親鸞会の真実

20.父と子の関係について

2006年6月20日、奈良県田原本町で母子3人が死亡した医師宅火災事件があった。
犯人は、長男で、現在中等少年院送致の保護処分を受けているという。
長男が犯行に及んだのは、父親の、行き過ぎたしつけや教育指導の為の暴力から逃れるためであったと言われている。

その父親の手記が新聞に掲載されていた。
(一部抜粋)

「大人の都合で長男を幼少時より複雑な家庭環境に置き、さらに、長男の考えを聞こうともせず、とにかく、いい成績をとり、いい大学に入って、医者になることこそが長男の幸せにつながるという私の価値観を、無理やり、暴力に訴えてまで押し付け、知らず知らずのうちに、精神的な極限状態に追い込んでしまいました。」

「長男のためとは言いながら、結局は、親のエゴを押しつけてきただけであったと思います。亡くなった3人だけでなく、長男もまたわたしの被害者でした。」(平成18年10月27日 毎日新聞より)

同じ息子を持つ父親として、他人事とは思えない。

この父親も反省しているが、父親というのは、子供、特に息子に自分の夢を投影してしまいがちである。
自分が医者だから息子も医者になるのが幸せに違いないとの価値観を押しつけてきた結果なのだろう。

犯行に及んだ息子の気持ちを考えると、子供だけが悪いとは思えない。非常に優秀な生徒だったようだ。息子のために、過度のしつけをした父親と、それに応えようとした息子。どちらも、犯行時までは悪意は無かったのだと思う。

よかれと思ってやっていることが、必ずしも正しいとは言えない、反って子供を苦しめることになることも多い。
成人するまでは確かに、子供は親の一部のようなものだ。だが、子供の人生まで私物化してしまっては、親としては失格である。

自分自身を振り返ってみると、息子が仏教を聞いていると言い始めたときは、私はひどく動揺し、反対した。親鸞会という名前を聞いたときは、さらに驚いた。

「話を聞くのはまだいいとしても、会員になるのはやめておけ。」

その時の心は、この手記を書いた父親と同じである。いい成績を取り、いい大学に入って、いい会社に入ってくれればそれでいい。それが息子の幸せである。その考えから行くと、仏教を聞くというのは、私の考えていたコースにはなかったことである。

「若いのに宗教を信じているのは、何かだまされているに違いない。」
「そんなものを信じていたら幸せになれない。」
「きっとまともに仕事をしないに違いない。」
「親子の関係が断絶してしまう。」

当時の私は、そのような宗教観しか持ち合わせていなかった。
今考えれば、そういう考えこそ、かなりの偏見であった。

もっともらしいことを息子に言ってはいても、腹を立てたり反対をするのは、結局自分の思ったとおりに息子が動かないからという親のエゴなのだろう。
父親の考える幸せが、そのまま息子の幸せになるとは限らない。いろいろとその後勉強をしてみて、私が間違っている部分もよく分かった。
親鸞会の説くところは、人間として当然考えておかねばならないことである。

また今回のことを通して、息子と向き合うようになったとことは結果としてよかったと思う。それまでは、仕事が優先、家庭のことは母親任せという典型的なサラリーマン家庭の父親を演じていた。
高校進学の際も、大学の進路のことも、あまり息子とじっくり話をしてこなかった。

日頃対話をせずに、いざ息子が自分の考えと違う道に進むとなるとろうばいする。あるいは、母親を責める気持ちまで出てきてしまう。
息子には息子の人生があり、私には私の人生がある。高校を卒業すれば、未熟ではあっても一人の人間として、息子の意見に耳を傾ける必要があると思う。

暴力をふるうようなしつけはしてこなかったが、私も何かのきっかけがあれば、新聞に手記を書いた父親のように、なっていたかもしれない。

息子が親鸞会で仏教を聞き始めたことは、私のためにも良かった。最近は息子に教えられることも多い。

いくつになっても、自分の子供には違いないが、子供には子供の人生がある。私も私の人生について考えねばならない時期が来た。そう考えられるようになって、私もやっと子離れできたと言うことか、と思っている。

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