映画雑記・11

テレビドラマ「市川崑劇場」:『木枯し紋次郎』
監督:市川崑(シリーズの中では森一生、三隅研次、安田公義、池広一夫、井上昭なども参加)
原作:笹沢左保 、出演:中村敦夫。
フジテレビ系列で1972年1月1日より放映された1時間のテレビドラマ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「木枯し紋次郎・
上州新田郡(にったごうり)三日月村の貧しい農家に生まれたという。
十歳の時国を捨て、
その後一家は離散したと伝えられる。
天涯孤独な紋次郎が何故無宿渡世の世界に入ったかは、定かではない。」

毎回、芥川隆行のこの語りで物語は終りました。
紋次郎の後姿に、上條恒彦が唄う主題歌「だれかが風の中で」の二番の唄が流れるなかでの芥川隆行の名調子を聞いて、次回も必ず見なければと思い続けたものでした。

映画『木枯し紋次郎』は1972年に、監督:中島貞男、主演:菅原文太で2本作られていて、私は最初の1本(原作は「赦免花は散った」)をみただけで、2作目をみることはなく、時間がすぎました。
中村敦夫の紋次郎が余りにも、強烈だったのだと思います。テレビドラマが、映画を越えることはないと思っているのですが、こればかりはどうしようもありませんでした。


紋次郎が楊枝を飛ばす時に、口にくわえた楊枝の長さは約30センチの萱(かや)。

笹沢左保の 原作では5寸(15センチ)程の竹で両端を畳針のように削ったものであるが目立つように2倍の長さにした。
ところが、30センチの竹では口から飛ばすことは出来ない。
萱(かや)を口にくわえて吹くと飛んだので、決めたという。

口から飛ばすときは萱、その後は竹と別撮りしてつなげた。

今回は、テレビ時代劇『木枯し紋次郎』を取り上げることにしました。
1972年1月から「市川崑劇場」として放映されたこの時代劇は、テレビでこれだけのドラマを作ってしまったという驚き。
中村敦夫の紋次郎、今は亡き芥川隆行の語り口、上條恒彦が唄う主題歌、そして、それが見事に一体となった物語の始めと最期の映像を演出した市川崑(を始めとした演出陣)の腕の冴え。

私は正直、夢中になりました。
といっても、最初のころは、いささか古くなった、14インチの白黒テレビだったようにも思うのですが、それでも私には充分な迫力と物語に引き付けられたのです。
第1シーズン(全18話)と第2シーズン(全20話)を合わせて38話ですから、見落としたものも当然ありましたが、土曜日、夜10時30分から1時間ということもあって、見る機会はかなりあったのです。

  • 『木枯し紋次郎』を製作するに当たっての市川崑のだした3つの条件があります。
    • 1)新人(有名スターから抜け出た、全く新しい感覚の股旅ものを作る)
    • 2)長身(丈の長い道中合羽をかっこよく着こなすこと)
    • 3)面長(三度笠をかぶったままで、顔がよく見えること)

    • この結果、中村敦夫という新人俳優を探し出します。

  • 1971(昭和46)年秋から、京都大映で撮影開始をしますが、3本撮り終えたその年の11月末、大映は倒産し撮影所は閉鎖、電気も使えない状態となります。
    別会社・「映像京都」を設立して、撮影所は殆ど使えないため、山中の撮影を続けます。
    • 監督と殺陣師の指示は「走れ!」「ぶつかれ!」「振り回せ!」
    • 楊枝の長さは、映像で目立つために、原作の15センチから30センチにし、口から飛ばすときは、竹ではなく萱(かや)にした。
      (撮影現場で、中村敦夫がたまたま手にした萱[かや]を口にくわえて吹くと飛んだので、使うことにした)

    • 更に、紋次郎を演じた中村敦夫は、8作目の撮影中にアキレス腱を切るが1ヶ月で復帰。
      (中村敦夫の復帰に間に合わない間の何作[4〜5本?]は、笹沢左保原作の<股旅もの>を放映していたのですが、紋次郎の登場をじーと待っていたのを思い出します。復帰後の撮影は、長い合羽で松葉杖を隠し、上半身のみを中村にして、走るときは吹き替えですました)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あっしには関わりがねぇこって」

こうして、難産の結果、私たちの前に登場したのが、『木枯し紋次郎』だったのです。
長い楊枝をくわえ、汚れた道中合羽に破れた三度笠の紋次郎、そして「あっしには関わりがねぇこって」の台詞(せりふ)を吐きながらも、関わってしまい、その関わった女に裏切られてしまう紋次郎。

剣術など練習したことのない百姓が、<長脇差>を手にして、川の中を、田んぼの中を走りながら、やたらに振り回しての、及び腰で尻餅をつきながらも、切るというよりも突き殺す。ただ自分が生き残るための凄まじい殺陣(たて)が展開されたのです。

その上で、紋次郎については、笹沢左保の文章を見るのが良いのではないかと思い、引用していきます。
天保6年、紋次郎30歳から物語は始まりますが、天保1(1830)年から14(1843)年の時代は、江戸幕府崩壊(1867年)の約20〜30年前で、紋次郎との関連でいえば次のような世上不安が起こっています。
天保4(1833)年・・天保の大飢饉始まる。
天保7(1836)年・・各地で米価暴騰、焼き討ちが起こる。
天保8(1837)年・・大塩平八郎の乱起こる。

笹沢左保の描く紋次郎象

「長身の男で、切れ長の眼に、一種独特の冷たさがある。鼻も高いし、口元も引き締まっていた。女に好かれそうな顔立ちだが、その凄みに通ずる冷ややかさが一種の拒絶感になっていた。
その渡世人は、左の頬に刀の小さな傷跡を持っていた。笑ったりすると、その傷の両端が引きつるようになった。
もう一つの特徴は、竹を畳針ほどの太さに削った、両端が尖った楊枝のようなものをくわえていた。当時の楊枝は4寸から6寸ほどの長さで、紋次郎の楊枝も約5寸、15センチ以上あった。(市川昆は2倍の30センチにした)
たまに、竹をくわえた口で笛のような音をならした。
竹を口の左の端に寄せて、鋭くそして長く息を吐き出すのである。すると、甲高く微妙な音が鳴った。それも左の頬にある小さな傷跡が作用するらしく、音は、鋭く吹き抜ける冷たい風を連想させた。冬の夕暮れに吹く、凄みがあってもの哀しい木枯らしの音に似ていた。

そして、1日に17から18里(66キロから70キロ!)の道を歩いた。風のように。」と。


紋次郎の暗さ

さらに、紋次郎の持つ、暗さと冷たさがこのドラマに独特の重さを含んでいました。
そのことは、何回目かのとき、紋次郎が<間引き>されるところを、姉によって死から救われたという話があったのを見て、少し腑におちました。

今回文章にするにあたって、初めて手にした笹沢左保の原作『木枯し紋次郎』の1冊のなかの1篇「童唄を雨に流せ」が、 紋次郎の出生について書かれていることを知りました。
テレビでは< 第5話「童唄(わらべうた)を雨に流せ」 >で放映されたものです。

その「童歌を雨に流せ」の文章の一節を、部分的に割愛して引用します。
天保7年11月、甲州身延山の道を歩く紋次郎が鰍沢(かじかさわ)の近くに来たという設定です。

掘っ立て小屋のような家で、水を貰おうとしたとき、女の子の歌う童歌を聴くところからの場面です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

“烏からすの勘三郎
かかは朝から干し菜(な)売り
ととは熊野へ鉦(かね)叩き
1日叩いて米3合“
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

同時に紋次郎は火のついたような赤ン坊の泣き声を背中に聞いた。赤ン坊の泣き声だけではない。それに重なって女の嗚咽が聞こえた。 ・・・・・・・・・・・・・・・
紋次郎は川葦の戸に飛びつくと、力任せにそれを押し開いた。家の中は薄暗かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこに綿のはみ出したボロ蒲団が一枚だけのべてある。その蒲団の上に、女がすわり込んでいた。・・・・・・・・・・・・
骨と皮だけになった女が両手をついて嗚咽していた。

その女の顔の下に、生まれたばかりの赤ン坊がいた。手足を震わせ、弱弱しい悲鳴に似た泣き声を上げている。まだ目もあいていないし、産湯も使っていない赤ン坊だった。
母親の胎内からたったいま出てきたらしく、血や汚物が付着したままであった。やはり、紋次郎が察したとおりだった。
女は右手に、濡らした紙を持っていた。・・・・・・・・・・・・・・
自力で赤ン坊を産み落し、臍の緒を切っただけで、まだその後始末もついていないのである。女の下半身や蒲団が、羊水(ようすい)で濡れていた。だが、紋次郎はあえて、女を正面から見据えた。

「いけねえ!」紋次郎にしては珍しく大声で叫んだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「そりゃ好んで、手めえの子どもを殺す親はいねえだろう。だがなあ、おかみさん。殺される赤ン坊のほうは、たとえ相手が親でも恨みは深いもんだぜ」・・・・・・・・・・・・

[女の話を聞いたあとで、紋次郎は小判6枚を藁筵(わらむしろ)の上に並べて言います。]

「その代わり、おかみさんに約束してもらいてえことがあるんでござんすよ。間引(まび)きは、金輪際やらねえってね」

”・・・間引きは、子つぶし、子返しなどとも言われている。家族数を制限するために、生まれたばかりの赤ン坊を殺すのである。 奈良時代あたりからすでに行われていたというが、江戸時代の初期には全国的に広まり、中期以後は半ば公然のこととされるようになった。
特にこの天保の頃になると、農民の生活苦と度重なる飢饉により間引きは一種の習慣と化したのだった。中でも関東、東北地方の農村では、当然のこととして間引きが行われていた。間引きされるのは4番目ぐらいに生まれた子供が多く、それも女児となると例外なく殺された。”

紋次郎は、忘れたはずの過去を思い出した。

紋次郎の記憶にある上州新田郡の生家も、ここと同じようなものだった。水呑み百姓の住まいとなると、どこもあまり変わりないようであった。紋次郎は6番目に生まれた子どもだった。いちばん上を除いては、男ばかり揃っていた。
それでも男女に拘わらず、生まれてきたら間引きしようと両親は待ち構えていたのであった。・・・・・・

ところが生まれたばかりの紋次郎を、いちばん上の姉が間引きの前に奪って逃げたのだった。姉は紋次郎を抱いたまま野宿して、翌日になってから家へ帰って来た。翌日は、村の鎮守の祭礼だったのである。
姉は紋次郎を村人たちに見せて、今日生れたのだと触れて回った。先祖の命日や鎮守の祭礼の日に生まれた子どもは、功徳日(くどくび)に生まれたということで間引きをしない習慣になっていたのだ。
村人たちもそれを信じたために、両親もついに間引きすることを諦めたのである。
その、事実を、紋次郎は8つのときに、すぐ上の兄から聞かされた。以来、紋次郎は口をきかない少年になった。

姉の機転によって救われはしたが、自分がこうして生きているのが間違っているように思えたのである。そのころからすでに紋次郎の心の中には、生きようと死のうとどうでもいい存在、今日が過ぎれば明日が来るといった気持ちが芽生えていたのだった。
2年後、姉が嫁ぎ先で病死した。年が12違う姉は、その時22歳であった。
姉が死んだという知らせがあった翌日、10歳の少年紋次郎は村から姿を消した。その後、今日まで、紋次郎は、一度も故郷に足を向けていなかった。

姉が死んで以来、親兄弟も肉親もなかった。自分一人であり、自分しかないのである。なるようにしかならないと、毎度翌日の朝を迎える。いつかは自分も死ぬ。もう翌日を迎えなくていいのだ。その時を、ただ待っているにすぎない。それが渡世人の生き方であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回、この文章に出会って、このときの物語がテレビドラマとしてどのように映像化されたのか、はっきりとは記憶に残っていません。 ただ<紋次郎は間引きされるところを、姉に助けられた人間である>という記憶だけは、35年を経ても残っているのは、紋次郎と重なっての強い印象が刻みこまれていたのだろうと思います。

私は、初めて読む笹沢左保の文章と、『木枯し紋次郎』の物語に惹かれ、市川崑の演出の上手さに改めて感じ入りました。

第一話から、21年を経て1993年に製作された中村敦夫主演のテレビ版の映画『帰ってきた木枯し紋次郎』を改めて観て、ドラマの始めにあった、紋次郎のストップモーションと、上條恒彦が唄う主題歌「だれかが風の中で」に懐かしさを感じ、亡き芥川隆行に代わっての日下武史のナレーションを聞いて、こうしたチャンバラにもう出会うことはないのかと思うと、一抹の寂しさを感じました。


芥川隆行の名調子を思い出しながら

予告編に使われた、芥川隆行の名調子を聞いて(読んで)下さい。

無宿渡世に怒りをこめて
口の楊枝がヒューと鳴る
噂のアイツが紋次郎

愛を求めてさすらう旅か
孤独をいやしてさまよう旅か
頼れるものはただ一つ
おのれの腕と腰のドス

生まれ故郷に背をむけて
後ろ姿が泣いている
アイツが木枯らし紋次郎

(芥川隆行は1990年3月に死亡。享年71)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上條恒彦が唄う主題歌「だれかが風の中で」[作詞:和田夏十(わだなつと)、作曲:小室等]

どこかで だれかが
きっと待っていてくれる
雲は焼け 道は乾き
陽(ひ)はいつまでも 沈まない
心は昔死んだ
ほほえみには会ったこともない
きのうなんか知らない
きょうは旅をひとり
けれども どこかで
お前は待っていてくれる
きっとおまえは
風の中でまっている

どこかで だれかが
きっと待っていてくれる
血は流れ 皮は裂ける
痛みは生きているしるしだ
いくつ峠をこえた
どこにもふるさとはない
泣く奴はだれだ
この上何がほしい
けれども どこかで
お前は待っていてくれる
きっとおまえは
風の中でまっている

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

市川崑の妻である和田夏十(1983年2月・乳癌のため死去。享年62歳)は、市川崑作品の殆どを手がけてきたシナリオライターとして知られていますが、この主題歌でも彼女の才能は如何なく発揮されています。
曲と歌手が見事に重なり合って、このドラマを支えていました。

私の記憶にある市川崑の名作(『炎上』『野火』『おとうと』『破戒』『東京オリンピック』など)は和田夏十がいて可能だったと思います。だから、と思います。
戦友の和田夏十亡き後の市川崑は、少しずつ、衰えていったのではないかと。


参考にした本。

『木枯らし紋次郎-1:赦免花は散った』笹沢左保、光文社文庫、1991年初版。
(5つの物語がありますが、表題の「赦免花は散った」は、監督:中島貞男、主演:菅原文太で映画化されています。
今回引用した文章はその中の一つ「童歌を雨に流せ」からのものです。)
HPに書かなければ、読むことがなかったであろう笹沢左保の文章に触れたことは良かったと思います。

「伝説・日本チャンバラ狂」黒鉄(くろがね)ヒロシ+ペリー萩野(おぎの)、集英社、2006年初版。
漫画家の黒鉄ヒロシの漫画がとても面白く参考になりました。ペリー萩野は<時代劇研究家>ということで、私は始めて知りました。
この本の基調を作った人であることは明らかです。

「実録テレビ時代劇史・ちゃんばらクロニクル1953〜1998」能村庸一(のうむらよういち)、東京新聞出版局、1999年初版。
『木枯らし紋次郎』がテレビに登場するまでが、ドラマであった。
放映までこぎつけた人間達の執念に深い敬意。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木枯し紋次郎は勿論架空の人物ですが、群馬県に実在していた実在の新田郡は、町村併合によって2006年の春に消滅しました。


『木枯し紋次郎』が1972年のブームとなった、9月から、現在の「テレビ朝日」から『必殺シリーズ』が放映されます。
女にも、金にも、自分の人生をも棄てきった『木枯し紋次郎』に対して、女も、そして自分の欲望もしっかりと抱き込みながら、<金を貰って、悪を始末する=殺す>『必殺シリーズ』の開幕です。


  • 『木枯し紋次郎』とは直接の関連はありませんが、1972年(昭和47年)の出来事を記してみます。
    • 1月24日:グアム島で、元日本兵、横井庄一発見される。
      「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました。天皇陛下からいただいた小銃はちゃんと持って帰ってまいりました」
    • 2月19日:連合赤軍のあさま山荘の篭城にたいし、警官隊突入。
    • 5月15日:沖縄の施政権が日本に返還される。
    • 6月11日:田中角栄通産相、「日本列島改造論」構想を発表。(土地ブームが起こる)
    • 6月17日:佐藤内閣の退陣表明の記者会見。
      「新聞は信用できない、テレビは真実を伝えてくれる、NHKはどこにある」。新聞記者が全員退席した後、テレビに向かって話し続けた。
    • 7月7日:田中内閣発足。
      (9月29日:日中国交回復、11月パンダが上野動物園に)
    • 日活のカレンダーは、全て、「ロマンポルノ」の女優になる。

世界的な映画監督ベルイマン、アントニオーニと相次いで訃報が続きました。

イングマール・ベルイマン(スエーデン、7月30日に死亡、89歳)
私には『野いちご』『処女の泉』『沈黙』の3作の強い印象が残っている。人間の生と死、老い、そして宗教が基調を流れていた重い映画であったと記憶しています。当時は一定の距離をもって観たのですが、今、改めて観れば、その距離は短くなっているかもしれません。
公開時から、時間を経て観た『処女の泉』は鮮烈でした。

ミケランジェロ・アントニオーニ(イタリア、7月30日に死亡、94歳)
『情事』でモニカ・ビッテイのけだるさを、『太陽はひとりぼっち』でアランドロンとモニカ・ビッテイを、『赤い砂漠』で再度モニカ・ビッテイ。
人間の愛の不毛を描いているのは、私にも理解出来たのですが、いささか退屈であったと書いておきます。


天才的作詞家・阿久悠(あくゆう)が死亡しました。(8月1日・尿管がん、享年70歳)
映画「瀬戸内野球少年団」(1984年、監督:篠田正浩)の原作者でもある、阿久悠の死亡を聞いて、改めて彼の豊饒な言葉を認識しました。
テレビ、ラジオでは、天才的作詞家・阿久悠の作った歌の数々を称えていますが、称え過ぎということはないでしょう。
わたしの最も印象に残るのは次の歌詞です。

森進一が唄う「北の蛍」(作曲は分かりません)の一節です。
・・・・・・・・・・・・・
もしも私が死んだなら
胸の乳房を突き破り
赤い蛍がとぶでしょう

・・・・・・・・・・・・・

この言葉の魔術を耳にしたときは衝撃でした。
女の死と豊かな白い乳房、ここから、蛍が、紅い灯(火)を放って、飛んでゆくのです。
言葉というものは、ここまで豊かに、艶やかになれるのですね。

合掌。

2007年8月2日作成

「映画雑記の目次」へ

ホームページTOPへ