↑無料提供サービスを使用しているため関係のない広告が表示されます。ご容赦ください。↑


印刷してお読みになる場合、PDFでどうぞ!

 戦争がつくりだした「音楽」
音楽評論家 佐々木光  
 
日本の文化の問題点

 前にも話させてもらったことがあったので重複するところがあるかと思うのだが、ぼくは長く音楽評論をやってきたので、今の音楽界の状況を見ていると、原点はどこにあるかというと、戦前から戦後にかけての日本の近現代の歴史の中での認識が非常に浅かったところに問題がある様に思える。
 今の日本の文化状況を見ていると、問題の発端は戦時中・戦前にあった。戦前にどの様な問題があったかということと、戦後我々がどの様に自己批判したかということに問題の中心がある様に思える。
 自己批判をしたということが非常に不十分のままに今日までずるずると来て、今の様な状況で世の中がおかしくなってくると、そういう人たちの腹心的な、戦前が懐かしいとかいう様な人たちも出てきて、歴史認識の評価ということでとんでもないことを言い出す人までいる。
 今日の命題ですが「戦争にたぶらかされた音楽」、どういうふうにたぶらかされたかというと、非常に複雑なプロセスがあって、色んな形でたぶらかされておった。

山田耕筰の問題点
 
 一例としてあげると、作曲家の問題、例えば山田耕筰の問題とか、信時潔の問題がある。
 山田耕筰は日本の代表的な作曲家の様に言われ、非常に有名だが、この人が戦時中にとった行動は、そんなに甘いものではなかった。実はそれが全部、伏されてしまった。彼は「からたちの花」の作曲家で、叙情的な歌ばかり書いていたと思われるかも知れないが、実はその反面で、ものすごい数の軍歌とか戦時歌謡を作曲していた。
 最近、国立劇場で山田耕筰のオペラ「黒船」という作品が上演された。そのパンフレットで「稀代の大作曲家」とか山田耕筰の功績についてはふれているが、戦時中に彼がとった行動については一言もふれてない。そういう日本の文化の体質をぼくはいやだなあと思う。
 山田耕筰の作品が持っている価値は確かにあるのだが、その反面にこういう問題を抱えていることを知っておかなければならない。同時に認識の中にそれを入れておかねばならないと思う。山田耕筰は戦前の音楽界できわだった存在だった。交響楽運動とかオペラとかの先鞭をつけ、上野の芸大の声楽科を中退しヨーロッパに行き、ドイツでも勉強しロシアにも行き、非常に新しい音楽を吸収して帰ってきた。外国のものを色々勉強したのだが、帰ってきてから取った行動がそんなに簡単ではなかった。

天皇制国家の時代

 その当時の音楽の日本の状況がどうであったかというと、天皇至上主義の国家で大元帥は天皇である。つまり陸海軍の最高統率者であり、政治権力の最高の統制者であった。そして政治・社会・文化の中でのがっちりした支配権を持っていた。
 ぼくらが、戦前、日比谷、旧第一生命本社の前を市電で通る時は、全員起立した。車掌の号令で、座っている客は全部立って、宮城の前に向かってお辞儀をしなければならない、それが当たり前であった。
 要するに、天皇は神様であり、言論の自由もなく、農地は大地主によって支配され、歴史観は「金甌無欠(きんおうむけつ)」。「愛国行進曲」の中でも歌われているが、金の立派な花瓶で傷が一つもない、日本の歴史とはそういう歴史なのだということを教えこまれた。女性にはもちろん選挙権はなかった。ここにあるのは狂信的な天皇制国家を形成していた。
 この間、ある本を調べていたら、陸軍の杉本五郎という中佐がいて、それが「大義」という本を出した。その中でその人は「釈迦を信じ、キリストを仰ぎ、孔子を尊ぶのを止めよ」(そういう、ばからしい、回り道した下らないことを止めろ)「宇宙一神、最高の(真理)具現者、天皇を仰信せよ」、つまり仰ぎ信じろと、言った訳だ。
 これは宗教的な超国家主義者である。士官学校出の国粋主義者の典型だが、こういう政治的状況があったことは知らなければならない。

海ゆかば

 配った歴史表に日本が近現代史の歴史を歩んできた過程に日露戦争から1945年の敗戦まである。
 「敵は幾万」(1889 M21)はクラシックな軍歌だ。シベリア出兵あたりまでが第1期。1917年にロシア革命、1923年に関東大震災が起こっている。1931年に満州事変が起こり、1939年のノモンハン事件までが第2期、戦争が本格的になってきた時期である。1937年に盧溝橋事件があり、「勝ってくるぞと、勇ましく・・」の「露営の歌」があった。また「愛国行進曲」は当時レコードで100万枚出た。またその時期に信時潔の「海ゆかば」も出た。非常に単純な歌だが問題も含んでいる。
 これは万葉集の中の大伴家持が作った「防人の歌」=「海ゆかば水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」に曲をつけて出した。音楽的には簡潔だが、賛美歌風な響きを持っていて、ドイツ歌曲を勉強した信時潔のスタイルだが、この歌の持っている重量感はものすごいものがある。
 ぼく自身の経験でも、中国東北部でソ連軍に追われながらの部隊移動中、他部隊が玉砕の前夜の真夜中に、この歌を歌っているのが聞こえてきて、ぞっとしたことがある。
 この歌は最初、軍隊の葬式の歌と言われた。そして鎮魂曲として一般化してきた。この歌について最近、とても面白い資料を発見した。中曽根元首相がある書物の座談会でという右翼の評論家と対談して、こういうことを言っている。「この歌は日本人の芸術性というか、感受性というものが、万葉集という古代日本人が持っていた思想、それと見事に結合されていると思う。風呂に入った時など『海ゆかば』も『戦友』も歌っていました」。
 自民党の大物政治家の頭の中には、こういう血が未だに流れている。また西部は、「僕のような戦後世代は『海ゆかば』を聞くと『大君の辺にこそ死なめ』というくだりが特に気にかかります。『大君』と言うとき兵士の皆さんは天皇陛下を思い浮かべるのか、ということを訊きたいのですが、僕の想像で言うと、それよりも国家の大規模な歴史の運命みたいなものに身を捧げることではないか」などと言っている。
 また、松本健一は「『海ゆかば』が日本人のつくった名歌・名曲であることは、改めてわたしが強調するまでもないだろう。歌詞は万葉集、巻18におさめられている、大伴家持が賀歌として作った長歌の一節である」と書いている。これは防人の歌で、文永、弘安の役の蒙古襲来の時に幕府が触れを出して各地から徴用した、その時のことを万葉集で歌って歌詞にしたものである。
 この松本健一という人は「大東亜戦争末期に大本営が死者を報じる際、テーマ曲に使用したからだった」と書いている。また「これは、あの戦争における死者の悲しい記憶につながっている」、「日本人の心に血をふきださせる歌といってもいい」と言っているが、<悲しい記憶につながっている>までは良いとしても、<日本人の心に血をふきださせる歌>とは恐ろしい。こういうことを言っている人が未だにいる。
 戦前はこういう時代だった。音楽が天皇礼賛、戦争を鼓舞するために使われたということは間違いない。

皇紀2600年

 年表で1939年後半から1945年までの第3期で色々な問題が起こる。
 日独伊防共協定から1941年の太平洋戦争の始まる頃、音楽の方では皇紀2600年を称えた歌が一杯出てきた。皇紀2600年とは、神武天皇が大和の国に即位してから1940年が丁度2600年に当たるという神話に基づいた、でたらめな歴史観を作ったものである。
 この時に奉祝のための音楽会というものがいろいろ行われた。日本の作曲家を動員し大々的にオーケストラをやったり、日独伊の枢軸国の各国にも奉祝のための音楽の作成を頼み、それを東京中のオーケストラをかき集めて歌舞伎座で演奏したことがある。
 ぼくは丁度その頃、作曲の勉強をしていて、先生から招待券をもらってそれを聴きに行った。ハンガリーのシャンドールの作曲は面白いと思った記憶もある。
 そして、中国、ソ連の国境紛争からはじまったノモンハン事件では日本軍が大敗し大量の捕虜が出て、それが問題になり、東条英機首相(元陸軍大将)が「戦陣訓」というものを作った(1941)。要するに、「兵隊は逃げて帰ってはいかん。絶対に捕虜になるな」というもの。
 この二年後関東軍は関特演―演習という名目でソ連を攻撃するために70万の軍を中国東北部に集め、大々的な示威をやろうとした。しかし南方戦線が忙しくなり演習は中止となった。
 「空の神兵」―太平洋戦争の初期、インドネシア攻略の時、石油利権を強奪するために日本陸軍がパラシュートで強行着陸した。陸軍がパラシュート部隊を使うのは始めてで、それを「空の神兵」という歌にした。これは高木東六作曲の歌だ。ところが高木東六はシャンソンの作曲家ということになっていて、戦争中にこんな歌を書いたことは誰も知らない。これはタブーなのだ。
 「同期の桜」―有名な歌だが、今は民謡酒場なんかで歌っているかも知れない。この頃、アメリカ・イギリスの音楽が1000曲禁止されている。要はジャズ禁止。
 その後、サイパン玉砕、東京大空襲、ノルマンディー上陸、全面降伏となる。一口に言うが、この間世界は狂乱怒涛の時代だった。山田耕筰はその間、せっせせっせと軍歌を書き、戦時歌謡を作曲していた。これが(山田耕筰 戦争協力曲作品名リスト)その証拠だ。それを全くふれずに「山田耕筰は優秀な作曲家で日本のオーケストラ運動、オペラの基礎を築いた」などと触れ歩いている人がいっぱいいる。

国立劇場の問題
 
 今度、国立劇場でやる「黒船」という作品は日本で最初にやるオペラだと言われているが、当時の音楽雑誌などでは非常に評判が悪かった。「作品としてオペラになってない」と批評されている。だが日本のオペラの最初の作品だからということで国立劇場では資料的な価値で上演するということだ。
 国立劇場から送られてきたパンフレットで後藤暢子という人が「劇場音楽の夢―山田耕筰の奇跡」という題で書いているが、驚いたことに山田耕筰の戦時中のことに一言も触れていない。
 後藤暢子という人を知らなかったので調べたら、東京芸大を出ている。だけど、そういう人がこういう今の時期に、山田耕筰のオペラをこういう調子に乗って書いているのが、ものすごく嫌だ。不愉快だ。しかも商業劇場でない国立劇場である。
 そういえば、国立劇場のオープニングの「こけら落し」で、団伊玖磨が日本神話に出てくる日本武尊(倭建命)をとって「建・TAKERU」というオペラを書いた。それが大々的に問題となり、ジャーナリズムでも随分取り上げられた。ぼくは、ある新聞でこの作品について「国立劇場のオープニングに、こういうばかげた神話の様なものをあえて題材にするのは間違っているのではないか」と、こてんぱんに書いた。国立劇場というのは、文字通り国立劇場だから、そういう血脈が流れているので、だからこういうところに山田耕筰の作品も出てくる。

戦後の山田耕筰

 少し脱線したが、山田耕筰はオーケストラの作品でも色々書いている。主なもので、管弦楽で「満州国国歌」、シンフォニックポエム(交響詩)の中で「神風」、交声詩曲(合唱作品)「大陸の黎明」、支那事変五周年記念交声曲「皇軍頌歌」、「フィリピン独立大行進曲」など沢山書いている。
 ぼくは新聞の仕事をしていたので、山田耕筰に会うことがあった。
 山田耕筰が楽劇社(楽劇は音楽劇の意)という団体を作って、独自の活動を始めるということで取材に行った。取材中、色々な話の出た中で、山田耕筰は「ぼくは天皇を大変に尊敬していた。しかし彼が戦争の責任を取って退位しなかったので、本当にがっかりした。天皇が退位しないのだったら、ぼくも戦争犯罪人にはならないだろう。ぼくも責任を取る必要はない」ということを言った。ぼくは、それを聞いて大変なショックだった。
 この論法は、児玉誉士男という右翼の大物も同じだった。「天皇に責任があったのに責任を取らないのだから、俺も取る必要はない。戦犯になる必要はない」と言っていた。
 これが正直な気持だろうと思う。山田耕筰がそういうことを言う様では、他の音楽家たちは「山田耕筰が責任を取らないのなら俺たちも責任を取る必要はない」と言い始めた。信時潔も同じ。橋本国彦、飯田信夫など多数いたけど、全部責任を取らないことになった。
 それが日本の音楽界の戦後の風潮になってしまった。
 これは音楽界だけの問題でなく、政治の世界でも岸信介が顔を出し、戦犯の政治家・実業家は沢山いたが、皆ほっかむりをしてしまった。そこに日本の戦後の不徹底な民主主義革命が始まってしまった。みなさんは「今更、言ったって始まらないだろう」と思うけど、そのことがずうっと尾を引いて、今日の日本の文化・政治・経済の基調になっている。

「リンゴの歌」

 ところで、1945年に日本が敗れた時、天皇の詔勅を聞かれた方はおりますか? ぼくはその頃一兵士として中国東北部の山の中を歩いており、戦争が終ったことも知らずにいた。そのことについて、8月15日をどういうふうに皆んなが迎えたかについて興味があり、調べてみた。というのは皆さん、「リンゴの歌」というのをご存知ですか?
 戦後初めに歌われた歌。あれをどういう風に思われますか? ぼくはシベリア抑留からやっと帰ってきて、「リンゴの歌」を聞いて変な歌だなあと思った。意味が判らない。
 なんで、あんな歌が流行ったのか? そのことについて、ずうっと考えていた。あの歌が何を意味しているか。ある日突然、フト思った。
 あの時の日本人の精神状態は国民の85%以上は、呆然自失でなかったか。そして安堵感。情けない。合点がいかない。という反面、心の底で良かったと、これで明日から明るい電気が点けられると。
 ぼくは、国民の85%は呆然自失で、木の葉が沈み、石が流れるみたいなショックを受けたと思う。ぼくは「リンゴの歌」は呆然自失をごまかすための歌ではなかったかと思う。
 この歌は、サトウハチロー作詞、万城目正作曲で軍歌集には入っていないが、その歌詞は、
  赤いリンゴに 口びるよせて
  だまってみている 青い空
  リンゴはなんにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる
 これ、分りますか?「リンゴ可愛や 可愛やリンゴ」。ぼくはね、これは非常に問題あると思っている。
 これは何かを暗に指しているのではないかと思う。サトウハチローの戦時中のことを調べたら、軍国歌謡をかなり書いている。「めんこい仔馬」、「カボチャの歌」なども書いている。軍歌で敗戦間際に「勝利の日まで」という歌がある。この歌の歌詞は、
  丘にはためく あの日の丸を
  仰ぎ眺める 我等の瞳
  何時かあふるる 感謝の涙
  燃えて来る来る 心の炎
  我等はみんな 力の限り
  勝利の日まで 勝利の日まで

これを聞いていると、正に絶望的ですね。戦争も末期になって、もうどうにもならなくて、何とかがんばって、もう、しょうがないという、半分焼けっぱちになっている。
 これを書いた人が、それから2年経って、日本が負けたということになって、この「リンゴの歌」を書いた。それまでに軍国歌謡15曲書いた人が急に「リンゴの歌」になった。これが、実は何を意味するか?「リンゴの歌」の中の「赤いリンゴ」は暗喩で、「赤い日の丸」に似ていないかと思った。

  赤いリンゴに 口びるよせて
  だまってみている 青い空
 これは、もう絶望的な呆然自失という感じ。
  リンゴはなんにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる

 これは何だろう?「日の丸」にほっぺたつけて<お前の気持は良く判る>、<かわいやリンゴ>って、何かおかしい歌詞なのだ。
 これは戦後に書かれたサトウハチロー第1号の歌で、歌が全くなかった時代の日本人が自分たちの虚脱感をごまかしてしまうために歌っているような感じを受けた。

日本の近代化と音楽

 戦争から帰ってから、あまりに日本が変わっているので、びっくりした。戦争責任の問題、戦後どう生きるかという問題について本質的に考えねばいけないということを考えた。ぼくも甘くて、戦前、母親に選挙権がないということも知らなかった。認識が甘かった。
 天皇の人間宣言もインチキだろうし、みんなインチキなのだが、労働組合が復活したとか治安維持法でぶち込まれていた政治犯が一斉に釈放されたとか、これはすごいことだと思った。しかし、実感としては、戦後どう生きるかということについて自由にものが言えるということが一番価値があるなあと思った。
それから音楽の仕事をする様になったが、日本の近代が歩んできた歴史について、その中で音楽がどの様に作られてきたか、どういう関わりがあったかということをずうっと詳細に調べる必要があるなと思って、日本の近現代史を突っ込んで読んだり話を聞いたりしてきた。
 日本の音楽が持っている根本的な矛盾は日本の近代化と共に始まった。日本の近代はどの様な形で来たかというと、日本の伝統文化をall否定してしまった。
それが進歩的であり、良いという形で来たのだけど、ヨーロッパ文化をどういう風に日本に受け入れて行くかということについて、有名な明治の音楽教育者井沢修二はアメリカ留学の後、明治政府の命を受けて「音楽取調べ係」となった。この「音楽取調係」が後の芸術大学の発祥元である。
 井沢修二は沢山の学校唱歌を作り、色々なものを書き、彼の功績を称える人は多いが「紀元節の歌」も作曲している。
  雲に聳ゆる 高千穂の
  高根おろしに 草も木も
  なびきふしけん 大御世を
  仰ぐ今日こそ たのしけれ

 この歌詞の持っている凄さ。天皇崇拝の。これを井沢修二が作曲している。
 明治に日本に音楽が入ってきた、一番の創始者の、東京音楽学校の大先輩の創始の井沢修二がそういうことであった。だから東京の芸大がいかに官僚的で、保守的なイデオロギーで作られてきたか、そういうことが一つわかると思う。

山田耕筰と現代の音楽界

 井沢修二に対する評価と批判は、山田耕筰と同じ様な形で考えなければならない。山田耕筰について色々な問題が出たが、戦後、山根銀二という批評家が「東京新聞」で山田耕筰を「君は戦犯でないか」と批判した。この山根銀二と山田耕筰の論争は戦後の音楽界では有名だった。
 最終的に京極という評論家が論争に割って入って、水が入ってしまって、戦犯論争はそのまま尻つぼみになってしまった。
 音楽界では、その問題がずうっと根を引いていて、未だにその問題について色々意見が出ている。
 最近でも「朝日新聞」で音楽批評を書いている片山杜秀が書いているものを読むと、「山田耕筰の持っているものを評価しろ」と戦争中の足跡を消す様なことを言っている。
 「『善良かつ政治的に無知な作曲家が国策で強制動員された結果で、出来た作品には空疎な駄作が多かった』と説明する人が良くあるが、筆者はそういう見解を取らない。むしろ日本の政治的現実と作曲家が昭和15年の段階において、ある面極めて波長が合っていたのではないか」
 これは何かというと、「山田耕筰をそういう形で批判するのは少し機械的ではないか」「日本に洋楽を定着させるために、近代化路線の中で山田耕筰が距離を埋めようとした」という意見だ。
しかし、このことによって山田耕筰がやってきたことを免罪にしてしまおうという論点がはっきり出ている。ぼくはこういうことについて非常に気にしている。この間も、書いた仲間の一人に「君らはネオコンか」と言ってやったら、黙ってしまった。
 要するにネオコンというか、新保守主義である。「山田耕筰などを機械的に批判するのじゃなくて、もっと日本の近代化の歴史の中で、彼らの残したものを良く評価した方が良いじゃないか」という訳である。
 ぼくは、こういうものが出て、(国立劇場「黒船」のパンフレット)山田耕筰の評価で戦争の時期に何をしたかということを一つも書いてない、そういうものが出回っている世の中では駄目だ。彼はこういうことがあったけれども、という形にしないと片手落ちになるのではないかと言うべきだろう。
 戦争中の問題は藤田嗣治の問題でもそうだが、最近、藤田の再評価が出ている様だが、そういうものと山田耕筰の再評価の動きと関係があるのではないかと思えてならない。
2008年2月  

 
文に出てくる軍歌などを聞くことができるように作業中
 画像はYouTubeサイトへのリンクです。画面中央または左下の三角マークをクリックすれば音が出ます。
 音を止めたいときは、画面左下の || のマークをクリックしてください。 
(サイト管理人)
愛国行進曲(作詞 森川幸雄・作曲 瀬戸口藤吉)
一、
見よ東海の空あけて
旭日
(きょくじつ)高く輝けば
天地の正気
(せいき)溌剌(はつらつ)
希望は躍る大八洲
(おおやしま)
おお晴朗の朝雲に
(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌
(きんおう)無欠揺るぎなき
わが日本の誇りなれ
二、
起て一系の大君
(おおきみ)
光と永久に戴きて
臣民われら皆共に
御稜威
(みいつ)に副わん大使命
(ゆ)け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海の人を導きて
正しき平和うち建てん
理想は花と咲き薫る
三、
いま幾度かわが上に
試練の嵐哮
(たけ)るとも
断固と守れその正義
進まん道は一つのみ
ああ悠遠の神代
(かみよ)より
轟く歩調うけつぎて
大行進の行く彼方
皇国つねに栄えあれ
本文に戻る
敵は幾万 (作詞:山田美妙斎、作曲:小山作之助)
1
敵は幾万ありとても すべて烏合の勢なるぞ
烏合の勢にあらずとも 味方に正しき道理あり
邪はそれ正に勝ちがたく 直は曲にぞ勝ち栗の
堅き心の一徹は 石に矢の立つためしあり
石に立つ矢のためしあり などて恐るることやある
などてたゆとう事やある
2
風に閃く連隊旗 しるしは昇る朝日子よ
旗は飛び来る弾丸に 破るるほどこそ誉れなれ

身は日の本のつわものよ 旗にな愧じそ進めよや
斃るるまでも進めよや 裂かるるまでも進めよや
旗にな愧じそ恥なせそ などて恐るることやある
などてたゆとう事やある
3
破れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉れ
瓦となりてのこるより 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は 武士の為すべき道ならず
むくろを馬蹄にかけられつ 身を野晒しになしてこそ
世にもののふの義といわめ などて恐るることやある
本文に戻る
露営の歌作詞:籔内喜一郎、作曲:古関裕而)

本文に戻る
海ゆかば (詞:大伴家持、曲:信時潔)

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
顧(かへり)みはせじ
本文に戻る
空の神兵(作詞:梅木三郎、作曲:高木東六

藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の
真白き薔薇の花模様 見よ落下傘空に降り
見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の花よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を
捧げて悔いぬ奇襲隊 この青空も敵の空
この山川も敵の陣 この山川も敵の陣

敵撃摧と舞い降る舞降る まなじり高きつわものの
いずくか見ゆるおさな顔 ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも
撃ちてしやまぬ大和魂 我が丈夫は天降る
我が皇軍は天降る 我が皇軍は天降る
わが皇軍は 天降る
本文に戻る


 画像はYouTubeサイトへのリンクです。画面中央または左下の三角マークをクリックすれば音が出ます。
 音を止めたいときは、画面左下の || のマークをクリックしてください。 
(サイト管理人)
HOMEに戻る