親鸞会の真実

読者の反響・「冷めた人生からの転換」

他の親鸞会会員の方の投稿を拝見しました。
私が親鸞会で仏法を聞くようになった理由を、投稿させていただきます。

好奇心旺盛だった私は、幼稚園から中学までの間に、様々な習い事をしました。
教育熱心な親のすすめもあり、電子オルガン、バイオリン、書道、絵画といろいろとやりました。
また、スポーツもサッカー、野球、水泳、剣道といろんなものを試してみました。得意分野が増えることに喜びを味わっていました。

人生に疑問を感じるようになったのは、中学生の時です。体育祭の応援団に選ばれ、優勝目指して半年前から、連日声をからして練習しました。他チームと違った応援ができないか、観客を引き付け、選手をもり立てるには、どうすればいいか。夜遅くまで、数え切れぬほど会合を重ねました。

いよいよ当日、練習の成果を出し切って、私たちのチーム「赤組」は、応援団として発表をしました。
この日のために、準備に準備を重ねてきました。絶対に優勝しなければという気持ちで臨みました。練習の甲斐あって、チームの演技は、他のどのチームよりも、観客から大きな拍手喝采を受けました。
体育祭の全日程が終わり、最後は結果発表を待つばかりとなりました。
「優勝は赤組」
その発表を聞いたとき、メンバーと手を取り合い、涙を流して喜んだのです。
今まで頑張った甲斐があった。本当によかった。
その日は、連日の練習の疲労もありましたが、何より優勝できた喜びで、なかなか寝付けなかったのを覚えています。

退屈な毎日に逆戻り

ところが翌日、いつもと変わらず出欠を取る先生の声で、急に現実に引き戻されました。退屈な授業、つまらない日常生活は、何も変わっていない。
体育祭までは、あれほど毎日が輝いていたのに、あれだけ一生懸命にやったのに、あれは一体、何だったのか。楽しい毎日が、いつまでも続いて行くように思っていましたが、夢のように消えていきました。

現実とは、かくも退屈なものだったのか。体育祭が終わって、余計に感じるようになりました。

以来、文化祭や部活動に一生懸命な人を見るたびに、「どうせ何も変わらないのに……」と、冷めた目で見るようになりました。

高校に入ったあと、沈んだ心に追い打ちをかけるように、祖父母が相次いでこの世を去りました。悲しみとともに、
「人生何に打ち込んだら、意味があるのか。どうせ死ぬのに、なぜ生きるのだろう」
と疑問は深まりました。
どうせ死ぬのなら、いっそ早く死んだ方が楽なのではないだろうか。憂鬱な心を抱え、高校への通学路で、死ぬチャンスをうかがっていたほどです。
線路の上をとおる陸橋を歩きながら、ふと立ち止まり、ここで飛び込んだらどうなるだろう、と考えたこともあります。
自殺のニュースを聞くと、自分だったらどうだろうと、ついつい考えていました。

高校3年になると、周りのみんなも大学受験に一生懸命になります。
進学校に通っていた私は、みんなが目指す大学に、自分も合格しなければ恥ずかしい、友人に見下げられたくないという心から、大学受験の勉強をしました。

努力の甲斐あって、希望大学に合格。しかし、確たる希望を持って大学進学を希望したわけでもなかった私は、喜びもなく、ため息しか出ませんでした。
大学には来たけれど、一体この先何があるというのだろう。
高校時代と、さして変わり映えのしない、日常に、あきらめ半分の気持ちでいました。

親鸞会との出会い

そんなある日、親鸞会の人に出会いました。
「人生の目的を聞いてみないか」の問いに
「金を稼いだり、名誉や地位を手に入れるようなものじゃないですよね」
と聞き返すと、

「老いと病と死によって、やがて崩れ去るものではない。人生の目的は、絶対の幸福になることだ」
と自信いっぱい答えるではありませんか。

浄土真宗の教えに、人生の目的があるなんて、今まで想像もしていなかったことでした。
親鸞会主催の高森顕徹先生のご法話に誘われ、会場に行ってみました。

高森先生のご説法で、"生死の一大事の解決をし、未来永遠の幸せになることこそが人生の目的だ"
と教えて頂きました。

もちろん、すぐに納得したわけではありません。しかし、聞けば聞くほど心がうなずくのです。そして、親鸞聖人の明らかな根拠によってすべては裏付けられていました。

これが親鸞聖人の教えだったのか。これが仏教だったのか、とただ驚きました。

これは、続けて聞いていこうと思い、その後、高森先生のご法話に参詣し、その年に親鸞会の会員となったのです。

なぜ親鸞会の会員になったか

私のような若い世代の人間が、仏法を聞いている、親鸞会の会員だというと、一時の熱狂とか、今の間だけという人もあります。

確かに、一時的な感情というものはいつまでも続くものではありません。私が今までやって来た、応援団のことも、さまざまな趣味のことも、その時その時は楽しい、充実感がありますが、いつまでも続くものではありませんでした。

私が仏法を聞いているのは、楽しいからとか、充実感を求めてということではありません。楽しさや、爽快感、充実感を求めるのならば、別に仏法でなくても、宗教でなくてもいいのです。

「何で仏教なんか聞いているんだ。他にいくらでも楽しいことはあるだろう」
と、父親も最初は反対しました。

振り返れば、聞き始めた最初の1〜2年というのは、父が言うように、「自分にとって何か楽しいもの」を求めて仏法を聞いていたように思います。

しかし、重ねて聞かせていただきますと、「心が明るくなるから」「楽しくなるから」仏法を聞くのではないのだと知らされます。

他のいろいろな宗教といわれるものを聞いている人には、そういうレベルの人が多いようです。
だから、「仕事や、社会生活で、心が明るく楽しくなることがないから、宗教などに没頭しているのだ」「現実からの逃避だ」という批判もあるでしょう。

しかし、親鸞聖人の教えは、ただ明るく楽しく生きる方法を教えられたものではありません。

人間の生徒死の本質を見すえ、生きる本当の意味について教えられたものだと思います。

これは、一時的な感情というものではありません。
そう知らされたときに、これは、まじめに聞かなければならない、大事な問題だと思いました。

親鸞会の会員として、このサイトをご覧になられた方の参考になればと思い、投稿させていただきました。

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