親鸞会の真実

親鸞会の真実|15.親子の対話(親鸞会会員の息子と)


前項で述べた、キューブラロスのことが、心にひっかかっている。

1万人の患者の死に立ち会った人間が、なぜあれほど変わったのか。どうも釈然としない。

親鸞会会員の息子に、この疑問をぶつけてみると、

「お父さん、それは、人間にとって他人の死と自分の死は全く別物だからだよ」と答えた。

自分の死と他人の死、確かに感じ方は違うだろうが。

「それほど違うものなのか」

「譬えて言うと、動物園にいるトラを檻の外から眺めるのと、ジャングルで突然、目の前にトラと出会ったくらい違うんだよ。
他人の死と言うのは、自分が死ぬわけではないから、どれだけ悲しんでも、怖いなぁと思っても、すぐ忘れてしまうでしょ?
それは、動物園の襲いかかってこない虎を見るように、結局は観念的な死というものなんだよ。
それに対して、自分の死というのは、ジャングルであったトラのように、実際に自分に襲い掛かってくる。現実問題なんだ。だから、他人の死を見て感じる恐怖とは桁が違う。全く別物なんだよ」

こういう話になると、親鸞会でよく話を聞いてきた息子は饒舌である。親鸞会では、この死の問題を非常に重視しているのだ。

とはいえ、いっていることは確かに一理ある。1万人の死に立ち会ったとはいえ、自分自身の肉体は元気なのだから、確かに自分のこととは思えないだろう。

患者の死に立ち会う医者にしても同じ事だろう。息子から聞いた話だが、ある外科医が、不治の病にかかったときにこう言ったそうだ。

「今までは 人が死ぬぞと思うたに 俺が死ぬとはこいつたまらん」

私自身も、思い当たる。

肉身や、知人、仕事の付き合いなどで、葬式には何度も出ているものの、しばらくすれば、悲しみも薄れ、毎日仕事に追われているうちに死そのものを忘れてしまっている。あのとき涙を流して火葬場に棺桶を入れた事も、そろそろ自分の番だと思った事も、思い出すことがない。


キューブラ・ロスはあまりに多くの人の死に接することが日常となったために、忘れる間もなく、やがて死んだ人がどこへいったのかということを考えるようになっていった。

死ねばどこへいくのか。洋の東西を問わず、誰もが一度は考える問題であろう。

かのゴーギャンは、「われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処にいくのか」という、作品を描いている。


日本では鴨長明が「方丈記」のなかで、「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る」
生まれて死んでゆく人が、どこから来て、どこへ去ってゆくのか分からない、と書いている。

だが、ゴーギャンの絵を見ても、方丈記を読んでも、答えはどこにもない。

キューブラ・ロスは、霊媒師にその答えを求め、霊との交信に熱中したという。

死んだ人の霊というものが存在し、どこか別のところいくのだろうか。あるいは、この世のどこかにいるのだろうか。

今年(平成18年)は、首相の参拝をめぐり、靖国問題が大きく報道されていた。

戦前は、日本の兵隊は死ねば靖国の英霊として祀られるといわれていた。
だが、素朴な疑問として、インドネシアで死んだ日本兵も、中国で死んだ日本兵も、沖縄で死んだ人も、全員あの九段下の靖国神社に、霊としているんだといわれても、どうも腑に落ちない。

8月15日、日本武道館では、戦没者慰霊祭が行われる。このときは、こちらに英霊が集ってくるのかな。

沖縄や、長崎、広島でも慰霊祭があるが、その場所にそれぞれ、死者の霊というものが集ってきているのか。もちろん、それを前提として、それらの霊をなぐさめ、不戦を誓うのであろう。

どの新聞や、ニュース番組でも、そんなことには触れられていないし、問題にもされない。だが考えてみれば、日本人の死生観は、どうも根本があいまいなのだ。

そういえば仏教では、お盆になると地獄の釜のふたが開いて、先祖の霊が墓の下に集ってくる、などということも聞く。

最近では、江原啓之なる人物が、スピリチュアルカウンセラーといって、人間の霊というものについていろいろと書いたり、言ったりもしている。

そういう話をしたところ、息子は、
「仏教では、そういう霊魂は存在しないと教えられている」と言ってきた。無霊魂説だという。

輪廻とか転生といっても、変わらない霊魂というものがあるのではないそうだ。

「待てよ。じゃあ、死後はどうなるんだ。ないのか」
「そうじゃあ、ダンケン外道になってしまうじゃないか」
「なんだ、そりゃあ」(それも親鸞会で聞いてきたのだろうか)
「う〜ん、説明にはちょっと時間がかかるなあ。今日は無理だ」

おいおい、つれないぞ。くそ、気をもたせおって。

どうもこういう話題では、親鸞会で学んでいる息子のほうがはるかに上手である。

だが、親鸞会・浄土真宗では死んだ後がないということでは、どうやらないらしい。

まあ、年齢的にも、体調の面からいっても、私にとっての死というものは、まだ遠い存在にしか感じられないのも正直な気持ちである。

もうちょっと自分自身で、調べてみることにするか。

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