the nights with us

とうとう、オフコースは解散してしまうようだ、
「バンドというものは、必ず解散する宿命をもつ」

1970年に誕生し1989年までおよそ、20年近く小田さんを中心として行動してきた。思えば長い、その間にメンバーはかわり、やっさんの脱退で休息し
最期のチカラを振りしばり、可能なかぎり、活動した、(ようだ)
ぼくは、就職して広島にいたが、まったく、解散をしらなかった。
オフコースの歌も聞くことがなくなっていた、個人的に言うと
いつまでも中学生のときの音楽を引きずるのは、気分的な成長もないし、
ないしろ、仕事をこなすことと、恋愛などで、オフコースはどうのこうの
というのがなかった、今思えば、仕方ないし、悔やまれる、
昭和の時代が終ろうとしているときにオフコースもおわった、
東京ドーム1989年2月26日。
その前のとしにファンクラブの会報で解散を発表、
ぼくは、最近になって、 Off Course 1969-1989 〜Digital dictionary〜

でその様子を少し感じ取れるようになった。小田さんも泣いていた。
当時の様子のことを清水仁さんはABCのサイトで少し語っている。
解散のときには、テレビカメラを入れないという約束、
その約束は見事に破られた、オフコースでがんばり、オフコースであった彼ら
オフコースの最期を見たくないというのはわかる、それほど好きだったから。
それほどいろんなことが詰まったいるから。   ABC清水仁さんの話
彼ら4人オフコースは、まだ、まだ、といいながら、やり続けた。
あの、デジタル・・の最期の彼らの顔の表情。「たまらない、寂しい顔」と
「やりとげた、」という小田さんの顔、実に対照的。
彼ら3人が、たとえば松尾さんは、ジャネットが売れなくて、東芝EMIのレコードの配送センターでバイトして食いつないでいた。7万のバイト代で、小田さんが引っ張りバイト代よりもだすよ、好きな音楽もできるし。。。本当に彼らは謙虚で純粋である。清水仁さんが小田さんに、ロックの大きなシャウトを教えた。
それがのちの 「ラブスト・・」で大いに生かされる。
彼らじゃなきゃ。だめだったのだオフコースは、

Still a long way to go

この歌は心に染みる。

小田さんが鈴木さん地主さんと
プロデビューを決めた日。

「海原はるかに、胸躍らせて・・」

わくわくしていたんだろう。好きな道、好きな音楽の道で生きてゆくこと。

「 旅立ったあの日がまるで昨日のよう・・・」

オフコースは、実に忙しかった。彼らはよく働いた、自分たちで歌を作り編曲をし自分たちでコンサートをし、それも全国津々浦々、LPが出るたびに、
あんなに精力的にレコードを出し、コンサートをし、できないことだ。

「思えば何度もつまづきかけて、そのたびにあのこころを遠く思い出していた。」
メンバーが辞めて。歌が思いどうりにいけなくて、また、うれなくくて。
やっさんがぬけて。。。いろんなことがあったんだろう、僕らの知らないことも
たくさんあったんだと思う。

 「いつかまた、君ともどこかで会えるね、流されていても忘れていないから・・」

たくさんのひとびとが、オフコースを支えた、応援した、好きになった。
時代の波に流されて、僕らは何とか生きている。あれからもう17年か、

「終ることなく繰り返される出会い、と別れ、
一度だけのこの人生、心にのこる人たち・・」


今になって、なぜか、オフコースが、恋しく思う、。そして、あの時の解散の
東京ドームでの雰囲気が、今感じる。
「 終った 」という気持ち。
「 やり遂げた」という気持ちかな小田さんには
「 これから先のこと 」 不安もあったろう。
「 オフコース 」を最期まで見届けた人々は、ほんとすごいよ。

何で、今ごろになって、オフコースを聞きたくなったのか自問自答する。
毎日聞いても、飽きることなく心地よく聴ける音楽。

心から、ありがとう、そういいたい。
僕らの音楽はずっと、オフコースである。


、。

小田さんは再結成をしないという。A、
ファンもそうだ、やっさんはどうだろうか?
小田さんはポリシーが固い、頑固そうである。
チューリップやアリスは何回もやってる、なぜだ?
かぐや姫も紅白で結成した、そういや、小田さんは紅白は嫌い。
ぼくは、失われたものがあまりにも多すぎて
気持ちも整理して、いまがあるのに、過去をしたくないとおもう、
でも、振り返ることぐらいいいだろう、
同窓会でいいのだよ、小田さん、鈴木さん、
DVD発売、できぬものだろうか、

Still a long way to go