大久保忠佐

天文 6年(1537)~慶長18年(1613)

 徳川十六将の 1人である大久保忠佐は、弥八郎、治右衛門と称した。大久保忠員(ただかず)の 2男で、忠世の弟である。幼少から家康公の麾下にあり、弘治 2年(1556)、織田氏の将、柴田勝家が三河国福谷の砦を攻めた際に、これを破り敗走させ、永禄 6年(1563)、三河一向一揆の鎮圧にも、兄・忠世とともに戦功を挙げている。
 その後も元亀元年(1570)の姉川合戦でも活躍し、天正 3年(1575)の長篠合戦では浅黄の石餅の指し物をつけ、兄・忠世とともに活躍し、鉄砲隊を指揮して武田軍を破り、その活躍が織田信長の目に止まり、「長篠の髯」とその勇武を嘆美されたという。
 天正18年(1590)、家康公の関東入国後に上総国茂原で5000石を与えられ、慶長 5年(1600)の関ヶ原合戦では、東山道を進んだ秀忠軍に参加し、合戦後の慶長 6年(1601)には駿河国沼津城に居城、2万石を領した。忠佐は慶長18年(1613) 9月27日に77歳で没したが、すでに嫡男・忠兼は没しており、又、弟の忠教(彦左衛門)が養子を断わっていたために絶家となってしまった。
 忠佐は、小田原城主となり 4万石を領した兄・忠世とともに家康公の直臣の中でも、その器量は卓越していたといわれている。又、忠佐は数々の合戦に従ったにもかかわらず、遂に疵を受けなかったといわれている。


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