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英国 Brighton の思い出 


地図-1 地図-2



憧れのヨーロッパへ

1973年8月28日午前11時、横浜港大桟橋、ドラの音を合図にソ連船バイカル号が静かに岸壁を
離れました。いよいよ、旅立ちです。少年の頃から一度は行ってやろうと思い続けたヨーロッパ大陸へ
の第一歩です。何でまた船で?とお思いでしょうが、当時はこのルートが一番安上がりだったのです。
JTBの「LOOK」で、横浜港からソ連のナホトカを経由し、ウィーン到着後に解散の片道パックです。

 この章では23歳の秋にナホトカ経由で訪れた、英国南海岸の街「ブライトン」での思い出を綴ってみました。
32年もの歳月が経った今、当時の記憶をたどってみてつくづく悔やまれるのが、日記をつけてなかった事です。
人の記憶なんてどんどん薄れていくものですものね .....、そういう訳で、思い違いによるいい加減な文面が多々
ある事と、情報としての価値は殆ど無いことをご承知おきください。昨今は、新鮮な情報に困まりませんからネ。



英国までの経路を簡単に紹介しておきます

[横浜港大桟橋] ⇒(バイカル号 船中2泊)⇒ [ナホトカ] ⇒(寝台急行ボストーク車中1泊)
⇒[ハバロフスク]⇒(アエロフロート国内線 9時間)⇒[モスクワ](ウクライナホテル2泊)
⇒(アエロフロート 国際線 3時間)⇒[ウィーン](ホテル2泊)⇒(B.E.A.機)⇒[ロンドン]
とのコースで出国から8日目に英国ロンドンに入りしました。直行便なら12時間ほど?(笑)

(参考までに当時の為替レートは £≒670円 $≒300円 F/F≒60円 
大阪の喫茶店のコーヒー代が120円〜180円、といった時代です。)





■ プロローグ

いつの頃からこのような大それた計画を企てたのでしょう?、自分でもはっきりとは覚えていません。中学生の頃、級友に「いつかはフランスに行ってやる」と豪語していた記憶があります。でも何でフランスだったのかと問われると、これまた謎なのです。いろいろ考えた結果、私がものごころ付く頃に、兄や姉(10歳以上離れていた)が好んで聴いていた音楽の影響が少なからず有ったのでは?と思えなくもありません。私がもの心付いた頃というと、我が家にはテレビもまだ無く、庶民の娯楽といえば、映画では東映や松竹の時代劇、日活では裕次郎の全盛期。ご近所のお姉さん達(おばさんも含む)はラジオから流れる元祖御三家の歌謡曲が大のお気に入りの時代です。

そんな時、貧乏長屋の端っこにあった我が家では、兄が神戸放送のジャズ番組を5球スーパーのボリュームを一杯に上げて聞き、姉は自分で買ってきたギターで、ポップスやスタンダードのナンバーをボロローン・・とやっていました。正直いって、その頃の私にとってモダンジャズはただただ五月蝿い騒音にしか聞こえませんでした。その点、アメリカンポップスやスタンダードなバラードの方が心地よく感じたのでしょう。中学生になった頃にはマントバーニやフランクチャックスフィールドもお気に入に加わり、クールなジャズやボサノバといったジャンルの音楽まで、自分で組み立てた真空管アンプで楽しむようになりました。

中学2年生の時だったでしょうか、7インチのLPが付属した本を新聞広告につられて買いました。分厚い表紙の、レコードジャケットと同じサイズの本で、世界各国を写真と音楽で紹介するシリーズもの企画の創刊号が「フランス」編でした。パリを中心にフランス各地の綺麗な写真が解説付きで沢山掲載されていました。この本はどこかに行ってしまったのですが、パリの空の下やパリのお嬢さんなど4曲が収録されたレコードは今も手元にあります。 たぶんこの本が↑の「いつかフランスに...」のルーツだったのではと思われます。

工業高校の電気科を卒業し、某音響メーカーに勤めだして2年ほどが過ぎた頃、「このまま一生サラリーマン生活でええのかな?、何か空しいな」という自問が頭の中をかけ巡るようになりました。丁度その頃二人の兄が共同で喫茶店を開業し、私も時々この店を手伝うようになってました。会社の仕事と違って、なにか活き活きと働いている自分を見つけました。「やっぱりサラリーマンには向いてへんのかな? まだ若いんやし、もうちょっと色んな世界を覗いてみるか」という事で、会社を辞め、兄達の店の手伝いをする事になります。

きっかけは思い出せないのですが、英会話を習おうという事で、天王寺に開校したばかりの英会話の学校に通い始めました。週に2日、夜間に2時間だけのコースでしたが、高校の英語の時間は専ら計算尺で実習レポートの計算をしていた私にとって(英語の試験ではクラス全員が欠点で、いつも40点の下駄を履かせてもらっていた)かなりハードな勉強でした。老若男女10人ほどのクラスで、それぞれが目的を持って、みんな一生懸命に勉強していました。友人の勧めもあり英文タイプも独学で始めました、オリベッティーのデザインが気に入り月賦で購入しました、勿論電動ではなくポータブルタイプのメカ式です。教則本に従い、毎日打ちまくりました。後に、英文タイプを経験しておいて本当に良かったと思うことがありました、そうです・・、35歳にも成ってすんなり パソコン(シャープの MZ-80B ) を始める事が出来たのも、ブラインドタッチでキーボーが叩けたからです、この友人には本当に感謝です。

そんなある日、英会話学校の先生(学校からの要請で年齢詐称しており、私より年下の大学生だったことが後に判明)が、「今年の夏にハワイ大学の夏期講座に参加するツアーを企画しているんですが、参加しててみませんか?」と誘ってくれました(実は、大学のE.S.S.OBのボスの指示で人集めの勧誘でしたが)。 TVのクイズ番組で「10問正解して、夢のハワイ旅行と賞金10万円!」の時代です。「これは、とりあえず行っとくべきやな・・」と参加させて頂くことにしました。4週間コンドミニアムに滞在し、小遣い、土産物代を含め、総額25〜30万円だったと記憶しています。その当時は1週間のパック旅行で同等の旅費が必要だったた思います?。
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ハワイでの詳細は、又、別のページに綴ってみたいと思いますが、これは、とにかく行っておいて良かったと思います。この一月程のハワイ滞在の経験で、「外国旅行なんか思てるより簡単や、何処へでも行ったるぞ!」と度胸がついたことは確かです。何の道楽もない私は、またコツコツと小金を蓄え、その2年後の晩夏に横浜の桟橋に立っていたという次第です。

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■ 出発前日

片道ツアーの最終説明会が、出発前日の午後に銀座の旅行代理店で行われる事になっていたので、午前中の新幹線で大阪を出発した。翌日の出航が午前11時なので、首都圏から参加の人達は翌日出直せば良いのだが、遠方からの参加者はそうもいかない。私は、横浜で1泊すべく大桟橋に近い「ニューグランド横浜」に予約を入れていた。一度は泊まってみたいと思っていた由緒あるホテルである。 「行ってくるわ」、 「気いつけてな・・・、ほんで何時帰るん?」、「わからへん・・」 家を出る時、母との会話はこんなもんであったと思う。大きなスーツケース(今時こんな小さなものは誰も持ってない)をひっさげて天王寺まで歩き、地下鉄で新大阪へ向かう。小柄な私には重いカバンを手に持っての移動はとても骨がおれる。最近の旅行カバンのように、ハンドルやキャスターが付いていたら、とても楽チンだったろうに。東京に到着後この荷物を駅のロッカーに預け、銀座へと向かった。

説明会では、乗船チケットの配布や入管での手続きに関すること、ソ連国内での注意事項等が説明され、添乗員は同行しないので2名のリーダーが選任された。2時間程で説明会も終わり、再び重い荷物をさげて、国鉄(現JR)で横浜に戻った。ホテルまではちょっとリッチにタクシーを使う。チェックイン後夕食にしようと外出した、おちろん目当は中華街である。高校を卒業した後に就職した会社での 新入社員研修会 で、1ヶ月ほど相模原の社員寮に滞在したことがある。その折の休日に、一度、中華街見物に出かけたのが初めてで、今回は2度目である。残念ながら、全く記憶が飛んでしまっていて、日本では最後になっていたかも知れない晩餐に、何を食べたのか思い出せない。夕食後、ホテルに戻ってから、一人っきりの部屋で何を考え、如何して過ごしていたのかもほとんど覚えていない。 たぶん、何にも考えていなかったのであろう。

■ いよいよ船出

翌朝、ホテルで朝食をすませ、大桟橋で私を待っている「バイカル号」へとゆっくり歩き出した。近づくにつれ、その姿が鮮明になってくる。が、しかし、「なんか小さい船やけど大丈夫かいな?」思っていたよりも大きくない客船である。何度か、四国への旅行で利用したことのある関西汽船の「くれない丸」のほうが立派に思えた。(実際は「バイカル号」の方がかなり大きい)

管理局で出国の手続きを済ませ、いよいよ「バイカル号」のタラップを上がって行く。船内に入り、何がしかの手続きを経てキャビンにたどり着いたはずだが、その場面も思い出せない。私たちの船室はこの船の第一デッキより2フロアほど下であったように思う。多分、一番安い船室だったのだろう。例の丸い窓から、海面が直ぐ近くに見えていた。船室は4人部屋で、ドアを開けると両側が2段ベッドになっている。後の3人は同じ片道ツアーの仲間で、東京から参加のカメラマンとその友人、それからもう一人(思い出せない)である。とりあえず荷物を部屋に置き、デッキに上がってみる。

エレキバンド(船員の人達であろう)が、ベンチャーズのナンバーを演奏している。ベンチャーズがロシア民謡にかわり、やがて「蛍のひかり」の演奏が始まる頃には、色とりどりの幾重ものテープで、船と桟橋の間が埋め尽くされていった。見送る人の無い私は、一番上のデッキでその光景を眺めていた。その時、桟橋から飛んできた1本のテープを反射的に掴んだ。誰かに投げそこなったものであろうが、手放す訳にもいかないので御相伴にあずかる。やがて、ドラの音が響き、汽笛と共にバイカル号はゆっくりと桟橋を後にした。

キャビンに戻ると、ルームメート達は荷ほどきを始めていた。簡単に自己紹介をし、各自の寝床を決める。ひとまず落ち着いたところで、船内探索を兼ね、皆なでアッパーデッキのラウンジを目ざす。コーヒー(多分?)を飲みながら、ほかのキャビンの仲間も加わり、各自それぞれの行き先や目的などを語り合って、しばしの歓談が続いた。みんな色んな目的や夢を持っての旅立ちで、爛々と目を輝かせ、熱く語っていたのが今でも感慨深く脳裏に残っている。

その後、ナホトカまで2泊3日の船旅であった。断片的には色々な出来事をあやふやに思い出せるのだが、正確な時系列はトンでしまっているので順序はメチャクチャかも知れないが、記憶に残っていることを思い出してみよう。

出航後、最初の食事はランチであったと思う、この時は、ほぼ全員がテーブルについてロシア風のランチを楽しんだ(何を食べたのかな?)。午後のひと時は、お天気も良かったのでデッキに有る卓球台や、初めて見るゲーム(木製の駒を、小ぶりの玉突きのキューのような棒で突いて??)台での遊び方を、クルーに教えてもらったりして過ごした。こういった場面では、初対面どうしでも直ぐにうちとけ合って仲良くなれるから面白い。大阪からの大学生グループとも知り合えた、2週間ほどの行程でシベリア各地を旅するらしい。

夕食の後、サロンでショーが催された。バンド演奏とコーラス合唱、コサックダンスも披露された。出演者はすべてクルーの人達なのだろうが、みんな昼間とは違って綺麗な衣装に身を包み、別人のように陽気で楽しく、一生懸命に私たちをもてなしてくれた。終盤には、例の大学生グループが飛び入りで参加した。軽音楽関係のサークルだったようで、まづ、絶対音階の持ち主が紹介され、ピアノを相手にその特技を披露、その後フルートやパーカッションも加わり、ママス&パパスの「夢のカリファルニア」を綺麗なハーモニーで熱演した。「この船はシベリヤ行きや」とちょっとツッコミを入れたくなったが・・・。次に当時ヒットしていた、チェリッシュの「避暑地の恋」が始まった時、私も何かやってみたくなり、すぐ傍で休憩していたロシアバンドのエレキギターを拝借し、やや適当だがコードを刻んだり、即興の裏メロを付けたりして個人的にも楽しませてもらった。もっとも、その頃には、サロンに居る全員が和気藹々の状態で、ダンスを踊ったり、おしゃべりに興じたりで、雑然とした雰囲気だったので、私にもこんな芸当が出来たのだと思う。

そろそろ三陸沖であろうか、2日目の朝をむかえた頃、船の揺れが大きくなってきた。朝食のテーブルに集まったメンバーは昨夜の半分くらいに減っていた。ランチタイムには、そのまた半数。みなさん急に食欲がなくなったようだ。甲板に出てみると強い風が吹き付けていた。太平洋の荒波をかき分けて進むバイカル号の船首は、周期的に襲ってくる大きな波と格闘していた、潮しぶきが風にのって遠くまで飛んで来る。船首や船尾では5メートル以上の上下運動を繰り返し、まるでエンドレスに上下するエレベーターに乗せられているようだ。

次のティータイムに、私たちのテーブルに顔を見せたのは、たったの二人だけになってしまった。恰幅の良いご婦人と私だけである。他のテーブルを見渡しても同様で、ダイニングはがらんとした有様だ。この揺れの中、ウェートレスのお姉さん達は、大きな体で実に軽やかに歩き周わり仕事をこなしている。運ばれてきた紅茶やケーキのお皿が、船の揺れと同期してテーブルの上を、右往左往する状況である。ひと際大きく揺れた次の瞬間、「ドタん」という大きな音と共に、私の斜め前に座っていたご婦人の姿が見えなくなった。椅子もろとも横倒しになったようだ。幸い怪我も無く、苦笑しながら起き上がってこられ、ほっとした。

その日の夕刻、バイカル号は津軽海峡を抜けようとしていた。左舷に本州の津軽半島、右舷に北海道松前半島、遠くかすかに両方を望むことが出来た。「もしかしたら、これが日本の見納めになるかもわからへんな・・・。」その時は、ちょっとだけ本気で、そんな感傷的な気分に浸ってみた。

Weve
 

■ ユーラシア大陸に上陸

三日目の朝、船はナホトカを目指し、日本海の真っ只中を西進していた。海の色もいっそう濃くなり深い群青色に変わっている。船酔いにも少し慣れたのか、もう直ぐ着くという安堵感からか、みんなの表情も元気を取り戻したように見える。その日の夕刻、バイカル号は1700(Km)あまりの航海を終え、シベリアの玄関、ナホトカの港に接岸した。タラップを降り、ユーラシア大陸での第1歩を踏みしめる。天気もよく、少し暑いくらいの爽やかな初秋の気候である。

入管の手続きを終え、ソ連国内で必要な、最小限の額をルーブルに両替する。バスの出発まで少し時間があったので前の広場に出てみた。初めて触れるソ連国内の光景である。それまで抱いていた私の中のソ連のイメージとは少し様子が違うみたいである。のんびりとベンチで寛いでいる老夫婦、元気に走り回っている子供たち、暗くて陰気な雰囲気など何処にも無い。近くに居た小学生らしき一人の少年に英語で話しかけてみた。驚いたことに、私なんかより余ほど流暢な英語で返事が帰ってきた。何処で習ったのかと聞くと、学校で習っているのだそうである。そろそろ日本の英語教育も考え直さねば、益々世界から遅れをとってしまうのではないだろうか?。その男の子に、5円硬貨を記念にプレゼントした。(穴の開いた硬貨は外国では珍しいと聞いていたので数枚持っていた)すると、自分の持っていた飛行機の玩具を差し出してきたが、これは丁重にご辞退申し上げた。

インツーリスト手配のバスで鉄道の駅に向かう。途中、港の見える小高い広場の近くで食事をしたような記憶が有るのだがはっきりしない。ただ、結婚式を終えたばかりだと思われる新郎が、純白のウエディングドレス姿の新婦を抱きあげて走りまわり、みんなの祝福を受けていた光景ははっきりと覚えている。「ソ連の人たちも結構オチャメで、陽気でございます。」

ナホトカからハバロフスクまでは「寝台急行ボストーク」で1泊22時間の列車の旅である。これまで、寝台列車にも乗った事のなかった私は、勿論、コンパートメント形式の列車も初体験である。列車に乗り込むと通路がやたらと狭い、体格のいい人同士がすれ違うのは不可能ではないかと思われる。個室にたどり着き、ドアを開けると意外に広い空間があった。ここでもバイカル号での船室のメンバー4人が同室となった。列車が出発した頃、窓の外はすっかり暗闇につつまれており、残念ながら何の景色も見えなかった。

しばらくして、食堂車での夕食に案内された。新幹線のビュッフェしか知らなかった私は、映画のシーンで時々観かける、本格的な食堂車での食事を楽しみにしていた。夕食のメイン料理は多分? ボルシチだったように思う。本場の濃厚なスープに、大きなジャガイモが程よく煮込まれており、3泊したソ連国内での食事で、一番美味しかったような印象が残っている。

一夜明けて目が覚めると、緑一色のシベリアの大地を、淡々と列車は走っていた。いくら走っても同じ様な景色が延々と続く。我々はハバロフスクまでの僅かな?距離の乗車であるが、モスクワまでシベリア鉄道で行くとなると、1週間近くこの退屈な景色とお付き合いしなければ成らないのだろうか?。ボストーク号は、お昼前にハバロフスクの鉄道駅に到着した。ここでも早速バスに乗せられレストランで昼食の後、飛行場へと向かう。
ボス
 

■ ついにヨーロッパ

私たちをモスクワまで運んでくれるのはツボレフTU−114という飛行機だ。大型のプロペラ機で、4発のエンジンにそれぞれ2組のプロペラ(互いに逆回転する)を持つ独特の格好をしている。乗り込んでみて驚いた、一昔前の大阪の市バスの雰囲気である。小学校の廊下のような木の床に鉄製の骨組みで出来たシートがボルトで固定されている何とも実用的な内装である。飛行中の騒音も相当のものであった。空席が沢山あったので自由に席を移動し、これまであまり話が出来なかった仲間同士(特に異性と)ゆっくりと談笑し、モスクワまでの約9時間を有意義に過ごす事が出来た。

モスクワに着いたのは午後の4時頃である。9時間も飛んでいたのに、1時間半しか経っていない勘定になる。西回りの飛行機での長距離移動は1日が大変長くなり体内時計がメチャクチャになる。モスクワでの宿泊先であるウクライナホテルは立派な建物であった。外務省、モスクワ大学と同じ外観であるとの説明を受けた。部屋も広く、天井も非常に高かった。浴室には四つ足の大きなバスタブが鎮座しており、このような入浴タイムも初めて経験させてもらった。

少女 ホテル

翌朝、早めの朝食後にホテル周辺を散歩してみた。全く綺麗な街並みである。この日は、小学校の入学式だそうで、真っ青な空にごみ一つ無い歩道を、新調した制服に花束を持った可愛い女の子が何人か歩いていた。おばさんに成るまでの東欧の女の娘は本当に可愛らしい。その日の昼間は、モスクワ市内の観光、夜はボリショイサーカス見物を楽しみ、モスクワでの日程は終了した。明日はいよいよウィーンだ、このツアーの仲間ともお別れである。

■ ドナウ河

流石は国際線である、ウィーン迄はイリューシンの最新型ジェット機である。スチュワーデスのお姉さんもそれなりの雰囲気である・。快適に飛行を続け3時間くらいでウィーンに着陸した。バスに乗り換え、夕方の4時位に市内のエアターミナルで荷物を受け取り、ツアーは解散となった。

日程の決まっている人たちは、バスで鉄道の駅に向かい、それぞれの目的地に向かって旅立っていった。私を含め、5〜6人は「そんなに急ぐ旅でもなし、せっかくのウィーンなので取敢えず今夜は1泊しましょう」という事になり、エアターミナルの案内所で近くのホテルを紹介してもらい、一まづ落ち着いた。

シャワーを浴びてしばし休息の後、みんなで散歩がてら夕食に出かける。市民公園の傍に小じゃれたレストランを見つけ、そこで夕食にした(メニューは?・・カツレツ風の料理だったような?)。食後に表のテーブルでコーヒーを楽しんだのだが、このコーヒーが大変に美味しかったのを印象深く覚えている。ちょうどトワイライトタイムで、深い緑に囲まれた公園の傍というロケーションも雰囲気を盛り上げてくれていた。


連れだって市民公園の中を散策していると、突然、綺麗にライトアップされたシュトラウス像に出くわした。いつか写真では観たことのある、あの有名なモニュメントである。持っていたカメラで写そうとするが、露出の取り方が解らない。一緒にいたカメラマンのYさんが的確なアドバイスをしてくれたので↑の写真が撮れた。もう少し歩いて行くと、快いワルツの調べが流れてきた。公園内の一角で10数名の男女が綺麗に正装して楽しそうにウィンナワルツを踊っていた。なんと驚いたことに、小編成ではあるが生のオケが演奏しているのである。正に、感動モンの光景であった。

あくる朝、また何人かがホテルを後にして旅立って行った。私は、もう一日この街を歩いてみたくなり残ることにした。ウィーンでの2日目は、ドナウ川まで一人で歩いてみることにする。もう少しクラッシック音楽に造詣が深ければ、コンサートホールや歌劇場に足を向けるのが常道であろうが、そんなに知的で上品な青年ではなかったし、贅沢をしている場合でもなかった。

ホテルでもらった簡単な地図を頼りにドナウ川を目指して歩き出した。この日も爽やかな秋晴れでとても気持ちがいい。スマートな2両編成の路面電車が私を追い越してゆく。その光景が街にピッタリ調和していて、ヨーロッパの街を歩いてる事を感じさせられる。途中、小さなケーキ屋さんを見つけ、しばしコーヒーブレークにする。上品で人のよさそうなおばさんが勧めてくれた、小さなチョコレートケーキも美味しかった。

2時間近く歩いただろうか、ドナウ川に架かる大きな橋の袂に着いた。なるほど、大きな川である。もう少し綺麗な川を想像していたのだが、残念ながらこの日の水は薄茶色に濁っていた。その橋を向こう岸まで歩いて渡り、下流に見える次の橋まで川沿いに歩いてみることにする。朝方は爽やかな気候だったが日中は気温も上がって来て、これが結構ハードな散歩となり少し疲れた。ちょっと無茶な気もしたが、帰りは適当に見当をつけて例の路面電車に飛び乗ってみた。運良く、ホテル近くの見覚えのある場所を通った所で降車し、無事に帰還出来た。明日は霧のロンドンだ。

■ 英国入国

ヒースロー空港に到着、入管の審査ですこしヒヤリとする場面があった。「入国の目的は?」には「Sight seeing」と答えたが、次の「何処へ行くのか?」の質問に、とりあえずブライトンという街に行ってみようと考えていたので、つい口が滑って「Brighton」と答えてしまった。これも後々解ったことだが、この街へ語学留学で訪れる若者が結構沢山いて、その辺の事情をよく弁えている審査官が、普通の観光旅行者が先ず最初にこの街へ行くのは不自然だと思ったのだろう。「英語の学校に行くのではではないだろうな?、観光目的では学校へは行けない、直ぐに東京へ帰るか?」ときた。「ブライトンへは友達に会いに行くだけで、その後1週間ほどロンドン見物をするのだ」と少し強い口調で答えた。しばし沈黙の後、帰りの航空券(パリ発のオープンチケット)と所持金全部を出して見せ、黙ったままで「これでもを入国を拒否するのか!」とゆうような表情で睨み返した。しばしの沈黙があり、その審査官がどう判断したのかは今でも解らないが、6ヶ月有効の査証スタンプを押してくれた。英国の審査は他のヨーロッパ諸国よりは厳しいと聞いていたが、ヤバイながらもなんとかセーフでヤレヤレ。



■ ロイヤルホテル

空港の両替所で$100をポンドに替えて、地下鉄でビクトリア駅に着いたのは午後の4時頃だった。地下鉄だけで市内中心部までアクセス出来るとは大変便利な大都市だ。駅までたどり着いたものの、少し旅の疲れが出たのかこの日はなぜか元気が無く、ロンドンで一泊することにし、ガイドブックで読んだことのある構内のホテル紹介所を探し、ホテルを紹介してもらうことにする。「何処かいいホテルを紹介して下さい」、一人で座っていた係りの兄ちゃんが「Good Hotelねー」といったような少し馬鹿にしたような態度でリストに目をやり、「朝食付£3.5でいいか?」と聞いてきた。勝手に値踏みをしたのか、そもそも本当のGood Hotelは対象外なのか、とにかく予想よりも大幅に安かったので二つ返事でOKする。

もらったメモに 「ROYAL HOTEL」とある、一瞬、中ノ島のロイヤルホテルを思い浮かべたが 「そんなわけないわな・」。駅前に出た、一度は乗ってみたかった「ロンドンタクシー」に乗り込む、車内がたいへん広いのに驚ろいた。運転手にメモを見せると10分たらずでラッセルスクエア近くのホテルまで運んでくれた。値段の割には小ましな部屋だ、シャワーを浴びて一休みし、少し早いが夕食にしようと外出する。

■ 発注ミス

ホテル周辺はあまり賑やかな所ではなっかたが、程なく一軒の「レストラン」を見つけた。だいぶ疲れていたせいか「ちょっとぐらい贅沢もええやろ」ということでその店に決める。店に入るとやたら静かである、「まだやってへんのかな?」と思いつつ、応対の黒服に「食事は出来ますか?」「勿論ですとも、どうぞお入り下さいませ」と、映画に出てくるイギリスのservantのような(ここはイギリスや!)対応で席に案内される。やはり時間が早いのか、真っ赤なテーブルクロスが掛かりキャンドルライトの揺らめく50席以上は在ろうかという店内に先客の姿はない。

出されたメニューから ○×△風ステーキとパン、デザートにジンジャー△×○メロン、食後にコーヒーを注文した(サラダも注文したはづだが何だったか思い出せない)。やがて運ばれて来たステーキは、やはり発注ミスだった、蓋がはずされた料理をみて目が点になった、「こんなんステーキとちゃうがな、大阪ではビーフシチューとゆうねん」と言いつつ腹ペコだったので綺麗にたいらげた。味の評価は10点満点で6点くらいかな?、この後2ヶ月ほどの英国滞在だったが「こら美味しいわ」と思ったのはチャイニーズやイタリアンのレストランでの食事に多かった。この日は大人しく早めに寝る事にし、真っ直ぐホテルに戻る。

■ ブライトン到着

ビクトリア駅を出たシティーエクスプレスがブライトンの駅に着いたのはお昼前。構内のラゲージオフィスにスーツケースを預け、さっそく街に出てみる。駅前はと言うと、鄙びたた田舎町の雰囲気で、「ここなら日本人もあまりおらんやろう」との第一印象。ダウンタウン方向と思われる緩やかな坂道を南の方に下って行く、5分ほどでメインストリートらしき通りに出た。駅前と違って少しお洒落な雰囲気だ、そのまま南にもう少し歩くと海辺にでた。イングランドの南海岸だ。9月に入っているというのに沢山の人々が海水浴を楽しんでいる。北緯50度、樺太の北端に相当する緯度なのにそれが嘘のようだ。後に知ったのだが、この町は英国としては比較的温暖な気候で、英国各地や近隣諸国からリタイアメントが集まり、のんびりと過ごすことの出来る避寒地リゾートとしても有数な街なのだそうだ。

海岸のベンチに腰掛け、「さて、これからどうしたものか?」と思案していると、一人の初老の紳士が声をかけて来た。場違いに紺のスーツを着た東洋人がよほど困惑しているように映ったのであろう。「どうした?大丈夫か?」といったような第一声だったと記憶してる、「日本から今着いたばかりで、この街で英会話の学校を探そうとしています」、たどたどしい英語で答えると、その白髪の紳士は私のノートに3箇所の英会話学校の名前と、所在地をメモしてくれた。後で考えると、安物のテレビドラマのように、ドンピシャのタイミングで現れ、僕の知りたい情報をすらすらと教えてくれることが出来たのかとても不思議だった。

さて、住所を教えてもらったのはいいのだが、当然の事ながら右も左も分からない初めての街、とにかく、この町の地図が必要だと考え、土産物屋のような店で街の地図を買い求めた。海岸で先ほどもらったメモをたよりに、手がかりを探すこと数十分、Palmeiraとゆう場所がメモにある学校の住所と一致した。ここからさほど遠く無さそうなので歩いてみることにする。15分も歩いただろうか、そろそろこの辺りかなと物見をしていると、この街で最初の日本人青年と出会った。尋ねてみると、彼もその学校の生徒のようで、すぐ傍の建物を指差して教えてくれた。学校のオフィスで事情を説明したところ、親切に説明してくれ入学手続きをする事にした。ステー先を聞かれたが、「まだ決めて無い」と答えると、「ホームステー先を手配すので少し待て」と言って、急遽手配してくれた。ステー先の名前と住所のメモをもらい、呼んでもらったタクシーで駅に戻って荷物を受け取り、そのままホームステー先へ向かうことになった。



■ ホストファミリー

Brightonの西に隣接するHoveという街の静かな住宅街、前庭のある2階建ての家の前でタクシーが止まった。私にとって又々初めての経験であるホームステーの始まりである。垣根も門もない前庭を通り、どんな人が出てくるのか?どう言って挨拶すれば良いのか?・・・ドキドキしながら玄関のベルを押す。直ぐに扉が開き、50代半ばかな?と思える少しエリザベス女王似のイギリス女性が出迎えてくれ、丁寧に挨拶を済ますと家の中に通された。予約もなしに来たもので、学校から彼女の勤め先(パートで働いているらしい)に連絡があり、急いで家に帰ってきてくれたらしい、料金(2食付11£/週)や約束事の説明を受けた後、2階の一室に案内された。着いた時、外から見た感じではもう少し大きな家に見えたが、二戸一の建物らしく半分はnextdoor。

私の部屋は玄関ホールからの階段を上がって左側、本来は子供部屋の用途なのだろう8畳くらいの広さで、ダブルベッドと大きな洋服ダンス、それに沢山引き出しのある大きな三面鏡、電気スタンドが乗った小さな机と椅子、あまり広くは無いが長屋育ちの私には十分である。とりあえず2週間分のステーフィーを渡して玄関の鍵を受け取る。夕方、Mr.ギルバートが帰宅した、60歳前後の体格のいいおっさんで、詳しくは分からなかったが、リタイア後、建築関係の学校で講師をしているそうである。

2階のもうひとつの部屋にも中年の女性が同居していた、はじめは親戚の居候かと思っていたがそうでもないらしい。当初は知らなかった事だが、こちらでは、自宅の空き部屋を気軽に人に貸して生計の足しにする事がごく普通に行われているようだ。例の学校とも契約しているらしく、これまでにも世界各国から沢山の語学留学生が訪れたと話してくれた。日本の青年も居たようで、帰国後、彼から届いたという手紙を見せてくれた。詳細は忘れたが、流暢なな英文でお礼の言葉と近況などが書かれていたように思う。


Host ELC

■ 学校のこと

丁度タイミングが良かったのか、学校の新期クラスが始まるのが3日後からだった。初日に詳しい説明会があり8人くらいの初級のクラスに編入された。丁度この日に合わせたのか、新たに10人ほどの日本人が到着した。そんな事さえ知らなかったが、彼らの話では、短期語学留学を斡旋するエージェントが有るのだそうだ。日本語の通じない環境に身を置きたかった私としては、ちょっと失敗したかな?・・・だったが、まあいいか。

授業はウィークデーの午前または午後の一日3時間で一期が4週間だ。先生は30歳くらいのジョンという名の英国人で気さくで面白い人物、授業の休憩時間に近くのパブでちょっと一杯やってくるくらいのビール党らしい。私のクラスのメンバーは、スイスの女の子、ベニズェラのお姉さん、イタリアの仲良し二人娘、タイの男子学生、正体不明の中東人、神戸の女大生二人組といったところだ。時たま宿題も出されたが、テキストもなく、先生が思いつきで決めたテーマにそってのディスカッションのようなもので、そんなに厳しい授業ではなく(週2日のECC天王寺校のほうが暗記コンテストなどでハードだった)なごやかな雰囲気で楽しく受講することができた。


Class

[2期目のクラスメート後列中央が先生]

■ 食事のこと

朝食は7時半ごろ皆と一緒にイングリッシュブレックファーストをいただく。薄めのトーストにバター、ベーコン&エッグにホワイトティーが基本であるが、伝統を重んじる英国人といえども、さすがに毎朝同じ食事も飽きるのであろうか色々なアレンジで楽しませてくれた。トーストの上にオムレツを乗せたり温かいトマトのスライスを乗せたり(街中のカフェでもメニューにあった)、自家製ローストビーフのサンドイッチであったり、時にはコーンフレークスに温かいミルク、といったところである。授業が午後からの日は、朝食後に洗濯をして裏庭に干し、前夜入浴していない(毎日入浴する習慣はないらしい)場合は朝シャンなどして外出する。バスでブライトンの街中まで行き、海岸のプロムナードを散歩したり、ショッピングセンターをの色んな店をのぞいたりして過ごし、お昼ごろに適当な店でランチにする。

バイキング形式のカフェテリアでミートパイとWhiteTea(ミルクTeaのことをこう呼ぶ、ちなみにレモンテーはなぜか倍ほどの値段がする)ですませたり、また〔Today’s SPECIAL〕なる日替わりランチのメニューを多くのパブで表に出しているので、好みの店でゆっくりと食事を楽しむ事もできる。午前中に授業が終えた日は、学校の仲間と街に出てパブで昼食というパターンが多かった。こちらのパブは朝から営業しいて、ビール好きの人たちで賑わっている。アルコールの全くダメな私は、専らレモネード(サイダーみたいなやつ)でお付き合いする。パブでのランチメニューは、ホストファミリーでの夕食でもそうだが、主食?はもっぱらジャガイモベースで、色んなバリエーションのマッシュドポテトやベークドポテト、フレンチポテトといった具合に兎に角ジャガイモがお米の代わりだ。

その頃、大阪にも在った ウィンピー というファーストフードレストラン(滞在中にロンドンまで出かけた時も手軽なのでよく利用した)でも「フィッシュ&チップス」「ソーセージ&チップス」が定番のメニューである。一枚の大きなプレートに、その何がしかのポテトと野菜、それにメインとなる肉(牛、豚、鳥の何れか)や魚の料理が一緒に乗っている。そのボリュームもたっぷりで、食べきれないこともしばしばであった。

■ 休 日

授業のない週末には、何度かロンドンまで出かけた、往復運賃の35パーセント位が割引になる「DayReturn」という切符を利用する。ロンドンではとにかくよく歩いた、広大なハイドパークをのんびり散歩したり、ピカデリーやウエストミンスター寺院、ロンドン塔といった、いわゆる名所観光もさせてもらった。秋という季節と重厚な佇まい、随所にある大木が生い茂る落ち着いた風情の公園などのせいか、この街を1日中歩いていても不思議と疲れない。電線と看板だらけで騒然としている大阪の街では得られない心地良さがある。

ウィーンまで一緒だった人達との再会も2度ほどあった、絵の勉強でパリに行くといっていた下駄の彼には、ハイドパーク外周道に並べてある絵を見ている時にばったり会った。パリの物価の高さに悲鳴をあげて逃げて来たのだと言っていた。もう一人はビクトリア駅で再会した、旅程を終えて帰国するという一人旅の学生さんだ。駅構内の「ブライトンベル」というカフェでしばし談笑の後、お互いの健闘を祈って別れた。

大英博物館へは、学校で知り合った2歳年上のお兄さんと一緒に出かけた。古い絵画の修復技術を勉強している(国家公務員?)そうで、博物館見学には心強い相棒である。ここも、とてつもなく大きな建物で全部を見学するには2〜3日は掛かりそうだ。さすが「The British Museum」である、世界中のお宝が展示されていた。

何処にも出掛けずに家にいる時は、庭の芝刈りを手伝ったり、ホスト夫妻がメンバーだというボーリングクラブ(ピンボーリングではなく、芝の上で皮製の大きなオニギリみたいなボールを手で転がす、カーリングのボール番みたいな)にお供したり。すこし郊外のシーサイドにあるミニゴルフ場へも二度ほど遊びに行った。一度目は、街を歩いているとき日本語で声を掛けてきた小柄なオヤジに連れて行ってもらった。貿易の仕事で大阪や神戸にも時々来ることが有るらしく、関西なまりの日本語を話す面白い人物で、友達からお土産代わりに頼まれた古いコインを買いに行く時も通訳代わりに付き合ってもらったりしていたが、ひょんな事からGayだと判明し、その後のお付き合いはご遠慮申し上げた。

これも後ほど知ったのだが、この街はGayのメッカでもあるらしい。小柄な私はどうもその筋の人に好かれるようで、2年前のホノルル滞在中にも二度ほどヤバイ目に合った事があり、十分学習したつもりであったが、まだまだ用心が足りないようである。とにかく今回も無事でよかった・・・。

話を元に戻し、2度目のミニコースは学校の友人(日本のどこかの社長のご子息でお金持ち)が借りていたレンタカーで、学校の女の子をさそってドライブがてら遊びに行った。ウエッジとパターを貸してくれ、30〜80ヤードほどのミニ9ホールを回るのだが、グリーンがやたらに小さく結構難コースであった。と、偉そうなことを言ってしまったが、練習場には何度か遊び半分で連れて行ってもらった事がある程度で、籠の外でクラブを振るのは初めて、とてもゴルフをしたなどと言えるものではないが、私のコースデビューであった。
Worgen golf

■ 電気工事と洗濯機の修理

ある日ボブが私をガレージに呼び、「奥のほうに照明を付けたいとのだが、お前に出来るか?」と相談してきた、私が高校で電気の勉強をしていたと話したことを覚えていたのであろう。ガレージといってもこの家に自動車はなく、物置代わりに使っているのだが、照明もコンセントも無い。とりあえず母屋から電気を引かなければならない、勝手に工事をして良いのかどうか、法的には解らないがそんなに難しい事でもなし、工具類も種々揃っていそうなので協力することにした。その週末、ボブが前日に買ってきた電線で、5メートルほど離れた母屋のコンセントから電源を引き込みスイッチと蛍光灯を配線して2時間ほどで工事が完了した。ボブの喜びようは大変で、スイッチを入れたり切ったりして一人ではしゃいでいた。

その後何日かして、今度は洗濯機の排水ポンプが壊れてしまい、これも私の受け持ちになった。先のガレージに運び込んで分解開始、動力を伝達するアイドラーのゴムがすりへって変形しているのと、軸が回転し難くなっているのが原因と判明した。その部品をとりはずしてボブに渡し、同じものが手に入れば修理可能だよと伝えると、翌日には同じものを買って帰ってきた。随分年季の入った洗濯機の部品であるがこんな街の何処にそんな物が有ったのか?全く不思議な国である。とにかく古いものを大切にする人々である、タンスやテーブルといった年代モノの家具もいつもピカピカに磨きあげている。洗濯機も無事に修理完了し以前より静かで快調になったと、これまた大層喜んでもらえた。海外旅行先で電気工事や家電修理をさせられるとは思ってもみなかったが、特技が役に立った一幕だった。

こちらに来て1週間ほど経ったある日、ショッピングセンターの楽器店で安い(8£)ギターを見つけ衝動買いしてしまった。感弾きと簡単なコードを少し知っている程度だが、ホストファミリーや学校の仲間との文化交流に少しは役に立ったと思う。特にラテン系の連中はとても陽気でノリが良く、いつもみんなを楽しませてくれた。このギター、帰国時には持って帰る訳にもいかづ、日本から姉妹で来ていた女流漫画家の先生(お姉さんの方)に残してきた。

映画館やコンサートに出かけたことにも少し触れておこう。イギリス映画といえば「007シリーズ」であろう、幸運にもシリーズ最新作であるロジャームーア主演の「黄金銃を持つ男」がブライトンの映画館で上映中であった。勿論、日本では未だ上映されていない。こちらの映画館では席によって5段階くらいに値段が設定されていた(日本でも特別席を設けているところがあるが)チケットを買って館内に入ると、ドアのそばに懐中電灯を持った係りの女性がいて親切に席まで案内してくれる。スクリーンを観ていて「何か違うぞ」と気づいた、字幕スーパーが無い(当然!)のである。日常会話もままならない私にとっては無声映画のようであるが、幸い小難しい芸術作品ではなかったので、画面と片言のヒアリングだけで十分楽しむことが出来た。

ある休日に、Mrssギルバートが「街のExhibitionHallでブライトンオーケストラの演奏会があるので、興味があれば行って来れば?」と情報をくれたので行ってみることにした。ドームのような円形のホールで、木製の客席がオーケストラを取り囲むようになっている。オケのメンバーは地元の人々の集まりなのであろうか?老若男女入り混じっていた。こんな小さな街にも立派なフルオーケストラが存在し、文字通り音楽を楽しんでいることに驚き、文化の違いを感じた。この日はサンサーンスの「動物の謝肉祭」(曲名を知っているのはこれだけだった)他が演奏された、聴衆のマナーも大変良く、皆静かに聴き入っていた。

■ 帰国を決意

2ヶ月が過ぎた頃、所持金が心細くなってきた、当然の事ながら収入が無いのだから減っていく一方だ。長くこちらに居る日本人の先輩達に、それとなくアルバイトの事情を聞いてみた。結論は、ロンドンなら何とかなるかも知れないが、この街で日本人のアルバイトの仕事はほとんど無く、もし見つかってもバイト代が安いので学費までは出ないだろうという事だった。そもそも、今回の旅には確固たる目的がある訳ではなかった。ただ、出来れば同じ所で財布の続く限りじっくりと過ごしてみたいなと、ぶらっと出てきた旅なので、そろそろ潮時か?と考え、家庭の事情も少しあって今回は冒険をせず帰国する事に決めた。

所持している復路のチケットはパリ発である。すんなりパリ経由で帰ってしまうのはあまりにも芸が無さ過ぎると思い、帰りのルートを検討する為クック社の時刻表を買ってきた。あちこち見て周りたい思いはあったが、「また今度来たらええか・・・」と今回はあきらめた。財布とも相談の末、スイスのツェルマットで5日間くらい滞在し列車でパリに行き、1週間ほどパリ見物をして帰国することにした。ツェルマットに行くことにしたのは、マッターホルンをバックに思いっきりスキーをしてやろうとの目論見である。その為に実家の母に手紙を書き、スキー用のパンツとジャケットを郵便小包で送ってもらった。しかし、ちょうどこの時期はクリスマス前までのオフシーズンで残念ながらスキーは出来なかった。3日間、登山電車やリフトでマッターホルンやモンテローザの雄姿を堪能し早めにパリに移動することにした。パリではサンミッシェル近くの安いホテル(B&Bで30F≒1800円)に1週間ほど滞在し、街中をゆっくりと歩き周り、パリの雰囲気を満喫してガラ空きのアエロフロート機で帰国の途に就いた

スイス、パリでの詳細についても、ボケの来ないうちにぼちぼち綴ってみたいと思います。


■ エピローグ

55年の人生で、たった3ヵ月足らずの短い旅(と言えるのか?)でありましたが、私にとって生涯忘れることの出来ない貴重な体験になりました。このページを綴るにあたり、数々の先達諸氏のサイトを拝見いたしました。その中には、同じ時期、同じような動機でヨーロッパを訪れ、アルバイトを続けながら5年もの長期にわたり様々な体験をされた方もおられました。あの時「また今度来たらええか・・・」と簡単に帰国せず、ロンドンに移ってアルバイトを探し、あと2〜3年でも英語の勉強を続けていれば、その後の私の人生も、がらっと変わっていたかも知れないない?し同じようなものだったかも?、どうなんでしょうね。  (2005年10月 記)


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