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親鸞会の真実

読者の反響・親鸞会会員の大学生より


サイトを拝見して、私が仏法を、真剣に聞くようになった経緯を投稿いたします。

私が親鸞会で仏法を聞き始めたのは、大学に入ってからのことです。

私は、大学で建築の勉強をしています。
民家の研究をしているため、日本各地の民家を尋ねて、家屋の記録や地域の伝承をまとめる作業をしてきました。この研究こそ、自分の人生の目的と考え、失われつつある民俗技術を後世の人に伝えることに生きる意味を見いだしていました。

親鸞会の人から、仏法を聞き、人生の目的は、後生の一大事を解決して、この世から未来永遠の幸福になることだと、聞いたときは、仏教ではそう教えているのかというように感じていました。

とはいえ、話を聞いてみると、共感できるところも多く、仏教を学ぶことについては、抵抗感はありませんでした。
むしろ、大事なことを教えていると自分で考え、続けて聞いていこうと思いました。

それでも、自分が見いだした生きる意味をがっちりと確保した状態で聞いていたので、自分に都合のいいところだけを聞いて喜んでいるようなもので、仏法で教えられていることを、よく理解しているとは言えない状態でした。

研究こそが人生の目的であり、私はそのために生きている。
仏教は、それを支えてくれる補助的なもの、というのが当時の心境でした。生きていく上の大事なことを教えてくれるのが仏教であり、一生かけてやらねばならない事は、民家の研究だと考えていました。

私は、どんどん研究にのめり込んでいきました。
研究が好きだったのは、田舎の風景やそこに暮らす人々の優しさに触れられるからです。

突然「倉を見せて頂きたい」という不審人物の私に、学生さんの勉強になるなら、と快諾してくださり、話を聞かせてくださる。

それを縁に、日本各地に家族のように私の研究や健康を気遣ってくださる大切な人が増え続けていき、喜びにあふれた毎日でした。

田舎の風景も、そこに暮らす方々もすべてすばらしい、色々辛い事があってもこんな研究を続けて一生暮らせたら幸せだ。でも仏教で教えられる後生の一大事も気になる。よし、研究者になっても一生親鸞会で仏法を聞いていこう、そのうち真剣になって解決できるだろう。そんな毎日でした。

しかし、大切な人が増えるというのは、苦しみのはじまりでもありました。あるところで1ヶ月にわたり家の作り方や由来を教えて頂き、一緒に沢を登ったりご飯をごちそうになったりして、本当のおじいさんのように慕っていた方がありました。

しかし1年ぶりに、訪問したとき、その1ヶ月前に亡くなられていたのです。あまりにつらく、研究を継続するのをやめたいという気持ちになりました。
しかし、おじいさんの親戚の方からはげまして頂いて、その無念さを形に残したいと、それから一心不乱に研究に取り組みました。

その結果、生前のおじいさんから教えて頂いた家にまつわる伝承を論文にまとめたものが、学会で賞を受けることができました。おじいさんの受け継いでこられた伝承の価値が認められて、おじいさんのことが論文の形で次代の研究者にも知ってもらえる。

その瞬間は本当に嬉しかったです。
しかし、そのやり遂げたあと、ようやく冷静なって自分のしたことを振り返ってみたとき、

「それが亡くなられたおじいさんにとって、一体何の明かりになるのか」

という疑問が、私の心から離れなくなりました。私のやったことはすべて、自己満足のようにしか思われませんでした。

そんな時、高森顕徹先生の講演で、立派な墓や葬式と、死んだ人の後生とは何の関係もないときっぱり教えて頂きました。

親鸞聖人ご自身が

「親鸞閉眼せば、賀茂河に入れて魚に与うべし」


(私が死んだら、賀茂河に入れて魚に食べさせてくれ)
と教えられています。

死んだ後に、どれだけ立派な葬式をし、墓を立派にしても、それで死んだ人を喜ばせることにはならない。死んだ人が本当に喜ぶことは、残された人が生きている今、本当の幸せになることではないか。
肉親であれば尚更です。私を育ててくれた両親が一番喜ぶことは何か、と考えると、立派な葬式を私が行うことでしょうか、そうではなく、私が本当の幸福になることだと気がつきました。

それで、どんなに大切な人でもいつかは死ぬときが来るということが、ようやく自覚され、馬鹿なことをしたと落胆せざるを得ませんでした。

恐ろしいほど楽天家で、人生楽なりとしか思えませんと言っていた私も、自分の周りの人が大切であればあるほど、その人との確実な未来である死別という苦しい現実を問題にしなければ、本当の幸せに生きることができないのだと、ようやく仏法と向き合う決心がつきました。

努力すべきは、死んだ後のことではない、「生きている今、本当の幸福に生かされる」という本当の仏教、阿弥陀仏の本願を一人でも多くの方にお伝えする事でした。

たった一ヶ月しか一緒に過ごす事ができませんでしたが、私に本当の仏教を教えてくださった、おじいさんにはとても感謝しています。

振り返ってみると、仏教を聞いてはいても、なんとなく正しいこと、という認識で、先輩があのようにいわれるから、高森先生が言われるから間違いないだろう、という程度であまり自分のこととして深く考えてはいなかったのだと反省しています。

そのように深く考えず、ただ正しいという信じ方は、盲信と言われ、親鸞聖人は、盲信をすすめてはおられません。

「合点ゆかずば 合点ゆくまで 聞きなさい 聞けば合点のゆく教え」

と、繰り返し言われていますが、なんとなく信じているのでは、合点したことになりません。

今回のおじいさんのことを通して、自分のやって来たことを見つめ、自分の問題として真剣に考えてみると、仏教で教えられていることが本当だったと分かりました。

私のような学生に仏法を伝えることを、いろいろと言われる人があることは知っています。とはいえ、未成年だったら判断がつかなくて、成人したら正しい判断ができるのでしょうか。

正しい判断ができるかどうかは、年令で決まるのでも、社会経験で決まるのでもなく、自分の頭でよく考え、なんとなくで判断しないということではないでしょうか。

研究をすることは大事なことです。
ですが、どんなに充実した研究成果を残したとしても、死んだら終わりです。自分の頭でよくよく考えてみれば、分かることです。

自分も大好きな人にもその無常が迫っている。それが自覚された今、生きているときにやらねばならないことは何か、ようやく知らされました。これからの私の生きる意味は、限られた自分の命、どうすれば自分も大切な人たちも本当の幸福になれる仏法を伝える事ができるか、その一点です。

私のような人間に根気づよく仏法を説いてくださり、本当の人生の目的を教えて頂いた善知識方に心から感謝し、一人でも多くの方とともに光に向かわせていただきたいと思っています。

 

 

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