内藤信成

天文14年(1545)~慶長17年(1612)

 家康公の異母弟である内藤信成は、天文14年(1545) 5月 5日、家康公の父・広忠が正室・於大の方と離別した後に、侍女との間に生まれた子(母親は田原城主戸田康光の娘で、広忠の継室であった真喜姫とも、大給松平家の松平乗正の娘、於久の方ともいわれている)で、内藤清長(家長との説もある)の養子となった。のちに別の家を興して、内藤信成と名乗る。しかし、信成が家康公の異母弟であることは、家康公の家臣の間では黙認されていたという。
 信成は勇将であったらしく、元亀 3年(1572)の三方ヶ原合戦では殿軍を務め、天正 3年(1575)の長篠合戦では先陣として活躍、信成の戦いぶりを見た織田信長は、「まことに先駈の猛将奇異の勇士なり」と賞賛したという。信成はその後も主要な合戦の多くに参陣して功を挙げている。
 家康公が関東に入ると、伊豆国の韮山で 1万石を領し、以前に預けられていた与力数10人のうち、10人ばかりを家臣とすることを許された。家康公の信頼が厚く、慶長 6年(1601)には加増されて駿府城主となり、又、慶長11年(1606)、家康公の駿府城入りにともない、近江の長浜城 4万石に移されるが、これは大坂の豊臣氏と北陸のおさえのための配置であったといわれる。
 慶長17年(1612) 7月24日没。摂津国高槻に移封された信成の嫡男・信正は、最後の伏見城代、最初の大坂城代をつとめるなど、徳川将軍家の厚遇を受けている。


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