◎表は文字サイズを小にしてご覧ください。
倭全解・三国志演義
   三国志演義 古墳編
古墳前史

A・黒塚−32古墳−(西部地域)

B・椿井大塚山−32古墳−(東部地域)

C・備前湯迫車塚−阿蘇吉備国家11×2

D・複数鏡を持つ地域古墳名

E・石製腕飾類の新たな解釈(T)硬玉製三種類の腕輪の 意味するもの

F・石製腕飾類の新たな解釈(U)大王陵以外の巨 大古墳

G・石製腕飾類の新たな解釈(V)巨大古墳へのつ なぎ
 
 古墳前史  黒塚圏  椿井圏  車塚圏  複数鏡  数解析 吉備・馬見 古市・毛受


◎表以外の地域にあるのは86枚 であるが、以下は表の中で一面ずつのカウントの古墳と、
地域に倍数としては扱ったが他に対応させることのなかった前橋天神山古墳の13基で
あり、形式的には地域に不足となる合計14枚を持つものである。ということはこれらの古
墳の持つ鏡こそは魏から将来した卑弥呼へのオリジナルの鏡である可能性が高いといえ
るだろう。

 
 表中の鏡一面埋蔵古墳と地域組み合せ
                       (パートナー)
 <>は古代都市領(この時代は諸侯あるいは部族長)
 
1・奈良県桜井市池ノ内5 号・三角縁神獣鏡
   <吉野宮滝>(竜虎鏡) 

   群馬県前橋市天神山・三角縁神獣鏡 面(赤城⇒大和天神山)  ○芳ノ竜(費観・×蒋宛)宛先
                                                                             <陳宮・高順>
2・兵庫県豊岡町森尾・三角縁神獣鏡(+1面) 
    <関宮>

    兵庫県高砂市天神山・陳氏作銘三角縁神獣鏡    ○関平 (糜芳・劉封)褒美(急かせ賃) 
3・岡山県富村下原観音塚・三角縁神獣鏡 
   <馬渡> 

    岡山県総社市上沼・椿井三角縁神獣鏡 ○竜備 (呉蘭・×呂義)路銀 Go run
4・岐阜市太郎丸内山1号・椿井三角縁神獣鏡 
   <各務原> 

    岐阜県垂井市赤阪長塚・三角縁神獣鏡  
  
(石製腕飾類大量埋蔵)⇔椿井大塚山   
○張翼 (張翼・×孫乾)暇乞ひ
5・神奈川県平塚市真土大塚山・椿井三角縁神獣鏡                 (早水台⇒江戸)                       
  神奈川県中原新城白山・椿井三角縁神獣鏡
  (石製腕飾類大量埋蔵・島の山古墳主同)
○黄忠 (×秦必・樵周)親筆・必死
6・大分県宇佐市赤塚・三角縁神獣鏡 (神竜虎鏡)    <八島>           ・      
  福岡県沖ノ島18号・三角縁神獣鏡                            ・     ○忌・斎(×馬謖・伊籍)場所来God
7・静岡県清水市午王堂山・三角縁神獣鏡(富士川) <大野清川・岩戸>     ・   
          ⇒富士市・東坂内行花文鏡
          (遠ざかる飛脚)
○馬謖 (馬謖・×張飛)「良く説く」  (「良く速く」)
                            


 ここは表中の各地の古墳が古代の部族集団の本拠地近くにあるということを証明するための章である。つまり変わらなかったのではないかと思われる旧来勢力 の領域になる。

 すなわち、1枠は奈良県の吉野宮滝遺跡を根拠とする都市だが、大和以前の先住の部族長が居たということで、これも中央の奈良枠ではな い一般地域枠 にあたる。これに対応するのは2枠に居る(糜芳・劉封)の名による芳・劉である。この1、2枠は交換する枠で、吉野宮滝は「吉野来る」とよみ、関宮は「関 来」とよむことになる。この”吉野くる”が芳の来劉の芳ノ竜となり、1枠費観の通称関平が関宮の”関来る”によって呼ばれ2枠関宮に対応する。つまり宮を ともに来と変換する事になるわけである。

 こうしたことは、夫々の枠で使われなかった文字を合成あるいは変換し物語にすることで合法化する事になる。すなわち、1枠で使わない 蒋宛は「あて先」となり当時の飛脚の話におよぶ。
 次の2枠は糜・封で褒美となり、関の急かせるための賃金とする。次の3枠は呂義の路銀であるが、これは飛脚の必要経費ということになろう。次に4枠の孫 乾の「いと孫ひ」でその客や自らの親族への挨拶の暇乞いとする。
 次に5枠の秦必の音で「親筆」で、また「必死」とするが、客の手紙はもとよりだがあて先の人からも親筆で返事を貰ってこなければならない。すなわちそれ が受け渡しの証拠となるからである。必死の方は当然のことであるが、真面目な気持ちをも忘れてはいけない。
 次の6枠の馬謖は「場所来」で、目指す相手に会えるところに至る。次に張飛はその仇名の翼徳から「客の手紙の中身について「良く説く」となる。 相手の方に当時の絵文字等の知識がない場合もあるからだが、そのほかの身辺情報も伝えてあげる必要もあるし、世の中の風聞なども聞きたかろう。かれがこれ までの道中の間に見聞きしたことも伝えるのである。そのとき相手は「良く速く(とく)」来ましたなあというだろうし、別れた後の遠ざかる後姿を見て「はや いもんだなあ」というだろう。道草なんぞくっていては次の仕事はない。遠ざかる、とは東坂の名を読みこむ。というような物語が作られることで先の地名付会 が正当性をおびてくるはずである。

 すなわち、3枠の馬渡(岡山と広島との県境にある帝釈峡の岩陰遺跡。もと備後備中境)には呉蘭の劉備の名があたる。劉備すなわち竜備 とは駅亭に馬や牛を備えて待つところとなる。馬渡部族は全国中央道を整備し運送を司った。その起点の端は石巻に及ぶ。
 次の各務原は岐阜のその中央道にある炉端遺跡を本拠とし美濃飛騨を管理する部族の地名。これには張飛の張翼の名があたる。各務は囲むで翼を広げる事。炉 端なら皆が囲むところでもあるが、屈むとなれば火にあたる形になる。常に飛脚や荷車が行き交うところである。
 次の樵周の神奈川の多摩川縁は木付部族の王国の江戸の端となるが、この部族は造船の技術を本業としていた。すなわち山から材木を切り出して海に 運び出すゆえに川岸に記念的墳墓を築いたのであろう。樵周はもと孫堅の黄忠で、この名が黄忠黄と回文すればキツキとなる。この黄忠はまた先行する大和の弟 磯城で奈良盆地の磯城地域の地主であり、盆地の北西にポツンとある島の山古墳の主でもある。白山古墳の地中原新城とは奈良を意味する中原とその中に築く島 の山を意味するもののごとくになる。
 次の大分県宇佐の八島はもと安心院を都としていた古代国家の名である。その港は山国川の河口の中津になるが、四国北辺や豊前筑前の海岸を管理 化に置いていた交易部族であった。八島は、鳩、秦、または後のヨーロッパの交易船ネットワークのハンザ同盟などという名になる。この八島に対応するのは伊 籍であるが、この名はイフミの伊美となり、忌・斎となつて沖ノ島などの祭祀管理者となる。これは国東半島の伊美が海洋航海族主体の政権の座を大和の内陸地 主体の政権に明渡した後のことであろう。そういう意味では大和政権は王家の独裁と保持を優先してグローバルから国内主義に移行して小粒になった。伊籍の名 は伊昔とすると”その昔”になるが、祭祀権は三女神を祭る沖ノ島に閉じこめたという形であろう。
 次の大野族に対応するのは馬謖の名である。この仁は「泣いて馬謖を斬る」という諺を今に残し孔明に処刑されたことになっている。この人物と同 一タイプが同じく蜀の魏延であるが、こちらの方は孔明にその危険な攻勢一方の提言をさんざん抑えられてその危険を逃れることができたが、孔明死後即座に覇 権を望んで反乱した。しかしこれを予測していた孔明の遺言によって退治されたことになっている。しかし、これらは皆物語りの綾であり以後も三国のそれぞれ の陣で活躍する。 この話をここに持ってきたのは、この行がそのエピソードによくはまるからである。すなわち、馬謖は前の6枠で宇佐から離される。そこ で、「泣いて馬謖を斬る」のことばは”七居いて八職を切る”となるだろう。その職は7に居て、また次の8枠以下の部族名はないということになる。ここでこ の表を以上の十三古墳で打ち止めを宣言するわけである。
 この宇佐の赤塚に付いてはさらにつづきがあるが、その前に三国志でこの馬謖と同じ扱いを受けている曹操に処刑された陳宮のことに及ばなければならない。 この時も曹操は泣いてかって旗揚げの一番危険なとき大変世話になった陳宮をきらねばならなかったとする。
 この時の関係者の名が1枠吉野宮滝と2枠関宮のともに宮の字の付くものの間にいれた陳宮と高順であるが、この二人は物語の中でのそれぞれの取った行動で 曹操の表中での後先の順列が逆転することになっている。それはこの表の場合の順列の入れ替えと同じである。
 このときの呂布の武将高順こそは、じつは先の馬謖と同じタイプの魏延でもあった。もともと魏延の元は呉の若くして大将となった周瑜であり、孔明 の策を取り入れて赤壁の戦いで曹操に大勝利をおさめたのに、その孔明を呉にとって危険だからとの理由でさんざん命を狙った人物として強調されたのである が、これも物語りの綾だったとせねばなるまい。この周瑜が名を変え黄忠に付いて劉備の武将になった。後に又その憤死後彼は魏の朝廷にあらわれるなどして三 国を渡り歩くことになる。

 リンク「宇佐風土記の丘」展 示
宇佐風土記の丘・鏡五面
 さて、この馬謖が斬られた宇佐高森の赤塚には、じつは三角縁神獣鏡が五面あったのであるが、ここでは大盤の神竜虎鏡(盤竜鏡とも記録している)一面しか とりあげていない。後の四面の鏡は模造品あつかいにしているのは、これを入れると魏鏡が表中で百枚をこえるからである。
 ところが、この四面に付いてはすべて同范鏡があるという。そのうちの一面、三角縁日月天王三神三獣鏡は苅田町石塚山、筑紫野市原口、そして椿井 大塚山のものに合うと言うから堂々としたものである。また一面、三角縁日月天王四神四獣鏡は京都の南原長法寺古墳に、三角縁日月天王三神三獣鏡は三重の筒 野古墳のものに、三角縁唐草文帯二神二獣鏡は岡山の香登古墳のものに合っているという。すなわち以上の同范鏡関係があるというからオリジナルなのであろ う。しかし、だからといって、この四面を入れるとこの表の表中一面埋蔵の十三古墳の構成 は崩れてしまうし、先のような三国志の話は成立しなくなるのである。
 大分にはもっとも優れた鏡があと二面ある。それは宇佐の隣、高田市草地字黒松にある鑑堂(かがみどう)の劉 氏作神人車馬竜虎画像鏡(20.9cm)という後漢時初頭の白銅質のものと、日田市日高字刃連(ゆけい)にあるダンワラ古墳から出た長宜子 孫銘金銀錯嵌珠竜文鉄鏡(東京国立博物館蔵)で ある。また、前の鑑堂の鏡とほとんど同じ銘文を持つ日田市庄手の日隈1号墳の細線式獣帯鏡(王莽鏡)もあるが、以上の二面がどうやらこの赤塚の五面の鏡の 謎を解きそうである。

鑑堂鏡一面
 神人車馬竜虎画像鏡銘文39文字
 「劉氏作鏡四夷服  多賀国家人民息
  胡虜殄滅天下復  風雨時節五穀熟
  長保二親得天力  大吉利兮」
  (銅梁作−)−−−−(楽兮)<日隈1号>

 この鑑堂のちかくには4基の前方後円墳がある。東から真玉町金屋の真玉大塚(全長80m環濠式)同じく赤坂に野内古墳、高田市には猫 石丸山(全長60m)、入津丸山(全長55m帆立貝式)等である。鑑堂古墳は円墳で猫石丸山と入津丸山の間にある。
 これらの名は、たとえば猫石は岡山の香登古墳の名に合う。すなわち意外に思うかもしれないが、上の呉蘭のGo run と同じようにキャットの 英語名詞で合う。また、入津丸山は入津を二津の津々とすることで三重の筒野古墳の名に合うだろう。とすれば、真玉の野内古墳の名は京都の南原古墳の地名長 法寺のチョウゲンボウに合う。野内はすなわち鷹の狩りの野撃ちであるからである。しかもこの名は回文で「ナイノウチノ」と言っている。すなわち本来これら の古墳にあるべき鏡が宇佐の赤塚に行っていたのである。同范鏡のある古墳にこれらの名が対応することは以上の古墳の元になるものといわねばなるまい。した がって真玉大塚古墳は椿井大塚の元の古墳で鑑堂古墳は黒塚の元となるだろう。そして余った四面の鏡は計算に入れない奈良枠と同じ中央のあつかいになるので ある。
 野内古墳の名はこの表の1枠にある桜井市の池ノ内古墳の名にも合う。したがってそこの同種の鏡となる赤塚の神竜虎鏡はこの古墳にあったものと いう推理が成り立つ。したがって、表の宇佐赤塚の表記は真玉赤坂野内に直すこともできる。こうしてみると、赤塚のもつ独自の鏡は石塚山や原口と椿井大塚山 の同范鏡二面であったといえそうであるが、真玉大塚にはそれを含め二面あったともいえるだろう。こうしてみると赤塚の近くの免ヶ平古墳の名は平に御免(五 面)とことわりをいっているようである。これでそれらの鏡の四面は奈良枠と同じ除外されるべき中央の高官の鏡とおなじになる。

 同じような個人所有の鏡が紀年銘鏡を持つ五古墳にもある。
  高槻市安満宮山 三角縁鏡2(その他平縁鏡・斜縁鏡)
  高崎市芝崎蟹沢   〃  1       
  山口県沙婆竹島   〃  1       
  三珠鳥井原狐塚   〃  1       
  (豊岡森尾)×(国東町番所ヶ鼻狐塚)
くにさき狐塚
狐塚

 豊岡森尾古墳の以外の三角縁神獣鏡は既に複数鏡として採用されている。このうち蟹沢古墳の「蟹は根っこ石」に居るものとすると猫石の 名に 対応する。また竹島の竹は筒になるものとすると筒野から入津原へと対応してくるであろう。ならば鳥井原は鷹の野内に対応し、安満宮山は甘味で椿井の唾(つ ばき)でるから真玉大塚にも対応しよう。すなわちこれら四古墳は前記の国東四古墳に添うものであったことになる。尚、森尾の名は守から番所に、尾から狐塚 へと二つの古墳名にかかっていることをみる。この紀年銘鏡を持つ古墳の以外の三角縁鏡も赤塚の四つの鏡と同じように奈良枠として除外される。      

 鑑堂古墳が大和の黒塚に結びつくのは日田のダンワラ古墳とむすびつくことからはじまる。この鉄鏡は銅鏡のグループの中にあっては異常 だ が、その鉄製の鏡によって黒塚の名の元にはなる。ダンワラとは高田の草地の地名とおなじく「田ん藁」の草をいうことになる。この草が宇佐で斬られた馬謖の 馬食で馬の餌で合うことになる。日田には草葉や名草台などという弥生時代の舶載鏡の鏡片の出た遺跡地の名がある。その出先の地が国東半島の高田市草地字黒 松となるとみえる。またこの黒松によって鑑堂は黒塚ともなるだろう。近畿にある大量の埋蔵古墳 は形式的であるかもしれないが、先にこの半島にあったことになる。
 このダンワラのダンは、倭人伝の難升米や丹波の難や丹になるとき諸葛亮の孔明になる。先の古墳群から伊美鬼塚をはさんで国東半島の東岸にある番 所ヶ鼻古墳群の中の狐塚は同じく日田から入った彼の標と言えるかもしれない。日田は邪馬台国を取り巻く古の奴国の領域の中心地になると考えられるからであ る。
 


  
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