my eyes with curiousness.

 これは私の二度めの旅です。初めて訪れた外国がスペインで、自由の翼を得た私は、六年生になった上の娘Mに言いました。「夏休み、スペイン行かへん。」興味も好奇心も父譲りのMのこと、話はとんとん拍子に進み、二度目のスペイン旅行が実現するはこびとなりました。時は1986年8月2日から27日までの26日間であります。エールフランスの航空券と初日のホテル・バウチャーだけ持って、後は出たとこ勝負の出鱈目旅。初めての旅で知り合ったヒネスにもサグントのキミさんにも『行くよ。』っと声だけかけて、もう泊めてもらう算段をしているあたり、なんとも御気楽なoteさんではあります。
 それでは私の旅のメモから第二の旅をお楽しみください。

 スペインを歩く 

石とオリーブのなかから緩やかな時の流れと人情を発見する旅

8月2日(土) 大阪
 離陸から7分後ぐらいに、木津川・宇治川・桂川の合流点が見えてきた。伊丹空港から真っ直ぐ東に向かっているから、我が家が見えるはず…木津川の流れをたどっていくと…あった!あれが山城大橋、玉水橋、そして我が家だ。真上を飛ぶ。そして、伊勢湾、富士山、伊豆半島とやって来て東京湾と東京の街にさしかかる。真っ暗闇に星屑をぶちまけたような東京の夜空を旋回していると、ところどころに土曜日の夜の花火大会が眺められておもしろい。ぐっと素敵な緊張感で、旅が心の中に入り込んできた。
 9:10 成田発、速度950km/h、高度11300m、しばらくして夕食が出る。エールフランスの食前酒はパス(下戸につき)。アンカレッジは土曜の朝10時だそうで、まる半日得したような気がするものの、体は深夜だからとにかく眠い。ぼやっとした頭のままトランジットを終えて、さてそれからが長い。9時間ほどのじっと我慢を、眠ったり覚めたりでやり過ごし、シャルルドゴール空港に向かって降りていく。フランスのいなかの朝もやを切り裂いて、ランディング。

 
出発のとき、手荷物チェックの列にならんだ。少しずつ前へ進む。母さんとななが「元気に行っといでや。」なんて声をかけてくれる。あ〜なんであのとき「うん。父さんとスペインへ行く!」なんて言ってしまったのだろう。あ〜やめとけばよかった。(も)

3日(日) パリ
 200ドルをフランに替えて、パリの街へ向かう。二回目だから迷うことはない。空港バスでエトワール凱旋門へ行き、そのあとメトロの回数券を「アンカルネシルブプレ!」と手に入れるところまではかっこ良かったのに、舞い上がって逆方向のメトロを捕まえたみたい、このあとパリはさっぱり、ミスだらけ。
 娘連れで初日にホームレスするわけにいかないから、日本でとってきた宿は四つ星の一流だ。これがぼくにはよそ者みたいでかえって落ち着かない。とりあえず宿泊の予約確認を済ませてリュックを預け、市内見物に出かける。印象派美術館はいっぱいの人だったので、先にオーランジュリ美術館へ行く。地下にあるモネの「睡蓮の間」がゆったりと広く、落ち着けてよかった。その後訪ねた印象派美術館は素晴らしかったが、人が多くて京都の美術館と変わらない。昼前になったので、夜の日本に電話しようと国際電話を探して歩くが、行けども行けどもそれらしき影はなく脚が棒になってしまった。
 とうとう電話は見つからず、陽射しが強くふらふらになってパリ砂漠のオアシス「カフェ」へ逃げ込んだ。歩いている途中に、青空市のような賑やかな通りや、オペラ座や、古い教会や、カーニバルのようなにわか造りの遊園地にぶつかったけれど、それを楽しむ余裕などなかった。疲れ果ててホテルにチェックイン。やっと日本へ電話ができた。「元気や!」とは言ったもののくたくただ。その後お風呂に入ると、不思議なものでまた街歩きがしたくなる。
 じゃ凱旋門、そして夕食と決めて、さあ出発!張り切り過ぎてまたまたメトロを取り違え、二駅分もシャンゼリゼを引き返す。脚の疲れはたちまち戻ってきて、凱旋門の長い階段を上りきる頃にはいささかばて気味で、景色を楽しむどころではなかった。その後ノートルダム寺院へはメトロを使ったが、ここでも上までの螺旋階段は自分の足で上る。
notredame de paris, fatigue!
 これ以上は無理と判断して、歩かなくてもいいバト―ムーシュで、セーヌ川から街を見物することにした。本当は夕食の時間に合わせて乗るとディナー付きで優雅なのだが、それまで待てないので十分の一の値段で済ませる。アイスクリーム片手に乗り込んだが、めっちゃ眠い。聞きなれない言葉をBGMに、脚を投げ出して揺られていると頭がのけぞって何度も目が覚めた。だって日本じゃもう真夜中、ぼくらは8時間の時差を無視して歩いていたのだ。
 ホテルに戻り風呂に入ると、Mは即座にダウンした。夜8時、陽はまだまだ高い。くたびれもうけの第一日目の幕切れ。

4日(月) パリ→夜汽車
 7時半にオーダーしておいた朝食が部屋に届く。パンとオレンジジュースそれにミルクティーとスクランブルエッグを、ひろげた荷物と絵葉書の間で食べる。ここは古いホテルだから、部屋はそれなりにくたびれてはいるが、良い宿だ。日本への電話も葉書の切手も、頼めば即座にOKだ。
 窓から見えるサンラザール駅はパリで最も古くレトロでなかなかいい感じなので、スケッチブックを取り出して描く。その間じゅう、早朝の駅に吸い込まれていくのは、格好からして勤め人だ。バロック風というのは装飾過多で手におえない。これで精一杯!のスケッチを止めてぼくは、人目に晒されてはとても描けないなと思った。
la Gare de St-Lazare
 オステルリッツ駅へ今夜の便の予約をとりに来たが、受付嬢は即座に「Full!」と、にべもない。取り付く島もない断定的な物言いに何度か食い下がってみたが「あのねアンタ。何遍聞いても無い物は無いのんよ。」と冷たく突き放されてしまった。しょうがない。日本で買ってきたユーレイルパスに日付を入れてもらって、駅を出た。パリ郊外のバルビゾンに行くつもりでいたけれど、脚に聞いてみたらダメだって、その代わり今日一日をルーブル美術館で過ごすことにする。(ヨーロッパを歩きたいあなたに言っときます。月曜日は要注意!美術館は閉っていることが多いのです。パリは世界中から観光客が押し寄せるからか、ルーブルなどは他とずらして火曜日を休館にしている。それだけじゃなく月水は夜9時過ぎまで開いている。学生には無料の日もあるから要チェックね。)
 このときルーブルにまだガラスのピラミッドはなく、長い列が美術館をとり囲んでいた。やっとのことで切符にたどり着き、中へ入るとそこはもう人人、人の波だった。確かにものすごい量の絵画や美術品で、圧倒的。絵に手入れをしているところに出会うのもおもしろかったし、莫大な収集品だから、ヒョコッと知ったものが向こうから現われる感じがするのもおもしろかった。中でも「モナリザ」は別格で、これだけガラスで覆われていた。ルーブルは本当にすごいが、疲れるところだ。それに何だか倉庫みたいに思えてきた。それほど無造作に大量に並べられているし、かび臭い中世の宗教画等が多い。
 その後、昨日の印象派美術館とオーランジュリ美術館へもう一度行った。良いものに触れていい気持ちでいたい。やはり「睡蓮の間」が良かったが、残念なことに今日は人が多い。見るものは見て、すべて済ませてオステルリッツ駅へ行き、コインロッカーの荷物を取り出すと、念のため再度予約の列に並んでみた。今度の受付嬢は愛想良く応対して、窓口の順番待ちの紙をくれた。…そ!これでいいのだ。今頃からでもうまくいくなんて、どうなってるんだ?朝のあの受付のアホめ…と思いつつ待っていると、順番が来た。カウンターにつくと彼女はキーをポンポンとはじいて暫らく画面を見ていたが、気の毒そうに「ありません。」…そうか、やっぱり無いのんか。期待して損した…と思う反面、いや待てよ、朝のあのつっけんどんな言い放ち方こそパリッ子のものなのではなかったかと思い至った次第。これに慣れないと、(なんちゅう人たちやろ)になるんだきっと。文化の違いというものなんだろうけど、はっきり言い・言われることに慣れたら、腹の中をしょっちゅう探っていなければならないどこかの国なんかよりよいのかも知れない。とにかくそのまま乗っても良いことを確かめてホームで待つ。
la Gare d'Austerlitz
 駅の便所は有料で、望めばシャワーも借りることができる。水や果物を買い込んで待っていると列車が来た。誰より早く乗り込んだが、予約できなかった簡易寝台にもぐり込むのは遠慮して1等のコンパートメントを占領して窓際で向かい合って座ることにした。出発が近づくにつれてだんだん人が増え、追い出されるかと思ったが、フランスの若いの3人と相席でそのまま出発した。3人は男2女1でバレンシアへ泳ぎに行くと言った。部屋は1等だから上等で、スペインへ行く若い人たちが通路にあふれているのを横目に快適な出発だった。二年前はたった67フランの出費で寝て行けたのに…ずいぶん客が増えているんだろうか。

5日(火) ポールボウ→バルセロナ
 コンパートメントの夜明け。フランス南部の豊かな大地の地平から大きな日の出。同室の若い娘が仲間を起こす。「ルギャルデ。ルソレイユ、トレボウ。(ごらん。きれいな朝日よ。)」しばらくして、見たことのある景色にうなずきながら行くと、国境の駅・ポールボウに着いた。
 ほとんどフリーパスでスペイン側へ出ると、そこに待っていたのは2等ばかりの鈍行列車。しかもいっぱい乗っている。ぼくらは後のタルゴにする。特急の方がバルセロナには早く着くのだ。1等の列車はがらすきで、優雅に出発した。麦畑やポプラ、松、ヒマワリが飛んでいく景色の中をビュッフェへ行った。朝食。スペイン語がうまくいくのが面白い。この二年間ラジオ講座にかじりついていた成果だけど、こんなに分かるのはおかしいと、我ながら感心する。褒めてやりたいよ。フランスでは言葉も含めた何がしかの要素のために緊張を強いられどおしだったのだが、急に楽になり肩から力が抜けていった。おまけにタルゴのこの快適さだ。ぼくらのスペインはこうして始まった。
 バルセロナ(パセオデグラシア駅)に着いたので、降りた。早速三日後のマドリ行きの予約を取る。またコンパートメントで座って寝なければならない羽目になったらみじめだから。
 ところが、だ。さすがにスペインタイムで仕事がはかどらない。列の後ろに並んでいると、遅々として進まないので気持ちばかり急いて、いらいらしてくる。先頭の人はなにやらやりとりして手間のかかること夥しい。目指す町へきて、そこの階段を上がればバルセロナなのに、地下の駅でただ立っているだけなんて面白くない。みんなは怒りもしないで待っている。ぼくの前のお爺さんはいちいち状況を表情と手振りを交えて報告してくれるのだが、ぼくには何を言われているのかかいもく分からない。その前の若い衆は頭に来たのか石の柱に頭突きをするまねをして怒を表しだした。先頭の女性がやっと交渉成立、切符を出されることになって、待っているみんなが拍手喝采して喜ぶ。「よかったね。」とか「さよなら。」の声を背に件の女性は窓口を離れた。その幾人か後、青年が話し始めると、どうやらこの窓口では扱わないらしくて×だった。また前の爺さんが「この子ら、一時間も待ってたのに×やて。」みたいなことを教えてくれる。気の毒、だけど次は我が身かもしれないと思えてきた。不安が一杯だったが、ぼくらは無事OKで7日の夜は簡易寝台車で寝て行けることになった。
 そんなことで時間を食い、ホテル探しがせわしくなった。探し当てたホテル・ガウディは満室で「明日なら空いてます。」と断わられた。しようが無く、レアル広場近くの安ホテルにあわてて決めた。鍵をもらって部屋まで行く鳥かごのようなエレベーターはところどころほつれているし、部屋もパリのものに比べてみすぼらしく、落胆したMに涙ぐまれたのにはまいった。控え目で、自分をあまり主張しないMの精一杯の抗議だった。しかし、1人1000Pと安く、大好きなレアル広場のすぐ傍だというのが嬉しくて連泊を決める。(現在、バルセロナを知った方に聞くとここは危険地区でとても薦められないということです。19年前は平和でした。)
 風呂に入るのだが湯が出にくい。長いことかけて湯をためて、日本風に湯に浸かったらさっぱりして町歩きが可能になった。ゴシック地区をうろうろしていてピカソ美術館に行き当たった。ちょうど工事中で、二年前とは勝手がちがう。順路がでたらめで、年代ごとに見ていけないのだ。その所為か初めてのときほどの感動がなく、くたびれてグエル公園へ向かう。ここは何度きてもドキドキする。なんとも形容し難いガウディの世界に包まれて、ただうっとりする。日本人。それも若い女の子の多さに驚く。ぼくらは疲れきってとにかく座る。ガウディのタイルのベンチ。
 次はレアル広場だ。特別美しくもなく、何か催しがあるわけでもないここが何故気に入っているのかというと、その「ただ普通の」がぼくにとって強くスペインを感じさせてくれた初めての所だったというだけのことなのだ。コロンブスがイサベラ女王にアメリカの発見を報告した場所だから、というのでももちろんない。今日もしっかり座り込んでいると、人がどこからともなく湧いてきて10時11時12時と遅くなるほど増えつづける。この喧騒、無秩序、ゴミゴミの中の1人になっていると落ち着くのだ。
「歩き方」に出ていたレストラン・ロスカラコレス(かたつむり)を見つけて、勇んで書いてあったとおりに注文した。先ずカタツムリを模ったパンと水が出てきて、次にカタツムリ。しかしどうも濃い味付けでおいしいけれど慣れが必要だった。その後に出てきたパエジャマリスコ(海のもののパエリア)は、四人分はあるかと思われるほど大量で、おまけに米にしんがあって、2人とも半分も食べられず、デザートのメロンにもその大きさに息をのんだ。ここはスペインだった。みなさん、慣れるまでは控え目にネ!
 勘定のとき「フラメンコが見たいんだけど。」ともちかけたら、「切符あります。安くします。」の返事。1人1900Pは決して安くなかったけれど、予約席を取ってくれた。
 再びレアル広場の雑踏にどっぷり浸かって10時頃にフラメンコのタブラオ・ロスタラントスに入った。客はまばらなのに一番前の一番端っぽの席へ案内するので、「ノ、真ん中。」と中ほどに席を占める。しかしここのフラメンコはかぶりつきにいても良くない。こんなもんじゃないやろ…と思いながら見ているのに、周りの客たちは盛り上がってどうしようもない。息を呑むような美人にも、際立つ踊りにも出会えずあきらめていたが、前座が終わってからは良くなってきて、やっぱりここにはここのスターがいた。そこに至るまでの演出効果を狙っていたわけで、最後はやんやの喝采でショーは終わった。

6日(水) バルセロナ
 今日は朝からガウディ巡りだ。いそいそ起きだしてクロワッサンとコーヒーの朝食。すぐ近くのカサ・グエル、そして点に向かってそびえる未完成のサグラダ・ファミリア。朝早めで観光客が少なく気持ちよかった。それから歩いて、ぺドレラ(カサ・ミラ)、カサ・バトリョを探し当てる。
 途中グラニサード(カキ氷)で水分を補給しようとしてバルに立ち寄るが、早くてまだ出来ていないらしく「ない。」と断わられてしまった。仕方なくそのままガウディ探しを再開、四ツ辻まで来て地図を覗き込んでいると、「セニョール。」と肩を叩かれた。道を教えてくれるのかと思ったら、「この店にグラニサードあるよ。」だって、何とさっきのバルの客がここまで付いてきて、教えてくれたのだった。ありがとう、おじさん。
 昼過ぎて、カタルーニャ美術館とスペイン村へ行ったが、マニュファクチャーな吹きガラスの工場以外は期待外れであった。カタルーニャ美術館は工事中だったのだ。残念。
 ミロ美術館へ行った。ゆったりしたつくりは落ち着けてよかったが白いモダンな建物の中のウルトラ抽象画群に目を奪われていて大失敗。便所に物を忘れてきた。貴重品は少なかったが、クリヤケースに入れたまま時刻表(これは痛い)旅の予定表(大雑把だけど)地図、絵葉書等…これを美術館から出たところの噴水で果物を洗っていて思い出したのだ。他のものはどうでもいいが、時刻表は痛い。あわてて戻ったがない。事務員に聞いても「ない。」の一言だった。これからほとんど手探りで旅を続けなければならない。
 あきらめてもう一度グエル公園へ行くことにする。こまごまのタイルとあの曲線に身を任せて、触る・座る・寝るを繰り返す。ホテルへの途中、レアル広場の喧騒をもう一度と思って立ち寄ったら、後ろから肩を叩かれ「昨日はどうもすみませんでした。」と声をかけられた。 
 国境のポールボウで乗換えのとき、二等だけの鈍行しかなかったのでほとんどそれに乗ったのだが、ぼくらはそれをやり過ごして後の特急にしたのだった。その方が1時間も早く着くのだと教えてやったが、特急料金のことまでは頭が回らなかったので、彼に「金を取られましたが…」と言われてしまった。ぼくらのように少ない時間に効率よく回ろうというのでなければ、何も慌てることはなかったのだね。
 その学生は、夏休みいっぱい旅行するつもりだと言ったが、ヨーロッパのどこをどう回ってきたのだろう。スペインやスペイン語についての知識などまるでないのにはこちらが驚いてしまった。下駄こそ履いていなかったけれど、眼鏡といい髪形といい一昔前の日本人のステレオタイプで、持ち物が立派なスーツケース一つというのも可笑しかった。彼は続ける。「バルセロナ。ここはいい町だから一週間宿をとった。宿を探していたオランダ人と一緒に三人部屋に泊まれた。たったの600P、しかも綺麗だ。宿の小母さんは親切だし…この町で何かあるんですか?小母さんがしきりに『マニャナン』とか『ボニト』とか言うんですよ…他にどんなところがいいですか?」
「それはマニャーナ、明日のことだ。すごい噴水ショーがあるとは聞いていたが、明日とは知らなかった。スペイン広場だよ、あんた。なになに、スペインのいいとこってかい、そりゃ南だ!アンダルシアだ!セビージャだ!マラガだ!と次から次へ知ったかぶりが出て、立ち話が長くなってしまった。adios!
 その後、ランブラスの賑わいに混じると、地べた絵描きや大道芸人、ミュージシャンがいておもしろい。あっちへふらふら、こっちへふらふら、アイスクリームなんぞ舐めながら道行く人になってみる。パントマイムや手品師に人垣。BGMはクラリネット。たくさんの露店。疲れたので並べてある椅子に腰掛けたら、料金を要求された。すっと寄ってきたこのおじさん、25Pを手に姿を消した。座るとお金!スペインだね!

 わたしの夏休みスペイン行きは、8月2日から27日までの長いものだった。東京-パリ-バルセロナ-マドリ……ポルトガル-バレンシア……。特におもしろかったのは、バルセロナの二日とマドリの三日、それからラ・アルベルカ村の四日である。そして、マドリとパリのお土産買い。どっちかと言うと観光よりも買い物の方が楽しかった。ついでに、食事の時間。初めにスープ、次にいろいろ、次に肉・魚、最後に果物またはヨーグルトなどというたくさんの食事に、毎回おなかをいっぱいにしていた。

7日(木) バルセロナ―夜汽車
 朝食をバルでとってから、メトロでサンタコロマへ向かう。サンタコロマで降りて聞くと、「コロニア・グエル?」とみんな首をかしげる。アイスクリーム屋のおじさんも、地図を買いに入った本屋のおじさんも、みんな知らないと言う。責任を感じてかこのおじさんは店から出てきて、「こっちへ来い。」とどんどん先へ歩いていって、物知りおばさん(洗濯屋さんかな?達者な英語だった)のところまで連れて行ってくれた。おばさんは「英語が出来る?」と確かめてから、「あなたはちょうど反対側に来ている。メトロでスペイン広場まで戻りなさい。そこから別の電車に乗ったら、いくつめかの駅で着く筈よ。」と教えてくれた。グラシアス、セニョーラ!
 またまた地下鉄の人になったが、プラサエスパーニャからどう行けばいいのか分からず、今度はタクシーをつかまえる。ハイウエイを走り抜けてタクシーはすぐにコロニア・グエルの前まで連れて行ってくれた。ああ来た来た。やっと来た。ガウディの教会が松林の中にひっそりとあった。ここは本当に観光客と縁が無く、昼寝の時間ということもあって、ぼくらだけだった。いい気分で近寄って行ったら、鍵がかかっていて中へ入れない。どうしようかとぐるっと周りを回ってみると、ベンチで昼休み中のおじいさん達が「見たいのか?それならあっちへ行け。」と手で教えてくれた。そちらへ行くと、はたして案内のおじさんが友達とおしゃべりの真っ最中だった。この人、二年前にみっちゃんが来たときはバルにいたんだ。『閉っててもね、近くのバルを探したらいるからね。鍵を持って案内してくれるよ。』という話を思い出して可笑しかった。(これはほぼ20年前の話!21世紀の今では見学時間も決まっていて、こんなにルーズじゃありませんからね。)
 中へ案内してくれた。小さいが、ここは全くガウディの世界だった。綺麗なステンドグラス、おもしろい開き方をする窓(バタフライと手真似をした)、曲線だけで構成された椅子、斜めに立って天井を支えている全ての石の柱。薄暗さの中で溜め息をついていると、たくさんの子どもを連れたお父さんが入ってきた。それぞれ一本ずつ蝋燭をもらって、祭壇に7本の明かりを灯してからぐるっと一回り見て、ぼくらと一緒に奥のムセオに入れてもらった。ガウディとこの教会に関する資料館になっていた。このお父さんはしきりにぼくに話し掛けてくる。
「この教会は、本当はこんなに大きいものにする予定だった。」とか「グエル公園は見たか?サグラダファミリアは?ガウディはすごい!」だのしきりに言うので、カサ・ミラもカサ・バトリョもカサ・グエルも見た。とてもすごい。ぼくはガウディのためにこの町に来た。と言ったら、「おおあんたはガウディをよく知っている。」と握手を求めてくる。
 しっかり見て、外で一休み。外にたくさんいたじいさん達はシエスタに帰ったとみえて、人数が減っている。このイグレシアは松ぼっくりのような、鱗のような外観で、本当にひっそりとしていて気に入った。計画通りに大きなコロニアが建設されていたら、」夢の後のようなこの無常感は漂わないだろう。
 この後、町へ帰るためのタクシーがなかなか来ないので(スペインに流しのタクシーは少ない。ましてここは田舎だから当たり前)、日陰を選んでゆるゆる歩きながらバルへ入る。アイスキャンディなどを頼んでバルセロナへの帰り方を尋ねると「キャニュウスピキングリッシュ?」と流暢な英語で客の1人が喋りだした。なんのことはない、道なりに真っ直ぐ行って最初の辻を左へ曲がると駅だそうで、五分で行けるらしい。ぼくの方が「イスキエルダ(左)?」と変なスペイン語で対応してなんだかおかしい。

 バルセロナへ帰り着いて、シウダデラ公園のガウディの噴水を見に行った。上半分は止まっていたが、なんとなく初期のガウディを思わせる造り、イメージの広がりはさすがだ。その後、白いゴリラを見に公園内の動物園へ行った。京都なんかと比べるとゆったりした造りで、動物たちものんびりしている。世界でたった1頭というこのゴリラ君、じっとすわったまんまであちらを向くかこちらを向くかだけでちっとも動かない。ぐるりと見て回って水族館でイルカショーの時間になった。ただ座って足を休めている間、大きなオルカのショーが面白かった。
 駅へ行ってi(案内所)で、なくした地図をもらって、スペイン広場へ行った。夢のようにきれいだという噴水ショーが9時から始まるのだ。8時55分に地下道から地上へ出て、噴水に向かって歩き出すと……始まった……大量の水が次々に水の柱を作る。照明が当てられ、形を変え、色を変えて、ぼくらは確かにファンタジーの世界にいた。広場も階段も人で埋まり、ぼくらは大噴水の前に陣取って、水しぶきを感じながらショーを楽しんだ。じーっと見ていると日本の花火大会のように思えてきた。新しい出方になると拍手がおこったり、溜め息がもれたり、ギャラリーも忙しい。水柱は高く上がったり、捻じれたり、霧になったり、幾通りかのパターンが組み合わされて、それにライトの着色も変化してとてもきれいだ。こうして一時間、10時になったのでこの場を離れる。

fuente de la plaza Espana

 タクシーをつかまえてホテルへ、フロントに預けてあった荷物を積み込んでバルセロナ・サンツ駅へ行ってもらう。水と食糧を買い込んで「リテーラ(簡易寝台)」に乗り込んだ。寝る支度をしていると、マドリへ行くスペイン人の家族がコンパートメントに入ってきて、お互いに名乗った。これから出発という時になってドヤドヤとなにやら部屋の外が騒がしくなってきた。「えーっと、この部屋から順番に6人ずつ入ってください。男性はこことここ。私はどこか適当に潜り込みますから…。」と日本語だった。それでぼくらの部屋のドアを開けるので、「入ってます!」と言ったら、「アーソーデスカ。エクスキューズミー。」とけったいな女性ガイドは別の部屋へ移っていった。その後、どっと日本人の団体で、同室のお父さんに笑われてしまった。「アイムーチヤスハポネセス、ベルダー。」そう言って愛想笑いをしておいた。もう寝る。

8日(金)  マドリ

 目覚めてビュッフェへ行ったら、まだやっていない。列車は今どの辺を走っているのだろう。空いた席に腰掛けていると、夕べのガイドさんと男性客が1人入ってきた。「昨夜は失礼しました。」「いいえ。」の後、ぼくらは水や食糧を取り出して朝食にする。隣り合わせた男にヒマワリの種をすすめて、少し話す。聞くと、ローマからバルセロナそして今日マドリへ、その後パリとロンドンへ行くのだそうだ。「凄い!!自由に歩き回れるのですか?」ぼくが聞くと、「治安が悪いので、バスの中ばかり。」と言う。「そんなことはないよ。人情に触れるのがええのに。」と切り返したが「ぼくらのツアーは女の子が多くてね。そういうわけにはいかないんです。しっかしこのごろの女の子はリッチだから、買い物は熱心だわ。」とあきれたように言う。「ははあ。ヨーロッパ各国主要都市買い物旅行ですな。」
 列車はチヤマルティン駅に着いた。相変わらず何の前触れもなく停まって、着いたんだろうと荷物を持って降りたら、そこにキミさん達(ご主人のルイス、彼のいとこの校長先生)が待っていてくれた。再会の挨拶を済ますと、速い流れに乗って快調に飛ばす車の中で、ここまでのいきさつを話す。
 学校へ着いた。コラソンデマリア女学校というカトリックの学校だった。ルイスの従兄弟達には宗教者が多くて、校長をしている彼女も修道女なのだった。スペインの学校は4歳から14歳までと幅が広く、幼小中取り混ぜてここには1400人も生徒がいるらしい。夏休みだから今は職員もゆったりしているようで、熱烈な歓迎にびっくりする。もも子は歓迎のキスぜめが初めてとあって、腰がひけている。こちらの人たちはいろんな機会に両方の頬を摺り寄せてチュッチュッとやる。逢ってチユッ、別れるときチュッ、すれ違ってチュッ、いちいちチュッが挨拶なのだ。しかし大人の男性はカトリックの中では別らしく、握手だけで済むので気が楽だった。ぼくは相手が子どものときだチュッ、Mはのべつチュッだからこれから先大変だ。
 朝ご飯を出していただいて、部屋へ案内されシャワーを浴びて一休み。学校の隅から隅まで見せてもらって、いろいろ質問する。1人で来たのではとても分からないことまで聞けるので、キミさんの通訳は嬉しい。教室はどれも30人ぐらいで、特別教室は日本と同じようなものだったが、自習室というのがあって、先生付きで学習できるようになっていた。800人も入れるホールはちょっとした劇場という感じで合唱用の雛壇まで用意されていて良いなと思った。一度に全員は入れないのですよと説明されたが、発達段階に開きがありすぎるからちょうどよいのではないかと思った。ミッションスクールだけあって礼拝堂は大小二つあった。珍しいところでは、バレエのレッスンでもするのだろうかバーの備わっている部屋があった。日本の学校と大きく違う所は,運動場や体育館のようなスポーツ用の施設が無かったり貧弱なことだ。
 さて、シエスタも済ませて出かけることにする。ここはマドリ、ど真ん中のプラサ・エスパーニャまで8番のバスで出向く。セルバンテスとドンキホーテ像に会う。地下街のアジア食品店でキミさんは買い物,その後百貨店ガレリアス・プレシアードスで冷たいものにありついた。次に,ぼくが前に来てとても気に入ったレティロ公園を歩いた。大きい公園だ。人は多かったけどなんとなくよそよそしい感じがしてなじめない。地べた絵描きや大道芸人が少なかったからだろう。みんなで歩き回って疲れきって帰ると、夕食が待っていた。
 テーブルを囲むのは、校長先生、ルイス、キミ、2人の子どもたち(イグナシオ、ルーベン)、Mとぼく。学校のシスターが1人付きっきりでサービスしてくれ、飲み物から始まって、デザートで終わるまで大満足のディナーだった。食後はテラスで夕涼み。車座にイスを持ち出して、暗く、涼しくなるのを楽しんだ。午後11時、繁華街の喧騒はここからは遠い。

9日(土) マドリ
 今日はプラド美術館の日、楽しみだ。二年前は最後の日に予定していたのに、ろくに調べもしないお気楽なぼくは「休館日」だということを知らなくて、訪ねることができなかったのだ。朝起きがだんだんつらくなってきて、9時ごろの朝食になってしまった。この学校の校長先生の客人として扱っていただいて、朝食も例のダイニングルームだった。朝食は簡単にチユーロとチョコラテぐらいがスペイン風と理解していたのに、これはどうだ、あれこれすすめられるままに食して、満腹。
 昨日教えられたMGの市バスに乗って、シベレス広場で降りると、プラド美術館はすぐだった。1人400Pはぼくのガイドブックの2倍ではないか。他に二つの別館(ゲルニカがある)の券もついているので、まいいか。入ってすぐのエル・グレコの部屋で一休み。館内の地図を持ってこなかったので、あてずっぽうに歩いてゴヤの「裸のマハ」「着衣のマハ」「丘の上の巨人」等に出会う。後は大量の宗教に関する絵で、ぼくにはよく分からないのだが、アダムとイブや最後の晩餐、受胎告知などは分かった。サロメや磔刑のキリストなど血の場面が多いのと、王家の肖像画がとても多い。
 ベラスケスの「ラスメニナス」にぶつかる。ルーブルの「モナリザ」の時と同じで、日本語のガイドが説明しているところだった。その集団が出て行くのを待って、絵の正面に陣取る。さてと…暗い部屋…王女に当てられたハイライト…侍女達…ベラスケス自身…眠そうな犬…鏡の中の王様夫妻…かわるがわる…あちこち…視線を泳がせてみるが、それだけだった。絵の意味も仕掛けも美術誌の解説通りに見えるだけで、ぼくは何も掴めず、全体を視野に入れて見終えた。この「ラスメニナス」に関してはピカソの思い入れも相当強かった筈で、彼は沢山の連作を遺している。ディスプレイが凝っていてこの部屋には何度も来た。何度見ても、残念ながら・・・。
 中世の宗教画;なかでも「受胎告知」は有名だから分かる。他にも昔の遊びのオンパレードの絵は、鳥獣戯画みたいで当時の風俗がわかって面白い。グロテスクも数多いが、ルーブルより小さい分だけ疲れなくて良い。他にルーベンス、ムリリョ、ラファエル等の名画に出会う。ぼくがベラスケスの「ブレダの降伏」「ラスメニナス」そして修復なって別室に特別展示中の「ラス・イランデラス」等がドラマティックで気に入った。そして、エルグレコは古いのに、時代を超えて現代風なのが面白いと思った。日本人好みなのかもしれない。
 カフェテリアの案内を見付けて地下の回廊をたどるとセルフサービスの食堂だった。ここで昼食。自分の胃袋の要求に合わせて食べられるのでここは便利だ。日本人もちらっと見かけるが、ここまで来て一休みできるのは皆1人歩きの人のようだ。
 プラドを出てから別館だが、19世紀美術館はパス。ピカソの「ゲルニカ」を見に行った。入口で荷物のチェックを受けたりして厳重なのは何故だろう。この絵(といっても桁外れに大きい壁画)がアメリカから里帰りした当座は、両側に銃を持った兵士が護衛していたと聞いたが、旧フランコ派などのファシストの抵抗は今も大きいのだろうか。とにかく入ると、入口付近からピカソ美術館同様圧倒的な量の習作の小品が展示してあった。そして突然広間に出て、ガラスに覆われた「ゲルニカ」とご対面だ。たくさんの人で納得がいくように鑑賞できないので、イスに座って斜交いにに眺めていた。
 こうして歩き回って,またしても足が疲れ,美術館のベンチも限界なので外へ出る。プラド通りの木陰でぼくはシエスタ、Mははがき書き、アイスクリーム休憩もとって、ゆっくりしてからグランビア(マドリの繁華街)へ行く。陽射しがとても強くて日陰(ソンブラ)を歩くのが原則になるので、思うように歩き回れるわけではない。ここでコルテイングレス(スペインの二大デパートの一つで、主要都市には必ずある。マドリにはいくつもある。)に入る。バルセロナでも入ってみたが、日本の百貨店と似たような造りで、香水・装身具・紳士もの・婦人もの・台所用品・玩具・上階にバーゲンや食堂があるのも同じだった。そして、スペインの8月はおしなべてバーゲンの季節でREBAJAS(安売り)の文字は至る所で躍っている。もう一つの百貨店ガレリアス・プレシアードスは経営が傾いてベネズエラ人の手に渡ったそうだが、逆に店内のディスプレイは緑・黄・オレンジで満たされてするどくスペイン調なのだった。コルテイングレスのディスプレイのトーンは、日本(あるいはパリのオープランタンやギャルリー・ラファイエット)と似ていて、インターナショナルな気がした。お土産にいいと思って持ってきたソーラー電卓なんかも出ていて、それなりに安いのもある。おもちゃなんかに日本製が多い。よく見ると箱はパトカーだの警視庁だの日本語のままになっている。中味はちゃんとこちら風に変えられていた。バービー人形はMに言わせると「日本で売られているものより目が小さく描かれている」らしい。微妙な違いに感じ入りながら、夕食に帰る。
 6時過ぎに帰ると,夕食の準備ができていた。この早さはスペイン的ではない。今は夏休み中だからたくさんの職員ではないが、それでも十人は超えた数の人たちは居るだろうし,加えてぼくら(大人3人、子ども3人)が食べる三度三度を準備してもらい、そばに付きっきりでサービスしてもらうので、何だか悪い。食事で驚いたことは,沢山で食べきれない分量のこともあるが、沢山の食器を使うことだった。別の食べ物にうつる度に新しい皿やナイフが出てくるのだ。前菜で始まりメインディッシュ、果物やお菓子、最後にコーヒーのような飲み物で終わるまで、本当に豊富なこと。ここにいた三日間でひととおりの料理をみな並べていただいたような気がする。
 ミッション系の学校とあって、みんなシスター(宗教に明るくないので正式な呼び名を知らないのだが、スペイン語でモンハ)の格好をしているので、暮らしぶりはもっとつましいのだろうと想像していた。食べる事に関してはまるで違っていた。聞けばやはりぼくらお客向けにしてくれているのだそうで、普通はこうじゃないようだった。来たとき、最初の言葉で「日本代表団として扱います。」なんて言われたその通りにしていただいたのだ。どう感謝していいか分からないと言うと、キミさんは「いいんですよ。私たちもここへ来るときはいつもこうなんです。」と言う。だからみんな「グラシアス。」で済ませることにした。

10日(日)  マドリ−エル・ティエンブロ
 今日は日曜日。蚤の市(ラストロ)の見物だ。その後、エル・ティエンブロのヒネスさんを訪ねる。「いつでも来てくれ。待ってるから。」と電話でのやりとりはすませてある。
 MGのバスに乗ってマヨーる広場に行くと、コインや切手市になっている。よく分からないから素通りして、サン・イシドロ寺院から始まるラストロの通行人になる。古道具、古着、陶器、ミュージックテープ等々、値札が付いているものはなく、ほとんど交渉で決めているようだ。今日は何も手を出さないで、見て歩くだけにする。それでも疲れ果て、冷たいものにありつくとほっとする。通りを埋める人々で酔い、身の自由が保障されないので困るのだ。値段の交渉をしたいほどの物にも出会わず、帰ることにする。今日は日曜日、百貨店もしまっていてグランビアはひっそりしている。
 2時過ぎに帰って昼食をいただく。イグナシオとルーベンの食前のお祈りがいつ聞いても音楽のようだ。スペインではお昼が一番豪華な食事になる。そしてこれがこの学校での最後の食事だというので、時間をかけて食べる。ぼくら6人と校長先生の7人で食べていると、もっともっととすすめてくれる。「ノ、キエレマス、ウンポコ。」と断わらなければどんどん入れてくれる。そばで世話してくれる人に「セニョールはノ、ノばっかりね。」と言って笑われてしまった。前菜からコーヒーまで、1時間以上かけて昼食を終える。
 3時半頃、それでは4時に出ましょう。とそれぞれの部屋に戻る。Mと2人で部屋のピアノで連弾に挑戦してみるがうまくいかない。絵に描いたようには参りません。
 4時15分、ルイスの車に荷物を詰め込むと、学校のみなさんが車のところへ見送りに来てくれる。例によってキスの洪水。たぶん再び会うことのない人々と握手して別れを惜しむ。親切に感謝!本当にありがとう。「アビラへ向かう高速道路への入り方が分からない。」とルイスが言い、「それなら案内するわ。」とオートピスタの入口まで先導してもらった。
 自動車道の流れは速い。ルイスの運転はおとなしいから安心していられるが、それでも速い。ここでは車が社らしく使われていて活気がある。もちろん目一杯アクセルを踏んづけて速い車の流れに飛び込むのだが、田舎道でもすごい追い越しで、もたもたしていると急ハンドルで追い越しざまにクラクションとゼスチャーで罵られるのだ。ラテン系のホットな性格!ところで、オートピスタをどう間違えたのかN−W(国道4号線)に出てしまってトレドに向かっている。途中で地図を見ながら軌道修正をするが、とんでもない村の中に入っていったり、田舎道になったり、ハプニングを楽しみながらのドライブだった。
 ぼくらを乗せたフォード・フィエスタはマドリの郊外を外れて、麦を作った後の畑やはだかの丘陵地を曲がりくねりアップダウンしながら快調に走る。途中でルイスの土地鑑が戻ったのか自身有り気になってきたので、ゆったりと風景を楽しみながら行く。こんな何もないところにもぽつんぽつんと家があって、農家なのだろうかそこだけがたっぷり水を含んでい青々している。実際たいていの家はプール付きで炎暑の午後を楽しんでいるのが見える。エルティエンブロに近づくにつれて景色はだんだん山地になってきた。岩がごろごろ生えていて、木がまばらに立っている。どちらかと言えば埃色に支配された世界だ。そして、すべてのスケールが大きい。
 目指すエルティエンブロが近づいてきた。向こうに着けばルイス達ともお別れだ。「一緒に泊まろう。向こうはそう言ってるんだから。」と言ってもダメだろうなあ。これからは日本語ですませられる世界ではないんだ、と覚悟を決める。もともとそのつもりで来ているのだけれど、日本語の使い手がいると頼ってしまって緊張感が違う。安易に流れそうになる自分に鞭打っていると、車はエルティエンブロに着いた。
 この辺りはスペインの中では緑の豊富な山の斜面だった。車を停めてセルバンテス通りを尋ねてもらうが、誰も[知らない。」という答え。「じゃあ、ヒネスは?ヒネス・コルバランを知っているか?」と尋ねると、「ああ、ヒネスなら新しくスタジオを建てたんだ。そちらじゃないかね。」という返事が返ってきた。この人の後にも何人かに尋ねるが、セルバンテス通りは誰も知らず、ヒネスと言えば通じるのがおもしろいと思った。長屋や横丁の熊さん八つあんの感覚がここではまだ生きているのだろう。もっともひどかったのは、ヒネスの家のあるセルバンテス通りの角を曲がったところで、「セルバンテス通り?さあ、知らないねぇ。」というのがあった。これは応え方としては真っ正直で罪がないけれど、スペインでものを尋ねる時は気をつけたほうが良い。みんな一生懸命で悪気はないのだが、知らないと答えるより平気で嘘(知ったかぶり)を教える。
 ルイス達が二手に別れて探してくれていたが、そのうちルイスがヒネスの娘アナを伴って車まで戻ってきた。ここに住んでいるという家へ行くと、ヒネスはたぶんエストゥディオだろうと言うのでそちらへ案内してもらうが、いない。それならと、国道沿いのレストランを見る。いない。プールを見る。いない。しかたなくアナはふりだしの家へ案内してくれた。
 奥さんのテレサが「どうぞ」と通してくれたのは、その建物の3階のサロンだった。この家はふだんテレサのお母さんだけが住んでいるんだけど、今は夏休みだからテレサの兄弟たちが集まってきている。集合住宅の中に、それぞれ自分たちのピソ(階とでも…)を持って生活している。ヒネスの家族はそのうちの一つなのだが、一番上に住んでいると言うわけだ。スペイン人の常で、最初にテレサがしてくれたことは、家の中をくまなく見せて説明することだった。地階(1階)は入ってすぐにホール、左手は台所、右手はお母さんの部屋とサロンになっていた。1階(2階)は2家族がホールの左右に分かれて住んでおり、ヒネスの家もそうだったが、皆それぞれ台所やバスルームを持って独立した暮らしが可能になっていた。
 冷たい飲み物を飲んで一息入れてヒネスの居所までテレサに連れて行ってもらうことにする。村の広場に出るとテントの仮設舞台が出来ていて、今日がなんだか普通の日と違うように見える。したがって、広場の人だかりも普段より多いのだろう。はなやいだ人ごみを縫うようにして入っていった建物に、はたしてヒネスは居た…のだが、ぼくの記憶に間違いがあったのだろうか、ヒネスがイメージチェンジしたのだろうか、黄色いTシャツ・髭・真ん中で左右に分けてやや後ろに長い髪・黒いモンペ状のタック入りズボン・Tシャツと揃いの模様の運動靴・極めつけはジョンレノンみたいな真ん丸眼鏡で、「オータナカ!ハウアーユー?」ときた。とにかく雰囲気がケーハクなのだ。ぼくは初めて会った列車の中の紳士的(ビジネスモード)な彼を思っていたので、少しギョッとしたが二年ぶりの再会を喜び合った。しかし、ぼく以外のぼくの連れときたら初対面だからよほどギョギョッとしたのだろう。キミさんはMに、「ね、よかったら一緒にマドリへ帰りましょうか?」と言うくらいだったのだから想像がつくだろう。とにかく車から荷物を下ろして、泊めてもらうことに決めた。
 キミさんが頼んでおいてくれたおかげで父娘別々の部屋にならず、エキストラベッドを運び込んでテレサがベッドメイキングしてくれた。狭かったけれどいたしかたない、荷物を運び込んで寛いだ格好になって広場の祭りを見にいくことにする。「夕食は外がいいか、家でか?」と聞くので、「あんたの奥さんの料理が食べたい。」と言うと、「よっしゃ決めた。ほんなら行こか!」ぐらいののりで、それまでの間ぶらぶら歩きに出る。外食することについてそれが当たり前のように思わないぼく(日本人)の常識で決めて悪かったかなあ。
 村の広場はにわか劇場になっていて、椅子が並べてあった。別のコーナーでは役者達が闘牛の寸劇をやっている。闘牛士役も牛役もいて、みんなの「オーレ!オーレ!」の掛け声に合わせて闘牛の真似事が進む。一座の女性がティッシュを配って歩き、マタドール役が一突きで牛を刺し、牛役がピクピクッと死んでしまう。見物人はやんやの喝采で先ほど配られた紙切れをハンカチ代わりに振る。
 何か飲もうと道端のテーブルにつくと、さすがに小さい村でヒネスは会う人ごとに「僕の友達の日本人のタナカだ。」と紹介するのに忙しくなった。その度に「始めまして。」だの「元気です。おおきに。」「あなたは?」だの答えなければならない。こうして広場は暮れてゆき、Mはアナに連れられてどこかへ消えた。
 夕食の時間、5人でテーブルを囲む。まずインゲン豆とハムの煮たの。次にトルティージャ。「おいしい!」と言うと、「そうさテレサは料理が得意なんだ。それだけじゃなくて良いハウスキーパーなんだ。」と持ち上げる。「そうだそうだ。」と相槌を打つと、すかさず「アナはセビジャーナスのいい踊り手なんだ。」と娘の方をほめることも忘れないあたり、なかなか気を遣っている。果物は何にする?このお菓子は甘いよ。コーヒーは?といろいろ出され、食べ、飲み、終了すると皆で食器を流しへ運ぶ。手伝おうとしたら、手で制されてしまった。
 ぼくらはまた外の雑踏へ混じる。もう芝居は始まっていて、派手なメーキャップで何やら世話物をやっている。「深刻」も「ドタバタ」も織り交ぜて最後に役者の一言が決まって大団円!だけどこの「落ち」が分からないのでさっぱり分からないのと同じだ。この後、同じ役者達の音楽ショーなのだが、ドサ回りの旅芸人の共通性というか、子どものときにこれと似た光景を見たことを思い出した。小学生のころ見たあれは、たしか女剣劇の一座だった。この広場の人たちもまた同じ、非日常の高揚感でそれを楽しんでいるように見えた。
 見ているとテレサが外出の格好でやって来たので、また何か飲みましようとバルに入る。いったいスペインにはいくつのバルやレストランがあるのだろう。こんな小さな村にも、いくつものバル。生活文化の違いなのだろう「外で食べる」ことは当たり前のように受け止められているらしい。そこでコーヒーを飲む。Mはと言えば、さっきからずうっとアナと従姉妹達の歓迎攻めで、持ちきれないほどの駄菓子を手に「あっちだ。」「こっちだ。」と連れ歩かれている。よく見ると、耳にイヤリングまで。こちらの子は皆ピアス。女の子だと産院で空けるのだそうで、ピアスなしの子はいない。
 村でも案内するよと歩き出すと、「これを見て。これは古い家だ。この窓枠が出ている。それに開口部が小さい。」「ほら石組みが、こう縦に積んでここで組んであるところが古いんだ。これは花崗岩。」「あれ見て。あの屋根は瓦じゃない。壺のかけらで出来てる。分かる?前に写真送っただろう。」そこらじゅうを歩き回り「これは村のイグレシア(教会)おかしいなあ閉ってる。ほら覗いて、祭壇が見える。綺麗だろう。この他にもう一つカテドラル(聖堂)があるよ。」と、盛沢山の話を聞いて家に着いた。
 疲れているのにバスも使わないで寝た。この旅行で風呂に入らなかったのは、夜行や飛行機の中を別にするとこの日だけだった。帰り着いたのが遅かったこともあるが、入浴の習慣がヒネス達スペイン人の感覚とは違っていたからで、もうあくる日になっているのにバスルームを使いたいとは言い出しかねたのだ。ここではこれが当たり前なのかも知れないが、高温多湿の風土で育ったぼくらにはたとえ何事もなくてもお風呂はありがたいし、疲れているときは尚更なのだが…ま…これも経験だろう。

11日(月) エル・ティエンブロ − アビラ
 サロンからバッハが聞こえる。
「おはよう。」起きそびれていると、アナが朝ご飯に呼んでくれた。朝は簡単にというのがスペイン風だが、「飲み物は何にする?」と問われて、つい「スーモデナランハ、ポルファボール。」なぞと答えたものだから、ヒネスまで立ってオレンジをいくつもしぼりだした。こちらの感覚ではジュースというものは、オレンジでも何でもビンや缶に入ったものを言うのではなくて絞るものなのだ。きっと。それとは別に温かいミルク(これにカフェ、テ、コラカオなどを入れて飲む)はちゃんと出されているのに悪いことをした。バターとマーマレードをつけて、パン、チユーロ、カステラのようなお菓子を食べると最後に果物となって朝食は終わった。「タナカ、ESTUDIOを見せるから一緒に行こう。モモコ、市場へアナと買い物に行かないか?今日の昼は外で食べるよ。バーベキューだ。お母さんの誕生日なんだ。」と矢継ぎ早に提案してヒネスは席を立つ。
 歩いてESTUDIOへ行く途中に、ヒネスは何人もの人に「おはよう。元気?どうしてる?」と声をかける。合間にぼくを紹介する。「この家が面白い。ここを撮れ。この下を水が流れてる。ほら音が聞こえるだろう。」と忙しい人だ。道を歩いていると、普通の家の玄関にトマトや胡瓜、ジャガイモなどを並べて売っているのだろうか黒衣のお婆さんが座っていたりする。こんな路地裏にも人は来のか知らん。そんなお婆さんにも「オラ、ブエノスディアス。」なんだから、本当にここには昔が生きている。
 ところが・だ、案内されたESTUDIOはなんともモダンで快適空間なのだった。彼は古いものが好きらしく、調度品は昔のものをうまく使っていて、頭上の照明はほんとに古いものだった。アトリエらしく天井からの採光の工夫もしてあった。そして、壁中に彼の手になる絵、絵、絵。みんな自分の作品だと言ったが、この人は一体何をする人なんだろう。マドリで兄弟とやっているインテリアの店の仕事をしているかと思えば、「トリウンフ」という下着メーカーのパッケージデザインもしたと言うし、大きな仕事机にあったファイルをパラパラとめくって、「見てみて、これはね僕の描いたお話だけどね、マドリのパテントは僕だけど、トキオで売れたらあんたのだからね。」と漫画を出したりする。TANAKAという子どもの登場するお話で折り紙がモチーフになっている漫画だった。上がり目気味で出っ歯のところが気に入らないが、丁寧な仕事ですでに二作目まで印刷されていた。
 となりはグランドピアノの部屋だが、ドラムセットも大きなスピーカーセットやアンプ、キーボードPA機材までもが並んでいた。壁にはコンサートのポスター「ピアノ・キーボード→GINES」その他ドラムス、トロンボーン、サックスなどのメンバーの名前もあったから、たぶんアマチュアバンドのようなこともしているんだろう。ヒネスはピアノを弾きだした…上を向いて歩こう…サービス精神の旺盛な人だ。他にも古いミシンが置かれていたり、アンティックな家具や置物そしてたくさんの画材に囲まれた部屋だった。
 次に地階。ここは資材置き場なのか、ペンキや全紙大の紙が積み上げてあったり、ロールしてあったり、美術教室のように作品を乾かす台があっちこっちにあったりする。そして、地階らしく剥き出しの岩や地肌のところがあり、ベッドも置いてあった。この部屋から庭へ出るとパティオとバスルーム、外へ出るとスプリンクラーのせいで緑いっぱいの庭。このあたりは山からの水で地下水は豊富と見たが、雨は少ないから草木のためには水やりの必要があるのだ。ついでに畑も案内してくれた。木イチゴ、いちじく、きゅうり、トマトと歩きながら、「あ、これ。」と取ってくれたのはミントだった。指で揉んで擦りこむと冷やっとする香り。
 部屋の方からピアノが聞こえてきた。行くと姪のベルタが来て練習しているのだった。うまい。あの世界的なスペインのピアニスト、アリシアデラローチヤに付いているというから本物だ。五つの時からやっていると言った。そのうち男の友達が来て、クラリネットとアンサンブルを始めた。朝食のバッハといい、今といい、なんと文化的。いい気持ちで聴いていると、ヒネスがワインを取り出してきた。そらきた。「いや、けっこう。」とジェスチャーしたら、「いやいや分かってる。このワインはエルティエンブロのものでね、ほらこのラベルは私の仕事。これが原画ね。」と見せてくれて、「はい。これ、奥さんにお土産。」と一本くれた。
 壁にかけてある絵を見まわして「あれはピカソみたい…。」と言ったつもりだったのに、「よし、あれにしよう。他のは大きい。」と、見る間にカンバスをばらばらにして包んでくれた。音楽をバックに冷たいものを飲んで、いい気分になったところで、「次はあそこのホテルとレストランだ。あそこのパンフレットも私。経営にも一枚かんでる。」と言ったように思うのだが、ぼくの怪しいスペイン語の知識では詳しいことは分からない。
 そこで、また出発。主人に紹介されたりレストランやサロン(見て、この床の大理石はイタリアから取り寄せてる)に通される。プールにも案内され「泳ぐか?」とMに声をかける。でも時間切れで、とにかく家に帰る。昼になっていた。
 テレサ達3人がバーベキューに取り組んでいる間、食前酒にワイン。「飲むか?」に「ウンポコ。」と答えて少しもらった。「ムジカクラシカ。」とリクエストを出したら、「何がいい?」と聞いてくれるから、モーツアルトを希望した。しばらくしてベルタが『フルート協奏曲』のテープを持ってきてくれた。心地良く音楽に浸かっていると、ワインも手伝って、第二楽章のゆったりした曲の流れに眠気を誘われた。「ああ…アンダンテ…。」と言ったか言わなかったか記憶にないぐらいなのだが、ベルタが「アンダンティーノ。」と言うのを夢の中での出来事のように憶えている。
 まどろみから我に帰ると、料理が出来ていた。まず前菜はサラダ。これにはやわらかく炊いた米がパプリカ・トマト・オリーブ・豆・人参・ツナと一緒になったひんやりサラダだった。大皿から取分けてもらうとさっぱりした味だった。Mが「おいしい。」と言った。次にホイル包みの焼きたてが出てきた。肉・魚(大きな鰯)・ソーセージ・サラミ、そして何だかよく分からないようなものいくつかがめいめいの皿に盛られていた。そしてパンとワインと水でみんなわいわい喋りながら食べる。次にスイカが配られ、その後手作りのケーキが出てきて、フィロメナ祖母ちゃんの誕生パーティが始まった。そうそう、食事はまだ助走にすぎないのだった。
fiesta de cumpleanos
Ana baila sevillanas muy bien

 69と書かれてあるケーキの真ん中へ大きなロウソクが立てられた。ヒネスのアコーディオンに合わせて「誕生日の唄」、ぼくも聞きかじりのスペイン語で「テフェリシート。」なんて言って、お祖母さんと握手。他にいくつか唄ってロウソクが吹き消されるとキスの交歓会だ。ケーキはスポンジのないやたら甘いこってりしたチョコレートのもので、しつこかったが、それを肴にまたみんなは呑む。それもめちゃくちゃきつそうな酒だ。ぼくはいつもカフェ。
 パーティがたけなわになるとヒネスがギターだアコーディオンだと持ち出すのに合わせて、いろいろ歌が出る。「そうだ、アナ。セビジャーナスを踊ってくれ!」と頼むと、初めは逃げ回っていたが皆にせがまれてやってくれた。そうなるとみんなの合唱も大きくなって小さい庭は盛り上がった。ぼくにまでお鉢が回ってきて断わりきれず「上を向いて歩こう」を唄うはめになってしまうし、Mもリコーダーを借りて「エーデルワイス」を披露した。近所の学校の先生だという人がたくさんの子どもたちをひきつれてやってきて、おばあさんにお祝いを言い、狭い庭はとうとういっぱいになってしまった。なんだか子どもの歌番組みたいになってきた。
 子どもたちの訪問が終わると、入れ替わりにお祖母さんの兄弟たちが集まりだした。年下の妹たち(といっても皆おばさんだ)が、口々にお祝いの言葉とキスを交わす。それから、今度はこの家の孫たち10人による出し物が始まった。ガレージに椅子を並べて、洗濯紐にシーツを吊るすと舞台準備は完了した。7:30、そろいのTシャツにボウタイの小さい紳士と淑女が口上を述べて深深と礼をすると、洗濯バサミがはずされて劇が始まった。夕べ見たドサ周りの劇同様ぼくにはよく分からないが、ちゃんと落ちの決めセリフまで考えてあったみたい。
 アナは一人っ子だが、三ヶ月もの長い夏休みの間じゅうこうして従兄弟たちと一つ家族のように暮らしていると、けっこう社会性も身につくだろう。孫たちで一番上のアウレリアは20歳で、もう大学生のお兄さんだ。劇にこそ出なかったものの、みんなの面倒をよく見ていた。おまけに、大人たちの「煙草取ってきて。」とか「明かり点けて。」とかの注文にも快く応えていた。日本の二十歳だとさっさと自分の愉しみに消えてそうだが、彼だけ普通じゃないのかその辺はよく分からなかった。ぼくがふだん目にしている日本のこどもは「僕が…私が…」と自分本位なのと比べてよほど大人なのだった。大きな縦割りの集団で遊んだ昔なら、それぞれ自分の役割も位置も決まっていたと思うし、大きい子は心得ていてよく小さい子の面倒をみていたものだ。
 スペインにはまだテレビが2局しかなく(朝から晩までの放送が始まってまだ2年ほど)、もちろんテレビゲームも一般化していないという状況から考えて、楽しみはみんなして創るもの、唄にしても合奏にしても踊りにしても、生のものに触れて育ち、自分も即座にやって楽しむのがこちら風と見た。いいなあ。
 そんなことを考えながら劇を見ていると、抽選会が始まった。これも昨夜の広場の芝居と同じだ。大人たちは25P出して番号札をもらっている。最後に壺を持って現われた司会者に指名されて、我がMさんがその中から当選者の札を引っ張り出すという段取りだった。119番が当たり!幸運なお祖母さんの妹は小躍りして喜び、小品のアートフラワーを見せて回る。
 二つの劇が終わると、その場の全員にお菓子やキャンディが配られ、「ヒネス!ヒネス!」のコールでまたしてもヒネスはアコーディオンを持ち出した。みんな陽気に唄いアナがセビジャーナスを踊る頃になると、大人たちも立って踊りの輪を作る。みんなの唄や踊りをカセットやカメラで追っていると、「なにしてんの、入り、入り。」ってな調子で、Mもぼくも踊りのわに引っ張り込まれ、ドンちゃん騒ぎはいよいよフィナーレへと上り詰める。
 ヒネスが目で合図をして、ぼくとテレサがみんなから抜け出し荷物を車に運び込むと、楽しかったエルティエンブロを発つ時が来た。みんなには悪かったがヒネスとテレサがパーティから抜けて、ぼくらをアビラまで送ってくれた。さようならみんな、ごきげんよう。親切なもてなしにただ感謝。みんなの手を取って別れの挨拶をすると車は出発した。キスと抱擁がないのは日本式だった。
 車はカスティージャ地方のアップダウンを快調に走る。ヒネス自慢のプジョー505はエアコン付き(これはスペインでは少ない)で、派手な追い越しなどしながら素敵に走る。「ご覧よ、この山は緑だ。あちらの方とは違うだろ。ここらは松が多いんだ。」とか「ダムだよ。発電もしてるけど、マドリの貴重な水源なんだ。」「マドリは大きい町だから、全部で六つの水源がある。リオ・アルベルチェはそのうちの一つだ。」「ミラ(見て)これは葡萄。エルティエンブロで作るビーノティント(赤ワイン)用のセパというやつで、食べる為じゃない。」とか、初めて出会ったときにそうだったように饒舌な案内で景色の全てに吹き出しが付いていく感じ。そう言ってる間に車は山並みをどんどん上っていく。牛が放し飼いにしてある。「バカ、バカ(牛、牛)。」と喜ぶと、「ここらは闘牛用の牛の牧場なんだ。」何でも即答のヒネスだった。
 広いひろい景色の中で、ぼくらは再び点になる。リアシートで、テレサは疲れの見えるMを気遣って「疲れたでしょう。眠りなさい。」と声をかけている。夕陽が西の地平に落ちる。空と山が赤く染まる。小一時間のドライブはこうして終わり、アビラに着いた。町の中を流して、駅の傍のホテルに決めると、駅へ行って時間を確かめてくれた。
 さて、夕食にしましょうとアビラの旧市街の方へ出る。手ごろなレストランを物色してテーブルに着く。ぼくは牛、Mとヒネスは羊、テレサは魚をそれぞれ注文した。「飲むか。飲めよ。ほら、うちの村のビーノだ。ぼくのラベルだろ。」これはもう断われない、「よし飲もう。」とグラスに少し…。ヒネスはMがおとなしいのを見て、色々面白い話やしぐさでおどけて見せる。サービス精神旺盛だ。「ぼくは中国の子どもの名前をたくさん言える。ちょうどグラスを棚から落とした感じだ。ほら、チャン、ワン、チン、チョン、クァン、トン、リャン、…。」「日本語だってうまいよ(といってやってくれたのは、時代劇の三船か長谷川和夫の口真似で)、オーヌォノォウヌォノグワァタァーナウンヌゥユデェエー。」まいった、日本語みたいで上手かった。またひとしきり話し、食べて出るともう明日になりそうな時刻だった。
 ホテルの前でいよいよお別れ。「ヒネス、テレサ。本当にありがとう。知り合えてよかった。今度は日本でね。」ヒネスは「行く、きっと行く。」テレサは「宝くじが当たったらね。」と笑った。「ねM、大きくなったらスペイン語覚えてまたおいで。二十歳になったらスペインの男の子紹介してやるからね。」と最後まで調子のよいヒネスだった。名残惜しいけど握手、肩をたたいてお別れの言葉を言ってると思わずホロッとなってしまった。車が出る、手を振る、車の別れはいつもあっけない。次の角を曲がって別れは終わった。

12日(火) アビラ − サラマンカ
 朝、おそーい目覚め。朝食をとるために旧市街のサンタ・テレサ広場へ行った。日陰のテーブルでクロワッサンとカフェを待ちながら、この旅二度目のスケッチをする。目の前のサンペドロ教会だが、描きつけていないのでさらさらっと言うわけにはいかない。それに、直線と弧だけだと思うとさにあらず。至る所が装飾的なのだ。石組みの一つひとつまで描いていられないのでパスする。しかしこうしてじっと見つめながら描くことができるゆとりなど今まで全くなかったことに気がついた。確かにたくさん見たし話したけれど、嵐のごとく過ぎ去っていったようで、味わうと言えるようなものではなかった。あまりにたくさんの出来事と足の疲れを引きずるように旅を続けていたのでは、スペインを楽しむことは出来ない。それに比べると、この余裕はどうだ。遠巻きにしている子どもたちに「オラ、ケタル?」なぞと声をかけ、こういう旅こそスペインに相応しい。
iglesia st. pedro y muralla de avila

 アビラはほとんど完全な状態で城壁(ムラーヤ)に囲まれた中世の旧市街が残っている町だ。ここは離れた外からの眺めが素晴らしいのだが、街を離れて歩くと強行軍なのでムラーヤの中を見物する。スペインのどこへ行ってもそうだが、石の道、石の壁、石の橋、石の家と石々々そして聖堂、教会、修道院とキリスト教関係のものの多いこと。そんな中で今も変わらず何百年前と同じに生活していることはとても不思議な感じがする。
 歩いていると教会に行き当たる。中へ入るとミサの最中だった。静かに傍らに立って見ていると、薄明かりの中で神父の単調なスペイン語がキリストをたたえ、ワインと村をたたえる。みんながそれに唱和してミサは終わった。人々はパンをいただくために並び、ぼくらは堂内を見物する。
 街を歩いて八百屋で洋梨とモモを買う。それをぶら下げてムラーヤの外に出て、日陰でひと休み。果物は全て安いしおいしい。ここでムラーヤのスケッチ。こうして描きだす対象として見ていると、なんでもない城壁の石組みの技術や時代の違いが見えてくる。当たり前だが、古いものの上に新しいものが加えられたり、風化したり、磨り減ったりしているのが分かってきた。
 遅めの昼食をスペイン風にたらふく食べると、昨日教えられたように17:33発のサラマンカ行きに乗る為に駅へ行く。プラットホームで待っている間、さらに果物の残りとピパ(ヒマワリの種)を食べ足す。ピパはこの旅の間じゅういつも持ち歩いていた。食べ始めると、面倒なのに止まらなくなるのだ。日本人の感覚で、平気でゴミを捨てることはできないので、ゴミ袋持参で食べるから余計に面倒なのだ。ここらの人は誰でも平気でその場に捨ててしまう。町がきれいなのは明け方、清掃車が通った直後だけなのではないだろうか。
 サラマンカ行きは鈍行で、二等だけの列車だった。わりとたくさん乗っていてMと並んで座ることが出来ず、車両の端と端に分かれてしまった。走り出してすぐ、ムラーヤが美しく見えるところでは端からゼスチャーでそのことを知らせる。見渡す限りのヒマワリ畑のときも、スプリンクラーの散水も、遥か遠くの稜線の変化もみなゼスチャー。
 七時ごろ到着した。サラマンカは美しい所と聞いてきてのに、町外れの駅はありふれた駅だ。張り切って町の中心目指して歩きだすが、宿の決まっていない身には荷物が肩に重い。Mの頑張り頑張りも限界とみて、早く決めることにする。あった!あそこ。ホテル☆☆を訪ねる。「部屋はありますか?」「ある。」「風呂はついてる?」「もちろん。」という展開で、決める。何泊か問われて「一泊か二泊。」とあいまいに返事をして部屋へ行くと、新しい部屋でバスルームもビエン(よろし)。風呂を使って、さっそくスペインで一番美しいというマヨーる広場へ行く。
 昼間(8時も9時もまだ明るい)見る広場は、これが美しいのかと首を傾げたくなるような四角い空間だった。プラトー・コンビナードスを頼んでお腹を作って、観光案内所で町の地図をもらう。案内嬢は慣れたもので、「今ここにいます。この広場のここから出ると「貝殻の家」があります。その次にこう通ると「新大聖堂」で、ここが「パティオ・チーカ」その次にこういくと「大聖堂」に出ますから、こことここを見て、この道を選ぶとまた広場へ戻ってきます。さあどうぞ。」とツアーコースをドリルしてくれた。「サラマンカ大学(スペイン最古の大学で、ひょっとしたら天正の少年使節が立ち寄ったかも)はどこですか?」と聞くと「この辺り一帯ですよ。」と、とても応対が早いので、なんだかスペイン風じゃない。
 言われたように出発したら、なるほど「貝殻の家」だ、うん「カテドラル」だと現われだしたが何か変。座り込んでスケッチしながら気を静める。きれいな「新大聖堂」だ。描いているうちに落ち着き、もう一度地図で確かめると、ミスコースしている自分に気がついた。やっぱりあの教え方はスペイン風だったのだ。それとも何、ぼくが間違った?どうせなら、と大きくそれて町外れのローマ橋まで行くと、もう観光客はいなくなった。ジプシーの子が川で泳いでいる。馬がいる。ここもきれいなのは夜なのだろう。今はゴミとほこりが目に付きすぎる。
 マヨール広場に戻ってテーブルで夕食を頼むと空には星、やがて照明が点く頃になると、どこから来るのだか広場には人がわいてきてごったがえすのだ。その中に昔の王子様みたいな格好の青年達が数人単位で現われて、車座に座る。ギター、アコーディオン、タンブリン、マンドリンのような12弦の楽器を使って演奏が始まった。良く見ると、広場のあっちこっちで七八人の輪ができて、みんながそれを囲んでいる。
「あれは何?」と給仕に聞くと「ファトゥーナ」と言った。次の日にもう一度確かめたらLaTunaと書いてくれたから、ぼくの聞き違いで「トゥーナ」というのが正しいのだろう。王子様ではなくて、昔の学生の格好だそうだ。シェリトリンドやレパブリック賛歌のようなよく知った曲もでてくるから、伝統的な民謡だけというのではないらしい。
 夜のマヨール広場は美しい。大道芸人が火のついた棍棒を振り回したり、投げ合ったりしてお金を集めている。夜のプラサ・マヨールは本当に美しいし観光客向きだが、バルセロナのプラサ・レアルのあの馬鹿馬鹿しい喧騒はここにはない。とにかくシェリトリンド、アーイアーイアイアーイ、カンタイスビエンと、いい気持ちで唱和していた。だけど寒くてかなわない。上に羽織るものなど持っていないので、心を残して帰ることにする。スペイン内陸部は高地で乾燥しているため夏とはいえ夜気は膚を射す。あの雰囲気にどっぷり浸かるために、もう一晩この町に泊まることにする。毎晩ホテルに帰り着くのは12時ごろで、ああ今日もカボチャになってしまった。

la tuna

13日(水)   サラマンカ
 おはよ。
 暮らしのテンポがすっかり狂って、朝10時に目覚める。というのも、いつも12時を過ぎての帰還、そのあとの入浴や洗濯そして日記というわけで、眠るのが2時3時はいつものことになっている。こちらの夏時間は、日没が9時ごろになっているから、日本の感覚とは3時間ぐらい引き算した方がいいだろう。
 今日は夜のマヨール広場だけがお目当てだから、ゆっくりと葉書を書くことにする。そう言えば、パリで数枚出して以来、途中の町ではこの日記さえつけられないほどだった。広場の日陰に陣取って書きだしたら、となりに日本人のお父さんとスペイン人の奥さん、子どもたち、おばあさんまで入れた一家が座った。「ねえ日本人が多いわ。」などと話し出す。確かに、女の子のひとかたまりが朝食の真っ最中だった。ぼくらも入れて、あそこにもここにもというように映ったのかもしれない。
 アビラで買ったジェマというお菓子が甘すぎて、その女の子たちに上げようとしたら「食べました。ノーサンキューです。」とおかしな日本語で断わられてしまった。名物だと言うので買ったが閉口した。
 もう一度サラマンカ名所巡りをして歩きながら、郵便局をさがして葉書を出した。その隣に旅行案内所があったので、これから訪ねる予定の町のパンフレットをもらいに入ることにする。4時半きっかりにおばさんが昼休みから帰ってきてドアの鍵を開けると、待っていた数人が中に入る。最初の人には英語で対応していたから、たぶんイギリス人かアメリカ人だろう。次の人にはスペイン語で答えている。さてその次の人の質問には、地図を広げながらフランス語を喋ったのだ。普通のおばさん、なかなかできる!そのどれも流暢に聞こえたので、ぼくの番が回ってきた時「日本語を話しますか?」と言ったら、笑って「ノー。フランス語ではどうですか?」と返された。いいえ英語でお願い。これから訪ねる予定のカセレス、メリダ、ブルゴスのパンフレットをもらって、礼を言って出る。
 夜のためにホテルにまず帰って、寒さに備えることにする。途中でアイスクリーム休憩、その売店をスケッチする。いい具合に日陰があるので、ひと眠りすることにした。ツンツンと身体をつつかれて目を覚ますと、目の前におまわりさんが立っていた。「あなたカメラを盗られますよ。」とゼスチャーで彼は言い、ぼくは礼を言ってその場を離れた。
 さて夜のマヨール広場。今日はどのあたりにトゥーナの学生たちが現われるのだろうと思いながら、席をしめる。夕食には定食を頼み、デザートに派手なアイスクリームを食べていると、かなり離れた所でやりだした。給仕に合図して勘定を急かせると、トゥーナの集団の隣に腰を掛けた。ランブラス通りの椅子もそうだったが、どこでも席に腰を下ろすというのはスペインじゃお金がいることなのだ。メニューにはカウンターとテーブルに別料金の設定がしてあるお国柄だ。それさえ払えば何時間いようと文句は言われないので、ぼくらもそうする。
 コーヒーとコーラを注文し演奏に耳を傾ける。心置きなく楽しむ。このまま朝までだっていられそうだ。知っている曲というのもいいが、昔の唄や民謡はもっと言い気分にしてくれる・・・という訳で、今日はテーブルでカボチャになってしまった。

 14日(木) サラマンカ−ラ・アルベルカ
 今日は11時のバスに乗って出発するのだ。おとといインフォルマシオンで時刻表とバス駅を確かめておいたから、9時に目覚ましを掛けて起きた。ずるずるっと準備に手間取って11時ごろ出発した。
 これからは本当に田舎へ行くのだから大きな町にいる間に現金を用意しておこうと、通りの銀行に駆け込んだ。300ドルのチェックをペセタにする。タクシーをひろってバス駅へ着くとベハール行きの出札口は人の列ができているので慌てて並ぶ。無事に切符が買えると、急に空腹を思い出して駅のカフェテラスでパンとチョコラテの朝食を摂る。なぜこんな取り合わせなのかというと、「朝食。」と頼むと「何飲む?」と聞かれてカフェ・テ・チョコラテ・ミルクから選び、「何食べる?」でパン・クロワッサン・菓子パン・ビスケット・チユーロの中から選ぶというわけで、どんな組み合わせにしても大差のないものになってしまうのだ。ここでは「朝食は簡単に!」なのだ。
 ゆっくり食べられたわけではないが、5分前に乗り場に行くと、客はもうみんな荷物を積み込んで乗っている。しまった・・・と乗り込むと、もう2人で並んで座れる席は残っていなかった。しかたなく一番前のおじさんに「リブレ?」と確かめMを座らせ、ぼくは後ろの方のオトーサンの隣に座らせてもらう。こんなときに具合がいいのは、始発駅では座席数以上の切符を売らないことだ。必ず座れる。ただし切符を売るのは出発の30分前と決まっているので、ぼくらが駆けつけたときみたいに並ばなければいけない。そのためにいつも混雑していた。予約が可能かどうか知らないが、売り切れると困るだろうなあ。
 窓外の景色は例によって麦か牧場だった。相変わらずゆるやかな起伏とコーナーの道をバスは走る。いい気持ちで寝ていると、着いた。ベハール。ここは何の変哲もないところだ。早速タクシーをひろって「まずカンデラリオ、そのあとラ・アルベルカへ行きたい。」と言った。即「OK、行こう。」と出発した。
 カンデラリオは名前がいいので選んだ。石組みの地階の上に木組みの二階がのっかっているような古いつくりの村だった。運転手に「10分か15分ぐらい。」とことわって村に入っていった。なるほど古い村だ。そのままどこでも絵になりそうだったが、通りを歩いていると臭いが凄い。牛や山羊の糞尿がそこここに落ちていて、それが凄い臭いの犯人なのだった。これは絵や写真では表せない。歩いていると「りんご通り」というのに出会った。かわいい名だ。そこの八百屋で梨2個、桃2個、メロン1個を買ったら122Pだった。ざっと150円!これは嬉しいねえ。村の入口の古びた教会と広場は安野光雅の本に出ていたような気がするので、大きな看板が邪魔だったけれど、写真に撮る。運転手に約束した時間に急かされてもいて、スケッチするだけの時間が持てなかった。
(Manzanaにはりんごの他に街区、ブロックの意味もあるそうです。19年も経ってから分かりました。)
candelario
 さて次はラ・アルベルカ。ここは天本英世の「スペイン巡礼」を読んで、絶対行こうと決めていた。山の中の寒村に繰り広げられる夏祭りは、どうしても外せないこの旅の目玉なのだった。運転手に「どのくらいかかる?」と聞くと「だいたい1時間ぐらいだろう。」という答。景色など楽しみながら出発する。車は少ないのですれ違うのはたまにしかない。追い越しとなると滅多にないほどなのだが、路肩のはっきりしない田舎道をすっ飛んでいくので、乗せてもらうのは怖い。
 車はだんだん山奥へ入っていく。小さな村がときおり現われては消えていく。その度にアルベルカ村かと思うが違うらしい。1時間以上のドライブの後、めざすアルベルカ村に着く。運転手がオテル「ラス・バトゥエカス」を尋ねて、行き着いた。降りるとき「ありがとう。コーヒーでも一緒にどう?」と聞いたが断わられてしまった。4500Pの料金を払うと、握手を求めてきて「よい旅を。」と言った。あのご機嫌ぶりだとかなりよい仕事になったのではないだろうか。
 この村でたった一つのホテルは二つ星だが、とても良いところだ。水が冷たくておいしい。たっぷり湯が出るので、さっそく身支度を整えていると、祭のふれ太鼓が下の通りを行く。こちらの気分もいくぶん乗ってきて、村の方へ誘い出される。小さい村だから迷うことなく村の広場に行き着いた。広場のテーブルでコーラを飲みながら一軒のバルをスケッチ。広場にはもうステージが組まれていて、夜店の屋台もいくつか準備を始めている。小さい広場でゆるやかな傾斜がついているのだが、その低い方に舞台はしつらえてある。ああ、天本さんの本の写真はこの角度から撮ってあるのだと納得する。
 そこらじゅうをヒネスに教えてもらった古い家の造りを確かめながら歩いていると、カンデラリオと同じ臭いがする。家畜のいるすえた臭い。路地を歩いている鶏・・・うん、これは30年前の日本だ・・・なんて嬉しがって歩いていると、道端の人々の胡散臭そうな視線にどぎまぎする。それだけではない。突然、家の中から豚が数頭飛び出してびっくりしたり、ここはまぎれもなく山間僻地のアルベルカ村だった。
 ホテルに帰って、「祭の予定表」がないかどうか確かめたら、「プラサ・マヨールの村役場のドアに貼ってあるだろう。」と言う。へえ、そうだったの、あの小さな広場もマヨール(大きな)広場というのか、村一番ってことだね。それからここを発つときのバスの便を尋ねると「ベハールへは無い。サラマンカには日に一本ある。」という返事で、今いるところがどんなに山奥なのか思い知らされた。
La alberca, bar de plaza mayor
 夜用に身支度を整え、オラリオ(時間割り)を確かめるために広場へ出る。村の中をあても無く歩き回ると、写真を撮っている人や絵を描いている人によく出会うから、やはり今は帰省客や観光客で膨れ上がっているのだろう。家々の造りはかなり古く「1738」とか「AVEMARIA」とか「IHS」等の文字が玄関の石の梁に彫り込んである。入口は二つで、一つのドアはすぐ階段になっていて上へ上がる人間様用、もう一つは観音開きの大きいドアで上だけでも開くようになっていたり、下の方に犬猫用のくり抜きがあったりしてこれは家畜用らしい。ドアは別々でも中は一つだから、ドアを開けたら馬と「こんにちは。」になるかも知れない。中を覗き込むまでもなくすごい臭いがするし、時折りカランカランとカウベルの音も聞こえてくる。道路の糞はまだ生々しいのがあったりして、アタンシオン!だ。村の中のみちはたいてい石畳だったから、ツルリっなんてなったらほんと危ない。
 広場へ戻ると、今夜のステージをつとめるH-70というロックグループがステージセッティングの真っ最中だった。これから始まる祭がどんなものなのか皆目見当もつかないが、見物人で膨れ上がった広場の熱気と村人の昂揚は否応なくこちらに伝わってきてドキドキしてくる。広場の大音量のスピーカーを使って、まず神父さんが役場の二階のバルコンから、神をたたえ村をたたえる祝福の言葉を言う。そして、村長さんが長々とメッセージを読み上げる。まだ若そうだが、立派な顎鬚と落ち着いた物腰の彼がスピーチを終えると盛大な拍手が起こった。その後、民族衣装の爺さんがワインの入った革袋片手に舞台の上で、祭の始まりを宣言した。この人がワイン飲みのみ「ビーバ、アルベルカ!ビーバ、ビーノ(ワイン)」などと言うのに大観衆も唱和する。「ビーバ!」「アルベルカ!!」と応える。

 ラ・アルベルカは祭りに入った。
 広場に大きな象(の縫いぐるみをまとったワゴン車)が乗り入れて、アラブ風に着飾った男たちが練り歩くのにつられるように子どもたちが寄って来る。「象」の上のお姫様もアラブ風で、子どもたちにキャンディを投げる。子どもたちの争奪戦に負けてはいられない。ぼくも「こっちこっち。」と声をかけて投げてもらった。子どもたちの身のこなしの素早いこと。やっとの思いで手にした一つをMにプレゼント。
 演芸会と言っていいのだろうか、この後、男2人女1人が舞台に上がって、語りと民謡を聴かせる。手には革袋のビーノ、そのうちの1人は伴奏で、この地方独特の太鼓と笛を両手で器用に操る。他の2人は唄い、踊る。カスタネットの踊り、鍋のようなものを楽器にしたり、テーブルを調子をつけて叩いたり、マリオネットにタップを踏ませたりするのだが、そのどれも巧い。プロなんだろう。
 そしてその後、演奏しながら舞台を下りてその足で、広場に面したバルを一軒ずつ門付けして歩くと、中の人もステップを踏んで踊りだす。単調だがカスタネットとタップのようなステップはフラメンコを連想させる。エルティエンブロでヒネスがアナのことを自慢して「セビジャーナスの踊り手。」と言ったとき、「それはジプシーのフラメンコのようなものか?」と聞いたら、「違う!全然違う。」と語気を強くして否定したから、へえそうかあと思ったことがあったけど、ぼくの中のスペイン舞踊はみなフラメンコに見えてしまうのだからしかたがない。
 ここに来て初めて分かったのだが、フラメンコにはセビジャーナスや民舞にない哀愁と精神の自由がある。土臭く物悲しい旋律は、ジプシー達がその昔、東の方からやって来たことを頷かせるのに充分だし、こぶしや泣き節を感じてしまうのは、我々日本人の感性と奥のところで繋がっているからなのだろう。フラメンコは基本的に即興の感情表出なのだと思う。ここで演られているアルベルカーナやマドルガーダは単調で表現の自由度の少ないもので、スクエアダンスという風に理解できる。
 こうして真夜中近く、11時を半分ほど過ぎた頃、ロックバンドH-70が狭い広場に不釣合いな大音量でコーヒールンバを演りだした。これがこのバンドのおはこなのか手馴れていて巧い。広場の人たちは早速8ビートにのり出した。変わり身が早いというか、のりやすい性質の人たちだ。そしてこの点で、ぼくも同じなのだ。体が勝手に動く・・・しかし、今日はカボチャになるまでにホテルへ帰る。

 15日(金) ラ・アルベルカ
 今日はカメラもカセットも使わない日と決めて、自分の目と耳で祭を脳髄にプリントすることにする。朝食をとってゆっくりテラスで一休み。昨夜のホテルでの夕食といい、今の朝食といい、ウエイターにサービスされていい気分になっている。この小さな村に一つしかないホテルだから、えらい金持ちごっこをしているような気になる。他にはフォンダやペンション等の安宿があるだけだから、二つ星でもここの客は少しとりすました感じを受けるのだ。
 時間表によると、今日はミサがある。村の教会へみんなが集まって、ミサが始まった。いつもにない旗の行列などが珍しい。立って見ていると、すぐ前のおばさんに席を作ってもらって座ることが出来た。ミサの後、旗や聖像などがしずしずと担ぎ出され広場の上座に据え付けられると、パンやビーノを供える行事、アルベルカーナという踊りを奉納する行事と祭礼が進行する。輪になったり、二列になったり、隊形を変えながら踊る。手には棒やカスタネットで、みな精一杯着飾った民族衣装だ。この後、子どもたちの踊りは同じような衣装で、花のアーチをくぐったり回ったり、何色かのテープを持ってメイポールの周りで踊るメーデーのダンスのようだった。(これは絵葉書になっていた。)
 村の中を歩いていると、そこらじゅうでカメラやビデオを持った観光客が通っているのに出会う。だいたい30分もあれば隅から隅まで歩けるような小さな村にこの人数だから、アルベルカの祭の宣伝はかなり行き届いているように見える。フランス語も飛び交う。日本人は女の子の二人組を初日に見かけたが、その後は全然見なくなった。この小さい村の行事だから、いれば何度も出くわすだろうに、もうどこかへ行ってしまったのだろう。東洋人はぼくら二人だけになった。ときおり小さな子に「チーノ。」とやられるが「ノ、ハポネセス。」と応える。
casa de cerdos
 歩き回っていると見覚えのあるところへ出た。ああここは昨日豚が飛び出してきた家だ。あのときはびっくりした。中を掃除するためかどうか、とつぜん五・六頭の豚に出てこられて、道端の石の上に避難したのだ。今度はその石の上に陣取って豚の出てきた家をスケッチする。描いていると男の子が数人覗きに来た。アビラのときみたいに遠巻きに、「オラ。」と言うと、寄って来て口々に喋りだす。「それはあんたの子か?」「名前は?」「歳は?」「子どもは何人いる?」「飛行機で来たのか?」・・・いろいろ聞くので描いていられない。「そうだ。北回りでね。」・・・いちいち答えながら逆に、「君ら、名前は?大きくなったら日本に来たい?ぼくは学校で教えてる。」などと話してやる。何人兄弟か聞いてみると、4人3人は予想していたが「ひとり。」というのもいて、これは国際的な現象なのかもしれないと思った。8歳だというホセが、半分みんなにからかわれながら「こいつタバコ吸いよるねん。」と言われている。「悪い子だ!」と言ってやったら、一生懸命否定しているところがかわいい。酒も煙草もオープンな国だから、ほんとに低年齢と思える子が煙草をふかしていたりする。まるで戦後の闇市(知っているわけではありません。念のため)のように、大人に混じって仕事をする子どもの指に短くなった煙草・・・ビーノは言うに及ばずだ。
 しかし今は祭。子どもたちの格好はその所為もあってか、汚くはない。みんなそれぞれの色をした髪と瞳で、Tシャツや半ズボンを素敵に着ているのをみると、洋服の長い歴史と西洋人のスマートさは日本人にはないものだと少しねたましく思った。話し終わって帰るとき、ぼくのスケッチブックにそれぞれの名前をサインしてくれた。フェルナンド、リカルド、ホセ・ガルシア・オヨス、ホセ、ヘスス・ハビエル、みんなさようなら。
 7時からは民謡大会だ。唄や演奏かと思ったら、踊りだそうだ。レオンやリオハといったところから来ているプロの踊り手たちは疲れ知らずに踊る。男女が半々で10人ほどの若い集団だが、よく訓練されていて面白い。来ている服は民族衣装というよりは、それをアレンジしたステージ衣装のようだった。輪になる-固まる-二列に-繋がる-ねじれる-スクエアダンス風と様々に踊り方を変えて面白い。伴奏はたった一人のおじさんによる笛と太鼓なのだが、このおじさん、腰に太鼓をつけて片手にバチ、もう片方には笛を持っている。それにかぶさるように踊り手のカスタネットが重なると、まるで獅子舞の囃子のようにも聞こえる。この踊りは終始よく似た単調なステップなのだが、ぼくが驚くのは持続する時間の長さだった。跳びはね続けて疲れているはずなのに、表情はいつでも笑っている。溌剌として疲れを知らない踊りは、角館の「わらび座」を連想させる。
 その後、ラ・アルベルカの人たちの踊りが始まると、声援も違ってきた。おじいちゃんもおばあちゃんも、おとなりの○○ちゃんも着飾って舞台に上がって踊る。踊りそのものがうまいというより、スカートに手をかけたり、足でめくるまねをしたり、卑猥な腰つきをしたりして客を沸かせている、どこの国でも見られる景色。
 11時、またH-70が出てくる前にぼくらはホテルへ夕食に帰る。

 16日(土) ラ・アルベルカ
 遅い朝食を、今日は何があるのだろうと話しながら、ホテルのレストランで食べる。6時から闘牛がある。それを見るために滞在を一日延ばしたのだ。その他は何があるのだろうと役場で写してきた時間表を見るが、よく分からない。もうどうでもいいや。村の散歩でもしようと決めて、また村へ出る。
 一軒ずつ玄関やベランダ、ゼラニウムの咲き加減を確かめながら、スケッチの場所をさがして歩いていると広場へ出た。ここでは闘牛のための準備が進んでいた。どこかのバルの中から笛と太鼓の音、踊りのカスタネットの音もする。なにかちょっと違っている。なにかおかしいと音のする方へ誘われていくと、教会へ出た。教会の前まで来ると、小さいがまた一つ舞台が設えてあって、ここのは幕の用意までしてある。ああそうだ、これも天本さんの本で読んだ。劇だ劇が始まるのだ。舞台の前で待っていると、次第に見物人が増えて人々でひしめくようになって、劇が始まった。
 牧人が出てきて村人が出てくる。やりとりがあってそのうちに場面が変わり、黒ずくめの衣装で悪魔が出てきて村人たちを脅かす。舞台は悪魔の世界になって七人のかわいい小悪魔も出てきてのし歩き観客を威嚇する。悪魔が呪いの長いセリフを言っていると、賛美歌のような唄が遠く切れ切れに聞こえてきて、彼の怒りは頂点に達し舞台にセットされた火薬に点火。物凄い大音響と黒煙で舞台も悪魔も何もかも見えなくなるし、観客は耳をつんざく爆音と煙から逃げ惑う。その後マリア(だと思う)が七人のかわいい天使を伴って現われ、剣をとると悪魔はやっつけられて退散、劇は終わる。多分いつも通りの定型劇なんだろうけど、みんなはその「いつも」を楽しんでいる。
 爆発音の所為で、変になった耳のまま、「なんて馬鹿馬鹿しい劇やろ。せやけど、この馬鹿馬鹿しさが面白い。」と2人で喜び合った。
 広場へ取って返すと、カスタネットの音。何だろうと思っていると、昨夜のプロの踊り手たちと伴奏者が、今日は地べたをステージにしてやっている。一踊りするとまた踊りながら道を行き、少し広くなっているところに止まってそこでまた一踊りという具合に村の中を練り歩く。村人はビーノだハムだお菓子だと振る舞う。一息入れるとまた踊りながら跳ねながら移動する。何とも凄い、身体がバネで出来ているかのような人たちだ。子どもたちと一緒にぼくらもついて行く。
 小さな村の「聖母被昇天祭(アスンシオン)」の興奮は、こうして闘牛の頃には最高潮に達するのだ。ここの祭は長期に渡るが昼食の2時ごろから6時ころまで重要な行事はない。多分スペインの祭はみんなこうなんだろう。昼寝のためである。当然ぼくらも昼食とシエスタにホテルへ帰る。
las bailaoras, y toro a la plaza mayor
 6時ごろ広場に出かけると、丸太と鉄の杭で締め切られた広場は即席の闘牛場になっていて、既にみんな思い思いの所に陣取っている。日が当たって暑い舞台の上もいっぱいの人だし、広場に面した窓もバルコニーももぐりこむ余地のないほど人でひしめいている。日向で、マドリの大闘牛場でなら一番安そうなところにぼくらも場所をとる。そこしか空いていないのだからしようがない。闘牛場といっても俄作りで、広場を囲む家々の二階のベランダを支えている柱に縄をかけたり、敷石をめくって柵用の柱を立てたりして作ってある。毎年のこととあって手馴れていて、頑丈にできているのは相手が猛牛だからだろう。
 ぼくらの待機しているすぐ横の扉が開けられて、牛が飛び出してきた。牛は小ぶりだった。闘牛の始まりだ。ここの闘牛はマドリなどの大闘牛場とは様子が違っている。場内には血の気の多い男たちがたくさん入ったままなので、定まった手順を踏むわけではない。初めっから混乱していて、参加するのが楽しみらしいのだ。男たちが牛をからかったりかわしたり、スリルを楽しんでいる。牛が小さいということもあるだろうが、誰もがみんな牛と面と向かっている間だけはこの場の主役なのだ。赤やピンクの布(ムレ-タ)を持った者もいるのだが、闘牛の作法に沿っているわけではなく勝手に持ち込んでいるらしい。
 見物席は今やぱんぱんに膨らんでものすごい人だ。ぼくらは人にもまれているうちに中の様子が見えなくなったので、場所を移すことにする。大人しくしていたのでは主役になれない国なのだ。ここでは自分を主張しよう。ぐるっと回って反対側に行くと、日陰の席に僅かの隙間を見つけて突き進み石のベンチの上に立つことが出来た。おお前の人の肩越しに見えた見えた。牛の背中にはもう銛が刺さっていた。マドリでならピカドールだバンディリェーリョだと、マタドールの前にも着飾った人たちが牛と一対一の勝負をするのだが、」なにせそこは田舎の闘牛だ。呼ばれているマタドールは1人しかいないので、村の若い衆が斜め後ろからさっと近寄って一本の銛を打つ。牛は大暴れをしてまた追っかけっこが忙しくなる。逃げ場を失った男たちが逃げ込む所は柵の外なのだが、逃げる時用の綱がいくつも吊革のようにぶら下がっていて、みんなそれに殺到する。内側にぐるっとひと巻きにした人たちが、わっとよじ登るやらロープにつかまるやらするのは滑稽で、外で見ている分には面白い。勢い余って外側に折り重なって落ちてきたりもするかと思えば、牛があまり動かないと見れば外から蹴ったり小突いたりして挑発する。ああかわいそう・・・と思うのはこのたくさんの人たちの中でぼくたちだけだろうか。大人も子どもも男も女も、今日は一つのカタルシスにむかって駆け上っていく感じがする。
 そうして牛との追っかけっこが続いて、マタドール(一応ピンクのムレ-タと刺殺用の剣を持っている)が牛と対峙してフィナーレを迎える。みんなが口笛と歓声ではやし立てる中で儀式が進む。一刺しで牛を殺すのは余程手馴れていても難しいらしく、このときも何度かの失敗の末に1mほどの剣が肩から腹に向かって突き立てられた。・・・が、居合わせた全ての観衆の視線の中で牛はまだ立っていた。命が消えようとする最後の瞬間に牛の瞳は何を見ていたのだろう。雄雄しい牛は前脚からゆっくり崩れていった。
 二頭目は、更に小さめの牛が場内に駆け込んできて始まった。これにはたくさんの男たちばかりでなく活きのいい少年たちも混じっていて、牛との追っかけっこを楽しむのだった。真剣に逃げる、かわすを繰り広げる。小さくても角は鋭いし、引っ掛けられでもしたら、怪我ぐらいでは済まないだろう。この牛は追っかけっこが終わると、後ろから角と首筋に抱き付いてみんなして押さえ込み、堵殺の要領で殺した。
 さて三頭目は本格的に大物で、こればかりは追っかけっこに参加する男たちも少し減った。減りはしたが牛の動きが読め自分の運動神経に自信のある男たちは参加する。そして同じように銛を幾本か打ち込んでから、マタドールが一対一で最後の儀式をする。これで三頭が殺され、広場の水呑場で洗われてどこかに連れ去られると本日のイベントは終わりだ。
 殺された牛たちは台車に無造作に重ねて積まれ、そこに子どもたちが群がり乗り込んだ。トラクターがそれをひいて行く。牛からはまだ血が流れている。その中の誰かが牛の血を自分の頬になすり付け、何か叫んでいる。点々としたたり落ちている血のように生々しい死を死んでいく牛に何の感傷も持たず、さながら凱旋将軍のように意気揚揚と進む彼らは一体どんな神経の持ち主なんだろう。
 闘牛が終わると、同じ広場でまた踊りだ。マドゥルガーダ、アルベルカ-ナ、そして11時からはお定まりH-70の出番で広場はディスコティカになる。ぼくらも今夜は幾分興奮気味でステップを踏んだり、滅茶苦茶ダンスをしたりしてみたが12時。カボチャになって帰る。

 17日(日) ラ・アルベルカ
 祭も四日目を迎え人出は少し減るかと思われたが、なかなか。今日も闘牛があるからか、村の賑わいはいつもと同じだ。ぼくらは村の様子を確かめに、そして古い家の玄関を描こうと出かける。こう人出が多いと、座り込んで描くのは勇気がいる。しようがなく人ごみを離れて村の学校をスケッチする。途中に小さな教会がいい雰囲気で建っていたのだが、日向は暑いので遠慮した。
 描いていると、ぼくらの学校やで・・・と子ども達が寄ってきた。子どもは正直で、疲れなくてよい。礼によって「何歳だ?」「何人兄弟だ?」などと話が始まる。広場に出る途中でまたあの笛と太鼓の祭囃子が聞こえてきた。あの人たちが踊っているのだろう。ここはヨーロッパなんだなあ。ハメルンの笛吹きという話だったか、笛が鳴り出すと足が魔法仕掛けで動き出す・・・そんな話を思い出させる単調だが軽やかなステップで踊りながら行進している。掛け声もカスタネットも相変わらずだ。
 こちらの体調も気分も今や全くエスパニョ-ルで、1時ごろになるとお昼にしたくなってホテルへ、そしてその後はシエスタ。5時ごろ起きだして、また夜にかけての馬鹿騒ぎに参加するのだ。今日もまた闘牛。昨日と同じに三頭の堵殺の儀式だったので省略。それが終わると、仮設闘牛場を壊しにかかった。宴の後の物悲しさを感じさせるのは、こちらの見る目がそうだからか、今日の天気が秋の気配を感じさせる肌寒い空気を含んでいる所為だろうか。ああ、これでこの山間の村の祭は終わり、仕事の秋を迎えるのだと妙に得心して広場を後にする。映像でなら赤トンボなり爆竹の残りかすを捉えて秋空にパンするところだ。
 この広場。スペインのどこにもある名で、プラサ・マヨールと言ったが、ここをプリントしたTシャツを記念に買って帰ることにした。探し回ったのにどこにも見つけられなくて、着ている人に譲ってもらうわけにもいかず、諦めてド派手にYo・La Albercaと書いたのにする。もう一度村の中をあちこち歩き回ってみる。どの家もゼラニウムやあじさいがベランダを飾っていて美しい。たわわに実をつけたさくらんぼの木も見ていて美しかった。家々の玄関口の古そうな良さそうなのを見つけると、やっぱり描きたくなってくる。石の梁には前にも書いたが1736とか1807とかの数字やJESUS y MARIAとかINRIとかの文字が彫ってある。魅力的だが通りには大人がいっぱいで子どもに覗かれているのとは気分が違うのでスケッチはあきらめる。しかしおかしなもので、描いた後のものなら平気なのだ。今までに二度「見せてくれ。」という人がいて、一度なんかはお礼だからとバルで飲み物を奢ってもらったりした。絵が金になったのは初めてだなどと喜んだことだった。
 ホテルへ戻って「いよいよ明日、出発する。バスが出るのは何時?どこから?」と確かめていたら、フロントに偶然バスの運転手がいた。彼は「7時45分(オッチョメノスクアルト)。」と教えてくれてから、「部屋は何号だ?」なんて聞いてくれるので「205だ。」なんて答えてほっと一息。このところの生活からして、朝の早いのだけは不安材料だった。
 最後の夕食を奮発して食べた後、風呂に入りゆっくりする。毎日たっぷりお湯が使えるのもぼくの旅としては贅沢なのだが、貧乏旅行ではMが疲れてしまうのでこれで行く。本当は二泊のつもりで来たアルベルカだったけれど、闘牛が見たくて三泊、それで出発しようとしたら、「あなた、明日は日曜日でバスなんかありませんよ。普段でさえ一日一本だけなんです。」と出られなくなって四泊。なんちゅうとこや!そのバスも7時45分といえば、夏時間の所為で夜明け前なのだ。もうすっかりアルベルカーノになってしまって仲良くなったフェルナンドたちとはよく会うし、その度に「オラ、ケタル?」と挨拶するようになって、これはこれでおもしろい経験だった。
 アルコールの怖いぼくのことだ。「ビバ、ビーノ!」とは言えないが「ビバ、アルベルカ!」は大声で言っておこう。

 18日(月) ラ・アルベルカ−カセレス
 目覚ましを一時間前にかけて寝たのに、15分もピーピーピーの中で、どうしても自分の手で止められない目覚ましの夢を見ながら寝ていて、目覚めると7時だった。慌てて顔を洗い、出発の準備をする。7時20分フロントへ行くと暗がりで誰もいない。しまった。夕べのうちに支払っておくべきだったと反省したが、いたしかたない自分で宿代をだいたいのところではじき出す。ざっとした勘定で30000Pぐらいになったので、多めにと思って35000Pを封筒に入れて出ようとしたとき、玄関から人が入ってきた。「バスに乗りたいので早く出たい。」と言うと、「バスはさっき2人を乗せて出た。」と言うではないか。そんなあほな!どうしても今日出たい。サラマンカへ行きたい。」と言っていると、やっとフロントの中から反応があって女性が現れた。ぼくらの窮状を察したこの女性は「わたしたちサラマンカに行くから乗せてあげる。」と助け舟をだしてくれた。そこでやっと落ち着いて支払いに掛かった。四泊7食プラス3朝食、しめて29600Pだった。ぼくのはじき出したのとほほ近い額だ。円を1.25倍と考えて37000円。よい目をさせてもらった割りには少なくて済んだ。
 表へ出ると、アルベルカは雨だった。何とも印象的な出発だ。いつもは遥か彼方まで見渡せた山々も、低くたれこめた雲ですっぽり包まれている。ホテルの従業員のカップルに乗せてもらって村を後にする。景色を眺めていると、ここは本当に信州かどこかのように親しみが持てた。緑豊かで水のおいしいところだった。山の木々も種類が豊富で、栗が実を付けているし、松もユーカリもポプラも、林檎・梨はもちろんなんだかよく分からない実のなる落葉樹の大木も、他のスペインにはあまり見られないものがある。それに下草が生えている。シダが茂っているから、ワラビ採りも出来そうで、豊かな水っていい。
 サラマンカへの道は、ベハ-ルから入ってきたときの山間のつづれ折りとは違って、かなり開けた田舎国道だった。フィアット124は快調に飛ばす。日本の道路事情とはずいぶん違っていて、車がうんと少ないので速い。エンジンのうなりが車室にこもるのも小気味よい。これで舗装状況がもっと良ければ申し分なし、いっちょう奮発してレンタカーでも・・・と思わせるようなのだが、町へ出るともういけません。右側通行の不自然さ(?)と、慣れないので見にくい信号と、地理不案内がたたって、行きたい所へいけなくなってしまう。現にぼくらをエル・ティエンブロまで送ってくれたルイス達だって来るときもマドリを出違え、帰るときもなかなかマドリに入れなくて1時間もぐるぐる回ったと後の電話で話していたから、よほどなれないと難しいのだろう。
 さて、1時間とちょっとで見覚えのあるサラマンカのローマ橋へさしかかる。あカテドラルだなどと言っているうちに国鉄駅に着いた。降りるとき「ありがとう。助かりました。少しだけどガソリン代に・・・。」と渡そうとするのだが頑として受け取ってくれない。「私らは用事で来た。」というわけ。礼だけ言ってさよならした。アルベルカの印象はまた良くなった。
 駅で確かめるとポルトガル行きは18:00発だという。この町はもう二泊して、見るところはみんな見ているし、時間つぶしもできないので両替して豊かになってからバス駅まで行く。調べると11時にカセレスへの便があるというので切符を買った。じっとしているより移動している方がいい。こんどは早い目に乗り込んだので2人並んで座れた。朝早かったので2人ともよく眠る。時折り目を覚ますと、別の町でトイレ休憩だったりする。何日か前に降りたベハールへまた来てしまった。今が夏だからそうでないのが残念だが、ここまでの景色は緑豊かな山だったから、みっちゃんが来た10・11月頃は「紅葉できれいだった!」というのも頷ける。ここから更に南を指して進むとアンダルシアの気候と風土に変化して、ぼくの心にいつもあるスペイン的な風景になる。岩と麦とオリーブとが興語に現れるようになると、ぼくらの睡眠も本格的になってきて途切れ途切れの記憶しか残っていないが、バスがよく飛ばすのに驚く。追越しを頻繁にするのだ。農作業のトラックや非力なルノー4やシトロエン2CVには容赦なくクラクションを浴びせて強引にパスするのだ。バスは西ドイツ製のベンツだし、シートもいい造りだから疲れない旅が出来る。

caceres

 カセレスへやって来た。天本さんによると、「あまりに見るものの多い町は疲れる。」という所だ。ホテルを見つけてチェックインすると、さっそく町の中心へ行く。非常に美しい広場だ。レンフェの駅へ行って明日の14:45発の列車の予約が取れると、少し安心できて町見物に古い家並みへ突き進んだ。本当に古い建物、そして今までの町と違っているのは建設の素材で、道路も建物も大きな石が少なくて小さな石で赤茶色く見えることかな。これもアンダルシアらしく思ったのだが、道路は自然石を色違いで模様にしたり、並べる方向に変化をつけたりしている。どこもかも見たくなる・・・そんな町だが、真剣になると疲れそうだからざっと歩いて、後は骨休めにする。
 風呂に入る。ここの湯は「温い」と「冷たい」の中間ぐらいだった。仕方なく水浴びして夕食に広場へ出ると、夜はまたいちだんときれいだ。駐車場になっていなければもっと良いのにと思いつつ広場を眺めながら食べられるところを探す。外のテーブルで「メヌーデルディア。」と注文すると、「ダメ。ちゃんとした食事は中で!」と言うので、あきらめて部屋へ入る。魚に挑戦、トゥルーチヤのフライというのを注文したら鱒が出てきた。ヒネスの家のバーベキューと同じで生臭さが残っていて馴染めない調理だった。同じアンダルシア料理でもチャンケーテという小魚のフライはレモンとニンニクで見事に美味しかったのに。

19日(火) カセレス−リスボン−オビドス
 朝目覚めると10時45分、部屋を出たのが11時過ぎだった。いくつか見るべきところを昨日観光案内所でもらった地図から選んで、観光の開始。狭い露地で間違ってばっかりだったが、時間が錆び付いたようなこの町の色はなかなかよい。目玉のサンマテオ教会は閉まっていたが、サンタマリア教会はくぐり戸を押すと開いた。暗がりの中、ステンドグラスからの光条が床に躍り、その部分が赤や青に浮かび上がって不思議な空間を作っていた。こんな小さな窓でこれだから、これから行く予定にしているスペイン一というレオンのステンドグラスはさぞかし美しいのだろう。
 カセレス博物館へ行くと、古代からの出土品を展示してあって、「ああこれはフリントで作った石器だ。あ、縄文式みたいな土器がある。」と古代史の共通性を見ておもしろかった。初期のもののそこは尖っていて、地面に突き刺して使ったのだろう。その後の部屋は石の柱だの、通貨だのがあっておしまいにアラブのモスク様式で建てた地下の部屋へ出た。水没しているように見えるおかしな部屋だったが、これは井戸だったのだろうか。
 昼食を昨日入りそびれたレストランで食べる。Mが「そうめん、鶏の山椒焼き、冷奴・・・。」と変なことを口走るようになってきた。出てきたのはそれとは全然違う草履のようなステーキだった。ここでまた一頻り彼女は日本食コールを繰り返しながら、食事は終了した。付いてきた西瓜の種があまりに大きいので、お土産にするのだと紙に包みだしたり、行動様式まで何だかおかしくなってきた。
 2時過ぎタクシーで駅へ着いて、やって来たタルゴに乗る。これからポルトガルに向かうのだが、景色は例によって壮大な岩山だ、麦だ、牧場だというばかり。風景の中に水気は乏しい。2時間ほどしてバレンシア・デ・アルカンタラへ着くと、スペイン側の検札があってパスポートチェックが入る。しばらくして紙切れが配られて、入国の目的などを記入すると、今度はポルトガル側の検札だ。大きなシェパードが入ってきたのには驚いた。あれは麻薬か何かのチェックをするのだろうか。それぞれの国で制服が違うのもおもしろい。鉄道の乗務員もここで交代したのだろう、違った服装が乗り込んできた。列車はこのまま走りつづけるのだが、このへんがフランス−スペイン間と違う所だ。スペインはこれまでの長い歴史の中で他の国からたびたび侵略された苦い経験を持っていて、鉄道の線路幅を違えて作ってあるのでそのままでは通り抜けられないのだ。それが、イベリア半島の中だけはみな同じになっていて、乗り換えの必要はない。どこへも同じ軌道が通っているから。Mはここでまたお目めパッチリの瞳になって「パスポートにハンコ四つも押してもらった!」と喜ぶ。やはり少し変だ。出発から18日、ちょっとビョーキかもしれない。
 それからまた2時間ほど乗ると、列車はテージョ河(スペインを流れている時はタホ河と呼ばれていた)に沿って走るようになった。水の多い景色の中の白い壁と茶色い屋根の家々。初めはまるで同じだったが、スペインが砂漠風なのとははっきり違ってきた。オリーブの木の間にオレンジが植えてあったり、タバコやコーンが植えてあったりして、土地利用の仕方が違うのだ。水田のような湿地を見つけてまるで日本のようだと思えるのもスペインとは違っている。コルクの木(たぶん)がたくさん生えていて、未知の国ポルトガルがぼくの前に立ち現れてきた。窓外の村を見る。山の緑、家々の白い壁、そして村の中ほどにひときわ高い教会の屋根。美しい所だ。列車から見る村は山の尾根沿いに繋がっていたりするから、教会はほんとうにひときわ高い。
portugal !
 タルゴがリスボンのサンタアポローニャ駅に着いてすぐに、200ドル分だけエスクード(以下Eと表記)にする。とても丁寧な数え方で2万6千何がしかの札とコインをくれた。その足でインフォルマシオンへ行く。「オビドスのポウサーダに予約が取ってあるが、どう行けばいいのか?」と英語で聞くと、メモ用紙に書き付けてくれた。見ると23:09発で、到着は1:30ではないか。「オーノー。もっと早く行く方法はないのか?」「ない!」・・・で話は終わった。仕方がない手持ちのスペイン紙幣2万PもEに替えて、駅のタクシー乗り場に並ぶ。
 今、いるのがリスボンで、ゆとりがあったらそこらじゅうを歩き回ってみたい気分なのに、面白いというアルファマ地区に足を踏み入れるほどの心の余裕もなく、町を眺めている。どことなく煤けたような印象を受けるのは走っている車が古い所為だ。とても古い。タクシーはどれもウエストラインから上が黄、下が黒に塗り分けてあるのだが錆がういているのを見ると、下が黒い所為でトタンをコールタールで押さえているように見えて凄まじい。そしてスペインではついぞお目にかかれなかった日本車ニッサン(ダットサン)が多く、ベンツ、ボルボ、プジョー、オペルなどと並んでいる。中にはサニー、カローラクラスの車もタクシーをしていて、乗りたくはないがおもしろい。・・・というわけでぼくらの番が回ってきた。運転手はと見るととても若い。少年の雰囲気だ。「オビドス。ポウサーダデオビドス。」と言うと、彼は困った顔をした。多分彼はよく知らないのだ。他のタクシーの運転手たちが応援してくれるが、それでもよく分からないようなので、新しそうなプジョーをつかまえて言った。「オビドス、OK?」「よろしおま、乗んなはれ。」と言う風に反応したので転がり込んだ。時刻は9時、まだ昼間のように明るい。最初は海岸沿いを、やがてテージョ河へ、そしてオートピスタへ入って、飛ばすこと飛ばすこと。怖い思いをして、それでも早く着いてほしいし、じっとおとなしく乗っていた。
 車が田舎道にさしかかったとき、ぼくらは不思議なものを見た。山間から出たとても大きな赤い月だ。周りの景色は暮れてしまってよく見えないが、尾根伝いに走るぼくらのタクシーはそこらへんでは一番高い所を走っていて、山々も月もみんな眼下にばら撒かれているように見える。目を凝らすと、小さい魔女達がワルプルギスの夜の祭に急いでいるのが見えるようだった。目指すはブロッケン山。しばし絵本か箱庭の世界に踏み込んだ錯覚にとらわれていた。
 オビドスには10時20分に着いた。運転手はポウザーダを探して、村の狭い露地をくぐり抜け入口に着けてくれた。支払うとき彼は、「99kmで六千いくら…高速道の料金がいくら…帰り道も何やら…。」と言うので7枚8枚9枚と渡したら、えらく愛想良くなって、「ムイートオブリガード。」とか何とか荷物を持って玄関まで送り届けてくれた。
 来てみると、さっきまでタクシーから「いやあ、城や。城がライトアップしてる。きれいや。」と話していたそのお城がホテルなのだった。着いてすぐフロントで手続きをし「腹が減ってる。食べたい。」と言ったら、通されたダイニングはすごかった。ぼくらの金持ちごっこはここに来て頂点に達した感じだ。ゆったりとしたお城の広間に豪華な調度、ウエイターにサービスされてデザートのお菓子にいたるフルコースを味わい、これは夢ではないかと頬っぺたをつねってみたいくらいだった。心はまだ、さっきの絵本の続きを彷徨っている。
 のびのびとバスを使って、いい気持ちで中庭を見ようと窓を開けたら、何と分厚い城の壁だろう。1mはありそうだ。外はよい月夜だった。スペインとの時差も分からず、今が何時かも分からないまま、とにかくおやすみ。またあ・し・た。

20日(水) オビドス−ロカ岬−オビドス
 10時前に目覚めて、例のダイニングルームへ行った。窓からは、遥か向こうまで連なるゆるやかな傾斜の丘陵が見渡せる。山並みと言うには低すぎるし、作物が植わっている。窓際に席を占めると眼下に領地としての森や葡萄畑、ところどころに白い壁と赤い屋根の村が見える。未舗装の地道を行くロバの牽く荷車も見えて、ぼくらの朝食は王侯貴族ごっこになった。オビドスはその美しさゆえ、ディノス王が王妃に贈って以来ずっと王妃の領地だったというのも頷ける。ただしこれだけを見ていたのでは大きな偏見というもので、ちゃんと荷車を追い越す自動車や砂煙を巻き上げていくトラックもあったことを付け足しておく。
 ここのパンは外側までやわらかくて美味しい。コーヒーもたっぷり、果物もたっぷり、Mはテーブルをみな平らげてしまった。オビドスの屋根という題で城からの眺めを描くと決めて、取り敢えず明日のビーゴへの列車の予約と、ポルトガルへ来た最大の目的「ロカ岬」へ行かねばと思って通へ出た。出たはいいが、駅がどこだか分からない。言葉がままならないので、尋ねることもできない。仕方なくタクシーに「駅へ。」と乗せてもらう。走りながら「どこへ?」と聞くので、「ロカ岬。」と答えると、電車の時刻表を出してきて「ダメだね。11:30までないよ。」と言う。もちろんこれをポルトガル語で言うものだから、こちらは初めから諦めて聞いているのだが、それでもないことだけは分かる。そこで運転手と相談の結果、ロカ岬からシントラを経由してサンタアポローニャ駅へ、その後ホテルまで戻ってしめて9000Eでという話で商談成立。もう一日金持ちごっこを続けることにした。バモス!
 夕べの移動はだいぶ暗かったので景色どころではなかったが、今日は明るい。それに海沿いを走ってくれるのでよい気分だ。途中で「風車だ。写真撮るかあ。」「海だ。いい景色だ。」「コーヒーにしよう。」といろいろガイドしてくれた。片言英語で言うので少し分かる。風車はたくさん残っていたが、動いているものは少なくて、どう見ても観光用のようだが彼は「粉挽きのためだ。」と言う。もう一種類の背の高い細かい羽数の多い風車は水を汲み上げるためのものだそうだ。
molino de viento

 道路沿いの民家も見ながら走る。なんだか道行く人々のいでたちも、働く人々の道具もスペインと比べるとくすんでいて古そうな印象を受ける。ロバに荷物を積んでいたり、馬車が現役だったり、刈り取った草を頭に山のように載せて歩く女の人、バイクの古さもそう思わせる。いや、もっと違う…何か…で、気がついたのは土地利用についてなのだった。昨日まで、畑のサイズが広大だったスペインに比べると、みな小規模なのだ。オリーブも葡萄も梨も緻密に植わっているし、それらが家屋の庭先まで迫っている。北海道と四国を足したくらいという面積の狭さゆえか、土地に遊びがないように思われる。それは日本とよく似ているとも言えるわけで、隅っこまで手入れされた耕地をよく見ると、お隣との境界に葡萄棚(スペインに棚づくりは見かけなかった。)があったりした。
 もっと似ているのは自動車だ。ECに入れてもらっていないスペインに日本製は入れなくて、わずかにスズキのジムニーかニッサンのパトロールくらいなのだが、ここでは日本製が他のヨーロッパ車と並んで走っている。それが景色をさらに日本的にしているのだった。多くは古いもので日本ではジャンクヤードでももうお目にかからないような「となりの車が小さく見えまーす・カローラ」とか「わが青春のホンダN」とかが、圧倒的に多い「モーリス・ミニ850・1000。」と古さを競っている。
 車は海岸沿いの景勝の地を縫うように走って、古都シントラに着いた。「これが王宮…これが…。」と説明されても、もういい。名所を見るだけの旅なぞつまらない。とパス。やる気充分の運転手をがっかりさせたが、次のロカ岬へ行ってもらうことにした。アルベルカ村の五日間がぼくらをそうさせたのか、スケジュールを立てて「こことそことあちらを見て、ついでにこれも覗く。」というような旅はもういいと2人とも思い始めていたのだ。とにかく今日はロカ岬。そこでユーラシア大陸の一番西の端の人になるのだ。
 その前に腹を作っておこう。どこか適当なところで昼食を一緒にどうですかと運転手に持ちかけたら、彼は走っている海沿いの道でレストランを見繕ってくれた。中はドライブインの風情だった。テーブルに着き、何がいいだろうと思案した挙句新鮮な魚介類が満喫できるように「海老のカクテル」というのを頼んだら、参りました。大小とり混ぜて山盛りの海老たちが銀のフィンガーボウルと一緒にやってきた。フィンガーボウルで指を洗いながら次々に海老をやっつけていくなんて初めての経験だった。鰯もいいけど海老はもっとよかった。
cabo da loca 
 ロカ岬。予想外に人は少ない。若いのが数人来ているだけだ。大西洋からの風が心地良い。ここら辺の岬はみなそうなのか切り立った崖で、下を覗き込むと波はわりと穏やかだが、かなり高い所だということが分かる。「地の果て・海のはじまる所」の碑の前で記念写真。そして遥か彼方のアメリカ大陸に向かって叫んでみたかったが、止す。
 そのあとカスカイスを通る。うらさびれた漁村を想像していたのに、全然違う。それはガイドブックの観光用写真の所為だった。実際は保養地で、たくさんの別荘。おまけに今は夏!海岸は芋の子を洗うような人の波だった。ちょっとでも早く通り抜けてしまいたい。
 やっとサンタアポローニャ駅に着いたら、運転手に待っててもらって予約をとる。これがまた一大事、日本のようにさっさといかず一時間以上も並んで、じっと待っていなければならない。すぐ前の女の子が振り向いて英語で話し掛けてくる。「ポルトガルじゃあなたのバカンスの半分は待つ時間で消えるわね。」なんて言う。この娘、キャンプ場で自分の荷物をそっくり取られたのでこれからドイツへ帰るのだと言う。気の毒。「あなたも黄をつけたほうがいい。」なんて言われて「うん。そうする。」と素直に答える。ドイツ人と聞いて早速「大学で習ったことがある。イッヒシュプラッヘカインドイッチユ。ヴィーゲートエスイーネン?エスゲートミアグート。」とぺらぺーらやった。娘には「上手」とほめられたけど、自分ののり易さ、調子よさにちょっと自嘲。
 別の列に、日本からの女の子たちがいた。話し掛けると、京都外大のポルトガル語専攻だそうで、言葉の心配はないらしかった。ただし彼女たちがスペインを旅している間は「スペイン語を喋れ。」とポルトガル語に訛ってしまうことをしょっちゅう咎められたと言っていた。親子の旅をしきりにほめてくれる彼女たちは三人連れで、一ヶ月とちょっとの旅行だと言ったが、「これ見て400Eで買うてん。安いわぁ。」と銀の指輪をちらつかせたり、「スペインはどこがよろし?」とはしゃいで話していた。アンダルシアを熱心に薦めてやった。
 順番が僕になり、列車の予約を頼んだのに何もしてくれない。「ちゃんとしてくれ。これで乗れるのか?」と言うと何やら紙切れにシールみたいなものを貼ってくれた。これでOKだって。一時間以上も待ったのに、ビーゴ行きの予約などいらなかったみたい。腹のたつ!
 さっさと出る。あとは昨日と同じ道でホテルへ帰る。帰り道で、ずうっと気にかかっていた木について尋ねたら、「オクリプト。紙にするんだ。」と言った。へえーっ僕はユーカリだとばかり思っていた。杉や桧のように植林されて、山毎に少しずつ違う背丈で密生しているこの木は、よく見ると柳の葉っぱのような細長い葉を付けていて、真っ直ぐ伸びた幹が風にそよぐ様は何だか竹を思わせる。間伐材のように細いまま斬られて積み上げられていたのもこれで納得がいく。あのアルベルカ村でも見かけたから、かなり広い範囲で一般的な木なのだろう。(後日、辞書で調べたら彼は「eucalipto。」と言ったのだから、ユーカリで間違いなかったのだ。)
 ポウサーダでの夕食は、またまた最高の気分。待たされるのが長いので、日本人のぼくらには慣れたつもりでもやはり長く、ちょっと嬉しくない。下戸のぼくはワインを楽しみながら優雅に食事というわけにいかないのも、画竜点睛を欠くところだ。
 その後、ロビーへコーヒーを飲みに行くと「グッディブニン。」と英語で声を掛けられた。家族連れだし、もったいをつけた話し方なので、「イギリスから来られたのですか?」と尋ねたら、「いいえ、アメリカ。シカゴです。」と全然違っていた。「日本の方ですか?」と話し掛けてくるので、その場所で少し話したら、日本についての知識は豊富だった。このお父さんは「行ったことがある。どこに住んでいますか?」と聞くので、「京都。」と答えると「オー、キョート、オーサカ、ベリビューティフル!」ときた。「奈良の大仏は見ましたか?」と聞いたら、「ええ見ました。鹿の公園も。」となつかしそうに言う。奥さんは「ハイスクールの教師です。」と言った。二人ともぼくよりだいぶ年上と見えたが、子どもはMより小さかった。女の子の名は聞いても憶えられなかったが、男の子は「冗談」という名で忘れることはなかった。話しているうちに、頼んだコーヒーが2人分運ばれてきて困った顔をしたら、この人「大丈夫。アメリカじゃ子どもにだって飲ませるよ。寒い日や疲れているときにミルクも砂糖もたっぷり入れると元気が出ると言ってね。」と意に介さない様子なので、Mは初めてコーヒーを飲む羽目になってしまった。
 お互いの旅行について話し、別れ際に「M、良いたびを続けてね。おやすみ。」と締め括る所がなんとも社交上手でぼくらは負ける。「サンキュー。」しか出てこない。しかし、スペイン語に馴染んではきたが、他のどの言葉より英語の方が耳慣れているので、口をついて出てくるのがありがたい。日本にいてはこうもうまく話せるわけはないのに…旅先の魔術だ。この人たちとは住所交換をしておけばよかったとあとで思った。
 フロントに行って「日本へ電話したい。」と伝えると、少し待ってダイヤル直通になる。繋がったので、部屋へ走る。「おはよ…。」たぶん朝のはず。マドリ以来の電話で、無事を伝える。Mは繋がったことが分かると風呂の途中なのにバスタオル一つでドカドカと出てきて、例の調子で「帰ったらなぁ、お寿司食べてな、おでん、すきやき、みずだき、ちゃわんむし、ひややっこ食べるねん。」などと喋りだした。このところ肉ばっかりで食傷気味だが、魚料理といってもやっぱりこってりした味付けか、極端に薄味で馴染めないのだ。2人とも出てくるものは何でもがつがつ食べているんだけれど、無理しているのかなあ。

21日(木)  オビドス-リスボン-ビーゴ-バジョーナ
 7時30分、目覚ましに起こされる。出発の準備をして、朝食に食堂へ向かう。昨日とは反対側の窓際に席を占める。城の中庭とそれを囲む城壁、そして向こうの山が見える。この花咲く中庭は部屋からも見えた。フランス風の庭園になっているので、木という木はみな刈り込んで整形してあって丸だの四角だのケーキのような形だのと不自然でなじみがないので、いいとは思えない。それよりも石組みやその向こうの自然の方がはるかに美しい。
 食べていると、タクシーの運転手が入口を入ってくるのが見えた。昨日、6300Eでまた頼んでおいたのだ。出発は9時。これで三度目の道を夜・昼・朝と通ることになる。またまたいろんなものに目が止まり質問を繰り返すが、なかなか通じない。ポルトガルに入った時から気になっていた、皮をめくられて中の芯だけにされた木(多分コルクの木だと思う)を見つけて「ケ?」と聞くがおもわしい返事はない。「コルク?」と聞いても返事をしない。紙切れに絵を描いて見せる。ワインのビンを描いて栓を描く、矢印をして栓だけを描く。そして<?>マークをかいたら、「コップ。」ときた。そうかコップはポルトガル語かと思っていると、「ビードゥル?」と言い直した。そうかそうかビードロもポルトガル語か。絵が拙かったかな…と今度は螺旋状の栓抜きも付けてみたら「ムニャムニャ。」となにやら栓抜きのことを言った。今度は木を描いて剥ぎ取った皮を描き、それをさっきの栓とむすんだら「ああコルティッス。」と言って、皮をむく動作をした。やっぱり、あのめくられて痛々しい木はコルクだったのだ。
 これで三度目のサンタアポローニャ駅。大量のマドリ・パリ行きの客を横目にビーゴ行きに乗る。予約の必要など全くないがら空きの、1等だけの列車だった。こんな路線を作っておくと赤字ですぞC・P(ポルトガル国鉄)さん。
 ポルトガルの景色を眺めながら北上していると、緑の多さと田畑のせせこましさで、家さえ無視すれば日本の景色に見えなくもない。家々はみな白い壁と赤い屋根でかわいい。しかし、行けども行けどもトウモロコシ、葡萄、ユーカリ、オリーブ、松、ときおり水田でおもしろみがない。
 ポルトでこの快適列車は終わり、そこに待っていたのは2等だけの片側三人掛け(通路を挟んで6人掛け!)の列車だった。しかも満員だった。ポルトは字のとおりポルトガルやポートワインの語源になっている町で、駅もかなり大きい。ここで一つのハプニング。連絡の時間が短かったので、列車を降りる前にアタッシュケースを持ったビジネスマン風に「ビーゴ行きは何番乗り場か?」と聞いてみた。この人は英語がすらすら出て、ここで降りる人なのに乗り場まで連れて行ってくれた。「オブリガード。」と列車に乗り込み、荷物を降ろしにかかったとき、彼は再び乗り込んできて「間違ってた。ビーゴ行きは別のホームだった。」と言うではないか。時間が迫っているので、彼は急ぎ足で案内してくれた。セーフだった。もう一度「ムイート、オブリガード。」で、彼はホームを離れていった。親切な人にめぐり合えてよかった。
 こうして乗り込んだ列車も満員で、便所のドアを避けてリュックを下ろし、通路に立ったままの出発となった。暑いので出入り口のドアは開いたままだ。そこらじゅうに旅行中の男女がいる。スペインもポルトガルもヨーロッパの若い人たちの多いこと。みんなアルミフレームのリュックにござを巻きつけて<おこもさん>のようないでたちで気楽に旅をする。こちらの物価の安さも影響しているのだろう。みんな<インターレイル>の2等の切符を持っていて、車掌に何やら駅名を書き込んでもらっている。この列車はそんな人たちで一杯だ。<ユーレイルパス>はこんな面倒な手続きの必要がなく便利だけど、ヨーロッパ人には売られていない。
 各駅停車の旅では途中で降りていく人たちがいて、僕らも座れるようになった。シートは硬く背もたれが直立しているので、必然的に良い姿勢を強いられる。そうしてよい姿勢になって面と向かったのはMぐらいの年恰好の娘を連れたお母さんだった。彼女たちのこちらを窺う好奇の目にも馴れ、何度も話し掛けてみようと思ったのだが、とうとう話せずじまいだった。残念だ。せめてスペイン語程度の片言でも出てくればきっと話し掛けただろう。
 そうしているうちに、空の色が灰色っぽくなってきた。景色そのものはあまり変わらないのだが、家々の壁の色は白から他のくすんだ感じのものが増えてきた。屋根瓦も黒いものが増えて、北国へきているのを実感する。列車の乗客がかなり減って、国境の町へ着いた。停車の時間がやや長くて、警察官のような人が1人でパスポートを確認して歩くだけで、スペインからポルトガルへ入った時のような物々しさは微塵もない。申告書のような紙も配られないし、シェパードも入って来ない。もちろんスタンプも押してもらえない。フランス-スペインもそうだった。どうしてかスペイン入りは緊張感に欠け、面白くない。
 さて、国境はどんな仕掛けがしてあるのだろうと目を凝らして待っていると、何の事はない、川があって鉄橋で越えるのだった。真ん中まで来たとき、あっ今写真を撮れば二つの国が同時に一枚の写真に写る!と思ったが、荷物の中にしまいこんでいてすぐに出ない。残念。
 ビーゴに着いてプラットホームを歩いていると、「セニョール。」と声を掛けられた。ホテルの客引きだった。「パラドールに予約している。」と言うとどこかへ行ってしまった。タクシーをつかまえ1800Pで連れて行ってもらう。到着。一人旅のつもりで予約してあった部屋は狭かった。ダブルベッドだから二人して寝られないことはないし、一応パラドールの全てが揃っているのだが、今までが今までだけにこの狭さは窮屈に感じる。人間とはえらいものだ。
 部屋から出てパラドールを一回りしてみると、ここがお城で海に突き出した要塞であることが分かる。なるほどと頷ける景色で、正面に島影二つ、その向こうに霞んでいるがまた島、三方が海、ヨットハーバーとつづき芭蕉でなくとも「バジョーナやああバジョーナやバジョーナや」と詠みそうなところだ。町へ出るのに歩かなくてはならないのが、少々難ありではある。
 下の町へ出ると、フィエスタの活気が残っていて、メリーゴーランドやくじ引き屋などが威勢のいい掛け声をかけている。ここでバジョーナの寅さんに会った。リズムといい、抑揚といい、韻を踏んだ愉快な語り口はスペイン語で何も理解できるわけでないが充分ぼくらの心を捉えて離さなかった。テキヤ稼業の共通性を見たようで面白かった。
 夕食はバジョーナまできた思い出に伊勢海老のグリルを追加する。食前酒に始まる豪華メニューに舌鼓。厨房の女性が水槽にディスプレイしている海老を網ですくって運ぶのを見て気の毒になったが、おいしかった。ガリシア風スープなど海のものオンパレードで大満足。

22日(金)  バジョーナ
 パラドールの朝食はバイキングだ。Mの食欲はすごくて皿が二つ必要だ。ジュースは四種類、コーヒーと紅茶でゆっくりたっぷり食事をした。今日は一日何もしない骨休めの日と決めたので、ゆったりとするつもりだが、部屋が気に入らないので、フロントへ交渉に行く。「ベッド二つの部屋が空いていたら替えてほしい。」と言うと「ポシブレ。3時30分に来てください。」という返事だった。ついでに、マドリへの直行便の飛行機があるのか訊ねると、「はい、3:30〜45に出るのがあります。」と言うので、大人1子ども1を予約してくれるように頼んだ。フロントの女性が「はい、よろし。」と答えて今日はなんて調子がいいんだろう。
 予定ではこの後、石器時代の洞窟画で有名なアルタミラへ行くことにしていた。キミさんに見学の予約も取ってもらっている。しかし、夕べ検討していたら、アルタミラへ24日の10時45分に着く為には、23日の朝5時起きということになる。それだけではない。ビーゴ発7:30→パレンシア着14:29、パレンシア発16:11→サンタンデル着20:29、その後タクシーをつかまえてサンティジャーナ・デル・マールを目指すと、10時を過ぎてチェックインということになる。二人ともこのところゆっくりするのに慣れてきて、こんな強行軍で移動だけの日なんか願い下げだった。キミさんに電話して、キャンセルしてもらうこと、帰りがけにバレンシアに立ち寄ってもいいかを確かめた。ノリの良い彼女は二つ返事で受け止めてくれた。この旅で何度目の電話だろう。外国に来て知った人がいるというのは本当に心強い。
 朝食後、城壁へ出てみる。雨だ。小糠雨というのだろうか、スペインで二度目の雨が降る。ここガリシア地方はスペイン北西部で、雨の多い所と聞いていたので、この雨を喜んで歩く。昨日見えた美しい景色は霧が立ち込めたように包んでいる低い雲のせいで見えないが、楽しい散歩の心憎い演出だ。肌寒さを感じるほどの気温だ。新聞の天気予報では、最高が24度最低が14度となっていた。南のアンダルシア地方では36度という所があるのだから、ここら辺は避暑地ということになるのだろう。プールの横を通った。深そうできれいな水だ。ここで泳ぐことも予定には入っていたのに、残念。
 昼食は外のレストランへ行って、ガリシア地方の海のものを食べる。昨日通りかかったときに、アンコウやメルルーサが飾ってあった店へ入って、「ガリシア料理が食べたい。」と言うと、「これ。」と4500Pのメヌーを薦める。「それそれ。」と喜んでそれに乗る。まず、スープが来た。それをすすりながら待っていると、大皿に三種類の海老と帆立貝とアサリがわぁっと盛られて出てきた。「かかれっ!」二人で夢中で食べ始めると暫らく無言。これはいける。うまい。丸ごと食べられる塩焼き海老は甘海老サイズ、尻尾もその他もうまい海老はエビフライサイズ、そして殻の硬い伊勢海老サイズ。食べ散らかして終了。
 昼を終えてパラドールに戻ると、部屋の交換が待っていた。今度は広くていい部屋だった。値段は5500Pから9000Pに跳ね上がったが、それだけのことはある。中世の貴族の気分を味あわせてくれる。しだいに強くなる雨脚に、ホテルに篭城を決め込んで城の内部を探検した。すると、玄関のレセプションだけではなく館の中にいくつかのサロンを持っていることが分かった。そのどれもが広くてゆったりとした椅子の配置になっている。西の海を望む部屋があるかと思えば、東の海に面した間があるという具合で、どの部屋にも人はいないか少ししかいない。躾の良い泊り客たちは居ても、新聞を読んでいたり、カードをしていたりで静かだ。テラスへ出て、椅子に腰掛けるとそこら一帯はぼくらだけのものになって、寛いでいられる。上質な時間がゆっくりと流れていく。
 頼んでおいた飛行機の予約がどうなっているか、飛行場までどのくらいかかるか、確かめにフロントまで行った。1時間かかることは教えてくれたが、予約のことなど何も言わない。ぼくの部屋の鍵ボックスを調べてもらうがメッセージも何もない。「そんなことはない。確かに頼んだ。」と言ったら、「ここではあなたの予約はできない。電話番号を教えるからあなたが直接空港へ電話して予約してください。」と、イベリア航空の時刻表をくれた。ああ、何ということだ。どうか…お願い…プリーズ。だけど「ノー。」とやけにはっきり断わられてしまった。どないしよう…悲観的になるが、しようがない。どうにかなるさと、やけくそで電話機に向かう。
 ビーゴ空港のダイヤルを回すと、ややあって「ディガメ。」と電話の向こうは言った。「オイガ、ソイハポネス。ノ、アブロエスパニョル。アブライングレスウステ?」そのあと何と言ったか覚えていない。相手の「モメント。」だけ分かって待っていると、英語の声が出てきた。頭の中であらかじめ組み立てた通りに「私は日本人。パラドールから電話をしている。明日3:45発のマドリ行きに乗りたい。大人1子ども1だ。予約は可能か?」と一気に話した。相手は「ノ、予約はできない。時間が過ぎている。しかし、明日2時に空港に来たらウエイティングリストに載せるから来てください。」と言う。そこまで行ってキャンセル待ちなど困るので、「ウエイティングリストに今、載せてくれ。」と頼み込む、電話の女性は「ノ、私はできない、明日。」を繰り返す。相手の見えない電話でのやりとり、しかも英語ではさすがに緊張して冷や汗たらたら、これ以上は突っ込めない。朝のあのフロント嬢、「飛行機はあります。予約しますか?」などと言うものだから、それで出来た気になってうかうか飛行場へ出発の時間に行ってると、ひどい目にあっているところだった。念のためと訊ねて良かった。
 夜は再び伊勢海老を頼む。いつも食前酒を持って来られたり、ワインリストを手渡されたりするのだが、下戸のぼくは断わっている。飲めない人飲まない人はいないのだろうか。断わっても置いていく。「ただの食前酒ですから…。」
 電話が直通らしいので部屋から何度も試みるが、日本には繋がらなかった。たっぷりのお湯につかった後、帰り支度を始めると、この先少ない日程は帰るためにだけ使わなくてはならないようで、さびしくなってくる。

23日(土)  バジョーナ−マドリ
 またまたバイキングの朝食で、ハムだメロンだとあれこれ手を出す。ぼくらの小さい胃袋はたちまち一杯になる。
 朝の散歩に出ると、今日はよく晴れている。晴れているが寒い。お城を取り囲んでいる城壁を一周することにする。寒くてプールはパス、よく見ると<犬お断り>なんて書いてある。ここは海に突き出た半島というよりは、島そのもので、360度の眺めは町あり、島あり、港あり、外海ありというのを体感できた。松林に大きな松ぼっくりを見つけて、これは日本へのお土産にしなければと頑張るのだが、簡単に取れそうなところには一つもない。落ちているものは古くてみすぼらしいので、棒を拾ってきて叩き落すことにした。しっかりくっついていてなかなか落とせなかったが、苦労して取った後で、これはきっと空港の検疫でひっかかるなあと思った。(大丈夫でしたが)
 部屋へ戻って荷作りを始めた。少しでも早く空港に着くように、チェックアウトを早めに済ませようとしてフロントにその旨を伝えると、「ノ、あなたのタクシーは1時に来るように頼んである。今から変更はできない。」と言う。「早く行きたい。どうしても飛行機に乗りたいのだ。」と言っても埒があかない。しかたなく、荷物を下ろしてぶらぶらタクシーを待つ。
 10分前にタクシーはやって来て、空港まで山の裏道を選んで走る。ガリシア地方の山の中は適当に農耕もしてあって、緑の豊かさといい日本の景色のように見えなくも無い。どの農家も校倉造のような高床式になった小さな倉庫を持っていた。壁は板や煉瓦で通気性のよい造りになっていた。刈り取った草を積んで、干草の山ができているのも、何だか見たような風景だ。
 40分でビーゴの空港に着いて、あわててウエイティングリストに記入してもらうと5番と6番だった。「ノープロブレマ。」と言ってもらうが、やはり搭乗が確定しないと不安だ。2時になっても30分過ぎても、予約客の対応ばかりで僕らが乗れるかどうか分からないというのは不安なものだ。日程が詰まってきて、後がないだけにこちらの目つきも悲愴になってくる。その悲愴さが通じたのか「セニョール、どうぞ。」と声がかかった。よかった。言われるままに手続きを進め、支払いの段になってトラベラーズチェックをきろうとすると、あまりよい顔をしない。現金が無いことを言おうとしたのだが、クレジットカードを見て、「それがいい。」と言う。日本にいてついぞ使ったことのないカードを相手に渡すと、手馴れた様子ですいすい進み、30,000Pほどの航空券が買えてしまった。これは内緒だが、このカードの元になっている通帳には10000円ほどしか入っていないのだから、帰ったらあわてて支払わなければなるまい。
 ビーゴ空港のDC-9はジャンボに比べるとまるで鉛筆のような細さだ。尻尾のほうから乗り込んで、「二人並んで座りたい。」と言うと、一番後ろの席を割り当ててくれた。ちょうど新幹線の三人掛けの側にいる感じで、窓の外にジェットエンジンが付いていて景色はよく見えない。このトンボ、勇ましく飛び立ったのだが、なにせ小さい分だけスリリングだ。昔のプロペラ機の旅はもっとすごかったんだろうと話しながら地上を見下ろすと、そこにはスペインの田舎があった。日本を発つときに見た緑と海、せせこましさは何処にもなく、どこまでも続く畑とあるかなしかの緑、岩の露出した山々で景色が大きいのだった。ダムが見える、ヒネスが自慢したのと同じような緑の山が見える。ああ、あのあたりがエルティエンブロかなと勝手に決めたら、今度は高度が下がりだした。唐突にフワリ、フワッとくるのでエレベーターのようだ。馴れないと少し怖いところだが、僕はこれも面白いと思ってしまう。1時間かかると思ったのに、40分ほどで着いてしまった。
 バラハス空港の国内線は、国際線とはかなり離れている。両替所は国際線だから、重い荷物を背に歩いて現金を作りに行かなくてはならない。お土産のお皿も買いたいし、フラメンコも見たいしで多めに替えて、市内へ行くバスに乗る。終点のコロン広場には素敵な噴水があって、やはり水の少ないマドリだから、みんなは余計に水のある風景を求めるのだろうと納得する。
 買い物をするにしても、少しは様子の分かるグランビアのコルテイングレスぐらいだろうと、タクシーでスペイン広場に行ってもらう。ここでこの広場の真正面にデーンと構えているホテルプラサに泊まってやろうと入っていくと、さすがに四つ星の高級ホテルらしく、何もかもが高級を匂わせるようにできている。フロントマンと向き合い「泊まりたい。部屋はありますか。」と聞くと、「はいございます。」「一晩泊めてんか。」「一晩でよろしいか?」「そう。明日はバレンシアへ行くから。」「パエジャを食べにか?」おい、しつこいよあんた。「ノ!友達がいるからだ。」やり取りしているうちに手続きが終わり、彼は「タナカサーン。イチ・サン・マル・サン。」と言いながら1303号室の鍵をくれた。(これ以来、ぼくはマドリに来るたびにホテルプラサの13階でスペイン広場を見下ろす部屋をとることにする。町の中心に程近く便利だから。)
 と・こ・ろ・が…背後で「いやあ、ちょっと待っててえ。」と大阪弁の集団の声がする。あー嫌だね、この空気。「アイムーチャスハポネセス、ベルダー?(ぎょうさんの日本人でんなあ。)」などと口走ってしまった。このところ田舎周りで日本人から離れていたので、自分が日本人なのをさておいて可笑しかった。「ねえ、百貨店は何時までやってる?ああそうだ、フラメンコが見たいけど、何とかなりますか?」いろいろやりとりして情報をゲット。パンフレットを見せて「8時までです。フラメンコはこれ、食事つき6800P、なしなら5500Pです。」で、食事なしを頼むことにした。
 先ほどのおばさんたちを避けて、エレベーターに慌てて乗り込む。部屋は良い。
 コルテイングレス。目指すはお皿。なんでもない普段使いの雑器を六つ、これでリュックはパンクするだろう。ついでにテーブルクロス。とうとう荷物は複数になる。来たときはお土産でそうなったのだが、また元に戻ったわけだ。続きにグランビアを歩いて、二本フォークのレストランに入る。ここの看板には何ヶ国語の案内があって<安くておいしい毎の幸>とあった。「毎」とはもちろんさんずいへんの抜けた「海」のことだ。ここでとうとう、イカ墨の料理にありつけた。イカのリングフライと墨煮。添えてあるご飯も真っ黒に染めて、いやはや凄まじい料理だ。だが、味はなかなかいける。楽しめた晩餐だった。
 10時、フロントへ行くとバスが迎えに来ていて、さっそく出発した。このバスはすでに幾つかのホテルを回ってきたらしく、客がだいぶ詰まっていた。マドリの町をどう走ったものか、着いたタブラオは今までにぼくが見聞きしたものとはだいぶ趣の違う大きいものだった。ぼくらが案内されたのは、食事をしている人たちを見おろす二階席だった。席に着くと注文を取るわけでなく、コップになみなみと注がれたワインがあてがわれた。もちろんぼくらはコーラと替えてもらったが、そのことで笑いを取ってしまった。
 ショーが始まった。バルセロナのロスタラントスと違って美人が多いし、若い。うん、これはいけるとはしゃぎだして、隣のMをつつく。前座の四人もそれなりに踊り、カスタネットも使った。水準は高そうだがフラメンコの開放された自由さはあまり感じない。舞台は暗転して、これからというときになってアナウンスが入った。スペイン語で「紳士淑女の皆様、こんばんは。今宵これからお送りいたしますのは、アントニオ・カスティージョとスペイン一の踊り手によります、豪華絢爛一大スペクタクルショーでありまする。」とかなんとか、続いてフランス語、英語、ドイツ語…へえーたいそうな…イタリア語、ポルトガル語、…へえなんとな…と思ううちに「ミナサーンコンバーンワ。ヨーコソオコーシクダサイマシタ。コヨーイオオクリシマースあんとにおかすてぃーじょト…」あらまあサービス精神旺盛だことと思っているうちに何だか分かりにくい日本語が終わり、他にも僕の耳には音楽のようにしか聞こえない言葉たちが続いた。中でロシア語だけは聞き分けることができた。
 そしてこの一大スペクタクルは始まったのだが、なんとフラメンコ風のバレエだった。曲はラベルのボレロ!二人のダンサーのシンメトリックな動き、四人のよくシンクロナイズされた動き、六人の表現もなかなか面白くて、曲想の高まりとともにひきつけられて見ていた。その後、いよいよアントニオ・カスティージョの出番だ。やはりフラメンコがいい。一幕物の劇構成になっていて、男と女の愛と葛藤を描いていて見せ場も多い。歌や演奏も楽しめる。このアントニオはかなり長髪で、躍り進むうちに跳ぶ度に回る度に周囲に汗が飛び散るようになってきた。一階の前に陣取った食事客たちは、それをかわすのに忙しく大変そうだった。かなり高いフラメンコショーだったが、水準の高い分だけ良かったと満足して、終わったのが1時前だった。
 ホテルへ帰って風呂を済ませると2時をまわってしまった。朝8:30の飛行機が取れなくて良かったのかも知れない。部屋の窓を開けると、眼下にスペイン広場、町はまだ起きている。今まではどうでもよいと思っていたのだけど、明日はあの向こう側へいってドンキホーテとサンチョパンサ、その後ろのセルバンテス像を写真に撮ろう。そうすればこのホテルも部屋もドカンと真ん中に写るのだ。

24日(日) マドリ-バレンシア-サグント
 今日は日曜日。百貨店も閉まっている。蚤の市ももういいし、闘牛は遅いから19:30発の飛行機に間に合わなくなるし…と思案しながら遅い朝食をホテルの食堂でとる。このホテルは朝食付きではなかったので、ただの朝食なのに町のレストランだと夕食が食べられるぐらい高くついた。
 昨夜の予定通りホテル・プラサをカメラに収めた。このアングルは誰もが見慣れた観光パンフレットのそれと全く同じだった。もう一度レティロ公園へ行くことにする。今日が日曜日だからだろう、たくさんの人出で公園の広場はどこもにぎわっていた。地べた絵描きも、辻音楽師も、屋台の商売人も、ボートを待つ人も、どこにでも列ができたり、輪ができたりしている。
 手品師、太鼓叩きのグループ、フルート、バイオリン、みんなそれらしく演じている。遠くで洗面器を落としたような変わった音がする。近づいていくとそこはお年寄りたちの楽しみの場で、カード、チェス、ドミノなどをやっている。傍らに鉄の箱に向かって何やらコインのようなものを投げているグループがあって、異音はここからしていたのだ。石でできたような玉を輪投げのように鉄の箱に作られたカエルの口に入れようとしているのだった。十個ほど投げるが、入らないことの方が多かった。その他、ペタンクもやっていた。見物するだけの人も多く、僕らも混じって見物する。
 マドリの仕上げは中華料理店での昼食だ。ワンタンスープとかき玉汁、久しぶりに食べるさっぱり料理だ。これにありつくまでに、何度日本料理のしりとりを繰り返したことだろう。で、次なるメインディッシュは、肉と野菜の油炒めとカレー風味ソースをかけたご飯(カレーライスそのもの)だった。お箸を頼むと日本風の食事になったが、「飲み物は、何に?」と聞かれたり「食後は?」と聞かれるところは、やはりスペインだ。もちろん果物を注文する。
 今度の旅行は一人旅ではないので、食べ物は本当にたくさんの種類を口にできた。何が書いてあるか分からないメニューでも、だんだん慣れてきておよその見当をつけて二種類頼むと二種類楽しめるのだった。
 ホテルへ戻って預けてあった荷物を出してもらい、玄関まで送ってもらった。ありがとう、ボーイさん。彼が「コロン広場。」と頼んでくれたのに、走り出した運転手は「空港にしましょう。」を繰り返す。「ノ、コロン広場!噴水が見たい!!」大きな声で言うと、彼はだまってコロン広場へ行ってくれた。降りるとき285Pの料金をメーターに読み取って300P払ったのに、彼は350P要求する。文句を言ったけど、結局350P取られた。
 ここの噴水は昨日見たとおりすごい水量で、滝になって落ちている。滝の裏側に回って涼むと、音がすごい。空港へはここからのバスで行くと一人175Pで済んだ。バレンシア行きの手続きは簡単だった。「タバコを吸わない。」と言うと、「ではファーストクラスにしましょう。」と言うから、「もっと払わなければいけないの?」と尋ねたら、「ノ、その必要はない。」「へええ、グラシアス。」チェックインを済ませてゆったりロビーで待つ。この前のキャンセル待ちとはえらい違いだ。
 DC-9の離着陸はスリリングだ。ぼくらのファーストクラスはカーテンで仕切っただけの前の席で、特別のメリットなど何もなかった。バレンシアまで一時間のはずが40分で着いてしまった。降りると、出迎えてくれているルイス達の顔が見える。だけど、荷物が遅くって結局出発からきっかり一時間かかって、やっと外へ出られた。
 ルイスの運転で、自動車道をばずバレンシアに向かって走る。ここは知ったところだから大丈夫。」のセリフに笑ってしまった。街中を走りながら、いろいろ説明してくれる。「ねえ、あれは何?あの建物。」と聞いたら、「あれはただの家。」と今度は、笑われてしまった。なんだかいわく有り気なやねに見えたんだけどなあ。
 ルイスのせつめいは続く。「ここが市役所…カテドラル…広場…大学。」という具合にバレンシアの町をぐるっと巡ってくれたのだろう。そして、「ここがこの町で最も重要な建物・コルテイングレスだ。」「そうだね子どもたちにはね。」話しているうちにバレンシアの町は過ぎていった。
 だんだん暗くなってきた。ここバレンシアはビーゴの寒さでも、マドリの暑さでもない、なにか日本的に蒸し暑さがあったのは海に面しているからだろうか。サグントの二人の家に着く頃はもう薄暗くなっていた。真っ先にお風呂を使わせてもらって気分がほぐれた所で夕食だ。到着が遅かったからもう10時を過ぎている。
 テーブルに待っていたのは炊き込み御飯と味噌汁だった。その他に魚と野菜も!うーれーしー。「そろそろ日本料理が恋しい頃だろうと思って。」とキミさんが用意してくれたご馳走をありがたくいただく。またイグナシオとルーベンの食前の挨拶が聞ける。僕らは何度聞いても最後の「イタダキマース。」が耳に止まるだけだ。お米の炊いたのにはこれまでもありついたけど、やっぱり日本料理のあのやわらかさはなく、本物のご飯が食べられて嬉しい。食後に果物がたっぷり用意されているところはスペイン風で、これまた大歓迎だ。「すぺいんじゃ果物はどこで買っても安いしおいしい。」と言うと、キミさんは「私は果物が好きだから、そのことだけ考えると日本へ帰る気がしません。」と言う。同感。
 食べた後、ルイスに夜のサグントを案内してもらう。ここは最近「サグント・お城と歴史の残る町」なんていうキャッチフレーズで売り出し中らしい。崩れかけてはいるが半円形のローマ劇場も残っている。二年前にここへ来たときとは違った顔をもって迫ってくるように思った。
「ここは学校。」(ああそうだ、前に中を見学させてもらった。)
「ここは川。典型的なスペインの川だ。ほらね、水がぜんぜんない。」(なるほど、水は流れていない。それではいつ流れるのか?)
「11月、12月…冬だ。雨が降ったときに少しだけ流れる。大雨で川幅いっぱいになることもたまにある。それに、この川は短い。せいぜい20kmぐらいだろう。」(本当にこんな川は多かった。それというのも、山や野原に緑がなく雨水を抱えることができずにすぐ流れ去ってしまうからだろう。)
 ルイスはスペイン語学校の先生だから、たぶん丁寧にカスティージャ語を喋っているのだろうが英語で話してくれるわけではないので、ぼくは聞くばかり。ときおりぼくが口を挟むのは単語の一語文というお粗末さなのだが、彼はスペイン語を母語としない人たちと接することが多いから、手馴れたものでぼくの言わんとすることを察してくれるのだ。ああもっと喋れたら、言葉の数だけスペインが近くなるのに。
 家に帰って子どもたちが寝てから、ひさしぶりに日本語で話をする。いくつか描いてきたスケッチも見せながら、今回の旅のことを話す。ヒネスの家の面白かった話。ラ・アルベルカの村祭りのこと。オビドスの王様気分のこと。そして、子どもと教育のことについて話は展開する。
 ここバレンシアでは、公立学校はスペイン語の時間とバレンシア語の時間が同じ5時間づつある。ぼくらがスペイン語といっているものは、東京の山の手言葉みたいなもので、偶然標準語になってはいるが、もともとはカスティージャ地方の言葉なのだ。(フランコの独裁時代には、それのみで一切の他言語が許されなかったらしく、それよりか良くなっているとは言える。)算数も5時間。社会・理科にあたる「経験教科」(日本より先を行ってたわけだ!)というのは4時間。音楽や体育は1時間かそこらでごく少ないのに、それすら先生の都合でなくなる場合がある。その他めずらしいところでは、選択で「宗教」か「道徳」かというのが1時間。それで全部だ。ただし1時間の授業は45分よりもっと長い。
 二人は子どもたちを公立ではなく私学へやりたいと願っている。そこではバレンシア語が2時間と短く、他の教科に専念できるというわけだ。私学はバレンシア地方の教育委員会にしばられない自由がまだあるのだ。バルセロナのあるカタルーニャ地方の教育委員会はもっと過激で、授業そのものをカタラン(カタルーニャ語)でやらせるのだそうだ。そこではスペイン語(カスティジャーナ)は週に5時間、授業で習うだけということになるのだ。
 ほんの僅かな違いの方言だろう…程度に考えていたのだが「学校からの印刷物はすべてバレンシア語なので、私にはわからないときがある。そんなあときは学校に電話して確かめる。」とキミさんが言うのを聞いて、深刻だなあと思った。いったいスペインってどうなってるんだ?一つの国ではあるけれど、いくつもの民族の寄り合い所帯みたいで、なかにはカタルーニャやバスクのように過激な独立運動の起こっているところもあるなんて。そう言えばここサグントでも、お目にかかる全ての道路標識は黒スプレーで綴りを訂正してあった。もちろんゲリラ的なバレンシア語運動なのだろう。
 日本に置き換えて考えると、関西や東北で地方語を公用語として用い、何もかもそれで生活し、東京弁を授業で教えるようなものかなあ。いやそれ以上かなあなんて考えるが、通り過ぎるだけの旅行者には分かる由もない。多民族国家に対する単一民族国家の優位性を説くどこかの国の宰相の認識不足と非科学性を思い出した。たくさんの言葉が入り乱れているというのは、不便なように見えるけれども、そのことでそれぞれの地方らしさは損なわれていないだろう。多様な価値観を許容する懐の深さこそがその国の文化度だと僕は思う。

25日(月)  サグント→カスティージョ→セルベール
 朝から海へ行った。本当は泳ぎたかったけど、ここで疲れてしまってはこのあとの列車泊と飛行機泊がキツイので、海岸の広い砂浜で遊ぶ程度にしておく。その後、ルイスに海岸沿いをずうっと車で走ってもらったが、「ここらあたりの建物群はすべて夏だけのものだ。秋・冬・春は誰もいない。」と嬉しくなさそうに説明してくれる。「ここを見て。ここはドイツ人地区だ。皆ドイツ人でスペイン人はオフリミットになっている。」そうかそういえばポルトガルもそうだった、スペインも、イベリア半島の海岸線はよほど岩場の難所でもないかぎり全てリゾートビーチになっていたなあと、これまでの旅の景色を思い出していた。スペイン・ポルトガルは物価がヨーロッパの北の方より安いから、若い人達の比率の高い、外国人の多いところになっているのだ。
 家に帰りつくと昼食の用意ができていた。今日は焼肉だ。こちらじゃこんな薄切り肉は手に入らないらしくて冷凍肉を手作業で自分で切ってくれたらしかった。それに白いご飯。箸を使っての食事。いたれりつくせりでサグントの時間は過ぎていった。
「では出発しましょう。カスティージョまでは30分もあれば着くでしょう。」と出たまでは予定通りだったが、途中から何やら様子がおかしい。信号によく引っ掛かるだけではない、その度に長い列ができだした。ルイスの運転も少し慌てだし、あとカスティージョまで1kmというところでとうとう渋滞に巻き込まれてしまったのだ。夏休みも終わりに近づいて、外国やそれぞれの地方に帰る人たちの車でこうなってしまったようだ。「めったにないことなんだけど…。」という説明に、おもしろがる余裕もなく、キミさんに買ってもらった切符のカスティージョ発の時刻を確かめる。14時32分発だった。もうあと僅かしか残されていない。「次は何時にあるのかしら?」などというセリフが飛び出して、皆かなり悲愴感のただよう車中なのに、渋滞の列はいっこうに進んでくれない。突然キミさんが叫んだ。「何か白いハンカチのようなものは無い?そうルーベンその服脱いで。」とルーベンの服を脱がせると、それを車の窓から出して振り出した。ルイスは車の列の外側へ出ると路肩を走り出した。この白い布は何か緊急な事態で急ぐ場合、こうしいて他の車にしらせると緊急扱いになるらしく、僕等の車は他の車をパスして進みだした。それでもさすがに信号無視まではできないらしくジリジリして待った。日本でなら渋滞は毎度のことだから、これは使えそうに思った。もっともスペインの道路は路肩がはっきりしないが十分に広いからできることなので、日本の狭い道路事情では無理に決まっている。
 一つ目の信号を右折、鉄道のガードをくぐったところで法外のUターン、そしてまた右折…地図とルイスの勘を頼りに一つの間違いも無く駅の前に到着。大慌てで荷物をおろし、ホームに駆け込むのと列車がやってくるのが同時だった。まるで映画のような、でもまたしても慌ただしい別れであった。「さようなら。ほんとにありがとう。」手を振る間もなく、列車はホームを離れていく。
 予約席のお蔭で国境の町セルベールまでは優雅な6時間の汽車の旅だった。フランス側の寝台の予約まではできなかったので、とにかく待っていたのに乗り込む。2年前のことを思い出して、前の方へ行くとがらすきだった。念のためにクシェット(簡易寝台)を調べてみたがみな予約済みだった。プティディジュネ(朝食)と書いた紙袋を二つ買い込んで出発を待っていると徐々に人が増えてきて、車室も通路も人でいっぱいになった。早くてよかった。2等の席はおもしろい。8人掛けのコンパートメントの一番窓側が僕らで、残りの6つはドイツとフランスの若い人たちが半々で座っている。そのどちらとも話してみるが、ドイツ人たちの方が英語は達者だった。これはいつでもそうだった。ドイツ語のほうが英語に近いこともあるだろう。教育水準か、フランス語に誇りを持っているからか、なぜかしらとにかくそうだった。
 フランス人のグループには黒人がいて、話す言葉もフランス語なのを聞いて、ここであらためて自分の中の閉鎖性(黒いフランス人がいるという驚き?)みたいなものに思い至って、僕は知らず知らずに島国人なんだなあと恥ずかしくなった。またしても「単一民族」宰相と同等の認識である自分をうとましく思った。いろいろ話したかったが、出発と同時に部屋の明かりが点いたり消えたりあやしくなりだしたので、話も途切れてしまった。朝食の袋からオレンジを出して食べる。この袋にはフライドチキンやパンやチーズ等が入っていたが、一緒に持ち込んだ水とでなければ咽喉を通りそうにないしろものだった。僕らはこうして座席に座ったままで眠ることになったのだが、後から入ってきた人たちは通路に転がったりしてかなり悲惨であった。夜中に便所に立つと、足の踏み場もないほどの人たちで骨が折れた。

26日(火)  パリ→アンカレッジ
 8時半、パリへ到着。正午に空港へ行けばいいので、オステルリッツ駅のカフェで朝食をとりながら考える。荷物をコインロッカーに預けて、買い置きの回数券を使ってメトロの人になる。目指すは百貨店ギャルリーラファイエット。スペインとの違いを見てやろうと思うが、コルテイングレスとは何もかも様子が違っている。というのも、入ってすぐ目に飛び込んでくるのが圧倒的な量のブランドショップ、それもスカーフだけで。カルダンの店で聞いてみた。「マダーム、ウエパフューメリア?」この店員さんは随分手馴れた様子で「はいどうぞ。」ってなぐあいに先にたってそこまで道案内してくれた。ここにはまた香水の店がずらりと並んでいた。そしてそこはまたすごい吹き抜けの円天井をもっていてきれいな大広間の感じがした。しばらく買い物を忘れて、首を直角に曲げてステンドグラスになっているこの天井に見とれていた。
「パスポートがありますか。これは免税扱いになりますよ。」と手続きしてくれたり、言葉の分からない外国人にも分かりやすい対応でたすかった。おのぼりさんは僕らだけじゃないのだ。Mはエディットピアフのカセットとチム(我家の犬です)に首輪と鎖を買った。そのときの店員とのやりとりも分かりやすかった。まるで僕がフランス語を自在にあやつっているかのようだった。実は「コンビアン?」だけで後は目と手で話していたのだが。
 オステルリッツ駅のコインロッカーに戻る。パリのメトロはよそ者にも判りやすいので本当に助かる。重くなった荷物を背負って、又メトロへ。エトワール凱旋門。そこからシャトルバスでシャルルドゴール空港へ、AF274便の出発時刻のきっかり1時間前に到着した。
 チェックインを済ませて、あとはパスポートコントロールを通って待合室へ。

27日(水)  アンカレッジ→成田→伊丹
 この後の行程は現在とはだいぶ違っています。すなわちパリから9時間ほどかけてアンカレッジへ。そこで一時間ほどのトランジット。そして再度乗り込んでアンカレッジから同じほどの時間をかけて成田へ。成田から伊丹空港へとほぼ1日仕事だったのです。

 

やっとおしまいまでたどり着きました。読者のみなさん、永らくのご辛抱ありがとうございました。この旅日記に写真が少ないのは、ポジフィルムしか持たなかったからです。家に来ていただきましたらスライドでお見せできますが。indexにゲストブックを備えております。ご意見を聞かせてください。話題は旅と犬に限るわけではありません。(September,2007)

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