親鸞会の真実

14.「死ぬ瞬間」(親鸞会との比較)−3


来る日も来る日も死にゆく人と接していると得体の知れない感情がでてくる。
なんともいえないものが心にたまってくる。それを吐き出したい気持ちになる。何かがあって然るべき。
語りかけ、手を触れることのできた患者たちには翌朝にはいなくなっていた。私に多くを教え、かき消すようにいなくなったあの素晴らしい患者たちはどこに行ったのか。

死んだらどうなるのか、その関心は抑えようのないものだったという。胡散臭い霊媒師と付き合い、霊との交信に夢中になり、結果、夫と対立し離婚をしている。

確かに医学は発達してきたが、死と死んだ後については何も答えていない。だが、治療の見込みのない患者にとって、知りたいことはそれ以外にないはずだ。

キューブラー・ロスのいった「得体の知れない感情」とは、多くの死に接することで、自分はどこに行くのかという感情が抑えられなくなったのだろうか。

それも無償の愛で、克服できると思ったものの、現実の死を前にするとその愛もない。

元気なときに書いた著作の内容と、脳梗塞のあとは、まったく正反対のことを彼女は言っている。どちらが本当の気持ちなのか、彼女はこう断言している。

「ぶっきらぼうだったが正直な人間だったと覚えて欲しい。
私は自分を偽ったことは一度もなかった。」

どちらもウソではないということだろう。
つまり、番組中の、吐き捨てるような暴言は、やはり偽らざる彼女の本音なのだ。

となると、いよいよ分からない。現役時代の彼女のような信念もない私は、いざ死を迎えたらどんな気持ちになるのだろう。
インタビューの最後に、キューブラー・ロスはこう語っている。

「旅立ちの準備はできた?」
「まだよ」
「どうやって準備ができたとわかるの?」
「そのときが来たら、頭の先からつま先まで準備ができたとわかるわ」

言いたいことは、実によく分かる。
一方私は、むろんまだ何の準備もできていない。キューブラー・ロス自身が語った、死に行く人に接しているうちに感じた、「得体の知れない感情」とはなんなのか。死を見つめ、自分のこととして考えてみると、何とも言えない心になる。
正直言って、こんなこと考えたくもない。何かに没頭して忘れ去りたい。酒でも飲んで寝てしまおうか、とも思う。しかし、まぎれもなく、これは遠からずやってくる私自身の問題だ。

私の人生の残り時間は、親鸞会の講演会で聞くようにそんなに多くないのかもしれない。だが、あせりは禁物だろう。この問題を親鸞会とは別の分野からも調査し、納得できる答えを見つけたいと思っている。それが、親鸞会の存在を客観的に見つめることにもなるだろう。

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