平安時代中期


第58代天皇 光孝天皇(830/天長7〜887.9.17/仁和3.8.26)(在位:884/元慶8〜887/仁和3)
御名: 時康親王(トキヤス)
御父: 第54代天皇 仁明天皇(810/弘仁元〜850.5.6/嘉祥3.3.21)(在位:833/天長10〜850/嘉祥3)
御母: 鳥辺太后 藤原沢子(フジワラノ タクシ/サワコ)(? 〜839.8.12/承和6.6.30)
女御: 洞院后 班子女王(ハンシ)(833/天長10〜900.5.2/昌泰3.4.1)(父:式部卿 仲野親王)
忠子内親王(タダコ)(清和天皇妃)(854/仁寿4〜903.6.23/延喜4.5.7)
是忠親王(コレタダ)(857/天安元〜922.12.13/延喜22.11.22)
是貞親王(コレサダ)(? 〜903.8.20/延喜3.7.25)
簡子内親王(? 〜914.5.7/延喜14.4.10)
綏子内親王(ヤスコ)(陽成天皇妃)(? 〜925.4.27/延長3.4.2)
定省親王(サダミ)(宇多天皇)(867.6.10/貞観9.5.5〜931.9.3/承平元.7.19)
源元長(モトナガ)(? 〜883/元慶7)
為子内親王(タメコ)(醍醐天皇妃)(? 〜899.4.27/昌泰2.3.14)
女御: 藤原佳美子(フジワラノ カミコ)(? 〜898.8.19/昌泰元.7.28)(父:関白 藤原基経)
女御: 藤原元善(フジワラノ モトヨシ)(父:中納言 藤原山蔭)
女御: 平等子(タイラノ トモコ)(父:右中将 平好風)
更衣: 藤原元子
更衣: 大判事 讃岐永直女
源舊鑒(モトミ)(? 〜908.3/延喜8.2)
更衣: 滋野直子(シゲノノ ナオイコ)(? 〜915.1/延喜15.1)
源国紀(クニノリ)(? 〜909.10.28/延喜9.9.12)
繁子内親王(伊勢斎宮884-887)(? 〜916.6.29/延喜16.5.26)
後宮: 菅原類子(スガワラノ トモコ)(父:参議 菅原是善)
源順子(ノブコ)(藤原忠平室)(875/貞観17〜925.5.4/延長3.4.4)
後宮: 多治氏
源緩子(梅院君)(? 〜908.10.31/延喜8.10.4)
後宮: 布施氏
滋水清実(ヨシミズノ キヨミ)
後宮: 参議 正躬王女
穆子内親王(賀茂斎院882-887)(? 〜903.12.26/延喜3.12.5)
後宮: 藤原門宗女
源是茂(コレシゲ)(885/仁和元〜941.7.7/天慶4.6.10)
後宮: 是子女王
後宮: 雅子女王
後宮: 母未詳(以下源賜姓)
兼善(カネヨシ)(? 〜879.5.19/元慶3.4.25)
近善(チカヨシ)(? 〜918.8.23/延喜18.7.14)
是恒(コレツネ)(? 〜905.8.31/延喜5.7.28)
貞恒(サダツネ)(857/天安元〜908.8.30/延喜8.8.1)
音恒(オトツネ)
名実(カタザネ)
篤行(アツユキ)
最善(イロヨシ)
成蔭(ナリカゲ)
香泉(タカモト)
友貞(トモサダ)
礼子(藤原連永室)(879/元慶3〜909.4.10/延喜9.3.18)
和子(醍醐天皇妃)(? 〜938.8.19/天慶元.7.21)
音子(奇子)(? 〜919.11.14/延喜19.10.9)
連子(? 〜905/延喜5)
最子(? 〜866.8.10/仁和2.7.7)
点子(? 〜902.8.12/延喜2.7.7)
並子(? 〜906.5.29/延喜6.5.4)
謙子(? 〜924.4.2/延長2.2.26)
快子(? 〜910.7/延喜10.6)
深子(? 〜917.9.4/延喜17.8.15)
周子(チカコ)(? 〜912.5.19/延喜12.4.30)
遅子(マツコ)
麗子(レイコ)
崇子(タカコ)
偕子
黙子
是子
蜜子(密子)
秩子([ネ失]子)
善子
  
 在位中の年号は元慶、仁和。幼少期より聡明で、祖母の檀林皇后嘉智子に鍾愛される。846(承和13)年四品、853(仁寿3)年三品、871(貞観8)年二品、882(貞観12)年一品。中務卿、式部卿、太宰帥などを歴任。884(元慶8)年践祚し、藤原基経を関白とした。同年、子女のうち15皇子20皇女を賜姓源氏とする。小松帝、仁和帝と称された。陵墓は小松山陵(後田邑陵)。風雅を愛した帝で、格調高い歌が残る。「君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ」(古今集21、百人一首)、「君がせぬ我が手枕は草なれや涙のつゆの夜な夜なぞおく」(新古今集1349)、「逢はずしてふる頃ほひのあまたあれば遥けき空にながめをぞする」(新古今集1413)

 后の班子女王は、桓武天皇皇子仲野親王の娘。天皇の親王時代の妃であり、多数の子女をなして殊に尊重されていた。884(元慶8)年女御宣下、887(仁和3)年皇太夫人。「大鏡」によると、親王妃であった頃には市に出向いて買い物をしていたという。忠子内親王は870(貞観12)年女御宣下。884(元慶8)年臣籍にくだるが、892(寛平3)年内親王宣下を受け三品に叙された。是忠親王は870(貞観12)年臣籍降下、891(寛平3)年中納言となる。まもなく親王宣下を受け三品に叙される。一品式部卿。南院宮と称された。是貞親王は884(元慶8)年臣籍降下するが891(寛平3)年親王宣下を受け、三品太宰帥となった。簡子内親王、綏子内親王、為子内親王も同様に臣籍降下後内親王宣下を受ける。
 繁子内親王、穆子内親王、ともに斎院・斎宮に卜定されて内親王宣下を受け、父の喪により退下した。
 菅原類子所生の順子は源氏姓を賜り藤原忠平と結婚。嫡男・実頼をもうけた。菅原の君、傾子とも。

第59代天皇 宇多天皇(867.6.10/貞観9.5.5〜931.9.3/承平元.7.19)(在位:887/仁和3〜897/寛平9)
御名: 定省親王(サダミ)
御父: 第58代天皇 光孝天皇(830/天長7〜887.9.17/仁和3.8.26)(在位:884/元慶8〜887/仁和3)
御母: 洞院后 班子女王(ハンシ)(833/天長10〜900.5.2/昌泰3.4.1)
女御: 東七条后 藤原温子(フジワラノ オンシ/ヨシコ)(872/貞観14〜907.7.20/延喜7.6.8)(父:関白 藤原基経)
第一皇女 均子内親王(キンシ/ヒラコ)(敦慶親王妃)(890/寛平2〜910.4.7/延喜10.2.25)
女御: 承香殿女御 藤原胤子(フジワラノ インシ/タネコ)(? 〜896.8.12/寛平8.6.30)(父:内大臣 藤原高藤)
第一皇子 敦仁親王(アツギミ)(醍醐天皇)(885.2.6/元慶9.1.18〜930.10.23/延長8.9.29)
第四皇子 敦慶親王(アツヨシ)(888.1/仁和3.12〜930.3.30/延長8.2.28)
第五皇子 敦固親王(アツカタ)(? 〜927.2.3/延長4.12.28)
第二皇女 柔子内親王(ヤスコ)(伊勢斎宮897-930)(892/寛平4〜959/天徳3.1.2)
第七皇子 敦実親王(アツミ)(893/寛平5〜967.4.14/康保4.3.2)
女御: 橘義子(タチバナノ ギシ/ノリコ)(父:参議 橘広相)
第二皇子 斉中親王(トキナカ)(885/仁和元〜891.11.18/寛平3.10.13)
第三皇子 斉世親王(トキヨ)(真寂入道親王)(886/仁和2〜927.10.8/延長5.9.10)
第六皇子 斉邦親王(トキクニ)
第三皇女 君子内親王(クンシ/キミコ)(賀茂斎院893-902)(? 〜902.11.10/延喜2.10.8)
女御: 橘房子(タチバナノ フサコ)(? 〜893.12.27/寛平5.11.16)
女御: 菅原衍子(スガワラノ エンシ/ヒロコ)(父:右大臣 菅原道真)
尚侍: 京極御息所 藤原褒子(フジワラノ ホウシ/ヨシコ)(父:左大臣 藤原時平)
第九皇子 雅明親王(マサアキラ)(920/延喜20〜929.11.26/延長7.10.23)
第十皇子 載明親王(ノリアキラ)
第十一皇子 行明親王(ユキアキラ)(926/延長4〜948.7.6/天暦2.5.27)
更衣: 小八条御息所 源貞子(父:大納言 源昇)
第七皇女 鬘宮依子内親王(ヨリコ)(895/寛平7〜936.7.21/承平6.7.1)
更衣: 王女御 徳姫女王(ノリヒメ)(父:十世王)
皇女 桂宮孚子内親王(サネコ)(? 〜958.5.19/天徳2.4.28)
更衣: 藤原保子(父:参議 藤原有実)
皇女 誨子内親王(ノリコ)(元良親王妃)(? 〜953.1.2/天暦6.12.14)
皇女 季子内親王(スエコ)(? 〜979.3.16/天元2.2.16)
更衣: 源久子
更衣: 藤原静子
後宮: 伊勢(父:大和守 藤原継蔭)
皇子某
後宮: 母未詳
第八皇子 行中親王(ユキナカ)(897/仁和3〜909.2.20/延喜9.1.27)
第五皇女 成子内親王(シゲコ)(? 〜979.1.23/天元元.12.22)
皇女 源臣子
  
 在位中の年号は仁和、寛平。亭子院、寛平法皇と称された。884(元慶8)年臣籍降下するが、887(仁和3)年親王宣下を受け翌日立太子、践祚。即位直後、阿衡の紛議が起こる。このため基経没後は摂関をおかず、藤原時平と菅原道真を左右大臣とし、親政をしいて様々な改革を行った (寛平の治)。英明で、とくに猫を愛玩したという。899(昌泰2)年出家。陵墓は大内山陵。「おほぞらをわたる春日の影なれやよそにのみしてのどけかるらん」(新古今集1019)、「身ひとつにあらぬばかりをおしなべてゆきめぐりてもなどか見ざらむ」(後撰集1323:伊勢「別るれどあひも惜しまぬももしきを見ざらんことやなにか悲しき:後撰集1322」への返歌)

 后の温子は関白太政大臣藤原基経の娘。888(仁和4)年更衣として入内し、女御宣下を受ける。891(寛平3)年基経が病歿、温子は皇子を生まなかったため、敦仁親王が立太子。しかし東宮の生母胤子亡き後はその養母となって重んじられた。897(寛平9)年皇太夫人。七条中宮と称される。905(延喜5)年落飾。一女・女一宮均子内親王は異母兄敦慶親王妃。
 承香殿女御・藤原胤子は、温子よりも早くに妃となり、長男敦仁親王(醍醐天皇)をはじめ多数の子女を生んだ。888(仁和4)年更衣となり、893(寛平4)年女御宣下、3ヵ月後所生の敦仁親王が立太子する。しかしわずか3年後に病没。897(寛平9)年贈皇太后。所生の敦慶親王は、初名維蕃親王。891(寛平2)年改名。玉光宮と称された。二品式部卿。妻は異母妹・均子内親王。敦固親王は891(寛平3)年親王宣下を受け、902(延喜2)年元服。二品兵部卿。妻は姪・慶子内親王(醍醐天皇皇女)。柔子内親王は892(寛平4)年内親王宣下を受け、897(寛平9)年斎宮に卜定される。930(延長8)年譲位のため退下。六条斎宮と称された。敦実親王は六条宮、仁和寺宮とも。895(寛平7)年親王宣下を受け、907(延喜7)年元服して三品中務卿。のち一品式部卿。藤原時平の娘を妻とした。950(天暦4)年出家。
 橘義子は888(仁和4)年更衣となり、893(寛平4)年女御宣下。斉世親王は三品兵部卿。菅原道真の娘を妻とする。901(延喜元)年、義父・道真が左遷されると出家し、法三宮と称された。君子内親王は892(寛平4)年内親王宣下を受け、翌年賀茂斎院に卜定される。902(延喜2)年病の為退下。
 菅原衍子は897(寛平8)年女御宣下を受ける。900(昌泰2)年出家。
 藤原褒子は、左大臣時平の娘。宇多天皇が退位し出家して法皇となってからその宮に入り、たいへんな寵愛を蒙る。富小路御息所、六条御息所とも。のちには陽成天皇皇子・元良親王と密通していたという。彼女の所生の三皇子は宇多天皇出家後に生まれたため醍醐天皇の皇子として扱われた。雅明親王は921(延喜21)年親王宣下。行明親王は927(延長5)年親王宣下を受け、937(承平7)年元服して四品。
 徳姫女王、源久子、藤原静子はともに892(寛平4)年更衣となる。
 誨子内親王、季子内親王はともに四品。
 伊勢はもとは温子付の女房で、そこから見初められて宇多天皇の皇子を産むも5歳ほどで夭折。温子歿後はその所生の均子内親王に仕えるが、内親王はわずか21歳で早世した。その後、伊勢はまたもや主君の夫(敦慶親王)に見初められることとなり、王女(中務)を出産。寛平御息所とも称された。三十六歌仙の一人に数えられる著名な歌人。「春霞たつを見すててゆく雁は花なき里にすみやならへる」(古今集31)、「宵のまに身をなげはつる夏虫は燃えてや人に逢ふと聞きけむ」(伊勢集)、「あひにあひて物思ふころのわが袖にやどる月さへぬるる顔なる」(古今集756)、「おもひ川たえずながるる水のあわのうたかた人にあはできえめや」(後撰集515)、「難波潟みじかき葦のふしのまもあはでこの世をすぐしてよとや」(新古今集1049、百人一首)
 母未詳の成子内親王は897(寛平9)年内親王宣下を受け四品。のち二品に叙される。957(天徳元)年落飾。

第60代天皇 醍醐天皇(885.2.6/元慶9.1.18〜930.10.23/延長8.9.29)(在位:897/寛平9〜930/延長8)
御名: 敦仁親王(アツギミ)
御父: 第59代天皇 宇多天皇(867.6.10/貞観9.5.5〜931.9.3/承平元.7.19)(在位:887/仁和3〜897/寛平9)
御母: 承香殿女御 藤原胤子(フジワラノ インシ/タネコ)(? 〜896.8.12/寛平8.6.30)
皇后: 五条后 藤原穏子(フジワラノ オンシ/ヤスコ)(885/仁和元〜954.2.9/天暦8.1.4)(父:関白 藤原基経)
第二皇子 保明親王(ヤスアキラ)(醍醐天皇皇太子)(903.12.16/延喜3.11.20〜923.4.14/延長元.3.21)
妃: 本院御息所 藤原仁善子(フジワラノ ヨシコ)(? 〜946.1.25/天慶8.12.20)(父:左大臣 藤原時平)
第一王子 慶頼王(ヨシヨリ)(醍醐天皇皇太子)(921/延喜21〜925.7.11/延長3.6.18)
第一王女 熈子女王(キシ/ヒロコ)(朱雀天皇女御)(? 〜950.5.24/天暦4.5.5)
妃: 中将御息所 藤原貴子(フジワラノ キシ)(904/延喜4〜962.11.17/応和2.10.18)(父:関白太政大臣 藤原忠平)
妃: 藤原玄上女
第十六皇女 康子内親王(ヤスコ)(藤原師輔室)(919/延喜19〜957.7.10/天徳元.6.6)
第十四皇子 寛明親王(ユタアキラ)(朱雀天皇)(923.9.7/延長元.7.24〜952.9.6/天暦6.8.15)
第十六皇子 成明親王(ナリアキラ)(村上天皇)(926.7.14/延長4.6.2〜967.7.5/康保4.5.25)
妃: 為子内親王(タメコ)(? 〜899.4.27/昌泰2.3.14)(父:光孝天皇)
第一皇女 勧子内親王(カンシ/ユキコ)(899.4.27/昌泰2.3.14〜 ?)
女御: 大将御息所 藤原和香子(? 〜935.2/承平5.1)(父:大納言 藤原定国)
女御: 衛門御息所 藤原能子(フジワラノ ヨシコ)(? 〜964.5.24/康保元.4.11)(父:右大臣 藤原定方)
女御: 承香殿女御 源和子(ミナモトノ カズコ)(? 〜938.8.19/天慶元.7.21)(父:光孝天皇)
第四皇女 慶子内親王(ヨシコ)(敦固親王妃)(903/延喜3〜923.2.28/延喜23.2.10)
第五皇子 常明親王(ツネアキラ)(906/延喜6〜944.11.27/天慶7.11.9)
第六皇子 式明親王(シキアキラ)(907/延喜7〜967.1.30/康保3.12.17)
第七皇子 有明親王(アリアキラ)(910/延喜10〜961.5.14/応和元.閏3.27)
第十五皇女 韶子内親王(ショウシ/アキコ)(賀茂斎院921-930、源清蔭室)(918/延喜18〜980.2.7/天元3.1.18)
第十七皇女 斉子内親王(タダコ)(伊勢斎宮936)(921/延喜21〜936.6.2/承平6.5.11)
更衣: 源清子
更衣: 源暖子
更衣: 藤原同子
更衣: 楓御息所 藤原桑子(フジワラノ ソウシ/クワコ)(? 〜921.7.1/延喜21.5.23)(父:中納言 藤原兼輔)
第十五皇子 章明親王(ノリアキラ)(924/延長2〜990/永祚2.9.22)
更衣: 近江更衣 源周子(ミナモトノ チカコ)(? 〜935/承平5)(父:右代弁 源唱)
第五皇女 勤子内親王(ノリコ)(藤原師輔室)(904/延喜4〜938.12.19/天暦元.11.5)
第七皇女 郁子内親王(ミヤコ)(905/延喜5〜981.11.20/天元4.10.21)
第九皇女 敏子内親王(906/延喜6〜 ?)
第十皇女 雅子内親王(マサコ)(伊勢斎宮931-936、藤原師輔室)(909/延喜10〜954.9.28/天暦8.8.29)
第八皇子 時明親王(トキアキラ)(912/延喜12〜927.10.18/延長5.9.20)
第十皇子 源高明(タカアキラ)(914/延喜14〜983.2.1/天元5.閏12.16)
第十三皇女 源兼子(カネコ)(915/延喜15〜949/天暦3)
第十八皇子 盛明親王(モリアキラ)(928/延長6〜986.6.17/寛和2.5.8)
更衣: 藤原淑姫(フジワラノ ヨシヒメ)(? 〜949.10.16/天暦3.9.22)(父:参議 藤原菅根)
第九皇子 長明親王(ナガアキラ)(913/延喜13〜953.3.5/天暦7.閏1.17)
第十一皇子 兼明親王(カネアキラ)(914/延喜14〜987.10.21/永延元.9.26)
第十二皇子 源自明(ヨリアキラ)(918/延喜18〜958.5.8/天徳2.4.17)
第十八皇女 英子内親王(ヒデコ)(伊勢斎宮946)(921/延喜21〜946.10.13/天慶9.9.16)
更衣: 源更衣(父:大納言 源昇)
第四皇子 重明親王(シゲアキラ)(906/延喜6〜954.10.13/天暦8.9.14)
更衣: 源封子(ミナモトノ カネコ)(? 〜938.8.19/天慶元.7.21)(父:左京大夫 源旧鑒)
第二皇女 宣子内親王(ノブコ)(賀茂斎院915-920)(902/延喜2〜920.7.26/延喜20.閏6.9)
第一皇子 克明親王(カツアキラ)(903/延喜3〜927.10.22/延長5.9.24)
第十二皇女 靖子内親王(ヤスコ)(藤原師氏室)(915/延喜15〜950.1/天暦4.11)
更衣: 藤原鮮子(フジワラノ ヨシコ)(? 〜915.6.15/延喜15.4.30)(父:伊予介 藤原連永)
第三皇女 恭子内親王(タカコ)(賀茂斎院903-915)(902/延喜2〜915.12.6/延喜15.11.8)
第三皇子 代明親王(ヨシアキラ)(904/延喜4〜937.5.12/承平7.3.29)
第六皇女 婉子内親王(ヨシコ)(賀茂斎院931-967)(904/延喜4〜969.10.24/安和2.9.11)
更衣: 満子女王(ミツコ)(? 〜920.7.15/延喜20.6.27)(父:民部大輔 輔相王)
第八皇女 修子内親王(ナカコ)(元良親王妃)(? 〜933.3.3/承平3.2.5)
第十一皇女 普子内親王(ヒロコ)(源清平室のち藤原俊連室)(910/延喜10〜947.7.31/天暦元.7.11)
更衣: 中将更衣(父:参議 藤原伊衡)
第十七皇子 源為明(タメアキラ)(? 〜961.8.5/応和元.6.21)
更衣: 兵衛御息所(父:左兵衛佐 源敏相)
第十三皇子 源允明(スケアキラ)(919/延喜19〜942.8.19/天慶5.7.5)
後宮: 母未詳
第十四皇女 源巌子(ミナモトノ ゲンシ/タケコ)(916/延喜16〜?)
  
 在位中の年号は寛平、昌泰、延喜、延長。初名維城。889(寛平元)年親王宣下を受け、894(寛平5)年立太子、897(寛平9)年元服。病気がちで父上皇が政治的影響力を保持し続けた。父同様摂関を置かず藤原時平・菅原道真を左右大臣として親政を行い、後世聖代と崇められ延喜の治と称されるが、901(昌泰4)年菅原道真を左遷(昌泰の変)。延喜格式撰修、古今和歌集撰上。年号から延喜帝と称された。930(延長8)年、天皇の昼御座である清涼殿に落雷があり死者が出ると、道真の祟りと恐れ病臥。陵墓は後山科陵。「むらさきの色に心はあらねども深くぞ人を思ひそめつる」(新古今集995)、「あかでのみふればなりけり逢はぬ夜も逢ふ夜も人をあはれとぞ思ふ」(新勅撰822)

 中宮穏子は藤原基経の四女。901(昌泰4)年入内、女御宣下。父基経は没後であり、兄の左大臣時平により入内が実現した。尤も醍醐天皇への入内は、天皇に娘(為子内親王)を入れていた班子女王が難色を示し、なかなか敢行できなかったらしい (穏子の入内は899(昌泰2)年の為子内親王薨去、900(昌泰3)年班子女王崩御のあとのこと)。903(延喜3)年に東宮保明親王を出産して以降子に恵まれなかったが、919(延喜19)年康子内親王、923(延長元)年立后して寛明親王を、926(延長4)年42歳で成明親王を出産した。923(延長元)年長子保明親王が、925(延長3)年には保明親王の息男慶頼王が薨去するものの、寛明親王・成明親王が嫡流をつないだ。932(承平元)年皇太后、946(天慶9)年太皇太后となるが、彼女が存命中は他のどの帝にも后が立たず、中宮と称され続けた。梨壺にて崩御。
 妃の為子内親王は叔母にあたる。892(寛平3)年内親王宣下。添臥として897(寛平9)年入内して三品に叙されるが、899(昌泰2)年難産のため薨去。一品を追贈された。
 藤原和香子は903(延喜3)年女御宣下を受ける。
 藤原能子は、三条御息所とも。藤壺を殿舎としたか。913(延喜13)年女御宣下。天皇崩御後、敦実親王と通じたという。また、藤原実頼室となったとされる。
 藤原桑子は桂御息所とも称された。
 近江更衣・周子は中将御息所とも。嵯峨天皇の曾孫にあたる。和歌にすぐれ、大いに寵愛された。
 源封子は光孝天皇の孫娘。
 満子女王は桓武天皇の曾孫。宇多天皇生母・班子女王の姪にあたる。所生の修子内親王は陽成院皇子・元良親王妃となり、佐頼王を生んだ。
 中将更衣は少将御息所とも。所生の為明は臣籍降下して941(天慶4)年元服。刑部卿。
 兵衛御息所は左兵衛佐局とも。所生の允明は921(延喜20)年臣籍降下し、935(承平4)年元服。


 文献彦太子・保明親王は、903(延喜4)年崇象の名で親王宣下を受ける。911(延喜11)年改名。916(延喜16)年元服。妃の藤原仁善子は藤原時平の五女。叔母・穏子の後押しを受け916(延喜16)年添臥の女御として入内。富小路御息所、東宮御息所とも。もうひとりの妃・藤原貴子は藤原忠平長女。小一条内侍とも称された。918(延喜18)年入内。保明親王薨去後の931(延長9)年御匣殿別当となり飛香舎を殿舎とする。のち938(天慶元)年尚侍に任官。ほか、乳母子の大輔を寵愛した。大輔は女流歌人として著名。「かなしさのなぐさむべくもあらざりつ夢のうちにも夢と見ゆれば」(後撰集1421)、「わが身にもあらぬわが身のかなしきに心もことになりやしにけん」(後撰集1200)
 康子内親王は921(延喜20)年内親王宣下を受け、933(承平3)年裳着を行い三品、翌年二品。946(天慶9)年一品、954(天暦8)年准三宮。955(天暦9)年藤原師輔に降嫁。といっても天皇の沙汰を受けての婚儀ではなく、正式の式を経る前にすでに関係していたらしい。降嫁の同年、36歳という高齢で初産を経験。翌年、公季を出産した産褥で薨去。
 勧子内親王は900(昌泰2)年内親王宣下、914(延喜14)年裳着を行い四品に叙される。
 常明親王は908(延喜8)年将明の名で親王宣下を受ける。911(延喜11)年改名。918(延喜18)年元服して四品。三品刑部卿。
 式明親王はノリアキラとも。三品中務卿。異母兄・保明親王妃だった藤原玄上女を妻とした。
 有明親王は三品兵部卿。
 韶子内親王は921(延喜20)年内親王宣下を受け斎院に卜定。924(延長2)年二品。930(延長8)年父の喪により退下したあと、源清蔭と結婚した。のち橘惟風と再婚。
 斉子内親王は923(延喜23)年内親王宣下。936(承平6)年斎宮に卜定されたが、まもなく薨去。
 章明親王は930(延長8)年親王宣下を受け、939(天慶2)年元服。二品弾正尹。子女に伊勢斎宮となった隆子女王らがいる。
 勤子内親王は女四宮と称された。908(延喜8)年内親王宣下、四品。たおやかで物腰の柔らかい女性だったようで、筝に秀で、父帝より鍾愛された。中納言だった藤原師輔と結婚するが子女なく歿した。
 雅子内親王は西四条斎宮と称された。911(延喜11)年内親王宣下、四品。932(承平3)年、藤原敦忠と会う約束をした矢先に斎宮に卜定される。4年後母の喪のため退下。のち、藤原師輔に降嫁し、右近少将高光、愛宮(源高明室;藤原道長室明子の母)、太政大臣為光を生んだ。
 時明親王は三品兵部卿。
 源高明は921(延喜20)年臣籍降下し、968(康保4)年左大臣にのぼり西宮左大臣と称された。村上天皇・義父藤原師輔・中宮安子らの信任を得て権勢をふるうが、969(安和2)年、安和の変により太宰権帥に左遷されて筑紫に下る。同年出家。971(天禄2)年帰洛し葛野に隠棲した。妻には藤原実頼の娘、藤原師輔の娘(三女)、愛宮(藤原師輔の五女;先妻の妹で高明の実姉・雅子内親王の娘)、源泉の娘らをむかえた。権大納言俊賢、為平親王妃、藤原道長室明子らの父。「さりともと思ふ心にひかされて今まで世にもふる我が身かな」(後拾遺集653)
 盛明親王は一度源氏姓を賜り臣籍にくだるが、967(康保4)年親王宣下を受け四品に叙される。986(寛和2)年出家。
 長明親王は914(延喜14)年親王宣下を受け、925(延長3)年元服。930(延長8)年四品。
 兼明親王は920(延喜20)年臣籍降下し、929(延長7)年元服。その後左大臣にのぼる。御子左左大臣と称された。977(貞元2)年勅令をもって親王に復位、一品中務卿。文雅にすぐれ、前中書王と称される。「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき」(後拾遺集1154)
 源自明は921(延喜20)年臣籍降下。参議にのぼる。
 英子内親王は930(延長8)年内親王宣下を受け、946(天慶9)年斎宮に卜定されるが、4ヶ月後に薨去。
 重明親王は908(延喜8)年将保の名で親王宣下。911(延喜11)年改名。921(延喜21)年元服し、弾正尹、中務卿を歴任。三品式部卿。学問・音楽に秀でた。村上天皇女御・徽子女王の父。
 宣子内親王は903(延喜3)年内親王宣下を受ける。915(延喜15)年賀茂斎院に卜定されるが、920(延喜20)年病の為退下。
 克明親王は904(延喜4)年将順(マサノブ)の名で親王宣下を受ける。911(延喜11)年改名。916(延喜16)年元服して三品弾正尹。のち兵部卿。藤原時平の娘を妻とし、博雅らをもうけた。管弦、小弓に秀でていたという。
 靖子内親王は921(延喜21)年賜姓源氏となるが、930(延長8)年内親王宣下を受けた。藤原師氏とのあいだに一女をもうける。
 恭子内親王は903(延喜3)年内親王宣下を受け賀茂斎院に卜定される。915(延喜15)年母の喪のため退下。
 代明親王はシロアキラとも訓する。はじめ将観の名で親王宣下を受ける。911(延喜11)年改名。919(延喜19)年元服し、藤原定方の娘を妻とした。930(延長8)年三品中務卿となる。恵子女王(サトコ;准三宮、藤原伊尹室;冷泉天皇女御懐子らの母)、村上天皇女御荘子女王、厳子女王(藤原頼忠室;円融天皇女御遵子、花山天皇女御ィ子、嫡男公任の母)らの父。
 婉子内親王は930(延長8)年内親王宣下を受け、932(承平2)年三品に叙され斎院に卜定される。967(康保4)年譲位のため退下。969(安和2)年落飾。
 母未詳の源厳子は921(延喜20)年臣籍降下。

第61代天皇 朱雀天皇(923.9.7/延長元.7.24〜952.9.6/天暦6.8.15)(在位:930/延長8〜946/天慶9)
御名: 寛明親王(ユタアキラ)
御父: 第60代天皇 醍醐天皇(885.2.6/元慶9.1.18〜930.10.23/延長8.9.29)(在位:897/寛平9〜930/延長8)
御母: 五条后 藤原穏子(フジワラノ オンシ/ヤスコ)(885/仁和元〜954.2.9/天暦8.1.4)
女御: 王女御 熈子女王(ヒロコ/キシ)(? 〜950.5.24/天暦4.5.5)(父:東宮 保明親王)
第一皇女 昌子内親王(ショウシ/マサコ)(冷泉天皇皇后)(950/天暦4〜1000.1.10/長保元.12.1)
女御: 大将御息所 藤原慶子(フジワラノ ケイシ/ヨシコ)(? 〜951.11.10/天暦5.10.9)(父:関白太政大臣 藤原実頼)
  
 在位中の年号は延長、承平、元慶。925(延長3)年親王宣下を受け立太子。兄・保明親王、甥・慶頼王の早世など道真の祟りによる近親者の不幸が相次いでいた頃に生まれ、深窓にて大事に育てられた。父帝の崩御を受け即位し、伯父の藤原忠平を摂政とした。935(承平5)年承平の乱、936(承平6)年天慶の乱。治世中天変地異が相次ぎ譲位するが、復位を祈念したという。952(天暦6)年出家し、承平法皇と称された。陵墓は醍醐陵。「ひとりねにありし昔のおもほえて猶なき床をもとめつるかな」(玉葉集2347)、「をちこちの風とぞ今はなりなましかひなき物は我が身なりけり」(新続古今集1559)

 熈子女王は文献彦太子・保明親王の娘。922(延喜22)年か923(延長元)年の生まれ。937(承平7)年女御宣下を受ける。寵愛を受けるが昌子内親王を生んで薨去。
 藤原慶子は藤原実頼長女。941(天慶4)年入内し女御宣下を受けるが、幸福な結婚生活ではなかったらしく、「身のうきに思ひあまりのはてはてはおやさへつらき物にぞ有りける」(玉葉集)という歌が残る。

第62代天皇 村上天皇(926.7.14/延長4.6.2〜967.7.5/康保4.5.25)(在位:946/天慶9〜967/康保4)
御名: 成明親王(ナリアキラ)
御父: 第60代天皇 醍醐天皇(885.2.6/元慶9.1.18〜930.10.23/延長8.9.29)(在位:897/寛平9〜930/延長8)
御母: 五条后 藤原穏子(フジワラノ オンシ/ヤスコ)(885/仁和元〜954.2.9/天暦8.1.4)
皇后: 中后 藤原安子(フジワラノ アンシ/ヤスコ)(927/延長5〜964.6.11/応和4.4.29)(父:右大臣 藤原師輔)
第一皇女 承子内親王(ヨシコ)(948.6.1/天暦2.4.21〜951.8.30/天暦5.7.25)
第二皇子 憲平親王(ノリヒラ)(冷泉天皇)(950.6.12/天暦4.5.24〜1011.11.21/寛弘8.10.24)
第四皇子 為平親王(タメヒラ)(952/天暦6〜1010.12.15/寛弘7.11.7)
第七皇女 輔子内親王(伊勢斎宮968-969)(953/天暦7〜992.4.8/正暦3.3.3)
第九皇女 資子内親王(スケコ)(955/天暦9〜1015.5.16/長和4.4.26)
第七皇子 守平親王(モリヒラ)(円融天皇)(959.4.12/天徳3.3.2〜991.3.1/正暦2.2.12)
第十皇女 選子内親王(センシ/ノブコ)(賀茂斎院975-1031)(964.6.6/応和4.4.24〜1035.7.29/長元8.6.22)
女御: 弘徽殿女御 藤原述子(フジワラノ ジュツシ/ノブコ)(933/承平3〜947.11.20/天暦元.10.5)(父:関白 藤原実頼)
女御: 宣耀殿女御 藤原芳子(フジワラノ ホウシ/ヨシコ)(? 〜967/康保4.7.29)(父:右大臣 藤原師尹)
第六皇子 昌平親王(マサヒラ)(956/天暦10〜961.10.5/応和元.8.23)
第十皇子 永平親王(ナガヒラ)(965/康保2〜988.11.23/永延2.10.12)
女御: 斎宮女御 徽子女王(キシ)(929/延長7〜985/寛和元)(父:式部卿 重明親王)
第四皇女 規子内親王(キシ/ノリコ)(伊勢斎宮975-984)(949/天暦3〜986.6.24/寛和2.5.15)
第八皇子 皇子某(962.10/応和2.9)
女御: 麗景殿女御 荘子女王(930/延長8〜1008.8.19/寛弘5.7.16)(父:中務卿 代明親王)
第六皇女 楽子内親王(ガクシ/ヨシコ)(伊勢斎宮955-967)(952/天暦6〜998.10.3/長徳4.9.10)
第九皇子 具平親王(トモヒラ)(964.8.4/応和4.6.19〜1009.8.21/寛弘6.7.28)
更衣: 広幡御息所 源計子(ミナモトノ ケイシ/カズコ)(父:中納言 源庶明)
第二皇女 理子内親王(マサコ)(948/天暦2〜960.5.19/天徳4.4.21)
第五皇女 盛子内親王(セイシ/モリコ)(藤原顕光室)(951/天暦5〜998/長徳4.7.20)
更衣: 按察御息所 藤原正妃(フジワラノ マサヒメ)(? 〜967.9.2/康保4.7.25)(父:左大臣 藤原在衡)
第三皇女 保子内親王(ヤスコ)(藤原兼家室)(949/天暦3〜987.9.16/永延元.8.21)
第三皇子 到平親王(ムネヒラ)(951/天暦5〜1041.3.24/長久2.2.20)
第五皇子 昭平親王(アキヒラ)(954/天暦8〜1013.8.7/長和2.6.18)
更衣: 藤原元子(祐姫スケヒメ)(父:大納言 藤原元方)
第一皇子 廣平親王(ヒロヒラ)(950/天暦4〜971.10.1/天禄2.9.10)
第八皇女 緝子内親王(シュウソ/ツグコ)(? 〜970.9.21/天禄元.8.18)
更衣: 中将更衣 藤原脩子(フジワラノ シュウシ/ナガコ)(父:中納言 藤原朝成)
更衣: 弁更衣(父:藤原有相)
更衣: 藤原有序女
後宮: 藤原登子(? 〜975.5.12/天延3.3.29)(父:右大臣 藤原師輔)
  
 在位中の年号は天慶、天暦、天徳、応和、康保。927(延長4)年親王宣下、940(天慶3)年元服し三品、944(天慶7)年立太子。摂関を置かず天暦の治と呼ばれる聖代を実現したとされるが、実際には藤原実頼・師輔が実権を握っていた。諸芸に通じた風流人だったという。陵墓の村上陵にちなみ村上天皇と追号される。「逢ふことはいつにかあらん明日香河さだめなき世ぞおもひわびぬる」(続古今集1091)、「おもへども猶あやしきは逢ふことのなかりし昔なに思ひけん」(玉葉集1544)、「秋風になびく草葉の露よりもきえにし人をなににたとへん」(拾遺集1286)

 中宮・藤原安子は藤原師輔長女。940(天慶3)年添臥として入内し、藤壺で婚儀を行う。946(天慶9)年成明親王の即位と同時に女御宣下。はじめ梨壺を殿舎とし、のちに藤壺にうつる。「大鏡」には天皇寵姫の宣耀殿女御・芳子の美貌を垣間見て妬心でかわらけを投げつけたり、いささか嫉妬深い女性として描かれているが、基本的には心優しく、賢母であったようだ。天皇も彼女には頭があがらなかったといわれ、安子が末子選子内親王を出産してにわかに崩御すると、天皇は声をあげて泣き悲しんだと伝わる。冷泉・円融天皇の即位を見ることはなかったが、九条流が藤原氏嫡流となって栄華を極める基盤を築いた。968(康保4)年皇太后位を追贈。
 女御・藤原述子は関白藤原実頼の三女で、藤原北家本流の娘として、先に入内した安子よりも強力な後ろ盾があった。里邸にちなみ四条御息所とも。945(天慶8)年入内、翌年女御宣下。弘徽殿を殿舎とする。懐妊の兆候があって父より大いに期待されたが、まもなく疱瘡にかかり、わずか15歳で薨去。
 藤原芳子は藤原師尹長女。955(天暦9)年頃、宣耀殿を殿舎として入内。小一条女御、大将御息所とも称す。958(天徳2)年女御宣下。まれに見る美貌の上、古今集をすべてそらんじられたといい、中宮安子に妬まれるほど天皇の寵愛を受けたが、中宮崩御後には村上天皇が「何故中宮を苦しませるようなことをしたのか」と後悔の念にかられたため、寵が衰えたという。天皇崩御の2ヶ月後急死。
 徽子女王は重明親王長女。三十六歌仙のひとりで、承香殿を殿舎とし、承香殿女御とも称された。936(承平6)年8歳で伊勢斎宮となり、945(天慶8)年母の喪により退下。その後949(天暦2)年、20歳のときに天皇に入内。翌年女御宣下。和歌と琴をよくし、大いに寵愛された。975(天延3)年、娘・規子内親王が斎宮に卜定されたため、円融天皇の制止を振り切り伊勢に同行。984(永観2)年帰洛。「かつ見つつ影はなれゆく水のおもにかく数ならぬ身をいかにせん」(拾遺集879)、「袖にさへ秋の夕べはしられけりきえし浅茅が露をかけつつ」(新古今集778)、「忘られず思はましかば忘れぬを忘るるものと思はましやは」
 荘子女王は代明親王の次女。950(天暦4)年入内し女御宣下。麗景殿を殿舎とする。
 源計子は宰相更衣とも。才女多き村上天皇後宮のなかにあって特に聡明で、「逢坂もはてはゆききの関もゐずたづねてとひこきなばかへさじ」という沓冠歌を唯一読み解いたという。「月影に身をやかへましあはれてふ人の心にいりてみるべく」(万代集)
 藤原祐姫は、天皇の長男廣平親王を産むものの、同年安子が次男憲平親王を産んだため、後見の差で廣平親王が立太子することはなかった。このため祐姫の父・元方は村上天皇・中宮安子、そしてとりわけ憲平親王を深く恨み、憲平親王がしばしば狂気を見せたのはその為と囁かれた。祐姫は村上天皇崩御まで後宮にあり、その後出家した。
 藤原登子は藤原師輔の次女で、中宮安子の同母妹。当初重明親王妃となる。安子のもとに幾度か参内するうちに天皇に見初められ、何度か安子の仲介で密会していたらしい。安子没後宮中に召され登華殿を殿舎として時めくが、まもなく村上天皇も崩御。その後尚侍に任じられ、貞観殿に起居した。


 承子内親王は村上天皇長子として生まれ、949(天暦3)年内親王宣下を受けるも夭折。
 為平親王は染殿宮と称された。965(康保2)年元服し三品。源高明の娘と結婚し、参議源頼定、花山天皇女御婉子女王、異母弟具平親王妃、伊勢斎宮恭子女王などをもうけた。一品式部卿。両親から鍾愛を受けた聡明な親王で、憲平親王の次の東宮にと考えられていたが、源高明の娘と結婚したため、源高明が権力を握ることを嫌った藤原氏によって皇位から遠ざけられた。
 輔子内親王は968(康保5)年斎宮に卜定されるが、翌年譲位のため退下。二品に叙される。
 資子内親王は968(安和元)年三品に叙される。弟の円融天皇と仲が良かった。972(天禄3)年一品、翌年准三宮。一品宮と称される。986(寛和2)年出家。具平親王の娘・[女専]子女王を養女とした。
 選子内親王は964(康保元)年内親王宣下、974(天延2)年三品。975(天延3)年から1031(長元4)年の病による退下まで実に5代57年もの間斎院として過ごし、大斎院と称された。一条天皇中宮彰子のサロンに並ぶ華やかで大規模な文化サロンを形成。1024(治安4)年一品。「いろいろの花はさかりに匂ふとも野原の風の音にのみきけ」(続千載集382)
 永平親王は966(康保3)年親王宣下。979(天元2)年元服して四品兵部卿宮となる。誕生翌年両親に死に別れ、冷泉天皇皇后・昌子内親王の養子となる話があったが、「いみじき痴れ者」として有名でご破算になった。幼少期は八宮と称されていたらしい(本来十男だが、同母兄・昌平親王と、徽子女王腹の第八皇子が夭折していたためか)。
 楽子内親王は955(天暦9)年斎宮に卜定され、967(康保4)年父の喪のため退下。
 具平親王は965(康保2)年親王宣下を受け、977(貞観2)年元服して三品中務卿。1007(寛弘4)年二品。千種殿と称された。文雅に秀で、後中書王とも称され、多才な人物だったという。異母兄・為平親王の娘を妻とし、隆姫女王(藤原頼通正室;高倉北政所)、敦康親王妃、[女専]子女王(センシ/ヨシコ;伊勢斎宮1016-1036;藤原教通室)、源師房らの父となる。「あかざりし君がにほひの恋しさに梅の花をぞ今朝は折りつる」(拾遺集1005)、「春くれば散りにし花も咲きにけりあはれ別れのかからましかば」(千載集545)
 盛子内親王は藤原顕光に降嫁し、嫡男重家・一条天皇女御元子・小一条院女御延子の3人を生む。いずれの子も美貌を謳われた。
 致平親王は965(康保2)年元服し四品兵部卿となる。981(天元4)年園城寺に入室し出家。明王院宮と称された。
 昭平親王は961(応和元)年、村上天皇の皇子のなかで唯一源氏姓を賜り臣籍降下。968(安和元)年元服。977(貞元2)年、異母弟円融天皇により親王宣下を受け皇籍に復し、四品に叙される。岩蔵宮と称された。984(永観2)年出家。
 廣平親王は963(応和3)年元服し三品兵部卿となる。中宮安子腹の憲平親王よりわずかに早く生まれたものの、外戚の差で立太子することはなかった。

第63代天皇 冷泉天皇(950.6.12/天暦4.5.24〜1011.11.21/寛弘8.10.24)(在位:967/康保4〜969/安和2)
御名: 憲平親王(ノリヒラ)
御父: 第62代天皇 村上天皇(926.7.14/延長4.6.2〜967.7.5/康保4.5.25)(在位:946/天慶9〜967/康保4)
御母: 中后 藤原安子(フジワラノ アンシ/ヤスコ)(927/延長5〜964.6.11/応和4.4.29)
皇后: 三条太皇太后 昌子内親王(ショウシ/マサコ)(950/天暦4〜1000.1.10/長保元.12.1)(父:朱雀天皇)
女御: 藤原懐子(フジワラノ カイシ/チカコ)(945/天慶8〜975.5.16/天延3.4.3)(父:摂政 藤原伊尹)
第一皇女 女一宮宗子内親王(964/応和4〜986.8.28/寛和2.7.21)
第二皇女 女二宮尊子内親王(ソンシ)(賀茂斎院968-975、円融天皇女御)(966/康保3〜985.5.24/永観3.5.2)
第一皇子 師貞親王(モロサダ)(花山天皇)(968.11.19/安和元.10.26〜1008.3.17/寛弘5.2.8)
女御: 藤原超子(フジワラノ チョウシ/トオコ)(? 〜982.2.24/天元5.1.28)(父:摂政 藤原兼家)
第三皇女 光子内親王(973/天禄3〜975.8.6/天延3.6.26)
第二皇子 居貞親王(オキサダ)(三条天皇)(976.2.5/天延4.1.3〜1017.6.5/寛仁元.5.9)
第三皇子 為尊親王(タメタカ)(977/貞元2〜1002.7.25/長保4.6.13)
第四皇子 敦道親王(アツミチ)(981/天元4〜1007.11.14/寛弘4.10.2)
女御: 藤原※子(フジワラノ フシ/ヨシコ)(父:右大臣 藤原師輔) ※=付+心
  
 在位中の年号は康保、安和。950(天暦4)年親王宣下、立太子。963(応和3)年元服。父帝の崩御を受け即位し、藤原実頼を関白とした。即位時18歳という年齢で、先帝が摂関を置かなかったのに対し関白を置いたのは、精神薄弱だったためという。その症状がどういったものだったかは定かではないが、奇行が多く見られたのは確からしく、なまじ見目麗しく正気のときは聡明ゆえに両親や近臣の心痛は並大抵ではなかったという。譲位後42年のあいだ上皇として過ごし、赤痢で崩御。陵墓は桜本陵。追号は在所より。

 皇后・昌子内親王は朱雀天皇のひとり娘。950(天暦4)年内親王宣下、962(応和元)年三品。母方も皇族ゆえに摂関家全盛期にあって後ろ盾に乏しかったが、父帝が娘の立后を強く望み、また叔父・村上天皇も幼くして両親を喪った彼女を庇護していたため、963(応和3)年いとこの東宮憲平親王に入内。967(康保4)年には冷泉天皇即位に伴って立后。上品でつつましやかな女性だったという。もっとも精神的に不安定だった夫・冷泉天皇とは疎遠だった。986(寛和2)年太皇太后となる。
 藤原懐子は藤原伊尹長女。963(応和3)年東宮に入内。天皇の即位とともに女御となる。所生の宗子内親王は二品内親王となったが早世した。
 藤原超子は摂政藤原兼家の長女。954(天暦8)年頃の生まれか。968(安和元)年冷泉天皇に御匣殿として入内、女御宣下。当時父の兼家は蔵人頭で、公卿の娘ではなく女御となった初例とされる。美貌だったといい、冷泉天皇譲位後立て続けに四子を産み、とくに皇子たちは祖父兼家の鍾愛を受けた。982(天元5)年、庚申待ちの明け方に頓死。1012(寛弘8)年皇太后位を追贈。為尊親王は989(永祚元)年元服、四品。まもなく三品弾正尹となる。990(正暦元)年頃二品に叙される。藤原伊尹の九女と結婚するが、和泉式部と昵懇の仲となり、はやり病が蔓延していた京を毎夜出歩いたため、病に罹患し薨去。敦道親王は993(正暦4)年元服し四品に叙される。藤原道隆の三女を妻とするが離婚し、藤原済時の次女と再婚。太宰帥に任じられ、帥宮と称された。兄の愛人であった和泉式部を自邸に迎え寵愛するが、1007(寛弘4)年、三品に叙されて半年後に薨去。和泉式部とのあいだに男子(永覚)をもうけたとされる。「われが名は花ぬす人と立たば立てただ一枝は折りてかへらむ」(和泉式部集)、「人はいさ我は忘れずほどふれど秋の夕暮ありし逢ふこと」(和泉式部日記)
 ※子は藤原師輔六女。父歿後、甥にあたる東宮の元服にあわせて入内。当初御匣殿別当。968(安和元)年女御宣下。982(天元5)年尚侍に任官。989(永祚元)年落飾。

第64代天皇 円融天皇(959.4.12/天徳3.3.2〜991.3.1/正暦2.2.12)(在位:969/安和2〜984/永観2)
御名: 守平親王(モリヒラ)
御父: 第62代天皇 村上天皇(926.7.14/延長4.6.2〜967.7.5/康保4.5.25)(在位:946/天慶9〜967/康保4)
御母: 中后 藤原安子(フジワラノ アンシ/ヤスコ)(927/延長5〜964.6.11/応和4.4.29)
皇后: 堀河中宮 藤原※子(フジワラノ コウシ/テルコ)(947/天暦元〜979/天元2.6.3)(父:関白 藤原兼通) ※=女皇
皇后: 四条宮 藤原遵子(フジワラノ ジュンシ/ノブコ)(957/天徳元〜1017.6.27/寛仁元.6.1)(父:関白 藤原頼忠)
女御: 東三条院 藤原詮子(フジワラノ センシ/アキコ)(962/応和2〜1002.27/長保3.閏12.22)(父:摂政 藤原兼家)
第一皇子 懐仁親王(ヤスヒト)(一条天皇)(980.7.15/天元3.6.1〜1011.7.25/寛弘8.6.22)
女御: 承香殿女御 尊子内親王(ソンシ)(966/康保3〜985.5.24/永観3.5.2)(父:冷泉天皇)
更衣: 中将御息所(父:大納言 藤原懐忠)
更衣: 少将更衣
   
 在位中の年号は安和・天禄・天延・貞元・天元・永観。959(天徳3)年親王宣下、967(康保4)年兄を飛び越して立太子。兄帝の譲位を受けて即位し、藤原実頼を摂政とした。仲の良かった同母姉・資子内親王を一品に叙したり、兄弟で唯一源氏となって臣下の礼をとっていた源昭平を親王に復位させたりと、肉親の情にあつかった。我が子を生んだ詮子の父・兼家とは折り合いが悪く、関白兼通による兼家冷遇を容認。985(寛和元)年出家して円融寺に在したため、円融院と追号された。陵墓は後村上陵。「思ひかねながめしかども鳥辺山はてはけぶりもみえずなりにき」(詞花集395)

 最初の后・堀河中宮は関白藤原兼通の長女で、973(天禄4)年27歳で12才年下の円融天皇に入内。麗景殿を殿舎とした。同年立后。33歳で崩御し、年齢こそ離れていたものの仲は悪くなかったようで、追悼した天皇の上記和歌が残る。
 二番めの后・四条宮は、関白藤原頼忠の長女。978(天元元)年入内、女御宣下。弘徽殿を殿舎とし、弘徽殿女御と称された。先立の后・堀河中宮が崩御したため、990(正暦元)年新たに立后。しかし女御にとどまった藤原詮子に皇子があり、彼女には子がなかったため、世間からは「素腹の宮」と揶揄された。のち皇太后、太皇太后となり、三条太皇太后と称される。
 一条天皇生母の藤原詮子は、摂政藤原兼家の次女。978(天元元)年入内、女御宣下。凝華舎を殿舎とし梅壺女御と称された。正后堀河中宮が薨去した翌年に第一皇子・懐仁親王を産み、兼家・詮子は当然のごとく立后を期待していた所、藤原遵子が立后したため、兼家一家は憤激して自邸に籠居し、天皇の召還にも従わなかった。986(寛和2)年、所生の一条天皇の即位に伴い立后。991(正暦2)年、女性として初めて院号宣下を受け、東三条院と称される。息子の一条天皇に強い影響力を持ち、特に末弟道長とは仲が良かった。晩年には母定子を喪った孫娘・[女美]子内親王を引き取り養育。
 尊子内親王は花山天皇の同母姉で、容姿端麗な女性だったという。968(康保5)年賀茂斎院に卜定。975(天延3)年母の喪により退下し、978(貞元3)年四品に叙される。980(天元3)年麗景殿を殿舎として入内 (のち982年に承香殿に転居)。彼女の入内後まもなく内裏が火災となって「火の宮」と不名誉な呼び方をされた(音としては「妃の宮」と通じる)。外戚のほとんどが歿し後見がない中、981(天元4)年二品に叙されるが、翌年唯一の頼りであった叔父光昭が他界したためわずか17歳で自ら髪を切って出家。985(永観3)年薨去。
 中将御息所は天皇崩御後、藤原兼家の妻となった。

第65代天皇 花山天皇(968.11.19/安和元.10.26〜1008.3.17/寛弘5.2.8)(在位:984/永観2〜986/寛和2)
御名: 師貞親王(モロサダ)
御父: 第63代天皇 冷泉天皇(950.6.12/天暦4.5.24〜1011.11.21/寛弘8.10.24)(在位:967/康保4〜969/安和2)
御母: 女御 藤原懐子(フジワラノ カイシ/チカコ)(945/天慶8〜975.5.16/天延3.4.3)
女御: 弘徽殿女御 藤原※子(フジワラノ キシ/ヨシコ)(? 〜985.8.7/寛和元.7.18)(父:太政大臣 藤原為光) ※=りっしんべんに低の旁をあわせたもの
女御: 堀河女御 藤原姚子(フジワラノ チョウシ/ヨシコ)(971/天禄2〜989.7.4/永延3.5.29)(父:大納言 藤原朝光)
女御: 承香殿女御 藤原ィ子(フジワラノ シシ/タダコ)(? 〜1035.7.28/長元8.6.21)(父:関白 藤原頼忠)
女御: 婉子女王(エンシ/ヨシコ)(父:式部卿 為平親王)(972/天禄3〜998.10.10/長徳4.9.17)
後宮: 中務(父:若狭守 平祐之)
皇子 清仁親王(? 〜1030/長元3)
皇女某
皇女某
後宮: 平平子(タイラノ ヒラコ)(父:若狭守 平祐忠)
皇子 昭登親王(アキノリ)(998/長徳4〜1028.5.23/長元元.4.14)
皇女某
皇女某(兵部命婦)
後宮: 母未詳
覚源(カクゲン)(1000/長保2〜1065.9.20/治暦元.8.18)
  
 在位中の年号は永観、寛和。969(安和2)年立太子、982(天元5)年元服。藤原頼忠を関白としたが、在位わずか2年で出家し譲位。風雅を好み芸術の才を持ったが、出家後は奇行も目立った。また、譲位後藤原為光の四女に通い、三女に通っていた藤原伊周にライバルと誤解されて矢を射かけられている。陵墓は紙屋川上陵。追号は御在所より。「朝ぼらけおきつる霜のきえかへり暮まつほどの袖を見せばや」(新古今集1189)

 弘徽殿女御は太政大臣藤原為光の次女で984(永観2)年入内、翌月女御宣下。花山天皇の寵愛を一身に受け、翌年懐妊するものの、にわかに病んで薨去。花山天皇は最愛の寵姫の死に慟哭し、出家に心惹かれるようになった。
 藤原姚子は大納言藤原朝光の長女。殿舎は麗景殿。984(永観2)年入内、女御宣下。美貌で入内当初は天皇の寵愛を受けるが、ひとつきほどで寵が衰えぱったりと沙汰がなくなり、同じ頃入内した弘徽殿女御が昼夜間断なく寵愛を受けているさまにいたたまれず里邸に退出。天皇はこれを哀れむことなく、再度の参内を促すこともなかった。989(永延3)年わずか19歳で薨去。
 藤原ィ子は藤原頼忠次女。985(永観2)年入内し女御宣下を受けるが、寵愛なく、天皇退位後に出家。四条宮女御とも称された、
 婉子女王は村上天皇皇子・為平親王の長女。985(永観2)年入内し女御宣下を受けるものの天皇は翌年出家してしまい、わずかに15歳だった婉子女王はのちに右大臣藤原実資と再婚。
 中務は天皇の乳母姉妹。そのため天皇とは昔より慣れ親しんでいた。また彼女の娘の平子も花山天皇の寵愛を受け、母子ともに一男二女をそれぞれ出産。清仁親王(四品弾正尹)は母腹宮、昭登親王(四品中務卿)は女腹宮と呼ばれた。ともに花山上皇が出家後に生まれたため、祖父冷泉上皇の猶子となって元服、親王宣下。花山天皇は崩御間際、遺される娘達の行く末が気がかりだと嘆き(当時は後ろ盾のない女性は高貴な身分でも惨憺たる境遇になりがちだった為)、そのため花山法皇崩御後に4人の娘達のうち3人が相次いで他界した際、周囲は故法皇が連れて行ったのだとささやきあった。残ったひとりは法皇の命令によって別の女性の子として育てられたために助かったのだとされ、彼女はのちに上東門院藤原彰子の女房になったらしく、1024(万寿元)年暴漢に殺害された。
 また、後宮に入ってはいないが、花山天皇が譲位し法皇となってから通っていた女性に、藤原儼子(? 〜1016.3.2/長和5.1.21)(父:太政大臣 藤原為光)がいる。彼女は為光の四女で四の君と呼ばれ、弘徽殿女御の異母妹にあたる。姉の三の君と同居していたため、三の君に通っていた藤原伊周が、四の君に通う花山法皇を見て誤解し、弟隆家とともに法皇に矢を射掛ける事件を起こしてしまうこととなった (長徳の変)。花山法皇崩御後、三条天皇中宮藤原妍子に出仕して典侍に任じられ、のちには藤原道長の妻妾として扱われた。1016(長和5)年、道長の子を出産した際の産褥で他界。

第66代天皇 一条天皇(980.7.15/天元3.6.1〜1011.7.25/寛弘8.6.22)(在位:986/寛和2〜1011/寛弘8)
御名: 懐仁親王(ヤスヒト)
御父: 第64代天皇 円融天皇(959.4.12/天徳3.3.2〜991.3.1/正暦2.2.12)(在位:969/安和2〜984/永観2)
御母: 東三条院 藤原詮子(フジワラノ センシ/アキコ)(962/応和2〜1002.27/長保3.閏12.22)
皇后: 藤原定子(フジワラノ テイシ/サダコ)(976/貞元2〜1000.1.13/長保2.12.16)(父:関白 藤原道隆)
第一皇子 脩子内親王(シュウシ/ナガコ)(997.1.27/長徳2.12.16〜1049.3.13/永承4.2.7)
第一皇子 敦康親王(アツヤス)(999.12.17/長保元.11.7〜1019.1.25/寛仁2.12.17)
第二皇女 ※子内親王(ビシ/ヨシコ)(1001.1.12/長保2.12.25〜1008.6.30/寛弘5.5.25) ※=女美
中宮: 上東門院 藤原彰子(フジワラノ ショウシ/アキコ)(988/永延2〜1074.6.27/承保元.10.3)(父:太政大臣 藤原道長)
第二皇子 敦成親王(アツヒラ)(後一条天皇)(1008.10.12/寛弘5.9.11〜1036.5.15/長元9.4.17)
第三皇子 敦良親王(アツナガ)(後朱雀天皇)(1009.12.14/寛弘6.11.25〜1045.2.7/寛徳2.1.18)
女御: 承香殿女御 藤原元子(フジワラノ ゲンシ/モトコ)(父:右大臣 藤原顕光)
女御: 弘徽殿女御 藤原義子(フジワラノ ギシ/ヨシコ)(974/天延2〜1053.8/天喜元.閏7)(父:太政大臣 藤原公季)
女御: 暗部屋女御 藤原尊子(フジワラノ ソンシ/タカコ)(984/永観2〜1023.1.19/治安2.12.25)(父:関白 藤原通兼)
御匣殿: 関白藤原道隆女(985? 〜1002.7.15/長保4.6.3)
  
 在位中の年号は寛和、永延、永祚、正暦、長徳、長保、寛弘。諱はカネヒトとも訓ずる。980(天元3)年親王宣下、984(永観2)年立太子。外祖父藤原兼家を摂政とした。990(永祚2)年元服。温厚な人柄で、好学で漢詩にすぐれ、笛の名手でもあったという。彼の治世に権力を握った藤原道長とは協調姿勢をとり、藤原行成などの有能な官人を登用。平安時代を代表する賢帝であり、多くの廷臣に慕われ、彼の後宮にて平安女流文学が花開くこととなった。1011(寛弘8)年病の為譲位。中宮彰子の必死の看病もむなしく崩御した。陵墓は円融寺北陵。追号は里内裏の名称より。「野辺までと心ひとつはかよへども我がみゆきとはしらずやあるらん」(後拾遺集543)、「露の身の草のやどりに君をおきて塵を出でぬることをこそ思へ」(栄華物語)

 皇后藤原定子は関白藤原道隆の長女。990(正暦元)年入内、女御宣下。まもなく「天皇の思し召し」があって立后するが、当時一条天皇は11歳の童子であり、関白職を継いでいた父道隆の思惑によるものと思われる。立后当初は中宮と称され、四后並立の初例 (太皇太后・朱雀天皇后昌子、皇太后・円融天皇女御詮子、皇后・円融天皇后遵子、中宮・定子)。美貌聡明で、快活な性格の女性だったとされる。「枕草子」著者の清少納言の主人で登華殿を殿舎とする。父存命中はほかの女御の入内もなく、時めいて幸福な妃であったが、995(長徳元)年父道隆が大酒によって歿し、さらに翌年花山法皇を射た咎で弟伊周と隆家が左遷されると、世を儚んだ定子は身重の身ながら自ら髪を切って出家。997(長徳3)年、一条天皇に強く望まれ宮中に参内するが、尼僧姿であり公卿の顰蹙を買ったという。その後還俗し、皇后宮となった1000(長保2)年、第三子となる皇女を産むも、産褥により急死。遺された皇女は祖母・東三条院詮子の養女となった。「夜もすがらちぎりしことをわすれずは恋ひむ涙のいろぞゆかしき」(後拾遺集536)。脩子内親王は長女として父帝の鍾愛を受ける。998(長徳3)年内親王宣下を受け、1005(寛弘2)年三品、翌年二品、1007(寛弘4)年一品准三宮となり、一品宮と称された。1024(治安4)年落飾。敦康親王は中関白家没落後に生まれる。1000(長保2)年親王宣下。父より立太子を望まれた聡明かつ思いやり深い皇子で、父帝の配慮により母代にえらばれた中宮彰子にかわいがられて育つ。1010(寛弘7)年元服して三品太宰帥。翌年一品准三宮。結局東宮には異母弟・敦成親王がたち、皇后腹の第一皇子ながら彼は一皇子としての将来を歩まざるを得なかった。具平親王の次女と結婚。のち式部卿。後朱雀天皇女御[女原]子の父。道長により立太子を阻まれたが、その嫡男の頼通とは義兄弟の間柄で親しかったという。
 中宮藤原彰子は内覧藤原道長の長女。999(長保元)年入内、女御宣下。入内直後に中宮定子が第一皇子敦康親王を出産している。翌年立后。先立の后定子を皇后とし、彰子を中宮と呼んで一帝二后の初例となった。藤壺を殿舎とする。「源氏物語」を著した紫式部はじめ、歌人の和泉式部・赤染衛門・伊勢大輔など多数の才媛を従え、華やかな一大文芸サロンの女主人となり、定子亡き後は後宮第一の女性として大切に扱われた。長いこと子を授からずに定子の遺児敦康親王を養子とするが、20歳をすぎて敦成親王・敦良親王を打ち続けて出産、道長家の隆盛を支える。一条天皇譲位の際には天皇の内意を慮って敦康親王の立太子を望んだが、敦成親王が立太子したため父を恨んだとされる。藤原実資に「賢后」と称された聡明さで、上品で思いやりのある女性だったという。大女院と称され、一条朝以降は自身の崩御まで宮廷に隠然たる影響力を持った。1026(万寿3)年院号宣下。「逢ふことも今はなきねの夢ならでいつかは君をまたは見るべき」(新古今集811)
 藤原元子は藤原顕光の長女。996(長徳2)年入内、女御宣下。998(長徳4)年懐妊したとして意気揚々と内裏を退出しながら、多量の水を排出して腹部の膨張はすっかり消えるという珍事に遭い、このことを恥じて宮中に参内しなくなった。天皇の寵愛はそれなりにあったようで、たびたび宮中に戻るように促されている。一条天皇崩御後、源頼定と密通したことが父に露見し髪を切られた。もっとも彼女は清々したとばかりに家を抜け出して頼定のもとへ走り、頼定との間にふたりの娘を産んでいる。
 藤原義子は藤原公季長女。996(長徳2)年入内、女御宣下。同時期に入内した元子と比べるとさほど寵愛を受けなかった。1027(万寿3)年落飾。
 藤原尊子は藤原道兼の長女だが、父からはまったくかわいがられなかったという。母・繁子は一条天皇乳母。998(長徳4)年入内し御匣殿別当となり、1000(長保2)年女御宣下。一条天皇崩御後、1015(長和4)年に参議・藤原通任と結婚した。
 御匣殿は中宮定子の同母妹で藤原道隆四女。母を喪った脩子内親王・敦康親王の母代として参内したが、まもなく一条天皇の寵愛を受けるようになる(※定子末子の[女美]子内親王は東三条院養女)。殿舎は貞観殿。1002(長保4)年、懐妊して里邸に下がっているあいだに急死。まだ十代後半の若さだったという。

第67代天皇 三条天皇(976.2.5/天延4.1.3〜1017.6.5/寛仁元.5.9)(在位:1011/寛弘8〜1016/長和5)
御名: 居貞親王(オキサダ)
御父: 第63代天皇 冷泉天皇(950.6.12/天暦4.5.24〜1011.11.21/寛弘8.10.24)(在位:967/康保4〜969/安和2)
御母: 女御 藤原超子(フジワラノ チョウシ/トオコ)(? 〜982.2.24/天元5.1.28)
皇后: 堀河女御 藤原※子(セイシ)(972/天禄3〜1025.4.25/万寿2.3.25)(父:大納言 藤原済時) ※=女成
第一皇子 敦明親王(アツアキラ)(後一条天皇皇太子、小一条院)(994.6.20/正暦5.5.9〜1051.2.21/永承6.1.8)
妃: 堀河女御 藤原延子(985? 〜1019.5.17/寛仁3.4.10)(父:左大臣 藤原顕光)
第一王子 敦貞親王(アツサダ)(1014.10/長和3.10〜1061.3.2/康平4.2.8)
第一王女 栄子内親王(1015/長和4〜 ?)
第二王子 敦昌親王(アツマサ)
妃: 高松殿女御 藤原寛子(1000.1/長保元.12〜1025.8.5/万寿2.7.9)(父:太政大臣 藤原道長)
第二王女 冷泉宮※子内親王(ケンシ)(藤原信家室)(1018/寛仁2〜1097/永長元)  ※=人偏に環のつくり
第三王子 敦元親王(アツモト)(1023/治安3〜1032.8.22/長元5.7.14)
妃: 院の上(1011/寛弘8〜1062.7/康平5.6)(父:右大臣 藤原頼宗)
第四王子 源基平(モトヒラ)(1026/万寿3〜1064.6.2/康平7.5.15)
第五王子 敦賢親王(アツカタ)(1039/長暦3〜1077.8.8/承暦元.7.17)
女房: 瑠璃女御(? 〜1089.5/寛治3.4)(父:下野守 源政隆)
源信宗(ノブムネ)(? 〜1097.7.31/承徳元.6.20)
信子女王
斉子女王(賀茂斎院1074-1089;春日斎院)
女房: 備前守源長経女
嘉子内親王(ヨシコ)(伊勢斎宮1046-1051)
後宮: 母未詳
源顕宗
源当宗
第二皇子 敦儀親王(アツヨシ)(997/正暦5.5.9〜1054.8.16/天喜2.7.11)
第三皇子 敦平親王(アツヒラ)(999/長保元〜1049.4.22/永承4.3.18)
第一皇女 当子内親王(トウシ/マサコ)(伊勢斎宮1012-1016)(1001/長保3〜1022.10.10/治安2.9.12)
第二皇女 ℃q内親王(テイシ/ヤスコ)(藤原教通室)(1003/長保5〜1048.3.16/永承3.閏1.29)
第四皇子 師明親王(モロアキラ)(性信入道親王)(ショウシン)(1005.7.1/寛弘2.6.1〜1085.10.18/応徳2.9.27)
中宮: 枇杷殿皇太后 藤原妍子(フジワラノ ケンシ/キヨコ)(994.4/正暦5.3〜1027.10.16/万寿4.9.14)(父:太政大臣 藤原道長)
第三皇女 禎子内親王(テイシ/ヨシコ)(後朱雀天皇皇后、陽明門院)(1013.8.15/長和2.7.6〜1094.2.3/寛治8.1.16)
東宮妃: 淑景舎女御 藤原原子(フジワラノ ゲンシ/モトコ)(981? 〜1001.1.13/長保4.8.3)(父:関白 藤原道隆)
尚侍: 麗景殿尚侍 藤原綏子(フジワラノ スイシ/ヤスコ)(974/天延2〜1004.2.29/長保6.2.7)(父:摂政 藤原兼家)
 
 在位中の年号は寛弘、長和。978(貞元2)年親王宣下、986(寛和2)年元服と同時に立太子。一条天皇よりも年上だったため「さかさの儲けの君」と称された。一条天皇の譲位を受けて即位するものの、母は既になく父は精神に異常があり、叔父にあたる藤原道長の後見も期待できず、その帝位は不安定であった。祖父兼家似で特に兼家に鍾愛されたという。眼病を患って政務に支障をきたしたことで道長より譲位を迫られ、我が子敦明親王の立太子を条件に退位。陵墓は北山陵。追号は御在所から。「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」(後拾遺集860、百人一首)

 皇后[女成子]は宣耀殿の女御とも。藤原済時の長女で、稀な美女だったといい、991(正暦2)年、東宮時代の三条天皇に望まれて入内。大いに寵愛されて四男二女を生む。天皇の即位とともに女御宣下を受け、1012(寛弘9)年立后するものの、父済時は既に亡く、道長の娘妍子も立后していたために祝われることはなかった (道長は妍子の立后後初めての参内を、[女成]子立后の当日とわざとかち合わせ、大多数の公卿はそちらに伺候してしまう)。小一条皇后と称された。1018(寛仁3)年落飾。
 中宮藤原妍子は藤原道長の次女。道長の娘の中ではとりわけ美貌で、やや派手好みの女性だったらしい。1010(寛弘7)年当時東宮だった三条天皇に入内、翌年天皇の即位にともなって女御宣下。1012(寛弘9)年立后。同年末には妍子の懐妊が明らかとなり父道長は皇子の誕生を期待するが、生まれたのは女児であったため、道長はその祝宴の席で甚だ不機嫌だったという。一方で三条天皇は禎子内親王の誕生に歓喜。禎子内親王は父帝の鍾愛を受け、のちには道長も内親王をかわいがるようになり、父帝崩御後も道長家の手厚い庇護を受けた。1027(万寿4)年妍子が病歿し、道長は娘の遺体に取りすがって泣いたという。
 東宮妃藤原原子は、藤原道隆の次女で一条天皇后定子の同母妹。993(正暦4)年入内。桐壺を殿舎とした。995(正暦6)年女御宣下。寵愛を受けるものの同年に父道隆が歿し、翌年には弟たちの左遷や母の他界など不幸が重なる。1001(長保4)年、鼻と口から血をあふれさせて急死し、寵愛を妬んだ宣耀殿女御(藤原[女成]子)の毒殺との巷説があった。まだ20歳をいくつか超したばかりの若さだったという。
 尚侍の藤原綏子は藤原兼家の三女で、道隆・道兼・道長兄弟とは異母姉妹にあたる。987(寛和2)年入内。添臥の妃で、父存命中は時めいた妃だったらしいが、父没後は寵愛を失い里邸に篭もりがちになる。長徳年間に源頼定と密通し、懐妊までしたという。1004(長保6)年、意識不明となって数日後、薨去。


 長男敦明親王は1006(寛弘3)年元服、1011(寛弘8)年親王宣下を受け三品式部卿に叙される。1013(長和2)年一品。父帝譲位後立太子するが、母方の後見は頼りにならず、翌年父帝も崩御したため自ら太子位を辞退。道長は彼に准太上天皇の称号と院号を授け、娘寛子を入内させた。当時小一条院には東宮に立太子する6年前に迎えた美貌の妃・堀河女御延子がおり、8才ほど年上の延子とは睦まじかったが、寛子入内後小一条院の訪れは稀々となり、延子・顕光親子はこれを深く恨んだという。心労と嘆きが重なったためか、延子は寛子入内の2年後の1019(寛仁3)年、血を吐いて薨去した。高松殿女御寛子は1017(寛仁元)年、5才年上の小一条院の女御となり、美貌で寵愛されたが早世。寛子や寛子が生んだ敦元親王が早世したのは延子親子の祟りによるものと考えられた。敦明親王は寛子他界後、藤原頼宗の長女(大姫君)を正妻格に迎える。ほか、瑠璃女御と称された女性(もとは寛子に仕えていた女房で、女御宣下を受けたわけではない)が側室となっている。
 敦儀親王は1011(寛弘8)年親王宣下を受け、のち三品式部卿。岩蔵式部卿宮と称された。藤原隆家の娘を妻とする。
 敦平親王は1011(寛弘8)年親王宣下を受け、のち二品兵部卿。
 長女当子内親王は1011(寛弘8)年内親王宣下、1013(長和元)年斎宮に卜定される。伊勢群行のための別れの御櫛の儀式において、愛娘との別れが辛いあまり父帝が禁を破って振り返ってしまったという逸話がある。1016(長和5)年、父帝譲位のため伊勢より退下。その後藤原道雅との密通の噂が流れ、激怒した父によりふたりは別れを余儀なくされ、内親王は出家。このとき道雅が詠んだ「いまはただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな」(後拾遺集750)という悲痛な和歌が百人一首に残る。
 ℃q内親王は1011(寛弘8)年内親王宣下を受け、1015(長和4)年藤原頼通との縁談が持ち上がるが頼通側が辞退。1019(寛仁3)年三品。のち一品に叙され、1026(万寿3)年藤原教通に降嫁した。
 末子師明親王は仁和寺御室。1011(寛弘8)年親王宣下を受け、1018(寛仁2)年出家。1083(永保3)年二品准三宮。父三条天皇の戒師。

第68代天皇 後一条天皇(1008.10.12/寛弘5.9.11〜1036.5.15/長元9.4.17)(在位:1016/長和〜1036/長元9)
御名: 敦成親王(アツヒラ)
御父: 第66代天皇 一条天皇(980.7.15/天元3.6.1〜1011.7.25/寛弘8.6.22)(在位:986/寛和2〜1011/寛弘8)
御母: 上東門院 藤原彰子(フジワラノ ショウシ/アキコ)(988/永延2〜1074.6.27/承保元.10.3)
皇后: 大中宮 藤原威子(フジワラノ イシ/タケコ)(1000.2.1/長保元.12.23〜1036.9.28/長元9.9.6)(父:太政大臣 藤原道長)
第一皇女 章子内親王(ショウシ/アキコ)(後冷泉天皇皇后、二条院)(1027.1.19/万寿3.12.9〜1105.10.26/長治2.9.17)
第二皇女 馨子内親王(ケイシ/カオルコ)(賀茂斎院1031-1036、後三条天皇皇后)(1029.2.17/長元2.2.2〜1093.9.26/寛治7.9.4)
  
 在位中の年号は長和、寛仁、治安、万寿、長元。1008(寛弘5)年親王宣下、1011(寛弘8)年立太子、1018(寛仁2)年元服。中宮彰子に生まれた待望の皇子であり、外祖父道長が摂政となって万事を執行した。文雅を愛した温和な人柄で、唯一の妃であった威子が女子を生んで周囲が失望した際、「昔のえらい人は女子を皇太子にしたのだから」といって威子を庇ったという。1036(長元9)年病歿。陵墓は菩提樹院陵。

 妃の藤原威子は藤原道長四女(倫子腹では三女)で、後一条天皇生母の上東門院の同母妹。天皇よりも9才年上で、入内当初はそのことを恥ずかしがっていたという。1018(寛仁2)年入内、女御宣下。藤壺を殿舎とする。同年立后。この際、長姉彰子が太皇太后、次姉妍子が皇太后、威子が中宮となって一家三后の偉業を成し遂げた道長は、「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」という歌を詠んだ。ほかの公卿たちはもとより、兄弟の頼通や教通も威子に遠慮して娘を入内させることはなく、天皇唯一の妃として大中宮と称された。後一条天皇崩御からわずか5ヶ月、疱瘡により崩御。

第69代天皇 後朱雀天皇(1009.12.14/寛弘6.11.25〜1045.2.7/寛徳2.1.18)(在位:1036/長元9〜1045/寛徳2)
御名: 敦良親王(アツナガ)
御父: 第66代天皇 一条天皇(980.7.15/天元3.6.1〜1011.7.25/寛弘8.6.22)(在位:986/寛和2〜1011/寛弘8)
御母: 上東門院 藤原彰子(フジワラノ ショウシ/アキコ)(988/永延2〜1074.6.27/承保元.10.3)
皇后: 陽明門院 禎子内親王(テイシ/ヨシコ)(1013.8.15/長和2.7.6〜1094.2.3/寛治8.1.16)(父:三条天皇)
第一皇女 良子内親王(リョウシ/ナガコ)(伊勢斎宮1036-1045)(1030.1.25/長元2.12.13〜1077.9.15/承暦元.8.26)
第二皇女 娟子内親王(ケンシ)(賀茂斎院1036-1045、源俊房室)(1032.10.19/長元5.9.13〜1103.4.20/康和5.3.12)
第二皇子 尊仁親王(タカヒト)(後三条天皇)(1034.9.3/長元7.7.18〜1073.6.15/延久5.5.7)
中宮: 弘徽殿中宮 ※子女王(ゲンシ/モトコ)(1016.8.15/長和5.7.10〜1039.9.19/長暦3.8.28)(父:式部卿 敦康親王)  ※=女原
第三皇女 祐子内親王(ユウシ/スケコ)(1038.5.27/長暦2.4.21〜1105.12.15/長治2.11.7)
第四皇女 ※子内親王(バイシ/ミワコ)(賀茂斎院1046-1058)(1039.9.10/長暦3.8.19〜1096.10.1/嘉保3.9.13)  ※=示某
女御: 高倉女御 藤原延子(フジワラノ エンシ/ノブコ)(1016.11.6/長和5.10.4〜1095.7.13/嘉保2.6.9)(父:右大臣 藤原頼宗)
第五皇女 正子内親王(ショウシ/マサコ)(賀茂斎院1058-1069)(1045.5.9/寛徳2.4.20〜1114.9.20/永久2.8.20)
女御: 梅壺女御 藤原生子(フジワラノ ショウシ/ナリコ)(1014.9.14/長和3.8.17〜1068.9.20/治暦4.8.21)(父:関白 藤原教通)
尚侍: 藤原真子(1016/長和5〜1088.1.11/寛治元.12.15)(父:関白 藤原教通)
尚侍: 東宮御息所 藤原嬉子(フジワラノ キシ/ヨシコ)(1007.1.26/寛弘4.1.5〜1025.8.30/万寿2.8.5)(父:太政大臣 藤原道長)
第一皇子 親仁親王(チカヒト)(後冷泉天皇)(1025.8.28/万寿2.8.3〜1068.5.22/治暦4.4.19)
  
 在位中の年号は長元、長暦、長久、寛徳。1010(寛弘7)年親王宣下、1017(寛仁元)年立太子、1019(寛仁3)年元服。その治世では藤原頼通が廟堂の一の人として権力を握った。風雅を好み、穏やかながらも摂関家の傀儡とはならなかったようで、気質としては父の一条院によく似ていたようである。死の床で次男・尊仁親王の立太子を言い残す。陵墓は円乗寺陵。「ほのかにもしらせてしがな春霞かすみのうちにおもふ心を」(後拾遺集604)、「あやめ草かけし袂のねをたえてさらにこひじにまどふ頃かな」(後拾遺集715)

 皇后禎子内親王は三条天皇の三女。誕生からまもなく内親王宣下を受け、1015(長和4)年3歳にして准三宮を授かる。1023(治安3)年腰結役に伯母・上東門院彰子を配する盛大な裳着の式を行い、一品に叙される。祖父道長の内意をもって1027(万寿4)年東宮敦良親王に入内。殿舎は宣耀殿。その後三子を産んで天皇即位の翌年中宮となるが、翌月[女原]子女王の立后により皇后となる。[女原]子女王の入内頃から里邸に引きこもりがちになり、[女原]子存命中は天皇から参内を勧められても応じなかった。1045(寛徳2)年落飾、1069(治暦5)年院号宣下。禎子内親王は自分の入内当初は後見役をつとめながら、養女[女原]子女王を入内させた伯父・頼通に対して非常に不信感を抱き、両者の溝は深まる一方だったという。また、孫の実仁親王・輔仁親王をかわいがり、白河天皇の次の天皇に望んだが、白河天皇が実子・堀河天皇を即位させたため、両者は不仲になったという。1094(寛治8)年疱瘡で崩御。所生の良子内親王は1036(長元9)年斎宮に卜定され内親王宣下、二品。1042(長久3)年一品、1045(寛徳2)年准三宮を授かるが、同年父帝崩御のため退下。疱瘡に罹患し薨去。娟子内親王は1036(長元9)年斎院に卜定され内親王宣下を受ける。1042(長久3)年頃一品を授かる。1045(寛徳2)年父の喪により退下するが、のち、源俊房と通じて後三条天皇の勘気を蒙り、狂斎院と称された。
 中宮[女原]子女王は、一条天皇皇子敦康親王の五女。弘徽殿を殿舎とする。高陽院中宮とも。敦康親王と藤原頼通は妻同士が姉妹だったことから一時期同殿していたこともあり仲が良く、敦康親王薨去後[女原]子女王は頼通の養女分となっていた。1037(長元10)年入内、女御宣下。2ヵ月後に立后。美貌で寵愛されるものの、1039(長暦3)年難産により崩御。所生の祐子内親王は1038(長暦2)年内親王宣下を受け、1040(長久元)年准三宮を授かる。高倉宮、高陽院一宮と称された。1074(承保元)年二品辞退。女房に歌人として有名な祐子内親王紀伊、「更級日記」作者・菅原孝標女がいる。[示某]子内親王は1038(長暦2)年内親王宣下を受け、1046(永承元)年賀茂斎院に卜定される。六条斎院と称された。1058(天喜6)年病の為退下。和歌に優れた。女房に「狭衣物語」作者と考えられる六条斎院宣旨がいる。
 高倉女御・藤原延子は藤原頼宗の次女で、脩子内親王を養母とする。1042(長久3)年入内、女御宣下。麗景殿を殿舎とし、麗景殿女御とも称された。時に27歳。特に美貌をうたわれた一族の出で美しく、筝に秀でていたという。天皇崩御後、正子内親王を生む。1073(延久5)年落飾。所生の正子内親王は1058(天喜6)年賀茂斎院に卜定され内親王宣下を受ける。押小路斎院、土御門斎院と称された。1069(延久元)年退下。
 梅壺女御・藤原生子は藤原教通の長女。1040(長暦3)年弘徽殿を殿舎として入内(のち梅壺に転居)。この時すでに26歳にもなっていた (父の兄・頼通に実娘が生まれず、長年入内を妨げられていた為)。美貌で才色兼備の彼女を天皇は殊の外寵愛し、天皇自ら立后を望むも頼通の反対に遭って頓挫。准三宮。
 尚侍・藤原真子は、藤原教通の次女で、梅壺女御の妹。なかなか子を授からない梅壺女御に痺れを切らせた教通が1042(長久3)年入内を強行するも、結局真子にも子は授からなかった。
 尚侍・藤原嬉子は、藤原道長六女(倫子腹では四女)。後朱雀天皇には叔母にあたる。誕生時既に姉彰子は一条天皇中宮となっており、七夜の祝いは彰子が行った。1021(寛仁5)年、2才年下の東宮敦良親王に入内。登華殿を殿舎とする。1025(万寿2)年赤もがさに罹患中、待望の皇子親仁親王を産むも、そのわずか2日後薨去。父道長は鍾愛の末娘の突然の死に嘆き悲しみ、死者の生き返りを祈る魂喚の儀式をも行ったという。1045(寛徳2)年皇太后位を追贈。

第70代天皇 後冷泉天皇(1025.8.28/万寿2.8.3〜1068.5.22/治暦4.4.19)(在位:1045/寛徳2〜1068/治暦4)
御名: 親仁親王(チカヒト)
御父: 第69代天皇 後朱雀天皇(1009.12.14/寛弘6.11.25〜1045.2.7/寛徳2.1.18)(在位:1036/長元9〜1045/寛徳2)
御母: 東宮御息所 藤原嬉子(フジワラノ キシ/ヨシコ)(1007.1.26/寛弘4.1.5〜1025.9.9/万寿2.8.5)
中宮: 二条院 章子内親王(ショウシ/アキコ)(1027.1.19/万寿3.12.9〜1105.10.26/長治2.9.17)(父:後一条天皇)
皇后: 四条后 藤原寛子(フジワラノ カンシ/ヒロコ)(1036/長元9〜1127.9.30/大治2.8.14)(父:関白 藤原頼通)
皇后: 小野皇太后 藤原歓子(フジワラノ カンシ/ヨシコ)(1021/治安元〜1102.9.30/康和4.8.17)(父:関白 藤原教通)
男子流産(1049/永承4.3.14)
後宮: 菅原増守女
皇子 為行
  
 在位中の年号は寛徳、永承、天喜、康平、治暦。1036(長元9)年親王宣下、翌年元服して三品を授かる。同年立太子。摂関政治期最後の天皇となる。彼の崩御後即位したのは藤原氏を外戚に持たない後三条天皇であり、後冷泉天皇は後継ぎたる皇子に恵まれなかったため、藤原氏の勢力は衰えていくこととなる。陵墓は円教寺陵。

 中宮章子内親王は1027(万寿4)年内親王宣下を受け、1030(長元3)年准三宮、一品を授かる。女一宮と称された。1036(長元9)年両親を喪い、以降は祖母でもあり伯母でもある上東門院彰子の後見のもと養育される。1038(長暦元)年入内、藤壺を殿舎とし(のち宣耀殿に転居)、東宮御息所と称す。殊に父帝の鍾愛を受けた皇女であり、おっとりと上品な内親王らしい美しい女性だったという。1046(永承元)年立后。天皇最初の妃であり、重んじられるものの懐妊はなかった。1069(治暦5)年落飾、1074(延久6)年院号宣下。
 藤原寛子は藤原頼通の長女。父が長年娘に恵まれなかったため、母方の身分が低いながらも関白の娘として世間の嘱目のもと育つ。1051(永承5)年、11才年上の後冷泉天皇に入内、女御宣下。翌年立后。この際、先立の后章子内親王が皇后にのぼるのを拒否したため、新立の寛子が皇后、章子内親王が中宮となった。素直で明るい彼女は天皇からの篤い寵愛をうけるものの、父の望んだ懐妊はなかった。1068(治暦4)年落飾。
 皇后・藤原歓子は藤原教通の三女。小柄で容姿端麗、和歌・琵琶・唐絵などに卓越した才媛だったという。娘のない伯父頼通をはばかって婚期が遅れ、1047(永承2)年27歳で入内、翌年女御宣下。この頃に懐妊するものの、翌春男児を流産(もしくは死産)。嘆き悲しんだ歓子は里邸に籠もりがちとなった。1051(永承6)年准三宮。1068(治暦4)年4月16日に父教通が関白となり、天皇自身の意志により翌日立后、一帝三后の唯一の例となる。しかしわずか2日後の4月19日、後冷泉天皇が崩御し、出家して菩提を弔った。
 唯一の子・為行は高階為家(天皇の乳母子;為家の母は紫式部の娘で天皇の乳母・大弐三位賢子)の養子となった。

第71代天皇 後三条天皇(1034.9.3/長元7.7.18〜1073.6.15/延久5.5.7)(在位:1068/治暦4〜1073/延久4)
御名: 尊仁親王(タカヒト)
御父: 第69代天皇 後朱雀天皇(1009.12.14/寛弘6.11.25〜1045.2.7/寛徳2.1.18)(在位:1036/長元9〜1045/寛徳2)
御母: 陽明門院 禎子内親王(テイシ/ヨシコ)(1013.8.15/長和2.7.6〜1094.2.3/寛治8.1.16)
中宮: 西院皇后 馨子内親王(ケイシ/カオルコ)(1029.2.17/長元2.2.2〜1093.9.26/寛治7.9.4)(父:後一条天皇)
第一皇子 (1051/永承6)
第二皇女
東宮妃: 滋野井御息所 藤原茂子(フジワラノ モシ/シゲコ)(? 〜1062.7.30/康平5.6.22)(父:中納言 藤原公成)
第一皇女 聡子内親王(ソウシ/サトコ)(1050/永承5〜1131.9.26/天承元.9.4)
第二皇子 貞仁親王(サダヒト)(白河天皇)(1053.7.7/天喜元.6.19〜1129.7.24/太治4.7.7)
第三皇女 俊子内親王(シュンシ/トシコ)(伊勢斎宮1069-1072)(1056/天喜4〜1132.5.21/長承元.閏4.5)
第四皇女 佳子内親王(ケイシ/ヨシコ)(賀茂斎院1069-1072)(1057/天喜5〜1130.8.30/大治5.7.25)
第五皇女 篤子内親王(トクシ/アツコ)(賀茂斎院1072-1073、堀河天皇中宮)(1060/康平3〜1114.10.30/永久2.10.1)
女御: 堀河女御 藤原昭子(フジワラノ ショウシ/アキコ)(父:右大臣 藤原頼宗)
女御: 源氏御息所 源基子(ミナモトノ キシ/モトコ)(1049/永承4〜1134.7.29/長承3.7.7)(父:参議 源基平)
第三皇子 実仁親王(サネヒト)(白河天皇皇太弟)(1071.3.14/延久3.2.10〜1085.11.27/応徳2.11.8)
第四皇子 輔仁親王(スケヒト)(1073.2.28/延久5.1.19〜1119.12.31/元永2.11.28)
典侍: 藤原行子(1049/永承4〜1134.7.29/長承3.7.7)
皇子某
掌侍: 侍従内侍 平親子
皇子 有佐
  
 在位中の年号は治暦、延久。1036(長元9)年親王宣下、1045(寛徳2)年立太子、1047(永承元)年元服。宇多天皇以来の、藤原氏を外戚に持たない天皇。そのため親王時代は藤原頼通や教通などから母ともども冷遇され、反摂関家の志はいっそう強くなった。父帝の遺勅により東宮となるも、兄帝に子が生まれればたやすく廃されるだろう不安定な立場だったが、結局兄には子ができず、1068(治暦4)年即位した。関白に教通をおいたものの、大江匡房ら非摂関家の人間を積極的に登用し親政をしいた。1069(延久元)年延久の荘園整理令。後三条天皇の治世は延久の善政とたたえられるが、1073(延久5)年在位わずか4年で病の為譲位し出家。陵墓は円宗寺陵。

 馨子内親王は1032(長元4)年袴着と同時に二品に序せられ、賀茂斎院に卜定、准三宮を授けられた。1036(長元9)年父帝の崩御により退下。同年かわいがってくれた母をも亡くし、祖母・上東門院彰子の庇護のもと育つ。1051(永承6)年、5才年下の東宮尊仁親王に入内。殿舎は弘徽殿。所生の二子はともに夭折した。1069(延久元)年立后、1073(延久5)年落飾。
 白河天皇生母・茂子は父の姉・祉子とその夫・藤原能信(藤原道長の息子)の養女となり、1047(永承元)年入内。冷遇されていた尊仁親王の後宮には妃が少なく、茂子は多くの子女を生んで重んじられたが、後三条天皇の即位前に薨去し、1073(延久5)年皇太后位を追贈された。長女・聡子内親王は1068(治暦4)年内親王宣下を受け、翌年一品准三宮。1073(延久5)年仁和寺にて落飾し、一品仁和寺宮と称された。俊子内親王は1068(治暦4)年内親王宣下を受け三品、1069(延久元)年斎宮に卜定され二品を授かる。樋口斎宮と称された。1073(延久4)年退下。佳子内親王は1068(治暦4)年内親王宣下を受け翌年三品、斎院に卜定される。富小路斎院と称された。1072(延久4)年病の為退下。
 藤原昭子は藤原頼宗三女。承香殿を殿舎とし、承香殿女御とも称された。1066(治暦2)年入内、1069(延久元)年女御宣下。
 源氏御息所・源基子は源基平の次女で、小一条院の孫娘。当初後三条天皇の長女・聡子内親王に仕えていた女房だった。美貌が目に留まって寵愛を受け、1071(延久3)年実仁親王を産んだ翌月に女御宣下。梅壺女御、兵部女御とも称された。准三宮。彼女の生んだ実仁親王・輔仁親王は英明の上外戚が藤原氏でないことから、天皇はその将来に期待をかけて鍾愛したという。しかし白河天皇は両皇子を皇統より外し、どちらも母に先立って薨去してしまう。実仁親王は1071(延久3)年親王宣下、1073(延久4)年立太子。1081(永保元)年元服するが、4年後病により薨去。輔仁親王は1076(承保3)年親王宣下を受け、1092(寛治6)年元服。兄・実仁親王薨去後、陽明門院により皇太弟に推されるが実現しなかった。源師忠女らを娶り、源有仁らをもうけた。生没年から判断すると第五皇子だが、馨子内親王腹の第一皇子と典侍行子腹の第三皇子が夭折しているため伏見三宮と称されたようである。義理の叔父にあたる源俊房が1113(永久元)年千手丸事件で失脚したことに連座し閉門に追いやられた。子女に花園左大臣源有仁、伊勢斎宮守子女王、賀茂斎院怡子女王(北小路斎院;内親王)らがいる。
 有佐は藤原顕綱養子。