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宇留間(鵜沼)城 / KOJYO
TANBO
宇留間(鵜沼)城を歩くを歩く / URUMA JYO WO ARUKU 〜宇留間(鵜沼)城をぶらりと歩く全く先の見通しのない気ままな旅物語です〜
| 鵜沼城というのは謎に満ちたお城です。 平成の今日においても高いコンクリート塀と有刺鉄線で来る者を阻むほどですから・・・。 まあ鵜沼城にかぎらず何でもそうなんですが、歴史というものは真実と虚構の判別がつかないことが多いのです。 織田信長の東美濃侵攻に関わる事実を伝える資料は本当にわずかしかありません。しかも、それが正しいものなのか何なのかはよくわからないのです。 だいたい戦国時代に関わる内容を今に伝える資料の大半は江戸時代に戦記物として描かれた読み物(言ってみれば現代の歴史小説)であることが多いのです。ですから、当時の作家が伝承をもとに、時の権力者のニーズなどにも応じて物語を描くことも多いわけですから、全くあてになりません。 極端な話、明治以降に書かれた書物が通説になってしまったり、吉川英治の「太閤記」で描かれた内容が現在では信長・秀吉を語るうえでの一般化された歴史的通説になっている感も否めません。 そんな中で比較的一級資料として評価の高いものが信長の家臣であった太田牛一が江戸期に入ってから描いた「信長公記」です。 しかし、これとても、かなり疑問の残る部分も多いですし、東美濃侵攻に関わる記述に関しては、あまり詳しくは描かれていません。とにかくわからないことが多いのです。 そんな中で、信長の東美濃侵攻に関わる内容の一般的な通説になりかかっているのが、「武功夜話」をもとに描かれた遠藤周作の「決戦の時」「男の一生」などの戦国時代物、あるいは津本陽の「下天は夢か」あたりの作品であろうと思います。 なんといっても小説ですから読みやすいです。作家の知名度も抜群ですから、一見そこに書かれてあることが真実のように錯覚してしまいます。まあそこがプロの作家のすごいところなんですが、真実か虚構かということになると問題は別です。 前置きが長くなってしまいましたが、とにかく鵜沼城に関する伝承は謎に満ちています。そこで、ここでは筆者が現時点で知りえた伝承や研究内容をもとに鵜沼城についての裏話をお話しようと思います。 まずは最近の鵜沼城に関する通説を簡単に説明しましょう。 |
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永禄八(1565)年、織田信長配下の木下藤吉郎が大沢治郎左衛門と主水(もんど)親子に対し、調略の手を伸ばします。 それに対し、大沢親子は犬山城、伊木山城、猿啄城など周囲の城が織田方の手に落ちていくのを見て持ちこたえられないことを悟り、親子の助命を条件に木下藤吉郎に降伏を申し入れます。 木下藤吉郎は喜びその条件を受け入れるのですが、信長が治郎左衛門の助命を頑として受け入れません。犬山の織田信清と謀って何度も信長に抵抗しているからです。 しかし生駒八右衛門が信長に諫言し、ようやく信長がこれを了承し、鵜沼城は無血開城。大沢親子は木下藤吉郎預かりとなりました。 まあこんなところが概略でしょうか。 このあたりの背景を遠藤周作あたりが興味深く小説にしているのですが、真実はどうも怪しいようです。 織田信長の東美濃侵攻に詳しい梅田薫氏によりますと、鵜沼城は火をかけられ落城しているらしいのです。 梅田氏は鵜沼在住の方でして、幼少の頃から鵜沼城の落城伝承を聞かされてきたというのです。 ここで述べる内容は梅田氏の著書である「信長犬山美濃を平定」に詳しいので興味のおありの方はこの書を読まれることをお薦めしますが、簡単にその内容について少し触れてみましょう。 |
| 犬山城から眺めた鵜沼城。鵜沼城の主大沢氏は織田信清と手を結び織田方と相対する。城についてもそうだが、大沢氏については、あまりにも謎が多すぎる。 | |
| ◆大沢一族の謎 大沢一族にはわからないことが多過ぎます。 まず、大沢和泉守正信という人物が先ほど述べた大沢治郎左衛門とは別に存在するらしいのですが、この和泉守正信という人物はどうも治郎左衛門の父親らしいのです。 遠藤周作や津本陽などの小説では大沢治郎左衛門と主水(もんど)親子しか登場しません。 しかし、さまざまな資料をあたってみるに、この時代鵜沼城に拠ったと考えられる人物は、 ・大沢和泉守正信 ・大沢和泉守正信の嫡男 ・大沢治郎左衛門 ・大沢主水(もんど) の4人が少なくとも存在するのです。これを血縁関係で見てみると、 ![]() という感じになります。 しかし、あくまでもこれは推測に過ぎません。つまり、さまざまな資料にはこれらの人物は、バラバラに、しかも断片的にしか登場しないのです。それらを梅田氏が整理された結果、以上のような血縁関係が想定されるわけです。 ◆大沢氏の動向 ・永禄五年(1562)八月十五日頃 大沢和泉守正信と嫡男は織田信長支配下の木下藤吉郎に抵抗し内野で討ち死にした。 その際に鵜沼城も火をかけられ落城した。(鵜沼城の落城伝承) しかし、次男の治郎左衛門とその息子・主水は、正信や嫡男とは意見が食い違い、木下藤吉郎に降ろうとする意思があったため、内野の戦いには加わらなかった。 ・その後 治郎左衛門とその息子・主水はなんらかのかたちで再び鵜沼城に拠り、鵜沼城主になった。 ・永禄八年(1565) 治郎左衛門とその息子・主水は織田信長支配下の木下藤吉郎の調略に応じようとしたが、治郎左衛門は特に織田信長の許しをなかなか得られなかった。 以上が永禄年間における大沢氏の大まかな動向になります。 こうやって考えると、木下藤吉郎は最低2度にわたって鵜沼城を攻めたということになります。 1度目の攻城では大沢和泉守正信と嫡男を死に追いやっています。 2度目の攻城では大沢治郎左衛門と主水(もんど)を調略により味方に取り込もうとしています。 なぜ2度も鵜沼城を攻めることになったのかはわかりませんが、断片的に残る資料から判断すると、このように判断せざるを得ないのです。 小説などでは、そこらあたりが簡略化され、描かれているようです。地元に伝わる伝承などは、小説の中にはあまり取り入れずに描かれたのだろうと思います。 ところで、大沢治郎左衛門についてですが、その後、秀吉、秀次に属し2千6百石を有した後、最終的には小田原にある萬松寺に関ヶ原の戦いの翌年から22年間、ここに閑居し76歳で没したと伝えられています(68歳という資料もある)。 主水(もんど)についてですが、これは全くわかっていません。大沢治郎左衛門の息子であろうと思われるのですが、その後の資料が何も残っていません。 梅田氏曰く、「敗者の記録は何も残っていませんわ!」 では次に地元に伝わる鵜沼城に関わる伝承を簡単に紹介しておきます。 |
| ◆鵜沼城の落城伝承 木下藤吉郎は鵜沼城を攻撃するために内野(羽場)に布陣します。 ここは鵜沼古城と別称される場所なんですが、攻撃舞台が終結するには格好の場所です。なぜなら、ここから東側一帯を一望のもとに見渡せる段丘になっているからです。 夜、木下軍は段丘上で足軽に松明を持たせ走り回らせたといいます。鵜沼城からこれを眺めた大沢和泉守正信と嫡男は大軍を目前にしてとても城は支えきれないと判断。内野へ迎撃します。 すると鵜沼城東の清水に潜んでいた木下軍が鵜沼城に駆け上り、城に火を放ちます。それを内野から見た大沢一族は、「もはやこれまで」と内野で自刃して果てたというのです。 また、一説には大沢氏が鵜沼落城に際し、火を放ったともいいます。火が放たれ落城した証拠として、近年まで焼き米が出たというのです。 通説だけでいうと、鵜沼城では多くの血が流れていないように思われていますが、実際には未知の攻防の歴史が秘められているようです。 こうして見てみると、歴史というものには、我々現代人にとって本当に及びもつかないような真実が隠されていることを思い知らされます。 |
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| 羽場の内野にある三つ塚。ここで鵜沼城主、大沢和泉守正信と嫡男は木下藤吉郎に攻められ、この場で自刃し果てたと考えられる。 | |
| 何が真実で何が真実でないのか? しかし、それがわからないからこそ、そして自由に想像できるからこそ興味も湧いてくるのではないでしょうか。 |
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