南宗寺


龍興山南宗寺・東照宮跡(徳川家康墓)
龍興山南宗寺 ・ 東照宮跡 (徳川家康墓)


 【南宗寺】

 臨済宗大徳寺派の寺院である龍興山南宗寺は、大永 6年(1526)、京都大徳寺の住職・古嶽宗旦が堺の一小院を南宗庵と改称したのがそのはじまりという。大徳寺90世大林宗套(だいりんそうとう・普通国師)は南宗庵で古嶽に参禅して、その後に大徳寺の住職となったが、天文17年(1548)、師の遺命によって堺に帰り、南宗庵に入った。この大林和尚に帰依した三好長慶は、弘治 3年(1557)、父・元長の菩提を弔うために南宗庵を宿院町の南方に移転し、壮大な寺院を造営、大林和尚を開山として南宗寺とした。以後、南宗寺は堺第一の禅宗寺院として、堺の町衆の文化向上に大きな役割を果たしたといわれる。
 しかし、天正 2年(1574)、松永久秀の兵火(松永久秀の乱)によって、又、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で市街とともに堂宇は尽く焼失してしまった。当時の住職であった沢庵宗彭和尚と、堺奉行であった喜多見若狭守勝重の尽力により、元和 3年(1617)、現在地に再建された。又、元和 9年(1623) 7月には、2代将軍秀忠が、同 8月には、3代将軍家光が南宗寺を訪れている。その後、正保 4年(1647)、山門(甘露門)が建立され、承応元年(1652)には仏殿の建立が始められているが、この頃までに現在の伽藍が整備されて、境内には東照宮も建立された。江戸時代、堺奉行の赴任の際には、常に東照宮のある南宗寺に参詣していたといわれる。
 明治初年、禅堂、鐘楼が建立されて、日本最初の臨済宗専門道場が開かれている。その後、昭和20年(1945) 7月の堺大空襲の際に、開山堂、実相庵(茶室)、方丈(本堂)、庫裏、そして東照宮が焼失したが、山門、仏殿などの建物を残して今日に至っている。又、枯山水式の禅庭園の方丈(本堂)前庭の作者は古田織部と伝えられており、長い間荒廃していたが、昭和35年(1960)に復元され、国の名勝に指定さている。この他、境内には、武野紹鴎や千利休及び三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)一門の供養塔、堺の豪商で、茶人でもあった津田宗及一門の供養塔、三好長慶一族の墓所などがあり、昭和38年(1963)に再建された利休好みの茶室である実相庵の前庭には、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」、紹鴎遺愛の「六地蔵石灯籠」が置かれている。
 尚、南宗寺には家康公の伝説が残されていることでも知られており、それによると、慶長20年(1615)、大坂夏の陣の際に、家康公は豊臣方の武将(後藤又兵衛(基次)だったといわれる)に槍で突かれて重症を負い、運び込まれたこの南宗寺で絶命、家康公の遺骸は南宗寺の開山堂下に埋葬されたというのだ。家康公の墓(伝徳川家康墓、徳川家康戦死埋葬碑)とされる無銘碑は今でも開山堂跡の一画にあるが、2代将軍秀忠、3代将軍家光の相次ぐ参詣、又、南宗寺に東照宮が祀られていたということから、こういった伝説が生まれたようである。現在、東照宮跡地には昭和42年(1967)に水戸徳川家家老の子孫が建立した家康公の墓(東照宮跡碑)が建てられている。

 ・ 南宗寺フォトページ 1

 ・ 南宗寺フォトページ 2

 ・ 南宗寺関連のリーフレット等

 ・ 千利休屋敷跡
大阪府堺市堺区南旅篭町東 3-1-2 Map Fan


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