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山田耕筰と信時潔の戦争責任を考える
音楽評論家 佐々木 光     
 
 日本の音楽について、いろいろ見聞してきたつもりですが、だいぶ時代が違ってきました。ただ、今の状況を見ていると昔のような動きと似ているような気がします。もっとも、時代がガラリと変わるのでなく、徐々にジワジワと変わる。言論統制というのは大したこともないようですが、これが文化統制になり、戦争というものが起きる前に必ずそういうことが行われてきました。
 今日のテーマは、「戦争と音楽」ということですが、ベートーヴェンやチャイコフスキーなどもそういう音楽を書いていることはよく知られていますが、音楽というものは感覚的にわかりやすく、聴く人に直接訴える感性的力に強いものがあります。逆に、戦争がこれを使うとなると非常な力をもつことになります。そういう意味で一種の麻薬みたいな作用をしているのではないかと思うことがあります。

 今日の日本の状況をみていると、かなり危ういものがあり、外堀を埋められ、さらに内堀を埋められるかも知れない。その先に何があるのか。戦前の一九三七年に満州国というのがつくられました。そこへニセの皇帝が即位します。国内では、貴族院議員でもあった美濃部達吉博士が、天皇機関説を唱えた。天皇はほんとうの意味で法律下のワク中の一つだという意見でした。これが右翼を怒らせ、「そんなことを言う奴は国賊だ、クビだ」と、議員をクビにされたんです。さらに、国体明徴事件と言うのがあり、日本の国体は絶対的なものという政府声明、さらに日独伊三国による防共協定の締結、そして日中戦争が開始されました。
 そして、山田耕筰は大満州国国歌を作曲。建国の祝典に書いています。そして、日中戦争が本格化して南京へと日本軍が侵攻し、南京陥落という事態になります。この頃、愛国行進曲が作られるわけです。あの南京大虐殺事件の最中に政府(内閣情報局)の手で作られたんです。

 軍歌は日本が一番盛んだったようです。これはなぜかと言うと、近代の日本の成り立ちに関係しているんです。要するに洋楽が明治の初めに入ってきた時代、始めは鼓笛隊、そして軍楽隊、そして軍歌が生まれてきました。軍隊を鼓舞、激励するという役割をもっていて、これと並行して軍国歌謡が生まれてきた。軍歌ではないが、軍国的題材で戦争を賛美しているものがドンドン生まれてきた。私の場合ですと、大正末期に生まれ、その時代に生きていたわけですから、聞いたり歌わされたんです。そのなかで、音楽は一体何をしてきたかを考えてみると、つまり、人の心を揺さぶり、、そういうものの力で日本の軍国主義的文化が、強い力で、戦争の終わるまで続いていった訳です。

 一九四五年八月八日、日米開戦の日、朝起きてみたら、ラジオが軍艦マーチ、愛国行進曲をやたら流していた。その間、大本営発表の臨時ニュースがひっきりなしに放送されました。「日本はアメリカを相手にいよいよ始めたんだ。お前たちもしっかりしろ」という形で叱咤激励しました。当時、NHKは全国のラジオ放送(当時テレビはない)を一手にもっていたから大変な影響力がありました。愛国行進曲のレコードは百万枚売れたといいますから、今日でも大した数です。この曲がどのくらい日本人の心をつかんだかというと、歌詞の持つ清明なロマンティシズムと力強い躍動感のあるもので、一般公募の歌詞を瀬戸口藤吉という海軍の軍楽隊長が作曲したものです。この曲についてはまた後で触れます。

   
海ゆかば
 こういうものが、巷にあふれでると、みんなの気持ちをますますかきたてて大変なものでした。考えてみるに信時潔作曲の「海ゆかば」があって、このなかにひどい歌詞がある。「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)、山行かば 草生(くさむ)す屍、大君(おおきみ) の 辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」というものですが、この中で言っているのは、天皇をあがめ奉る、そのために命を賭けても決して惜しむものではない。支那は良くない(どこがどう悪いのかわからない)、大東亜を日本がつくろうというのは非常に意義があるんだということで、日本人の心、戦争に対しての正しい判断や批判をさせないで、別のほうへもっていく、軍歌というものは軍隊の士気を鼓舞するものから始まったのですが、やっぱり国民、銃後の連中との協力態勢を図るために大きな意味を持っていたんです。信時のことについては、また後で触れます。
   
雪の進軍

 こういうなかで、日本の最も古い時期に作られた軍歌の一つ、「雪の進軍」をきいてみましょう。明治二十七年に作られたもので、次のような歌詞です。

雪の進軍 氷を踏んで どれが河やら 道さえ知れず
馬は斃(たお)れる 捨ててもおけず ここは何処(いずく)ぞ 皆敵の国
ままよ大胆 一服やれば 頼み少なや 煙草が二本

 これは日清戦争の時期のものです。
 田原総一郎という評論家は、「日本の戦争は、日清、日露までは正しかった。満州事変から間違った」と言っています。これは全然おかしな意見です。既にこの時代からこういう歌が作られ、一見人間的なものですが、中国(支那)を敵とした軍国主義が顔を出しています。
   
敵は幾万

 

 次の「敵は幾万」。「敵は幾万ありとても
、すべて烏合の勢なるぞ、烏合の勢にあらずとも味方に正しき道理あり・・・」も、同じように好戦的に意気を高揚させるものでした。
 こういう軍歌が数多く作られ二百曲を上まわったんです。大変な数ですね。初期のものは「戦友」などの人間的な肌ざわり、その中に厭戦的な気分もあったんです。また、一般から公募した歌詞による内閣情報局制作の「愛国行進曲」は、瀬戸口藤吉の作曲になるものであることは、さっきも述べましたが、ここにはかなり国拝主義的イデオロギーが強く、神がかり的な天皇礼賛、いや天皇帰依をたたえた国民歌になっています。
 
  (愛国行進曲)
一、
見よ東海の空あけて
旭日
(きょくじつ)高く輝けば
天地の正気
(せいき)溌剌(はつらつ)
希望は躍る大八洲
(おおやしま)
おお晴朗の朝雲に
(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌
(きんおう)無欠揺るぎなき
わが日本の誇りなれ
二、
起て一系の大君
(おおきみ)
光と永久に戴きて
臣民われら皆共に
御稜威
(みいつ)に副わん大使命
(ゆ)け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海の人を導きて
正しき平和うち建てん
理想は花と咲き薫る
三、
いま幾度かわが上に
試練の嵐哮
(たけ)るとも
断固と守れその正義
進まん道は一つのみ
ああ悠遠の神代
(かみよ)より
轟く歩調うけつぎて
大行進の行く彼方
皇国つねに栄えあれ

  

愛国行進曲
 太平洋戦争が始まり、陸軍の落下傘部隊が石油基地の奇襲に成功したんですが、このことを高木東六というラジオ畑の作曲家が「空の神兵」という曲にしました。
 「藍より蒼き大空に大空に、忽(たちま)ち開く百千の、真白き薔薇の花模様、見よ落下傘空に降り、見よ落下傘空を征(ゆ)く、見よ落下傘空を征く」という歌詞は、ロマンティックな風景のようですが、作曲者はこれを高々と「日本軍の崇高な使命、インドネシア解放の戦い」の意義を旋律の深々とした音程のある歌にしました。
 これはたしかに良くできた歌ですが、高木東六という作曲家は、戦争が終わってから、こうした戦意高揚を通しての戦争協力について、何ら反省を示すことがなかったようです。

空の神兵

 今日、皆さんにお話したいことは、当時の日本の作曲界の大御所とされていた山田耕筰のことです。この人は、東京音楽学校(今の東京藝大)声楽科から、ベルリンの音楽学校に学び、アメリカ、フランスなどをまわり帰国。戦争期には中国へ従軍をしましたが、日本では国策に積極的に協力し、この間、百曲余りに及ぶ軍歌、軍国歌謡を作曲しています。音楽界の統制団体の会長などを務め、音楽家の国策協力の陣頭に立って活動しました。「山田耕筰さん、あなたたちに戦争責任はないのですか」(森脇佐喜子著 1994年5月 梨の木舎)という本のなかにある一覧表には、そのすさまじい創作の跡がハッキリでています。
 音楽家、画家、文学者、映画人などの戦争期での生き方は、ほとんどが戦争協力の態勢のなかに組み込まれてしまったんですが、これには軍部、政界などの圧力、統制から次第次第に真綿で首を絞められるようになり、ついには非協力が罪人であり、非国民であるようにみなされてしまったんです。昭和十五年から二十年の間にこうした日々が続きました。音楽家は本来の活動にいろいろ制限、つまりドイツ、イタリアを除く外国の演奏をしてはダメだ。洋楽そのものをやるのも、戦争中だからと制約を受け、日本の音楽はまだ良いが、軟弱な男女のロマンスとか弱々しい抒情曲は芳しくないという風潮が全体にみなぎっていました。

 こういうなかで山田耕筰は、軍服まがいを着て日本刀を下げ、音楽の自由、自治を訴えるどころか、西洋カブレをした(?)音楽家を、「国策に協力しない」、つまり書斎やサロンに閉じこもる音楽家を強制的に軍の慰問、生産工場激励などへ引っぱり出す、そういう組織のトップになったんです。
 戦争に協力する場合、いくつかの類型があり、積極的協力、消極的協力、イヤイヤ協力と三つくらいありましたが、山田耕筰は積極協力の先頭に立っていたんです。戦後、山田は、このことについて問われた時、「戦争中は日本人なら誰一人として日本の勝利を願わなかったものはいなかった。自分は当然であり、天皇陛下を敬愛すること人一倍であった。しかし、日本は敗れた。しかし、天皇はその責任をとらなかったんだ。だから、私もその責任などとる必要はないんだ」。戦後、山田耕筰が始めたオペラ運動のための「楽劇社」という団体を筆者がインタビューのために訪れたとき、山田耕筰はきわめて明確に述べたんです。こういう、理屈は一つ通ってはいますが、「だから私に責任はない」と言っていられるのでしょうか。一人の人間としての精神の在り様がわかりませんでした。

 こういう理屈は、後年、ロッキード事件で賄賂を取って有名になった右翼の黒幕・児玉誉士夫(当時、児玉は軍のなかに入って暗躍した、いわゆる御用商人、そして右翼の壮士だった)の、毎日新聞記者によるインタビューを読んだとき、また驚きました。児玉は戦争の時代について、「あの戦争に天皇は責任をとらなかった。私は本当にがっかりした。だから私なんかも責任なんか感じる必要はないんです」と。全く同じ論理なんです。これはイデオロギーとして右派の人に共有されているんでしょうか。偶然の一致とは思えません。彼等には、肇国の精神とか、万世一国の天皇の価値観があって、少なくとも昭和天皇の今度の戦争に対しての無責任な態度は許せないという気持ちがあるのでしょう。天皇の臣民となれば、天皇の意向に従うことが最大の務めなのでしょうが・・・。

 終戦直後、あくまで抗戦を主張、天皇の詔勅を中止させようとした軍人、厚木航空隊による「抗戦を続けよ!」というビラまき事件、そんな反乱もあったくらいですから、天皇の終戦受諾は到底のめるものではなかった。しかも退位もせずに、マッカーサー元帥に対してカブトを脱いだんですから、臣下の熱烈な皇国民は半分、捨て鉢になっていたんではないでしょうか。
 当時、近衛秀麿は責任をとって自害したんです。その前に近衛は天皇の責任が避けられぬと感じ、天皇に退位を願い、京都の仁和寺に蟄居する案を立て、これを実行しようとしたが果たせなかったということがあります。それも未遂に終わった。アメリカは戦後の日本の人心を収攬するため、天皇を積極的に利用することを考え、象徴天皇にすることになった訳です。だから、極東裁判で東条英機元首相、賀屋興宣という様な軍人、政治家は二十五名が刑の執行を受け、断罪されました。しかし、最高の責任者である昭和天皇は、このアミにひっかからなかった。
 満州で細菌作戦を推進したくさんの中国人、ロシア人、日本人らを人体実験の対象にして殺害した石井四郎中将もそうでした。これは実験データをアメリカに渡すことによって、自分の死を免れたのです。天皇は、マッカーサーの家来になって日本人の律儀バカにつけこんで自ら象徴となって抜けられたんです。戦後、日本の政治、経済、社会のなかに落とした影響は非常に大きなものがありました。山田耕筰と言う人も一説によれば、辻輝子夫人のアメリカ軍への懸命な助命嘆願運動によって、その罪を免れたという風評もあります。

 しかし、あのように厖大に、天皇を讃え、戦争の正しさ、日本の侵略的"聖戦"を鼓吹する音楽作品を残した。その張本人の山田耕筰が、全く無罪であるなんて信じられないことです。ここに戦後の日本の"退廃"が始まったと言えないでしょうか。ほかにも、古関裕而、古賀政男、信時潔、橋本国彦など有名な人がいますが、山田耕筰が戦争責任を問われないならば、それより実績の乏しい作曲家は、軒並みに責任を問われなくて良いことになります。これは当然なこととなってしまいます。
 信時潔という作曲家による「海ゆかば」は、そのなかでもっとも名の通った“名曲"と言われてます。さっきも触れましたし、皆さんご承知かも知れませんが、日本の古典文学の万葉集からとられた“防人の歌"で、「海行かば 水漬く屍、山行かば 草生す屍、大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」ですね。これは葬儀のための作品だったんですが、次第に準軍歌みたいになり、有名になりました。

 防人というのは、東国から徴発された対馬、北九州などの守備のための兵隊のことで、天皇のために捧げた命は惜しくは無い、ということですね。これを現代に置き換えている。こういう古代の詞をわざわざ持ってきて、いかにも天皇の国に代々続いてきた臣下、つまり家来どもは、天皇のため命は決して惜しまないという忠君愛国の歌にしました。
 信時は、ドイツ歌曲風なイディアム、内面のパトスをおさえ禁欲的とでも言える旋律の流れによって、時には賛美歌のコラールを感じさせる歌に仕上げました。その抑揚を抑えた旋律とドイツ的な機能和声を柱とする響きで聴く人の心を深くとらえます。
 しかし、です。人はこういう忠君愛国の理念をそのまま真っ直ぐ受け取れるでしょうか。太平洋戦争というのは、日本の対外的侵略の戦いでしたね。現実の歴史はこんなロマンティックな古代の世の話ではない。現に日本は二百四十万人の尊い犠牲者を出しています。二百四十万回、「海ゆかば」を演奏しなければならないんです。そして現在でも海外に百十六万人の遺骨が残され、名も知らぬ土地、海、森の中に眠っているのです。
 こういう厳しい現実、歴史のなかで、音楽が一体どういう役割を果たしてきたんでしょうか。そして、これを積極的に推し進めてきた音楽家には何一つその責任がとられず、時の流れのなかで不問のままにされていいのでしょうか。

 いま、戦後の山田耕筰の戦争責任を暴いた人々、山根銀二氏などに対し、「機械的に批判するのは正しくない。彼の業績だってある。それを無闇に弾劾する奴はもっての他だ。彼は日本のオーケストラ運動の基礎をつくった恩人なのだ」といった意見もでています。また、「信時潔という作曲家の持っている天与の資質は大きい。それを見ないで、彼を批判するのは間違っている」などなど、擁護する声も時々耳にします。
 しかし、そういう意見の人々は、あの太平洋戦争に至った日本の近代と現代の歴史を客観的に見ないで、ただ切り離した個人の才能や業績だけをとりあげ、これを評価しているようです。むしろ、こういう態度こそ、音楽の生命、価値のほんとうの意味をつかんでいないのです。文化は大きな歴史の流れ、人間の社会的営みの中で十分に吟味して考えてもらいたいのです。

 いま、日本はイラクの戦争というのに片足を突っ込んでアメリカの戦争に協力しつつあります。新しい戦争というのが、一国単独でなく変り種の形で行われつつあるようです。過去の事例を見るとこういうことがだんだんと拡大していって大きな戦争になったのです。
 しかし、日本国憲法は、とくに九条のある限り大きな歯止めになるはずです。ところがこの歯止めを取り払って自由に何でもできるという状況を、自民党などがつくろうとしている。これはイデオロギー的には、新保守主義というのでしょうか、戦後日本の得た新しい民主主義的価値を見直すという耳障りの良いことを言って、古い旧憲法時代の価値観を復活させようという考え方です。これは非常に危険なことです。自民党という党にはそういう隠れ右派が大変多くひそんでいて、いつでもチャンスをねらっています。こういう力に抗して日々、運動を強めていく必要があると思います。
 
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