上の画像はパンフレットからおかりしています。
区画の南端からでてきた土器などのようです。
素人考えででありますが、
なぜ、溝の中に土器の破片をいれるのか・。単なるごみ捨て場なのか、
そうとなれば、溝はあふれてしまい、水は流れなくなります。溝は雨などの水を流すためにあるのですから、
水が流れるためにおいたのかもしれません。

祇園遺跡見学会2011-11-3

2011年11月3日文化の日に、神戸市教育委員会の文化財課様が遺跡見学会を
開いてくださりましたので、参加しました・・。

当時は休日のこともあり、相当な人々が参加されており、
行列が商店街のほうまで並んでいました、前日の神戸新聞にでかい記事で載っていたこともあり
遠方のほうからもこられていました。
横のおじさんは「たつのから来た・・」
といっていました。
さすが、平家のファンはたくさんいます。

当日の説明会にて
模造の丸いものは
その柱をイメージされたものです。建物としては
それほど大きなものでもない
ということです、
二メートルのほどの地下に
福原の都が埋まっているなどロマンあふれることです。
奢れる平家久しからず、
平家の栄光と滅亡は
短期間でありました。
一人の兵士であった清盛が太政大臣まで上り詰めたのはひとつは天皇の隠し子であったということもあります。それにもまして、親の代からあった、日宋貿易でかなりの利潤を上げていた才覚でもあります。
神戸の港がすぐれているという
ことを見出し、開港した業績はおおきく、この遺跡もそれに絡んでいるのです。
だいたい、遺跡というのは土の中に眠っている。
しかし、今回説明のあった。平安後期のこの遺跡と
奥にある、弥生時代の竪穴遺跡が、同じような地層から発見されているのが
とても変に感じる。
弥生時代というと、紀元前10世紀ころから、3世紀のころまで、稲作を中心とした
定住集団生活があった時代であり、
平安後期のこの遺跡は840年ほどまえの10世紀であり、
その差の年代であるならば同地層からでるのはなぜだろうか、
この遺跡の上にあった土砂は、天王川からでる土砂であったとおもうのだが、
大規模な土砂崩れがあったのか、もしくは1596年の大地震の影響だろうか、
不思議である。
当日」配布されたものをお借りしています。
遺跡の見取り図です。
上が北方向、道路方向になります。
三つの建物の「穴」から推定建物を
あらわしています。
調査概要文面からだと、
弥生時代中後期の竪穴建物、
それとは別に平安時代後期の堀立柱建物の遺構。それに伴う井戸、溝などが発見され、その溝井戸からの出土品目の
皿などから年代を特定されたようです。

よく、遺跡などでは「礎石」などが見られるのですが、平安時代の建物は
柱を直接地面に埋め込む構造であったようです、 

注釈(ウィキデイアより)
日本民族の保守性と木材資源の豊かさ - 寺院などの公共的な建築には中国大陸伝来の立派で華やかな礎石建物を採用する一方、日常生活の場である住居には大陸様式ではなく、弥生時代以来の伝統的な生活スタイルを保つために、伝統的で簡素な形式の掘立柱建物を採用した。掘立柱建物の場合は災害によって倒壊しても、上記のような利点や木材調達の面から再建が礎石建物に比べてはるかに容易であったものと理解される。

記事をみたとき、
清盛の邸宅か!
と思いきや、当日の話では有力者の人の
邸宅ではないか、ということでした。
規模からいうと清盛クラスの家にしてみれば小さいし、池など庭のあともみられない、もしかすると、倉庫のようなものだったもしれません。



一番の注目すべき点は
井戸を埋めたということ、
井戸は掘るのにもたいへんであるし、
水を取るたいせつなもの、ましてや
埋めるにもきちんと慰霊をしないといけない、そこまでして建物を建てるということは
必然的に、土地区画整理の必要であったこと、
もうひとつは、方位がすべてそろっているということ、
その二つで、福原の都を築いてゆく上での建物であったと、説明されています・