データの最終更新日時:2007年7月5日
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初出:『創文』487(2006年6月)、18-21頁

翻訳か自国語か――東方キリスト教文学伝承の一齣――

戸田 聡


 物質的にも精神的にも、日本人が世界有数の雑食民族であることは周知と言えよう。世界の諸文化が生み出した文学・文献を一つの言語でできる限り多く読もうとする場合、択ぶべきは、(英語を別にすれば)フランス語よりもドイツ語よりも、日本語だろう。

 ところで、或る言語文化において重要なのは、その言語のオリジナルの著作だろうか、翻訳で伝わった著作だろうか。こう書くと、「何を間抜けな問いを」と思う方も少なくないかもしれない。

 広い意味で筆者の専門領域に属する東方キリスト教文学に即して言えば、基本的研究の一つと目される『キリスト教アラビア語文学の歴史』という5巻本を著したGeorg Grafははっきり、「オリジナルの(つまりここでは、アラビア語を著作原語とする)著作の方が重要だ」と述べている(vol. 1, p. 3)。

 実はGrafはここで多少言い訳をしたかったのかもしれない。というのも彼の大著は、翻訳を第1巻に押し込み、第2巻以降をオリジナルのキリスト教アラビア語文学に当てる構成になっているからで、その正当化のためにGrafは上記のように言ったのかもしれない。

 がもちろん、オリジナルの著作の方が重要だという立言は、種々の観点から正当化しうる。東方キリスト教文学を例に見ると、グルジア語を著作原語とする最古の作品とされる『シュシャニクの殉教伝』は、女性を主人公としている点だけでなく(グルジアの歴史上最も有名な支配者の一人は、タマルという女性だった)、殉教をテーマとした作品である点など、さまざまな意味で興味深い。

 グルジアの隣のアルメニアでは、キリスト教の受容を経て5世紀にアルメニア文字がつくられてから、一連の歴史的・年代記的な著作がアルメニア人によって著された。歴史への関心はオリジナルのアルメニア文学の特徴の一つだと言うことができ、我々はそれを、既に創生期から窺い知ることができるのである。

 シリア語圏について言えば、いわゆる柱頭行者の存在は今や有名かもしれないが、実践だけでなく文学でも、シリア語の最古のオリジナル文学はその禁欲主義的色彩によって際立っている。

 (続けて「エジプトでは」といきたいところだが、コプト語文学については、実は翻訳とオリジナルの関係が未だ明確とは言えないという問題がある。現存するコプト語(サイド方言)の作品のうちどれほどがコプト語を著作原語とするか、未だに不明なのである。)

 そもそも一般に、自国語の文学が、他言語からの翻訳よりも意義が劣るなどということがあってよいだろうか。それでは自国語の文学の立つ瀬がないではないか。そう思う人がいても、それは全く当然であり、筆者はそれに異論を差し挟むつもりは毛頭ない。

 しかし他方、翻訳文学は価値の劣るつまらないものなのかと言えば、無論そういうことはない。ではその価値はどこにあるのか。

 稚拙な言い方が許されるなら、翻訳文学の価値の一つは、それとともに我々が旅をすることができる、という点にあるのだろう。翻訳文学を読むことで、我々はその世界に身を置くことができる。

 それだけでなく、我々は文字どおり翻訳文学「とともに」旅をすることもできる。一例を挙げるなら、『バルラムとヨアサフ』という作品がある。仏陀の伝記から汲んだ、つまり非キリスト教文化圏に由来するとされるこの作品は、西漸して「東方キリスト教圏」(Christian Orient)を通過する中でキリスト教化という変成を遂げ、さまざまな言語で伝播された。その過程については、グルジア語版がギリシア語訳のもととなった(これまでのところこの説が有力なようである)だの、いや話は逆で、かつギリシア語版の著者はギリシア教父の掉尾を飾るダマスカスのヨアンネスである(これは往年のドイツ・ビザンツ学の泰斗デルガーの説)だの、先後をめぐる争いも見られるが、それは言わばナショナリズムの平和的な小競り合いにすぎない。そして、この物語は中世に西欧に到り、折からの現地語文学の簇生の中で、種々の言語に翻訳されるに及んだ。

 言うまでもなく、この作品が当時の人々を惹きつけたのはその内容によってである。エチオピア語版に当たる『バララムとユワースフ』を公刊したイギリスの大オリエント学者バッジの要約に拠り紹介すると、キリスト教を嫌い迫害を行なってきたインドの王アベンネルには長らく息子がなかったが、ようやく待望の世継ぎヨアサフを得た王は、世の一切の煩い・不幸から隔離すべく息子を離宮に閉じ込める。長じて息子が外出を願っても、外の通りを予め「清掃」する念の入れようだったが、或る時ヨアサフは、父の意図に反して病苦や老齢といった人生の現実に触れ、悩みを得てしまう。そこへキリスト教の隠者バルラムが宝石商人として現れ、王子に教えを説き、その心を捉えるに至る。洗礼を授けてバルラムがヨアサフのもとを去ると、事態を知った王は怒り、偽バルラムを遣わしたり見目麗しい女たちに誘惑させたりと、王子を「回心」させるべく手管を尽くすが、バルラムが授けた「ascetic Christianity」からヨアサフの心は離れない。挙句に王は国を二分し、一つをヨアサフに譲るが、ヨアサフの国は栄えアベンネルの国は衰える一方、根負けしたアベンネルはついにキリスト教に改宗し、ヨアサフの腕の中で息を引き取る。その後ヨアサフは王国を他の者に譲り、自らは王の衣を脱ぎ捨て、ぼろをまとい砂漠に隠遁する。師バルラムとの再会も果たしてその死を見取った後、やがて自らも死に、師の横に葬られた。

 この話が、少なくとも今紹介した形では、当時の文学の主な読者だった修道士たち向けに書かれたことは明らかであり、かつバルラムの長大な説教は、せっかちな現代の読者を辟易させるに余りある。そもそも、教訓臭のする話を現代人は好むまい。現代人が教訓を必要としないほど成熟しているかどうかは、また別問題だが。

 この『バルラムとヨアサフ』のように文化横断的な伝承過程をたどった作品は、やはりペルシア経由で西漸した『カリーラとディムナ』や、いわゆるアレクサンドロス・ロマンスなど、他にもいくつかあるが、さほど多いわけではない。しかし、範囲をもう少し限定して「東方キリスト教圏」に目を移すなら、言語の障壁を乗り越えて伝播した作品はいくらもある。最初期の最も有名な修道者の生涯を描いた『アントニオス伝』然り、エジプトの初期の修道者たちの経験知を集めた『師父たちの金言』然り、キリスト教のいわゆる教父たちの著作然り。中には、多言語伝承のふりだしがアルメニア語であるという点で風変わりな『アガタンゲロスの歴史』という著作もある。筆者が数年来牛の歩みで研究してきた『マカリオス伝』も多言語で伝承されたものの一つで(これについては『オリエント』48巻1号所収の拙稿を参照されたい)、『マカリオス伝』と同様東方キリスト教圏の3つ以上の言語で伝承された聖人伝は、未だ数えたことはないが、数百のオーダーで存在するのではなかろうか。同様な多言語伝承は、もちろん他の文学ジャンルでも見られる。

 ところで、翻訳と自国語とではどちらがより重要かという、冒頭に掲げた問いに戻るなら、こと東方キリスト教圏の人々、つまりオリエントのキリスト教徒にとっては、「最も重要なもの」は翻訳であるということは、自明である。というのも彼らは、他でもない聖書を、翻訳によって受け取るのだから。思想の中の普遍的なものとは、翻訳、すなわち特殊から特殊への変換という操作によって、伝わるものなのだということに、改めて思いを致さざるをえない。

 そして、研究する立場から言うなら、研究していて面白いのは断然、翻訳がかかわる場合の方だろう。少なくとも筆者は、自分の研究対象に関してそう思う。なぜなら、古代・中世では翻訳はたいてい無名で行なわれるため、同一の文章が2つの言語で存在する場合に、どちらがどちらの翻訳かということは、それ自体既に問題だからである。もちろん、翻訳の場所も年代も直ちにはわからない。確かに、当の文章の著者が既知なら、著者が使った言語の版と別の言語の版との関係は自明だとも言えようが、しかしその場合でも、その別の言語の版が、実は直接には第3の言語からの翻訳なのかもしれない。そして、実際に検討すればわかることだが、どちらがどちらの翻訳かを確定するのは、そう簡単な話ではないのである。

 Grafがその大著の第1巻に翻訳を押し込んだ真の理由はたぶん、研究の進み具合から見て未だ「翻訳の歴史」が書ける状況になかった、ということにあるように思われる。そしてこの点に関する東方キリスト教文学の研究状況は、Grafの大著から半世紀余を経た今でも、部分的に進歩はあれ、全体としては大して変わっていないと言ってよい。「翻訳の歴史」を書くことはなお今後の課題である。

 最後に、翻訳をめぐる一つの問題を提示して終わることにする。上述の『バルラムとヨアサフ』のグルジア語版(『バラバリアニ』と称される)の英訳に序文を寄せたグルジアのアブラゼ教授は、9・10世紀に成立した『バラバリアニ』からギリシア語版が成立したことを基に、世界の文学に占めるグルジア文学の価値を力説している。グルジア文学がギリシア文学の圧倒的な影響下にあったことを熟知しているからこそ、その逆もあるということに教授は強い思いを込めたのだろう。言うまでもなく、ギリシア文化・文学は古代以来、東地中海世界において比類ない地位を占めてきた。

 ギリシア文学に対する言わば「下剋上」をやってのけたのはグルジア文学だけではなく、アラビア語の作品がギリシア語に訳されたケースもある。有名なものとしては『ダマスカスのヨアンネス伝』があり、また、私見によれば、遅くとも11世紀末には成立していた『マカリオス伝』のギリシア語版も、アラビア語版の一支流を基としている。そして、これらの作品(これら聖人伝及び『バルラムとヨアサフ』)に共通するのは、ギリシア語版がその底本の単なる翻訳でなく、むしろ翻案・改作であるということである。

 ここで想起されるのは、ビザンツ文学史上で10世紀以降に見られるメタフラシスという現象である。稚拙な文体で書かれた昔の聖人伝を当世流の美麗な文体に書き改めたことで知られるこの文学運動は、当の伝記の史料価値を損なうものとして歴史家には評判が悪いが、実はこれはギリシア語内部で完結してはおらず、他言語からの吸収をも伴っていたのではないか。この点を明確にすることは、将来「翻訳の歴史」を書く上で重要な意義を有すると思われる。

 ただ、そうは言っても、わからないことは多々ある。例えば、メタフラシスと非ギリシア語圏の接触はどこで起こったのか。これについては、当時ビザンツ帝国が奪還・保持していたアンティオキア及びその周辺も考えられるし、パレスチナという可能性もある。さらに、グルジア語について言えば、コンスタンティノープルやアトス山でもギリシア語との接触は可能だった、等々。こういった大きな問題を解明するには、一つ一つ、何が何から翻訳されたかという翻訳の問題を解いていくより他に道はないように筆者には思われる。そして、ありがたいことに、翻訳の問題については必ず正解が存在する。つまりそれは、解く努力が報われる問題なのである。(終わり)


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