■HOME

堂洞城攻略の歴史を探る / KOJYO TANBO


信長の東美濃侵攻を解き明かす文献
 織田信長の東美濃侵攻に関しては、いくつかの文献がそれを明らかにしてくれますが、どこまで信用してよいものかは全くわかりません。
 とはいえ現時点では、

 「信長公記」 「前野家文書・武功夜話」 「南北山城軍記」 「堂洞軍記」

の4つの文献から、この時代の歴史的背景について知り得ることができます。
 しかし、これらの文献はいずれも江戸時代に書かれたものです。またそれぞれの内容もまちまちですので、何が本当なのかは皆目見当がつきません。
 これら4つの文献の中でも、堂洞城攻略に関わる記述が最も詳細に記されているのが「南北山城軍記」、比較的さらりと流してあるのが「前野家文書・武功夜話」です。
 梅田薫氏が、氏の著書「信長犬山美濃を平定」の中で、このあたりの歴史的背景について、これらの資料を駆使しながら、かなり深く解き明かしておられます。
 ここでは梅田氏の解釈をもとに、筆者なりにその文献の特徴的な内容に関わることを「南北山城軍記」における記述を中心に、必要に応じて他の文献の記述も織り交ぜながらまとめてみました。したがって文献に記述してある内容とは多少異なる部分がいくつかあります。(つまりわかりやすく簡略化してある)。
 梅田氏は文献から読み取れることのみを書いておられます。よって氏の主観はほとんど入っていないので、それをどう受け取るかは読み手の判断に任される部分が大きいです。


堂洞城の攻略(「南北山城軍記」を中心に)
永禄八年(1565)頃の中濃諸城
永禄八年(1565)頃の中濃諸城(梅田薫氏による「永禄八年(一五六五)頃の中濃諸城」をもとに作成)

 1565年(永禄8年)春から初夏の頃。(信長公記)

 信長は美濃攻略の鍵は東美濃を掌中に収めることであると睨みます。
 犬山の織田信清を攻略した後、伊木山城、猿啄城、鵜沼城を次々に攻略し、次なる目標を現在の岐阜県加茂郡富加町にある加治田城に目をつけます。
 加治田城主は佐藤紀伊守忠能。
佐藤紀伊守は斎藤方に属する土豪ですが、近くの犬山城・猿啄城が信長の手に落ちたのを知り、

 鵜沼の大沢氏の家臣を通じ丹羽長秀に「上総介信長公に一切おまかせする」と申し出ます。(信長公記)

 一方、加治田城の南東に川浦川をはさんで堂洞城というこれまた斎藤方の城があります。
 堂洞城の城主は岸勘解由信周。
 岸勘解由信周は関城主の長井隼人佐と軍議をする中で加治田城主の佐藤紀伊守忠能の本心をただすべきだということになりました。
 長井隼人佐は斎藤方では名の知れた勇将です。

 さて堂洞城に呼ばれた佐藤紀伊守忠能は、
 「異心はない。その証として、娘を預ける。後々、ご子息の孫四郎信氏の嫁にすれば両家とも安泰である」
と伝えます。

 1565年(永禄8年)乙丑8月。
 織田信長は数千の将兵を率いて、尾張北部の犬山から美濃へ進出し。伊木山城に本陣をおき、金森長近を堂洞城へ使いに送り降伏の勧告をします。
 これに対し岸勘解由信周と孫四郎信氏は、関城主、長井隼人佐に対する節を重んじました。
 「信長公に対して敵意があるわけではないが、長井隼人佐と誓い合った上は信長公の大軍を引き受け自殺するしか道はない。生き残って栄えようとは思わない。兼ねてからの覚悟を使者にお目にかけよう」
と言って、孫四郎は7歳と5歳の幼児を金森長近の目の前で殺害しました。
 これを見た乳母は驚き悲しみ、3つになる若君を抱いて、いずこともなく立ち去りました。
 しかし、佐藤紀伊守忠能は約束を守らず、信長に内通し、堂洞城を攻撃してくるという情報が入ります。
 これを聞いた岸勘解由信周は大変怒り、先に人質として預かっていた佐藤紀伊守忠能の娘を刺し殺し、竹に刺して長尾の丸山に立てます。
 その夜、佐藤家の家臣がひそかに死骸を運び出し加治田の竜福寺に葬ります。

 8月28日。
 織田勢は蜂屋の夕田に到着。信長は本陣を高畑山(エビ山)に置きました。
 佐藤紀伊守忠能は嫡男・右近右衛門尉らとともに950の兵を従え、堂洞城へ向かいます。さらに信長より約1000人ほどの加勢を受け布陣しました。
 岸勘解由信周は必死に防戦。織田軍の戦死者もかなりの数にのぼりました。
しかし、織田方の攻撃軍の数は非常に多く、しだいに岸軍は劣勢に立たされます。岸孫四郎信氏は何度も戦いを重ねて疲労困憊しており、兵員の数も減ってきました。30余人の兵とともに最後の奮戦をしますが、ついに主従6騎となったところで、切腹して果てました。

堂洞城本丸跡
堂洞城本丸跡。この場で岸一族は壮絶な最後を遂げたのであろうか。

 岸勘解由信周も朝から18回も戦い、一歩も引かず奮戦しますがやはり兵の数が減ってきました。
 そして息子の死を知った岸勘解由信周は妻ともども最後に残った54人で奮戦。13人も討ち取りましたが城に引き返し切腹します。城は火を放たれ折からの風にあおられ黒煙に包まれました。

 岸勘解由信周とその妻の辞世の句が残されています。

先立つも しばし残るも 同じ道と思へば
晴るる夕暮の雲 (妻)
まてしばし 敵の浪風 切りはらい 
但に至らむ 極楽の岸 (岸信周)

 戦国の世の無残さが偲ばれる句です。

 長井隼人は兵を率いて堂洞城の後方、25町ほどの山下まで進出しましたが、攻撃できませんでした。この夜、信長は佐藤右近右衛門尉のところで一夜を明かします。(信長公記)



■BACK (KAJITA)              ■BACK (DOUBORA) ■BACK (SEKI)