親鸞会の真実

16.「死の壁」と親鸞会で教える無明の闇


ガンやSARSで騒ぐことはない。そもそも人間の死亡率は100%なのだから――。誰もが必ず通る道でありながら、目をそむけてしまう「死」の問題。死の恐怖といかに向きあうべきか。(養老孟司『死の壁』前書き)

とあったので、「死の壁」(新潮社新書)を手に取ってみた。


ただし、人生でただ一つ確実なことがあります。
人生の最終回答は「死ぬこと」だということです。
これだけは間違いない。過去に死なかった人はいません。
人間の致死率は100%なのです。(序章『バカの壁』の向こう側)

実際どれくらいの人間が死んでいるのだろうか。日本で年間101万4951人(平成15年人口動態統計)、世界では、約5960万6000人(データブック オブ ザ ワールド)だそうだ。
換算すると、日本で1分間に約2人、世界では1分間に約108人死んでいる事になる。
かくもおびただしい死者の数である。

にもかかわらず、この年令まで死を考えることがなかったのはなぜなのか。私だけでなく、現代人にとって、死というのはある意味、最も遠い存在だからであろう。

日常において死を意識することは少ない。
葬式にでも行かなければ、死体を見ることはない。さらに、誰かが死ぬ瞬間に立ち会うという機会はもっと少ない。人間に限らず、動物が死ぬ場面に出会うこともめったにない。

魚や肉も、切り身にされてパック詰めにして売られている。それを見て、死を想像するのは難しいことだ。


死の壁にもその点が書かれている。


実感がない
 
ビルの屋上で「飛び降りるぞ」と騒いでいる奴を突き飛ばそうとしたら、慌てて「危ないじゃないか」と言うようなものです。いずれも、「死にたい」「死ぬぞ」という言葉の出てくる死は、自分の思いこみの中だけの死です。実際の死とは異なる。その人自身、死がどういうものか分かっていない。


最近になって死について、よく考える(親鸞会の講演会に行ったことも多少は影響している)。しかし、死は、どんなものか?と言われても実感がないのが正直なところだ。「自分の思い込みの中だけの死」というものだろう。(前回親鸞会で聞いている息子が言った、動物園の虎だろう)
この本の中では、著者が解剖学をしている関係からか、死体についてや、脳死問題をめぐる法律的な問題、医者の立場からの死についてのもろもろが書いてある。

私が知りたいのは、人間死んだらどうなるかということなのだが、それについての話は、出てくるようで出てこない。

一つ一つの話は、コラムのようで、まあ納得できるのだが、最も知りたい核心部分には結びつかないような印象を受ける。

読み進めていくと、最後にこう書いてあった。

「死について考えることは大切だとさんざん述べてきました。しかし、だからといって死んだらどうなるかというようなことで悩んでも仕方ないのも確かです。死について考えるといっても、自分の死について延々と悩んでも仕方がないのです。そんなのは考えても答えがあるものではない。したがって「死の恐怖をいかに克服するか」などといったところで、どうしようもない。

それについてあえて答えるならば、「寝ている間に死んだらどうするんだ」と言うしかありません。寝ている間に死んでしまったら、克服も何もあったもんじゃありません。意識がないんですから。

(中略)
そんなわけで私自身は、自分の死で悩んだことがありません。死への恐怖というものも感じない。(終章:死と人事異動)


著者が、死んだらどうなるかについて、余り触れてこなかった理由がこれなのだろう。

そう言われると、そうかな、という気もしてくる。今まで気にしてきたが、考えるだけ無駄だったのだろうか。
どうせ一度は死ぬのだから、死ぬことをあれこれ考えても仕方がないではないか。寝ている間に死んでしまったら、意識もないのだから、怖いという感覚さえもないはずだ。親鸞会に入った息子が言ったようには気にすることも無いのかも知れない。

理屈の上では、「死のことは考えても答えはない」。そういうことにするより他はなさそうだ。

所詮は、考えても分からないのである。自分は確実に死にゆくものだ、そう自覚しただけで、死に対する心構えはできたのではないか。残された家族に迷惑をかけないように、墓や、借金の整理をする方が、死に備えていることになるような気がしてきた。

そのことを妻(現在、親鸞会会員)に話をしてみた。妻は息子の勧めで、すでに親鸞会に入会している。最近は、親鸞会で仏教の勉強をよくしているようである。

これらの私の意見に対し、妻はこういった

「それでは死の問題を解決したことにはならないでしょ。」

「考えても仕方のないことなら、いっそのこと考えないというのも一つの解決だと思うが」

「それで、あなたは納得できるの?」

グッと言葉につまる。いやなことを言うじゃないか。(これも、親鸞会で聞いてきたのかな)

「すっきりはしないけれど、人間がそんなにハッキリと解決できるものでもないだろう。所詮は、人間にとって死とはどれだけ考えても分からないものだし、まして死んだらどうなるなんて分からないものじゃないかな」

「その死んだらどうなるか分からない心を、仏教では無明の闇≠ニいうのよ」

 うーん、それは確か以前も親鸞会の講演会に行ったときに聞いた。

「しかし、それをどうしろというんだ」

「その無明の闇を破っていただくのよ。そして後生明るい心になることが、生死の一大事の解決なのよ」

 親鸞会では、そういうことを教えているようだ。その日は、時間もなくそこで話は終わった。確かに、考えないでおくことが、私の知りたかった、死んだらどうなるのかという問題の解決にはなっていない。

死ぬ瞬間に意識があるとかないと言うことは、問題の本質ではない。そんなことを言っていたら解答が出ないのも当然だ。不安の原因は、死というものそのものと、死んだ後が分からないからだ。

 どうしようもないことだから、考えても無駄だと思っていたが、親鸞会ではその解決があると教えているようだ。しかし、本当なのか。

養老孟司さんは、自分の父親の死を受け入れるのに30年かかったと書いている。肉親の死でも、到底受け入れられないのが人間なのだ。まして、自分の死となれば、それこそ死ぬまで認めることはできないのではないだろうか。


いまでは多くの人が、死を考えたくないと思っているようです。もちろんそんなことを考えても考えなくても、さして人生に変わりはないはずです。結論はわかっているからです。

でもたまにそういうことを考えておくと、あんがい安心して生きられるかもしれません。(あとがき)

確かに、これでは解決とはいえない。「あんがい安心して生きられるかも知れません」と言われても、実際に私が不安をかかえていることに変わりはない。

要するに、気休めだ。
学問では、これが限界ということか。
ふーむ。どうやら仏教(親鸞会で教えている親鸞の教え)は、私が考えている以上に深いのかもしれない。

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