岩川 友太郎
 ( いわかわ ともたろう、 安政2年(1855年) - 昭和8年(1933年) )


明治14年(1881年)の東京大学理学部生物学科の第一回卒業生。大森貝塚発見で有名なのモースの直弟子。 本邦初の分類学的手法に則った貝類目録を出版。

平瀬与一郎と同世代で、日本の貝類学を築いた研究者。平瀬与一郎とは親交が厚く、平瀬の「介類雑誌」 には多数の号に渡り寄稿した。



五島 清太郎  (ごとう せいたろう、慶応3年(1867) - 昭和10年(1935) )


動物学者。東京帝国大学動物学科卒業。東京帝国大学教授、第五代東京帝国大学動物学科部長を歴任。 昭和4年頃の日本寄生虫学会の会長。

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青木 熊吉 (あおき くまきち、 1864 (元治1年) - 1940 (昭和15年) )

元は三崎の漁師だが、三崎臨海実験所の設立後から実験所お抱えの採取係となった。 "三崎の熊吉、熊吉の三崎"と呼ばれた採集の名人で、小使の栄五朗(本名:篠原栄蔵)と共に実験所で活躍した。 非常に博識だったらしく、付近で捕れる生物を学名で問答し、海外から訪れた研究者を驚嘆させたという。

海外の研究者はミサキウナギ Muraenichthys aoki Jordan and Snyder, 1901 や、クマイタチウオ Monomitopus kumae Jordan and Hubbs, 1925 などを熊吉に献名しており、ミサキウナギの原記載には 「学名(種小名)は三崎にて箕作博士を助けた、日本で最も優秀な採集人の一人である青木熊吉に由来する」とある。

日本の海産動物の研究に最も貢献した人物とは言われているが、日本人研究者が青木に献名したのは 箕作佳吉がナマコの新種に献名した一度きりしか記録が追えない。動物学者の大島廣は後の自著で、 「熊公の功績を永久に遺してやろうという感謝の念を持った人がいなかったと寂しくなってしまった。」と回想している。

熊吉は様々な海産動物の和名を発案したことで知られているが、後鰓類ではハナデンシャは青木が発案し平瀬信太郎が 和名として命名した。


黒田 徳米 (くろだ とくべい、 (1886年) - (1987年) )


平瀬家の奉公人で、後に日本貝類学会の重鎮となる。昭和天皇陛下が収集した貝類の分類の御下命を最初に 受けたのは岩川で、黒田はその後を引き継いだ。


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藤田 経信 (ふじた つねのぶ)

水産増殖学の祖といわれている。(札農明治22卒,東大理.明治25卒)。岩川とは交流があった。


Henry Augustus Pilsbry (1862 - 1957)

ヘンリー オーガスタス ピルスブリー

米国海類学会とアメリカ軟体動物協会の初代会長。

貝類、特に陸産貝類の研究で大きな業績を残した、カタツムリの研究では世界の最高権威であった。

平瀬与一郎、黒田徳米らを通じて、日本の貝類研究に多大な影響を与えた。

1862年 12月7日 アイオワ州に生まれる
1887年 フィラデルフィア自然科学アカデミーの研究助手となる。
1895年 キュレータ(強い権限のある学芸員)となる。
1957年 10月26日 フロリダで逝去。

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飯島魁 (いいじま いさお、文久元年(1861年) - 大正10年(1921年)

岩川友太郎と同じくモースの愛弟子の一人で、東京帝国大学理学部動物学教室の第四代教授になる。 飯島は箕作の逝去後(1909年)に三崎臨海実験所の所長となった。箕作佳吉とは同僚の仲とされている。


飯島は米国ジョンズホプキンズ大学の第一期生だが、後に第五代教授となる五島清太郎 (平瀬信太郎の恩師)もジョンズホプキンズ大学を卒業しており、飯島の後輩にあたる。

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箕作 佳吉 (みつくり かきち、安政4年(1858年) - 明治42年(1909年)

留学から帰国後に東京帝国大学理学部動物学教室の教授となる。モース、ホイットマンの後、日本人では初の 動物学教室の教授となる。

箕作は帝国大学臨海実験所(現在の東京大学三崎臨海実験所)を創設して初代所長となった。


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