読書ノート50


2013年10月2日

松本清張「2.26事件」
『昭和史発掘』全13巻(松本清張、文藝春秋社、昭和40〜47年)から、
「2.26事件」に関する部分(7〜13巻)を読んで

気も狂わんばかりの「せめぎあいの昭和初期の時代」に、軍部と対決しても己を主張する天皇が存在していました。
青年将校の叛乱直後から、「鎮圧せよ!」と怒りを露わにする「君主」の前に、恐懼(きょうく)する側近たちの姿がありました。
「大御心=天皇の心」を信じて決起した青年将校に率いられた1400余名の兵に、「天皇(制)の危機」感じた、<政治的天皇>の決断を見せられました。
「天皇親政」を目指した「国家革新運動」が、その天皇自身によって拒否され、鎮圧されたという、彼らにとっての<歴史の逆説>が存在したのです。

2.26事件は、昭和天皇が、軍部の言いなりのまま動かざるを得なかったという説を否定し、時には、強い自己主張によって、軍を動かし、状況を変えるほどの
「力」を持ったよい例証であろうと思えるのです。

2.26事件の後、日本は「日中全面戦争」へ、そして「太平洋戦争」へと突き進んで行くことになります。

2.26叛乱から76年、昭和が終焉して25年の時間を経てもなお、昭和という時代を「総体」として見ることが困難な社会に生きているような想いがします。
本書から、<軍事と戦争>そして<天皇(制)と日本社会>の歴史と今を、正面から向き合うべき大きな試金石を与えられた感じがしました。

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以前から読まなければと思っていた『昭和史発掘』全巻を通して読む予定ですが、一番関心のある、「2.26事件」をまず手に取ることになりました。

多くの「2.26事件」に関する本のなかでも、評価の高い松本清張の描く「2.26事件」は、清張が雑誌「文藝春秋」に書き綴った半世紀前という制約がありながらも、
その時点で、出来る限りの資料を詳細に調べた上で書かれた「昭和史前期のドキュメント」として、読むものを引き付ける内容でありました。
1巻から6巻はこれからになるため、2.26事件を区切りとして読後感を記すことにしました。
今後、1巻から読んでいくなかで、訂正と変更すべき箇所が出たときには、改めることにしたいと思っています。

(不満を記せば、本書には、人名を含めた漢字に振り仮名が少ないことです。特に、人名には殆ど或いは全く、振り仮名が付けてなかったことが私には戸惑いがありました)

(文中の敬称は省略させていただきます)


A)直後の読後感は。

複雑な感情をもって読み終えました。
安藤輝三(大尉)という叛乱に決起した皇道派の軍人に、大きな魅力を感じ(てしまっ)たからです。
同時に、決起の重要な要因の一つであった、東北地方の農村の疲弊と困窮は、いったん、事が起こると、それまでの青年将校の心にあったであろう諸々の感情は、忘れ去られたまま、
終焉を迎えてしまうことへの違和感でもあります。

1400名を超える決起部隊に参加したというより、命令で参加させられた多くの初年兵の2.26決起。
その中の150名の安藤部隊。
決起の敗北が決定的になった時点でもなお、一兵の脱走者も出さずに、安藤部隊としての集団自死をいとわずに、終幕に向かう「異常」な「連帯感と涙」は、まるで、ためらいながらの
映像として私の頭の中に再現できる風景でもあったのです。

その上で、2.26事件の最大の主役は、昭和天皇その人ではなかったかという強い思いであります。
34歳の若き天皇が、目の前で展開されている、通常の精神力なら、気も狂わんばかりの軍人と重臣との相克のドラマに、最も強い拒否を示し、最後のところで天皇制を護りきった強靭さ
に驚き、かつ、天皇の最大の仕事とは<天皇制を>護ることであると改めて認識したからであります。

そして事件以後の日本が、天皇と軍との<融和と軋轢>が、ねじり合いながら、日本帝国の終焉に向かってひた走りに駆け抜けるための国民の熱狂を見ることになります。

困窮する農民の不在。

1929年のアメリカの金融恐慌を発端として世界恐慌の波は、日本経済の崩壊へと連鎖していきます。
さらに、1931年、1934年と東北地地方は大凶作に見舞われ、困窮の極に達しました。
「娘の身売り」「一家心中」が常態化したという歴史も、私たちの記憶に残っています。

2.26事件に参加したというより、著者の言葉を使えば「だまされて、連れ出された多くの兵士」の殆どは、その年の1月に召集された、軍隊の西も東も分からぬ初年兵でありました。
兵営で叩き込まれる「絶対服従」の規律のまま、命令された出動であったわけです。
その中には、「身売りされた姉や妹」や「働き手の自分が軍隊に行けば、家族がより困窮する」兵士たちも多くいたこともよく語られる事実です。

なんども繰り返された青年将校の言葉には、そうした疲弊した農村を救うため、「君側の奸(くんそくのかん)」(君主に取り入った悪い家臣たち)を討ち、「国家改造=昭和維新」を成し
遂げることが必要 であると説きました。
しかしながら、26日の決起から29日の終焉までの4日間に展開されたそれぞれの「物語」には、「疲弊した農村」は語られることはありませんでした。

当然だったとも思えます。
「天皇親政」を掲げた決起軍にとって、最も必要だったのは、すでに突入している日中戦争の完全な遂行であり、そのための「総力戦」の国家体制であったのですから。

あえて記せば、安藤部隊150人には、安藤輝三と兵士たちの間に、そうした感情の交流を断片的には見せてはいたのですが、それとても所詮、彼らの心情がどれほど真摯であったにしても、
軍事クーデターによっては、決してかなわぬ 物語の一つにすぎなかったとも思うのです。


B)2.26事件の概略。

2.26事件の概略を記すことから始めます。
(ウイキペディアからの抜粋引用したものに、若干の追加をしたものです)

○2.26事件は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派青年将校らに率いられた1483名の兵が、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である

○大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元
老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らはこの考えの下、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。

○将校は近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して、岡田啓介(おかだけいすけ)内閣総理大臣(岡田と間違えて義弟の松尾伝蔵を殺害)、鈴木
貫太郎(すずきかんたろう)侍従長(重傷)、斎藤實(さいとうまこと)内大臣(即死)、高橋是清(たかはしこれきよ)大蔵大臣(即死)、渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)陸軍教育総監(即死)、
牧野伸顕(まきののぶあき)前内大臣を襲撃(避難)、総理大臣官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部、東京朝日新聞を占拠した。

○その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。
約1400人の叛乱軍に対し、包囲軍は約2万4000人。
反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。
事件の首謀者19人は銃殺刑に処された。

○なぜ2月26日だったのか?
青年将校らは主に東京第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団近衛歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と
受け取った。
第1師団が渡満する前に決起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。
山口一太郎(やまぐちいちたろう)大尉]や、民間人である北一輝(きたいっき)と西田税(にしだみつぎ)は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで
事件は起こされた。


C)旧軍隊の階級について。

2.26事件を読むうえで、頻繁に使われる、旧軍隊の階級について記しておきます。

武官・・・下士官以上の軍人。

将官・・・大将、中将、小将の総称でいずれも親任官および勅任官である(いずれも天皇の命によって任ずる)。

佐官・・・大佐、中佐、少佐の総称。

尉官・・・陸海軍の大尉、中尉、少尉の総称。

士官・・・兵を指揮する武官(将校・将校相当官の総称)。

将校・・・戦闘の指揮をする士官。少尉以上の武官。

下士官・・士官、准士官と兵の間に位する武官。陸軍では曹長、軍曹、伍長をいう。(海軍では上等兵曹、一等兵曹、二等兵曹をいう)

兵・・・・最下位の階級。陸軍では兵長、上等兵、一等兵、二等兵をいう。(海軍では水兵長、上等水兵、二等水をいう)

中隊・・・戦闘員である下士官兵を直接に管理する単位。(120〜150人)
中隊長は直接に個別に部下を掌握する職責を負わされ、「下士官兵の死に場所は中隊である」と教えられる。下士官兵にとって中隊長の命令は、その上の大隊長、連隊長よりも強い。
2.26の決起は、この「中隊」を抜きにしては語ることができない。


D)以下の順序で感想を述べます。

T)皇道派と統制派

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U)昭和天皇と秩父の宮

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V)安藤輝三・大尉(歩兵第三・中隊の指揮官で事件後銃殺刑)

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W)永田鉄山・軍務局長(相沢三郎に斬殺される)

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X)相沢三郎・中佐(永田軍務局長を斬殺し、銃殺刑)

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Y)北一輝(「日本改造法案大綱」の著者。事件後銃殺刑)と西田税(事件後銃殺刑)

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Z)特設軍法会議と下士官兵の有罪

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[)2.26決起の失敗の理由
思想的敗北(天皇と天皇制の混同)
軍事的敗北(皇居占拠の失敗)

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\)事件後の日本(下士官兵のその後を含めて)

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E)簡単な年譜。

「簡単な年譜」にジャンプします

F)参考にした5冊の本。
『対談・昭和史発掘』(松本清張、文春新書、2009発行)
『昭和史(1926〜1945)』(半藤一利、平凡社、2004年初版)<陸軍の派閥メンバー表>
『二・二六事件』(高橋正衛、中公新書、昭和40年初版)
『昭和の軍閥』(高橋正衛、中公新書、昭和44年初版)
『天皇の軍隊(昭和の歴史D)』(大江志乃夫、小学館、1982年第1刷)

「参考にした5冊の本」にジャンプします


D−T)皇道派と統制派。

本書の中心をなす言葉を、箇条書きにします。

1)皇道派

●旧陸軍部内の一派閥。
1932年頃から形成され、荒木貞夫(あらきさだお)、真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)両大将などの将官とこれを支持する隊付の尉官将校からなる。
皇道派の青年将校は自らを「勤王派」と呼び、統制派を「佐幕派」と呼んでいた。(7巻、p96)

●天皇中心の国体至上主義を信奉、統制派と抗争、直接行動による国家改造を企てたが、1936年の2.26事件の失敗により一掃された。
皇道派という名称は、荒木が「皇軍」、「皇道精神」というように、頭に「皇」をつける言葉を愛用したことにはじまる。

●2.26叛乱の首謀者たちは銃殺されるが、2.26を最後まで支持・支援をしてくれるものと、青年将校に期待(青年将校たちは、「真崎内閣」
を描いていた)されていた真崎甚三郎・大将は、2.26決起からは無関係の立場を主張し、戦後も長寿を全うする。

真崎甚三郎(1876.11〜1956.8)・・・2.26裁判は無罪。
第二次大戦後、戦犯として収監されたが、東京裁判で不起訴処分を受け2年間の収監で釈放された。(享年79歳)。

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頭に「皇」という字言葉をつけたがった荒木の陸相時代の話があります。
「竹やり三千万本あれば、列強は恐るるに足らず」と言ったというのです。
こうした軍人に、限られた時代とはいえ、戦争を指導された兵士と日本国民こそ悲しむべきものでしょう。
さらに、荒木のこうした「精神主義」に引かれた青年将校たちの国家観にこそ問題があると思うのです。

2)統制派

●満州事変期に陸軍部内に形成された一派閥。
陸軍省・参謀本部などの幕僚将校を主体とし、クーデターによる国家改造を否定し、財閥・官僚と結んで合法的に、軍部勢力の伸長および総力戦体制の樹立を目指した。
永田鉄山(ながたてつざん)を中心に、東条英機(とうじょうひでき)、板垣征四郎(いたがきせいしろう)らがおり、皇道派と対立をした。

●1935(昭和10)年8月、皇道派の相沢三郎(あいざわさぶろう)中佐により、軍務局長の永田が斬殺されたことが、翌年の2.26事件につながってくる。
統制派は、2.26事件を鎮圧、皇道派を粛正することで、より一層の、総力戦体制を確立していく。

●2.26から一年半後の1937(昭和12)年7月7日、盧溝橋(ろこうきょう)事件が起き、日中全面戦争へと進んでいく。


D−U)昭和天皇と秩父宮

1)昭和天皇

(1901年4月29日〜1989年1月7日。享年87歳)
(1901=明治34年、1989年=平成元年=昭和64年)
(昭和は1926年12月25日から1989年1月7日までの63年間)
2.26事件の時、天皇は34歳。

「2.26事件」での最大の主役は、やはり、昭和天皇であったことを再確認しました。
 若き天皇が直面した「天皇制の危機」でもあったことが、本書によって詳細に語られます。
2.26事件が起こったときの、天皇の反応は実に早いものでしたし、事件を知った直後からの天皇の発した言葉は、一貫しています。
(事件前からの発言を含めて記してみます。)

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昭和10年12月
「青年将校の蠢動(しゅんどう)を抑えよ」(8巻、p56、234)

昭和10年12月に青年将校が岡田内閣を倒すために、議会を占拠してクーデターを起こす計画と中止になったいきさつがあります。
そうした情報が流れたことに天皇は、当時の川島陸相に注意をしたといいますが、川島にはそうした青年将校を抑える=弾圧する勇気はありませんでした。
天皇が危機意識を感じても、軍部の最高指揮官は、抑え込む勇気を失っていたという時代のまま、2.26に突き進んでいきます。

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昭和11年)1月10日
「忠義は大切だから・・・」(8巻、p182)

これは事件が起こるわずか46日前の1月10日の発言になります。
歩兵第一連隊・第七中隊長山口一太郎大尉が、新兵の入営の父兄に対する訓育方針で、内閣批判と高橋是清・蔵相への憎しみを込めた演説が問題となり、憲兵は
逮捕を考えるが天皇の上記の言葉によって、逮捕は出来なくなります。

昭和10年12月での「青年将校の蠢動を抑えよ」とは違った言葉になるのですが、著者は“天皇は、こうした発言に満足していたのではないか”と記します。

2.26の起こる前、天皇のこうした政治的判断が、「法を超えても、大御心(天皇の心)は認めてくださる」と、青年将校を一層、法を無視する行為に走らせたこと
が分かります。

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以下は、2.26事件後からの発言です。

2月26日
  ● 「早く鎮圧せよ」    

2月27日
  ● 「朕が股肱の老臣を殺戮す。かくのごとき凶暴の将校らは、その精神においても何の恕(ゆる)すべきものありや」

● 「朕がもっとも信頼せる老臣をことごとく斃(たお)すは、真綿にて朕が首を絞むるにひとしき行為なり」

● 「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧にあたらん」

2月28日 
「自決するなら、勝手にさせればよい。このような者に勅使など論外である」
青年将校が叛乱の責任をとって自決をするにあたって、勅使(天皇の使い)を派遣して欲しいという提案にたいする天皇の返答。

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叛乱鎮圧後、軍法会議に処せられた首謀者たちに対することば。
 ● 「厳重に処分せよ」(死刑にせよということになります)
 

天皇をとりまく状況を無視して、発言だけを引用しました。
これらの、断片的な言葉を見るだけでも、天皇の態度は、決起した日の26日に明確に決まっていたことが分かります。  

26日には、青年将校を支持するか或いは同情をもっている「皇道派」に近い侍従武官長(本庄繁大将)らに、「早く鎮圧せよ」と繰り返し、声を荒げて叱咤しています。  

天皇の<大御心>を信じての青年将校たちの決起は、決起したその日に、天皇からは、鎮圧の対象=叛乱軍=逆賊として断定されたことに注目します。
俗ないいかたをすれば、決起したときに、すでに勝負は決まっていたといえます。  

著者は、こうした天皇の発言は、天皇を支える「側近」の後ろ盾があって出来たことと書いてはいるのですが、それであったにしても、天皇の怒りは<すさまじさ>をもって
いたと言わざるを得ません。
これがあったからこそ、軍中央部が武力討伐に向かっていく流れを作ったといえるからです。  

この時の天皇は、側近の意見の上にただ鎮座する「大元帥」ではなかったのです。
著者も書くように、2.26を是認することは、<天皇制の崩壊>に繋がることを、直感的につかんだことを意味します。
己を締め上げるかってない状況の中で、弱冠34歳の天皇の政治感覚に驚くのです。
このことが、皇道派にシンパシーを感じていた秩父宮が、天皇の怒りのすさまじさに驚き、決起軍に対立していくことをも作り出していきます。

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2)秩父宮(ちちぶのみや)

(1902年6月〜1953年1月、昭和天皇の弟、享年50歳)

<2.26の青年将校と秩父宮>との関係は、2.26事件の本に接するとき、論じられることの多い事柄です。
「実際はどうであったのか」という興味の起こる問題でもあります。
叛乱軍の鎮圧を一貫して主張し続けた昭和天皇の弟であればこそ、「青年将校と親しい関係」を噂される秩父宮の存在は、政府と軍中央部からみれば、極めて深刻な事態を引き起こし
かねない存在であり、決起側からみればこの上ない強い味方になるからです。

結論からいえば、青年将校の何人かとは親しく、青年将校の「革新運動」にシンパシーすら持っていた秩父宮は、2.26事件への天皇の激しい「叱責」を目の当たりにして、自らの
立場を「鎮圧」の側に置き換えたとしています。

以下、秩父宮と2.26との関わりを記します。

2月27日午後、弘前歩兵31連隊の大隊長をしている秩父宮が上京してきます。
宮中や軍中央部は、決行将校らに利用されるのを恐れます。「招かざる客」の到来であります。   

(11巻、p93〜) “秩父宮は歩三第六中隊長に勤務のころ、同連隊の安藤輝三大尉や坂井直中尉(両名とも、昭和11年7月12日、処刑)を部下にもち、とくに安藤とは親しかった。”

“秩父は歩三のころ、安藤大尉を偏愛した。
(中略)
それくらいだから、歩三の部隊内では秩父と安藤の談笑は頻りだったに違いない。
(中略)
人間的な好みも、その思想のシンパシーがなければ生じるものではない。”

“事件中の秩父宮の状況は、宮内省にとって、ちょっとした台風であった。事実、決行部隊は秩父宮上京と聞いて元気づいたようであった。”


上京した秩父宮は、天皇の「叛乱軍は鎮圧すべし」の主張を知り、方向転換を始めます。

2月28日には次の言葉に至ります
「今次主導者(決起の青年将校)などは、当然自決すべき」(11巻、p160)

決行部隊の将校たちへのシンパシーは微塵もなく、明確に天皇の立場に立ったのです。
この秩父宮の変身を、著者は説得力ある説明を(11巻、p346〜349で)しています。
要約すれば以下のようになります。

入京した秩父宮は、天皇の叛乱軍に対する強硬な意思を知った。宮廷官僚の空気も知った。(陸軍)幕僚の弾圧意見も知った。
28日昼ころには、叛乱軍の状況も聞き取った。
この時点で、秩父宮は叛乱軍鎮圧の、中央部に傾いた。

この秩父宮の余りの変わり方を、著者は次のように納得できる説明をします。   

  “事件発生を知って弘前を発った秩父宮の胸中には、叛乱軍に安藤が歩三の部隊を率いて参加していると分かって、事件の収拾に彼らの希望を達するよう宮中での努力を考えて
いたのではないだろうか。
でなかったら、自分の状況が疑惑の眼で見られると分かっていながら敢えてそれを実行するはずはない。
(中略)
だが、着京してみて以上の情勢を知った。もっともショックだったのは、「朕自ら近衛師団を率いて討たん」という天皇の激怒であろう。
(中略)
ここから秩父宮の「変心」が起こった。”

中立の立場などあり得ない秩父宮にとって、安藤に投げた言葉は「当然自決すべきなり」であり、身にふりかかった火の粉を払うことで、自己保身を図ったといえるでしょう。
これを無節操な「裏切り」と呼ぶか、皇族の一人として、守るべきものの大きさゆえの「変心」と呼ぶべきかは単純には言い切ることの出来ない状況だったでしょう。

私には、この時の心の内を示すことなく没する(1953年)ことで、「天皇制」を護るの一点において、成るべくしてなった出来事であろうと考えるのです。


D−V)安藤輝三・大尉(1905〜1936、銃殺刑。享年32歳)

本書で最も印象に残った人物は、安藤輝三大尉(歩兵第三・安藤中隊の指揮官)でした。
 <2.26>といえば<北一輝>という構図では一面的であり、「安藤を語らずして、<2.26>を語ることは出来ない」というのが、私の率直の感想になります。

このように受け取るには、本書で描く著者自身の安藤像もさることながら、安藤自身が本来持つ魅力に引き付けられていくせいかもしれません。
安藤は、初年兵を精神的にも掴んだ上官の姿として、また、皇道派の中では少ない、理性の一面を持つ軍人として描かれているのです。

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1)最初に、決起に関するものです。

●安藤は2月22日まで、決起に反対し続けます。
著者がみる、決起に反対し続けた理由です。(9巻、p31)

@目標を襲撃しても成功の見込みなし。

A襲撃が成功しても、その後の情勢が思い通りにならない。

安藤は的確に、冷静に状況をみています。

●この冷静な安藤が、磯部浅一の強い説得があったとしても、何故2月22日に「決起」を約束したのかという疑問が起こります。
その理由を、著者は次のように推定します。(9巻、63〜)。

@ 栗原や磯部らの先鋭分子に引きずられた。

A 安藤の指揮する「歩三」の部隊(150名と武器)を連れていけば、「あるいは勝ち目があるかも知れない」と思った。

B 決起に参加しない場合に、自分が、鎮圧部隊の中隊長として決行部隊との対決も起こりうる。ならば、同志と共に殉じようと覚悟をした。

著者が何度も書くように、安藤の決意の時から、2.26が始まったとされる重さがあります。
逡巡したうえで、敗北を覚悟しながらも(もちろん、僅かの成功を確信しつつも)一線を超える姿があります。
読み進めながら、私は、Bが一番安藤らしい決意の状態ではなかったか、という気がします。

2)安藤部隊は鈴木貫太郎・侍従長(1867.12〜1948.4)を襲撃します。(10巻、p69〜)

銃弾に倒れた鈴木が瀕死の重傷を負っているときの描写です。   

”安藤が軍刀を抜き、とどめを刺そうとしたとき、夫人が

「それだけは私に任せて下さい」と口を初めて開いた。
「では、とどめはやめます」といって、倒れている鈴木に挙手の礼をし、そこにいた全員は捧銃(ささげつつ)の礼をとった。

“安藤のこの時の態度は、他の決行将校の振る舞いと比較され、「さすが安藤」と、一部に賞賛されているところである。”


しかし、「さすが安藤」と賞賛されたとしても、鈴木を襲撃したことの誤り(歴史的な犯罪の意味も含めて)は明らかであり、「皇国史観」という「虚像」を信じて、老臣を襲撃した
一人の皇道派の青年将校にすぎなかったことは、厳然たる事実であります。
どれほどの人物であっても、自分の置かれた立場と、誤れる「大義」によって自分の命をかけることも、また、他人に「死を強制」することも可能であることが分かるのです。

大切なことは、彼らの行動が正しかったのかどうかという一点にあるはずです。

人間は、予想を超えた生命力を発揮するものです。
「とどめ」をされなかったことで、鈴木は一命を取り留め、後に、終戦時の首相として歴史に名を残すことになります。

3)事件後に書かれた「鈴木貫太郎自伝」から(10巻.p88〜)
(2年前の安藤と鈴木の出会い)

@ 事件の2年前、海軍大将でもある鈴木は安藤と革新政策について話し合ったことがある。

A 鈴木の説明に納得した安藤は、友人にも聞かすと言って帰っていった。このとき、30分の予定が3時間にもなった。

B 鈴木が安藤に言ったことは次のようなことであった。   

  ○軍人が政治に進出してはいけない。
○君は、総理大臣は荒木貞夫大将でなければいかんというが、そこまで主張するのは、天皇の大権を拘束することになるのではないか。
○農村が疲弊し、兵に後顧の憂いがあるから、軍人の手で改革しなければならないというが、日本国民は君のいうように、外国と戦をするのに後顧の憂いがあって戦えない民族だろうか・・・」
などであると。

このとき、鈴木は66歳、安藤は30歳です。
2人が語り合うというより、老臣の話を、自分に言い聞かせながら納得しつつも、他の将校を説得することの困難さを感じていた安藤の姿を想像するのです。
鈴木の言葉であっても、「農村の疲弊・・・後顧の憂い・・」に関しては、納得できないものをかんじるのですが、ともかくも、2人の間には真摯な会話の時間が流れたことを記憶に留めて
おきたいのです。
安藤とはこのような人間であったことをです。

安藤が決起に反対し続けているとき、鈴木の言葉が何度も頭をよぎった事でしょう。
それでも、決起にはやる青年将校たちに同調していくときの安藤の迷いを感じるのです。
さらに、自分の襲撃する人物が鈴木になったという、もう一つの物語が作り上げられていきます。
そして、重傷を負いながらも、一命をとりとめた鈴木について、安藤が何を感じたろうかという別な思いが浮かんできます。

4)叛乱軍(賊軍)とされても、闘うことを主張。(11巻、p231〜)

2月28日午後5時8分、「奉勅命令=天皇の直接命令」が出され、決起部隊は「叛乱軍=賊軍」とされます。
29日の朝には、叛乱軍への攻撃準備が完了し、29日午前9時に「攻撃前進」開始となります。
開始10分前の8時50分にラジオ放送で「兵に告ぐ」が繰り返し流され、飛行機からビラが撒かれ、アドバルーンが上げられます。

私たちが、2.26事件を昭和の映像として見るとき、必ず流される光景です。
この30分後から、兵の帰順(占拠を解き、原隊に戻る)が始まります。
「天皇の命令」「逆賊の汚名」という言葉の重さを感じることになります。

そうした中で、安藤は最後まで闘いを主張します。   

  “安藤は決行に最後まで反対したが、ひとたび参加するや、誰よりも闘志をもった。
(中略)
同志が自刃を決定したと聞いて憤慨し、「戦闘準備」を部下に命じたのである。これは兵を道連れにした安藤集団の自刃である。”(11巻、p151)

驚くべきは、こうした安藤の命令に、部隊の誰一人として反対するものがいなかったことです。
ほかの部隊によっては、「脱走兵」が出ている状況の中においてもなお、ひとつにまとまっていたことに、安藤が兵を芯から掌握していたことをしめしているのです。

重火器を装備した1400余名の軍隊が、一戦も交えずに「崩壊」していく「天皇の軍隊」の現実があります。
著者が強く述べているように、これだけの軍事行動に、最高指揮官不在であったために、各中隊が、それぞれの判断で、次々に帰順していく様子が描かれます。

最後まで闘う意思を持ち続けた安藤部隊も追い込まれていきます。
ここで描かれる安藤と兵士の姿はさながら映画のクライマックスシーンのようですらあります。
安藤が泣く、兵士も泣く。
この涙が乾くことのない場を著者はいくつかの「記録」「メモ」から詳細に記し、私には、著者自身の安藤への想いいれさえ感じるのです。
(11巻、p282〜304)

2人の、それぞれの「手記」からの抜粋です。(11巻、p289)   

  @“・・29日安藤大尉が自刃せんとするや、当番兵は其の腕にすがりつき泣いてこれを抑止し、又、一下士官来たって『中隊長殿、兵のところに来て下さい、皆一緒に御供しよう
と言って集合しています』と告ぐ。
上下一人各に融合一体化せる状、みるべきなり。
兵が「第六中隊」の歌を合唱し終わった直後、安藤は咽喉に当てた拳銃の引き金を引いた。弾丸は貫通して頬骨から出た。
その後に人事不正からさめる。陸軍病院に収容された。”

  
A“中隊長(安藤が言う)『前島、放してくれ。中隊長は何もしない。するだけの力がなくなってしまった。随分お世話になったなァ。いつか前島に、中隊長殿は農村の現状を知っていますか、
と叱られたことがあったなァ、今でも忘れないよ。お前の心配している農村もとうとう救われなかったなァ』と、涙が抱きついている袖を濡らす。”

こうした情景がいくつか描かれる安藤部隊の姿に、敗北を前にしたとはいえ、これが軍人の発する言葉なのかと戸惑いすら覚えます。
まるで「平家物語」に描かれた「袖を涙で濡らしつつ死に赴くような」現実が、「天皇の軍隊」に起きた一つの状況として記憶に留めておこうと思うのです。

同時に、著者は以下のように冷めた目で見る文章も忘れてはいません。   

  “・・・安藤隊は安藤の人柄によって家父長的な秩序が強く出来上がっていた中隊であって、28日午後から29日朝にかけて「殉死」の興奮が生じた特殊な中隊である。”
(12巻、p219)

5)処刑される時の言葉
  (高橋正衛『二・二六事件』から)

昭和11年7月12日の処刑での最後の言葉です。  

“別に御座いませんが、松陰神社のお守りを身に着けて討たれたいと思います。
家族の者が安心いたしますから。
「天皇陛下万歳」
「秩父宮殿下万歳」”

青年将校のすべては「天皇陛下万歳」を叫びましたが、同時に「秩父宮殿下万歳」も発したのは、安藤だけとなっています。


D−W)永田鉄山・軍務局長(1884年1月〜1935年8月12日、享年51歳)
(相沢三郎に斬殺される)

「侵略戦争のための偉大な人材」永田の大きさについて多くのページを使っている中から、要点を記すことに留めます。

●歴代の軍務局長中、彼ほど軍部と資本主義の結合をもくろみ、警察政治を考えるというスケールの大きな者はいなかった。後年、東条英機がやったのは、永田の猿真似である。

●永田が志したのは戦争のための「統制経済」である。

●侵略戦争を企てている点で両派(皇道派と統制派)は全く同じであるが、永田はその最も科学的な頭脳の持ち主であった。侵略戦争のための偉大な人材であった。

●永田の合理主義は、陸軍の先走りではなく、国内統制の完成を目指すところにあった。やがては政党・官僚・財界を軍の体制下におき、戦争に向かおうとした。

●永田が長生きしたら、第2の山県有朋になったであろう。
 「山県有朋(やまがたありとも。1838〜1922)は、軍人・政治家で、近代陸軍を創設。軍と官界に巨大な派閥を作り、絶大の権力を振るった人物」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうした、永田の「侵略戦争」にむけた構想にとって、情念的・狂熱的な皇道派の青年将校たちの皇道は、1日も早く潰したかった違いありません。
結果として、2.26は、皇道派の自滅と、「国家総力戦」に突き進む統制派の道を作る役割を果たしたとすらいえるかも知れません。

永田についての文章を読みながら、石原莞爾(1889年1月〜1949年8月、享年60歳)と重ねて見ることになりました。
2.26事件では、参謀本部として実質上の鎮圧の指揮を取った石原と相似た才能を持った軍人ではなかったかという感慨でもありました。


D−X)相沢三郎・中佐(1889年9月〜1936年7月3日、享年46歳)
(永田軍務局長を斬殺し、銃殺刑)

清張は「2.26事件」を、7巻の<相沢事件>から始めます。
   1935(昭和10)年8月12日、陸軍省内に於いて、相沢は統制派の中心人物、永田鉄山・軍務局長を斬殺します。
2.26事件の要因となった「相沢事件」といわれるものです。

これは、昭和10年7月15日、皇道派の真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)教育総監の罷免をした永田への怒りと憎しみがきっかけとなり、一か月も、たたずに起こった事件です。

著者は述べます。
“相沢事件は陸軍の権威を失墜させ、皇道派青年将校は昴した”と。(7巻、p138)

この時の陸軍省の「恐慌」ともいえる騒ぎを見た磯部浅一(いそべあさいち)は、「獄中手記」に綴ります。
“たった1人でこれだけの事を起こせるなら、省内に2〜3人の同志将校が突入したら、陸軍省は完全に占領できると思った”と。(7巻、p104)
(そして、磯部の思い通りに、陸軍省は占拠され、決起軍の本部となります。)

相沢という人物を列記すれば以下のようになります。(7巻、p59)
●事件の時、43歳。(青年将校からすれば年配の相沢の行動に、感激し、後に続く状況が生まれます)
●剣道4段で剣道の教官。
●尊王信念強固で狂熱的。
●陸軍省の要注意人物、危険人物として部内に知れ渡っていた。

著者は、いくつかの事例を挙げて、精神錯乱者ともいえる人物像を描きます。
結論からいえば、「狂信的な皇道主義者」が「狂信的」な行動に出るべくして出たといえるのです。
相沢という人間(軍人)を生み出し、こうした行為と人間(軍人)に熱狂した昭和史の歴史を直視することの必要性を強く感じるのです。

相沢公判は、皇道派の主張を公に訴える宣伝の場となりましたが、2.26事件の鎮圧によって、裁判は陸軍中央部の強硬進行により、1936年5月七日に死刑判決、同7月3日
相沢は「君が代」斉唱するなかで銃殺刑に処せられます。


D−Y)北一輝と西田税。

2)北 一輝(きた いっき。1883.4〜1937.8、事件後銃殺刑、享年54歳)
(「日本改造法案大綱」の著者。)

松本清張の描く2.26事件では、北一輝は脇役に収まっています。

『日本改造法案大綱』(36歳で執筆)が青年将校たちの思想の根幹にあったという歴史を考えて、2.26事件の中心思想でもあった北の思想が、彼自身の手を離れて歩き出して
しまった感じがあります。

晩年の北は『日本改造法案大綱』とは離れて「革命ブローカー」としての生活を送ります。

北、西田と青年将校との緊張関係は、「青年将校らが、今にも決行しそうな危険を絶えず持ちながら、決行しないこと」にあり、この危機の持続で、政財界に恐怖を持たせ、
「金」を得ることであったと断じています。
事実、こうして、1932年に右翼に暗殺された三井財閥の団琢磨(1858〜1932)の死以後、三井財閥から多額の金を受け取り、豪勢な生活を送っていたことでも「政界の黒幕」として、
自ら意識していたといってよいでしょう。

昭和10年末には、北と西田は急進的な青年将校の接触から遠ざかろうとします。
軍の上層部が動かなければ決起は失敗するとの判断で、反対の態度を取ります。
当然、2.26決起は、北、西田の思惑を超えての青年将校たちの自発的行為であったことになります。(8巻、p334〜)

北と西田には、中国革命に奔走した情熱も失せて、「政界の黒幕」に身を置く生活に「安住の地」を見つけたと、著者は述べています。

それでも、決起の動きを三井(財閥)に内報していないのは、「青年将校らに対して、背信行為はしなかったという、<革命家>としての矜持であった」として、北と西田が2.26事件
の首謀者の一員として処刑されたことの欺瞞を何度も書いているところです。

1936年7月12日に15人の処刑から、1年以上の時間が過ぎた1937(昭和12)年8月19日、村中孝次、磯部浅一、北一輝(輝次郎)、西田税の4人が処刑されます。

処刑は、筵の上に正座をして、晒(さらし)布を巻かれた刑架に晒布で縛られ銃殺されました。
「座るのですか、これは結構ですね。耶蘇や佐倉宗吾のように立ってやるのはいけませんね」が、最後の言葉で、「天皇陛下万歳」は発しませんでした。

<若殿に 兜(かぶと)とられて 負け戦>
北の辞世の句であります。
(若殿は天皇、兜は軍隊を意味します)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2)西田税(にしだ みつぎ。1901〜1937.事件後銃殺刑、享年36歳)

陸軍士官学校を卒業し、在学中に北一輝の「国家改造論」に共鳴し運動に入ります。 病気で依願予備役となるなどの経歴をもちます。

著者は「西田に著作もなく、見るべき理論もない、革命ブローカー的人物」と厳しい評価です。
また、青年将校から「・・・切らねばならぬ人物」などと思われるなどしています。

そうした面はあったにしても、「国家改造」の北の思想を、実践面での活動をしたということになるのであろうと考えます。

2.26事件では、北と同じく、民間の首謀者として死刑を宣告されます。

最後の言葉は
「死体の処置はよろしくお願いします」で、北と同じく、「天皇陛下万歳」は発しませんでした。

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1937(昭和12)年8月19日に処刑された村中孝次、磯部浅一そして北、西田の4人とも、「天皇陛下万歳」は発していません。
1936年7月12日に処刑された15人全員が「天皇陛下万歳」を発しているのとは、対照的な場面です。

題名は忘れたのですが、何十年も前、映画(或いはテレビドラマ?)で、北と西田が処刑場に歩いていくとき、西田が北に言葉をかけます。
「<天皇陛下万歳>を云いましょうか」
北が答えます
「いや、止めておきましょう」

それまでは、柱に結わえつけられた青年将校たちが大声で「天皇陛下万歳!」と叫んで、次々に銃殺される映像を見ていただけに、新鮮な違和感が残ったのです。


D−Z)特設軍法会議と下士官兵の有罪。皇道派と統制派。(12巻、13巻)

本来なら2.26事件は、「統帥権干犯」として裁かれて当然のことでありました。
<軍事大権は天皇に属す>ものである以上、兵と武器を「私用」したこと自体、明らかな「統帥権干犯」であり、私のような素人にも理解できる論理です。
しかし、裁く側にも「統帥権」を持ち出すと、「どの時期をもって叛乱とするか」などの論理的矛盾を抱え込むために、そうした言葉を使わずに軍中央部の都合の悪いことは抹殺しての
「密室と暗黒」の裁判を強行したことが詳細に綴られていきます。(12巻、p244)

1)特設軍法会議(12巻、p44、p220〜230)

この軍事法廷の「密室性」を物語るには、<裁判記録が処分されて現存していない>という著書の言葉にあります。
(“取り調べ中に詳細を尽くしたであろう予審調書もこの世になく、検察官の予審・公判請求書もなく、また完全な判決書もない”状況のなかで、出来るだけ真実に近づけるための資料
集めの結果として、「特設軍法会議」の問題点を洗い出して、私たちの眼前に提出してくれたことに敬意を表したいと思います。
同時に、1988年に公判記録が発見されたとの(ウイキペディア)の文章がありましたので、引用しておきます)

軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られ
ていた。
匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が遺族およびNHKのディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされたのは1988年のことである。
(ウイキペディア)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和11年3月1日に「東京臨時陸軍軍法会議」=「特設軍法会議」の設置を閣議決定します。
著者は「特設軍法会議」とは戦時事変に特設される或いは「戒厳地区」に設けられるもので、2.26事件には当てはまらないことを、説得的に詳細に論じているということに留めておきます。

「特設軍法会議」とは以下の裁判形式をもって行われます。
@非公開、
A弁護人なし、
B即時確定・上告なし、
C常人(民間人)を含む、
D分離審理、
E戒厳令下で結審。

本来なら、「常設軍法会議」であるべきを、「特設軍法会議」として強行した理由です。

●陸軍は相沢裁判で懲りていた。
(たった1人の相沢に法廷をかき回され、皇道派の宣伝に使われたことを再度許してはならない。

●対中国戦争への気構えで、出来るだけ早く処理したかったという陸軍の圧力があった。(12巻、p96)

上記の本音を隠して「戒厳令下における迅速なる事件処理」とした言い訳がなされ、さらに、戒厳令下だから裁判を急いだのではなく、裁判終了を急ぐために戒厳令を続行したのだとする
著者の見方が述べられます。

こうして、「特設軍法会議」のもつ矛盾を、いくつかの視点で執拗に追及する著者の文章は、鋭い切れ味をみせています。
勿論、著者の文章をまつまでもなく、2.26決起の終焉の流れからして、軍の圧力による暗黒裁判であることは認識できるものの、具体的な事例をもっての説明はやはり重要であります。

これによって、軍中央に投降した青年将校たちは、相沢裁判のように裁判を闘うとした思惑は大きく外れていくことになります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「特設軍法会議」の公判廷は代々木練兵場の一隅に急造され、特設公判廷の隣は刑務所であり、軍による厳重な警戒のもとで裁判は進行します。(12巻、p185〜)
軍法会議に送られた人物(146名)は以下のとおりです。

○叛乱将校18名。

○叛乱に参加せざる将校・山口以下17名。

○村中孝次、磯部浅一、北一輝、西田税、水上たち常人(民間)15名。

○検察官の起訴した下士官兵92名。

○予備将官として真崎甚三郎大将、斉藤瀏少将の2名。

一切の弁論も許されないまま、死刑判決が1936(昭和11)年7月5日(第一次死刑判決)に17名、1937年8月14日(第二次死刑判決)に2名の死刑判決が下されます。
1936年7月12日に15名の処刑、1937年8月19日に4名(第一次判決の村中孝次、磯部浅一と北一輝、西田税)の処刑が行われます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この中で、私が最も関心を持ったのは、「下士官兵92名」をどのように裁くのか、否、もともと裁くことが可能なのかという疑問でした。

2)下士官兵の有罪(13巻、p95)

昭和11年7月5日に青年将校たちに下された死刑判決と共に、下士官と兵にも判決がなされます。

○下士官(42名)・・実刑17名(禁固15年が最高)
      有罪14名(禁固2年、3年の執行猶予付き)
      有罪11名(禁固1年6か月、3年の執行猶予付き)

○兵・・・・3名有罪(禁固2年〜1年6か月、全て執行猶予付き)

下士官兵を、陸軍の下士官と兵に分ければ次のようになります。
下士官・・士官、准士官と兵の間に位する軍人(陸軍では曹長、軍曹、伍長をいう)
兵・・・・軍の最下位の階級(陸軍では兵長、上等兵、一等兵、二等兵をいう)

兵の大多数は、1月10日に入営したばかりで、兵になってから50日に満たない初年兵であったことに注目します。
召集されてきた、軍の西も東も分からぬ兵が最初に叩き込まれたことは、軍への「絶対服従」であり、「上官の命令は“朕”の命令である」という、一切、異議申し立ての出来ない日本軍
の規律であります。
私たちが、映画などで目にする異常な初年兵に対する「暴力と制裁」の上に成り立つ「天皇の軍隊」の実態であります。

命令がどれほど間違っても批判も拒否も出来ないことを肉体に叩き込まれた人間(兵士)に、罪が問えるのか?
という問題が当然起こってきます。

著者は、この基本的な矛盾に、様々な角度から執拗に迫っています。
裁判を直接担当した人間の記録や、当時の法律学者の論理を引用し、この軍法会議の非条理を指摘し続けます。

私には、下士官兵を裁く軍法会議の箇所を読みながら、一つの疑問が起こりました。
昭和天皇は、2.26事件に一貫して「鎮圧すべし」の態度を取り続けました。
「天皇制」の根幹を揺るがしかねない危機を感じ取ったその政治感覚は見事でありました。(天皇に進言する側近が居たにしても)
その上で、天皇が、下士官とりわけ、多数の「初年兵」が命令によって決起の隊列として進軍せざるを得なかった事実を知らなかった筈はないだろうという想いです。

「叛乱を主導した青年将校たちは、厳重に処分せよ」とは、軍法会議に向かっての皇の言葉であります。(12巻、p211)
ならば、と考えます。
その時、同時に天皇は「下士官と多数の初年兵は、その罪にあらず」との言葉も付け加えるべきではなかったかと。

「陛下の赤子」として召集され、「絶対服従」を強制された兵士への最低の責務であり、精神的に兵士を救う一つの道であったろうと思ってしまうのです。

残念ながら、そうした言葉に出会うことなく「2.26事件」は終焉を迎えましたので、天皇の発言はなかったのでしょう。
兵士の心象とは対極(無縁)のところでのみ存在した天皇にとって、最も切実なことは<天皇制と国体の護持>であれば、当然のことであったろうとは思えるのですが。

3)陸軍の矛盾(12巻、p205〜)

陸軍は、別な意味で、下士官兵を断罪することの矛盾を考えざるを得なくなります。

「絶対服従」を叩き込まれた兵士を、叛乱軍として重臣たちを「襲撃・殺傷」したことで「重罪」にすれば、それまでの軍の秩序が崩壊することに危機意識をもった軍部は、
軍隊秩序擁護に踏み切ります。

「・・・今次事件に於いても、上官の命令なりと信じ、唯これに服従したる者の行動は何等刑事上の責任なきものと認む」

ここにいたった理由を、著者は以下に示します。
“「満州国」擁護から、翌年7月(1937年7月7日・盧溝橋事件)に始まる中国侵略戦争の用意と、国内にあっては徴兵制度の危機と反軍思想台頭を防ぎ止めなければならない”
として。

それでも、45名の下士官兵に「罪」を負わせることの不当性は厳然として存在します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(13巻、p101)
1936年7月18日、戒厳令は解除されます。
2月26日に発布されてから5か月近くになります。

その理由を以下に記します。
○戒厳令は国際的な威信保持の上からも、早く解除しなければならない。
 そのためにも、裁判を早く終結させた。

○満州国の独立を承認させるための戦争準備を急がねばならない。1年後(1937年7月7日)、盧溝橋事件が起こり、日中全面戦争に入っていく。

○ソ連との戦争も捨ててはいなかった。  

全てにわたって、軍部主導の戦争準備(総力戦)が整えられていきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで、松本清張らしい軍中央部の意識が描かれます。(13巻、p108)

“事件中、決行部隊に討伐の敵意を燃やしていた幕僚部は、終わってからもまだ憎悪を持ち続けていた。
そのヒステリックな感情は、彼らの「神聖な」本拠を農村出の兵隊が泥靴で占拠したというエリート族の屈辱感によって説明できないこともない。”

本書で何度も書かれている、軍中央部(幕僚部)の「陸大出」が持つエリート意識であれば、こうした感情は私にはとても納得できるものでした。


[)2.26決起の失敗の理由。

1)思想的敗北(天皇と天皇制の混同)
2)軍事的敗北(皇居占拠の失敗)

著者は、2.26事件の最後に、「決起の敗北の理由」を論じています。
私はそれを「思想的敗北と軍事的敗北」という言葉を使ってまとめてみました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1)思想的敗北(天皇と天皇制の混同)   

  (13巻、p232〜)
●“彼らの最大の挫折の原因は天皇の激怒にある。
天皇制のもとでは、その国家体制に利益する場合のみ、天皇個人の古代神話の絶対性が発揮される。もしそれに反した場合は、天皇制のもとにそれは封じ込められる。
2.26事件の場合は、その後者の顕著な例である。
(中略)
2.26事件の叛乱に憤激した天皇も、事件後は軍部の妖性の前に無力化した。それが天皇制の本質というものである。”

(8巻、p241)
●青年将校は天皇と天皇制との区別を知らなかったとする別の文章も追加しておきます。
重臣たちを襲撃して殺したことに対する、天皇の反応に関するものです。   
  ○天皇の最も信頼していたのが、倒れた重臣個人にあったというより、重臣組織にあった。その破壊は天皇制の「圧殺行為」と解することができる。
○天皇は天皇性の本質をもっともよく知っていた。
○神権的天皇制が、青年将校らの攻撃する重臣層とそれに支持される内閣と政党・資本主義経済などの体制に十重二十重と取り囲まれていなければ存続の困難であることを天皇
は感得していたといえる。
○天皇は天皇性の正統的護持者であった。

明快な論理であります。
決起した青年将校らが、ただ天皇個人の「聖断」にのみ頼ろうとしても、彼らの行動自体が、天皇制を崩壊しかねないと天皇自身が持つ危機意識の前に、徹底して、抑え込まれる
ことを意味しているのです。

●実質の指揮官として存在し続けた磯部浅一にも、「天皇個人」と「天皇制」との混同が理解していなかったとしての批判がなされます。   

  (13巻、p125)
○“磯部は、天皇個人と天皇体制とを混同して考えている。
古代天皇の個人的な幻想のみがあって、天皇絶対の神権は政治体制に引き継がれ、「近代」天皇はその機関しかないことが分からない。
天皇の存立は、鞏固(きょうこ)なピラミッド型の権力体制に支えられ、利用されているからで、体制の破壊は天皇の転落、滅亡を意味することを磯部らは知らない。

さらに、磯部らの天皇観についての批判が続きます。   
  ○“磯部らの皇道は、逆に天皇制の破壊であった。
そのもっとも端的な表現が「朕が最も信頼せる老臣を悉(ことごと)く倒すは、真綿にて、朕を絞むるに等しき行為なり」
   という天皇自身の言葉である。
裁判が「絶対に我が国体に容れず」と決めつけたのはこの意味である。磯部はこのことに気が付かない。
  「天皇の名をもって頭からおさえつけるのだ」とその攻撃する天皇機関説的体制の実態に現実にふれながら、「天皇の御徳をかがす」として、天皇個人と天皇制とを混同する。”

以上の引用によって、著者による磯部たちへの具体的な批判が示されます。
この指摘は、2.26事件を考えるうえでの、基本的な事項であると思います。

それであればこそ、下記に示した、「一弾も交えずに包囲軍に屈服していく叛乱軍」は、当然の結果でもあったでしょう。

●(11巻、p239〜)で、「一弾も交えずに鎮定したのは、包囲軍の武力攻撃敢行の前に決行幹部が屈服したのである。」とした上で、次のように見ています。   

  “幹部の屈服は、兵隊どうしの殺戮はあり得ぬと最後まで信じていたのが破れたことだ。
軍中央部は「皇軍相撃」までは決断しないだろう、出来るわけがないという確信が、絶対優勢の包囲軍を前にして彼らが一歩も引かなかった理由だ。
「撤去すれば敗北」と磯部らが主張し、北一輝が電話で必死に説く所以である。
その予想が崩れて、包囲軍は「奉勅命令」をかざし、戦車を先頭に突っ込んでくる。だまして連れ出した千数百名の下士官兵をみすみす殺すことになる。
これが決行部隊を恐怖させた。
「兵が可哀想」ということもある。
  しかし、無辜(むこ)の多数の兵を殺してしまっては、「昭和維新の捨て石」も何もあったものではない。
彼らに国民の怨嗟と憎悪が集中するだけである。大義名分は泥に落ち、「後続の維新運動」も息の根を絶たれる。
これが屈服に至る主たる原因である。“

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2)軍事的敗北(皇居占拠の失敗)(10巻、p168〜205)

本書で初めて明らかにされた宮城占拠計画とその失敗は、2.26事件がもつきわめて重要な事実であり、象徴的な場面であります。

“宮城占拠が成功していれば、「玉=天皇」を手中にした決起軍は、殆ど万能に近い威力を発揮しただろう。”
と指摘する著者の言葉は予想を超えた「if」を描きだしていきます。

37ページにわたっての詳細な叙述は、迫真のドラマであり、読むものをして「もし、成功していたら」という仮定を成立させていきます。
それは、「もう一歩」踏み込んでいれば、成功したのではないかとすら思わせるのです。

しかし、この「もう一歩」が、@で述べた「天皇と天皇制の混同」から抜け切れなかった決起軍の思想の限界ととらえれば、超えることのできない大きな溝であったことも
  理解できるのです。
それでも、「あるいは」という感慨が、今もなお消えることはありません。
さらに、敗北の要因としていくつかの指摘は、それぞれが重要な問題であるのですが、項目のみ挙げておきます。

●最高指揮官の不在。(11巻、p276〜)(13巻、p232〜)

●国民の支持をうしなったこと。(13巻、p245〜)


D−\)事件後の日本(下士官兵のその後を含めて)。(13巻)

2.26事件後の日本社会が問題になります。(13巻、p259)
<2.26事件>その後の日本はどのような状況のもとで、戦争に突き進んだのだろうか?
 これは、<2.26事件>とは、なんであったのかという問題でもあります。

“(2.26事件後も)軍部は絶えず「2.26」の再発をちらちらさせて政・財・言論界を脅迫した。
かくて、軍需産業を中心とする重工業財閥を抱きかかえ、国民をひきずり、戦争体制へ大股に歩きだすのである。
この変化は、太平洋戦争が現実に突如として勃発するまで、国民の眼には分からない上層部において静かに、確実に進行していた。”

武装した軍が、規則を超えて行動する。これほどの「脅し」はありません。
1945年8月15日まで、続くことになります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここに記しておかなければならない「事後の話」があります。

2.26が鎮圧され、「特設軍法会議」(弁護人なし、)が19人の死刑を決め、最後に真崎甚三郎の無罪判決で、2.26事件は終わりとなります。

その後、命令のままに連れだされた多くの下士官兵はどうなったのかということであります。(13巻、p108)

○決行部隊の下士官は、起訴・不起訴を問わず、事件後間もなく免官された。
執行猶予付きでない有罪の下士官は、刑期を務めた後、一兵士として召集されている。

○兵は判決を受けた後無罪組も、有罪組(ただし、執行猶予付き)も、ともに、原隊を追って渡満する。
(こうして、事件参加者の下士官兵の多くは、満州での交戦と続く日中戦争・太平洋戦争で、殆ど戦士していきます)(13巻、p259)

“ともあれ、「2.26事件」はこうして終わった、そしてこの頃、2.26事件の初年兵たちは、歩一、歩三の2年兵として、応急派兵され、北支の戦線で戦っていた。
  もと安藤隊だった歩三第六中隊など、この戦闘で殆ど全滅したという。”
(13巻、p208)


])簡単な年譜。
(高橋正衛『二・二六事件』p30〜35に、追加したもの)

以下は、2.26の簡単な年譜です。

1926(大正15)年12月25日・・・昭和元年。

1927(昭和2)年・・世界的な金融恐慌はじまる。

1928(昭和3)年・・張作霖爆殺(満州某重大事件)

1929(昭和4)年 7月・・浜口雄幸内閣(1931年4月まで)
10月24日・・ウオール街の株価大暴落(世界恐慌)

1930(昭和5)年 4月・・ロンドン海軍軍縮条約に調印。(統帥権干犯として政治問題化)
11月・・浜口首相、右翼に狙撃され重傷。

1931〜1932年「昭和恐慌」といわれる経済危機が深刻化。
(農村の疲弊、「娘の身売り」「一家心中」が増加)

1931(昭和6)年 9月18日・・満州事変の開始。
12月・・犬養毅内閣(1932年5月、5.15事件で暗殺される)

1932(昭和7)年 3月・・満州国建国。
5月15日・・5.15事件。

1933(昭和8)年・・国際連盟脱退。

1935(昭和10)年 8月12日・・相沢三郎中佐が永田鉄山・軍務局長を斬殺。
    陸軍の混乱をみて、磯部浅一は軍閥を倒すと決意する。
10月末・・磯部は村中と別居。
    村中、渋川善助らは相沢公判の活動に没頭。
    磯部は武力行動に専念する。
  11月3日・・陸軍省が相沢中佐起訴(軍法会議)。
11月〜12月・・磯部は、秦真次中将(予備役)を通じて荒木貞夫大将(軍事参事官)、真崎甚三郎(軍事参事官)、古庄幹郎(陸軍次官)、杉山元(参謀次長)から、
  なにごとか起こった場合の 中央部の態度を聞き出す。
12月・・第一師団満州派遣発表。

1936(昭和11)年
1月23〜4日ころ・・磯部は川島陸相訪問。
   1月28日・・相沢中佐公判第一日。
  磯部は真崎を訪問。
  2月10日(夜)・・歩兵第三連隊週番指令室に、安藤、栗原、中橋基明中尉、河野寿大尉、磯部たちが集合。(実行の準備に入る)
  2月11日・・磯部は西田税を訪問。
  2月12日・・橋本虎之助中将(前陸軍次官、現近衛師団長)が、相沢公判に証人として出廷。
  2月17日・・林先十郎大将が相沢公判に証人として出廷。
  2月18日・・栗原宅に、村中、栗原、安藤、磯部が会合し、来週中に決行を決定。
           安藤は「時期早し」と、行動に反対する。
     “われわれが前衛として飛び出したとしても現在の軍の情勢でははたしてついてくるかどうか心配です。
 もし、不成功に終わったら、われわれは陛下の軍隊を犠牲にするので、竹橋以上の大問題です。
 わたくしは村中さんや磯部さんと違い、部下をもった軍隊の指揮官です。責任は非常に重いんです”

2月19日・・磯部は豊橋に行き、対馬勝雄中尉に会い、在京部隊が近く決行することを伝え、興津の西園寺襲撃を依頼、対馬は快諾。
  2月21日・・磯部、村中の2人が、山口一太郎宅を訪問して、決行時の協力を依頼。
      夜に、磯部が安藤を訪ねて、決起を促す。
      山口一太郎は、西田税と協議。 

2月22日
  (朝)・・磯部が安藤を再び訪問し、決起を促す。
     安藤が決起を決意。(安藤の参加により、実質上の2.26が動き出す)
     16時、野中四朗大尉宅で、村中、野中、磯部が会合。
     野中が書いた「決意書」が、2.26「蹶起趣意書」の原(もと)になる。
     夜、栗原宅に磯部、河野、中橋、栗原、村中が会合。襲撃目標、決行日時、兵力部署などを決定。
 

2月23日
  栗原は豊橋に行き、対馬と細部打ち合わせ(小銃弾2000発携行)。
     村中は香田に、磯部は中橋に連絡。
     夜、歩三週番指令室に於いて、安藤、村中、香田、野中、磯部、坂井が会合。
     亀川哲也が真崎を訪問。

2月24日
  歩一週番指令室に野中、山口、香田、村中、磯部が会合(行動計画の打ち合わせ)。
     夜、田中勝が来る。
     山口は、23日に謄写版で刷った200枚ほどの、警備用の首相官邸、陸軍省、参謀本部を中心とした地図を村中、磯部らに渡す。    

2月25日
  湯河原に牧野伸顕の偵察に行っていた渋川善助の情報を磯部に連絡。
     14時に河野磯部の自宅を訪問し、湯河原に出発。
     夕刻、山本又(予備少尉)、磯部宅へ。
     19時に磯部は家を出て、歩一に入る。

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2月26日
  午前5時、一斉に蹶起。(1483人)
      午前9時、川島陸相が天皇に拝謁したときの天皇の言葉。
      「速やかに、鎮圧せよ」
       午後に川島陸相名で告示が出される。
  「蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ」
       午後8時40分に戒厳令が閣議決定。

2月27日
   東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長で早くから討伐を主張していた石原莞爾大佐が戒厳参謀にそれぞれ任命される。
  午後0時45分、川島陸相に対しての天皇のことば。
  「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」
  「朕が直接近衛師団を率いて鎮圧に当たる」を繰り返す。
       午後1時過ぎ、岡田首相の生存が確認される。
  午後5時。弘前より上京した秩父宮が上野に到着。
  午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令。

海軍は、26日に第一艦隊を東京湾に派遣し、27日午後には戦艦『長門』以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向ける。
  (襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斎藤内大臣がいずれも海軍大将であったことから、海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令した)

2月28日
   午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を命令。
  午後5時8分、「奉勅命令=天皇の直接命令」が出され、決起部隊は「叛乱軍=賊軍」とされる。

2月29日
  午前8時30分には攻撃開始命令(午前9時に「攻撃前進」開始)が下された
  午前8時50分に投降を呼びかけるビラが飛行機で撒かれ、ラジオで「兵に告ぐ」が繰り返し放送され、「勅命下る 軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンもあげられた。
  30分後から、反乱部隊の多くの下士官兵の帰順(占拠を解き、原隊に戻る)が始まる。
  (「天皇の命令」「逆賊の汚名」という言葉の重さがある)
  安藤輝三大尉は自殺を計るが失敗して病院に搬送される。
  野中四朗大尉は自決をする。
  北一輝、西田税も逮捕される。

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3月1日・・「東京臨時陸軍軍法会議」=「特設軍法会議」の設置を閣議決定。
3月5日・・牧野伸顕襲撃に失敗して負傷して病院に収容されていた河野寿大尉は自殺を図る。(翌日の6日死亡)

5月7日・・永田軍務局長を斬殺した相沢三郎に死刑判決。

7月3日・・相沢三郎に死刑執行。
7月5日・・17名に死刑判決。
7月12日・・15名の死刑を執行(死刑判決をうけた村中考次と磯部浅一は、北一輝と西田税の裁判の証人として執行を延ばす)
7月18日・・戒厳令解除される。
7月29日・・無期および禁固刑の判決(6名)

11月25日・・日独防共協定調印。

1937(昭和12)
1月18日・・禁固刑の判決(5年〜1年6か月、執行猶予付のもの4名を含む15名)

7月7日・・盧溝橋事件が起こり、日中全面戦争に入る。

8月14日・・2名に死刑判決(北一輝、西田税)と無期と禁固3年(各1名)
8月19日・・4名の死刑を執行(北一輝、西田税、村中考次、磯部浅一)

9月25日・・真崎甚三郎大将(皇道派)は無罪となる。


*参考にした5冊の本。

T)『対談・昭和史発掘』(松本清張、文春新書、2009発行)
「戦中篇・吹き荒れる軍部ファシズム(松本清張・五味川純平)p47〜86」を参考。

五味川純平(1916〜1995)は満州の製鉄会社に勤め、軍隊に召集され、ソ連との戦闘、そして捕虜という自分の戦争体験を描いた小説『人間の条件』の作家であります。
  2.26に関する五味川の言葉を断片的になりますが引用します。

○清張が『昭和史発掘』を書くときに発見したという「皇居占拠計画」についての五味川の発言です。

五味川“それにしても、2.26事件を軍事的にみると、どうしてあの軍事専門があんなお粗末な決起をやったか、どうも僕は納得がいかない。”

“ですから、私が軍事的になってないというのは皇居占拠をまずやらなかったのが一つ。もう一つ彼ら以外の軍隊が反撃した場合を予想して、それに対応できるだけの
  装備をもっていなくちゃいかんでしょう。これをやっていない。(略)”

“それなら絶対に皇居を占拠しなければならない。天皇を人質にしてしまえば、全国の師団が束になってかかってきても、これは勝ちですよ”

以上の五味川の言葉の間には清張の言葉が入るのですが、皇居占拠の意味が実に大きな問題であったことがわかります。

○もう一つは、五味川が秩父宮について聞いたことへの清張の返答です。

松本“秩父さんとあまり仲がよくなかったらしいね。秩父宮が革新将校に近づいたから仲が悪くなったというだけではないようだ。
秩父宮は天皇としっくりいかなかったから革新派青年将校に近づいたとも言えそうです。”

“安藤は歩兵三連隊で少尉のとき秩父さんといっしょだった。2.26の決行を聞いて秩父さんが勤務先の弘前から東京に夜汽車でくる。
一部では秩父宮が東京に来たら、青年将校が宮を擁立するのではないかと観測した。軍部でも政府でもそれを本当に心配した。
それでよけい天皇の「断固討伐」という強い発言になったんじゃないかと思う。あの時の天皇の発言は「杉山メモ」を見ても異常に神経質な面がうかがえるね。”

五味川純平原作の映画『人間の条件』(監督:小林正樹)はHP「映画雑記40」に2011年8月にアップしました。
映画雑記40『人間の条件』にリンクします。

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U)『昭和史(1926〜1945)』(半藤一利、平凡社、2004年初版)

1)2.26事件に関係ある、第五章。<2・26事件の眼目は「宮城占拠計画」にあった>(p141〜174)という章がこの顛末を簡潔にまとめていますが省略。

2)天皇と鈴木寛太朗侍従著との興味ある話を書いています。
(鈴木は、安藤部隊に襲撃されたのですが一命をとりとめ、終戦時の首相となった人物です。)

鈴木は昭和の初めから天皇のそばにいて父親のような存在であったこと、夫人のたかは天皇の子供の頃の乳母(母代わり)であったことを書いた後に続けます。   

  “いってみれば昭和天皇にとってもっとも親しみのもてるのがこの夫妻だったのです。
そのたかさんから第一報が(侍従を通して)天皇に伝えられたのです。しかも父代わりの人が陸軍軍人によって襲撃され、弾丸四発を撃ち込まれて瀕死の重傷、
  ということを母代わりから最初に聞かされた昭和天皇は、愕然となると同時にものすごい怒りを感じたのではないでしょうか。
したがって、天皇は事件に対してこれからたいへん厳しい立場をいっぺんにとるようになります。”

こうしたこともあったのだろうと思えます。
様々な、人間的な要素が絡み合って動いたに違いありません。

3)(p169)陸軍の派閥メンバー表
「皇道派」と「統制派」、さらに「宇垣系」といった派閥が登場します。誰がどの派閥に属するかは2.26事件を見るうえで重要なことになります。
  半藤がまとめた表を記しておきます。(振り仮名、階級などは後日調べて記入したい)

「宇垣系」(宇垣一成大将をかつぐ陸軍主流)○印は統制派に属する人。
河合操、鈴木壮六、白川義則、金谷範三、○南次郎、林弥三吉、○阿部信行、松井石根、二宮治重、小磯国昭、
○杉山元、○建川美次、畑俊六、林桂。

「皇道派」(2.26事件でほぼ壊滅)△印は後に統制派にひるがえった人。
荒木貞夫、真崎甚三郎、本庄繁、香椎浩平、堀丈夫、柳川平助、山岡重厚、△松浦淳六朗、秦真次、△磯谷廉介
小畑敏四郎、持永浅治、山下奉文、小藤恵、鈴木率道、鈴木貞一、村上啓作、牟田口廉也、根本博、満井佐吉。

「統制派」(陸軍中堅層)
永田鉄山、東条英機、武藤章、影佐禎昭、池田純久、田中清、片倉哀、今井清、真田穣一郎、永井八津次、
服部卓四郎、西浦進、辻政信。

*全体を興味深く読み通せるのですが、読み終えたとき、昭和天皇への評価が納得できぬまま読み終えました。
出来事を追認してしまう甘さを感じてしまいました。

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V)『二・二六事件(「昭和維新」の思想と皇道」)』(高橋正衛、中公新書、昭和40年初版)
48年前に出版されたという時間を考えても、現在でも歴史に耐える内容であることをかんじました。
新書版に簡潔にまとめてある本です。

p146〜150に書かれた「戦闘集団と隊付将校」の一節の文章です。   

  “・・・・隊付将校とは管制にある言葉ではなく、幕僚という名称と相対的に使用された言葉である。
(中略)
特別の意味を帯びてきたのは、隊付の青年将校が彼ら独自の考えから軍内の革新運動、国家改造運動を目指して、動きを激しくしていった大正末年からである。
つまり、中央幕僚に対するステータスとして隊付青年将校たちに自覚されてきたのである。
隊付将校の意識を形成したのは戦闘集団の第一線に立つ将校が、必然的にもたねばならぬ相互扶助、犠牲、献身という、彼らが命令を下す直接の部下がほとんど農民、
  労働者の出身であったという事情とである。”
(中略)
彼らは日本資本主義の日本的発展の中に、内包された不均衡という現実をもっとも身に感じた人たちであり、とくにその犠牲者である農民の窮乏に切実な同情をよせ
  ないわけにはいかなかった。”
(中略)
“農民は明治政府の重要政策であった「富国強兵」の犠牲者であった。

その上で、安藤輝三大尉が除隊兵に俸給の大半を仕送りしていた事実(現役兵の家庭に送金するのは私兵を養うことになるというので除隊兵の家庭にした)と共に、以下
  の文章を読むと、思想を超えての安藤の魅力を感じるのです。
安藤については、「V)安藤輝三・大尉」に記しました。

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W)『昭和の軍閥』(高橋正衛、中公新書、昭和44年初版)

<序・軍隊を考える基礎的事項>から、相沢三郎に斬殺されたと永田軍務局長についての文章の一節のみ引用しておきます。
相沢事件の衝撃の大きさの一端を知ることになるのではないでしょうか。   

  p4)“だが今日になれば、軍務局長という職柄のもつ役割、陸軍少将という軍人の階級のもつ“偉大さ”を口で語り、筆で記すことは不可能に近い。それを、いまもある
  大蔵省とか外務省の局長や、位階勲章から類推しても完全ではない。それはたんなる管制や法規を超えた存在であった。”

として、永田の存在と永田を切った「相沢事件」の意味を綴っていくのですが、本書は昭和初期の軍と政治の相克と実態を知る格好のものといえるでしょう。

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X)『天皇の軍隊(昭和の歴史D)』(大江志乃夫、小学館、1982年第1刷)

本書そのものが力作であります。
2.26事件が中隊の決起であり、説得にきた連隊長にすら、銃を向けて抵抗を示した事実は以下の文章で理解できるように思えるのです。

p78〜103)<将校と下士官兵>に「中隊と下士官兵」の姿を書いた文章があります。   

 . “戦闘員である下士官兵を直接に管理する単位は中隊である。中隊長は直接に個別に部下を掌握する職責を負わされ、原則として大尉が任命される。軍隊において下士官兵の
  全宇宙は中隊に極限されている。”

“中隊長が連隊長の命令に服従する意思がない場合には、連隊はその中隊の一兵をも自己の意志に従わせる力がない。そのよい例は、2.26事件の反乱軍に属した下士官
  兵が、反乱将校である中隊長への絶対服従の意志以外には、直属上官である大隊長・連隊長の説得にも耳をかそうとはしなかったのである。”


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参考の本からも、多くの引用文が続いてしまいました。
私の頭脳には2.26事件の不透明な姿がまとわりついたままで一旦終了とします。


まとまりのないままの終了となってしまいました。
  当初、人物ごとに分けて2.26を見たいと思ったのですが、多くの人物群のまえに、通り一片の羅列になってしまいました。

青年将校たちの「革新運動」がもたらしたものの結果を、よりリアルに見なければならないと感じています。

皇道派としての荒木貞夫や真崎甚三郎は、もっと別な角度から見る必要があるように思えます。

最初から「鎮圧」を主張した石原莞爾の存在はより重要であり、2.26事件を超えた、昭和史の戦争から見る必要があるでしょう。

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1936(昭和11)年の2.26を知るためには、

1935(昭和10)年8月の相沢事件の知識が不可欠であり、相沢事件には、

1935(昭和10)年7月の真崎教育総監の罷免問題を知る必要になり、そのために、

1934(昭和9)年の陸軍士官学校事件を知らなければなりません。

統帥権の問題があります。
1930(昭和5)年の浜口内閣時代に、ロンドン海軍軍縮条約をめぐって起きた統帥権干犯問題があります。
「軍備は天皇の大権=統帥権であって、内閣が勝手に運用することは統帥権干犯である」とした野党の犬養毅や鳩山一郎たちの「党利党略」の反対運動が起こり、さらに軍部が
  加わっての一大政治問題化しました。
2.26事件は、この問題を抜きにしては語ることが出来ませんが、「ロンドン海軍軍縮条約と統帥権干犯問題」に遡って考えてみたいと思います。

北一輝の『日本改造法案大綱』と「昭和初期の国家革新運動」の問題があります。
「天皇の軍隊」をどうとらえるのかという、残された課題でもあります。

そうした、様々な一連の昭和前期の歴史が不可欠になってきます。
その意味で、松本清張という作家が取り組んだ、「昭和史発掘」の全体像が、少しでも自分なりに掴み取ることの重要さを感じて、「読書ノート50」とします。


2013年10月2日。


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