「帝国主義論ネット学習会」(上から下へ)
(2003年8月)


【第1章】1 表題と用語、他 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 1日(金)00時22分04秒

関東は梅雨明け宣言お預けですがそれでも8月、では始めます。

“はじめは処女のごとく”とか申しますが、夏ですし、お盆休みを挟んでゆったりペースでまいりましょう(^^)。ということで、今回はまず表題。

えっ、表題だけかって? はい、それだけ(笑)。
実はこれがけっこう問題含みだったりいたします。

岩波版・宇高訳では「生産の集積と独占」ですが、国民文庫版・副島訳では「生産の集積と独占体」となっております。この訳語の違いはなんでしょう? 宇高訳は素通りしておりますが、副島訳では「集積」と「独占体」に訳注が付けられております。それぞれご紹介してみますね。★はわたしのコメント。

【集積と集中】マルクスは『資本論』第1巻第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」の第2節で、資本の集積と集中について基本的な定義を与えている。レーニンは本書のなかでは、内容的にはマルクスのいう集中について述べているところでも、集積(コンツェントラーツィア)という言葉をつかっており、「ツェントラリザーツィア」(集中)という術語をほとんどつかっていない。わたし〔副島〕はこの訳書では、レーニンがどういう言語をつかっているかを明らかにする意味で、「コンツェントラーツィア」はすべて「集積」と訳すことにした。しかしレーニンが本書でひろくつかっている「コンツェントラーツィア」は、狭い意味での「集積」にかぎられず、「集中」という概念をもふくんでいると考えたほうがいいであろう。なおレーニンは、集中について述べるばあい、「ツェントラーツィア」という外来術語のほかに、「ソスレドトーチェニエ」というロシア伝来の言葉をもつかっている。(p.187)

★ロシア語まるでわからんちんのわたしですけど、要するに、レーニンの用語法で「集積」とは、マルクスのいう「集中」と「集積」の両方を含んでいるということらしゅうございます。言葉なんて概念を正確に表わせればそれでいいわけで、ここはこのまま受け取っておくといたしましょう。とりあえず『資本論』をお持ちの方は、上記「蓄積章」の記述をご一読下さいませ。

★問題は用語法にとどまりません。この「集中と集積」から「独占」が生まれるというのがまさに第1章のテーマなわけですけど、ではこの『帝国主義論』の理論は、『資本論』の延長上に位置するのか、それとも理論的次元を異にするものなのかという問題が浮き上がります。それは、『資本論』は産業資本主義の時代の理論、『帝国主義論』は帝国主義時代の理論、というふうに歴史の時間軸に連続的に置いてしまっていいのかという問題でもございます。この点、『資本論』の記述を参照しつつ、第1章のまとめにおいてあらためて考えてみたく思います。

【独占と独占体】レーニンは本書で「独占」を単数でつかったり複数でつかったりしている。単数でつかっているばあいは問題がないが、複数でつかっているばあい、レーニンがそれによってなにを意味そうとしたのか、私〔副島〕には十分にわからない。複数のばあいを「諸独占」と約しておくのも考えられる方法であったが、それでは広範な読者にたいして無責任と思われるので、いくつかの例外をのぞき、複数のばあいは「独占体」と訳し、単数のばあいを「独占」と訳しておいた。複数につかっているばあい、レーニンは「独占」という抽象概念よりも、もっと具体的なものとしての「独占体」を念頭においていた、と私は理解するからである。(p.188)

★単数は抽象概念としての「独占」、複数は実体概念なので「独占体」の訳語を充てた、といえばすむのに長々しい文章ね(苦笑)。ところで語義上、複数では「“独”占」にならないではないかという疑問がたちまち涌いてまいりましょう。複数あるなら近径でいう「寡占」とかが適切ではないのか、と。ここは少し前高望みさんに質問させていただいた点でもございました。本文の解読を進めながらわたしの理解を少しづつ書いていきたく思います。


【第1章】2 全体の段切り 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 1日(金)00時25分19秒

章の筋立て=論理展開を的確に把握するため、まず章全体をいくつかの段に切り分けてみることにいたしましょう。これは内容の解読に先立つ一応の作業仮説ですから、あとで見直されるかもわかりませんが。なお、引用部分については、当面岩波、国民両文庫のページ数を示します。

さて、わたしのアンチョコ本には、第1章の段切りについてふたつの案がみえます。
 
〔原案〕3段区切り
第1段切り:冒頭から「独占の歴史」を総括して「資本主義は帝国主義に転化した」で終るパラグラフまで(岩p.37/国p.28)
(第1小段落) 冒頭から、『資本論』に言及して「生産の集積による独占の生誕は、総じて、資本主義の発展の現在の段階の一般的かつ根本的な一法則である」で終るパラグラフまで(岩p.37/国p.26)
(第2小段落)上の命題の歴史的検証と「独占」成立の画期づけをしたそれ以下。 
第2段切り:続くカルテルの説明から、ヤイデルスの著書からの引用で、恐慌は集積と独占の傾向を強めることを述べているパラグラフまで(岩p.50/国p.39)
第3段切り:最後の短いパラグラフ

〔修正案〕4段区切り
原案第1段切りの第2小段落は第1章段落の単なる補足ではなく独自の意味を持つので、これを独立の段切りとし、全体を4段に分ける。

わたし修正案の上の理解は妥当と思うのですが、原案第2段切り(修正案第3段切り)最後「恐慌」を取り上げたところは、独立の段切りとして扱えるような気がいたします。というのも、「独占」への移行により「恐慌」が古典時代からどのように変質したかは、カルテルの説明とは独立した重要な論点と思うものですから。もっともこれは、原著の論理展開というよりわたしの関心に引き付けた読み方かもわかりませんが。原案の第3(修正案では第4)段切りはあまりに短く、ここに含めてしまってよろしいかもわかりませんね。

〔鬼薔薇私案〕5(4)段区切り
第1段切り:冒頭〜『資本論』に言及して「生産の集積による独占の生誕は、総じて、資本主義の発展の現在の段階の一般的かつ根本的な一法則である」で終るパラグラフまで(岩p.37/国p.26)
第2段切り:上の命題の歴史的検証と「独占」成立の画期づけをし、「独占の歴史」を総括して「資本主義は帝国主義に転化した」で終るパラグラフまで(岩p.37/国p.28) 
第3段切り:ドイツのカルテルとアメリカのトラストの説明から、「独占体は……いたるところで自分の進路をきりひらくのである」で終るパラグラフまで(岩p.47/国p.37)
第4段切り:カルテルが恐慌を排除するとの説を反駁し、恐慌は集積と独占の傾向を強めることを述べている部分(岩p.50/国p.39)
第5段切り:最後の短いパラグラフ(前の段切りに含める?)

皆さま、一読されていかがお考えでしょう?(まだ読んでない? めっ!)

特にご意見なければ、とりあえずわたしの私案の段切りで進めてみたく思いますが?


『レーニンとロシア革命』岩波新書 投稿者:野次馬  投稿日: 8月 1日(金)10時35分39秒

この本の中に、革命後数年で、まだ生存中のレーニンがロシア各地で英雄伝説の信仰的対象となっていることが書かれていませんでしたっけ?

当方にとっても同じことで、『一歩前進二歩後退』だとか、『せまりくる危機、それといかに闘うか』とか、『四月テーゼ』だとか、一大叙事詩の主人公としてのレーニンのイメージがとても強いのです。

そのため、今回はじめて『帝国主義論』をまともに読もうとしても、鬼薔薇さんの「タイトル」に対するコメントですでにめげそうです。「集積」と「集中」?『資本論』を参照しなければならないんですか?当方、ご多分にもれず、いっとう最初のところで挫折した口です。ROMするだけでも結構つらそうですね


「諸独占」はありますよ 投稿者:高望み  投稿日: 8月 1日(金)15時18分39秒

 ロムするだけでもつらくなるのを後押しするわけにもいかないと思いますので、ただ、「諸独占」についてだけコメントさせてください。わたしもロシア語のことはまったくわかりませんが、経済用語の感覚としていえば、次のようにとらえるのが自然だと思うのです。

 すなわち、「独占」が単独なのは、ある使用価値をもった商品を生産する特定の産業と市場においてのことです。したがって、社会全体で出みれば、諸々の産業と市場に、諸々の独占があるのは自然なことに思われます。

 むろん、それがレーニン自身の真意かどうかは確定できない(レーニンの経済用語感覚をよく知らない)ですが、当該の注釈をみたとき、副島外務卿のお孫さんは翻訳者であって経済学者ではなかったんだなあ、と思いました。(数年前、このお名前を新聞の訃報欄に見つけたとき、ただ経済学者とのみあって『帝国主義論』の翻訳者という紹介もなされていないのには、わたしでさえ時代を感じました。)


ROMさえつらい読書会(笑)>野次馬さま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 1日(金)23時46分13秒

>「集積」と「集中」?『資本論』を参照しなければならないんですか?

“ご関心ならチラっと目をやってみるのもご一興”と申したまでですから、そんな大げさに考えないでくださいな(笑)。

>ご多分にもれず、いっとう最初のところで挫折した口です。

冒頭「商品」論、あそこが異常に難解なのです。その難解さがなんともたまらないというS的マニアも少なくないようですけど(笑)。

「集中」と「集積」が出てくる第23章「蓄積」論は、論旨明快すいすい読めます。続く第24章「原蓄」論は、例の「資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」っていう、いわばマルクスの黙示録ですよね。読みようによっては『帝国主義論』にもその趣きなきにしもあらず、――もっともこれは「経済学」の読み方とは申せませんが(苦笑)。

『帝国主義論』は、言わば「アカデミック・アジテーション」(笑)なんだとわたし思います。理論上のキーワードは「独占」、そして内在するキーワードは(実は)「国家」。そこに稀代の革命家ならではのパトスが貫いておりましょう。一言半句を恣意的に切り取ったり振り回すのでも、「理論」と「パトス」を切り分けるのでもなく、そのふたつを不可分のものと捉えまるごと取りだして、それを「歴史化」してしまいたい、というのがわたしのモティーフ――そのためには、全体の論脈をたえず見定めつつ「一言半句」をシラミツブシに読み砕いてしまいたいと念じております。

どうぞよろしくお付き合いくださいませ。m(__)m

簡にして要を得たコメントありがとうございました>高望みさま


全体の論脈:ひとつの予断=余談 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 1日(金)23時47分43秒

何度かひっくりかえしながら前後関係を気にしいしい読んでおりますと、おぼろげながら全体像が浮かんでくるものですね。今の段階でなんですけど、おぼろおぼろの全体イメージはこんなところではないかと。

〔第1部〕「帝国主義」の経済的特質
  第1章 自由競争から「独占」が立ち現れる論理と帰結
  第2章 銀行における「独占」とその全産業的影響
  第3章 「金融寡頭制」:第1、2章の小総括
  
  第4章 独占と世界市場=過剰資本の運動としての「資本輸出」  
  第5章、6章 世界の「分割・再分割」のふたつの位相
  
  第7章 「帝国主義」の経済的特質の総括と「戦争」の必然性

〔第2部〕「死にゆく資本主義」としての「帝国主義」
        (経済的特質だけからは導き得ない)
  第8章 死の相貌=「寄生」と「腐朽」
  第9章 死の影の毒性=日和見主義の根拠

  第10章 全体総括:3つの規定による「帝国主義」の歴史的規定
      (死と再生の黙示録=「プロレタリア革命の前夜」)

「アカデミック・アジテーション」たるこの「平易な概説」が、どこまで「時代の産物」であり、そこに「時代」を越えた普遍的な「理論」がどう孕まれているかを「読み取る」こと、そのためにもしばらくは、できるかぎりテキストに深く分け入り内在して「読み抜く」ことを試みたく思っております。そんなチャンスがそうそう転がっているわけもございませんし(笑)。


「独占」概念:自己流の整理 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 3日(日)11時29分02秒

「独占」とは、語義上「唯一のものによる排他的全一支配」を意味するはず。したがって複数の独占(「独占体」)とは論理矛盾ではないか、との疑念を書きました。それについて高望みさんから、次の簡明なコメントをいただきました。

>「独占」が単独なのは、ある使用価値をもった商品を生産する特定の産業と市場においてのことです。したがって、社会全体で出みれば、諸々の産業と市場に、諸々の独占があるのは自然なことに思われます。

このご説明は、「独占体(複数独占)」が具体的な実体概念だとの副島解釈とも符合し、納得しやすいものでございました。けれどもわたしの当初の疑義は、「諸々の産業と市場」に場を替えただけでやはり生き続けていることもたしかなのです。たとえば日本の鉄鋼業、富士・八幡合併で「新日鉄」が誕生してから、長らく「5社体制」が続きました(最近また再編が進みましたが)。特定の産業に5社も併存しておれば「独占」になるのだろうか? それでも富士・八幡合併に際しては、「独占禁止法」に抵触するとして多くの批判があがり、故内田忠雄さんはじめ名だたる近代経済学者の反対声明も出されました。

そこで、素人ながら少し自己流で考えてみました。

「独占」の反対概念は「競争」ですね。ところで「競争」といっても「完全競争」と「不完全競争」とがある、というか、「完全競争」というのは理論モデル=理念型であって実際には存在しない、と考えられるのが普通です。であれば「独占」にもまた「完全独占」と「不完全独占」があると考えられ、現実はほとんど「不完全独占」であってよろしいとも思われます。複数が併存している状態は「独占」の語義にはそぐわぬとしても、語義どおりの独占=「完全独占」は、「完全競争」と同じく理論モデルにすぎぬと考えるべきなのでしょう。

そんな思いが頭の片隅にとぐろを巻いているなか、後のほうをめくっておりましたら、「相対的独占」と「絶対的独占」という表現に出遭いました(岩p.90/国p.71)。これか!――でもやはりちがいます。この「絶対的独占」も単一企業ではなく4社、ここでは4つの大銀行で、それが“事実上、一個の「銀行トラスト」を形成している”というのですね。複数が併存していてもなお「絶対的独占」が可能なのであれば、たったひとつの企業による「完全独占」などいよいよ思考実験的モデルにすぎぬというほかございません。上の“事実上”なる語のうしろには「実態」認識が控えているはず、「理論」の力はそこで試されるのでございましょう。

「独占」こそ小冊子『帝国主義論』全編のキーワード。言葉の感覚を柔軟に保って正確な概念把握を心がけ、実態認識へ向ける触覚を鍛えていきたいものと思います。


【第1章】3 章全体の論脈とその位置付け 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 3日(日)23時14分04秒

先にお示しした段切り私案には特にご異論もないようですので、これに即して第1章「生産の集積と独占体」全体の叙述の流れをまず概観しておくことといたします。

第1段切りでは、マルクスが『資本論』で示した「資本の集中・集積から独占が生まれる」とのテーゼをふまえ、「独占は今や現実となった」として「生産の集積による独占の生誕は、総じて、資本主義の発展の現在の段階の一般的かつ根本的な一法則である」という基本命題が提示されます。(冒頭〜岩p.35/国p.26)

次いで第2段切りでは、この基本命題をさらに歴史的に展開して「独占」成立の時期を20世紀初頭と見定め、「独占の歴史」を総括して「資本主義は帝国主義に転化した」ことを述べます。(〜岩p.37/国p.28)  

さらに第3段切りでは、ドイツのカルテルとアメリカのトラストの実態をふまえ、独占の傾向が強まるにつれて「生産の社会化」が著しく進むこと、しかし他方、所有の実態は依然として私的なものであることを指摘し、この両者のあいだの矛盾とその激化の諸形態を説き明します。質量ともにここが第1章のハイライトをなすと思います。(〜岩p.47/国p.37)

続く第4段切りでは、そのカルテルが恐慌を排除するとの説を、資本主義美化の説として批判し退け、あわせて(1900年恐慌の恐慌の現実から)、恐慌は集積と独占の傾向を強める作用を指摘しております。マルクス以来の大テーマである「恐慌」を明示的に取り上げているのがこの部分であることから、独立の段切りとしたこと、前回述べたとおりです。(〜岩p.50/国p.39)

最後にパラグラフひとつの短い第5段切りは、「独占――これこそ資本主義の発展における最新の局面の最後の言葉である」として章を締めくくるとともに、この見地を十分かつ完全に述べるためには、ここでは触れていない銀行の役割を考慮に入れることが必要だとして、第1章の叙述のもつ制約を明示し、続く第2章「銀行とその新しい役割」へと導いて終ります。(岩p.50/国p.39)

この第1章の眼目は、国によりさまざまな「独占」への転化の過程やそのいろいろな形態の叙述にあるのではなく、それらに共通する実体と内実の分析にあると思います。いいかえればここで意図されているのは「歴史」ではなく「理論」なのだと考えられます。第1段切りが提示する上の基本命題は、以後第6章まで繰り返されつつ次第に深められ肉付けされて、第7章で総括されるもので、その意味で「独占」こそ『帝国主義論』全体の理論的キーワードといってよろしいのでしょうね。
また第2段切りでの「独占」成立の時期の確認も、後続各章で繰り返される「古い資本主義が新しい資本主義に取って代られた」時期の確定に引き継がれてまいります。
ですからこの第1章は、以後の展開全体の礎石となる概念規定と歴史認識を与えるものとして内在的に読み込むべきものかと思います。

では、次から各段落ごとの叙述をトレースしてまいりましょう。


第2章報告者確定のお願い 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 3日(日)23時40分39秒

すでに第1章報告が始まっており、続章報告ご準備の時間もみなければなりません。

>第2章か第4章ということになりますね。私かnoizさんがどちらかを選ぶということにな>>りますか。
>
>どうしましょうか、noizさん?
(蘇丹・加里耶夫さん  投稿日: 7月30日(水)02時30分18秒)

noiz さんの意思表明(ご都合)をよろしくお願いいたします。


【第1章】4 第1段切り(1):「独占」の生誕 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 4日(月)23時26分46秒

書き出し:「工業の驚くべき成長と、ますます大規模な企業への生産の集中のいちじるしく急速な過程とは、資本主義のもっとも特徴的な特質の一つである」(岩p.28/国p.20)。

結び:「生産の集積による独占の生誕は、総じて、資本主義の発展の現在の段階の一般的かつ根本的な一法則である」(岩p.35/国p.26)

ご用とお急ぎの方は、この入り口と出口だけ頭に刻み込めばなんとか用は足りましょう。いわゆる“キセル読み”ですね(笑)。書き出しの一文、「資本主義の〜」とありますが、著者の意図としては資本主義一般ではなく「最近の資本主義の〜」ということのはずなのですが、最近の、と限定しなかったのは、うっかり書き落したのでなければ、もともと資本主義にそういう傾向が内在していたのだと言いたいのでございましょう。書き手の心の動きをこのように透かして見るのが「解読」というもので……などとエラそうなことはお腹にしまって先へ進みましょう。以下、引用文は国民文庫・副島訳、文中強調部分は前後を**でかこって示します。岩波版その他別訳をご使用の方は比較をどうぞ。

著者は書き出しの一文をまずはゴロリと放り出したうえで、それが事実であることを“きわめて完全できわめて正確な資料”をもって読者に示します。
まずはドイツ――「企業の百分の一にもみたないものが蒸気力と電力の総量の*四分の三以上*をもっている! 全企業数の91%をしめる297万の小企業……には、全体で、蒸気力と電力の7%しか属していない! 数万の最大企業がすべてであって、数百万の小企業は無である」。
次にはもう一つの先進国である北アメリカ合衆国――「国の全企業の総生産額のほとんど半分が企業総数の*百分の一*の手中にある!」

統計数字の扱いがところどころ正確でないことは前にお示ししたとおりですが、とにかくビックリマーク付きのこういう現象を著者は「集積」と呼び、次のように総括します。

「集積は、その一定の発展段階でおのずから、いわばぴったりと独占に接近する……。数十の巨大企業にとっては相互のあいだで協定に達するのは容易であり、他方では、まさに企業が大規模であることが競争を困難にし、独占への傾向を生みだすからである。競争の独占へのこのような転化は最新の資本主義経済におけるもっとも重要な現象の一つ……である」(岩p.30/国p.22)

ということで「独占」は語義どおりのものというより、資本主義の建て前であった「自由競争」の結果たる「集積」から生まれ「自由競争」の否定へと向かうひとつの傾向。それが資本の運動を基本的に規定する新しい現象としてここでは定立されております。

さて、この重要な現象を「もっと詳しく論じる」段ですが、その前にひとつの誤解を片付けておくと著者は申します。はて、どんな誤解かしら?

※「集中と集積」の用語問題については、先に国民文庫版訳註をご紹介いたしました。「平易な概説」だそうですから、重箱の隅つつきはよろしいでしょう(笑)。

※ここでドイツとは、鉄血宰相ビスマルクによる統一(1871)成ったカイザー治世下の新興「ドイツ帝国」であり、また「北アメリカ合衆国」は、ヨーロッパの市民革命に相当する「南北戦争」(1861-65)をくぐった新興工業国アメリカであること、同じ時期にわが日本も明治維新(1868)で近代国家として歩み始め、日露戦争(1904-05)の勝利で世界の「列強」の一角に登場し帝政ロシアを東から脅かしていること、を一望しておきましょう。
 この期間、1864年第一インタナショナル結成、67年『資本論』第1巻刊行、ドイツ統一の同年パリ・コミューン。およそ20年後経って1889年第二インター結成、翌90年にはビスマルクは建国者の役割を終えて引退、悪名高い「社会主義者鎮圧法」は廃止されました。西欧近代史のエッセンスが凝集したような、忙しく騒がしく中身の濃い半世紀ですね。


産業循環の観点は?? 投稿者:TAMO2  投稿日: 8月 5日(火)08時56分21秒

これは、高望みさんに伺うべきことかと思いますけど、一つ疑問を。

マルクス主義経済学においては、掲題のことはどのように捉えられているのでしょうか。
すなわち、ある産業が興り衰退する、あるいはある産業内の部門が興り衰退する過程に
おいて、主役たる企業(群)が淘汰されることが常態ではないかと。

 例えば、我が化学産業において書きますと、アリザニン・インジゴの化学合成を嚆矢
とする石炭産業の勃興〜隆盛〜斜陽、蒸留技術の発展と取り扱いやすさによる石油化学
工業の勃興〜隆盛(〜今は斜陽期の入口)、遺伝子工学の発展による生命科学の勃興、
というようなものがあります。

この中で、例えばデュポンやダウ・ケミカル社は全ての期間で栄華を極めていますが、
逆に石炭と共に滅びた会社、石油から脱却できずに滅びつつある会社もあります。

すなわち、独占:集中という概念は「そういうことが可能なこともある」という意味で
小生は解釈しております。その上で、日本の場合は、旧財閥による系列化などでこの傾
向が保証されていたと解釈しておりますし、その前提があってこそ「帝国主義論」は日
本で広く認知されていたのでしょう。

だが、ここで疑問があります。かようなことは製造業にいる者のバイアスであり、経済
の管制高地である銀行をはじめとする金融資本を中心に見る立場からは「瑣末なこと」
なのか、あるいは、製造業をはじめとする金融資本外についても「全体としてはそうい
う独占:集中の傾向がある」事実があるのか、よく分かっていません。

これを証明するには、帝国主義論以外のデータによる検証が必要であり、大変なことで
あるとは思いますが・・・。


>>TAMO2さん 投稿者:高望み  投稿日: 8月 5日(火)20時37分57秒

 板の流れを煩雑化しないため、経済・哲学板のほうでどうでしょう。

http://6806.teacup.com/hinaoyaji/bbs


産業循環のことなど>TAMO2さま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 5日(火)22時51分16秒

「経哲」板のほうで高望みさんがコメントされているので、そちらで続けていただくのがよろしいかと思いますが、せっかくここでのご発言なのでわたしからも少し。

>ある産業が興り衰退する、あるいはある産業内の部門が興り衰退する過程に
おいて、主役たる企業(群)が淘汰される

いわゆる「景気循環」が「好況−不況」の短期循環であるのに対して、ご指摘の前半は、いわゆるリーディング・インダストリーの交替の問題(長期循環)ですよね(後半の個々の企業の盛衰は必ずしもそれと同じではありませんから、別に扱うべきかと思いますが)。

素人考えで申しますと、大きくは軽工業(典型的には繊維産業)から重工業(典型的には鉄鋼業)、それから重化学工業(ご専門でしたかしら)、それが大量消費財産業(自動車、電機など)へ移り、だいたいそのあたりから脱製造業化(サービス産業化)がはっきりすると、まあざっとこんなイメージでございます。このざくっとしたイメージの製造業の時代については、戦間期のシュンペータが巧みに扱っていたかと思うのですが、『帝国主義論』での「独占」形成は、最初の軽工業から重工業への転換あたりに対応していること、テキストの行論にも明らかかと思います。実際の動因としては「戦争=軍事」のモメントを無視することはできません。

「産業循環」の意味するところを以上のように解して大過ないとすれば、その循環期間は基幹設備の技術的・価値的大きさに規定されるかと思います。その意味で、装置産業が主体の時期には長く、消費財生産が主体となるにつれて短縮し、サービス化(脱製造業化)にともなってさらに短くなっていくはずですし、現にそのように動いてきたのではないでしょうか。

マルクス経済学がこのあたりをどう捉えてきたかは高望みさんのご教示をまちたく思いますが、官庁経済学などですとこれを「経済学」の範囲とはみなさず、「産業構造論」として区別するようでございます。おかしな話に思いますけどね(笑)。なお、「景気循環論」もテーマとしてはクラシカルな扱いで、「経済成長論」にとってかわられたとか。最近はその「経済成長論」も精彩を失い、新古典派的ミクロモデル論が跋扈しておるようでございます。そこにはまた、実体経済よりも金融が重きをなすという転換が随伴しているのでもございましょう。資本制生産とその理論表現は「モノ離れ」の一途をたどっているようで、それは使用価値と価値との極端な乖離、言い換えれば「経済の虚構化」にほかならぬように感じます。時代は「消費資本主義」(吉本隆明ふうにいえば「超資本主義」)からさらに一歩段階を踏んでいるように思います。

「恐慌」はたいへん興味深いテーマ。マルクスが観測した「10年周期」はレーニン時代にはすでに崩れております。レーニンが理論面で依拠したヒルファディングの『金融資本論』は「恐慌」に長い一章を割いておりますが、『帝国主義論』ではどうでしょう。これについてはのちほど第1章第4段切りの解読で少し触れるつもりです。ここで一言申し上げるなら、「恐慌」は「世界市場」を前提にしており、その意味で宇野学派のようにこれを「原理論」で解けるものとはわたしには思えないのですね。このあたりにつきましては、全編解読を終えた段階で議論させていただければと思っております。

***

ところで noiz さ〜ん! 第2章の報告の件、どうなさいますかぁ?


【第1章】5 第1段切り(2):「ひとつの誤解」 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 5日(火)22時53分19秒

「アメリカの統計によれば、250の産業部門に3000の巨大企業があることになる。そうすると、あたかも各部門に最大級の企業が12つづあることになる」と考えられるかもしれない、これがレーニンの懸念した「誤解」です。しかし実際はそんなに平均的に分布しているわけではない、というわけで、いわれてみればそうでしょう。ではどこに重点的に分布しているのか、どの部門で特に巨大企業がたくさんあるのか、せっかくの統計ですからそれを示してくれればいいのにそうはしないのですね、この著者は(笑)。

そのかわりに、「最高の発展段階に達した資本主義のきわめて重要な特質は、いわゆる*コンビネーション*、すなわち、さまざまな工業部門が一つの企業に結合することである」(岩p.31/国p.23)と話題を転じて、鉄鋼産業周辺の関連事業の「結合」を例にあげ、引き続いてヒルファディング『金融資本論』の引用で、この「コンビネーション」の経済上の利点を数点にわたって示します。すなわち、契機の差異の均等化による耳順率の安定化、商業の排除、技術進歩の可能性と超過利潤獲得の可能性、強度の不況期における競争力の向上、云々。

どうやら「誤解」の指摘はこの「コンビネーション」=「結合企業」または「混合企業」という、統計上の「産業」分類を超越した企業形態に話を向けるためのマクラだったようで、上記ヒルファディングの引用をもってとりあえずおしまい。以後の話は、この企業形態の意味について展開されるはこびとなります。

※ここでいわれる「コンビネーション」とは、一般的な異業種の統合(経営多角化)というより、本文の鉄鋼業の例にあるように主として技術上の関連にもとづく隣接業種の結合のようです。技術面での結合形態としては、後年「コンビナート」と呼ばれる石油化学工業の例がもっと典型かもわかりません。レーニン時代にはまだ姿を現していませんが、石油精製工場から製品(典型的にはナフサ〔粗製ガソリン〕)がパイプラインで直に隣接する石油化学工場へ送られ、そこでエチレンに分解され、化学反応装置でたとえば塩ビモノマになり、重合されポリマとなってプラスチック製品の素材として出荷されるという一連のプロセスです。他方、異種業の統合の典型例は、戦後アメリカで多くの展開をみた「コングロマリット」でしょうか。企業形態として重要なのは後者、前者はかならずしも同一企業とは限りません。ただ、レーニンが着目した「資本の集積」において技術革新が大きな要素をなしていたこと、目を止めておきたく思います。

※特にこの傾向の展開は加工部門より素材部門でいちぢるしく、レーニン時代に登場したものは、今日からみればまだまだ初期段階のものといわねばなりません。当時の花形産業は、次にみるとおり何よりまず鉄鋼業であり(それとの関連で)石炭関連でございました。度重なる独仏戦争の舞台となった国境地帯のひとつライン地方がヨーロッパ有数の産炭地域であり、ライン・ヴェストファーレン地方が鉄鋼業の拠点をなしていたこと[*]、また第二次大戦後のヨーロッパ復興のひとつの軸が「欧州石炭鉄鋼共同体」であったことも、とりあえず押さえておくといたしましょう。

[*] 詳しくは(代々木系ですけど)大野英二『ドイツ資本主義論』(未来社、65年)。
 昔、アルバイト先の古参党員に薦められた一冊。貧乏学生の身には高価な大冊でし
 たけど、ゆっくり楽しく読みました。お茶汲み事務員ながら、壁ひとつへだてて工
 作機械がうなる零細企業で「技術」の何たるかをそれとなく知ったように思います。


【第1章】6 第1段切り(3):「集積」から「独占」へ 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 6日(水)00時16分57秒

さて、ありうべき「誤解」は一応片付いたとして、いよいよ「競争の独占への転化」を「もっと詳しく論じる」ところに入ります。

まずレーニンはハイマン教授によるドイツ鉄鋼業・鉱山業における「混合」企業(結合した企業)についての記述から、「集積はますます進展する。個々の経営はますます大規模になり、同一の産業部門あるいは異なる産業部門のますます多くの経営が強大な企業にまとま」っていくという事実を引いて、自説の裏付けとします。この“例外的に正直な一ブルジョア経済学者”は「集積に関するカール・マルクスの学説の正しさが的確に証明されている」とまで書く人なのでした。

ただし、ハイマン説はこの「集積」の進展を、保護関税によって保護されているドイツに特有の現象とみており、資本主義の一般的傾向として把握してはいない、ここにレーニンは批判を向け、ヘルマン・レヴィの著書からの引用で、「自由貿易の国イギリスでも、集積は……*やはり*独占に導きつつある」(岩p.33/国p.24)という「きわめて重要なこと」を指摘し、決してこれがドイツだけの固有の事柄ではないことを強調し、この段切りの結論へと向かいます。すなわち、

「マルクスは、資本主義の理論的および歴史的分析によって、自由競争は生産の集積を生みだし、そしてこの集積は一定の発展段階で独占に導くことを証明したが、……今や独占は事実となった。……たとえば保護貿易か自由貿易かの点での個々の資本主義国のあいだの相違は、独占体の形態あるいはその出現の時期における本質的でない相違をひきおこすだけであって、生産の集積による独占の発生は、総じて、資本主義発展の現段階の一般的で基本的な法則である」(岩p.34-5/国p.25-6)。

さて、ここで前回の「誤解」問題を振り返ってみますと、“上記ヒルファディングの引用をもってとりあえずおしまい”としたのは、字づらに流れた形式的な読み方であったかもわかりません。実はアンチョコ本の指摘なのですが、形式としても、“あらゆる産業部門に大きな企業があるわけではない”、また他方、ひとつの大企業がいくつかの部門にまたがっている「コンビネーション」という形態もある、という後半を考えれば、この「コンビネーション」の説明全体をまって「誤解」訂正は完結することになります。

しかもレーニンが「誤解」をとらえて本当に指摘したかったことは、「山なす本を書いて、独占の個々の現れについて記述しながら〔それを資本主義の普遍的な法則性と捉えずに〕あいかわらず口をそろえて、『マルクス主義は論破された』と言明している」経済学者たちに対して、マルクスの学説の真髄を宣明するところにあったのでしょう。その意味で、「誤解」議論は今回扱ったところまで引きずっているということになります。字づらにとらわれた形式的な解読、あらためていましめねばと思いました。

さて、以上で第1段切りのわたしなりの解読を終ります。皆さまの「読み」はいかがでしょう。

それにしても、これでようやく7ページ分。いくらゆっくりと、とはいえあんまりだとお感じでしょうか? もうちょっと端折って、余計な茶々を入れず、さっさとテキストを追ったほうがよろしいでしょうか? わたしとしてはせっかくの機会なので、時折あたりを見回しながら丹念に(しつこく?)読みしだくようにやってみたいと考えてのことなのですけど。
ご意見あればぜひどうぞ。


ちょっと御願します。 投稿者:臨夏  投稿日: 8月 6日(水)12時59分00秒

どうも、勉強が遅れており、焦っております。

それで、このページをプリントアウトして、外で読もうと思たんですが、
字の色が黄色いので、白い紙の上ではほとんど見えないんです。
コピーした文の色を変えたらええんでしょうが、
いろいろやってみてうまいこといきません。

そこで、勝手なお願いなんですが、
どなたか、マッキンOSXv10.2じゃがーのわたしに、色濃く黒くプリントできる方法を教えていただくか、
鬼薔薇さんに、ここの黄色い字を、濃い色にしていただくかできへんもんでしょうか。

失礼致しました。


たとえば、 投稿者:高望み  投稿日: 8月 6日(水)15時00分57秒

1.黒い紙にプリントする。
2.いったんメモ帳にテキストをコピー・ペーストしたうえで、ワープロソフトで好きなように編集してプリントする。

 というテもありますね。


なるほど 投稿者:臨夏  投稿日: 8月 6日(水)21時44分08秒

高望みさん、おおきにさまです。

1.黒い紙ですか〜、しかし、そういうものもないですねえ(^^;

2.はい、ジャガーのエディタに落としてから、色を変えようとしたんですが、
 なかなか都合のええものがないようなのです。
 ワープロも、いまはちょっと手に入りません。
 もうちょっと研究してみます。


ご迷惑をおかけして m(__)m>臨夏さま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 6日(水)22時35分00秒

そんなトラブルを起こすとは、まったく予想もしておりませんでした(^^;
地のほうは黒く出るわけではないのですね?

わたし屈辱に耐えて「窓が98」など余儀なく使っており、常時接続でないため掲示板の記事は回線を切ってからすべてエディタに落して読み、またコメントを書いております。マックについてはまったく何も存じません。

印字が必要ならそこからプリンタを起動します。画面上は黒地に黄文字でもプリントさせると白い紙に黒字で出ます。カラープリンタでないため、口惜しくても黒以外なりようもないのですけど(苦笑)。

ひょっとして臨夏さん、カラープリンタをお使いでしょうか?

>どうも、勉強が遅れており、焦っております。

こちらはまったく焦る必要はないかと。まだたった7ページ進んだだけですので(笑)。


お騒がせしました 投稿者:臨夏  投稿日: 8月 6日(水)23時52分09秒

プリントアウトの件は、
あしながおじさんのような、鄙親父さんの御協力により、
無事解決いたしました。

高望みさんの、「黒い紙」は、やはり、洒落でしょうか?(^^;
しかし、黒い紙にプリントしても、黄色字が白いわけではなく、うす〜い灰色なんで、
無理ですねえ〜。


【第1章】7 第2段切り:「帝国主義」の確立は20世紀初頭 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 7日(木)00時01分39秒

第1段切りで、「生産の集積」から「独占」が生まれた、この「資本主義発展の現段階の一般的で基本的な法則」を取り出したのを受け、その時期を見定めるのがここでのテーマです。著者はこれをやや言い換えながら、「古い資本主義が新しい資本主義に*最後的に*とってかわられた時期」を、ヨーロッパについては「20世紀の初め」(岩p.35/国p.26)だとして、その実証的な根拠をフォーゲルシュタインという人の著作『資本主義工業の金融組織と独占の形成』からの長い引用で示したあと、「独占体の歴史」を3点に要約します。

(1) 1860年代と1870年代――自由競争の最高の、極限の発展段階。独占体はほとんど目につかないくらいの萌芽にすぎない。
(2) 1873年の恐慌以後のカルテルの広範な発展の時期。しかしカルテルはまだ例外にすぎない。それはまだ強固なものではない。それはまだ経過的な現象である。
(3) 19世紀末の活況と1900-1903年の恐慌。カルテルは全経済生活の基礎となる。資本主義は帝国主義に転化した」(岩p.37/国p.28)。

でも、こんな骨だけの要約より、せっかくの引用ですから、フォーゲルシュタインのブリリアントな叙述を味わいたいところですね。

それにしてもここで話は「ヨーロッパ」に限定しておりますが、ここはちょっと注意が必要でしょうね。上の(1)にいう「自由競争の最高の発展段階」というのはイギリスにかぎられたことだったはず(栄光あるヴィクトリア時代でしょう)、そして「独占への転化」については、イギリスは遅れ、ドイツとそして「ヨーロッパ」ならざるアメリカが先行したこと、すでに第1段切りで述べられた点でございました。

またここの叙述は決して「歴史」そのものでないことも留意しておくべきかと思います。もし経済の歴史が主眼であったのなら、次章で扱われる銀行と信用制度の発達を述べねばなりませんし、恐慌を通じた産業構造の変化を具体的に取り上げねばなりませんし、また軍事目的が強く働いたなかでの技術革新について、鉄鋼業や鉱山業だけでなく、化学工業の展開を射程に入れねばならぬはずでございます。ここでの叙述の眼目は、あくまで「自由競争のなかから独占がうまれた」ことの理論的な意義にあると存じます。

その「独占」の実体を、レーニンはなにより「カルテル」に見定めていること、行論から明らかで、この「カルテル」の生態と内容が、続く第3段切りで詳しく解き明かされることになります。

さて、ようやく「帝国主義」が姿を現しましたね(^^)。いつぞやの臨夏さんのご疑念も一応の答えを得たことになるかと存じます。とはいえ、高望みさんのご指摘によりますと、その後の経済史学の成果は上の認識に修正を求めているとのこと。とりあえずは20世紀初頭における認識として受け止めておきましょう。

なおここでの論拠となった著作の著者フォーゲルシュタインという人は、註にもありますように『イギリスおよびアメリカにおける鉄鋼業と繊維工業の組織形態』という書物も著していて、レーニンは後段ではこちらを利用しております。こうした実証研究をレーニンはわくわくするような気持ちでひもといていたのではないか――読んでいてそんな気がするのですけど、皆さまいかがですか?


あらま、よかった(^^) 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 7日(木)00時03分28秒

懸案解決の由、わたしもほっといたしました>臨夏さま


これだけじっくりやるほうがいいと思います 投稿者:TAMO2  投稿日: 8月 7日(木)19時37分44秒

折角ですから、これくらいじっくり徹底的にやるほうがいいと思います。ただ、鬼薔薇さんほどの
濃いレジュメを作成する自信はないです(爆。


ありがとうございます>TAMO2さま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 7日(木)22時11分08秒

「試行」のつもりもございまして、善し悪し含めてひとつのサンプル・ケースとして皆さまのご判断をいただきたく思いました。では、とりあえず第1章については鬼薔薇流でやらせていただきます。

レジュメのつくりかたなど人により内容によりいろいろでございましょう。バラエティを楽しむのもこうした「読書会」ならではかと(^^)。

そうそう、TAMO2さんはエンジニアの由、技術革新の点についてはどうぞご知見をご紹介くださいませね。特に化学方面はわたし無学・無知もきわみでございますので。

ベンゼンとベンジンの区別もつかなかった鬼薔薇(^^;


休みを前に 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 7日(木)22時55分57秒

>ところで noiz さ〜ん! 第2章の報告の件、どうなさいますかぁ?

とマイクでお呼びかけしてみたもののお応えいただけないところをみると、たぶんお忙しいのでしょうね。

でも、このままだと第2章の報告担当が宙に浮いてしまいかねません。

そこで>蘇丹・加里耶夫さま 第2章の報告お願いできますか? 
今からではちょっと時間が足りない、ということでしたら第4章をお願いし、第2章はわたしが埋めるといたしますので、ご都合とご意志をご遠慮なくどうぞ。

noiz さんには、あらためて第6章以後のどこかをお願いいたしましょう。

わたし、来週は通しでお休みをいただきます。法事だの掃除だの、けっこう多忙(^^;
この件、その前に決めてしまいたく、よろしくお願いいたします。m(__)m>関係者各位


【第1章】8 第3段切り(1):カルテルとトラスト 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 8日(金)23時07分51秒

第3段切りに入ります。ここが第1章のハイライト、と前に書きましたが、果たしてどうでしょうか。もうすぐお休み、さくさくと読み進めましょう。

ここで著者は、第1段落で示した「集積」の一般論から踏み出し、カルテルやトラストなど「独占体」の実態、その具体的な姿を読者に示します。ドイツについてはリーサーという人の『ドイツの大銀行、ドイツの一般経済の発展との関連におけるその集積』、リーフマンという人の『カルテルおよびトラストと国民経済組織のいっそうの発展』という著書他、アメリカについては政府トラスト委員会報告に主な素材を求めております(このリーサー博士およびリーフマン氏とも、以後たびたび証人として登場する重要人物)。

まず最初にカルテルの説明:「カルテルは販売条件、支払期限、その他について協定する」(岩p.37/国p.28)。――そういえば、第1段切りに「数十の大企業にとっては相互のあいだで協定に達するのは容易」(岩p.30/国p.24)という指摘がありました。それぞれ独立して存立するいくつかの企業がただ相互に協定するにすぎないのがカルテルなのでしょう。「混合企業」や「結合企業」よりずっとゆるやかなイメージですね。でも、「それは販路を相互のあいだで分割する」――「分割」という語が初登場!(カナ?)。そして「それは生産する生産物の量を決定する。それは価格を決める。それは個々の企業に利潤を分配する、等々」。――このとおりだとするとカルテルは、“すぎない”どころか何でもできそうではありませんか。ちょっとイメージが統一しにくいところではございます。

最初のパラグラフでまずドイツ、アメリカそれぞれの経済全体からみたカルテルやトラストの発達ぶりを概観します。ここの数字はよくみるとわかりにくく、またトラストについては、上のカルテルについてのような説明がないのですが、とりあえずこだわらずに進みましょう。

第2パラグラフは重要。カルテルやトラストといった「独占団体」は、国の経済横断的にではなく特定の産業部門で成立するもので、いよいよその具体レベルに踏み込んでいくのでございます。ライン=ヴェストファーレン石炭シンジケートの生産高シェアは1910年にはなんと95.4%、アメリカの石油トラスト、スタンダード・オイル(これは今に続く超大手石油会社ですね)は40%!もの配当、そしてUSスチールの名で世界に知られる(今はすっかり寂れた)鉄鋼トラストは1907年に全体で21万人以上の労働者を雇い、ドイツ最大の鉱山会社ゲルゼンキルヒェン社も1908年、4万6千人以上を雇っていた――と、どうも比較になるのかならないのかよくわからぬ数字が並びますが、ここは引用ですからレーニンのせいではございません。著者もさすがにこれだけではどうもと思ったらしく、別資料でUSスチールの生産高シェアが50〜60%にも達していたことを補足します。でも、なぜか後の年次のほうが下がっておりますね(苦笑)。

アメリカのトラストはその規模だけでなく技術水準の高さで優位を築いていること、タバコ・トラストの技術合理化の例で示されます。専門会社を創って特許を買占め、鋳物工場、機械工場、修繕工場を作って独自技術の開発にあたったとか。ここでちょっと訳語にこだわってみますと、ここに雇われる developping engineers を「岩」「国」両訳とも英語で表記したあとにカッコで「技術発展のための技師」と注記しているのは原文に忠実な訳かもしれませんけど、現代の日本語なら「開発技術者」というところですよね(笑)。

その次のパラグラフではいよいよ化学産業の例が取り上げられ、ふたつの「グループ」(って何?)、「二社連合」「三社連合」ができ、それら「連合」のあいだで「接近」や価格「協定」などがはじまっていたことが示されます。高分子化学の華やかな展開を知るわたしたちからすれば、アニリン−ソーダ工場なんて“とってもクラシック”のイメージですけど、20世紀最初の10年における「独占」の高度な発展ぶりは明らかといってよろしいかと思います。

さて、このような「独占」化の進展が意味するところは何か。「競争は独占に転化する」。はい、それはわかります。「こうして生産の社会化がいちぢるしく前進する。とくに、技術上の発明と改善の過程が社会化される」(岩p.43/国p.33)。さあ、ここで「社会化」というあらたな概念が出てきました。


【第1章】9 第3段切り(2):「生産の社会化」とその矛盾 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月 9日(土)22時11分12秒

「生産の社会化」とはどういうことでしょうか。集積が進んだ果てに資本主義が迎える大きな質的転換にほかなりません。カルテルやトラストを組織した独占団体は、国外まで含めて原料資源の埋蔵量を推定して掌握し、市場の規模を推定して彼らのあいだの協定を通じてそれを「分割」し、熟練労働者や優秀な技術者を抱え込み、鉄道や海運を押さえる、などなど。「これはもはや、分散していて、おたがいのことをなにも知らずに、未知の市場で販売するために生産をおこなう経営者たちの昔の自由競争とは、まったく別のものである」(岩p.43/国p.33)。「競争は独占に転化する」、その高度に発展した独占が、意図せざる「社会化」にほかならぬとレーニンはいうわけです。それは人類史にとっての新たな何事かを意味するはずでございます。

「資本主義はその帝国主義段階で、生産のもっとも全面的な社会化にぴったり接近する。それは、資本家たちを、その意志と意識とに反して、競争の完全な自由から完全な社会化への過渡の、ある新しい社会秩序へ、いわばひきずりこむ」(同)。

“生産のもっとも全面的な社会化”“完全な社会化”――もしこれがツアーの検閲を考慮したものでなかったら、著者はためらうことなく「社会主義」と書いたところでしょう。競争が独占に転化した結果、古典的資本制の「無政府性」は「計画性」にとってかわられる、それをもって「社会主義」への意図せざる「接近」と言っているわけです。ベルンシュタイン流の「修正資本主義」や後年のヒルファディングの「組織された資本主義」も、この事実を根拠に主張されたものであること、言うまでもございません。では、これら論者が考えたように、資本主義の矛盾は独占の進展によって弱まり、退化し、あるいは「止揚」されるのか――そこが彼らとレーニンの認識を決定的に分かつ点となります。

「生産は社会的となるが、取得は依然として私的である。社会的生産手段は依然として少数の人々の私的所有である。……そして少数の独占者たちの残りの住民にたいする抑圧は、いままでの百倍も重く、身にこたえ、耐えがたいものとなる」(同)。社会的対立は弱まるどころか広がり深まり、古典的「階級対立」に加えて、資本家階級のあいだでの「組織」のための「服従の強制」(岩p.44/国p.34)を伴って、いっそう鋭いものになる、それを克明に観察した“ブルジョア経済学者”ケストナーの著書から、独占団体が服従強制のためにとる手段をレーニンは列挙し、その性格を規定しております。

(1) 原料の剥奪、(2) 労働力の剥奪、(3) 輸送の剥奪、(4) 販路の剥奪、(5) 購買者との排他的協約、(6) 破壊的な価格切下げ、(7) 信用の剥奪、そして(8) ボイコット、――アウトサイダーに対する独占団体のこうした攻撃は、「もはや、小企業と大企業との、技術的におくれた企業と技術的にすすんだ企業との競争戦ではない。……独占に、その抑圧に、その専横に服従しない者が、独占者によって絞め殺されるという事実である」(同)。

競争ならぬ絞殺! 未刊に終ったフランス語版・ドイツ語版のための「序文」に書きつけられた、「金融的絞殺と植民地的抑圧の世界体系」というあの有名な言葉を思い出してしかるべきところでしょう。「金融」も「植民地」もこれからという叙述の冒頭の章ですでに「絞殺」が苛酷に姿を現しております。その点だけでもこの章が、これから次第に具体的な相へと展開されていくもっとも抽象的・普遍的な問題を提示したところであることを予感できるかと存じます。そしてまた、上記の「(2) 労働力の剥奪」が「労働者はカルテル企業だけで労働に従事するという資本家と労働団体との協約による」との事実は、ひとくちに「プロレタリアート」と呼ばれてきた一社会階級の内的な分化をはやくも示唆するものでございましょう。後段を読み進む上での素材的事実がこうして少しづつ顔を見せはじめているのを感じます。

※この種の「労働協約」というもの、どなたが具体的にご存知でしたらお教え下さいませ。


【第1章】10 第3段切り(3):生産の「社会化」と「投機化」 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月10日(日)22時42分37秒

ケストナー書からの引用が続きます。「従来の意味の商業活動から組織者的=投機的活動への一定の推移が起こっている。最大の成功をおさめるのは、〔もはやまともな商業活動を行う経営者ではなく〕組織の発展および個々の企業と銀行との一定の結びつきの可能性を予測できるか、少なくとも予感できる投機の天才(?!)である」との、怒りが滲む叙述を受け、レーニンはこれを「普通の人間の言葉」に言い換えます。

「商品生産が従来どおり『支配』しており、それは経済全体の基礎と考えられているとはいえ〔つまり、資本主義は依然として資本主義にはちがいないとはいえ――引用者〕、実際にはそれはそこなわれ、主要な利潤は金融的術策の「天才」の手に帰するような状態まで、資本主義の発展は進んだ。これらの術策と詐欺の基礎には生産の社会化がある。このような社会化までこぎつけた人類の巨大な進歩が、投機者を利することになっているのである」(岩p.45/国p.35)。

ケストナーの叙述はさらに、カルテルによる人為的な価格引き上げが、素材部門や生産財生産部門から始まって、反製品や完成品を造る部門にまで各題しているさまを追跡して、決定的な認識にまで達したことにレーニンは注目します。「原料(半製品ではなく)をつくる工業は、カルテルの形成のおかげで、半製品をそれ以上に加工する工業を犠牲にして、高利潤という形で利益をひきだすだけでなく、この加工工業にたいして、自由競争のもとではなかった一定の支配関係に立つにいたったのである」。引用にあたって強調(訳文では傍点)を施したこの「支配関係」という認識こそ、『帝国主義論』のレーニンの基礎的なキーワードにほかなりません。「支配関係およびそれと関連する強制関係――これこそ、『資本主義の発展における最新の局面』にとって典型的なことであり、これこそ、万能の経済的独占体の形成から不可避的に生じなければならなかったことであり、実際にも生じたことである」(岩p.46/国p.36)からであり、また、大方の「ブルジョア経済学者」や「カウツキーを先頭とする日和見主義の現代の擁護者たち」が、それから目を逸らしたがる「事態の本質を示すもの」にほかならないからでございます。

この「支配関係およびそれと関連する強制関係」の上に立つ「独占者」たちは、競争者たちを排除すべくさまざまな「奸計」を弄します。虚偽の情報を流し、そのために新聞を使い、アウトサイダーの施設をわずかな「弁償金」で買い取り、あるいは「競争相手にたいするダイナマイトの『使用』というアメリカ式」のあからさまな暴力的手段までも。ここにケストナーを援用してレーニンが描き出した「独占者」たちの「抑圧」や「専横」(岩p.44/国p.34)、「支配と強制」、「投機」と「暴力」のふるまいが、「独占禁止法」の“整備”された後代の社会にあっても衰えるどころかいっそう広がり深まっていったこと、「列島改造」の大規模土地投機から「バブル経済」に株価の操作、あるいは大は白昼堂々の大統領暗殺から小は暴力団を使っての脅迫や殺しにいたるまで、わたしたちが見て知ってきたところでございます。ここでも「土地投機」は後の章で扱われるでしょう。

当然にも一握りの独占者たちのこうした振舞いは、ケストナーのような良心的な「ブルジョア経済学者」はじめ社会の各層に批判と憤激を呼び起こさざるをえません。では、そうした批判や憤激がそれ自体として「戦争」と「帝国主義」に対する闘いを支える有効な力となるでしょうか。「自由な」「平和的な」「公正な」競争への復帰を夢見るような「小市民的=反動的な批判」(岩p.45/国p.35)に対してはきっぱりと自らの立場を区別することを、レーニンはここで予告しております。具体的な展開は第9章の主題となりますが、さまざまな立場からの「反資本主義」の意識がいっそう広範に立ち現れている現代世界の現実を前に、レーニン的原則主義がどのような意義と教訓をもつのか/もたないのか、ひとつの関心軸に据えたところで第3段切りの読解、しめくくりといたしましょう。


ご連絡とお願い 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月10日(日)22時43分49秒

カメ報告の第1章もとりあえずヤマを越したところで、わたし明日から1週間お休みをいただきます。第4段切りにつきましては、18日(月)ないしそれ以後にUPの予定でおります。鬼のいぬ間のなんとやらではございませんが、これまでのところにつきましてコメント、ご意見・ご感想などございましたら、ぜひお書き込みくださいませ。

第2、4章ご担当をお願いする予定でおりました noiz さんと蘇丹・加里耶夫さん、お二人ともそれぞれご多忙のご様子で、今日の段階でどちらがどちらとも決めかねます。さりとて報告準備にはそれなりの時間も必要であること、先にTAMO2さんからもご示唆あったとおりで、お盆明けに決めるのではいかにも遅いと思われます。そこで、第2章につきましては不肖わたしが担当させていただくこととし、蘇丹・加里耶夫さんには第4章を、そして noiz さんには第6章以後のどこかを、お願いできれば幸いに存じます。

通告めいた申し様で恐縮ですけど、なにぶんよろしくお願いいたします。m(__)m

では、しばしのあいだ失礼いたします。
どちらさまもご健康にて良い夏をお過ごしくださいますよう。


夏の悪夢:新型ウィルスと米加大停電 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月17日(日)19時42分17秒

お盆休みはいかがおすごしでしたか?>皆さま
太平洋側は長雨の冷夏、地元の盆踊りは寂しく、わたしも予定していたことの半分も片付けられずに終りました(^^;

さて、そのあいだにもビッグ・ニュースが世界を駆け巡りました。MS社Winをターゲットとする新手のウィルスの登場、アメリカ・カナダの“国境を超える”大停電――いずれも「独占」問題の現在を照らし出す事件に思われます。“現代の状況と絡めるべき”(TAMO2 さん)、“レーニン帝論が現代資本主義分析に未だに有効性を持ち得るのかどうか”(noizさん)とのご関心も表明されており、この事件の側から第1章の「独占」概念を少しふりかえってみたく思います。

新手ウィルス「MSブラスタ」の実際の影響は週明けを待たないとわからないようですが、波及力が地球規模のものであること、各国政府や金融機関など各方面の緊急対応ぶりが示しております。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030817-00000001-vgb-sci

ついこのあいだXPに重大な「不具合」があるとパッチを配布したばかりのMS社ですけど、今日の「情報化」は(レーニン時代とは質のちがう)新たな「集中」化の動因を生んでいるというべきでございましょう。OSといういわば「社会的」なものとその供給主体の「私的」性格との――あるいは「公共性」と「私的独占」との――矛盾の新たな相を看て取れるのではないでしょうか。これは、MS社の企業体質もさることながら、現代資本制における「情報化」の意味(高度な位階性とその脆弱性)に関わる点かと思います。逆に、「私的独占」に替わって「社会性=公共性」を担う規範原理の技術的可能性を「情報化」それ自身のなかに見出せるとしたら、それは人類史にとっての「情報化」の意義ということになりましょう。そこには、「国家」や「私有財産」というものの意味を根っ子から照らし返す契機が孕まれているのかもわかりません。

大停電のほうは、直接の波及こそ特定地域に限られておりますものの、その意味するところはより切迫したものと感じました。「MSブラスタ」問題とのちがいは、これが非「独占」化傾向を背景に起こったことでしょう。事件直後の新聞は、「米国では電力自由化の結果、複数の発電会社が一つの送電会社の送電網を共同利用するようになったため、一つの発電会社が送電線を独占していたときに比べ、制御システムが複雑になった……その結果、本来なら遮断されるべき事故の連鎖が避けられなくなった」(日経15日夕刊)との見方を伝えております。「制御システム」のほうは「集中」機能の問題ですけど、「自由化」は逆の「分散」ですから、これは別に考えねばなりません。

/続


夏の悪夢(承前):独占・自由化・投機 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月17日(日)19時43分33秒

アメリカの電力自由化は、「送電会社を独立させることで、取引関係や地域に関係なく発電会社が参入しやすいため価格競争が生まれるとの判断」(前同)から進められてきました。その最初の大規模な事件が一昨年カリフォルニア州で起きた大停電で、それを契機にエンロン社の株価操作と巨額の粉飾決算が明らかになって破綻に追い込まれたこと、未だご記憶に新しいところと存じます。電力会社は、自由化・価格競争による収益圧迫に加え、エンロン事件の影響で格付が下がり借入金利が上がったため設備投資を思うようにできず、その結果設備の老朽化が進んだとか(同)。ハイテク発電設備が老朽化したとは、事態がもっと前から進んでいたことを示しておりましょう。

ところが、一夜明けた16日朝刊の日経社説は「自由化」にも「エンロン」にも触れることなく、もっぱら「系統管理」の技術問題の指摘に終始しておりました。担当論説委員の見識が低いのか、それともことの本質から読者の眼を逸らそうとする誘導なのでしょうか。エンロン事件は、エンロン一社の不正経理だけではなく、自由化−価格競争で電力という“商品”に先物相場が立つ「デリバティブ」化現象の広がりを暴露しました。すでに電力だけでなくエネルギー全般が「金融商品化」しており、今回の大停電はそうした状況下に置いて考えるべき事件かと思います。そういえば、今度の停電発生後いち早く「テロではない」とアナウンスした現ニューヨーク市長の名は“ブルームバーグ”――あら、米・英・日にネットワークを広げる国際金融情報会社と同名ではないかしら?!

  http://www.bloomberg.co.jp/products/products.html

エンロン破綻はブッシュ政権の汚職体質をもあぶりだし、「9.11」がなかったら政権が吹き飛んだかもしれぬほどの事件だったはずですが、それはともかく、電力自由化→シカゴ停電→エンロン事件→今回の大停電という展開は、「自由化」が「金融化」であり「投機化」である現実を浮き上がらせているように思います。アメリカ同様日本の大企業でも分社化や会社分割などの企業組織再編が進んでおりますが、こうした非「独占」化・分散化の他極には、新たな管理と制御のヒエラルキーが生まれているはず。ただそれが『帝国主義論』の指摘する「集積」のように可視的なものでなくなっていること、しばしば複数の国にまたがっていること、そのシステムを「情報化」が支えているということではないでしょうか。そうした転換は社会全体全体の不安定度を高めておりますが、同時にその不安定性そのものにビジネス・チャンスを見出す資本の動きを感じさせます。ひところ華やかに喧伝された「ニュー・エコノミー」の内実はそうしたものであったと思いますし、その寵児であったエンロン、それに続いたワールド・コムの大規模な破綻にもかかわらず、「ニュー・エコノミー」の投機神話は今も生き延びているように思われます。それは、こうした資本の運動論理が今なお変わっていないためでございましょう。

それが今日の「金融資本」の姿だとすれば、昨今流行の「分権化」とか「ネットワーク化」とかの(一見美しげな)議論も、注意深く見ておかないととんだところで足をすくわれかねません。「小市民的=反動的な〔帝国主義〕批判」(岩p.45/国p.35)から自らを厳しく区別したレーニンに、なお学ぶべきところ多くあろうかと思う次第でございます。

エネルギー業界紙でバイトしたはるか遠い夏を思い出す(^^)v/鬼薔薇


【第1章】11 第3段切り補足:カルテルとトラスト 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月18日(月)22時03分26秒

再開いたします。といっても今回は補足だけ。読み終えた第3段切りのなか、表題の基礎概念についての国民文庫版の訳註をご紹介しておきます。

|カルテルとトラスト――ともに資本家の独占的連合体であるが、トラストのほうが
|カルテルよりも組織的に強い。すなわち、カルテルのばあいは、それに加盟する個
|々の企業は商業上および生産上の独立性を保持したままで、生産物価格、販売市場、
|生産量その他について協定をむすび、独占的地位を確保しようとするのだが、トラ
|ストのばあいは、それの加盟企業は独立性を失って、トラストの単一の経営と管理
|に服することになる。トラストは1890年代にアメリカで生まれ、そこで大いに普及
|した。これにたいしてドイツではカルテルが独占体の支配的な形態であった(p.188)

トラストは、すでに晩年のエンゲルスの視野に入っておりました。『資本論』第1部第4版の編集にあたってエンゲルスは、新たに次の註を加えております。

|最近のイギリスやアメリカの「トラスト」はすでにこの目標に向かって進んでいる。
|というのは、それらは、一つの事業部門の少なくとも大経営の全部を、事実上独占
|権をもった一つの巨大な株式会社に合一しようとしているからである。
                (大月版第2分冊、p.817-8/原書ページ S.656)

この第4版が出たのは1890年ですから、上の国民文庫版訳者註が「1890年代にアメリカで生まれ」としているのは、ふたつの点で訂正が必要と思います。ひとつは、アメリカだけでなくイギリスにも生まれていたこと、それは「1890年代」に入る前のことであったこと。訳註もうかうか鵜呑みにはできぬ一例でしょうか。

現代では次のような認識が標準的のようです。

|トラストは、1870年代末から四半世紀にわたり、アメリカにおける独占形成の主要
|形態として、もっとも広範かつ典型的にあらわれた。トラストはもともと受託者方
|式のトラストとして登場した。これは本来のトラストといわれ、その代表的事例と
|しては、82年のスタンダード石油トラスト協定があげられる。……この形態でのト
|ラストは、90年に成立したシャーマン反トラスト法の規制対象となり、以後これに
|かわり持株会社、あるいは合同による独占的結合が発展する。それらは当時、新式
|のトラストと呼ばれ、1897〜1904年の最盛期のトラスト運動を主導する。その間、
|トラストという用語はヨーロッパ諸国にも普及し、独占形態のひとつとしての一般
|的規定が定着した。        岩波『経済学辞典』〔第2版〕「トラスト」

この記事には、ロックフェラー、J.P.モルガンなど、今日も権勢を誇る「百万長者金融業者」(レーニン)や、テキストに出てきたUSスチールも登場して興味深く、上はそのほんのサワリでございます。問題は資本関係でしょうか。

「持株会社」といえば、日本ではつい数年前の商法改正で全面解禁されたばかりですね。ここ数年「○○ホールディング」とかの社名であちこちに姿を現しました。やっぱり日本は遅れている? さあ、どうなのでしょう(笑)。


レーニン 素人の読み方〔1〕 敬意と視線 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月18日(月)22時05分04秒

これは、読書会とは別建ての「読書ノート」。「対話」を旨とする報告やコメントと区別するため「書き言葉」にしてみた。ひとつしかない掲示板を使い分ける小さな工夫のつもりだけど、個人的な「ノート」という性格からもこのほうがいいのかもしれない。

取り上げるのは、元共産党員文学者・故中野重治の『レーニン 素人の読み方』。今度『帝国主義論』を読むにあたって、ぜひ参照したいと思った。「読み方」ということに少し意識を向けたいと考えたためだ。わたし、この著者を生前から漠然と尊敬していた。古武士のようなオールド・ボルシェビキの相貌を思い描いてきた。「党派性」とは別の次元で、若者中心だった新左翼にみられぬ練れた知性の持主と思われた。あるいは意識下にひそむファーザー・コンプレクスの現れかもしれないけれど(苦笑)。

出てすぐ買ったままろくに読まずにしまい込んでしまって、探し出すのもけっこう骨だった。奥付を見ると発行は 1973 年 12 月だから第1次石油危機勃発の直後、物価高騰に突然の用紙不足が重なって出版界が大揺れを始めた時にすべりこみで出たのだろう。四六版並製約 300 ページで 900 円という値付けもそんな事情を思わせる。「列島改造」と土地投機、ニクソン、田中角栄の訪中と対中国交回復、ドル兌換停止と変動相場制への移行、パレスチナ・ゲリラの耳目衝動と日本赤軍のアラブ行き、「よど号」ハイジャック、連合赤軍事件と殺人内ゲバの全面化、そしてOPEC「石油戦略」発動と狂乱インフレ、それに続く戦後初のマイナス成長と失業・倒産・社会不安、……「戦後」が丸ごとひっくりかえるような騒然たる世情に質素な装丁で送り出された本だった。手にとってみるとこの30年という時間が掌にじっと伝わって来る感じもする。売り払わずにおいてよかった、と思う。

それにしても、マルクス・レーニン主義党で中央委員の地位にあった古参党員がいまさら「素人」とはなにごと! 何をもって「素人」を自称するのかと最初のほうを覗けば、「文学として、また文学者として」読む、とある。革命政治家の著作を「文学」として読む? 枯れた巨匠の趣味仕事なのかとつい敬遠し、ごたぶんに漏れず激変していた生活環境のなかで放り出したのだった。それでも何度か引越しを繰り返しながら手許に残してきたのは、敬遠の「敬」のほうは変わらなかったためだろう。新左翼の無残な分解と陰惨な無限対立を目の当たりにして、戦前以来の共産主義運動へ視線を向けかけたこと、60年代急進派学生運動のなかでのレーニン読みに「理論」以前の問題を感じていたことも、働いていたと思う。

この本が出た後、新左翼評論家・長崎浩がなにかの雑誌に「レーニン 玄人の読み方」とかいう評論を書いていて、それにひどい反発を感じたのを覚えている。あてつけみたいなタイトルからして厭味で、新左翼エリート特有の“軽薄な傲慢さ”を嗅ぎとったのかもしれない。それより前だったと思うが、吉本隆明が竹内好を評して、毛沢東の「実践論」「矛盾論」など哲学書として読んだら噴飯ものだが、竹内にはあれが中国の民話のように読めるのだろう、自分にはとてもそのようには読むことができない、という趣旨のことを書いていた。それは、60年安保では激しく対立した竹内氏に対する思想家としての敬意だったはず。吉本・中野というと「転向論」が有名だが、吉本氏は文学者として中野重治にも敬意を抱いていたにちがいない。60 年東大ブントの長崎には、その類の敬意というものが感じられなかった。

『帝国主義論』は、知られるとおり亡命先のスイスで書かれた。いったい当時のレーニンはどんなふうに暮していたのか、衣食住や健康のこと、図書館通いから政治生活まで含めて、ペンを取っていた著者の気分や息遣いのようなものをなんとか感じ取れないものだろうか。「事実関係」なら評伝・伝記にあたればいいし、それはそれとして重要だろう。ソ連崩壊で公開された新資料を利用したものも出ている。だが書き手の気分や息遣いとなると、こちらの「読み方」、つまり感性や視点、視線の向け方が問われる。それは事実関係の「知識」とは別のもので、中野の本を参照したいわたしの動機は、むしろこちらにある。

あまりこんなことに気を回していると、テキスト解読の軌道を外れてあらぬ方へ彷徨って行きそうな予感もなくはないが、ま、それも一興というノリで、テキストと並行して読んでいこうと思う。お目障りの向きはどうぞスキップしてくださいますよう。もちろんコメントいただけたら嬉しく存じます――と、なぜかここだけいつもの鬼薔薇調(笑)。


>ご連絡とお願い 投稿者:蘇丹・加里耶夫  投稿日: 8月19日(火)19時43分29秒

しばらく空けてまして連絡できず、申し訳ありませんでした。

では、第4章を担当させていただきます。



ご連絡どうも(^^)>蘇丹・加里耶夫さま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月19日(火)22時22分41秒

では第4章、よろしくどうぞ。
こんなペースですと10〜11月頃になるかもわかりませんけど(笑)。

# noiz さん、どうなさっているのかしら? またも生傷?(独言)


【第1章】12 第4段切り:集積・独占と恐慌 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月19日(火)22時24分32秒

先に進みましょう。
アンチョコ本に逆らってわたしが別にした第4段切り、恐慌を扱っている短い部分です。

競争が独占に転化した結果、古典的資本制の「無政府性」は「計画性」にとってかわられる、それをもって「社会主義」への意図せざる「接近」とレーニンが言ったこと、またその同じ事象から「組織された資本主義」という認識も生まれたこと、先にみました。後者のような認識に立てば、「カルテルによって恐慌を除去する」(岩p.47/国p.37)ことができるという発想に至ることもあながち不自然ではないかもわかりませんね。けれどもレーニンはそうした発想を、「なにがなんでも資本主義を美化しようとするブルジョア経済学者のおとぎ話」だと退け、ふたつの論拠を示します。

第1に、「*いくつかの*産業部門で形成されている独占は、総体としての*全*資本主義的生産に固有の混沌状態を強め激化させている」ためです。具体的には、「農業と工業との発展の不釣合い」を激化させることにより、また、カルテル化が進んだ重工業の特権的地位がその他の〔カルテル化の進んでいない〕産業部門での「計画性のますますはなはだしい欠如」に導くことによって。後者については(これからもたびたび登場する)ヤイデルスの著『ドイツの大銀行の工業にたいする関係、とくに鉄鋼業について』を典拠に示したあと、“ずうずうしい資本主義擁護者”(リーフマン)でさえ、資本の増大と技術革新の急速な進展が「根本的な経済変動」をまねき「激しい投機が発展する」との暗い将来を予測せざるを得ずにいることを示します。

ここで、資本主義的「独占」とはなにより特定の産業部門で成り立つもので、決して国民経済全体を「計画化」するわけではないという観点がキーらしいこと、注目しておきたく思います(この点、いつぞや「経哲」板で高望みさんからご指摘いただきました)。

それだけではありません。第2に、ほかならぬ恐慌が、上のような作用をもつ「集積と独占への傾向を大いに強める」(岩p.48/国p.38)のだから、矛盾はスパイラル的に激化せざるをえない――と、いわばダメ押し的に論理をたたみかけていくところはいかにもレーニンっぽい議論の運びですが、ここでまたヤイデルス書に拠って、1900年恐慌の果たした役割を示し、この段切りを終えます。

引用:「1900年の恐慌は、1873年の恐慌とは比べものにならないほどいちじるしく産業の集積をもたらした。1873年の恐慌もすぐれた企業のある程度の淘汰をおこないはしたが、この淘汰も、当時の技術水準のもとでは、恐慌から首尾よく脱出できた諸企業の独占をもたらすことはできなかった。だがまさしくそういう永続的な独占を、今日の製鉄業と電気産業の巨大企業は、それらの非常に複雑な技術と、大いにすすんだ組織と、その資本力とのおけげで、いちじるしくもっており、またそれほどではないが、機械製作業や金属工業のある部門や、運輸業その他の企業も、もっている」。

ここに描かれた「最近の独占体の歴史で転換点の役割を演じた」1900年恐慌の意義は、先に第2段切り最後でコンパクトにまとめた次の点を、実証的に確認するものでしょう。

「(2) 1873年の恐慌以後のカルテルの広範な発展の時期。しかしカルテルはまだ例外にすぎない。それはまだ強固なものではない。それはまだ経過的な現象である。
(3) 19世紀末の活況と1900-1903年の恐慌。カルテルは全経済生活の基礎となる。資本主義は帝国主義に転化した」(岩p.37/国p.28)。

付け加えるべきこともないかと思います。


【第1章】13 第4段切り:おまけ 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月20日(水)22時35分19秒

●恐慌について
ここの簡単な叙述が、恐慌理論と呼べる内容でないことは明らかです。前にも触れましたように、恐慌そのものを理論的に扱うには、金融と信用、そして国際市場が射程に入らなければなりませんが、それはこの第1章の範囲を越えたものだから、というのが一応の説明にはなるでしょう。ではそれらを射程に入れた後段では、恐慌を理論的に扱っているだろうか、いいかえればこの『帝国主義論』は、恐慌論について何らか理論的な寄与をなした作品なのか、これも関心軸のひとつに繰り込んでおくことといたしましょう。

先に第3段切りでレーニンは、ケストナーの引用を「普通の人間の言葉に翻訳すれば」と言い換えておりましたね。「商品生産が従来どおり『支配』しており、それは経済全体の基礎と考えられているとはいえ、実際にはそれはそこなわれ、主要な利潤は金融的術策の「天才」の手に帰するような状態まで、資本主義の発展は進んだ」(岩p.45/国p.35)と。“普通の人間の言葉”とは何でしょう?

わたしのアンチョコ本は、「この一文の中に、平均利潤の法則が実際にはすでに損なわれていて、独占的高利潤の法則が支配的になっているという洞察が含まれている点を読み取るべきである」と注意しております。この「独占的高利潤」範疇をレーニンはヒルファディングに負っていたはず(『金融資本論』第3篇第11章「利潤率の均等化における諸障碍とその克服」)、それならそうと注記しておいてくれたらよろしいのに(苦笑)。

それと小さなこと。本文で「恐慌」に割註がついていて、「あらゆる種類の恐慌のこと。経済恐慌がもっとも多いが、たんに経済恐慌にかぎらない」(岩p.49/国p.38)とあるのですけど、「経済恐慌でない恐慌」って何のことでしょうか?>高望みさま

●農業問題
独占の普及に伴う工業と農業の格差拡大が指摘されております。ここでは「指摘」だけですけど、農業問題は初期からのレーニンの重大な関心事項でした。後発資本主義国ロシアでは、工業化する都市のうしろに広大な農業地域が控えており、そこには「ミール」という独特の農村共同体が生命を保っておりました。この共同体に依拠して、資本主義を経緯せず社会主義へ至る道があるとする思想がナロードニキから社会革命党へ受け継がれて影響力をもっており、マルクス主義の資本主義観に立つレーニンにとって、そうしたロシア的特殊性の議論との対質はきわめて実践的な意味をもっていたためにほかなりません。代表的には「農業問題と『マルクス批判家』」。1901年と1906年に分散的に書かれたものですが、国民文庫では一冊になっておりました。『帝国主義論』を書く頃にも、アメリカ農業の新動向を追った「農業における資本主義の発展法則について」という論稿があるそうで、関心は持続していたと察せられます。

もっとも、『資本論』教条主義?みたいなレーニン理論がロシア農業の現実に対する政策形成にどこまで有効であったか、それは政権奪取後ただちに直面する重大課題となりましょう。「農業綱領」問題、「労農独裁」戦略、左翼エスエルとの連立政権とその破綻、新生ソビエト政権の国民的ガバナンスといった一連の問題、さらには後の「集団化」政策のもとにおける農業生産の衰退と大規模な飢餓にだって、無関係とは言えないかもわかりません。

宇野学派に属する渡辺寛さんの『レーニンの農業理論』という本があったと思いますが、わたし未見。ただ、講座派・労農派を問わず日本のマルクス経済学が関心を集中し、現状分析と政策形成に力を発揮した数少ない分野のひとつが農業問題であったこと、留意に値するかと思います。一時期「農林省赤色官僚」が話題だったそうで、やはり宇野学派から出た服部信司さん(かつてのブントマル戦派のリーダー)も、後年たしか農政審議会の委員を務めておられたかと思います。

カウツキー著『農業問題』もかつて岩波文庫に入っていたと思うのですが、今は絶版でしょうか。「背教者」どころか神様みたいにレーニンが尊敬していた頃のカウツキーですね(笑)。


「経済恐慌でない恐慌」 投稿者:高望み  投稿日: 8月22日(金)06時08分04秒

>「経済恐慌でない恐慌」って何のことでしょうか?>高望みさま

 この間、銀行業務についての非常に地味な研究中で、力作レジメをしっかりと拝読させて頂いているわけではないのですが、上の箇所に気づきましたので。
 「恐慌」という訳語に対応するのは、パニックpanic、クライシスcrisis、ディプレッションdepressionなどの単語でしょうが、とくにクライシスの場合が多いのではないでしょうか。かりに当該箇所がクライシスだとすれば、「経済危機でない危機」ということになりますね。

>一時期「農林省赤色官僚」が話題だったそうで、やはり宇野学派から出た服部信司さん(かつてのブントマル戦派のリーダー)も、後年たしか農政審議会の委員を務めておられたかと思います。

 そうなのですか。陶山健一氏が第一次ブントの同盟員として農林官僚になりたての頃に60年安保に際会したというような話しは何かで読んだ記憶はありました。服部氏は、岩田弘に幻滅したあと大内力門下に転向するという、宇野学派のコップのなかでのコペルニクス的転回をして、農業経済学者になられたのですね。80年代末のコメ自由化問題の頃に「ニュース23」に出ていたのをみたことはあります。(じつは服部氏は大学院入学が遅かったため、私が入院するのと彼が退院するのが、ちょうど入れ替わりだったというので大変驚きました。)

 それにしても、「農林省赤色官僚」が村山政権時代に農協保護のために蒔いた種が「住専問題」(の一側面)として噴出してしまったわけですね。これを、工業化と脱工業化(この場合は金融化)以前の戦前労農主義的な左翼性の「有終の美」というべきだったのでしょうか。

 中野重治は、非常に言葉を切りつめているというのか、話しのみえにくいという印象が強くて、「村の家」などの短編集一冊ぐらいで挫折しています。長崎浩氏は、どうも鬼薔薇さんにとって近くて遠い存在のでしょうか、というようにも映ってしまいましたが、この長崎さんの本も、じぶんは中野重治とは正反対の意味でなんですが、いまひとつ読みにくく、『叛乱論』一冊を通読したほかは、なかなか通読できていません。あきらかに吉本隆明にたいしてもわざわざ避けて書いている、といった感じも、中野重治にたいする“軽薄な傲慢さ”とおっしゃられた肌触りも、共通しているものかどうか、どちらもあまり読んでいないためよくわかりません。


【第1章】14 第5段切り:結語 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月22日(金)23時50分35秒

内容はたった一行、「独占――これこそ『資本主義の発達における最新の局面』の最後の言葉である」(岩p.50/国p.39)。第1章全体の結語でございます。

わざわざ独立の段切りというほどのこともないかと思うのですが、といって前の段切りにはやはり納まりにくいですね。
「しかし現代の独占体の実際の力と意義についてのわれわれの観念は、もし銀行の役割を考慮に入れなければ、きわめて不十分な、不完全な、ちっぽけなものになる」として、続く第2章「銀行とその新しい役割」へと話は続くこととなります。

振り返りますと、この第1章を通じて「銀行」の姿はチラチラしておりました。第1段切りはじめのほうに、すでにこんな叙述がみえたこと、ご記憶でしょうか?

「貨幣資本と銀行とは、ひとにぎりの巨大企業のこの優越をいっそう圧倒的なものにする。しかもまったく文字どおりに圧倒的にする。すなわち、数百万の中小『経営主』とさらに一部の『大経営主』が、実際には、数百の百万長者金融業者に完全に隷属しているのである」(岩p.29/国p.21)。

第2章がこの点の解明の場となるのか、あるいは第3章で総括的全面展開となるのか、そんなことも考えながら読み進めるといたしましょう。


【第1章】15 まとめにかえて 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月22日(金)23時54分29秒

さて、1日からゆるゆると読み進めてまいりました第1章、とりあえず終りました。
自由競争のなかから生まれながらそれと対立する「独占」、その独占が20世紀初めに支配的になった段階の資本主義が「帝国主義」だというこの章の基本命題は、以下全編の基礎と思われます。続く各章では、これがより具体的な水準で展開されていくことになるのでしょう。

わたしのアンチョコ本は第1章のまとめに、この章の理論的性格を取り上げ、『資本論』との理論的つながりをどう捉えるかという問題を議論してございます。なるほどたしかに興味深い点かとは思うのですが、考えてみますとそれは、第1章というより『帝国主義論』全体に関わることと思いますし、ともかく終わりまで読み通した上であらためてテーマに取り上げてはいかがと思います。

そんなことも含め、ここで第1章全体をふりかえっての問題点、ご意見・ご感想・ご質問など、皆さまお一言づつでもぜひどうぞ。専門的な質問には高望みさんからお答えいただけると期待しておりますが、高望みさんからはまた、こんな読み方でいいのかどうか、踏み込んだコメントもいただけたら、報告者としてまことにありがたく、どうぞよろしくお願いいたします。

それらにひとしきり時間をとって、第2章は、そうね、9月からといたしましょうか。


RE:「経済恐慌でない恐慌」>高望みさま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月23日(土)01時31分33秒

お忙しいなかコメントありがとうございました。

>「恐慌」という訳語に対応するのは、パニックpanic、クライシスcrisis、ディプレッションdepressionなどの単語でしょうが、とくにクライシスの場合が多いのではないでしょうか。かりに当該箇所がクライシスだとすれば、「経済危機でない危機」ということになりますね。

パニックというと日本語化していて、突発的な混乱といった意味合いにとれますし、ディプレッションは「景気後退」か「不況」という感じで、「恐慌」となるとやはり「クライシス」でしょうか。レーニン死後のことかと思いますが、以前は「全般的危機」というマルクス主義語(笑)がございまして、これはドイツ語の「アルゲマイネ・クリーゼ」の訳だったようですから、クライシス=クリーゼは「危機」でありまた「恐慌」なのでしょう。

でも、このふたつ、日本語空間ではけっしてコンパティブルではございません。なるほど「危機」には「経済的危機」もあれば、「政治危機」や「社会危機」など経済外的危機もございますが、「恐慌」となればこれはやはり一義的に経済範疇ではないでしょうか。「恐慌論」というジャンルもそのような理解を前提に成り立っていると存じます。この文言の出てくる箇所(岩p.48/国p.38)の「恐慌」をすべて「危機」に置換えてしまうと、妙なものになってしまいます。「1900年の恐慌」とかは、どうしても「恐慌」でなくては納まりがよろしくないし、「カルテルによって恐慌を除去する」なども同じこと。という次第で「経済恐慌でない恐慌」というのは????なわけでございます。

>服部氏は、岩田弘に幻滅したあと大内力門下に転向するという、宇野学派のコップのなかでのコペルニクス的転回をして、農業経済学者になられたのですね。

学派にも学問にも縁遠いわたしなどには「コップの中」のことはわかりませんけど、服部さんは一時期ハイエクの研究などされていたとか、風のウワサに聞いたこともございます。すると「コップ」は割れてしまったのでしょうか(笑)。

>長崎浩氏は、どうも鬼薔薇さんにとって近くて遠い存在のでしょうか、

あらま(苦笑)。長崎さんというと、ブント再建過程で出た復刊『共産主義』に載った論文は興味深く読んだ憶えがございます。でもご本人は第2次ブントにご参加でなかったし、近くも遠くもない別世界の方でした。「反乱論」は雑誌に載った時に読みましたけど、わたしに言わせればあれは一種の文学ね(笑)。「現代帝国主義論」もない「階級分析」もない「権力動向分析」もない、そういうのは当時のわたし「政治論文」と思いませんでした。

まあ、中野重治さんだって、「別世界の方」にはちがいないのですけど(苦笑)。

「全共闘世代」の活動家たちは、そんな「理論」などより「文学」の香りがする「思想」が好みだったのですが、わたし、「理論」に媒介されない「思想」が政治的含みをもって語られる風景には、ひどく危ういものを感じておりました。「方針」が主観化・主情化することへの歯止めがないと思われたためでございます。その後の動きはそんな感じを裏付けるものだったように思えます。

>この間、銀行業務についての非常に地味な研究中で、

次の第2章はその「銀行」がテーマ、なにぶんよろしくお願いいたします。m(__)m


〔ご参考〕第3章の段切りについて>TAMO2さま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月24日(日)11時22分34秒

第3章ご報告のご準備のご参考となるかわかりませんが、わたしのアンチョコ本での段切りをご紹介しておきますね。

●段切り
第1段切り:冒頭〜岩p.78/国p.61
      ヒルファディングへの批判とレーニン自身の「金融資本」の定義
第2段切り:〜岩p.98/国p.77
      金融資本として把握される資本主義的独占の支配が不可避的に金融寡頭制
      の支配となることの、主要景気の分析を通じての解明
第3段切り:〜末尾
      金融寡頭制の支配とは、貨幣資本の所有者とその実際の運用者との分離と
      いう資本主義一般に固有の関係が巨大な規模に達している資本主義の最高
      段階であると規定し、国内的には金利生活者と金融寡頭制の支配、国際的
      には金融上の力を持つ少数の国が他のすべての国に傑出することを意味す
      るとして金融資本と金融寡頭制の支配を総括。その上に立って世界のもっ
      とも富裕な4ヵ国の全世界に対する債権者的地位、その他諸国の債務者的
      地位を明らかにし、こうした金融資本支配の国際網の創出に際して資本輸
      出のもつ特に重要な役割を指摘して第4章へ橋渡し。

●問題点
 第1段切りの金融資本の定義は、第1章、2章の全理論展開の総括か、それとも、第2章の論理展開を直接受けて金融資本の正しい定義づけを与えた上で、この金融資本の実際の力と意義を金融寡頭制という具体的な姿において捉えていくのか。
※前者は報告者(庄司)、後者はそれに対する教授(原田)のコメント。

あらあら以上でございます。
これにこだわる必要は毛頭なく、お考えにしたがって読み進めていただきますよう。


ありがとうございます 投稿者:TAMO2  投稿日: 8月24日(日)21時45分58秒

以下の文章、参考致します。

さて、中野重治の「レーニン素人の読み方」が、大変懐かしく思い出されました。長周新聞で
連載されていたのですが、レーニンの心の襞にまで分け入って記述するさま、圧巻でした。ま
た読みたく思っているのですが、地方の図書館では全集を読むことも出来ず、今の著作権では
2030年頃までネットで読むことも適いませんね。

小生が一番印象に残っているのは、プレハーノフとの決別のシーンです。


では、日本の課題と絡めてなど 投稿者:TAMO2  投稿日: 8月24日(日)22時16分40秒

第一章の結語からすれば、資本の運動は独占に向かう、ということになるかと思います。

日本的な各種護送船団方式、系列の存在。これも独占のあらわれなんでしょうか。護送船団
方式は、国家資本主義の一種と言えるかも知れないし、後者はコングロマリットの形成であり、
まさに生殺与奪権を大企業が握る、という点で、独占のあらわれでありましょう。そこに、
レーニン主義の肝である「帝国主義論」が長く日本で読まれてきた理由であると思います。

そうなると、二つばかり頭に疑問が浮かんで参りました。

まず、日本企業の系列の破壊は各産業で進んでおります。そして、その破壊は世界規模での
企業の活動を余儀なくしております。特に、中小企業の中国などへの進出は激しいものがあり
ます。これは、日本型独占を破壊するものでしょうか。

次に、イタリアのような、どちらかと言うと中小企業の連携でものづくりをしていた国では、
レーニン帝国主義論はどのように読まれていたのか、という疑問です。(本筋に関係ないです
が、気になります。)


無断引用のお詫び 投稿者:すえいどん  投稿日: 8月25日(月)20時48分27秒

帝国主義論、日々ご研鑚のご様子、見学させて頂いております。
ところで、鬼薔薇さんが、前に社会批評社フォーラムに書かれた革マル派論を内ゲバ板に無断で転載させていただきました。内ゲバ板に乗ることは本意ではないであろうとは思いましたが、貴重な先行業績であり、議論深化のために使わせていただきたいということで、ご海容のほどお願いいたします。


『素人の読み方』のこと>TAMO2さま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月26日(火)00時14分07秒

コメントありがとうございます。

プレハーノフとの訣別のシーンというのは、本の最初のパート「レーニンと私小説」に出てくるものですね。書かれたのは1955年と思われますが、『長周新聞』の連載とはいつの頃のことだったでしょうか?

単行本はとうに絶版ですけど、古書ネットには載っているようですよ。
全集は恐怖のお値段(^^;


独占破壊?>TAMO2さま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月26日(火)00時16分02秒

>まず、日本企業の系列の破壊は各産業で進んでおります。そして、その破壊は世界規模での企業の活動を余儀なくしております。特に、中小企業の中国などへの進出は激しいものがあります。これは、日本型独占を破壊するものでしょうか。

昨今の企業組織再編と資本輸出の現在と、ふたつの問題が語られているように思いました。後者は第4章のテーマですのでそこを勉強してからにしてはと思いますが、前者の問題はこの段階でもある程度は議論できそうですね。

新聞報道からだけの判断にすぎませんけど、昨今の企業組織再編は、およそ3つの相で進んでいるように見えます。ひとつは分社化にみられる「分散」、これはたしかに「集中」と逆の現象ですね。第2はご指摘の「系列」の再編、これまた「分散」的なものとみえること、ご指摘のとおりかと思います。こうした動きの他方、集中もまた進んでおります。かつては10数行を数えた都市銀行が今はわずかに5行、協調型寡占の典型と思われて来た鉄鋼産業も、日本鋼管と川崎製鉄の合併(JFE)、新日鉄と住友金属の部門別経営統合などで事実上の2強体制、半導体も主要メーカーが当該部門を分離した上で統合を進めていると伝えられます。

「系列」の再編も複雑で、自動車販売などはむしろ系列を強める傾向にあるようですね。他方、部品関係では脱系列と並行して集中が進んでいる様子。自動車の電装部品とかテレビの主要部品などは供給先を多角化する(脱系列)と同時に、組立メーカーの「共通部品化」もあって部品供給側では集約・集中が進んでいるのではないでしょうか。今の冷蔵庫やテレビなどメーカー名こそいろいろですけど、ちがうのはガワだけで中身は2,3社しかないとも聞き及びます。

ただ、『帝国主義論』第1章の叙述だけでは説明できないのは、こうした再編がいずれも国際的な要因で押し進められてきたことにございましょう。その意味で、第1章(〜3章)の叙述の位相を「国内的」とみる解釈も成り立つかもわかりません(わたしの理解はちょっとちがうのですけど)。

分散型再編の典型は、国際競争と関係のない民鉄のバスでしょうか。けれどもそれは「自由競争」への逆行ではなく「強制された競争」のように思われます。たぶんそれは、自治体財政の窮迫と絡んでいることでしょう。あと、国家独占電電公社の民営化、そしてNTTの分割と回線料金競争がございますね。交通、電電、電力などいわゆる「公益産業」の再編問題は広い意味で「国家独占」の問題だと捉えると、ここには「政府」が介在するわけで、これまた第1章の論理だけではうまく扱えぬものを感じます。

イタリアの事情は、わたし残念ながらまったく不案内で(^^;
あの国が現代史で「列強」の一つだったなんて信じられない感じもございますけど(笑)。


ごていねいにどうも>すえいどんさま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月26日(火)00時17分03秒

あちらでのご活躍、拝見しております。

古いもので恐縮ですけど、使っていただければ嬉しく存じます。
でも、再掲していただいたのを読みますとなんか照れ臭いですね。あんなものでも、当時はけっこう熱を込めて書いたのだなと懐かしくもあったり(苦笑)。

引き続きのご健闘、お祈りしております。


マジ焦った!! 投稿者:ヨシモト  投稿日: 8月27日(水)00時29分14秒

アンチ出会い系の俺がうかつにもはまっちまったぁ!
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同感です。 投稿者:高望み  投稿日: 8月27日(水)19時49分39秒

>服部さんは一時期ハイエクの研究などされていたとか、風のウワサに聞いたこともございます。すると「コップ」は割れてしまったのでしょうか(笑)。

 そんな噂もあったのですか! しかし、割れるものは割れたらよいと思いますね。

>長崎さんというと、ブント再建過程で出た復刊『共産主義』に載った論文は興味深く読んだ憶えがございます。でもご本人は第2次ブントにご参加でなかったし、近くも遠くもない別世界の方でした。「反乱論」は雑誌に載った時に読みましたけど、わたしに言わせればあれは一種の文学ね(笑)。「現代帝国主義論」もない「階級分析」もない「権力動向分析」もない、そういうのは当時のわたし「政治論文」と思いませんでした。
「全共闘世代」の活動家たちは、そんな「理論」などより「文学」の香りがする「思想」が好みだったのですが、わたし、「理論」に媒介されない「思想」が政治的含みをもって語られる風景には、ひどく危ういものを感じておりました。「方針」が主観化・主情化することへの歯止めがないと思われたためでございます。その後の動きはそんな感じを裏付けるものだったように思えます。

 「現代帝国主義論」もない「階級分析」もない「権力動向分析」もない、そうですそうです! それが私もなんだか読んでてのってこないな〜という理由でした。でも、こういう感覚は、逆に、全共闘の団塊世代以下の年代には、大時代的な「大情勢分析」主義とかいわれて、肩身が狭いのです。
 アマノジャクな私は、それゆえに、中大ブントは経済学が弱いからなあ、と勝手に中大ブントと直接関係もないのに、経済学の研究をすることにしたのでした(笑

 趣味者的な情報によると、長崎さんは、第二次ブントには所属していなかったけど、情況派→遠方から派には中心的なイデオローグとして参加(?)していたのでは。廣松渉さんも、同じような位置関係で、情況派→遊撃派(?)に参加したのかどうかわかりませんが、なんらか関係をもたれていたようですが、土台、情況派って、趣味者的な情報量が極端に少ないですね。そういう意味で、たいへん貴重な資料を入手されているので、かなり近いところにおられたのかなあなどと、つい思ってしまった次第です。


小野田・長崎論争 投稿者:すえいどん  投稿日: 8月28日(木)11時07分05秒

帝国主義と無縁の書き込みで恐縮ですが、長崎さんが小野田譲二の「体験的政治論」に激怒?して書いた反論(「遠方から」掲載)は面白かったです。「革通派が阿呆だからブントがつぶれてしまった」わけではないということのようですが、理屈がなくて、きわめてわかりやすかった記憶です。


>小野田・長崎論争 投稿者:高望み  投稿日: 8月28日(木)12時42分12秒

 すえいどんさん
 長崎氏の小野田氏への反論は、革共同とか小野田の感性は女性的だとか私小説的だとかいうものでしたっけ? 比較的近年、単行本に収録されているのを読みましたが、安保ブント解体過程での日記的なメモを採録していた以外にはあまり印象に残ってないです。

 たしか、小野田氏が、島成郎は最高の政治指導者で、革通派はアホだったといった論旨を展開していたのに対して、島成郎の指導力はそんなたいそうなものじゃなかった、というようなことも言っていたような気もしますね。

 ところが、それから約二十年、島さんの告別式では長崎さんが司会を買って出、終盤には涙ぐむシーンすらありました。他方の小野田さんは、近著で、島成郎は最期まで日米安保条約の評価や、そもそも安保改定反対闘争が当時の保守政治の掌の上で踊らされただけかもしれない、といった事柄について正面切って論じずに終わったことに腹を立てています。なかなか政治指導者の評価というものは同期化しないものですね。


>小野田・長崎論争  投稿者:すえいどん  投稿日: 8月28日(木)19時05分26秒

それです。近時,蔵田さんは、革通派の往時を悔いて色々書かれていますが、服部・星野・長崎の三羽烏はいま、どうお考えなのでしょうか。ま、懺悔の値打ちもないか。


>高望みさま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月29日(金)00時32分37秒

>こういう感覚は、逆に、全共闘の団塊世代以下の年代には、大時代的な「大情勢分析」主義とかいわれて、肩身が狭いのです。/アマノジャクな私は、それゆえに、中大ブントは経済学が弱いからなあ、と勝手に中大ブントと直接関係もないのに、経済学の研究をすることにしたのでした(笑

去年の11月末、「社会批評社フォーラム」で、わたしこんなことを書いております。

|わたし当時の学生運動リーダーたちの「私情」というのが大キライでございました。
|カクメイだの、センリャクだの、ロセンだのと口角泡を飛ばすような「議論」のあげ
|く、結局は「オレとオマエは同期の桜」か「義理と人情」みたいな心情と仲間意識を
|「党派性」の代用品にして、その「行動主義」を裏付けていたように思うためでござ
|います。それは、私立・文科系・男性活動家に共通のパターンと感じられてなりませ
|んでした。「感性の解放」はけっこうでしょうけど、自分たちの「感性」にベタベタ
|していたのではどうしようもございません。
 
野次馬さんご紹介の、「感性からの解放」という(劇作家菅孝行さんの)言葉に触発されての発言ですが、“社会運動における社会科学の価値崩壊”というのがとても気になっておりました。第二次ブント近くにあって感じていたのは「理論」と「行動」が肉離れしているという違和感だったように思います。70年以後「マルクス葬送」とか「ポスト・モダン」とかの“思想のニューモード”は、上の「崩壊」の居直りみたいで、オーソドクスな理論を「大きな物語」とか冷笑してみせるその精神構造は、はすっかな感じでとてもイヤでした。、

|そんな学生ならではの「甘えの構造」に較べて、市巷にあった老共産党員の方々は古
|武士のような崩れるところのない姿勢を保っておいででした。学費を払えず休学して
|働いていた先で出遭ったオールド・ボルシェビキのお師匠さんたちに、マルクス・レ
|ーニン主義の手ほどきを受けることができたのは、今ふりかえって幸運だったと深く
|感謝しております。

そんな次第で、わたしに理論的素養といえるものが少しでもあるとしたら、新左翼系というよりむしろ旧共産党系、新左翼系運動経験をオールド共産党系「マルクス・レーニン主義」で理論づけたとでも申しましょうか(爆)。大学とは無縁に学んだのでひどく捻れ偏っているのは、これはもういかんともしがたいものがございます(苦笑)。でも、かなりお若い(のだろうと想像しております)高望みさんと、流行遅れの着古しをまとってるようなわたしと、妙に波長が重なるところが可笑しいですね(笑)。

ただ、日本のマルクス主義左翼って、「旧」も「新」も、「経済学」偏重の伝統がございましたね。著者屈辱の「奴隷の言葉」で書かれた『帝国主義論』の記述を、金科玉条の「原典」にまつり上げ「経済理論」に仕立て上げる、そういう読み方にわたし強い違和感を感じてまいりました。それは他面で「政治」議論をきわめて恣意的・情緒的なものにしていったのではないでしょうか。60年代中期のブント系諸派による「帝国主義論」論争と各派の「実践」にそんなものを強く感じておりました。独立社学同には、そんな「経済学至上主義」拒否の空気が(「アンチ東大」と重なって)息づいていたかもわかりません。けれど、他極の「政治」の恣意性は共通だったようにも思います。かくして話は上の第1の引用へと回帰する次第でございます。


「体験的政治論」感想>すえいどんさま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月29日(金)18時41分45秒

以前にお薦めいただいた上記小野田論文、先日ようやく掲載誌を知人経由で借用でき、ともかく通読いたしました。水銀のような異様な重さをたたえる長大論稿、軽々に論評するなどとてもかないませんが、印象的に申せば、自己と組織とを二枚重ねに刺し貫かずにはやまぬ内省の重さでしょうか。近著『革命的左翼という擬制』の理解に欠かせぬ文献であることは確かですね。

筆者が格闘したものは、対象というにはあまりにご本人の心身の奥深く根を広げていて、そこから身を引き剥すのはどこか「死」へいざなう深淵を孕んでいたにちがいなく、文中「自殺」のくだりもむべなるかなと感じます。これが「革共同的なるもの」のひとつの断面かと、しばし読むのを止めて息をつきました。「女性的」「私小説」などという言葉で評し得るものとはとても思えません。また、筆者現役時代の奥浩平の自死とも考え合わせ、わたしの「革マル主義」論評などひどく浅薄と恥じ入らずにおれません。

ここから普遍的な意味を取り出すとしたら、どのような視点、いかなる思考回路が要るのか、見当もつきかねるというのが、いつわらざる読後感でございます。

お薦めを受けた場でとも思いましたが、このたびのご発言とも絡みますので、こちらで書かせていただきました。


レーニン 素人の読み方〔2〕 歴史と日付・1 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月30日(土)00時01分49秒

それにしてもこの『素人の読み方』という本はいかにも奇妙なつくりに思える。奇妙というのが適当でなければ、読者にひどく不親切と言おうか、収録されたものの書かれた時期と背景がひどくあいまいなのだ。少しそこにこだわってみよう。

全体は、「はじめに」から「うしろ書き」まで計11篇、「はじめに」が序文で「うしろ書き」がいわゆる「あとがき」とすれば本来の中身は9篇ということになる。「うしろ書き」には、「ともかくこれを私はここで一冊にする」「私はこれを長いことかかって書いた」とあるから、いろいろなところに書いたものを後で集めてできた本であることは明らかだ。こういう場合、それぞれの初出を明記し、本にする段階で加筆や削除や訂正を加えたならそのことも記して、その本の成立事情を読者に伝えるのが普通だろう。ところがこの本にはまずそれがない、「はじめに」も「うしろ書き」も触れていないし、別記もされていない。それはやはり奇妙としかいいようがない。

ずさんなつくり方をしたとは思えない。そもそも中野重治という人が、ただの寄せ集めでそそくさと一冊“でっち上げる”ような書き手だったとは思えないし、版元の筑摩書房もそんな本づくりをする出版社ではない、――というだけではない。著者自身が本文中で、レーニンの党が会議の議事録を大切にしていたことを丹念に跡付けてその意義を述べ、それに比べて日本共産党の場合は、議事録や決定集に「日付がない」ことを批判しているのだ。

「日付なしには、共産主義者、非共産主義者ともども、どうして具体的にあれらの決定をしらべて納得することができるだろう。どうして、日付当時の客観的条件に照らしあわせて、これこれは正しくこれこれは誤っていたと判断することができるだろうか。つまりそれを真に読み、そこから真に学び、こうしてそれを実践的に今日発展させることができるだろうか」(p.17)。

抑えた表現ながら内容は実に手厳しい。これは「はじめに」の次に来る「レーニンと私小説」と題された章(というかパート。章番号はない)に出てくる文章だが、ではご自分のこの本はいったいなんですか?と、冥界の著者に文句のひとつも言いたくなる。

この本の成立事情の一端は、ちょうど中頃まで来てやっと明らかになる。といっても別のものからの引用なのだけど。

「『文献』または『文学』」という8番目のパート冒頭に、「『素人の読み方』という雑文を私が書いてから大分になる。あれを私は 1955 年 7 月から 60 年 3 月へかけて、途中で切れはあったが5年近くもかかって書いた」とあって、「それが私の『全集』第17巻にはいったときその巻末に書いた」というその文の引用でようやく初出が示される。とりあえず関係する部分だけ引き抜いてみる。

「これは日本訳『レーニン全集』の月報『研究のしおり』に載せたものである。日本訳全集は最近完結した。翻訳者たちの苦労や出版者大月書店の努力は私には想像することもむつかしい。またこういうものは、はじめからそうそう売れるものでもない。そこで何かの足しにということもあって、何でもいいから『研究のしおり』に書けという話があって私もついその気になり、畑がちがうものだから最初から恐縮の気持ちでこれを書いた。そこで、いくらか厭味にひびかぬか恐れもしたが『素人の……』という題にしたのでもあった」(p.117-8)。

これで、このパートの前まで、つまりこの本の「前半」部分が元々の「素人の読み方」だったことはわかる。でもそれは、本全体の成立事情の説明にはならない。「前半」についても完全とはいえない。それぞれのパートの書かれた時期は特定されないからだ。『しおり』では「十巻ばかり出たあとから書きはじめ、第35巻でしまいになったと思う」とのことだから、「途中切れがあった」にせよ20回分くらいにはなったのだろう。とするとその何回分かで本のパートひとつになっているはずだが、それもこれだけの説明ではわからない。

なぜこんなことにこだわるのか、次はそれを少し。


日本における銀行の集積 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 8月31日(日)20時13分10秒

TAMO2さんから「逆集積」現象のご指摘があり、その他方ではやはり集中・集積は進んでいる旨コメントいたしました。その際例にあげた銀行のこと、少し調べてみました。

日本の大銀行は、90年代以降最近まで劇的な再編成に洗われてきました。いわゆる「都市銀行」をみると最近とみにドラスチックで、1970年には12行、90年代なかばには10行あったものが、東京三井(統合96年)、三井住友(01年)、みずほ(02年)、UFJ(同)、りそな(03年)の5行に集約されて今に至っております。

 http://portal.nifty.com/furoku/0329_bank.pdf
 2002年3月現在のため、りそなの統合は入っていない。なぜか「王貞治年表」付(笑)

この時期、日本長期信用銀行と日本債権銀行(旧日本不動産銀行)が破綻し、“銀行は潰れない”という神話は根元から揺さぶられました。預金保険機構の支払保証限度額(いわゆる「ペイオフ」)の凍結解除の動きは預金者の不安を掻き立てました。預金を分散させようにも銀行の数が減って、預金者はそれだけ高いリスクを負うことになりました。これと並行して、信託銀行や証券業界、保険業界の再編もまた進んでまいりました。

「ビッグバン」とも呼ばれたこうした金融業界の再編は、経済が拡大基調にあった70年前後の再編(埼玉銀行の都銀昇格や第一勧銀、太陽神戸銀行の統合・発足など)と比べると、いくつかの点で大きく異なります。ひとつは、「バブル」と俗称された異常な信用膨張が破裂した後の急激な信用縮小=信用恐慌がデフレで長引くなかで進んだこと、「恐慌は……集積と独占への傾向を多いに強める」(岩p.49/国p.39)という『帝国主義論』の指摘を裏書きしているものと思えます。

自己資本比率に関するBIS規制という国際的な圧力が働いていたこと、また、「護送船団方式」と呼ばれた金融機関に対する旧大蔵省の管理統制の伝統的システム全体の再編を伴ったこと、いずれもこの過程の歴史的特徴と申せましょう。さらにこれが、日本という枠組みを超えた金融動向のなかにあることも見逃せません。最近では自己資本比率を確保するため大手銀行が競って外資導入を進めております(三井住友銀←ゴールドマンサックス、他)。危機に洗われる巨大銀行にとって頼みの綱は、今や政府から外資に代わったかのようでございます。

冒頭にあげた直近の統合が始まる時の異様な光景を、次の数字に見ることができます。

「2000年末の銀行の対法人貸出残高は346兆円、2年前に比べて35兆円も減少している。対中小企業向けは横ばいであり、大企業向けが35兆円減ったことになる。35兆円という額は一般会計の公共投資総額の3年分を上回る額である」(寺島実郎「キャッシュフロー経営の皮肉な結末」『中央公論』2001年4月号)。

中小零細企業に対しては「貸し渋り」が取り沙汰される銀行ですけど、大企業との関係では逆に「借り渋り」が大きな特徴になっていることがわかります。大企業群はリストラその他で浮いた資金を投資に回すのではなくもっぱら借入れの返済に充てていたこと、こうした企業行動が銀行の貸出残高の異常な減少=縮小をもたらし、銀行の経営基盤を掘り崩してきたこと、それへの対応としてドラスチックな再編統合が進んだことが読み取れます。

練達の実務派エコノミスト寺島氏は上の時評で、こうした状況を“「資本主義の退嬰」を象徴するような状況”と特徴付けておりました。わたしたちはここから、資本制の現代についていかなる認識を汲み上げるべきでございましょうか。