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高須城 / KOJYO TANBO


高須城を歩く / TAKASU JYO WO ARUKU 〜高須城をぶらりと歩く全く先の見通しのない気ままな旅物語です〜


海津町歴史民俗資料館
海津町歴史民俗資料館。近代的な建物の上にかつての高須城御館を復元した一風変わった建物である。
復元された御館
高須城御館。近くで見るとこのような感じで御館が現代に蘇ってくる。なかなか工夫の凝らされた資料館である。
――高須城。
 あまり聞き慣れないお城ですが、明治維新まで存続した美濃国においても数少ない城郭の一つです。
 石高は三万石。小藩です。
 しかし、家格はすこぶる高い。
 家祖は徳川家康の曽孫にあたる松平義行。徳川御三家を除けば筆頭家門という家柄です。
 そんな藩が美濃国にあった・・・?
 高須藩松平家は、尾張徳川家の分家、支藩というべき存在でした。
 尾張藩主に後継者が絶えた場合、相続人を出す義務を負っているのです。なんと驚くべきことに、尾張62万石の17代の藩主のうち、5代が高須藩松平家の出身だったというのです。
 もっと言うならば、将軍家に後継ぎが無い場合は、御三家のうち、尾張か紀州から入るのですが、尾張に適当な人物がいない場合は、いったんは尾張徳川家に養子に入り、将軍家に入るという形になっていたのです。
 いわば、高須藩は徳川御三家の「人材派遣バンク」のような存在でした。
 そんな無名ながらも超エリート藩でもあった高須藩の居城を訪れることにしました。
 お城のあった場所は、岐阜県海津郡海津町高須町。地味な地域・・・
 「輪中」で有名なところではありますが、はっきりいって”ど田舎”です。
 城址の詳細な位置がわからないので、まずは海津町歴史民俗資料館を訪れます。
 この資料館は近代的な建物の上にかつての高須城御館の一部を復元した一風変わった建物です。
御書院の間
御書院の間。復元された御館内にある。絵図面をもとに忠実に復元された。こんな復元方法もあるのか・・・という感じだ。
旧堀跡
旧堀跡。かつての水堀は、現在高須町内の水路として利用されている。その水路の一部がポケットパークとして整備されている。
高須城城域図
高須城城域図。かつては南北に長い城域であった。
上図をクリックすると拡大図を見ることができます。
 この資料館は大きく、「輪中」「低地の農業」、そして「高須藩」の3つにテーマが絞られていますが、なかなか好感の持てる施設です。
 あたりまえのことですが、資料館の最上階が御館になっており、中には御書院の間や能舞台の間など、様々な座敷が復元展示してあります。
 ありがたいことに地元の方が室内の様子をいろいろ説明してくれます。
 筆者はかつての城域の場所を知りたかったので尋ねてみると、展示品の「高須古絵図」のコピーをもとに細かく説明してくださいました。
 時おり、この資料館が建っている場所が城跡だと勘違いしたまま、帰ってしまわれる方がおられるようですが、城址は全く異なる場所にあります。
 左図でもわかる通り、高須城址は資料館の北西側約1.5kmあたり、大江川の南岸に主郭があります。
 城域はかなり広く、外郭は主郭を北端として、東西約450m、南北約700mにも及んだといいます。遺構は完全に地上全壊しており、かつての面影は全くないということです。
 さて、筆者は教えられた通り、まずは高須小学校を目指します。旧堀跡は、現在高須町内の水路として今も利用されていますが、その水路の一部を利用してポケットパークと呼ばれる小さな公園が整備されています。
 ここには高須城の歴史について簡単な解説が示されていますが、そこには高須城創築当時からの概略も簡単に示されてあります。
 高須城は、もともと大永2年(1522)に大橋源左衛門重一が築城したということになっています。高須という地域は、位置的には美濃国ではありますが、かつて木曽・長良・揖斐の流域は現在のように明確に3本の河川として独立しておらず、網の目状に複雑に入り組んでいました。
 そうした地理的環境からして、尾張国の津島湊近辺の勢力とのつながりが深かったようです。
 津島湊といえば、織田信長の祖父信貞が、湊から得られる税収で莫大な利益を得たりなどしているようですが、息子の大橋重長の代には、信長の父である勝幡城主織田信秀に従い、清須城主の織田彦五郎と領地争いに加わったりしているようです。
 つまり、高須という地域は今でこそ岐阜県に属していますが、かつては完全に尾張圏内であったということがわかります。
 ですから、江戸時代においても高須藩が尾張徳川家の支藩であったというのもうなずけるような気がします。
 さて、話が長くなってしまいましたが、その後、高須城主は何回も替わり、関ヶ原合戦の直前には高木盛廉が城主になります。
ポケットパーク
旧堀跡近くに造られたポケットパーク。高須城の歴史について簡単な解説が示されている。
主水橋
ポケットパークの西側には「主水橋」と呼ばれる赤い橋がある。この橋のたもとには徳永法寿昌の家老の一人稲葉主水の屋敷があったらしい。
主郭跡と大江川
主郭(御館)跡と大江川。大江川越しに高須城主郭跡を北側から望む。正面の白い建物のあたりが主郭北面である。
東側遠方より望んだ主郭
主郭(御館)跡を東側遠方より望む。大江川は主郭跡東側で川幅が狭くなり、南方向に蛇行していく。
 しかし、西軍に味方したため没落。徳永寿昌が5万3千余石で城主となり高須藩が始まりました。
 寛永5年(1628)、子の昌重の代には領地没収。小笠原貞信が城主となりますが、越前勝山城へ転封。以後は幕領となり、後に尾張藩の支藩として、松平氏が城主となりました。
 今でこそ、高須町は岐阜県南部の田園地帯に囲まれた小さな町ではありますが、過去においては様々な歴史があったようです。
 ふと、堀跡の西側を見ると赤い橋が見えます。
「はて? いやに派手な橋だ・・・」
などと思いながら、近づいていくと、途中にまた案内板がありました。
 見ると、「主水橋」(もんどばし)とあります。
 もっともらしい名前です。
 橋そのものは、ただ派手なだけでコンクリートでできた何の変哲もない橋なんですが、徳永法寿昌の家老の一人、稲葉主水の屋敷が橋のたもとにあったとかいうことで、昔からここに架けられた橋は「主水橋」と呼ばれてきているそうです。
 ところで、このコンクリートの橋は何代目の橋なんでしょうねえ?
 さて旧堀跡付近にあるポケットパークや主水橋を撮影した筆者は、他に遺構と呼べるべきものは何も残っていない城址ということもあり、帰宅の途につきました。
 しかし、何か物足りない・・・ 何だろう・・・?
 そうです・・・主郭跡です。
 主郭跡を実際に歩き、大まかな範囲を現地で確認してみないことには、高須城址を歩いたことにはならないような気がだんだんしてきました。ということで、2度目の高須城訪問が決行されました。すでに1度目の訪問以来、1年近く経っています。
 今度の訪問は高須城の城域がはっきりとわかっているので、主郭跡の位置をしっかりと確認し、ピンポイントで訪問することにしました。
 主郭跡は、「高須古絵図」では「御館」と記されていますが、それによると、蛇行して流れる大江川の南岸に突き出るような感じで位置しています。
 筆者は大江川の堤防沿いにクルマを止め、大江川越しに主郭跡を眺めます。悲しいことに、主郭跡は流通センターの敷地が大半を占め、大きな白い建物が建っているだけです。
 しかし、大江川の流れはかつての流れとは大きく異なっていないということもあり、白い建物の変わりに海津町歴史民俗資料館にある復元御館の映像を頭の中で想起し、目の前の風景に合成すれば、旧高須藩時代の面影が少しだけ蘇ってくるような気がします。
 この大江川越しに見る主郭跡の光景が高須城址のハイライトのように筆者には思えますが、いかがでしょうか?
 ちっぽけなポケットパークでは少し物足りないような気がします。
一同に会した兄弟
一同に会した兄弟。右から徳川慶勝(尾張藩主)、次兄松平義比(高須藩主)、松平容保、弟松平定敬(桑名藩主)の順に並ぶ。
 ところで、最後になりましたが、この高須藩からは、幕末において、かなり著名な人物を輩出しています。
 松平容保です。
 容保といえば、佐幕派の最後の牙城として、薩長を中心とする官軍に最後まで抵抗した会津藩の藩主です。容保はもちろん高須藩江戸屋敷住まいですから、高須の地で生活したことはありません。しかし、美濃国のはずれにあるちっぽけな高須藩が松平容保の出身藩であった、などと考えてみるとちょっとだけ誇らしい気分に浸ってしまいます。
 他にも、幕末において高須藩からは、尾張藩主徳川慶勝、桑名藩主松平定敬らが出ています。なかなかそうそうたる顔ぶれです。慶勝が長男、高須藩主になった義比が二男、容保が三男、定敬が四男です。
 高須藩。
 無名であり、ちっぽけながらも幕末という激動の時代において、十分に異彩を放つ存在であったようです。