
読 書 室 付属
ソレル『暴力論』(岩波文庫)より
付録二 レニンのために
一九一八年二月四日、『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙は「いま一つの危険〔1〕」という表題のもとに、一つの論文を発表したが、私は左にその大部分を再録する。
〔1〕 この附録は一九一九年九月に、『暴力論』第四版のために書かれた。
「東方からきた革命的波濤は、ヨーロッバに拡がり、ドイツの平原を横ぎり、そしてすでにわがアルプス山脈の岩の麓にうち寄せてきている。われわれは、わが国が、戦争によって生み出される新世界において、その生存権を決定的に戦いとる前に、最高の試練をうけねばならないことを、覚悟しなければならない。ロマン人とドイツ系スイス人との間におけるわれわれの無味乾燥なそして無益な喧嘩は、すでにめくられた一ページであり、再び繰り返してはならない悲しい一ページである。これとは別の諸闘争が準備されつつある、――これとは別の意味において重大な諸闘争が。埋めることのより困難な、これとは別の溝渠がうがたれている。
「国際主義的な、計画的な、そして系統的なアジテーションが、わが国の諸大都市のなかに弘布されつつあることは、ますます明かとなりつつある。このアジテーションは、スイスから漸次に諸隣国を克服するであろうところの革命を、暴力によってひき起こすことを指向する。
……「戦前、サンディカリストの世界には、ドイツの帝国主義者たちのそれと明白な関係をもつ、一つの強力《フォルス》説が、伝播していた。その『暴力論』において、ジョルジュ・ソレルは、このような新しい福音を説いた――「暴力《ヴィオランス》の役割は、――と彼はいった――それが階級闘争の凶暴で直接的な表現でさえあれば、歴史において奇妙にも偉大であるかのようにわれわれにはみえる〔1〕。」可事も、暴力によらなければなされない。ただ、それが、もはや昔のように、上から下へではなくて、下から上へ、行使されることが、必要である。人々は強力《フォルス》の乱用を終熄させようと主張するのではない。人々は、諸事物をその原始状態に帰えす不可避的な反撃を期待しつつ、強力《フォルス》がその使い手を変えること、および昨日の被抑圧者が明日の暴君《ティラン》となること〔2〕」を欲するのだ。
〔1〕 一三〇ページ〔本訳書、上、一五二―三ページ〕においては、つぎのごとく書かれている――「階級闘争の感情の単純な表示として行使されるプロレタリア暴力は、極めてうるわしく、また極めて英雄的なものとして現われる。[多分『ジュルナル・ド・ジュネーヴ]の編集者は、旧版を用いたのであろう。私は引用文の当否を確めてはみなかった。
〔2〕 私は、しかし、私の著書において、フランス革命の、非常にしばしば流血的であった、あの暴虐《ティラニー》を大いに非難したのだ。
「そのスイス滞在中に、レニンとトロツキーとは、ジョルジュ・ソレルの著書を、暇にまかせて研究したに違いない。彼らは、それの諸原理を、最も恐るべき論理をもって応用しつつあるのだ……無定形的な、そして幾世紀の間、奴隷状態に調教されてきた大国民に対して、少数者の暴君的支配を押しつけるには、彼らには軍隊が必要である……。彼らが対外戦争を終止させようと欲するのは、即ち階級戦争をよりいっそう、自分らの思うままに、続行するためである。これらのジャコバン的軍国主義者たちは、自分らの利益《ため》に、アベコべのツァーリズムを樹立することを主張する。しかもそれは、人々が今日、ヨーロッパ諸国民に提議しつつある理想なのだ。
「ドイツにおいても、社会主義は、同一の専制的精神に浸透されている。マルクス主義は、プロシア軍国主義の仲の悪い兄弟である。それは、同一の精神、同一の諸方法、機械人形的規律に対する同一の崇拝、あらゆる個人的独立に対する同一の猛烈な侮蔑をもっているのだ〔1〕。
〔1〕 マルクスのそれよりも、遥かにより多くラッサールの影響のもとにあった、ドイツ社会民主党のあらゆる実践を、マルクス主義の罪に帰するのは、正しくない。シャルル・アンドレルは、一八九七年に、ラッサールについていった……「彼がプロレタリアートの解放事業のために普通選挙を要求するのは、理想的正義に力を保証するためである。しかし程なく彼は疑惑にとらえられた、そしてあたかもその誤謬を感じたかのように、彼は、その実際的改革を導入するために、軍国的・君主的でさえある既成国家に訴える。二つの制度《システム》の間における動揺から、珍妙な一つの立憲的観念が――即ち普通選挙と結びつきそしてこの普通選挙と手を携えて、争いに充ちた協力のうちに、社会的解放を実現すべく努力する、軍国的君主制という観念が生まれた。これが即ち今日のドイツ帝国である。」(『ドイツにおける国家社会主義の起原』六〇―六一ページ。)
……「心配するなかれ。スイスは、いまだなお、各市民が、自分の占める部署にあってその職務ならびにその義務を果たすという古い慣習をもつ国である。彼はそれを任意にまた自由にするのである、けだしそれは、彼の職務であり彼の義務であるからであって、決して人々が彼を機械人形にしたからではないのだ……。それが上から来ようがまた下から来ようが、あらゆる専制主義は彼にとっては嫌忌すべきものである。このゆえにこそ、健全で正常的な公生活の長い過去の継承者であるスイス市民は、その臣民たちがいまだ政治的未成年状態に閉じこめられている隣りの帝国〔ドイツ〕から、あるいはその俄か作りの市民たちが何らの政治教育ももたずそしてその大多数が読み書きを知らないという年齢数ヵ月〔1〕の共和国〔ソヴェート〕から生まれた諸学説をおしつけられはしないであろう。
〔1〕 ボリシェヴィキ革命は、一九一七年十一月七日におこった。
「わが国において主人顔に語りはじめ、そしてあまりにも柔弱な議会に対し、わが〔政府〕当局者にあてた最後通牒を命令することを敢えてしつつある紙の上のスイス人たち〔1〕よ、このことをよく覚えておくがよい。われわれは、彼らが自分らをうけいれてくれた国を踏みつけることを許さないであろう。もし彼らが、スイス国民が無秩序のビブリオ〔バイ菌の一種〕の肉汁培養基として役立ち得ると考えるならば、彼らは大いに誤るであろう。われわれは、対外戦争に対すると同様に、国内的紛争〔内乱〕に対して身を守り得るであろう、かつまた、一方〔内乱〕が他方〔対外戦争〕の前奏曲《プレリュード》に過ぎないこと、および、われわれの家の壁の最も小さい亀裂といえども侵入への突破ロとなり得ることを、知っているのだ〔2〕。
〔1〕 シオン派は、同様に、わが国〔フランス〕へ帰化したユダヤ人を、印紙をはったフランス人と呼んでいる。
〔2〕 筆者は、明かにその同国人に、協商国の干渉で脅かしているのだ。平和的なルイ・フィリップの体制のもとで、スイスは二度、フランスの侵入の脅威をうけた――即ち一八三八年には、スイスがチュルゴヴィー州の市民であった、未来のナポレオン三世を追いたてることを欲しなかったがゆえに、また一八四八年には、分離同盟事件の後、スイスがより統一的な意義にその憲法を改正しようと欲したがゆえに。過般の戦争中、協商国がスイスの中立のためにした約束は、あまり断乎たるものではなかった。プリアルモン将軍は、多分フランスはスイスを通ってドイツに侵入するであろうと書いていた。スイス参謀部は、協商国支持の新聞紙によって、猛烈に攻撃されがちであった、けだし、スイス参謀部はベルギーの偉大な技術家〔プリアルモン〕の考えを重大視していたから。
一度ならず『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙の友人たちは協商国の秘密外交の代理人であると非難されたとはいえ、私は、パウル・ザイペルが、この論文を書くに当って、疑い深いフランス警察の注意を私の上に喚起するという、情け深い希望をもっていなかったことを、十分信じたい。私は、私の読者たちに対して、自由主義的ブルジョアジーのこの優れた代表が、私の著書を少しも理解しなかったことを、注意する必要をもたない。彼のケースは、北欧の野蛮《バルバリー》に対してラテン文明を擁護しようと企図する論戦家たちが、いかに彼らの精神を愚鈍に向けているかを、いま一度、示すものである。
* * *
私は、ブルジョアジーが大いに恐怖する〔1〕あのボリシェヴィキをののしることによって、戦勝国の文献の包含する無数のパウル・ザイペルの宥恕をかち得ようとする意図をもつものではない、私は、レニンが私の諸著から諸々の着想を得たとする何らの理由をももたない。しかし、もしこのことが事実であるならば、私は、マルクス以来、社会主義がかつてもった最大の理論家であると何時に、またその天分がペートル大帝のそれを想起させる元首であると、私にはみえる一人の人間の知的成育に貢献したことを少なからず誇りとするであろう。
〔1〕 神聖同盟の兎どもは、ドイツ人よりもより多くボリシェヴィストを恐れている、そしてこのことにはなかなか浅くない意味があるのだ! 何となれば、敗北し、屈服し、そして戦争の諸負担で圧倒されたドイツは、なお不思議にも多くのわが愛国的ペテン師どもを恐怖させているのだから。その顧客〔読者〕に僅かの勇気を与えるために、諸大新聞の編集者たちは、通常、虚勢をはった語調でロシア革命家たちについて語るが、その語調の無礼さかげんは、彼らの腸をひっくり返す恐怖に比例しているのだ。
パリ・コミューンが屈服した時、マルクスは、インタナショナルの宣言を書いたが、現在の社会主義者たちは、師の政治学説の最も完成した表現を、これのうちに求めるのが常である。一九一八年五月、ソヴェート権力の諸問題に関して、レニンによって試みられた演説は、一八七一年の内乱に関するマルクスの研究に劣らぬ重要性をもつ。ボリシェヴィキが、協商国の諸金権政治によって雇われた傭兵どもの攻撃のもとに、ついに屈服することは、それはありうる。しかし新しいプロレタリア国家形体のイデオロギーは、滅失しないであろう。このイデオロギーは、資本主義列強の連合軍に対してソヴェート共和国がもち耐えてゆく闘争という民間説話からその素材をかり諸神話《ミート》と結合して、生き残るであろう。
ペートル大帝が帝位に登った時は、ロシアは、メロヴィンガ王朝のゴール〔古代フランス〕と大して違ってはいなかった――彼は、ロシアが根本的に変り、そして彼の帝国が当時の文明諸国の間にならぶに値いするようになることを、欲したのだ。指導者と称され得るあらゆるもの(宮廷貴族・公務員・士官)はフランスにおいてそれと類似の地位を占めていた人々を模倣することに専念しなければならなかった。彼の事業はカテリナ二世によって完成されたが、後者を、ヴォルテール時代の哲学者たちは、秩序の――人々が十八世紀において理解していたような秩序の、巨大な創造者として、正当に激賞したのであった。
人々は、レニンに関して、彼がペートル大帝のように、歴史を促成〔1〕しようと欲するものであると、いい得るであろう。彼は、実際、社会民主主義の最も権威ある大家たちに従えば、極めて発達した資本主義の後にのみ続き得る社会主義を、その祖国へ導入することを主張する。ところで、長らく前から政府の高度の指導・うるさい警察・技術的怠慢という体制のもとにあったロシア産業は、非常に遅れた状態にある。レニンの企図を空想扱いにする有名な社会主義者が少くない。諸工場のよい慣習は、半盲目的な機械の作用によって、資本家たちにうまく押しつけられたのであった。知識の役割は、それぞれの実践が包含する有利ないし不利な点を指摘する批判に、自らを限ったので、かなり下らないものであった。もし、マルクスがイギリスについて行った観察から霊感を得ることによって予見していたような諸条件において、社会主義経済が資本主義経済の後をつぐものとすれば〔2〕、これらのよい慣習の移転は、殆んど自動的に行われるであろう――そして知識というものは、せいぜい、素朴な革命家たちの諸幻想に対してブルジョア的過去の獲得物を保護すべく要請されるに過ぎないであろう。ロシア社会主義に対してマルクス主義者(レニンのような)が堅実であるとみなし得る基礎を与えるには、知識の巨大な活動を必要とする――知識は、生産の指導者たちに対して、極めて進歩した資本主義の経験から人々の帰納したある規則の価値を、示し得なければならない。自己の奉仕によって民衆の信頼をかち得た人々が享有する道義的権威のおかげをもって、これらの規則を、大衆にうけいれさせることが必要である。いつでも、革命に責任ある人々は、文明の最も低級な方面へ人類を押しやり得る諸本能に対して、この革命を防衛すべく余儀なくされているのである。
〔1〕 この促成(forcer)という言葉は、ここでは、植木屋たちが与えている意味〔促成《フォルセ》栽培〕にきわめて近い意味に用いられているのである。
〔2〕 一八八八年に、ロシアの『法律報知』は、マルクスの遺稿中から発見された一つの覚書を発表したが、それによると、『資本論』の著者は、あらゆる経済〔体制〕が同一の発展線をたどらねばならないとは、夢々考えてはいなかった。彼はロシアが社会主義に到達するには、まずその旧い共有的農業を破壊し、そしてその農民をプロレタリアに転化すべく余儀なくされているとは、考えていなかった。ロシアは「この〔資本主義〕体制の苦悩を忍ぶことなしに、それ自らの歴史的諸前提を発展させることによって、この体制のあらゆる果実を自己のものとする」ことができるであろうことが、彼には可能とみえたのであった。このマルクスの覚書は、ニコライ・オンによってその『農奴解放以後におけるロシアの経済発達史』フランス訳、五〇七―五〇九ページに再録されている。――『共産党宣言』のロシア訳のために、一八八二年に書かれた序文のなかで、マルクスは、次のような仮定的意見を表明した――「もしロシア革命がヨーロッパにおけるプロレタリア革命への合図となり、その結果、両者がたがいに補いあうならば、現在のロシアの土地共有制は、共産主義的発展の出発点として役立つことができる」と(『共産党宣言』シャルル・アンドレル訳第一巻〔第二巻は註釈〕、一二ページ〔邦訳岩波文庫版、一四ページ〕。これらの文章は、真実のマルクス主義が、その見透しにおいて、レニンの多くの敵がいおうと欲するほど絶対的ではないことを示すに足る。
レニンが、社会主義体制をロシアにおいて決定的なものにするために企てるべき闘争は最も困難な軍事的闘争よりも千倍もより困難であると断言するとき、彼は何らの誇張をも犯していない。彼が、いまだかつて革命家は、彼のそれに匹敵する程の任務に当面したことがない、というのは正しい。昔は、改革者たちはただ、悪名高いある制度を破壊すればよかったのであって、他方、再建ということは、超過利潤の探求のためにこのような事業に身を投ずるに至った支配者たちの創意《イニシアチーブ》に委ねられていた。しかしボリシェヴィキは破壊しかつ再建し、もって資本家どもがもはや社会と労働者たちとの間に介在して来ないようにすべく余儀なくされているのだ。産業においては、極めて大きないかなる進歩も、人々が多くの学校〔経験〕を経ることなしには、決して獲得されない。生産の指導者たちは、自分らが間違った途をたどっている時には、程よい時に足を止め、そして他の方法によってよりよく成功する何らかの機会がないかどうかを探求しなければならない。これが即ち、いわゆる経験を積むということなのだ。レニンは、自分らの天分が自分らを現実の表示するところを超越させると信じている、あの思想家《イデオローグ》たちの仲間では決してない。故に、彼は、革命以来、実践が彼に与えた諸教訓を注意すべく気をくばっているのだ。
ロシア社会主義が堅実な経済となり得るには、だから、革命家たちの知識が極めて能動的となり、極めてよく物事をわきまえたものとなり、極めてよく偏見を脱したものとなることが必要である。たとえレニンがその全綱領《プログラム》を実行し得ないであろう時でさえ、彼は、ヨーロッパ社会がそれから利益を抽きだすであろうところの、極めて重大な諸教訓を、世に残すであろう〔1〕。レニンは、当然、その同志たちがやることを誇り得るのだ。ロシア労働者たちは、今日まで一個の抽象的観念に過ぎなかったことの実現にアプローチすることによって、不朽の栄光を獲得したのである。
〔1〕 一九一九年九月四日の『ユマニテ』紙に訳載されたレニンの演説参照。
* * *
協商国の大人《たいじん》たちの予言にもかかわらず、ボリシェヴィズムは容易に弾圧されるとは思えない。英・仏両政府は、西欧の諸首都に居住している富裕なロシア人に対して、あまりにもいんぎんに耳を傾けたことが間違っていたことに、そろそろ気がつくべきである。これらの連中は総べて、彼らの故国の労働者・農民をとらえた諸思想とはまったく無縁のやからである。永い間ロシア以外に生活していたとはいえ、レニンは依然として真実のモスコーッ児であった。現在の諸事件を歴史的公平さをもって判断する時が来た際には、人々は、ボリシェヴィズムがその力の大部分をば、次の事実――即ち大衆は、ボリシェヴィズムをもって、自分が他人からロシア的とみられないことを自分の最大の念慮としていたところの寡頭政治に対する一つの抗議であると、みなしていたという事実に負っていたことに、気がつくであろう。一九一七年の末に、「黒色百人組」の旧機関紙は、ボリシェヴィキは、「ツァールおよび祖国を裏切った叛逆者カレディン、ルスキー〔1〕などよりも、よりロシア的であったことを立証」したといった(『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』一九一七年十二月二十日)。ロシアは、自己が結局真実のモスコーッ児に支配されているのを感じたから、辛抱強く多大の苦痛に耐えているだ。
〔1〕 十中八九まで、協商国によって買収されたものだ。
二世紀以前この方、ただ一人のツァールのみが、ロシア人たろうと欲していたのであった――それは即ち、ニコライ一世だったのだった。「私は、私の国を愛する――と彼は、一八三九年にキュスティースに向っていった――そして私はこの国を理解したと信ずる。私は、時代の苦悩に倦む時には、ロシアの奥地へ引退することによって、ほかのヨーロッパを忘れるべく努力することを、其方に保証する。何人も私より以上にロシア人ではない〔1〕。」キュスティーヌは、ニコライが「一世紀以上もの間、奴隷的な模倣の途に踏み迷っていた国民を、その本性」にひき戻そうと欲するのだと考えた。皇帝は、なかんずく、宮廷において、――たいていの婦人が国語を知らなかったにもかかわらず、――人々がロシア語を話すことを要求した〔2〕。彼は、ニコライが、「その偉大な実際家的才能とその深奥な明敏とにもかかわらず」、セント・ペテルスブルグを捨ててモスコーに移る勇気をもたなかったことを、遺憾とした――この遷都によって、彼はツァール・ペートルの過失を償ったことであろう、即ちこのペートルは、その貴族《ボヤール》たちを、彼らのためにバルチック海沿岸に建ててやった演芸場へひきつれてゆく代りに、自然が彼に与えていた嘆称すべき諸要素を――彼が侮蔑をもって、――ある点において彼がそうであったょぅな、優れた人間に相応しくない軽卒な精神をもって、――無視した諸要素を、利用することによって、これらの貴族をその母国内において開化し得たであろうしまた開化すべきであったであろう……。ロシアがその運命とわれわれにみえるところを成就しないか、あるいはまた、モスコーがいつの日か再び帝国の首都となるかいずれかだ。もし私が、ロシアの王座がいつかその真実の台座の上に堂々と移されるのをみるならば、私はいうであろう――スラヴ民族は、正しい誇りによって、その指導者たちの虚栄心を克服して、ついにそれ自身の生活を生活するに至ったのだ、と。〔3〕」
〔1〕 キュスティーヌ『一八三九年におけるロシア』第二版、第二巻、四六ページ。――四一ページにおいて、この著者は彼を「スラヴ人のルイ十四世」と呼んでいる。
〔2〕 キュスティーヌ(前掲書、二〇九―二一一ページ)。
〔3〕 キュスティーヌ、前掲書、第三巻、二七一―二七三ページ。
戦争の波欄は、ボリシェヴィキをして、この遷都を実行するに至らしめた――たとえ、彼らがその敵の打撃のもとに倒れるようなことがあるとしても、反動政府が古いモスコーからその首都として地位を奪うことを敢てすることは、恐らくないであろう〔1〕。故に、新しい体制が存続《レジム》し得ないと仮定しても、それは、その指導者たちが、極めて永い間、かれらの精神を西欧に向けていた社会の中に、モスコー主義を強化するのに貢献したことになるであろう。
〔1〕 もしフィンランドおよびエストニアがロシアから分離したままだとすれば、首都は、ネヴァ河口にあっては都合が悪いであろう。
人々が歴史家として、ロシアにおいてとられた革命的弾圧手段を語り得るのは、ボリシェヴィズムのモスコー性について考えてみることによってである〔1〕。協商国の新聞がボリシェヴィズムに向けている非難のうちには、もちろん、多くの嘘がある〔2〕。しかしロシア革命のいたましい挿話《エピソード》を公正に批判するには、もしソヴェート共和国が自殺することを欲しないならば、この共和国が急速に制圧することを余儀なくされるそれに類似する叛乱によって、もし偉大なツァールたちが脅かされたならば、彼らは何をしたであろうかということを、考えてみる必要がある。彼らは、もちろん、外国人によって支持されそしてその内部に暗殺者がどしどし殖えている陰謀を撲滅するためには、最も物凄い苛酷な手段の前にも尻込みしなかったことであろう〔3〕。他方において、国民的諸伝統は、赤衛軍に対して、彼らが「革命」を防衛するためには模倣する権利をもつと信じた、無数の先例を提供したのだ〔4〕。恐しく流血的な戦争――その間に、人々はコルニロフ将軍がいくつかの連隊全部を虐殺させるのをみたのだ(『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙、一九一七年十月十六日)――の後では、人命が、ロシアにおいて尊重され得よう筈がない〔5〕。ボリシェヴィキによって銃殺された人々の数は、いずれにせよ、民主主義的「正義」の公的機関によって組織された封鎖の犠牲者の数よりは、遥かに低いものである。
〔1〕 一九一八年九月二十七日の『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙は、レニンの一つの演説を報道しているが、そのなかで、レニンは、その月の初めに危なく彼がその犠牲となるところであった犯行の結果として発令された、全般的弾圧処分を排撃している。ボリシェヴィキに対して非難されているテロリスト的諸命令について、特に責任のあるのは、革命運動に加入したユダヤ人たちであるかのようにみえる。この仮説は、ハンガリー・ソヴェート共和国におけるユダヤ人の介入が好結果でなかったのをみればみる程、それだけますます真実らしく私には思える。
〔2〕 世界中で最も精神的な人間であると自負する、わが同胞たちは、ボリシェヴィキの名誉を傷つける目的で破廉恥な新聞記者たちが創作した、最も滑けいな中傷を、七面鳥〔まぬけ〕のように、うけいれたのだ。
〔3〕 一九一八年九月三日に、わがジョゼフ・プリュードムたちの愛する機関紙である、『プティ・パリジアン』紙は、先日レニンを暗殺しようと試みたドラ・カプランのために狂気じみた興奮に燃える一文を掲載した。
〔4〕 『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙の一編集者は、ロシアの反革命家たちが、犯罪分子の協力を大いに当てにしていたのではないかと疑っている、何となれば、彼らは「民衆に対してユダヤ人および革命家たちを虐殺することを」勧める諸宣言を流布したのだから(一九一七年十月十四日)。多くの場合、赤衛軍は、成功した暁には彼らを皆殺しにすると固く決意した敵どもを抹殺するに当って、自分らは正当防衛の立場にあることを、信じても無理ではなかった。
〔5〕 フランス革命が一つのブロックを形成することを、クレマンソーと共に主張する政治屋たちは、ボリシェヴィキに対して厳酷な態度をとることを殆んど許されないわけだ。クレマンソーの讃美する「ブロック」というものは、少なくとも、クレマンソーの友人たちが嫌悪すべき野蛮人と非難するボリシュヴィキよりも十倍も多くの人間を殺したのだ。
レニンは、その上、アカデミー・フランセーズが授与する善行賞の候補者ではない。彼は、ただロシアの歴史の裁きに従うのみである。哲学者が諭すべき真に重要な唯一の問題は、そもそも彼は、ロシアをして、わが資本主義的民主主義諸国のそれと同様に進歩的な経済を受けいれ得る生産者共和国の構成を指向させるのに貢献しているか否かという問題である。
* * *
終りに臨んで、『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙にょれば、私をレニンに結びつけるという、あの精神的共犯に論及することにしよう。私は、私の著述のいかなるものにおいても、暴圧《プロスタリプシオン》の弁護を提示したとは思わない。だから、パウル・ザイベル教授のように、レニンが『暴力論』のうちにテロリズムへの何らかの示唆をみいだし得たと想像するのは、滑稽である。しかし、もし彼がそのスイス滞在中に、真実に『暴力論』を攻究したとするならば、それは、彼の天分に対して、私の非難者が語るそれとはまったく異なった影響を及ぼし得たことであろう。かくもプルードン的な霊感をうけた本書が、レニンをして、『戦争と平和』においてプルードンの述べている諸学説を採択するに至らしめるということは、必ずしも不可能ではないであろう。もしこの仮説が正確であるならば、彼は、その情熱的な魂の全精力を振って、戦争法規の違反が必然的な歴史的制裁をうけることを、信ずることができたであろう。彼の不屈の抵抗は、そうすると、容易に説明されるであろう〔1〕。
〔1〕 ボリシェヴィキの活動をみた、あるフランスの著述家は、レニンの「頑強で明朗な神秘主義」について語っている(エティエーヌ・アントネリ『ボリシェヴィキ・ロシア』二七二ページ)。この方式は、きわめて明瞭というわけではない。
次に、私が心よくレニンに与える言葉を掲げる。資本主義的民主主義諸国がソヴェート共和国に対して遂行しつつある飢餓戦争は、卑怯な戦争である。それは、プルードンによって定義された真実の戦争法規を否認することにほかならぬ傾向をもつ。たとえ赤衛軍が降伏すべく余儀なくされるとしても、協商国の不純な勝利は、ただ、一時的結果を生むにすぎないであろう。これに反して、ロシア・プロレタリアたちの英雄的努力は、その防衛のためにロシアの労・農大衆がかくも多大の犠牲を受諾した、あの諸制度の勝利をもたらすことによって、歴史がそれに報いることに値するのだ。歴史は、ルナンに従えば、ローマに対して地中海帝国を与えることによって、ローマ市民の諸徳性にむくいた。征服の無数の弊害にもかかわらず、羅馬《レジオン》車団は、彼が「神の御業〔1〕」と呼ぶものを成就した。もしわれわれが、ローマの兵士たちに対して、失敗した、偏向した、ないしは無力な諸文明に代えるに、法律・文学・建造物についてわれわれがなおその弟子である一つの文明をもってしてくれたことを、感謝しているとするならば、いかに未来は、社会主義のロシアの兵士たちに対して感謝してはならないであろう! 民主主義がボリシェヴィキのやり過ぎを告発すべく委任しているへボ弁士たちの批判は、歴史家たちにとっていかに力弱い重圧となるであろう! 新しい諸カルタゴは、プロレタリアートのローマが現在あるが如きものにうち勝つ筈がないのだ。
〔1〕 ルナン『イスラエル民族史』第四巻、二六七ページ。
そして最後に、私が、私自身のために敢えて附加することを次に述べる――呪われてあれ、ロシアを飢餓におとしいれている金権政治的民主主義諸国よ。私は最小の災害にもその生存を左右される一介の老人に過ぎない。しかし私は、墓穴に降りる前に、今日厚顔にも勝利しつつある、高慢なブルジョア民主主義諸国が屈服するのをみたいと思うのだ〔1〕。
〔1〕 『暴力論』を終るに当って、私は、本書が献呈された妻の追憶《メモアール》に対する最後の讃辞を捧げることにする。労苦にみちた過去に想いを走らせながら、私は次のごとく書く――「献身的・精力的でその愛情を誇る妻に出会った男は幸いなるかな、――彼女はつねにその青春をして彼の上に輝かさせ、彼の魂がいやしくも自己満足するのを阻み、彼をして絶えずその任務の遂行を想起させことを知り、そして時としては、彼にその天分をすら示すであろう」と。