思い出:簡単な自分史-02 (中学入学から学生生活終了まで)



小学校を卒業し、中学に入学しました。それから高校そして大学、大学院、学生生活の日々を綴ります。書いている中で特に多い話題は「英語が出来なかったこと」、受験でもかなり苦しみました。今思い返しますとこの青春時代が一番幸せであったのでしょう。ただ受験に明け暮れ(高校・大学・大学院と3回)、その当時は良い大学に入り良い会社に入るのが良い人生と信じていたのは不思議な限りですね。もっと社会に貢献する活動とか恋愛等色々な経験を積むべきであったと反省しています。



109・中学
小学校を卒業して大牟田市立中学に入学しました。市内二つの小学校が学区域になっており、半数の生徒は知り合い、残りの半数は他の小学校出身者でした。この中学は元々は市立第一中学ということで、由緒のある学校なのですが、当時は隣の中学と比較しますとレベル的には若干落ちる感じでした。また喧嘩するような元気な子も多かったように思います。また、小学校にもやはりそれぞれ校風というのがあるようで、しばらくの間は同じ小学校同士での付き合いがほとんどでした、同じ学校としての一体感が出るまでには半年くらいかかったように記憶しています。小学校は基本的には一人の先生が全教科を担当するのに対して中学では担当に分かれているのが非常に新鮮でした。また小学校の成績というのは先生の裁量の部分が大きいのですが、中学では点数、実力テストでは順位まで付くのには驚きました。授業態度の宜しくない当方にとりましてはラッキーでしたね。

110・制服
何事校則が厳しい学校で、制服は冬は詰襟、夏は開襟シャツという規則になっており、5月 1日と10月01日が夏服と冬服の交代の日とされていました。南国の九州、10月と言いましても実際には夏の気候、暑くても無理して着ていました。詰襟というのは首を薄いプラスチックのようなもので締め上げるような構造になっており、汗をかくと不快で不潔でもあり、到底合理的なものとは思えませんでした。暑いと耐えられずに前のホックを外すと先生に怒られたものです。また、校内では指定された上履きというのを使用する決まりになっており、緑色のゴム靴を履いて過ごしました。他に黄色と青があり、各学年で色が指定されており、学校内では何年生か一目で分かるようになっていました。衣服が乱れると不良になる等と言われ、何事規則で生徒を縛り管理するのが良いとされていた時代であったように感じます。

111・英語
そして、この時から英語の勉強が始まりましたが、何故か専門外の先生で、教え方もとても上手とは言えませんでした。当時福岡県では英語が軽視されており、授業時間は週4時間取る事が出来るのですが、その内の1時間を商業に代えても良いという事で1時間は商業簿記をやり、英語は3時間でした。そしてこの商業の先生が何故か英語を教えていたのです。発音は日本語というよりは大牟田弁、とにかく文章を丸暗記しろという事で毎日教科書の文章を丸暗記していました。英語自体の知識も本当に頼りないものであったように思います。また教科書は大牟田市の教育委員会は全国的なほとんど使われていないものを選択、その為に書店で教科書を探しても教科書に合う参考書が皆無というような状況で苦戦しました。英語は好きになれずこの躓きは非常に大きく、今に至るまで常に英語は苦手になってしまいました。何でも初めが肝心のようですね。

112・数学
もう一つ中学で始まるのが数学、小学校では同じ教科を算数と呼ぶのですが、中学となると何故かこの名称になります。英語、スペイン語では両方とも同じ単語なので、不思議に思っています。さて、小学校では算数は余り得意な方ではありませんでした。足し算、掛け算、割り算など計算ミス、間違いが多く、時間がかかり成績には繋がりませんでした。数学になりますと記号や概念を扱う事が増えて来て、計算する事が少なくなり、成績は良くなってすっかり気に入ってしまいました。今でも算数は苦手、数学は得意ということになっています。

113・ひろかず
名前については出生の時にふりがなを振らずに届出をしており、幼稚園、小学校と「ゆういち」という名前を使って来たのですが、中学に入り気分も一新しようと「ひろかず」で登録しました。田中姓というのは東北地方を除き、全国どこにでも沢山居て、まずクラスに他に田中姓が居るのが普通であり、この中学在学中は、ほとんど皆から田中君では無く、「ひろかず君」と呼ばれていました。ただ、友人達が当方の自宅に来ますと母は「ゆういち」と呼びますので非常に不思議そうな顔をしていました。名前を変えると何か別人になったような気分がして何となく楽しかった記憶があります。従いましてこの時期の友人に取りましては、当方は依然として「たなか・ひろかず」という事になります。なお、東京に戻り、転校した時に元の「ゆういち」に戻し、以降現在に至るまで「ゆういち」としています。「ひろひと」とも読めるね、という人が居ますが、これは畏れ多い事です。

114・ズンガリガリ
この当時の世相は社会主義に理想を求める傾向が強く、未知の社会主義の国々に幻想を抱いている人が多くソビエト連邦などの社会主義国家に憧れからか強い関心が持たれていました。歌に関しては音楽の時間に習ったものより何の時間であったか忘れましたが、組合専従になっていた先生から労働歌として「ズンガリガリ」なる歌を教わり、その不思議な節回しが強く印象に残っています。記憶しているのは「ズンガリガリ、ズンガリガリ、ズンガリガリ、ズンガリガリ、開拓者の目的は目的はなんだ、開拓者の目的は目的は労働・・ズンガリガリ、ズンガリガリ、ズンガリガリ、ズンガリガリ」というような歌でした。どうやらこれはパレスチナ民謡のようですが今でも時々思い出し口ずさんでいます。

115・市民会館
大牟田市の中心部には市民会館がありました。東京から有名な歌手が来ますと、ここで公演が行われました、要するに「どさ周り」ということですね。その時に有名な人というよりも少し前にテレビなどに出ていた人が来る訳です。現在と比較しますとまだまだ娯楽の少ない時代ですので、有名人が来るとなると皆大騒ぎで見物に出かけた記憶がありますが、今思い出してみて、演歌歌手であったのは覚えていますが、出演者は一体誰だったのか全く思い出す事が出来ません。

116・弁論大会
中学では色々な行事がありました。定番の運動会、文化祭の他に校内マラソン大会、そして弁論大会というのがありました。運動が苦手でマラソン大会等は何時もお終いを争っていましたが、弁論大会は喜んで参加しました。時間は7分間であったのを覚えています、どのようなテーマを話したのか今ではすっかり忘れてしまいましたが、スピーチの内容は、ほとんど暗記し、抑揚、強調する場面など家族に演出のアドバイスをしてもらい、参加した記憶があります、上位には食い込めませんでしたが、努力賞か何かをいただいた記憶があります。中学で何か賞を貰ったのはこの1回だけでした。

117・夏休み
夏休みと言いますとまず宿題が思い起こされます。今はどうか分かりませんが、一学期の終業式に沢山のドリルと課題が出された記憶があります。そしてラジオ体操、毎朝早起きしてラジオ体操に参加しなければならないとされていました。当然の事ですが、夏休みも終わりに近づきますと全く手を付けていない宿題が気になり始めます。8月も終わりに近づき25日くらいになりますと気になり気持ちばかりが焦りますがまだ始めずにいました。大体29日か30日に宿題に取り掛かり、始業式となる1日未明まで徹夜に近ような状況でした。学習ドリルから始めて本棚の製作とか、歴史の年表を作るとか絵を描く等という時間がかかるのはべそをかきながらやった記憶あります。そして一番の問題は日記、ほとんど創作、内容が矛盾しないように作品を仕上げた覚えがあります。天気はきちんと記録している友人が皆に教えていました。今考えますとこれで作文の力が多少はついたのかも知れませんね。それにしても夏休みの宿題、ほとんどの生徒は同じような事をしていました。夏休み毎日少しづつ勉強するという学校側の趣旨に沿って学習しているような子は居なかったように思います。新学期が始まってしばらくは宿題疲れで学校の勉強に身が入らなかったように思います。今でも8月の末になりますと何となくソワソワした気分に陥ります。

118・映画
友達同士でよく映画を見に行った記憶があります。内容はコメディアが登場する内容の無いものや青春映画、そして米国で評判になった映画などでした。既に映画が斜陽となっており、一時の輝きはありませんでしたが、それでも楽しみでした。一番嬉しかったのはほとんどの映画が懐かしい故郷である東京が舞台になっている事でした。大牟田の生活にすっかりと慣れてはいましたが、それでも東京が出て来ると「帰れれば良いな」と思ったものです。友人たちはまだ見ぬ東京に憧れを抱いていたようです。ただ東京の綺麗なビルの多い中心部ばかりが登場し、「東京はビルばかりか?」と友人達に尋ねられていました。

119・友人の交通事故死
市内の中学に通い、楽しい中学生活を送っていましたが悲しく辛い思い出もあります。何時も一緒で仲の良かった友人が学校の前でトラックにはねられて死亡するという痛ましい事故があったのです。その日は仲間内でサッカーをし、その友人は何か用事があるとかで、一人先に自転車で帰宅したのです。学校を出て直ぐの大通り、当時は迂回すると信号があったのですが、学校を出た所には信号がありませんでした。皆、迂回せずにそこを突っ切るので、危ない場所ではあったのですが、それまで事故らしい事故も無く、たいした問題にはなっていませんでした。詳しい事故状況は忘れましたが、トラックにはねられて亡くなったのです。そのような事故があった事など全く知らずに帰宅すると、思わぬ知らせに愕然とした記憶があります。直ぐに他の仲間と友人宅を訪れたのですが、既に葬儀の用意が進んでいました。何時もそして今まで一緒に過ごしていた仲の良い友人が亡くなった・・今でもこの時の事は昨日の事のように鮮明に蘇ります。丁度その時、何も知らないお母さんが福岡から帰宅して呆然となり、泣き崩れて、持っていた買い物袋が辺りに散らばりました。(この一瞬は余りに痛ましく今でも脳裏に焼き付いています)数日後、友人宅で葬儀が行われました、友人生徒代表として一人の女生徒が思い出を語ったのですが、途中で泣き崩れて声になりませんでした。そしてそれから学校では友人の席には牛乳瓶の中に白い花が生けられ、席替えになるまでずっと置いてありました、その間クラスの雰囲気は重苦しく何となく暗い感じでした。この友人の名前は「久原みちる」さん、地場の明治時代創業の醤油会社(マルナガ醤油)のオーナー一族の息子で、少し天然パーマがかかっていて、ジョークを飛ばす愉快で誰にでも好かれる少年でした。彼の事は何時も脳裏にあり、今もよく思い出しますし、また何時も心に留めて置かなければならないと思っています。その後ご遺族は久原さんが事故に遭った交差点に信号機寄付し、それからは安全に道路を渡れるようになりました。

120・父の東京転勤
中学2年生の終わりの時に父親の転勤で東京に戻る事になりました。この頃までには九州には馴染み、東京に戻るという事で嬉しい反面不安もありました。転校するのは春休みとなり、それまでの生活とは全く違う状況になる事を覚悟しました。福岡県は当時公立高校の学区は小学区制で、原則として普通高校には決められた高校にしか進学する事が出来ませんでした、そして受験は9科目入試というものでした。東京はこれに対して入試は僅かに3科目、田舎で過ごしていて東京の勉強に付いて行けるのか不安で一杯でした。転勤が決まり引越しまで余り時間が無く、慌しく荷物をまとめていた記憶があります。

121・初めて飛行機に乗る
東京への転勤への途中、初めて飛行機に乗りました。日本航空の飛行機で福岡から大阪までの搭乗で、福岡から遠い大阪まで本当にあっという間に到着したのには驚いた記憶があります。余りに短い時間なので空港に降りても本当に大阪に着いたのかしばらくは半信半疑でした。そして京都・奈良見物。初めて訪問した関西にもちょっとしたカルチャーショックを覚えました。それまで関東と九州しか知らず、関西の雰囲気には逆に異国を感じたものです。そして大阪と京都がこれほど近く、そして全く雰囲気が異なるのにも驚きました。その後は関西には機会を見付けては訪問しています。

122・東京に戻る
東京に戻った際に味わったのは逆カルチャーショックでした、成長期の4年間を九州で過ごした為に暫くは東京に馴染む事が出来ず半年くらいは何となく変だった事を記憶しています。例えば割り勘、東京ではごく普通ですが、九州では誰かが全部支払うのが普通で、とまどった記憶があります。ジョークも九州では関西と同じようにちょっと「えげつなさ」がある方が喜ばれるのに対して東京はスマートさを尊ぶ感じで、これにもなかなか慣れませんでした。男女間の関係も大牟田ではほとんど話もしない感じでしたが、東京では皆仲良くしている・・初めて新しい場所に行く際に起こるカルチャーショックは皆予想もしており、用意もし、身構えても居るのでそれほど精神的なダメージは無いと思いますが、自分の元居た場所に戻る際に感じる逆カルチャーショックは余り想像していないので気を付ける必要があるように思います。この逆カルチャーショックを南米から日本に戻った時に再度経験しましたが、南米と日本の何回も往復している間に次第に慣れて来ました。今では両方の世界が頭の中でも平行して動いているという感じです。日本が離れているとか地球の反対側に在るという意識さえ無くなっています。何事慣れが大切なようですね。

123・京王帝都電鉄・井の頭線 沿線
社宅が決まり、東京杉並区に住む事になり、最寄の鉄道は井の頭線になりました。東京の鉄道はターミナル駅から大体が放射状に走っているのですが、この線は多少イレギュラーで、渋谷から吉祥寺まで斜めに走っている珍しい線です。他の多くの路線が延長されたり、もしくは地下鉄と相互乗り入れをしている中、現在でもこの間だけを走っています。またこの線はJRと同じ線路の幅(狭軌)、京王本線は準軌に近い狭軌とレールの幅が異なっているのも不思議でした。鉄道の歴史を調べると両方の鉄道は元々は別の会社であったようです。とにもかくにも以前東京に住んでいた時の東急沿線とも中央線沿線とも全く違う雰囲気なのには驚きました。どうも東京は地域の差というのはその鉄道に影響しているように思います。西武線、中央線、京王線、小田急線、東急線、それぞれに独特の雰囲気・文化があるように感じます。



(地図:住んでいた付近)

124・東京の中学
九州から東京に戻り、中学最後の一年間は杉並区の区立中学に通学していました。家の直ぐ近所に中学があり、そこに通学するものと思っていましたが、実際には家は隣の学区域で距離が2倍ある学校に行く事になりました。井の頭線の浜田山と高井戸の駅の中間に位置する学校で周囲には緑が多く、直ぐに気に入ってしまいました。この辺りは色々な会社の社宅も多いようで、転校生も多く、都内や近郊ばかりでは無く、もう一人小西君という大阪から来た生徒が居て心強かったのを覚えています。別々のクラスにはなりましたが、毎日お互い励ましながらやって居た記憶があります。また、中学の校歌が素敵であったので今でも口ずさんでいます。高木東六さんの作曲で、校歌としては珍しく3拍子なのです。美しく素敵なメロディーです。たった一年だけの通学ですが、この中学時代は非常に充実し、今でもここの卒業生である事を誇りに思い、自分の母校であると思っています。

125・クラスの仲間
さて、この中三のクラスの仲間は非常に仲が良く楽しかった記憶があります。30人そこそこのクラスですが個性的なメンバーが揃いそうそうたるものでした。プロの歌手になって現在も有名で活躍されている方、最近まで放映されていた「NHKの京都上がる下がる」という番組の主題歌に彼女の曲が使われており、透き通った声は中学当時のままで非常に懐かしかったですね。また、「謎の整体師」となって青山で開業され活躍されている方、超能力研究家として心霊やUFOの権威として活動している方も居ます。勿論、一般社会で着実に活躍されている方も多く、理学部を卒業された後に医師になって、大学の先生となっている方、東芝や日清製粉の研究所で論文を出されている方等も居ます。少ないメンバーですが、皆それぞれの分野で個性を生かして活躍しているようです。そしてこのクラス、今でも思い出すのですが、とにかく仲が良かったのです。担当の先生が父兄たちを前にして「今まで色々とクラスを見て来ましたが、これほど仲が良いのは非常に珍しい」と言っていたそうです。勿論いじめなどというもは皆無で、誰かが困っていると全員で助ける、「全員が友達クラス」という感じでした。当時はまだ15歳、遥か昔の事になってしまいましたが、このクラスの事友人達の事を鮮明に思い出します。

126・中学までの通学路
家は学区域の一番端に在り、自転車通学は禁止されており、一駅分、歩いて30分近く毎日通学していました。通学路の途中に松本清張の家があり、時々あの下唇が異様に大きい異相で怖い顔で散歩していました。その他にも有名な野球選手、俳優等の家が在り、テレビで見る人が何気なく歩いているのが不思議でもありました。そして中学の向かいに大手財閥のグラウンドがあり、そこでヤクルトの2軍が練習をしていました。プロの練習を興味深く見学していましたが、ほんとど観客はおらず、練習が終わった後にプロの選手と気軽に話が出来たのが嬉しかったのをよく覚えています。

127・歩いて都心から高井戸まで
東京に戻り時間があると地図を持ち自転車で出掛けてみました。住んでいた杉並区だけでもかなり広く、世田谷区の真ん中辺りまで行くと数時間かかります。東京は広いと改めて感じました。ある時、昔の人は歩いていた、それも日本橋を出て甲州街道を進むと最初の宿場が住んでいた高井戸、聞くところによりますと、余りに遠いので中間地点に他らしい新しい宿場町として内藤新宿、今の新宿を設けたというのです。それなら一度歩いてみようという事になり、友人と二人で都心の霞ヶ関ビルの辺りから新宿を経て高井戸まで歩いてみました。友人は昔は靴は無かったと下駄での挑戦です。朝から歩き始めて昼過ぎに新宿を通過して夕方にようやく高井戸に到着しました。8時間歩き通しでした。足は痛くなり、靴擦れが出来て悲惨な状態、友人は下駄が擦れて血が滲んでいました。昔の人は現在のような舗装道路では無く、草鞋でこの道を歩いていたと思うと「すごいこと」と実感し、なるほど新しい宿場が中間地点に必要であったと納得したのものです。歩いて移動していた時代には日本は広い大きな国であったと思います。

128・受験
当時は受験競争が加熱したのは平等精神が不足しており、普段の成績が評価されない為だ、とされ、内申書重視、都立は学校群制度になっていました、それでも現在と比較して都立高校の人気は非常に高かったと思います。運動が得意で無く、手先も不器用な当方は美術、体育、技術家庭というような科目で苦戦を強いられ、ヤマハ音楽教室に無理やり連れて行かれた音楽で多少挽回するというような感じでした。都立の受験科目は英数国の3教科、英語・国語が苦手の当方にはこちらも苦戦でしたが、何とか希望する都立高校に滑り込む事が出来ました。学校群制度は自由には高校を選択する事は出来ず、合格者を順番に機械的に振り分けられるシステムなのですが、受験した群は2つの高校で構成されており、もう一つの元々は女子高で隣の区に在り、住んでいる場所からは遠く離れており通学も大変でそこに入学した生徒は「外れ」という感じでした。どう考えても理不尽な選抜方法だと思っていました。最近では学区さえも無くなり自由に都内の高校を選択出来るそうで、羨ましい限りですが、学校側も魅力ある学校作りに本気で努力するでしょうし、これが本来の姿であると思います。

129・卒業

いよいよ中学卒業となりました。卒業の一環として各クラスが演劇でもコーラスでも良いから何か舞台で演じる事が恒例となっていました。受験等で余り時間が取れないので、「コーラス」という事になり、当時大ヒットしていたフォークソングを歌う事にし、放課後練習をしてました。さて、当日他のクラスもほとんどが同じ歌のコーラスとなってしまいました。受験という制約のある中ではいたし方無い面があるのですが、芸の無さを恥ずかしく思いました。そして卒業式、たった一年だけの通学でしたが何故か寂しさがこみ上げて来ました。女子生徒の中には涙を浮かべている人も多かったようです。何時もで別れというのは寂しいものです。

130・都立高校に進学
高校は、一年間通学した中学までと方向は反対でしたが、ほぼ同じくらいの距離に在る最寄の都立高校に進学しました。春休みに入学書類を取りに行きますと何とずっしりと重い「宿題」が用意されていました。そして学校特製の英語のテキストが入っていました。この高校では教科書は一週間に一時間だけで後は特製のテキストを使って授業するので予習して来い、と言うのです。中を見ますと「スタインベック」などの英米の作家が書いたものが原文のまま印刷されており、英語が苦手な中学卒業したばかりの生徒にはかなり難しく理解出来るようなものではありませんでした。(今見ても相当難しい)ルンルン気分が一気に失せて行きました。「これは大変な事になった」と覚悟を決めてかからなければなりませんでした。さて、入学式、ほとんどの男子生徒は従来の学生服を着て行きましたが、2,3年生の先輩を見ますと全員が私服、「あれ」という感じでした。女子生徒からは毎日の洋服が大変なので、制服を制定して欲しいという要望があったのを記憶しています。当時は私服通学の高校などという高校はほとんど無く、特に公立高校では他に例を聞きませんでした、あったとしてもごく少数であったと思います。また自転車通学が認められており、10分もかからず通学が出来、快適でした。修学旅行で広島に行った時にはバスガイドさんに「何の団体でしょうか?」「高校の修学旅行です」と答えても信じてもらえませんでした。



(写真:高校の正門:2012年8月撮影)



(写真:高校の通用門:2012年8月撮影)

131・食堂に驚く
学校の中に食堂があるのが嬉しく、入学早々利用しようと営業時間を確認してみますと、何と11時からで、3時間目の途中から営業を開始しているというのです。これには最初驚きました。確かに11時以降何時も学生が食事に来ているのです。休講になると一応は自習時間ですが、生徒にかなりの自由度があり、校内に居れば何をしても叱られる事はありませんでした。食事よく食べたのはカレーで、カレーに生卵を入れて食べるのが流行しており、何時もそれを食べていました。これが癖になってしまい、今でもカレーには必ず生卵を入れて食べています。

132・高校生活
強制される事は少なく、受験期の3年生になると、つまらない授業は出ないでさっさと帰宅するという事も普通で、生徒が半数以上帰宅してしまい、2クラス合同の授業という事もありました。運動が得意で無い当方は余り縁が無かったのですが、公立校として珍しくアメリカンフットボール部があり、人気を集めていました。都内に在るライバルの学校はほとんど全部私立大学の付属で、ユニフォームも綺麗でしたが、都立の我チームは何時もボロボロのユニフォームで対戦していました。英語が苦手の当方にはこちらも余り縁が無かったのですが、フランス語とドイツ語が選択科目にあったのを覚えています。当時の校舎はかなり古いもので教室の真ん中に柱があり、その後ろが大人気でした。人気の理由は前から見えないので早弁が出来るという事でこの席の取り合いをした記憶があります。学校の正門から少し入ると小さな噴水のある池があり、ここは「愛の泉」と呼ばれ、アベックが行く場所となっていましたが、女子学生が少ない学校で女子生徒と仲良くなれるのはほんの一握りで、当方等は全く縁の無い場所でした。そして、少し離れていますが、井の頭公園という大きな公園があり、授業をさぼって出掛けることもありました。そして同じ群のもう一つの学校に通学している仲間と会いますと、校則が厳しく、靴は黒、靴下は紺と決められ、制服での通学で息が詰まりそうだと話していました。しかし女生徒の方が断然、数が多い話を聞き、ちょっと羨ましい気にもなりましたね。



(写真:自転車置場:2012年8月撮影)

133・出席
一年の授業が始まりました。名簿は中学までの男女別では無く、全員一緒で50音順でした。青木君、石井君・・と呼ばれて田中まではある程度時間がかかりますので、自分の名前が呼ばれるまでに教室に滑り込めばセーフで、田中は終わりの方で有利でした。ある時遅刻しそうになり走って教室に向かうと、石井君が先に教室に入ったにも拘わらず彼は遅刻、当方はセーフと言う事があり、石井君は一日交代で後ろから出席を取るべきであると、主張していました、確かに道理ですね。また授業時間開始から15分間先生が来ないと自習時間、要するに遊んで良い時間になるというようなルールがあり、10分を過ぎると皆期待を込めて時計を見ていました。ある時、4時間目・数学の中沢先生の授業の時、数名の生徒が腹を空かせており、若干早目に教室を出て食堂に向かった事がありました。そこでたまたま中沢先生も食事をしており、「君達は何の授業かね?」「・・・先生のです」という会話があったそうで、その生徒達と中沢先生は自習成立寸前でギリギリ教室に到着し、授業になってしまいました。

134・英語の授業
女生徒は全体の3割程度、貴重な存在でしたので、皆前の方に座っていました。そして勉強の出来が良い秀才達もやはり前の方でした。後ろの方には勉強に余り熱心では無い女の子にも縁が無いような男子生徒が陣取っていました。当然ですが当方は一番後ろに座っていました。授業の内容は、中学とは比較にならない程、内容は高度で、試験は難しい、科目によっては零点続出というような事もありました。英語が苦手でしたので、英語の予習・復習で苦労した記憶があります。それでもある時、最後列であることをいいことにして、英文法の時間に隠れて友人と「碁並べ」をして遊んでいました。ところが、こともあろうにある時、授業中皆が静かに先生の説明に聞き入っている最中にその碁盤がひっくり返ってしまいました。「ガシャーン」と大きな音と共に碁石が辺りに散ばりました。その後、この先生の授業だけは緊張感を持って特に熱心に受けるようになりました。先生の方も、何かあると「おい、田中」と何時もご指名を受けました。ところが、二年生の組替えの際に何と担任がこの先生になってしまいました。これは大変な事になったと青ざめ、真面目生徒に大変身し、一番前に陣取り熱心に授業を受け、ホームルームにも積極的に参加していました。このお陰か、先生は一年の時とは感じが変わりごく普通に対処していただき、安堵していました。さてしばらくして、担任教師との個人面談の為に職員室に行き、まず先生に尋ねられたのは「君は一年の時どこのクラスだっけ?」、当方「・・・B組です。」先生はしばらく考えて「あっ!」と声を上げて、「あの田中・・」。要するに当方の変身大作戦に惑わされていたわけです。そして、その後授業ではまた元のように、いや前よりも多く特別に「おい、田中」と声が掛かるようになりました。それだけ目を掛けていただいたにもかかわらず英語の成績は残念ながら何時も低空飛行でした。

135・名物教師
進学した都立高校と言いましても当時は特異な校風があり、長年勤務し続けている個性的な名物教師が沢山いました。一年生で地学を勉強するのですが、担当の先生はかなり年配の先生で授業のテストは何時も5問、それも全て穴埋め問題、要するに5つ言葉を書くだけですから10分もかからず書き終わり、点数は当然ですが、20点刻みでした。先生にはそれぞれ伝統あるあだ名が付いており、「ドブちゅー」とか「しわちゃん」等はかなり以前に卒業した先輩に伺っても同じ名前で呼ばれているようでした。「しわちゃん」は当時はもうかなりの年配で、しわだらけであったので納得の行くあだ名だと思っていましたが、先輩の話では若い時代からこの名で呼ばれていたようです。また、英語の先生で「自分は本当は理科や数学が好きだったのだが、何故か英語の先生になってしまった」という若い先生が居ました。嫌いな教科を教えているので、出来ない我々にも優しく接していただきました。しかしながら何でも呉服屋の友人に誘われたとかで、その内に転職してしまいました。

136・音楽

芸術は選択で、美術か作図もしくは音楽の選択であったので、迷わず中学時代までは得意にしていた音楽を選択しました。音楽の先生はゴジラとあだ名されている先生で、音楽教室に何と跳び箱を置き、そこに生徒をのけぞらせて歌わせていました。今考えますと腹式呼吸法を具体的に教えたかったのだと思います。最初に聞かされたのは「骸骨の歌」という作品でした。一般的な教科書などは無く、歌うのはシューベルトの歌曲集である「冬の旅」、それも有名な「菩提樹」では無く、その次の「凍るる涙」とか「郵便馬車」最初の「おやすみ」などを原曲のドイツ語のままで歌うというすさまじいものでした。それまでの中学の音楽との違いに驚いた記憶があります。試験も習った歌曲をドイツ語のまま歌うというものでしたが、全く歌うことが出来ず、成績も惨憺たるものでした。しかしながら後年、コーラスを始めた時に割りに抵抗無く入れたのはこの時の経験によるものであると思い、今では感謝しています。

137・運動会
運動会の時に各クラスが争って山車を作って競った事を思い出します。一番大きい山車は3階建ての校舎よりも高かった、ものすごいものを作っていたように記憶しています。運動会の数日前からは泊り込み、運動会前日は徹夜で、運動会そのものよりもこの山車に皆青春を賭けていたように思います。運動会自体は4チームに分かれていて、各チームそれぞれマスコットを決めて大きく掲げるのですが、属していたチームの会合で「写楽」にしようと提案したところ、これが通り、敵陣の「ミッキー」に対して、自軍には大きな「写楽の絵」が掲げられたのを記憶しています。相手は格好の良さをアピールそれに対して当方はバンカラを売りにしてあたかも慶早戦のようでした。運動会では運動神経が鈍いので、競技では無く、高下駄を履いて専ら応援団に専念していました。もう一つ運動会の楽しみがありました。学校側は禁止している「美人コンテスト」です。学校の中で一番誰が美人かを投票で決める訳です。学校側はこれを阻止しようとやっきになっているのですが、密かに投票用紙が廻って来て、あらかじめ選びぬかれた女子生徒の名前が書いてあり、印を付けるようになっていました。そして運動会の当日、毎年先生の意表を突く形で発表が行われていました。全校生徒が校庭に集まった時に風船で幟が上がるなど毎年知恵を絞っていました。後日知ったのですが「美男子コンテスト」なるものを女子生徒が行っていたようですが、当然論外の当方、知る由もありませんでした。

138・目の出屋(日の出屋)
校門(通用門)の横にパン等を置いてあるお店がありました。本来は「ひのでや」という名称なのですが、学生は皆「めのでや」と呼んでいました。かなり以前に同じ学校を卒業した先輩も「めのでや」と呼んでいたそうで、その名称はかなり以前からのようです。「めのでや」と呼ばれるのは、看板には「日の出屋」と書かれているのですが、誰かが一本棒を足して「目の出屋」にしてしまうのです。お店の人は修正して元に戻すのですが、いたちごっこでした。昼になると昼食にパンを買う生徒が多く、一番込み合うのは下校時で、食べ盛りの生徒達の胃袋を満たしていました。現在はコンビニが学校の前に出来てそちらに人を取られたようで、残念ながらもう営業はしてないようです。



(写真:旧・目の出屋:2012年8月撮影)

139・関西へ一人旅
関西に行ったのは家族と東京に引っ越す時と中学の修学旅行の時でした。現在は楽しむのが中心となっている修学旅行ですが当時はあくまでも学習の一環でした。京都と奈良の歴史的な場所を巡るというものでした。この2回の旅行は京都と奈良が中心でしたので、一人で大阪に出掛けました。ユースホステルなるものが多くあった時代ですが、お客の少なくなった安宿がユースを兼業しているケースも多く、大阪で宿泊した先もそのような場所でした。西淀川区の外れという場所で普通ではまず行く事はないような場所でしたが、それが返って楽しかった記憶があります。それまで知っていた東京とも九州とも違う世界に感心した記憶があります。一人旅ですから自分の関心がある場所に行きました。大阪市内では大正区とか鶴橋、天下茶屋など行きました。天下茶屋という駅名は時刻表を見ていてインパクトがあり、是非訪問してみたいと思って南海に乗り出掛けました。期待した外の場所で楽しめた記憶があります。

140・平泉・松島・旅行好きになる
高校一年の終わりに友人二人と平泉、松島に旅行に行きました。親や先生等とは別に自分達だけで行く初めての旅行であり、白河の関を越え東北地方に行くのも初めてであったので、緊張の中、嬉しくて仕方無かった記憶があります。まだ東北新幹線の無い時代、夜行に乗り平泉には早朝に到着しました。朝靄の中、町は中世を思い起こすように幻想的であったのをよく覚えています。まず訪れたのは平泉にある毛越寺、藤原三代の二代目・基衡が建立した由緒あるお寺ですが、そこの池で石投げをしていてこの寺の坊さんから怒られたのをよく覚えています。そして松島、奥の野蒜から見る景色は日本三景にふさわしいすばらしいものでした。その後も松島にはよく行きましたが、国立公園にも国定公園にも指定されていないのが不思議でなりません。(県立公園なのだそうです)この旅行を契機にその後友人達とは大学時代まで日本全国を旅して歩きました。

141・清里
友人達と次に行ったのは清里です。夏の避暑地としてペンションが建ち並び芸能人等が訪れる現在では有名な場所のようですが、当時はそれほど有名ではありませんでした。深夜に新宿を出発する松本行きの各駅電車に乗り込み、早朝に小淵沢に到着、そこで小海線に乗り換えて清里に行きました。前回と同じ仲間と出掛けたのですが、後の二人は当方に任せきり、どこに行くのかもよく理解していないようで、夜行に乗った事もあり、かなり遠くに来たと思っている様子でした。「ここは東京の隣の山梨県だ」と説明してもよく分かっていないようでした。高原で非常に気持ちが良く、東京とは別世界という感じでした。長野県との県境に在る八ヶ岳は非常に綺麗で、麓で飲む牛乳は美味しかったですね。最近の清里の写真を見ますとかなり俗化してしまっているのが何と無く残念でもあります。

142・紀伊
高校時代で一番長い旅行は紀伊への旅でした。また同じメンバーで、「今回は長いぞ、1週間」と告げてあったのですが、相変わらず二人ともどこへ行くのか理解していない様子で、心配したご家族の方から自宅の方へ電話で問い合わせがありました。当時はある一定の区間では乗り放題の周遊券というのがありかなり割安で旅行する事が出来ました、この時には「南紀周遊券」なるものを利用しての旅行でした。最初夜行で大阪に行き、そこから和歌山、白浜等は通過し南紀地方に向かいました。まず安珍清姫悲恋の寺として有名な寺である御坊市近くの道成寺に行きました。女が男を追いかけて最後は大蛇になって焼き殺すというようなすさまじい話であったように記憶しています、住職が紙芝居で上手に説明をしてくれたのを覚えています。そして大地に在る鯨博物館、那智の滝を見物、熊野浦の海岸を経て伊勢神宮参拝をしました。それから志摩を巡り、最後は名古屋を見物するという盛り沢山の内容でした。志摩半島は最初の国立公園であったそうで、特に自然が美しいというような印象ではありませんでしたが、穏やかで箱庭のよう、如何にも日本の海という感じでした。途中で三重県の県庁が在る「津」を通過したのですが、駅員がどのように駅名を発音するのか注目していました。単に「つ」と言うのでは無く「つうー」と発音していました。

143・レンブラント
友人の一人が「レンブラント展があるので見に行こう」と誘ってくれました。それまで絵にはほとんど興味が無く、余り乗り気ではなかったのですが、友人が是非というので付き合いで出掛けてみました。レンブラントは17世紀のオランダの画家なのですが、光と影の画家とも言われている天才的な画家ですが、一見して「これはすごい」と唸ってしまいました、写真と実物がこれほど違うのには正直驚きました。展示されている作品の中に自画像が幾つかあったのですが、その生きているよりも生きているように見える絵には驚きました。これで絵画を見るのが好きになり、後に大都市に行きますと美術館に行くのが楽しみになりました。なお、日本とは違い、欧米の美術館では有名な絵が触れるな感じでさりげなく掛けられているのに驚きました。

144・救急車
今まで人生で一度だけ救急車に乗った事があります。ある夜、自宅の自室で勉強していた時にぶんぶんと大きな蛾が飛んでいたのです。うるさいとは思いながらも勉強を続けていると急に何故か右の耳に入り込んだのです。胴の大きさが丁度耳の大きさ位で今でも何で入り込んだのか不思議なのですが、とにかく耳の中を引っ掻き回すのです。これには悲鳴を上げてしまいました。それを聞き付けて、「何事か!」と両親が掛け付けて事情を知り耳を見るのですがもうかなり中に入り蛾が見えません。ピンセットで取ろうとすると余計に中に入りいよいよ痛さで泣き叫ぶ始末です。仕方が無いと119番して、救急車を呼び、数分後にサイレンが聞こえ、救急車がやって来ました。「何事か」と真剣な顔で来た救急隊員に母が「息子の耳に蛾が入って取れない」と事情を話すと一瞬けげんそうな顔になりましたが、とにかく痛がっている当方を乗せて耳鼻科に駆け込みました。耳鼻科ではさすがに専門医、直ぐに蛾を取り出しましたが、その大きさ元気さに両親そして隊員もびっくり、痛がっていた事に納得していました。

145・大学受験
さて、大学受験となりましたが、苦手の英語はどこの大学にも必ずあり、当惑した記憶があります。他のどの科目も外れている大学があるのに何故英語だけは必ずあるのだ・・と嘆いたものです。全国の大学案内で英語の配点の少ない学校を探したものです。当時、長崎大学と新潟大学が配点が少なく(確か、1/7だったと記憶しています)受験を真剣に考えたものです。語学は苦手で辞書を見ながら語学の勉強をするのが嫌いなのですが、それでも合格を目指す為には何とか得点を挙げなければなりません。英語の受験参考書を大量に買い込み、前置詞の穴埋め問題、書き換え公式などを必死に覚えたものです。通学時には当時誰もが持っていた「赤尾の豆単」で単語を覚えていました。勉強時間全体の半分以上を英語に割いていたように思いますが、成績の方は余り芳しくは無かったように思います。何の因果か成績不良の罰が来たのか、英語からスペイン語に変わりましたが、今でも当時と同じように毎日のように辞書をひきひきの勉強を続けています、これも人生でしょう。(仕方が無いので)今、何とかスペイン語世界で生きているのも、やはり英語が必修でこれがベースになって助かっているのかも知れませんね。

146・工学部に進学
大学は工学部に進学しました。東京の家を離れたいと考え、地方の大学で一人暮らしを始めました。本当は同じ大学の理学部地学科地理学科を目指し受験するつもりで願書を取り寄せたのですが、親に猛反対されて、「手に職を」という強烈なアドバイスで工学部に進学したのです。ノーベル賞を取った田中耕一さん(同じ大学・学部)のように物作り、実験が好きであれば良かったのすが、当方は全く逆でメカには全く関心が無く、物を作ることについても全く興味が無くどう見ても工学部向きでは無かったように思います。その中で専攻を水処理とし、これであればメカに余り関係は無いので何とか卒業する事が出来ました。工学部出身であるので、現在、当方の名刺には「ING.YUICHI TANAKA」とありますが、何となく看板に偽り在りという感じ後ろめたく思っています。やはり自分のやりたい事、好きな事をするのが一番のようです。

147・英語
大学に入学しても英語の授業があります。受験英語から開放されて楽しんで学ぼうと考えていましたが、なかなかそうは行きませんでした。教養部で英語を教えるのは英文学を専攻したような専門家で、内容も高度になり、楽は出来ませんでした。プラトンの哲学的な内容の読解で、英語も難しく、書かれている内容も難解で苦労しました。ただ試験はとても易しくてほっとした記憶があります。70点という英語の点としては今まで取った事も無いような得点を挙げて喜んだのですが、実は平均点が90点以上、100点が続出だと聞き、がっかりしたのをよく覚えています。

148・第二外国語
さて、大学に入学すると必修となっている第二外国語を選択しなければなりません。当時工学部で選択出来たのはドイツ語、フランス語、そして中国語でした。ほとんどの学生はドイツ語を選択し、時間割表を見ますと一応クラス毎に割り当てられていました、他の先生を選択する事も可能なのですが、優先順位はそのクラスの生徒にあります。自分のクラスに割り当てられた授業に出席しますと教室が一杯になって外まで溢れていました。多くは、他のクラス、学部からこの授業を取ろうと集まった学生達でした。人気の理由は非常に簡単で、この先生はテストが無く、一定の出席さえすれば単位が取れるというものでした。「何という幸運!ラッキー!」当然この授業を取り、教科書を刳り貫いて中に文庫本を入れて読んでいました。ドイツ語の単位はありがたくいただきましたが、お陰で全くドイツ語に関してはほとんど勉強せず、理解していないで進級してしまいました。聞くところによりますと、同じ学部出身のノーベル賞の田中さんはドイツの単位が取れなくて留年したそうで、単位を取れたのはやはりラッキーなのかも知れませんね。

149・教養課程
入学した大学では最初の2年間は教養課程という事で一般教養を勉強する事になっていました、これは旧制からの流れで旧制高校と旧制大学が一緒になって出来た大学の為であったからなのでしょう。色々な授業がありましたが、学生が数名というものも多くあり、先生が気の毒になるような教室もありました。今でしたら多分毎日熱心に聞くと思いますが、当時はサボって遊びたいという気持ちが強く余り授業に出なかったのは今思い出すともったいない限りです。国語という科目があり、授業を受けているのは数名、出席しているのは2,3名というものでしたが、奥の細道に関する授業で、先生はその研究の権威、地元ということもあり内容の濃いものでした。2年間の教養部が終わり専門課程の3年に進級する際には進級式というのが別途ありました。留年する人も多いのですが、何とか2年間で進級する事が出来ました。

150・大学の数学
大学に入り一番ショックであったのは数学のレベルの高さでした。工学部に入学すると「応用数学」「解析学」等の講義があり、当然のことですが必修でした。高校の数学とレベルが数段階違い、俄か勉強では全く歯が立ちませんでした。大学で数学を専攻している友人から見ますと工学部向けの数学は応用数学であり、「数学では無い」という事で、彼の話を聞きますと、本来の数学はもっと「哲学的で、1足す1が2になることをとことん考えるような学問である」という分かったような分からない説明でした。それでも解析学は充分に哲学的な内容で「留点」なる概念を理解出来ず苦しんだ思い出あります。とにかく今までの数学とは全く違うのに面食らっていました。そして応用数学には色々なものが次々に出て来ました。演算子、線積分、面積分、3重積分、フーリエ級数、フーリエ解析、ナブラ記号、ラプラス変換、複素関数、ベクトル解析、ベッセル関数、偏微分、偏微分方程式・・専門分野でも差分・和分、有限要素法、インパルス応答、叩き込み積分・・数学数式に悩まされる毎日でした。今でも数学に苦しみウンウン言っている夢を見ます。なお、現在当時の教科書を眺めても全く理解出来なくなっています。卒業してからも知識の棚卸と繰り返しが必要なのでしょうね。

151・理科
理科系というくらいですから、教養部では理科に関する基礎科目をかなり履修しました。高校では「地学」「生物」「化学」「物理」に分かれていますが大学に入って学内の書店に行ってまず驚いたのは「物理化学」とか「生物化学工学」果ては「生物物理化学」等と言う本が並んでいることでした。数学同様にどの科目もレベルが高く、理解するのがなかなか大変でした。何科目かの必修を除いては結構広範囲に選択が認められており、「地学」とか「天文学」果ては「地理学」まで履修して単位を取得した記憶があります。メインの物理学や有機化学などは内容が難しく余り理解出来なかった記憶があります。

152・体育
大学に体育の授業があり、これは必修でした。それまでも体育と聞くだけで身震いするほど苦手で、何とか避けて通りたいところですが、必須科目では仕方がありません。最初に振り分けがあり、運動能力に問題がある人は「基礎体育」それ以外の人は「野球」「テニス」「卓球」等の楽しいスポーツを選択出来る仕組みになっていました。振り落とす運動は「懸垂」、これを3回以上出来れば目出度く合格というものでした。実はそれまで懸垂出来ても1,2回が限度でゆっくりと3回はまず出来ないと思っていましたが、何とかクリアー、お陰で楽しいスポーツを選択する事が出来ました。高校時代野球部で鳴らしていた友人は手が滑り2回で落下、可哀想に一年間みっちりと基礎運動をしていました。なおその後現在に至るまで懸垂3回出来たことはありません。

153・寒さが身にこたえる
大学は東京からみますと北に位置した場所にあり、その冬の厳しさには本当に参りました。母からは「お前はそそっかしく慌て者で、危険である」との事でストーブ使用を禁止され、コタツ一個で冬を過ごすのですが、真冬には零下10度くらいまで下がり、一ヶ月以上零度を超えない厳しい寒さ、大変でした。ある日、零下10度まで下がった時にコタツが壊れて布団を巻き付けて凌いだ事もありました。寒さに強くなる為に気温が10度まではシャツ一枚、零度まではカーディガン一枚、零度以下になって初めてセーターを着ると決めて生活していました。最初の内は寒かったのですが、若さもあり、何とかこれで過ごせるようになったものです。冬休みに東京に戻ると非常に暖かく感じ、シャツ一枚で十分足り、街を歩いているとジロジロ見られた記憶があります。現在は反対に暑い場所に居ますが、当地の人々とは体感温度がそうやら5度は違うようで、皆がセーターで当方が半袖という事がよくあります。さすがに寒いのは非常に辛く、将来は常夏の国で暮らしたいと願うようになり、南米への思いはますます募りました。

154・トンネルを越えると雪国だった
冬になると雪が沢山降って来るとばかり思っていましたが、住んでいた街は太平洋側で余り雪は積もりませんでした。降っても30センチ程度で、東京とそれほど変わりません。ただ、山から吹く風は非常に強くそして冷たいものでした。そこで日本海側に出掛けてみることにしました。街を出て小一時間もすると県境の長いトンネルがあり、それを越えるとまさに別世界でした。山形県内でも特にこの辺りは雪が多く、3メートルの積雪がある雪の世界・・深々と雪が降り続いていました。村山、東根、そして将棋の駒で有名な天童などの街がありますが、幻想的で非常に美しいのですが、実際に生活する人は大変だと思います。

155・秋田県
秋田県出身の友人が自分の実家に行こうと誘ってくれました。彼の住んでいる街の隣町にはたくさんのさくらんぼがなり、またりんごが沢山あるというので、早速出掛けてみました。りんごの木を見るのは実はこの時が始めてなのですが、大きな実が沢山付いていました。富士という品種だそうで、蜜が入って甘く美味しいものでした。秋田の人は誰か来ると「お茶っこ」と漬物でもてなす習慣があり、その為に塩分を取りすぎるのだと説明していました。夜になりますと人口僅か3万人の街としては信じられないくらい飲み屋が多く、有名な酒どころ、何でも人口一人当たりでは日本一飲み屋が多いのだそうです。日本酒をどのくらい飲むのか尋ねますと「2人なら3本、3人なら5本」という答えが返って来ました。

156・学生食堂
大学構内には学生相手の食堂が幾つもありました、工学部には3ヶ所、文系学部には別に1つというような感じです。昼時になりますとどこも学生や教職員で一杯になります。入学した時には定食形式がほとんどだったのですが、途中で一品づつ好きなおかずを取り、最後に清算する方式が一般的になりました。おかずで一番利用したのは安くて美味しい納豆ですね、この地方の特産でもあり、栄養価も高く優等生と言えるでしょう。これに生卵を掛けて「納豆・卵」なる形で食べていました、現在に至るまで大好物です。他によく食べたのは「ほっけ」、この魚は今まで余り食べた事が無かったのですが、安くて美味いそして量が多いので大いに食べました。また、学生食堂の中で格式が高く特別な存在であったのは離れたキャンパスにある「北門食堂」、ここの定食にはワインが付いて来るほどで、豪華な気分が味わえました。 

157・外食屋
住んでいた街には大学が多く存在し、学生相手の外食屋が色々とありました。その中でも際立った存在であり、現在もチェーン展開をしているのが、「めしのはんだや」です。現在のメニューを見ますとかなり小奇麗になっていますが、当時は見栄えや質よりも量の多さと安さで圧倒的な支持を得ていました。とにかくまず「めし」の量が多く、そして美味しい。おかずの質は高くはありませんでしたが、米所として名高いこの地方、とにかくご飯は非常に美味しかった。「大盛り」というのがあるのですが、それには注として「食い切れません、大で充分です」と書かれてありました。この他にも定食屋があり、「レバニラ定食」のように安くてボリュームがあるものを用意していました。多くの学生は自炊よりも外食で済ませていたように思います。

158・通学
工学部の中には市営路線バスが走っていました。構内は広く当時、工学部だけでも原子核工学科前、工学部前、化学工学科前、応用物理工学科前と4つ停留所がありました。また広大なキャンパスの中を大学のバスが巡回していました。こちらは無料で利用する事が出来ましたが、本数が少ない難点はありました。最初はバス通学をしていたのですが、次第に面倒になり、バイクを購入し、これで通学していました。ただし、冬の寒さは尋常では無く、凍えていました。また構内は私有地ということのようで無免許で自動車の練習をしている人が多かったのですが、確かに捕まるような事はありませんでした。工学部は見晴らしの良い伊達藩・青葉城跡の跡地に建設されており、キャンパスからは市内が一望出来ました。夜になりますと見晴らしの良い場所にはアベックの自動車がずらっと並んでいました。

159・実家が三鷹市に引越し
大学に入学した年に両親が住む自宅が引越しをしました。それまで杉並区に居たのですが、より良い環境を求めてその延長上の三鷹市に引越しをしました。当初の計画では東京の大学に進学する事を前提に当方の部屋もあったのですが、地方の大学に進学した為に取りやめとなり、帰宅した際には二間続きの座敷を使っていました。環境は抜群で、野川に面しており、裏側には東京天文台の森が見えます。近くには深大寺や野川公園があり、緑の水に囲まれたすばらしい場所です。ただ反面、交通の便は悪く、京王線、中央線共バス便で、調布か武蔵境まで行きそこから電車に乗るというものです。現在でも風景は大きくは変わっておらず、日曜日ともなりますと、自宅前の道には都心から来たハイキングの人達が大勢歩いています。

160・六大学野球
クラスメイトが野球部に属していたので、何回か観戦に行きました。大学は地方都市にあったのですが、それでも六大学リーグ戦というのがあり、我々の大学の他には福祉大、工大、教育大、学院大、仙台大が参加していました。友人はクリーンアップを任される程の強打者で活躍していました。プロ野球も面白いのですが、このような学生野球は観戦するには一番楽しいような気がします、ただ余り観客は多くなく、寂しい限りでした。このリーグからは後に福祉大が選手強化に励み、佐々木(マリナーズ)、斎藤(横浜)等の名選手が輩出しています。

161・オーケストラ
クラスの仲間にオーケストラに入っているという者が居ました。彼はトロンボーンの奏者で出演するというので早速聴きに行きました。場所は学校の中にある松下記念会館という立派なホールで、松下電器の寄贈で建てられたものなのだそうです。出し物は確かブラームスの交響曲であったように思いますが、そのレベルの高さに驚きました。その後も何回か聴きに行きましたが、非常に立派な演奏でした。パラグアイに来て、当地にある唯一と言っても良いオーケストラを聴きに行きましたが、そのレベルの違いには驚きました、もう少し文化面でのレベルアップを図って欲しいものです。

162・運転免許
学生時代の時間がある時に運転免許を取得しようと自動車学校に通いました。後で聞きますと皆さん密かに練習してから通うそうですが、当方はハンドルを握るのはこれが始めて運動神経も鈍いので悪戦苦闘しました。今でも多分同じでしょうが、学校の中に作られた模擬コースの中で踏み切り、坂道発進、縦列駐車、クランク通行などを行いました。かなりの時間がかかりましたが何とか卒業、晴れてドライバーとなる事が出来ました。以来現在に至るまで自動車を運転していますが、運転自体は余り好きになれず、何時かは運転手を雇う身になりたいものですね。

163・名物教授・その1
大学にも多くの名物教授が居ました。中でも一番印象に残っている先生は「禿げの先生」で、この先生、勿論ご自身の専門(コンクリート工学)をお持ちでしたが、これとは別に「禿げ」に関して研究をされており、授業時間でも研究成果を講義中に披露していただきました。当時、定年が近いというその先生の髪はふさふさとし、黒々としていました。さてその先生、学生であった時にきき腕の右手がひどく化膿してしまい血が巡らなくなり、ある大学病院を訪れると切断するしか無いと言われたのだそうです。何とか切断せずに治す方法は無いかとあちらこちらの病院を訪問、ある町医者に「切断せずに治しましょう」と約束してもらい、その小さな病院にすがる思いで入院したそうです。治療は熱い沸騰した湯と氷水を用意し、毎日それに交互に入れるというものだったそうで、血の巡りを良くすれば大丈夫、回復するというその医者の言葉を信じ、毎日その治療を続け、右腕は全快したそうです。それ以降この先生、自然治癒の力に関心を持ったそうです。そして若い時代に「若禿げ」になったそうで、先生の若い時の写真を見せていただきましたが、確かに髪の毛はかなり薄くなっていました。以来増毛の研究に励み、ご自身の髪の毛を対象に研究をされ、髪を増やすには髪に存在意義を自覚させることというのが先生の研究結果の骨子でした。講義の内容は色々あり細かい事は忘れてしまいましたが、要約すると(1)よく叩け(2)固いブラシで、よくブラッシングしろ(3)帽子は駄目、蒸すな(4)引っ張れ(5)よく洗え(6)整髪料は使うな(7)抜け毛は気にするな、というようなものでした。だだし、薄く少しでも毛が残っている場合には回復するが、完全に禿げ上がると回復の可能性は無いと話をされていました。その先生は固いブラシで毎日30分はブラッシングしたそうで、時々血が滲み出たそうです。その研究と努力の成果で講義を受けた時点ではふさふさの髪をしていました。さて、その後かなり経過しますが、同期の仲間にほとんど禿げどころか髪の薄い人は居ません、皆さん髪ははふさふさ黒々としています。多分笑って講義を聴いていても皆実践しているのでしょうね、そして当方ですが、現在事務所の自分の机の中に「固いブラシ」がある事は言うまでもありません。

164・名物教授・その2
教授の中に非常にダンディーでソフトな先生が居ました。見掛けはいつもにこやかでソフト、学生に軽い冗談を言ような先生ですが、授業は大変厳しく、そしてテストは難しい。何が難しいと言いますと山を張る事が出来ないのです。ここまで山張りと要領だけで単位を取得し切り抜けて来た当方としては一番難しい苦手なタイプでした。この先生の2年生後期の単位は必修でしたが落第し、3年前後期、4年前期と4回連続で落第、後の無い5回目、4年後期に全てを託しました。必修ですから落とせば留年なる土俵際です。その時の出題は何と○×、本当に○か×を記入せよというものでした、先生は「山が外れたろ」と言って笑うのです。そして「正解は2点、空白は零点、誤答はマイナス2点」と言うのです。答案に訳も分からず記入すると確率的には零点になるという訳で、下手すればマイナス点になってしまいます。これにはビビリました。全50問、○×とは言え全部考え抜かれ、全体の範囲から満遍なく出題されており良い問題ばかり、先生はこれを作成するのには相当苦心されたと思います。問題を最初に見た時の動揺もあり、回答には悪戦苦闘しました、そして結果はまたしても落第、これで同じ科目を5回も落としました。実は最後に救済の為のファイナルラウンドとして6回目というのがあるのですが、この科目で残っていたのは確か当方だけ、この先生に「参った」と頭を下げ、大学院進学が決まっていましたので、そこで特別に補修を行う事を条件に「お情け」で合格にしていただきました。5回も試験を受けた、この先生が執筆された教科書、3年間使ったので今見ますとボロボロになっています、でもそれにしても、どうしてこれだけ勉強しても合格しなかったのでしょうね。

165・スキーをする
東京よりも大分北に位置していましたので、スキーがずっと身近なものでした。一番近いスキー場は学校から見える程でした。休みの日は日帰りでスキーを楽しむ事も可能でした。隣の県にある全国でも有名なスキー場にもちょっと無理をすれば日帰りで行く事が出来ました。スキー道具を買い込み始めたのですが、運動神経が鈍いのか余り上達せず、緩斜面でゆるゆると滑る程度でした。ある時、直ぐに上達するスキー教室がある、と言う話を聞きつけ泊り掛けで行きました。「パラレル・スキー教室」という名称で、とにかく三角に開くボーゲンは一切禁止、常にスキー板は揃えたままで滑る事を徹底するという教え方でした、お陰で何とかスキーを揃えて滑れるようになりました。

166・地震に遭う
大学に在学している時に宮城県沖地震という大地震に見舞われました。大学で実験を行っている最中でしたが、大きな揺れが来て大騒ぎになりました。丘の上から街を見ますと街の中で火事になっている場所があり、また向かい側に在った理学部では大きな爆発が起き火災が発生していました。電話も電気も水道も全て止まり、仕方が無いのでアパートに戻り乾電池でラジオを聞いていました。まずやっていた放送は安全情報、「誰々さんはどこどこで無事です・・」という情報を延々とやっていました。そしてガスも電気も何も無いので食事はどうしようと困っていたのですが、今度はスーパーでは牛乳とパンを特別安い価格で販売するとか、食堂ではおにぎりの特別販売を始めたというような生活情報が始まりました。インフラが回復するまで数日間は不便ではありましたが、学校は臨時にお休みになり、各商店は便乗値上げならぬ、困った時の割引を競ったので意外にのんびり快適に過ごせました。

167・北海道に行く
友人達と出かけた旅行で一番長かったのは北海道旅行です。4人で行ったのですが、大自然を満喫したいという他の仲間に対して、「札幌に行きたい」と一人違う事を言っていました。個人的には都市に興味があり、明治になって以来急速に発展したこの街を是非訪問したいというのがかねてからの希望であったのですが、皆には白い目で見られてしまいました。当時はまだ青函連絡船で北海道に行く時代で、本当に遠い所に行くのだと思いました。行くまでは函館と札幌等は近いとばかり思っていましたが、北海道は想像以上に広大でその広さに驚嘆したものです。夏休みをほとんど使い知床、礼文島等を含め北海道各地を廻りました。意外に気に入ったのは室蘭です。観光地にはなっておらず夏の観光シーズンでもほとんど観光客は居なかったのですが、眺めは良く、街も観光化されておらず普通の街でかえって良かったですね。現在地球儀で北海道とこの南米を比較する事がよくあります。この南米の広大さには想像を超えるものがあります。

168・四国に行く
そして同じ仲間で四国にも行きました。四国に行くのは初めてで非常に興味深かった。一番意外であったのは香川県は岡山県と一体、愛媛県は広島県と一体、徳島県は関西と関係が深く、高知県は海の向こう南米等に目が向いているという事です。四国四県目が向いている方向は全く別々であることが分かりました。四国という経済圏は実際には存在しない事は驚きでした。高知、徳島、香川と廻ったところで、腹痛を起こし倒れてしまいました。徳島池田町で食べたアイスキャンディーが原因で、高松市で数日休む事になり、愛媛県に行く事が出来なくなったのが心残りでした。日本全県を訪問するという目標がありましたが、愛媛県が長い間残ってしまいました。後日移住の前に単に未踏の県を無くしたいという目的で、東京から松山まで出掛けました。四国はそれぞれに特徴があり想像していたよりも豊かな印象を持ちました。

169・地下鉄で研修
学校の単位で夏休みに実際に会社で研修を積むというのがありました。東京出身でかつ鉄道が好きなので営団地下鉄を研修先に選択しました。営団地下鉄は「帝都高速度交通営団」という非常に長い名称で、東京に在る半分以上の地下鉄の建設運営を行っています。実際に地下鉄建設の現場に行きますとその大掛かりな事にまず驚きました。また東京の地下には様々な埋設物があり、それが必ずしも図面通りでは無く埋設されている事も初めて知りました。埋設物を確認しながら掘り進むので掘削するのも大変です。現在は深い場所を掘り進む時には上から開ける開削工法では無く、刳り貫くようにして作るシールド工法が用いられる事が多いのも当然であると思います。また現在の東京地下鉄網は昭和初期に計画があり、それがそのままほとんど実施された事も驚きの一つでした。勿論多少の計画変更があり、当初日比谷線は中目黒では無く祐天寺に入る予定であった事も判りました。都営と営団で分ける際に計画段階の時には一番のメインと当初考えられていた一号線は都営が取り建設したのですが、現在では市街地の状況が一変してそれ程のものでは無くなっている事も知りました。東京の地下の工事は非常に困難かつ大掛かりで大変な仕事なのですが、外の一般の人達は工事には全く無関心で、ほとんど注目せず歩いているのが非常に不思議な感じでした。

170・フランス語
さて、大学院を受験する事になり、重大な事実に直面しました。大学院は7科目、700点満点なのですが、英語、第二外国語がそれぞれ100点づつあるというのです。専門の500点もそれまで怠けていてせいで、勉強が大変なのですが、特に大きな問題は語学、英語は苦手、そして第二外国語は・・。第二外国語はドイツ語とフランス語の選択というので、どうせ怠けて、全く勉強しなかった、ほとんど分からないドイツ語はこの際止めてフランス語で受験する事にしました。フランス語を勉強するのは勿論この時が初めてであり、受験まで2ヶ月、フランス語の参考書を大量に買い込み、NHKテレビ・ラジオのフランス語の教科書を買い、本当に一から要するにABCの読み方から初めて毎日勉強し、何とか合格する事が出来ました。今でも外国語の中で一番参考書を持っているのがフランス語です。日頃からコツコツと勉強するのが大切である事を実感し反省いたしました。この時にフランス語を勉強していたお陰でその後ポルトガル語、スペイン語を学ぶ際に割りと楽に入れたように思っています。

171・大学を卒業
とにかく4年間で卒業出来ることになりました。在籍して大学、特に工学部では4年で卒業する生徒が半分を少し超えるほどで、あの田中耕一さんもそうですが、「どっぺり」と呼ばれる落第が多かったのです。必修が多く、1科目でも落とすと落第という事で、このようになっていて、勉強の出来不出来とは必ずしも一致していませんでした。確か所属していた学科の定員は66名であったと思いますが、上から来た学生が多く80名近い卒業生が居たように記憶しています。大学院に進学する20数名を除いてここで社会に巣立って行きました。多くの方が現在も技術屋として活躍されています。

172・大学院に進学
近年では工学部に進学する学生が大学院に進学するケースが増えていますが、当時はまだ20〜30%の学生だけが大学院に進学する状況でした。工学部ではなく、正式には大学院工学研究科という名称で建前は博士課程までの5年間でしたので、修士に進学する時には大学院工学研究科博士課程前期2年の過程というものでした。多くの仲間が社会に出る為、この地方都市を去って行く中、不安と期待を持って残った記憶があります。住まいもより大学に近い場所に引っ越しました。バイクで10分程の距離で簡単に往復が出来るようになりました。

173・視点
大学院に進学して興味を持ったのは他学部の授業です。工学部では水処理を専攻していましたが、学際的な学問であり、理学部生物学科でも同様の研究が行われているというので聴講してみました。工学部では処理槽を一種のブラックボックスのように捕らえ、システムとしてインプットとアウトプットに注目して如何にすれば効率が良くなるのか、その為の要因は何か・・というようなアプローチであったのに対して、同じ物を生物では中で何が起きているのか、どのような生物が浄化に作用しているかというようなアプローチでした。工学部では効率要するにコストが重要なキーワードになりますが、理学部は真理の探究がキーワードという印象を持ちました。また農学部にも出掛けてみました。それまで「農」という文字に対して先入観があり、どうしても田舎的なイメージを抱いていましたが、実際には非常にアカデミックな学問で驚いたものです。「理」が鋭角的に真理の点を求めて突き進むという感じなのに対して、「農」は全体の位置付けバランスを重んじるという印象があります。同じものを扱っても理工とはまた違う柔らかく包み込むような感覚があるように感じました。もし今もう一度受験時代に戻れるのであれば、理系の中では農学部を選択すると思います。それまで工学的な視点だけで見ていましたので大いに刺激となりました。また、何事固定観念で見ては行けない事を痛感した次第です。

174・留学生
在学していた大学には多くの留学生が居て、大学付属の「留学生会館」なるものがあり、世界各地から学びに来ていました。当時多かったのは中国人(台湾)、韓国人、そしてブラジルを始めとする日系人でした。同じ研究室にも中国人やインド人が居り、中国人の留学生に尋ねますと「日本も漢字を使い、近くなので米国より良いと思って留学して来ました。」と説明していました、しかしながら実際の日本は想像とはかなり違うようでした。まず食事に関しては「何故スープは味噌汁だけか?」と聞くのです、中国料理では様々な種類のスープを食べるのに日本では味噌汁以外は作らない事を不思議に思ったのでしょう。日本語に関しても同じ漢字で読み方が二つ、場合によっては数種類あるのには困惑していました。当然ですが、漢字の国である中国はそれぞれの言語(方言)では読み方は一つです。日本に住んでいると全く不思議には思わず、当たり前に見ている事が急に新鮮に見えるようになりました。またここで多くの南米日系人に出会いました。ペルーから来た留学生は奨学金は自分の生活に充て、家族に仕送りをする為にバイトでギター片手に歌っていました。声も良く響き、非常に上手、なによりも本場のラテン音楽というのが良かったと思います。ここで生の南米の話を聞けた事は良かったと思っています。また、韓国からも多くの留学生が来ていました。隣の部屋に住んでいる友人と仲良くなった韓国からの留学生が居て、その留学生の友人で大阪に留学している韓国からの仲間が来たというので一緒に食事付いて行きました。皆の共通語は日本語なのですが、大阪から来たその留学生は見事な関西弁、そしてこちらの友人の方はズーズー弁、留学先で異なる日本語を話していました。またこの韓国の留学生は「赤ちゃんの時に朝鮮戦争となり、両親が北から南に逃げて非常に苦労した、生活が苦しくブラジルに移住する寸前であった」と話すとブラジルからの留学生は「それは残念だったね、ブラジルに行けなくて」と答えていました。このように国際的な環境で学生時代を過ごした経験がその後の進路に大きく影響したのは間違い無いと思います。

175・大学院の授業
大学時代は70人くらいの大人数でしたので、サボり、代返、一番後ろで居眠りも出来ましたが、当時は進学する人は限られており、大学院は僅かに20名余り、それもそれぞれの専攻に分かれていますので、同じ授業に出るのは数名、そして彼らは大学時代前の方で熱心に講義を聴いていた秀才揃い、ちょっと場違いの世界に迷い込んでしまった、という感じでした。講義の内容は当然ですが、大学よりも数段レベルアップ、聴講しているのが数名ですから怠けていると直ぐにバレてしまいます。留学生も居る関係上、中には講義を全て英語でやる先生も居ました。提出のレポートも英語で要求されました。この先生はバンコクに在る工科大学に赴任された経験があり、そこでは誰もが全て英語であった、君達も負けてはならないとハッパを掛けられました。英語で苦しむ毎日でした。この時期だけは、それまでと違い結構真面目に緊張して過ごしていた記憶があります。そしてゼミと呼ばれる研究成果発表会にも出席しなければなりません、他の院生、助手等が毎回交代で自分の研究の途中経過を説明し、皆で吟味、検討するというものでした。大学院は勉強を教える場所では無く、自分で勉強をするにはどのようにすれば良いのか教育する場所であったように思います。アカデミックな雰囲気を体験出来ただけでも非常に有意義だったと思っています。

176・院生室
大学院に進んで一番嬉しかったのは学校の中に机を与えられた事です。院生室という名称で呼ばれたこの部屋は大部屋でしたが、学校に自分の居場所が出来た事は何よりの喜びでした。アパートに戻っても仕方が無いので大体何時もここに居ました。また卓球台が置いてある部屋があり、そこで仲間と汗を流したりしていました。院生も2年になりますと研究室にも机があり、二ヶ所居場所が出来ていよいよアパートに帰らず、時には研究室に泊まり込む事もありました。

177・綱引き
工学部では学科別対抗綱引き大会なるものがありました。日頃は隣の研究室で何が行われているのかもよく分からない状態で、ましてや他の学科の事は皆目分からないのが実情で、他学科との交流を図る目的で年一回綱引き大会が行われていました。この大会、実は常に化学工学科が勝っており、不思議に思っていました。大学院に進学すると他の学部、学科の授業を受講する事が出来るのですが、たまたま受講した化学科の先生が実は綱引きの研究の大家だったのです。この授業で学生に綱引きの勝ち方を伝授するのが勝利の秘訣だった訳です。本式の綱引きでは多分禁止されているのでしょうが、要するにまず足を引っ掛ける穴を掘り、そこに足を入れて体を斜めにして綱は引っ張らずに手繰り寄せるというのが、その勝利の方程式でした。図解入りで丁寧に説明され、当方もしっかりノートして帰りました。早速選手一同に化学工学科の手法を伝授し、当方も同じ戦法を取りました。必然的に決勝戦は当学科と化学工学科の対戦、作戦は同じですから、結果は腕力に勝る当学科の勝利と相成りました。綱引き大会の次の講義では先生は我々が講義を聴講している事を悔しそうに話され、周りの化学科の学生からも冷たい視線を浴びせられてしまいました。

178・韓国料理が好きになる
住んでいたアパートのすぐ近くに星光苑という名前の学生相手の朝鮮料理店があり、近くまたリーゾナブルな価格であり、しばしば通うようになりました。在日朝鮮人の経営のようで、朝鮮画報等の雑誌が置いてありました。最初、色々なものを注文し、一通り試し、その後はクッパというスープにご飯が入っている料理をよく注文するようになりました。本来はご飯がスープとは別に付いて来るべきなのだが、その店ではあらかじめご飯が入っていました。当然のことながら、辛い味付けであったが、刺激を求めて次第に「辛く」と注文するようになり、唐辛子の味にのめり込むようになって行きました。また、隣室には同じ大学の仲間が住んでいて、二人でよく食事を作り一緒に食べたのですが、仲間は農家の倅であり、美味しい米を持っていたので彼は「ご飯担当」、そして当方は「おかず担当」ということになっていました。作るおかずは何時も決まって「麻婆豆腐」、中国製の豆板醤を買っておき、これを入れて料理を作りました、これまた当然の事成り行きで次第に刺激を求めて辛くなって行きました。このようにして辛いものが大好きとなり、その後も韓国料理、特に唐辛子の利いた料理を好むようになったのです。

179・韓国に行く
韓国に対してはそれまで余り知識が無かったのですが、隣室の友人の研究室に居る韓国からの李さんという留学生から色々と話を聞いている間に興味が沸いて来て、「それでは行ってみよう」という事になりました。留学生の友人の家はソウル市内中心部に近い龍山という場所にあり、ご両親は元々は北部の咸鏡道に住んでいたそうですが、朝鮮戦争で難を逃れ、ソウルに住むようになったと話をされていました。友人は韓国での仲間の学生たちを呼んでくれ、色々と話を伺いました。それまで戦争とは無縁の平和日本にどっぷりと漬かっていましたので、徴兵制度があり、北側と対峙して常に緊張を求められる韓国の現実に少なからずショックを受けました。また、当時はよく抜き打ちの訓練が行われ、サイレンが鳴りますと自動車をその場に止めて防災訓練を行っていました。戒厳令があり、夜は外出禁止で、李さんとその友人達とホテルで話し込んでいる内に夜になり、「朝まで外出する事は出来ない」との話でした。外を見ますと街の中心部なのですが、昼間の喧騒が嘘のように警戒をしている軍関係者以外は無人で静まり返っていました。

180・本場の韓国料理
日本ではその当時はほとんど使用されていない練炭が使われていて、それで食べる料理は初めて食べるのに何故かどことなく何か懐かしい感じがありました。日本の焼肉を中心とする韓国料理と本場のものはかなり違う事には驚きました。現在では日本でも食べられるようになった「ビビン冷麺」をこの時初めて食べ、すっかりハマッテしまいました。そしてポンテギ、これは養蚕の時に糸を取った後の蚕なのですが、これを揚げたものです。食料が乏しい時代には重要な蛋白源であったという事ですが、見た目は虫そのものでちょっと抵抗が意外に美味しかったですね。また、ソンデという血のソーセージ(要するに当地で食べるモルシージャのようなもの)など日本ではまずお目にかかれないものにも挑戦してみました。ただ、有名な犬のスープ「ポシンタン」だけは今に至るまで食べる機会がありません。また友人の李さんは、到着した最初の頃は食事は日本人の我々に気を使ってか、辛い物を避けていたのですが、当方が作る辛い料理で鍛えられている友人と当方には本場の辛さも全く問題無く美味しくいただけました。しまいには「辛いのが好きですね」と呆れ返っていました。その後何回か韓国を訪問していますが、その大きな目的が「食」に在る事は確かです。

181・韓国を観光
ソウル市内は勿論、高麗の都が一時置かれた江華島に行きました。高麗王朝は元に対抗しそれまでの開城からこの離れ島に首都を移し抵抗し、その為に元の日本侵攻が遅れたのだそうです。また明治の時代に日本が侵略を仕掛けたのがこの地ですね。そしてソウルの外港として栄えている仁川にも行きました。マッカーサーがここから上陸したという話を李さんから説明を受けましたが、眼下にあるのどかな風景からは全く想像出来ませんでした。そしてより北側に近い地域まで案内してもらい、隣国・韓国についてそれまで余りにも知らない事に気が付き、以降趣味に「韓国・朝鮮」と書くほど興味を持つに至りました、今でも面白く楽しい韓国は大好きですね。そして帰りに李さんからお土産に「韓国将棋」をプレゼントしてくれました。ソウルの公園で街の人が指しているのをじっと興味深そうに見ていたからでしょうね。王の代わりに「漢」と「楚」があり、緑と赤の丸い駒、不思議な将棋でした。今でも飾りになっているだけで、不勉強で未だにどのようなルールなのか知りません。なお、当方の友人もこの韓国人の留学生・李さんもその後それぞれの国で国立大学の教授となり、二人は今でもそれぞれの大学の窓口となり交流を続けて文化・学術の交換を行っています。

182・長距離ドライブ
隣の部屋に住む友人と長距離ドライブに出掛ける事にしました。目指すのは名古屋、金沢など、余り行った事が無い地方を目指しました。名古屋から金沢を目指し、兼六園を見物しました。金沢の街は如何にも伝統のある城下町という感じで風格を感じました。富山県を通り新潟まで行きました。北陸を行くのは初めてなのですが、福井・金沢・富山と新潟が離れている事には驚きました。富山市から新潟市までは本当に遠く感じました。

183・北米一周
学生時代、就職の直前の春休みに北米一周旅行に出掛けました。大韓航空のロス・アンジェルス往復のチケットとバスの周遊券(グレーハウントの一ヶ月パス)を持っての旅行でした。ロスアンジェルスからバスで大陸を横断、一番南寄りのコースを取り、アリゾナ、テキサス、ミシシッピと進み、ワシントンDC、ニューヨーク市、モントリオール、その後はトロント、ナイアガラの滝、デトロイト、シカゴと進みました。イグアスの滝を見る前にナイアガラを見物しました。そこから南下してダラスそしてメキシコ国境に向かい、モントレー、グアダラハラ、メキシコ市、グアテマラ市、サンサルバドルと行きました。ここからメキシコ市、ティファナ、米国に戻りサンディエゴ、ロスアンジェルス、飛行機でホノルル、そして最後にソウルに立ち寄り日本に帰国しました。約2ヶ月間、バスに2万キロ乗ったこの大旅行、米国・カナダ・メキシコのかなりの地域を駆け巡りましたが、メキシコに入った途端、ほっとした記憶があります。「自分はラテンアメリカが合うのだ」と思った事を覚えています。この旅行は所謂バックパッカースタイルでリュックを背負っての旅でした。使えるお金は余り無く、宿に泊まるのは3日に一度だけ、後は夜行バスで移動していました。食べるのはスーパーで買ったパンと安いハム、そして特売の飲料水でした。安い宿でも動かない所でベットで寝る事が出来る幸せを味わいました。バスの発着所は大体どこでもダウンタウン、余り治安は良くなく、黒人とヒスパニックが中心でした。当方もスペイン語を多少話すアジア系、ダブルでマイノリティーという事で周囲に関心を持たれる事は余り無かったように思います。見るもの聞くもの珍しく非常に勉強になった旅でした。

184・米国
初めての米国の印象はどこに行っても余り変化が無いということです。一日バスに乗ってどのような街に着くのか期待しても裏切られる事が多かったのを覚えています。 この中で印象に残ったのはシカゴです。如何にも米国の大都会という感じはニューヨーク市以上かも知れません、古い中心部には古い町並みが残っており、新しいビルと調和しているように見えました。後はアトランタ、南部の片田舎の都市を想像していましたが、綺麗な超近代的な都会と奢侈な住宅街に驚いた記憶があります。その中でもコカコーラの本社ビルが印象的でした。丁度クリスマスの時期でしたので、バスでは「クリスマスはどこで過ごすの?」とよく聞かれました。米国人にとってクリスマスが特別な日であることは分かりますが、これほどまでとは思いませんでした。「一人で」と答えると「まあ、かわいそうに、良かったら我が家に来ても良いわよ」と親切に声を掛けてくれるおばさんも居ました。バスの中では色々な人と隣になりましたが、英語の人とスペイン語の人が半々で、ここまでスペイン系が多いとは知らず驚きでした。クリスマスに近づいて来ますと「どこでクリスマスを過ごすの?」「一人ぼっちのクリスマスでは可哀想ね」などとよく言われました。それまでクリスマスに対しては特に意識していなかったのですが、さずがは米国はクリスチャンの国と感心しました。ただどこでクリスマスを迎えたのかは忘れてしまいました。

185・モントリオール
北米大陸のフランス語世界を知りたいという気持ちがあり、モントリオール市を訪問しました。夕方にニューヨークで夜のバスに乗ると翌朝にはモントリオール市に到着し、ニューヨーク市から非常に近いのには驚きました。モントリオール市は確かにフランス語の世界でした、それも予想以上に徹底しており、道路も看板も日常会話も全てフランス語、英米の雰囲気が異なるのと同様にフランス本国とも違うという印象で、落ち着いた雰囲気の素敵な街でした。フランス語以外は禁止になっているのか、表示はフランス語だけで、これには少々驚きました。ただフランス本国と異なるのは圧倒的な英語世界に囲まれている為でしょうか、実際にはかなり英語が通用しました。経済的な中心がトロントに移りつつあり、斜陽の街になっている印象がありました。

186・トロント
そして次にトロントを訪問しました。モントリオールがフランス語にこだわるので、この街がこの頃には既にカナダ第一の都会となっていました。米国の大都市と比較しますと賑やかさの中にどことなく透明感があるような印象を持ちました。カナダの地図を改めて見ますと、東西が非常に離れている、それに対して、モントリオールとニューヨーク、トロントとバッファロー、デトロイト、そしてバンクーバーとシアトルはそれぞれ非常に近く、多分経済的にも密接な関係であると思います。絶対的な力を有する米国に隣接し、これでよく一つの国家として統一が保たれている、と不思議に感じました。訪問後の事になりますが、ケベックの独立運動がかなり盛り上がりましたが、これはむしろ当然のような気がします、幾つかの国に分かれるか米国に飲み込まれる可能性もあるかも知れません。

187・メキシコ市
メキシコに入り目指したのは中米一の都会、世界でも最も人口が多い都市の一つであるメキシコ市、人口が2千万人にも大都会なのですが、訪問した時の印象は「それほど大きいのかな?」というものでした。市内に聳える44階建てのラテンアメリカタワーに登り市内を見ますと見渡す限り街が続いている様子が分かりました、そして地平線を見ると紫色のスモッグでかすんでいるのがよく分かりました。その色を見て、この空気を吸っている・・少々気持ちが悪くなりました。このメキシコに到着した日は祭日でどこも閉まっていました、主なレストランも営業していなかったのですが、市中心部にある広大なソカロ公園の近くに在る市場に行きますと小さい店が軒を連ねており、その中の一軒で食事をしましたが、これが大変美味しかった。一つ不思議であったのは多くの人が赤いジュースを美味しそうに飲んでいる事で、何かトロピカル・フルーツのジュースだと思い試しに注文してみますと、人参ジュースでした、メキシコの方は人参ジュースが大好物のようです。観光地に余り興味が無いのですが、せっかくメキシコ市までやって来たのでティオティワカンのピラミッドを見物に行きました。頂上に登りますと丁度学校の生徒たちが遠足に来ていて先生の説明を聞いているところで、日本から来たと言うと「日本の歌を歌ってくれ」と依頼され、国歌・君が代を歌って聞かせて上げました。生徒たちはそのお礼にとメキシコ国歌を聞かせてくれました。

188・メキシコ合州国
メキシコ国内を南北に往復しましたので、かなりの地域を実際に見る事が出来ました。大都市も魅力ですが、普通の田舎もなかなか面白い場所でした。南部に行きますと亜熱帯、西部は乾燥地帯で、西部劇に出て来るようなサボテンが在る如何にもメキシコらしい景色でした。ある町でその町の住人たちが集まっている場所がありました。よく注意しますと皆おれぞれ手に鍋みたいなものを持って長い行列を作っていました、これは何だろうと思い、列の先頭を覗いて見ますと、とうもろこしの粉を丸く焼いてトルティージャにしていました。普通の人は粉を持参してトルティージャは専門の店でやってもらう事を知りました。あつあつのトルティージャに肉などを巻いても美味しいですし、揚げて食べるもの味がありますね。一番印象が残っているのは米国との国境を訪問した時です。国境にはメキシコに入る時と出る時の2回の前、米国旅行の途中に長い国境の中間にあるシウダーフアレス(メキシコ)とエルパソ(米国)に行きました。出入国をする為では無く「国境」を見に行ったのです。この時は米国旅行中なのでエルパソから行き、国境となっているリオ・グランデ(大きな河の意味)を歩いて越えてメキシコ側のシウダー・フアレスに入りました。メキシコに入れば発展途上国そのもの、明るく楽しいラテンの雰囲気はありましたが、振り返りますと国境の近くには大きな貧民窟が広がっていました。ラテンアメリカには当たり前のようにどこにでもある景色ですが一つ大きく違うのはその後ろ、高く威圧感のある鉄条網の向こうにエルパソ市の摩天楼が見える事です。この景色には衝撃を受けました。それまで日本で育ち米国的な考え方に慣れていた為でしょうか、米国側の立場から中米を見ていましたが、逆に中米の側から米国というのはこのように見えるのかしばらく眺めていました。不思議な光景を暫く見ていますと何故かうっすらと敵意のようなものすら感じました。この国境を越える為に多くの人が苦労し、不法侵入として命を落とす人も多い事は良く知られています、理不尽な事です。呆然と眺めながら果たして自分はどちら側の人間なのか自問したように思います。そして答えは勿論ラテン側、この時がラテンの世界に住む事を決意した瞬間だと思っています。

189・グアテマラ
豊かな米国から南北の境とされる米墨国境を越え、さらに南下、グアテマラまで行きました。出来るならば南米コロンビアまで行って引き返そうと思っていましたが、中米に入りますと道路等インフラは悪く、バスの運行も少なく米国を旅行するようなペースでは進む事は出来なくなりました。メキシコ国境からグアテマラに入る際には結構尋問が厳しかった記憶があります。ただローカルな国境である為かほとんど通行する人は居なかった記憶があります。後ろから自動車が一台来て英語で話し掛けられました。米国からここまで運転して来たのだそうです。国境検問所で係官に尋ねるのですが全く通じない双方困っていました。簡単な事であれば両方の言っている事は理解出来ますので通訳をしました。今まで双方外国語の仲立ちをした事が無かったのでよく覚えています。グアテマラはメキシコとはまた違う民族色豊かな国でした。ウエウエテナンゴとかケサルテナンゴなどという地名があり、メキシコ国境からグアテマラ市までバスから見る景色はとても新鮮でした。小さい国と思っていましたが、実際には韓国よりも広く、結構風景にもバリエーションがありました。ティカルと呼ばれるマヤ文明の遺跡は特に有名ですが、陸路で行く事が出来ないということで、行く事を断念したのが何よりも残念でした。

190・エル・サルバドル
グアテマラからエル・サルバドルを目指しました。実は丁度この時エル・サルバドルは内戦状態になり、グアテマラ市を出発した日にかなり危険な状態になっていました。国境を閉鎖する処置はまだ取られていないので、平常通りグアテマラ市からエル・サルバドルの首都、サン・サルバドルまで行くことが出来ました。この首都間を結ぶバスは旧式のオンボロバスでとても国際バスには見えませんでした、値段は安く僅かに5ドルでした。サン・サルバドルまでバスで確か7時間くらいかかったと思います。途中の国境はオンボロなのには驚きました。豚が横で遊んでいるそんな場所でした。のどかな国境を越え首都に着いてびっくり、何と戦争をしているのです。銃声が聞こえ、死体もありました。(恐ろしい!)まず街を歩いて聞かれたのは「取材か?」という事です。一般の観光客だと分かると直ぐに引き返せとのアドバイスでしたが、間も無く夜になるので取り敢えず1泊する事にしました。学生の安旅行で余り高いホテルは使用しないようにしていましたが、この時はさすがに国で一番、外国の取材班が陣取っているホテルに泊まりました。そこから一歩も出ないようにしてグアテマラに引き返しました。グアテマラに着いた時にはさすがにほっとした記憶があります。しかしながら戦争の本当の恐怖感を体験出来た事は良かったと思っています、想像するよりもずっと怖いものです。でも首都に着くまではそこまでの状況だという事に気が付かなかったのも事実です。戦争状態になっていたのはどうやら首都の中心部だけだったように思います。その後パラグアイに住んで一度クーデター騒ぎで銃撃戦になりましたが、実際には一つの公園の中だけ、サッカー場の広さの出来事でした。そこだけを映像で見ると騒然としており、大変な事態と思われるのですが、中南米の革命、戦争というのはこのようなものが多いのではないでしょうか?

191・ロス・アンジェルス
行きと帰りにこの街に2回立ち寄りました。その後、日本と中南米を何回も往復し、何時も着陸し寄航していますが、実際に訪問したのはこの時だけです。実際に訪問するまでは東海岸と西海岸の差は全く分からなかったのですが、市街地が広く、どこが中心かよく分からない街でどことなく作られて印象があり、余り好きにはなれませんでした。特にバスのターミナルの在る辺りは市内でも危険な地区なようで何となく胡散臭い雰囲気でした。それでも3日間フリーのバスのチケットを買い街を散策してみました。ハリウッド、ユニバーサルスタジオにも行きましたがそれ程印象には残っていません。機会があったら、学生の視点では無く現在の視点でもう一度この街を見たいと思っています。

192・ディズニーランド
小さい時にテレビで見た憧れの本場ディズニーランドには行ってみました。小さい時に日曜日の8時はディズニーランドという番組を見るのが日課になっていました。子供にとっては不思議な世界で、大人になったら絶対にディズニーラドに行くぞ!と思っていました。ようやく夢がかないロス・アンジェルス郊外アナハイムに行き一日散策した記憶があります。しかしながら遊園地というのは家族・友人や恋人と行ってこそ楽しい場所、一人旅で行ってもさほど楽しいという感じでは無く、そこそこに引き上げました。長年の夢を達成したという満足感だけはあったように思います。その後東京、パリそしてオーランドと計3ヶ所ディズニーランドに行きましたが、やはりこの本場が一番良かったと思います。

193・ハワイ
ロスアンジェルス往復のチケットを買う際に帰途にホノルル、ソウルを経由しても同一料金であると言われていましたので両方の都市に立ち寄る事にしました。ロスアンジェルスで知り合ったカナダに留学して香港に帰るという陳君という青年と親しくなり、二人で行く事にしました。ホノルルに着いたは良いのですが、どこに行くのにもバスでは不自由極まりなく、そこでどうしようかと考えていると、陳君は「僕が運転してあげよう、レンタカーを借りよう」と言うので、彼を信用して、米国での運転経験が無いのでここはカナダで過ごした陳君に任せようと、トヨタ・カローラを一日借りたのです。さて運転する段になりますと陳君、少々怪しいのです。「どうしたの?」と尋ねますと、「実は僕はこの前カナダで免許を取得したばかりで運転したことがないんだ」と言うではありませんか、要するに陳君は全くのペーパードライバーだったのです。これは命に関わる一大事、仕方が無いので自分で運転する事にしました。左ハンドルの自動車は初めてでしたが、幸いハワイはそれほど自動車も多くなく、道路も良く整備されていましたので、快適に運転出来ました。ホノルルの在るオアフ島も結構広いのですが、当時、日本人観光客が居るのはワイキキの近くのほんの一部に限られており、自動車で訪れたごく普通の場所にはまず居ませんでした。日本人は日本語と円が通用し、日本人が集まる場所から出たくは無いのだと変に関心してしまいました。ハワイは想像以上に綺麗でした、まるでブラジルの海岸を見ているような美しい景色に魅了されました、また機会があったら是非訪問してみたいですね。

194・ソウル
ハワイに行った後にソウルに行きました。ソウルは二度目でしたが前回は夏、そしてこの時は厳寒の中、余りの寒さにハワイにもう少し居れば良かったと後悔しました。韓国は九州の隣にあるのでそれほど寒くは無いと想像していましたが、実際には北海道並の寒さでした。道路は完全に凍結し、寒いのを通り越して痛いほどでした。慌てて防寒服を買い込みましたが、なるほどこの寒さでは体を温める為にあの強い焼酎が必要であるとよく理解出来ました。この季節、七輪に肉を載せ食べると最高でしたね。そして「ほや」、大学時代に時々食べましたが、ソウルでは結構一般的な食べ物でした。ソウル郊外に水原という街があり、そこに民族村、要するに歴史を題材としたテーマパークがあるというので出掛けてみました。これは想像以上に楽しめました。聞く所によりますとここで対応してくれる方達は実際にここで暮らしているとの事で生活が実際にそこにあるからなのでしょう。

今までの人生で最長の旅行(卒業旅行:50日)も無事に終わり東京に戻り、大学の卒業式を終え長く楽しい学生時代に別れを告げ、4月いよいよ社会人となり、東京に戻り渋谷に本社がある建設会社の社員として働き始めます。4月 1日ネクタイを締めて入社式に臨みました。今思い返すと学生時代は非常に若く元気があり、時間もあった、夢のような時代ですね。



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