徳川家康公の御殿跡


吾妻神社(徳川家康公御殿跡)
吾妻神社 (家康公御殿跡)


 【徳川家康公の御殿跡 (吾妻神社)】

 「御殿場」という地名は、江戸時代の初め頃、家康公のゆかりの地であるのと同時に、御殿のあった所ということで称されるようになったという。その地名の発祥の地となった御殿は、元和元年(1615)、家康公が大御所として隠居していた駿府から足柄を越えて江戸を往来する際の宿泊施設として造営されたもので、沼津代官の長野九左衛門が、この地方の土豪の芹沢将監に命じて御殿を造らせた。御茶屋御殿とも称されたこの御殿は、現在の吾妻神社の境内から、北側の静岡県立御殿場高校にかけての範囲にあり、東西50間(約90メートル)、南北45間(約82メートル)、約500平方メートルの広さがあり、周囲は高さ 3メートル、幅数メートルの土塁で囲まれていた。内部の施設は、周囲に竹林を巡らし、茅葺屋根に松の柱の建物と、竹で編んだ垣根、屋敷の中を通る川には石橋が架けられており、東側には馬屋があったといわれる。しかし、元和 2年(1616) 4月17日に家康公は没したため、結局、家康公がこの御殿を使用することはなかった。又、御殿を造営するにあたり、御殿を中心として新しく町が建設されることになり、各地から人々が集められ、この新しい町は御殿新町と称された。
 その後、寛永10年(1633)に御殿場の地は小田原藩領に組み込まれることになり、小田原城主稲葉氏が巡検や鷹狩に御殿を利用し、又、慶安 4年(1651)から 4年の歳月を費やして大修理を行なわれている。しかし、稲葉氏の次に小田原藩主となった大久保氏の手によって貞享 3年(1686)、御殿は取り壊され、造営以来70年の歴史に幕を閉じた。
 現在、御殿の跡地には吾妻神社が鎮座し、家康公(東照大権現)も合祀(元和 2年(1616)創祀となる旧御殿場東照宮を合祀)されており、境内では現在でも土塁の一部を見ることができる。又、「御殿場発祥の地」の碑が建てられている。

 ・ 徳川家康公の御殿跡(吾妻神社)フォトページ

 ・ 深沢城
静岡県御殿場市御殿場 196 Map Fan


家康公史跡めぐり・目次へ