親鸞会の真実

反響集・『科学時代の仏教』より

※当サイトに投稿いただいた、私と同じような立場の方からの体験談を紹介いたします。

(50代・男性)

 前回の内容の続きを投稿します。

 先日、息子に誘われて、親鸞会主催の勉強会に参加しました。

 そこで配付された資料が、仏教というものを知る上で、参考になりましたので、私の感想とあわせて投稿いたします。

 資料として使われたのが、『科学時代の仏教』(水原 舜爾・著)でした。

p220
(二)科学から仏教へ

科学的研究に真剣に取り組んできた者は誰でも、宇宙の法則の中に一つの「スピリット」が明示されていることを確信するようになります。その「スピリット」は、人間の「スピリット」より、はるかに優越しています。そして、その「スピリット」の前に立てば、人間の力のみずぼらしさを痛感させ、謙虚な心を起こさせるに違いありません。このようにして、科学的探求というものは、特殊な宗教的感情をひき起こしますが、この宗教的感情は、愚かな狂信的宗教感情とはまったく違ったものです。(アインシュタイン)


仏教の資料かと思えば、アインシュタインの言葉が、紹介されているのに驚きました
アインシュタインが、宗教について論じているというのは、この資料を見て、初めて知りました。

ここでアインシュタインが言う、宗教的感情というのは、いわゆるカルトのような「愚かな狂信的宗教感情」とはまったく違うものだと言うことでしょう。

科学と宗教と聞くと、かつてオウム真理教(現・アーレフ)に入信した、理系の学生たちを想像してしまいますが、真の科学者ならば、そんな狂信的感情ではない、人間としての知力の限界から来る、宗教的な謙虚な心が生まれてくるのだろうと思います。



p100
第二話 仏教と現代医学

科学の理論家を羨むことはありません。なぜなら自然は、言いかえると、科学的実験というものは、彼の理論に対し、不寛容かつ非常に非友好的な裁判官だからである。自然は理論に対して、決して「イエス」とは言わない。実験が理論に好都合な場合でさえ、「あるいは、そうかも知れん」と言うだけで、ほとんどの場合、単に「ノー」と言うだけだ。実験が理論と一致した場合でも、それは「そうかも知れん」ということを意味するにすぎない。実験が理論と一致しない場合は、もちろんその理論は間違っている。
おそらくいかなる理論も、いつかは大自然によって拒否されるだろう。多くの理論は、それが誕生後、まもなく拒否されるだろう。
客観的に見れば、人が情熱的努力によって、真理からもぎ取り得るものは、実に無限小である。(アインシュタイン)

科学は、どこまで行っても暫定的なものである。究極的に確立された真理があるといった断定的な主張を信じてはならない。何事に対しても、完全、かつ究極的な証明を与えることは、科学には不可能なことである。たとえ知識が未知の世界へ、どんなに深く入りこんでも、批判のラチ外にあるような権威は存在しない。真理は人間の権威を超えたところにある。(エックルス)

      (※ジョン・C・エックルス 1963年ノーベル生理学・医学賞 神経生理学者)

科学といえば、実験や計算などによって、実証されてきた、信用できるものであり、一方、「宗教」ときくと、何か架空の物語のように思っていましたが、そうではないようです。

「完全、かつ究極的な証明を与えることは、科学には不可能なことである」
という断言は、驚きました。

科学的に証明できないものは、信じるに値しないと思っていましたが、その科学自体が、完全な証明をすることが出来ないというのですから。人間が知恵を絞って証明してきた、科学的な真理というものは、とりあえずの真理で、すべての科学理論が、やがて否定されるものということになります。

科学万能時代の固定観念で、頭が固くなっていたことに気づかされました。

科学の理論が、すべて仮説なのだと言うことは、以下のようにも紹介してありました。

科学者でない人たちはもとより、科学者たちも数多くの仮説を提唱するが、その多くは誤りだということが、後になってわかるものである。科学というものは、もともと自己修正的な仕事である。
神聖犯すべからざる科学的真理というものはない。(カール・セーガン)


また、仏教については、こう論じられています。


とにかく、仏教は「存在の実相」「認識の限界」「人間の利己性」を、理性によって明らかにし、自覚させ、その上に立って、「人間はいかに生くべきか」を示し、人生苦の根源的救済、人間成就をめざすものといえます。

仏教は、往々にして、宗教という言葉から受ける、神秘的・非科学的イメージとはかけ離れた、非常に知性的な宗教です。奇跡や、おかげ話とは、なんの関係もありません。
マスコミの宗教関係の報道には、必ず、奇跡や、神秘や、おかげ話がつきまといますが、やめてもらいたいものです。「本物の宗教」にとっては迷惑千万です。

「存在の実相」、「認識・知性・科学の限界」、「人間の利己性」についての知識を説くことは、やる気さえあれば、どこでもできると思います。また、それらの解説には、科学的知識が大変役に立つのです。「天地同根・万物一体」、「諸行無常・諸法無我」の理は、現代科学とちっとも矛盾しないばかりか、科学の進みゆく究極のところを先取りした感があります。

この中で、特に
「仏教は、往々にして、宗教という言葉から受ける、神秘的・非科学的イメージとはかけ離れた、非常に知性的な宗教です。奇跡や、おかげ話とは、なんの関係もありません。」
という部分に驚きました。

宗教というものは、名前こそ違っても、みんな同じようなものだと思っていたからです。


科学の発展は、キリスト教などの伝統宗教の権威を破壊してきました。天動説や、処女降誕、天地創造は、科学の発展によって、その正当性を失い、単なる物語と成っていきました。しかし、仏教に関してはそれは当てはまらないのでしょうか。

宗教といえば、奇跡や、神秘、なにかオカルトめいたイメージがついて回ります。

しかし、仏教で教えられる内容の「存在の実相」「認識・知性。科学の限界」「人間の利己性」の解説には、科学の知識が逆に役立つと知り、キリスト教などの宗教とは全く逆なのだと言うことを知りました。

資料の最後に、この言葉が紹介されています。


現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは「仏教」です。(アインシュタイン)

科学時代とは言いながら、鉄腕アトムを夢見て育った世代として、最近は科学の先行きに明るいものを感じることが出来ません。

科学の発達によって、便利にはなったものの、このままでは、幸福になれそうもないと、行き詰まりを感じるのは私だけではないでしょう。

その現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるのが仏教だとすれば、本物の仏教は私たちにとって真に重要なことを教えているのかも知れないと、認識を新たにしたところです。


以上です。

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