無気力


▼無気力とは

無気力とは、意欲を失ってエネルギーが消失したような状態のことをいう。どうしても意欲がわいてこないため、自分ではコントロールできない災難のように感じられることがある。

しかし、どういったときに無気力に陥るかを考えてみると、実は無気力というのが合理的な選択に過ぎないことがある。たとえば、無気力に陥りやすいケースとして、いわゆる「挫折」の状況があるが、何かに向けて努力したがまったく無駄に終わったという挫折状況では、「努力しても無駄」という認識をもちやすい。そのような認識のもとでは、努力そのものが信頼できなくなって、何かに向けて努力をする気力はわいてこないのが必然である。

これは勉学や仕事だけでなく恋愛や人間関係においても同様で、「自分は何をしてもどうせ無駄に終わる」と信じてしまえば、その後は気力がなくなってしまうものである。つまり無気力とは、自分の認知が原因となって、自ら獲得してしまうものだと考えられる。


▼獲得された無力感が一般化

無気力についての興味深い実験がある。犬を2グループに分けて電気ショックを与える実験だが、一方のグループは自らの努力で電気ショックを回避できるようになっており、もう一方のグループは何をやってもショックを回避できないようになっている。

すると、ショックを回避できないグループの犬は、徐々に何事についても無気力になっていったという。電気ショックという不快感を自分の努力で回避できない経験を繰り返したために、環境にたいして諦めの態度が身に付いてしまい、何事についても受動的になったという。

人間においても同様の事態が起きる。たとえば、自分では除去できない騒音にさらされ続けた子供というのは、パズルを解かせたときに少し考えてわからないとすぐに投げ出してしまう傾向があるという。不快な環境において努力が無意味だった経験があるために、すぐに諦めてしまう無気力の態度が身に付いたと考えられる。このように、あたかも生まれつきの性格かのように見なされている「無気力」というのは、実はどこかの時点で身につけてしまった可能性が高いのである。


▼パチンコという挫折運動

パチンコのようなギャンブルはまさに無気力を身につける行為だといえる。パチンカーは座った台が当たってほしいと望んでいるが、たいていの場合、その期待は裏切られる。たまに勝つ日があっても、その金を使ってさらなる負けの日を増やすだけとなる。パチンコ屋に行ってハンドルを握って念じるというパチンカーの「努力」は、ことごとく無駄になるのである。

パチンコという産業が継続的に営業を続けていくには利益が出なければならない。胴元が儲かる構造になっているのは当然のことといえる。つまり、パチンカーというのは、負ける構造の中で当たり前のように負け続ける人々である。

しかも、そのときの結果を左右するのが運になるので、そこに費やしている時間とエネルギーにたいし、成果はまったく比例しない。仕事や学問であれば、10年ひとつのことに打ち込めば相当のレベルに到達するものだが、ギャンブルにおいては時間がまったく味方しない。パチンカーは、どれだけやっても負け続けるので、自分が理不尽な運命にあるという被害意識を持ちやすい。

当然ながら、運に翻弄されつつ挫折を重ねてしまえば、何かに努力することが馬鹿馬鹿しくなってしまう。パチンコという運頼みの受動的な行為に慣れきってしまい、しかも結果は挫折ばかりで自信を失う。このようにして、パチンカーは日々無気力を身につけていると考えられる。

しかも、これは無意識で進行する事態なので、自分が無気力になっていることを本人は通常気づかない。人間は自分の性格の変化に気づかないものだが、日々の経験というのはその人を静かに変えていくものである。騒音にさらされた子供がいつのまにか無気力な人間になるように、パチンカーも日々のパチンコ行為によって、無気力な人間になる。


▼自己信頼も低下していく

パチンコによって引き起こされるのは、無気力の獲得だけではなく、自己信頼の低下という深刻な状況がある。自己信頼とは、自分への認識が安定している状態のことで、一言でいえば、自分に自信がもてる状態だと理解できる。

たとえば、仕事、学問、スポーツ、芸術といった活動のように、自分の中に肯定的な進歩が確認できたり、その行為自体に価値を感じることができると、自己を強化しているように感じるものである。それが自分を肯定できる存在として認識する要因となり、ますます努力するという好循環が生まれる。

パチンコのようなギャンブル行為の場合はどうだろうか。パチンコをしてきた経験というのは、価値を感じるものではなく、むしろ自己嫌悪を呼び起こすケースが多い。つまり、自分の人生経験が自分にとって認めたくないものになる。すると、人生の記憶が肯定できなくなって自分の認識が不安定になるのである。

自分の認識が信頼できないと、他者が自分をどう見るかという他者の認識に頼るようになる。つまり、他者の視線が自分の存在を規定するようになってしまう。これは、きわめて心理的に不安定な状態といえよう。要するに、自分にとって価値が感じられる日常行為を続けていないと、自らの存在を肯定できないので他者依存的になるのである。


▼泥沼と化すパチンコ習慣

パチンコによって徐々に無気力になったパチンコ依存者は、反面パチンコだけには熱心になる。人生を立て直す努力はできなくても、不思議とパチンコ店に通う努力だけはできるものである。たとえば、パチンコのために必死になって金策に走ったりする。

これは非常に皮肉なことなのだが、長年のパチンコ習慣によって自分への信頼がなくなってしまったからこそ、パチンコにすがりつくことになるのである。すでに無気力な状態になってしまっているので、実生活で何も努力ができない。しかし、一時でも自分の自信を回復してくれるもの、自己批判を外してくれるもの、現実を忘れさせてくれる酔いが欲しくなる。残るのは、お手軽に一時の勝利感が得られるギャンブルだけとなり、賭け事にしがみつくこととなる。

これこそ、パチンコ習慣によって身に付いた精神の停滞状態とは言えないだろうか。ギャンブルだけには熱くなるが他のことはまったく無気力になる、というパチンカーの一般的な姿である。上記で述べたように、これは生まれつきの性格が原因というよりは、単にパチンコという習慣を続けた結果必然的に訪れた事態なのである。パチンコを続けていれば誰にでも起こりうるのである。





▼ニート急増

無気力について考えるこのページで、ニートについても考えてみたい。成人しても働かず、かといって勉学や技術習得をしているわけでもない人々をニートという。親元にパラサイトしつつ、特に将来の展望を持たないまま日々を過ごすことになる。日本ではこのような若者が急増しているという。

ニートと呼ばれる若者が急増している原因として、メディアでは様々な分析が紹介されている。不況によって就労機会が少ない、価値観の多様化で生きる方向が見つけづらい、もともとそういった気質がある、豊かな社会になったため危機感がない、日本全体として将来に希望が感じられない、などなど。

そういった概論はどれも一定の説得力があるが、実際にはその人が今までどのように日々を過ごしてきたか、現在どのように日々を過ごしているか、といったことの方が重要だと考えられる。というのも、習慣が人間を作るものだからである。


▼ニートの日常

とすると、まずはニートと呼ばれる若者が日々どのように過ごしているかについて注目しなければならない。そのような若者は、自己を強化するものとして日常を経験していない可能性がある。

たとえば、何らかの目標をもって努力している若者がいるとしよう。そのような若者と、一般にニートと呼ばれる若者とでは、社会的立場はそれほど変わらない。しかしながら、前者は自己を強化している感覚をもちつつ日々を経験し、後者は自己を否定するような感覚を持ちつつ日常を過ごしている可能性が高い。他人から見ると一見違いはないモラトリアムを過ごす若者でも、180度正反対の人生経験をしているといえる。


▼ニート誕生のきっかけ

仮にニートと呼ばれる若者がそういった日常を過ごしているとすれば、そのきっかけは何だろうか。若者の状況はそれぞれ千差万別といえるので、一つの枠で理解することはできない。しかし何割かのケースとしてパチンコとの関連は無視できないと思われる。

90年代に第3次パチンコブームがあったが、特に若者の間でパチスロが大流行した。それとニートの急増が一致しているが、これは偶然だろうか。少なくとも、断章にあるように、高校あるいは大学在学中にパチンコ・パチスロにはまりニートとなった若者はそれほど珍しくないのである。

パチンコというギャンブル行為は無気力の獲得と自己信頼の低下をもたらす。パチンコにはまってしまった若者は、人生にたいして無気力になっていったであろうことは想像に難くない。若者にギャンブルを覚えさせれば働かなくなってニートとなる、というのは当たり前のことではないだろうか。

パチンコというギャンブル場が各地に存在し、レジャーを装っているために危険性が認識されず、日々若者達を無気力な方向へ導いている。フリーターやニートが社会問題化している現在でも、日本中に蔓延したパチンコは一向に問題視されていない。これが紛れもない日本の現状である。






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