上越国境:谷川岳
上越国境・谷川岳
谷川岳登山(1)


「日本百名山」を著した作家の深田久弥氏も、
その中の谷川岳を表した項目の冒頭に・・、

 これほど有名になった山もあるまい。
しかもそれが「魔の山」という刻印によってである。
今日まで谷川岳で遭難死亡した人は二百数十人に及ぶという。 
東京から近く、二千米に近い高度を持ち、
しかも標高のわりに岩稜の高山的風貌を備えているからであろうが、
やはり人気の大きな理由は、谷川岳という評判にあるのだろう・・、

と、記している。

        
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谷川岳登山(1)


上州・越後の両国、これら特性ある地域、生活圏を二分しているのが「上越国境」と言われる山々で、主脈である「谷川連峰」、「奥利根山塊」であり、主峰である「谷川岳」である。

 
「谷川岳」は、狭義には谷川連峰の中心にそびえる急峻な岩壁に囲まれた谷川岳本峰を指すのが一般的であるが、広義には谷川連峰を含めた地域をいい、西から平標山、仙ノ倉山、万太郎山、谷川岳、茂倉岳、朝日岳、白毛門の一連の山脈を指す場合もある。
 
多くは標高2000mには及ばないが、その地理的特性から、北西の季節風による多くの積雪をもたらし、日本でも有数の豪雪地域となっていることは前述のとおりである。
 
そして山容の特徴として、越後側では緑の重々たる穏やかな山脈がひろがっているが、反して上州側では峻険なる山稜の姿が見て取れる。
 
特に、著名なのが谷川岳本峰・東面は、岩稜の大絶壁となっていることは周知である。
 
谷川岳本峰は、トマ・オキの二つ耳と呼ばれる二つの峰からなり、トマの耳(標高1,963m)は薬師岳、オキの耳(標高1,977m)は谷川富士という別称を持つ。


  
「日本百名山」を著した作家の深田久弥氏も、その中の谷川岳を表した項目の冒頭に・・、
『 これほど有名になった山もあるまい。しかもそれが「魔の山」という刻印によってである。
今日まで谷川岳で遭難死亡した人は二百数十人に及ぶという。 東京から近く、二千米に近い高度を持ち、しかも標高のわりに岩稜の高山的風貌を備えているからであろうが、やはり人気の大きな理由は、谷川岳という評判にあるのだろう・・、
』と、記している。
 
日本百名山の初版出版は、1964年(昭和39年)の頃である。 深田氏は百名山を著出するに及んで、その選定基準を・・、

「山の品格」、

「山の歴史や人との関わり」、

「個性のある山」

の三つとし、更に・・、
附加的条件として、大よそ千五百米以上という線を引いた。山高きをもって尊しとせずだが、ある程度の高さがなくては、私の指す山のカテゴリーには入らない
としている。

  
標高は2,000mにも満たないが、険しい岩壁と複雑な地形、中央分水嶺のため常に変化の激しい天候である。
 
その谷川岳は、一ノ倉沢を始めロック・クライミングのメッカでもある。 
そのため遭難者の数も群を抜いて多いことから、これが「魔の山」と称される所以なのである。






ロープウェイ駅の麓にある遭難碑(700名以上の人たちの名前が刻まれている)

一の倉沢出合の岸壁に打ち込まれた遭難者のレリーフ

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昭和6年(1931年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年までに780名もの登山者が遭難死という飛びぬけた数は、日本のみならず、世界のワースト記録を保持している。
 
つまり、深田氏の日本百名山の初版が1964年の頃で、この頃の遭難者数が二百数十人とあり、2005年までに780名であるから、40年間で五百数十名増加していて、年間平均13〜14名の遭難者を出していることになる。
 
遭難事故の内容は、天候急変による疲労死、滑落死や雪崩によるものもあるが、特徴的なのがロッククライム中の転落死が大勢を占めるのである。 毎年10月の閉山式の折には慰霊祭も合わせて行われるのとのことである。
 
谷川岳という極小な地域、領域からこれだけの遭難者が出ていることも、世界に類例が無く極めて稀有なことでもある。
 尚、ヨーロッパアルプスの「人食い山」と言われる「アイガー」(ヨーロッパ三大北壁の1つ、他にマッターホルン、グランドジョラス)でも百人に達していなく、世界最高峰で人気も高いエベレストのそれも178人であるという。




因みに、1960年には岩壁での遭難事故で救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断、遺体を収容したこともあった。
 
その遭難者の遺体収容の方法があまりにもセンセーションであったため話題となり、記憶に残る一件となった・・。(谷川岳ザイル銃撃宙吊り遺体収容事故)

  
1960年(昭和35年)9月19日に群馬県警谷川岳警備隊に一ノ倉沢で救助を求める声が聞こえたとの通報があり、現場に急行したところ衝立岩正面岩壁上部からおよそ200M付近でザイルで宙吊りになっている2名の登山者を発見した。
 
遠方からの双眼鏡による観測で、2名の死亡は確認された。
 
遭難の原因は、両名が死亡しているため不明だが、なんらかの理由でスリップし、転落死したとされている。
 
現場となった衝立岩正面岩壁は、当時登頂に成功したのは1例のみの超難所で、そこに接近して遺体を収容するのは二次遭難の危険が高く不可能であるとして、宙吊りになっているザイルを銃撃によって切断して遺体を収容することになった。
 
こうして9月24日に自衛隊の狙撃部隊が召致され銃撃を試みたが、隊員は射撃特級であったにもかかわらず遠くのザイルを切断するのに難航し、2時間で1000発以上の小銃・軽機関銃の弾丸を消費したものの、不成功であった。 その後ザイルと岩の接地部分を銃撃することでザイル切断に成功、遺体収容に成功した。
 
なお、この場面は多くの自衛隊関係者、山岳会関係者のほか多くの報道関係者が見守っていて、遺体が滑落する様子を映像に収めていて、全国民が注視していた。
 
又、2人の遺体は両親の目の前で谷に落ちていったという。(おそらく現在では放映はできないであろう)
 
なんともやるせなくなるような凄惨過酷な光景であったと。




谷川岳に登山するには一般ルートとしては、東面の西黒尾根、天神尾根と主脈を縦走するかあるが、一の倉沢の多くのルートをはじめ、マチガ沢、幽の沢の登攀ルートも数多いのである。
 
一の倉沢をはじめとする岩場は、特に関東在住のクライマー達にとっては、初登攀競いの舞台でもあり、やがてはヒマラヤやヨーロッパアルプス登山のためのトレーニングの場となっていった。
 
尤も、谷川岳だけでなく、昭和30〜40年代の若者たちは競って山に登った。 学校や職場のレクリェーションといえば、ハイキングか登山が多かった。
 
そんな時代があったのである。


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