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墨俣城 / KOJYO TANBO


墨俣城を歩く / SUNOMATA JYO WO ARUKU 〜墨俣城をぶらりと歩く全く先の見通しのない気ままな旅物語です〜


 墨俣城を訪れました。
 この城は「墨俣一夜城」などと呼ばれたりして全国的にも大変有名なお城です。
 しかし、この墨俣城ほど存在価値の危ういお城も珍しいでしょう。というのも、墨俣城は現実には存在しなかったという説もあるのです。
 そんな微妙な立場に立たされたお城の真実に少しでも迫ろう(大袈裟か!)という思いで筆者は墨俣城を訪れました。
 訪れてみればわかるのですが、ここには大変立派な天守が建っています。天守というと語弊があります。歴史資料館といった方がよいかもしれません。
 かなり前のことになりますが、竹下内閣の頃に「ふるさと創生資金」なるものがあって全国の自治体にお金がバラ撒かれたことがありました。その時、墨俣町では、この歴史資料館建設費用の一部として「ふるさと創生資金」の1億円を使ったのです。そのため、竹下登氏はこの城の名誉城主になっています。
 歴史の情景をぶち壊してしまうようなお話になってしまいましたが、この墨俣城には筆者にとって納得できかねる事実が山積しているのです。
 まずはこの天守。墨俣城は戦国時代のみに存在したといわれるお城ですから白亜の天守はなかったはずです。しかし、なぜか大垣城そっくりの天守が建っています。
 これは誤った歴史観を知らない人に植え付けさせてしまう恐れがありますから、あまり感心できることとは思えないのですが・・・。
墨俣城天守入り口および石垣
墨俣城天守入り口および石垣。これほどうすっぺらに感じる石垣も珍しい。
長良川下流方向を望む
展望台から長良川下流方向を望む。犀川との合流点に巨大な水門も見える。
長良川上流方向を望む
展望台から長良川上流方向を望む。遠くにうっすらとかすんで見える一番高い山は稲葉山城(岐阜城)である。
 さて筆者は天守内部に入ります。内部は歴史資料館ですから、墨俣城に関わる歴史や輪中の歴史など郷土にまつわる内容が展示されています。最上階は展望室になっており、清流長良川の流れを眼下に見下ろすことができます。
 このあたりは長良川と犀川が合流する三角地帯にあります。しかも江戸時代には輪中と呼ばれる堤防に囲まれた村落が入り乱れており、かつては洪水の絶えない場所でした。
 ですから城址周辺は頑丈な堤防や水門などの治水施設が建設されており、お城の遺構などとは全く無縁の場所です。
 展望台から長良川の下流方向を眺めます。犀川との合流点には巨大な水門が見えます。長良川の上流方向には、遠くにうっすらと稲葉山城(岐阜城)がかすんで見えます。
 通説では永禄9年(1566)9月に秀吉が墨俣城を築き、この城を橋頭堡として稲葉山城を攻略したことになっています。
 しかし、どうも現実はそうとも言い切れないようです。
 信長の時歴に関して最も信頼できる資料と考えられる太田牛一の『信長公記』には、このような記述は一切なく、
 「洲俣御要害丈夫に仰付けられ、御居陣候」
 「洲俣御引払いなされ」
などといった文言が日付とともに記述されているにすぎません。年記に関しての記述もないようです。ましてや秀吉などといった名前など一切出てきません。
 藤本正行氏は『信長の戦国軍事学 戦術家・織田信長の実像』の中で大変興味深いことを述べられています。
 
「永禄9年(1566)9月に秀吉が墨俣城を築いたという史実は明治期に完成された」
というのです。
 史実ができあがるまでの流れを簡単に触れてみましょう。

 
小瀬甫庵という人物がいます。『太閤記』の著者として有名です。
 甫庵はまず太田牛一の
『信長公記』を下敷きに『甫庵信長記』を執筆します。この書は全体の分量が『信長公記』の数倍に達するといいます。
長良川の堤防と水門
出世橋から長良川の堤防と水門を眺める。お城よりもこの堤防を中心とする巨大な水門などの治水施設の迫力に感心した。
 この改変では、
 
「信長の墨俣築城は永禄5年5月のこと」
とされました。
 その後、甫庵は
『太閤記』を執筆します。
 ここで甫庵は、
 
「永禄9年(1566)9月に信長が美濃のどこかに城を築き秀吉を城主にした」
という話を載せます。
 ところが江戸中期の貞享2年(1685)頃に、
遠山信春という人が『総見記』を執筆した際、『信長公記』・『甫庵信長記』などの記事を混ぜ合わせたため、
 「永禄5年5月に、信長が墨俣に築城して秀吉を城主にした」
という話に発展します。
 さらに江戸後期に
竹内鶴斎という作家が甫庵の『太閤記』をおもな典拠として『絵本太閤記』を執筆した際、従来は単なる城主に過ぎなかった秀吉を墨俣の築城者として話の中心に据え、佐久間・柴田の2人の重臣を引き立て役に配したわけです。しかも秀吉が奇計をもって一夜で城を築いたように見せかけるという筋立てにしたため、以後墨俣城は一夜城と呼ばれるようになります。
 この話は、
栗原柳庵が編纂した『真書太閤記』に再録されたため、さらに有名になり、そのまま史実として明治の史学界に引き継がれたというのです。
 したがって明治の中期までは、
 
「秀吉の墨俣築城は永禄5年である」
ということになっていました。
 しかし、高名な歴史家であった
渡辺世祐氏が明治40年(1907)に著した『安土桃山時代史』の中で、「今太閤記、秀吉譜に考へ墨股築砦を永禄9年9月となし在来の諸説を排せり」としました。
 このようにして、
 「秀吉の墨俣築城は禄9年(1566)9月である」
という通説が完成したわけです。
 この藤本正行氏の説にも様々な異論はあるのでしょうが、なかなかに説得力のある説でしたので、ここに簡単にまとめてみました。
 歴史というものは往々にしてこのような史実の捻じ曲げが起こり得ることがありますが、大切なことは様々に存在する説に耳を傾ける心のゆとりみたいなものが必要なのかなあということです。
 墨俣城の歴史博物館には、『木下藤吉郎 墨俣築城への道』・『墨俣一夜城 築城資料』といった本が販売されているのですが、これは『前野家文書・武功夜話』を根本資料として編集されたものです。
 この説で見てみると、墨俣城は永禄3年から5年にかけて、佐々成政と佐々に従った前野党が砦を築き、そののち、永禄9年9月に秀吉が再構築したということになっています。
 この説に対しても藤本正行氏はいくつかの根拠を挙げながら矛盾点を指摘しておられますが、果たして真実はいかに・・・。
 筆者にはわかりません。