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土田城 / KOJYO TANBO


土田城を歩く / DOTA JYO WO ARUKU 〜土田城をぶらりと歩く全く先の見通しのない気ままな旅物語です〜


 土田城を訪れました。
可児市東部の郊外、国道41号下を走る脇道沿いにあります。土田古城山の北側の山麓には可児川が流れ、日本ラインで有名な木曽川に注ぎこんでいます。
 まずは土田古城山全景を北側より眺めてみましょう。古城山の中で最も高い第一峰は標高172メートル。決して高い山ではありません。
 しかし、山麓を流れる可児川の急流はV字谷状になり、急峻な山肌とあいまって、天然の要害となっています。古城山で最も高いところは第一峰といわれ、本丸跡があります。右側に一段下がったところには北曲輪があるらしいです。
 本丸跡左側の少し下がったところには堀切跡、その左側のピークは古城山の第二峰、あいだに大手址をはさんで中央が第三峰、左側に高く見えるピークは第四峰で、金子山出丸とよばれています。
土田古城山全景
土田古城山全景を北側より眺める。右側の最も高いところは第一峰といわれ、本丸跡がある。右側に一段下がったところに北曲輪がある。本丸跡左側の少し下がったところに堀切跡、その左側のピークは古城山の第二峰、あいだに大手址をはさんで中央が第三峰、左側に高く見えるピークは第四峰で、金子山出丸とよばれる。
案内板と石碑 大手道への登り口  筆者はまず古城山北側山麓にある案内板を訪れました。
 などと簡単に書いてありますが、じつはこの場所を探すのが大変で、土田古城山の南側山麓にある名城大学都市情報学部付近から国道41号線下の脇道をゆっくりと徐行しながら、やっとのことで見つけました。
 ちょうど鳩吹山の登山口とは反対側にあたり、駐車場付近には登山服で身を固めたハイカーがちらほら歩いていました。
 ふと足元へ目を見やると「左 東山道」という石碑が立っています。
 「古城山めぐり」という赤い矢印に従って山麓を東方向に向かって歩きます。
 可児川からは激しい渓流の水音が聞こえ、いかにも旧東山道という雰囲気が漂っています。
 しばらく歩くと「古城山めぐり遊歩道略図」という案内板がありました。
 まっすぐ進むと、「金子丸遊歩道」、右へ折れて山を登ると、「大手遊歩道」ということになっています。
 迷わず「大手遊歩道」へと足を運びます。
 可児川の激流がものすごい音を立てています。少し上流へ遡るとおだやかな流れの可児川もこの一角だけは、全く別の表情を見せます。自然の脅威というべきか・・・。
 さて、登り始めてしばらくは快適な道が続きます。しかし、しだいに斜面が急になり、進行方向の左側はちょっとした崖っぷちのような感を呈し始めます。
 予想外の展開に、高所恐怖症の筆者は一瞬たじろぎます。
土田城跡を示す案内板と石碑。左端に見えるかなり小さめの石碑には「左 東山道」と記されてあった。 大手道への登り口。右の斜面を登ると大手道、左へ真っ直ぐ進むと金子丸へとつながっている。
途中で道が・・・ 登山用鎖
山麓の案内図に従って大手道を登り始めたが、途中で道がなくなってしまった。無理に進めば崖から転落しそうで怖い。 登山用鎖。山麓の案内図から判断するとちょうどこのあたりは堀切跡である。ふと見ると登山用の鎖があった。
「樹木が覆い茂っているから、落っこちてもたかかしれている」
などと無理やり自らを鼓舞します。
 ところが、急に前方の道が無くなってしまいました。樹木の覆い茂った崖が下に落ちているだけです。
 「?????」
 「どうしたものか?」
などと自問自答していると、ふと足元を見ると、なんと鎖があるではありませんか!
「遊歩道」という言葉は土田城にはあてはまらないようです。今回は、
 「登山である!」
と気を引き締め直して、鎖に手をやります。
 「リュックを持ってくるべきだった!」
などと後悔しますが、あとの祭りです。
金子丸方面へ通じる道 可児川の渓谷
金子丸方面へ通じる道。これが旧東山道か?写真では伝わらないが、この断崖絶壁は恐ろしい。 断崖上から谷底の可児川の渓谷を見る。水流の激しい音が聞こえる。これは恐ろしい。
可児川  とにかく頑張って登ります。
 ところが、この崖は意外のほか長いんです。なかなか終わりそうにありません。登りはよいのですが、帰りをどうするか・・・?
 一番気になるのがデジカメです。こんな斜面でデジカメを落してしまっては、大変なことです。様々に考えた挙句、今回は登城を断念することにしました。無理は禁物。これは英断であると自分に言い聞かせ、慎重に今来た道を降りることにしました。
 せっかくなので、「金子丸遊歩道」を歩いてみました。
 これが旧東山道なのでしょうか?頭の上から覆い被さるような岩肌の下を恐る恐る歩きます。断崖上から谷底の可児川の渓谷を見ると、吸い込まれそうな気持ちになります。水流の激しい音が聞こえてきます。これは恐ろしいです。
 しばらく歩きましたが、時計に目をやると午後4時を過ぎています。日が暮れて帰りに谷底に落ちたら大変です。
 ここも結局途中で引き返すことになりました。どうも筆者は軟弱なようです。
 帰り際に、車で土田城東側に廻り、そこにかかる橋から可児川を眺めました。
 ここから眺めると穏やかな渓谷です。
 正面には鳩吹山が見えます。登山者には人気のコースです。
土田城東側にかかる橋から可児川を眺める。正面には鳩吹山が見える。登山者には人気のコースだ。
 ここで、土田城の歴史的背景について触れてみたいと思います。
 通説では、土田城は文明年間(1469〜1486)に土田秀久が築いたといわれています。織田信秀の正室として、そして信長の生母としても有名な土田御前(どたごぜん)の出生した城として知られています。
 土田氏は宇田天皇を祖とする佐々木定綱から山内信詮らを経るなど、一見名門の出であるようにも見えますが、これは話半分にしておいた方がよいでしょう。あてになりません。
 尾張・美濃国の中世史に詳しい横山住雄氏によれば、土田氏は、尾張国清洲の土田を根拠地にする土豪であるというのです。そして、土田のことを「どた」ではなく、「つちだ」であると主張されています。但し、可児市の土田城は「どた」と読みます。
 横山氏は、江戸時代などに書かれた信頼のおけない史書や伝承には頼らず、古文書のほか、金石文・禅僧の語録などを駆使して検証しておられるので、かなり真実に近いものであろうと筆者は思います。
 その後、土田秀久、政久と続いたのち、政久の二男甚助は、尾張国丹羽郡の小折城の生駒氏に養子となり、生駒親重と改めました。信長の側室で嫡男信忠を産んだ吉乃の生家である生駒家です。その後、親重は信長の東美濃侵攻に伴い、土田城へと移ります。
 土田秀久の母は、山名宗全の女といわれ、秀久からは明智氏に仕えたといいますが、これはたぶん誤伝であるか作為的な出自の詐称でしょう。だいたい明智氏自体が本来どこを拠点として活躍していたかもよくわからないのです。明智光秀の出自がわからないのもそのためです。美濃国出身という保証もないのです。
 やはり、土田氏は尾張清洲の「つちだ」なのです。
 通説では、弘治2年(1556)、土田甚助の二男の源太夫は、明智長山城において明智兵庫頭光安入道宗宿とともに討死し、三男の三郎は天正10年(1582)6月、坂本城にて討死したといいます。これも信頼のおける資料に拠る事実ではありません。三郎の死はともかく、源太夫の死は明智長山城での合戦によることからして胡散臭いといえます。
 元亀元年(1570)、生駒親重の死の後は、土田城主は親正となり、信長に仕えます。しかし、永禄8年(1565)に金山城へ森氏が入城した後の天正2年(1574)には土田城を退去しました。
 親正は、信長・秀吉に仕えて各戦に戦功を重ね、天正15年(1587)には、讃岐国17万6千石を拝領し、丸亀城や高松城を築きました。
 このようにしてみてみると、わからないことや不確かな部分が多い土田氏ではありますが、土田氏の本流は、途中で生駒氏に成り代わり、時代の流れにうまく乗っかって徳川時代まで生き延び、大封を得ていることがわかります。
 ここまでの流れをさらりと読み流してしまうと、「へえー、そうなのかあ・・・」で終わってしまいます。しかし、注意深く土田氏の動向を探ってみると、あることに気づくのです。
 ――土田政久の陰謀。
 ここで、土田氏周辺の系図をご覧ください。注意して見てみると、土田氏が、たとえは悪いですが寄生虫のように生駒氏に棲みついてしまったことがわかるのです。さらに言うならば、織田氏も危うい状況に陥ったのではないか・・・と考えられなくもないのです。
丸亀城
丸亀城(香川県丸亀市)。土田生駒氏は織田氏との微妙な関係を保ちつつ、時代の流れに乗りながら、讃岐国17万6千石の大封を獲得した。
 さて、話が複雑になってきたので、参考までに土田氏周辺の系図を掲載してみました。

注:系図というものは、必ずしも正しいものとは言い切れません。この系図においても筆者の知りうる範囲内でまとめたものです。見解の相違や、場合によっては、誤りが存在する可能性もあることをご承知おきください。

 さきにも述べた通り、生駒氏というのは、尾張国丹羽郡の小折城に拠点を構える土豪です。もともと生駒氏は藤原氏の後裔で、為義の時初めて生駒姓を名乗ったようです。
 ところが・・・、
 生駒家広の嫡子の豊政には家宗という後継ぎ候補がいるにもかかわらず、なぜか土田政久の息子である甚助が養子に迎えられて、親重と名乗り生駒家を継いでしまいます。
 しかし・・・、なぜ生駒氏は、れっきとした嫡子が存在するのに、土田氏から養子を迎えなければならないのでしょうか?
 ここに、土田政久の陰謀説が出てくるのです。
 この陰謀説は筆者の勝手な推測ではありますが、土田氏による生駒氏の「乗っ取り」が行われたのではないでしょうか。
 どのように・・・?ということになると、明確なことは言えませんが、甚助という自分の息子を生駒氏の後継者にしてしまっていることは、厳然たる事実なのです。
 土田政久という人物は、これまで、歴史書の中で通りすがり程度に登場する人物ではあっても、歴史の表舞台にはまったく登場することのない人物でした。今もそうです。
 しかし、筆者が考えるに、土田政久は相当な権謀術数に長けた策略家であったとしか思えないのです。
 土田政久には娘もありました。その娘は織田信秀に嫁ぎ、信長を生んでいます。土田御前として知られる人物です。
 さらに言及するならば、土田政久は織田氏の乗っ取りも考えていた・・・と考えられなくもないのです。
 なぜなら・・・、
 土田政久は織田氏の外戚として、当然発言権もあるはずです。そんな状況下において、織田信秀亡き後に、よくいわれるところの信長の暗殺と信行擁立の計画が行われた可能性はあると思います。
 政久にしてみれば、信長であろうが、信行であろうが、どちらでもよかったのでしょう。とにかく、織田氏に内紛が起きるよう様々に画策したに違いありません。
 政久の娘である土田御前は、末森城に信行とともに住んでいますから、信行の家臣である柴田勝家らを炊きつけて、信行擁立のための動きを作ることなど、それほど難しいことではなかったのではないかと思います。
 しかし、弘治2年(1556)、信長は、稲生原において柴田勝家と林秀貞・美作守兄弟の軍勢と合戦におよび、これを打ち破ってしまいます。
 このあたりから、政久は信長の力量を認めるようになったのかもしれません。信長は生駒氏のようにはいかない・・・
 結局、政久は信行を捨て去ることにします。この思いは、柴田勝家にしても同様だったのかもしれません。
 永禄元年(1558)、信広は仮病を装う信長を見舞いに行くよう土田氏から勧められ、清洲城に出向き、そこで殺害されてしまいます。
 よく土田御前は、信長を疎んじ、信行を可愛がる余り謀反に及んだなどという俗説がありますが、土田政久の野望と絡めて考えてみれば、この俗説は明らかに誤りであることがわかります。
 土田御前は、よく悪女の典型のように描かれることが多いようです。しかし、事実は土田氏と織田氏の狭間に立って、女性として、母親として心痛める日々が続いたと考える方が自然ではないでしょうか?
小折城
小折城(愛知県江南市)は生駒氏が拠点とした城である。現在、城跡はは保育園の敷地になっている。土田氏はこの生駒氏と深い関係を築き、地歩を固めたうえで、大大名への道を歩んだ。
 自らのお腹を痛めて産んだ我が子が憎かろうはずがありません。
 そんなことを考えているうちに、未だ土田城の古城山に登りきれていないことを思い出しました。筆者は再び土田城を訪れてみることにしました。今度こそ山頂を目指します。



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