての巻き寿司やお稲荷を買うと、ルーカスに試食させると喜んで食べていたから、彼の分も買うとビールを買って食べていた。ルーカスの犬が欲しそうに見ていたので、巻き寿司をやると匂いを嗅いで、『へへーー!私には食べられませんーー!』と言う感じで鼻の先でコロがしていたから、犬にはカツサンドを買ってやると、ガツガツと食べていた。中の豚カツが美味しいのか前足で押えて、犬でも美味しそうな顔をして食べていたから笑ってしまった。吉田家の家族にもお寿司とお稲荷をお土産に買うと帰途についた。馬車の後ろからルーカスの犬が満腹の感じで付いて来た。丁度お昼時間で皆が喜んでくれ、私のお土産を開いて食卓を囲んだ。私は奥さんが作った手打ちうどんをもう一度お腹に入れて、満腹の幸せで昼寝していた。日が少しかげてから馬車で出かける事にしたが、吉田のおやじさんと長男が案内してくれた。馬車の後ろに荷物を載せて、トコトコと走り出した。

途中、移住地の手前に住んで居る鈴木氏の家にも顔を出して挨拶して、お土産を置いてきた。主人はあいにく留守であったが奥さんが喜んでくれ、今夜でも吉田氏の入植地の家に行くと話していたので嬉しかった。道端のロシア人の雑貨屋で牛肉の新鮮な塊を買い、犬にもすじ肉の塊を夕食に付けてもらったので、犬が鼻をひくひくさせて喜んで見ていた。だいぶ遅くなって着いたが昨日に連絡していたから、留守番の現地人が風呂も沸して、すっかり準備をして待った居た。荷物をかたずけて私は牛肉を切り始めた。ルーカスも手伝わせて今晩のすき焼き鍋と、ジンギスカン鍋の用意を始めていたが、健ちゃんが大釜で御飯を炊いてくれ持ってきた色々な日本食品を並べて、宴会の用意をするとそこに鈴木氏の家族が車でやって来た。同時に同船者であった田口氏の家族もやって来た。皆はそれぞれお土産に何か今夜の宴会に口に出来る物を作って持って来ていたので、直ぐにテーブルは置き場がない様になってしまった。カセットテープで民謡が流れ、日本酒やビール、私が飛行場で買い入れたウイスキーなどが並べられ近所の日本人も呼んで来て盛大な宴会を開いて居た。焼肉の匂いすき焼きの美味しい醤油の香り、皆が大皿に盛られカマボコや巻き寿司、お稲荷さんに目を輝かしてくれたので私は嬉しくなりルーカスは焼肉のジンギスカン鍋でコックをしていた。犬は横で嬉しそうにおこぼれを貰い、満足の顔で子供達とじゃれていた。ここでも日本の清酒で乾杯して、灯油の冷えない冷蔵庫で作った氷を皆に分けてウイスキーも開けて飲む人や、ビールを片手に焼肉を食べる人などで宴が進み、吉田氏の奥さんと子供達が車でやって来た。ミクロと言う町と移住地を結ぶ乗合バスで有った。奥さんがおにぎりを作り、今夜の長い宴会の兵量を皿に盛り上げて、多いに話も賑やかになった時にオートバイの音がして、誰かがやって来た。健ちゃんが隣りの佐藤氏の後を買ったドイツ人だと言った。私は心の中で『チャンス〜!』と思った。若い男で金髪の背が高い好男子であった。健ちゃんがその男の手を引いて私に紹介してくれた。『ヨハンス』と自己紹介して握手して来た。余りの騒々しさに驚いて見に来た様で有った。日頃、静かなこのジャングルの農場では騒々しくて、大騒ぎの音と立ち上る焼肉の煙りと匂いが1キロも先までガンガンと響いて居た様だ。健ちゃんは私を『移住してくる時、船の中で先生をしていたお兄ちゃん』と紹介してくれ、『今はサルタ州で農場の支配人をして居る』と彼に説明していた。これが後々まで役に立った。


第22回
ヨハンスはどこから来たのか日本人が沢山宴会のテーブルの廻りに居るので驚いていた。日頃は静かな農場は、割れる様に歓声とボリュームを最大に上げた、カセットテープの音楽と、それと子供達の歌声や歓声と混ざり、ドンドンと焼かれる美味しそうな焼肉のタレの香ばしい香りが当たり一面に立ち込めていた。ヨハンスに何を飲むか誘った。彼は安心して、知った顔が並んで居るので宴会の中に入って行った。私はぜひ彼と懇意にしたくて先ずグラスを渡して酒の注文を聞いた。彼はウイスキーを見てそれを注文してきたので、残り少ない氷を全部入れて水割りを勧めた。彼は大きなグラスに、なみなみと入れた酒を高く上げて日本語で『乾杯〜!』と叫んだ。皆も『ドーット』グラスを合わせて飲んだ。一気に宴会の席もなごみ、彼もつまみを皿に取ると食べ始め、ここの集まりで飲んでくれると感じ、腰を据えて飲む様に酒を勧めた。酒が好きな様で、話しをしながら私と酒を酌み交わしていたので、直ぐに同じ様な農業の仕事と、世代が同じで話しの話題が合って仲良くなった。健ちゃんもヨハンスとは懇意と見えて、親しく話していた。釣りの話題から狩猟で射止めた鹿の話までして、健ちゃんに親切に色々と教えている様であった。彼は酒の氷がなくなったので、『ひとっ走りーーで、家から取って来る』と話すと。オートバイを走らせて消えて行った。10分もかからずに今度は古びたジープで戻って来た。車からアイスボックスと大きな生ハムの塊やソーセージを入れたカゴを抱えて戻って来た。アイスボックスには溢れんばかりの氷が有り、彼は生ハムの薄切りを作ると、チーズに巻いて、つまみを沢山作ってくれた。ソーセージはルーカスが早速焼き始めた。櫛に刺して、遠火でゆっくりと焼いていた。子供達も香ばしい焼ける香りで廻りで出来上がるのを待っていた。皆が幸福そうな顔で、酒を飲む人や、話しに夢中になっている

夫婦、それぞれが今日の宴会を満喫している感じが私に伝わって来た。その時、ヨハンスが乗ってきたジープにシエパードの犬が居るのに気が付いた。耳がピント立ち精悍な感じの犬であった。私が近寄ろうとすると、ヨハンスは『危ない〜!』と注意して私の犬を紹介すると教えてくれた。良く訓練された犬で彼の一声で全て行動していたので驚いた。彼は犬を側に呼ぶと、先ず私の匂いを嗅がせると、私の手を犬の頭にのせて、なでる様に言った。私はゆっくりなでてやると、犬は私の手を舐めて、尻尾を振って挨拶していた。私は嬉しくなり、今日買ったすじ肉を持って来ると犬に食べる様に半分分けてやった。犬はヨハンスの顔を見て、許可が出るとゆっくりと食べ出した。美味しそうにに食べていたので、それをルーカスの犬も見ていたから、ルーカスの犬も呼んで与えた話しが酒の潤滑剤で、世話話しから収穫の仕方まで、時間が経っのを忘れて話していた。すると彼は水上げポンプが調子が悪いと話した。パッキングが割れて、圧力が掛らず水漏れすると困っていた。私の得意とする修理で、いっも簡単に修理してしまう技術を持っていたので、早速に私が点検、修理をしてやると申し込んだ。

ヨハンスは感謝の言葉を言って、『明日の暇な時間に見てくれ』と私に言った。私は心の中で『ビック!、チャンス〜!』と感じた。パッキングなら、なめし皮を切って自分で作れる技能があるから簡単に治せると思った。明日が面白くなった。


ではまた、次回をお楽しみに!




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