平瀬与一郎 (1859 - 1925) と 平瀬信太郎 (1883 - 1939)
ひらせ よいちろう                ひらせ しんたろう  [ともに男性]



平瀬 与一郎

平瀬 与一郎(*1)は日本の貝類研究の魁であり日本貝類学会の礎を築いた。与一郎の平瀬商店の業績が 振るわなくなり始め、日本の貝類を収集して海外の研究者に販売する標本商で生計を維持しつつ、 同時に貝類への啓蒙活動をおこなった。当時は最も希少な貝類であれば、その代金で自動車が一台買えたと伝えられる。

クリスチャンであった与一郎は宣教師のジョン・ギュリック(John Thomas Gulick)らからカタツムリ の採集法を学び貝類へ興味を覚え、同志社大学の博物学教授のマーシャル・ゲインズ(Marshall Gains) から貝の素晴らしさを伝授された。その他、海外の研究者と幅広く交流したが、特にアメリカの貝類学者の ピルスブリー(Henry Augustus Pilsbry)とは親密で、多くの専門的知識を得た。当時は貝類学会も学会誌もなかったので、自費を投じ介類(貝類)学雑誌を発行して貝類に対する啓蒙活動を行った。奉公人として向かい入れた黒田徳米は、のちに日本貝類学会の重鎮となる。

与一郎は自費で貝類博物館を建設したが5年で閉館した。自費での貝類図鑑も数冊出版しており、図鑑に載る分類表には若干の後鰓類が含まれる。恐らく後鰓類の載る分類表としては、日本最古のものではないかと思われる。

日本の貝類の科学的研究に貢献した人物として、モース、岩川、平瀬の名があげられる。

略歴

1859年 (安政 6年) 11月11日。父・守一、母・縫のもと淡路島の福良(現:南あわじ市)
                に生まれる。当地で平瀬家は資産家として知られていた。

1881年 (明治14年) 
加集と結婚。
1887年 (明治22年) 
病弱であったため、居住・医療環境の良い京都へ転居。
1913年 (大正 2年) 
平瀬介館(平瀬貝類博物館)を開館。
1916年 (大正 5年) 
藍綬章を授与される。
1918年 (大正 7年) 
平瀬介館を閉館。
1925年 (大正14年) 
逝去。享年67歳。

京都博物館会員。大英帝国貝類学会会員。ロンドン軟体動物学会会員。英国アンガシス会会員。 米国フィラデルティア博物学会在外会員(corresponding-member)。

旧漢字では、平鵝ゞ衆賚 と書いた
。与一郎の功績はネット上でも散見できるため割愛する。



平瀬 信太郎

信太郎は与一郎の長男として生まれる。当初は三校の進学先である京大(哲学科)に入学するなど、 与一郎の事業には関心がなかったとされる。その後、動物学を学びに与一郎の旧知の仲である 岩川友太郎が卒業した、東京帝国大学理学部動物学教室へ入学するため京都を後にした。

東大卒業後、大学の研究者ではなく東京の学校で教鞭をとる道を選び、次第に与一郎とは疎遠となったが、 平瀬貝類博物館の早期の閉館やご尊父の逝去と続き、教鞭の傍らで急速に貝類研究に注力するようになった。 のちにご尊父の偉業を引き継ぐ形で、平瀬介館の集大成的な貝類図鑑である「天然色写真日本貝類図譜」を出版した。

この中には次の後鰓類が図譜入りで解説されている。分類学的な見地にはないものの、知る限り恐らく 本邦初の本格的な後鰓類図譜だと思われる。収録されている後鰓類は以下のとおり。

記載されている後鰓類リスト

信太郎の後鰓類の研究論文で現在追跡できるのは以下の四篇のみ。他にもあるかもしれないが信太郎の業績集 がないため追跡できなかった。

1. ドラベラに就て
2. タツナミガヒの生殖に関する研究。附生殖器による後鰓類の分類。
3. タツナミガヒの解剖。
4. 三崎産後鰓類の2新種に就て

チャールズ エリオットが駐日英国大使として滞在していた頃に、後鰓類の研究を勧められた。 そしてに恩師の五島清太郎の指導のもとタツナミガヒ(*a)について 三篇の学術書を記載している。 その後、分類学的知見のと図譜が盛り込まれた、海外の文献にも引けを取らない「三崎産後鰓類の2新種に就て」を公表する。


父と同様に信太郎もまた海外の多くの研究者とも交流があり、逝去したときにはオドナーやティーレを初め、 200通以上の死亡通知が海外の研究者へ送られたそうだ。平瀬父子が日本と海外の貝類研究者の架け橋になったとも言われている。

その後の日本の後鰓類研究を開花させた馬場菊太郎は、カメノコフシエラガイ[Pleurobranchus hirasei = ?Pleurobranchus peroni Cuvier, 1804]、ゴクラクミドリガイ[Elysia hirasei]を平瀬家に献名している。


(*a)タツナミガイ [Dolabella auricularia (Lightfoot, 1786).] 。



略歴 (信太郎の詳しい略歴は追跡できなかった)

1882年 (明治17年) 2月25日。京都にて平瀬与一郎の長男として生まれる。
1899年 (明治32年) 
京都第一中学校卒業。(現:京都府立洛北中学校・高等学校)
1901年 (明治34年) 
第三高等学校卒業。(*c)
1901年 (明治34年) 
京都大学 文学部哲学科に入学。
1914年
 (大正 3年) 9月。東京大学 理学部動物学教室に入学
1917年 (大正 6年) 7月。
東京大学卒業。
   ?      
理学博士となる。
   ?      
明治学院で教鞭をとる。
   ?      法政大学で教鞭をとる。
   ?      
専修大学で教鞭をとる。
   ?      
成蹊高校で教鞭をとる。(*d)
1939年 (昭和14年) 
9月9日、逝去。享年56歳。

(*c)第三高等学校 京都大学の前身の一つとなった旧制高等学校。 略して三校と呼ばれていた。
(*d)発行書籍により1931年(昭和6年)〜1936年(昭和11年)迄の在籍は確認。




信太郎が記載した新種名

Oscanius testudinarius, Hirase 1927
Berthella gotoi Hirase, 1936
Aglaja iwasai Hirase, 1936


特記:

この文献で五島に献名された新種 ホウズキフシエラガイ Berthella gotoi Hirase, 1936 と北海道帝大理学部の岩佐正夫に献名された新種 ツノナシホシクロガイ Aglaja iwasai Hirase, 1936 について。


ホウズキフシエラガイ は、のちに馬場の「相模湾産後鰓類図譜」にて Berthellina delicata (Pease, 1861) と改訂され、同補遺の第二版(1990年)の正誤表にて Berthellina citrina (Ruppell & Leuckart, 1828) と再度改訂した。

馬場はこの過程で ホウズキフシエラガイ → ホオズキフシエラガイ とした。




ツノナシホシクロガイ Aglaja iwasai Hirase, 1936 のような経緯がある。

本邦では馬場が琉球産のあるウミウシを Aglaja cyanea (Martens, 1879) を同定した。後年馬場は「相模湾産後鰓類図譜」にて、よく似た後鰓類を、Doridium cyaneum Martens,1879 と同定し、和名にはカラスキセワタガイがあてられた。

しかし、馬場は1970年に Doridium iwasai (Hirase, 1936) は、カラスキセワタガイの色形変異にぞくする可能性があると発表している。

その後1972年にオーストラリアの Rudman博士は
Doridium capense Bergh, 1907、Aglaja iwasai Hirase, 1936、Philinopsis gardineri (Eliot, 1903)、Chelidonura velutina Bergh, 1905 は、Philinopsis cyanea (Martens, 1879) のシノニムであると提案した。

結局、馬場は確信を抱けず、相模湾産後鰓類図譜補遺の第二版(1990年)の正誤表にて (?) 付きで

[Aglaja iwasai] = (?)Philinopsis cyanea (Martens, 1879)  ツノナシホシクロガイ

とした。いずれにしてもこれは一般的には広がらず、現在でも和名にはカラスキセワタガイが使われている。




ホウズキフシエラガイ


ツノナシホシクロガイ

尚、信太郎の文献(昭和11年)の追記として「〜最近(7月末日)馬場菊太郎氏から、琉球地方の後鰓類に関する論文を落手した。その第6頁に Aglaja cyanea (Martens, 1879) の名称で小型種が1種報告された。これを加えると同属の本邦産は3種となる。」としている。
※3種とは次を示している。

Agalaja gigliolii → 現在の Philinopsis gigliolii (Tapparone-Canefri, 1874).
Aglaja iwasai Hirase, 1936
Philinopsis cyanea (Martens, 1879)


平瀬へ献名された後鰓類の新種名

Pleurobranchus hirasei Baba, 1971
Elysia hirasei Baba, 1955




信太郎が出版した一般書籍(*)と学術文献(無印)。


1918年 (大正 7年) 寄生螺類の一種に就て(一) (螺類:らるい。中国漢字に由来する巻貝類の古い呼び方)
1918年 (大正 7年) 寄生螺類の一種に就て(一)
1918年 (大正 7年) 寄生螺類の一種に就て(二)
1918年 (大正 8年) 寄生螺類の一種に就て(三)
1918年 (大正 7年) 寄生螺類の一種に就て(四)
1919年 (大正 8年) 寄生螺類の一種に就て(五)
1919年 (大正 8年) 寄生螺類の一種に就て(六)
1919年 (大正 8年) 寄生螺類の一種に就て(七)
1919年 (大正 8年) 寄生螺類の一種に就て(八)
1919年 (大正 8年) 寄生螺類の一種に就て(九)
1919年 (大正 8年) モノアラガヒの自已受精に就きて
1919年 (大正 8年) 琉球貝塚の貝類
1920年 (大正 9年) 結晶體晶杆の再生に就て
1921年 (大正10年) 寄生螺類の一種に就て(十): 附圖一
1921年 (大正10年) ドラベラに就て
1921年 (大正10年) カリフォルニア翅斑蚊の産卵に就て
1921年 (大正10年) 人類胃中に發見せしナメクヂ
1921年 (大正10年) 寄生生物に對するクチクラ
1921年 (大正10年) 再生作用に就いて
1921年 (大正10年) ホヤの一種(Ciona intestinalis.)の幼時生長と食物との關係
1921年 (大正10年) 煙管貝竝に擬煙管貝の地區による漸變
1921年 (大正10年) 兩棲類の腸管より得たる〓蟲の一新種
1921年 (大正10年) 巻貝の生活史
1921年 (大正10年) 海産穿孔動物(其の一)
1921年 (大正10年) 胃中に胚兒の發生する海盤車に就て
1921年 (大正10年) 匍匐の習性を有するメヅーゼの一新種に就て
1923年 (大正12年) タツナミガヒの生殖に関する研究。附生殖器による後鰓類の分類
1923年 (大正12年) タツナミガヒの解剖
1924年 (大正13年) 軟體動物のグリコーゲンに就て
1924年 (大正13年) *自然科学 / 〔平瀬信太郎. -- 百瀬清一
1927年 (昭和 2年) Sacculus Okai, a New Parasitic Gastropod
1931年 (昭和 6年) トバマイマイに就いて
1932年 (昭和 7年) *コンサイス科学叢書.第121.
1933年 (昭和 8年) *本邦産牡蠣の分類について
1933年 (昭和 8年) *本邦産牡蠣. 追補
1932年 (昭和 9年) *天然色写真日本貝類図譜
1936年 (昭和11年) 三崎産後鰓類の2新種に就て




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