第四部 人間の起源と能力と状態について

 

 

四十六、種の変異

 

さて、種の変異と生物進化という問題にたどり着きました。1つまり、人類の祖先は動物

からきたものであるかどうかという問題点にです。

この理論は、ヨーロッパの哲学者たちに信じられており、今その誤りであることを理解させることは大変困難です。しかし、将来はっきりするでしょう。そしてヨーロッパの哲学者もその誤りを彼ら自身で理解するようになるでしょう。それは明らかな誤りなのですから。人が洞察力をもって存在物に目を向け、その状態を注意深く調べ、この世界の有様、組織、完全性を見れば、この可能性のある世界では、既に存在しているもの以上に、すばらしいものはないということを確信するでしょう。この無限の空間とその中にあるすべてのものはもちろん、地球や天体にある一切の存在物は、それらが当然あるべき様に、創造され、組織され、配列され、完成されたのですから、この宇宙には、不完全なものはありません。ですから、あらゆる存在物が完全な知性を持つようになり、永遠に考え続けたとしても、今あるもの以上にすばらしいものを想像することは不可能です。

しかし、過去における創造が至高の完全性で飾られていなかったとすれば、存在は不完全であり、意味のないものであったでしょう。そして、この場合、創造は十分ではなかったでしょう。この問題は、最大限の注意を払い、深く考えられる必要があります。例えば、この依存している世界は、おおむね人間のからだに似ていると想像してみましょう。今、人間のからだにある組成、組織、完全性、美、完成度が違ったものであったとすれば、それは全く不完全であることでしょう。さて、人間が動物界に属していた時期、あるいは単に動物であった時期を想像してみれば、存在は不完全であることがわかります。-つまり、人間は存在しなかったでしょう。そして世界という体の中で、人間の脳や心に相当するこの主要な成員は存在しなかったことになります。その場合の世界は全く不完全なものであったということになります。このことから、もし人間が動物界にいた時期があったとすれば、存在の完全性は破壊されてしまうことが証明されました。なぜなら、人間はこの世界で最も偉大な成員であり、この主要な器官がない体は、確かに不完全であると言えます。人間は創造物の中で最も偉大な成員であると考えられます。人間は、存在する完全性の全ての総和されたものだからです。私たちが人について語る時、世界で最も重要な個体である完全な人間を意味しています。人間は精神的な、明らかな完全性の総和であり、万物の中の太陽の様なものです。次に太陽が存在せず、それが惑星であった時を想像してみましょう。その時、確かに存在の関係は混乱したことでしょう。そんなことがどうして想像できるでしょうか。存在の世界を探究する人にとって以上の説明で十分です。

また別なとらえ難い証明があります。この世界に宿る尽きることのない存在物は、人間、動物、植物、鉱物であることにかかわらず、確かにそれぞれ元素から構成されています。全ての存在物にあるこの完全性は、神の創造によって、構成元素からそれらを適当に混合し、分量を配分し、組成の様式をつくり、他の存在からの影響を通して生じたものであることは疑いのないことです。なぜなら全ての存在物は、鎖のようにつながり合っており、創造物の存在、進化、発達、成長を促すものは、物の特性に属する相互援助や、相互作用なのだからです。あらゆる存在は、広く他の存在に絶対的に従うか、或いは、結合を通して従うことは、いろいろな証明によって確かめられています。そして最終的に、個々の存在物の完全性、すなわち、それらの原子、器官、能力に関して、人間や、他の存在物に見られる完全性は、いろいろな元素の構成やその程度や釣り合い、構成の様式や相互に力を及ぼし合う影響によるものなのです。そして、これらすべてが揃った時、人間が存在するのです。

人間の完全性が、元素の原子の配合と組み合わせ、構成の様式、また、他の存在と相互に影響し合い、作用し合うことに完全に依存しているのですから、そこで人間は、一万年又は十万年前に、これら地球の元素から同じ配合、釣り合い、同じ組み合わせと混合の方法、他の存在物からの同じ影響を受けて作られました。ですからその時、今と全く同じ人間が存在したのです。これは明らかなことであり、議論の余地はありません。ですから、十億年後にも人間を構成する成分が、この特定の割合に集められ、配列され、その成分が同じ方法によって組み合わされ、他の存在の同じ影響を受けるとすれば、全く同じ人間が存在するでしょう。例えば、十億年後に、油、火、芯、ランプ、ランプに火を付けるものがあれば―つまり、今ある必要なもの全てが揃っているならば、全く同じランプが得られるでしょう。

これは決定的で、明らかな事実です。しかし、ヨーロッパの哲学者が用いる論点は、疑問のある証明を導き、決定的なものではありません。

 

 

四十七、宇宙には始めがない

 

人間の起源

 

存在の世界―つまり、この果てしない宇宙には始めがないということは、最も深遠な精神的真理の一つであることを理解しなさい。

神の御名や属性は、それ自身万物の存在を必要とするということは既に説明しました。この問題については既に詳しく説明しましたが、簡単にもう一度説明いたしましょう。理解して下さい。生徒のいない教育者は想像できませんし、家来のいない王様は存在しません。学生がいなければ先生は任命されませんし、創造物のない創造主は不可能ですし、供給されるもののない供給者は考えられません。なぜなら、神のすべての御名や属性は、万物の存在を必要とするからです。もし、私たちが何も存在しなかった時を想像できるとすれば、この想像は神の神性を否定することになるでしょう。さらに、絶対的不在は、存在とは成り得ません。もし存在物が絶対的不在であるならば、存在は存在とはならなかったでしょう。ですから、「一体性の精髄」(つまり、神の実在)は、永遠不滅です。即ち、神の実在には、始めも終わりもない。―この存在の世界、果てしない宇宙は、始めも終わりもなかったことは確かです。なるほど宇宙の一部、例えば、天体の一個が存在するようになったり、或いは、崩壊することがあるかも知れません。しかし、他の無数の天体はそれでもなお存在し、宇宙は秩序を乱されることも破壊されることもありません。それどころか存在は永遠であり、不滅です。全ての天体は始めがあるのですから必然的に終わりがあります。なぜなら、あらゆる組成物は集合的にせよ、特異的にせよ、必然的に分解されるからです。ただ異なる点は、あるものは速く分解され、他のものはゆっくりと分解されるということであり、紐成されたものが全く分解されないということは不可能です。ですから、重要な存在物は、始めに何であったかを知ることが必要です。1始め、起源は一つであったということは疑いないからです。数の始まりは一であって二ではありません。ですから始め、物質は一つであり、そしてその一つの物質は個々の元素の中にいろいろ異なった姿となって現われたということは明らかなことです。このようにして、さまざまな形体が生み出され、生み出されたさまざまな姿は永久的なものとなり、個々の元素は特殊化されました。

しかし、この永遠性も始めははっきりしたものではありませんでしたが、長い時間がたって実現し、完全な存在になりました。その時これらの元素は無数の形体に組成され、組織され、結合されました。或いはむしろ、これらの元素の組成と結合から無数の存在が出現したのです。

この組成、配合は神の英知と神の先在的力によって、ただ一つの自然の組織から生み出されました。その自然の組織は英知によって導かれた最大の力によって、宇宙の法則に従って組成され、結合されました。このことから、それは神の創造であり、偶然による構成、配列ではないことは明らかです。このことが、自然の組成から存在が生まれ、偶発的な組成からはいかなる存在も生まれないということの理由です。例えば、人間が心意と知性を使って、ある元素を集め、それらを結合させたとしてもシステムが不自然なので、生きたものは産み出せないでしょう。このことが、存在するものは元素の合成と組み合わせによって作られているのに、なぜ元素を集めてそれらを一緒に混ぜ合わせても、生きているものを創り出すことは不可能なのかという含みのある質問への解答です。それは間違った想像です。この組成の起源は神から来るからです。この組み合わせを作るものは神であり、それは自然のシステムによってそれぞれの組成から存在が生み出され、一つの存在が実現するのです。人間によって作られた組成は何も生み出しません。人間は創造することはできないからです。

要するに、諸元素の組成と結合、分解、分量、他の存在からの影響によってさまざまな形態や無限の実体、無数の存在が生み出されたということです。しかし、この地球が現在あるような形に一瞬の内になったのではなく、この宇宙の存在は現在の完全性で飾られるまで序々にいろいろな様相を経てきたことは明らかです。宇宙的存在と微細な存在はどこか似ており、類似点を見つけることができます。なぜなら、両方とも一つの自然の組織、一つの宇宙の法則、神の機構の支配下にあるからです。ですから、宇宙の体系の中にある最小の原子は、最大の存在物と似ていることがわかるでしょう。それらは一つの自然の体系、一つの宇宙の法則のもとで、唯一の力の実験室から生み出されることははっきりしています。ですから、それらは互いに類似点があるのです。このように、母親の子宮の中の人間の胎児は序々に成長発達し、いろいろ異なった形体や状態となって現われ、ついには完成の美の段階で成熟に達し、最高の優美さをもって完全な姿となって現われるのです。同じように、皆さんが見ているこの花の種子は初めは意味もない小さなものでしたが、大地という子宮の中で成長発達し、さまざまな形態をたどった後、この申し分ない新鮮さと優美さの状態となって現われたのです。同じように、この地球も一度存在を見い出した後、宇宙という母体の中で成長、発達し、さまざまな形態、状態をたどり、遂に現在の完全性に到達し、無数の存在物で飾られるようになり、完成された組織として現われたのです。

ですから、胎児のような状態にある原始の物質や、最も初期の形態をなした、混ぜ合わされ、合成された元素は、至高の神の英知を通してある形状から別の形状へと変わりつつ、長い期間と世代を経る間に次第に生長発達し、ついには、この完全性、このシステム、この構成、この秩序となって現われたことは確かです。

さて主題に戻りましょう。人間はその存在の始め、母親の子宮の中の胎児のように、地球という子宮の中で序々に成長発達し、ある形態から別の形態へ変わり、一つの姿から別の姿へ変わり、ついにこの美、この完全性、この力、この能力をもって現われました。人間の胎児は、一挙にこの形として現われたのでもなく、「最も優れた創造者なる神が崇められんことを。」(コーラン2314)という言葉の顕示となったのでもありません。序々に、さまざまな状態や異なった形を経て、最後にこの形、美、この完全性、優美さ、愛らしさを得ました。人間が現在

の完全性に到達したこの地上での人間の成長発達は、母親の子宮の中の胎児の成長に似ていました。それは序々にある状態から別の状態へ、ある形態から別の形態へ、ある姿から別の姿へと変わりました。なぜなら、このことは宇宙のシステムと神の法則の要求するところに従っているのですから。

すなわち、胎児はいろいろ異なった状態を通り、数多くの段階を経て、ついに「至高の創造主なる神が崇められんことを!」という言葉を顕示するような形になり、理性と成熟の徴候が現われます。同じように、この地球上における人間の生存も、初めからこの状態に到達するまである形態と状態は必然的に長期間続き、多くの段階を通り過ぎてこの状態に到達します。しかし人間は存在の初めから別個の種をなしていました。同じように、母親の子宮の中にいる人間の胎児は初め奇妙な形態をしており、次にこの体はある姿から別の姿へ、ある状態から別の状態へ、ある形態から別の形態へと変わっていき、ついに至高の美と完全性を現わしました。

しかし、母親の子宮の中で現在の人間の形態とは全く相違した奇妙な形態をとっているとしても、それは優れた種の胎児であって、動物の胎児ではありません。人間としての種、本質はいかなる変革も受けません。すでに姿を消した器官の痕跡が実際に今あることを認めたからといって、これが種の非永遠性や非原始性を証明するものではありません。たかだかそれは人間の形態や姿、格好や器官が進化したことを証明するに留まっています。人間は常に別個の種でした。即ち人間であって決して動物ではありませんでした。ですから、母親の子宮の中にいる人

間の胎児がある形態から別の形態へと変わり、次の形態が最初の形態に全く似ていないからといって、これがどうして種が変化したという証拠なのでしょうか。それは初め動物だった、そして器官が進化発達してついに人間になったと言えるのですか。いいえ、違います。こうした思想観念こそ何と幼稚な、根拠のないものであることでしょう。なぜなら、人間の種が始めから存在し、人間性は永遠であることの証明は明らかなのですから。

 

 

四十八、人と動物の相違

 

精神の問題についてすでに一、二度お話しましたが、話はきろくされておりません。

人々は二つの部類に属している。―つまり、二つの集団からなっていることを理解しなさい。一方の集団は精神を否定し、人間もまた動物の一種であると言います。動物も人間と同能力と感覚を持っているではないかと言います。空間を満たす単純で単一な元素は無限に結合し、それぞれの結合から存在物の一つが生み出されます。こうした存在物の中に能力と感覚を持つ精神の所有者(人間)がいます。この結合が完全であればあるほどその存在はより高貴なものとなります。人間の体の中における元素の結合は、他のどの存在物の結合よりはるかに完全です。それは絶対的釣り合いのもとで混合されています。ですから、それははるかに高貴であり、より完全です。彼らは言います。「それは人間が他の動物にはない特別な能力や精神を持っているということではない。動物は感覚のあるからだを持っている。しかし人間はある能力においては動物より鋭敏である。けれども、聴覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚などの外面的感覚、さらに記憶のような内面的な力においてさえも、動物は人間よりずっと豊かに与えられている。」

「動物はまた・知能と知覚力も持っている。」と。彼らが譲歩する点は、人間の知能はずっと偉大であるということだけです。

これが今の哲学者の言うことです。これが彼らの言葉であり、仮説であり、そういうふうに彼らの想像が決めるのです。それで彼らは強力な論争と証拠によって、人間の祖先を動物にまで戻し、人間もかつては動物であった時があり、それから種は少しずつ変化発達して、ついに今の人間の地位に到達したと言っています。

しかし、神学者たちは、断じてそうではない、と言います。人間は動物と共通の力や外面的な感覚を持ってはいるけれども、人間には動物にないすばらしい力があります。科学、芸術、発明、商業、真理の発見は、この精神的力のもたらすものです。これが万物を包容し、その実体を理解し、存在物に秘められた神秘を発見し、この知識を通してそれらを支配する力なのです。力は、外面的には存在しないもの―つまり、目に見えないために外面的に存在しない、感じられない知的実体を感じさえします。ですから、その力は知的実体である人間の心意、精神、特質、性格、愛、悲しみを理解します。さらに言えば、人間の生み出すこうした現存の科学・芸術・法律・数え切れない発明も、かつては目に見えない、神秘的な隠された秘密でした。

それらを発見し、目に見えない世界から目に見える世界にもたらしたものは、万物を包み込む人間の力にほかなりません。ですから、電信、写真、蓄音器やあらゆるそうした発明やすばらしい芸術はかつては秘められた神秘でした。つまり人間の実体がそれらを発見し、目に見えない世界から目に見える世界へともたらしたのです。皆さんがご覧のこの鉄器-実際すべての金属について言えることですがーの特質が隠された神秘であった時さえありました。人間はこの金属を発見し、こうした工業品の形に作り上げたのです。他のあらゆる人間の発見、発明についても同じことが言えます。それらは数え切れません。このことは否定できません。もし、これは動物にもある能力、体にある感覚器の力の生み出すものであると言うのであれば、これらの能力に関しては動物は人間に優っていることは、はっきりわかります。例えば、動物の視力は人間の視力よりはるかに鋭いですし、嗅覚、味覚の力もまたそうです。要するに、動物と人間に共通にある能力については動物の方が人間より強いことがしばしばあります。例えば、記憶力をとってみましょう。もしも鳩をここから遠くの国へ持っていってそれを放してやると、鳩は戻ってきます。鳩は道を覚えているのです。犬をここからアジアの中央に連れて行き放してごらんなさい。犬はここに戻り、一度として道に迷うことはありません。その他、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の力についても同じことが言えます。

このように、もし人間に動物の持つ力とは違った力がないならば、動物は発明や存在を理解する上で人間より優れていることになってしまいます。ですから人間は動物が所有しない、持って生まれた才能があることがはっきりします。

さて、動物は感じられる事物を知覚しますが、知的実体を知覚することはできません。例えば、動物はその視野の範囲内にあるものを見ますが、その視野の範囲外にあるものは感知することはできませんし、それを想像することはできません。ですから、動物は地球が球体をしていることを理解できません。しかし、人間は知り得たものから未知の事物を立証し、未知の真理を発見します。例えば、人間は地平線の曲線を見て、このことから地球は丸いものであることを推理します。例えば、アッカの北極星は三十三度の位置にあります。―つまり、地平線上三十三度の位置にあります。人が北極に向かって進むと、北極星は進行する距離の度合いに従って、その度合いだけ地平線を上って行きます。―つまり、北極星の高度は三十四度、四十度、五十度、六十度、七十度となります。そして北極に到達すれば北極星の高度は九十度になり、天頂に達します。――つまり、頭のま上にあります。この北極星と北極星が上昇していくことは知覚できることです。北極星に向かって進めば進むほど、北極星は高く昇って行きます。こうした二つの知られた真理から未知のことが発見されました。即ち、地平線は曲線であり、地球のある位置における地平線は、別の位置の地平線とは異なるということを意味しています。人はこのことを感知し、そのことから地球は丸いという目に見えないことを立証します。動物がこのことを感知することはできません。同じ様に、動物は太陽が中心にあって、地球がそのまわりを回転することを理解することもできません。動物は五感のとりこであり、それらに縛られています。五感を越えているもの、五感の支配の外にあるもの、動物はそれらを決して理解することはできません。外面的感覚においては、動物の方が人より優れてはいるのですが。これらのことから、人には発見する能力があることが証明されました。この能力によって、人は動物から区別されます。これが人間の精神です。

神に誉れあれ!人は常に高きに向かい、その向上心は強い。人は常に今いる世界より偉大

な世界へ到達したい、今いる領域より高い領域に昇りたいと願っています。高きを愛する心は人の特徴です。アメリカ、ヨーロッパのある哲学者たちが、動物の世界へとしだいに近づき、退歩することに満足していることは驚くほかありません。なぜなら、存在の傾向は高きに向かっていなければならないからです。それにもかかわらず、もし彼らの誰かに向かって「あなたは動物だ。」と言おうものなら、彼はひどく感情を害して怒るに違いありません。

人間の世界と動物の世界、人間の高貴さと動物の卑しさ、人間の完全さと動物の無知、人間の光明と動物の暗黒との間には、何と大きな相違のあることでしょう!十才のアラブ人の子供でさえ、砂漠で二、三百頭のらくだを支配することができます。彼の一声で、らくだを前進させたり、後退させることができます。か弱いヒンズー人は、巨大な象をこの上もなく従順な召使いになるように制御します。万物な人の手によって支配されます。人は自然に抵抗できますが、他のあらゆる創造物は自然のとりこであり、自然の要求するままにならないものはありません。人間だけが自然に抵抗できるのです。自然は物体を地球の中心に引き寄せます。人は機械的手段によって地球から離れて、空中に舞い上がります。自然は人が海を横断することを妨げますが、人は船を作り、太洋を横断して旅をします。等々、話題はいくらでもあります。

例えば、人はエンジンを運転して山々を越え、荒野を走ります。そして東西に起こった事件のニュースを一ケ所に集めます。こうしたことは皆、自然に反しています。雄大な太洋は自然の法則からみじんもはずれることはできません。さすがに荘厳な太陽も自然の法則から針の先ほどもそれることはできません。人間の条件、状態、特質、運動、性質など決して理解することはないのです。

そうであるなら、この人間の小さな肉体にあるこうしたすべてを包含する力はいったい何なのでしょうか。人間が万物を征服するこの支配力は何なのでしょうか。

もう一つの要点が残っています。近代哲学者たちは言います。「我々は人間の精神などまだ見たこともない。人体の秘密を深く探究しているのにもかかわらず、我々は精神力を知覚しない。知覚できない力などどうして想像することができるであろうか?」神学者たちはこう答えます。「動物の精神も知覚できない。そしてその肉体の力によってもそれは知覚できない。動物の精神の存在は何によって証明するのだろうか?結果からみて、動物には植物にない力が

あることを証明するに違いない。これは五感の力である。―すなわち、視力、聴力、その他の力である。これらから動物には精神の存在することを推論する。同じように、今まで述べてきしるした証拠や徴から、人間の精神があることを論じるのである。動物には植物にない徴があるので、この感覚力が動物精神の特質であると言う。また人間には動物に存在しない徴や力や完全性があることもわかる。であるから、人間には動物にはない力が存在することを推論するのである。」と。

五感に感じられないものを否定しようと言うのであれば、議論の余地なく存在する実在をも否定しなければならなくなります。例えば、工ーテル物質、エネルギーは五感には感じられません。しかし、それは疑いなく存在しています。引力は五感には感じられません。しかし、それは確かに存在します。いったい何によってこうした存在を確認するのでしょうか?それらのしるしによるのです。そういうわけで、この光はかの工ーテル物質の振動です。この振動からエーテル(エネルギー)の存在を推論するのです。

 

 

四十九、人類の成長と発達

 

質問 一部のヨーロッパの哲学者たちの主張する、万物の成長発達に関する理論についてどう思われますか?

答 この問題については既にお話しましたが、今一度お話しましょう。簡単にいえばこの問題は、種は初めから存在するか否かを決めることによって決定されるでしょう―つまり人という種は、人としての起源から確立されたか、あるいは後に動物から派生したかどうかということです。

あるヨーロッパの哲学者たちは、種は成長発達し、その変化、変革もまた可能であるという意見に一致しています彼らがこの論理に与える立証の一つは、地質学の注意深い研究と立証によって、植物の存在は動物の存在に先行し、動物の存在は、人間の存在に先行したことが明らかになったということです彼らは、植物の種も動物の種も、変化したのであると考えます。というのは、地球のある地層に、過去に存在したが今は絶滅した植物を発見して、それらは進化し、力を増し、形や様相が変化したと考えます。同じように、地球の地層に変化、変形した動物がいる。こうした動物の一つは蛇である。蛇にはかつて足があった徴候があるが、時の経過と共に足は消えてしまった。同じように、人間の脊椎には他の動物のように、かつて尾があったことを殆ど立証するような徴候がある。かつてはその器官も有用であったが、人間が進化したので、もはや役に立たなくなり、しだいに姿を消した。蛇が地下に避難して這う動物となるにつれて、もはや足の必要はなくなり、かくして足は姿を消した。しかしそれらの痕跡は残っている。その主な論点はこうです。そうした器官の痕跡の存在は、それらがかつては存在したけれども、今はもはやいらなくなったので、しだいに姿を消したということを証明している。だから、完全で、必要な部分は残っているが、不必要なものは種の変異によってしだいに姿を消したが、それらの痕跡は存続していると。この論議に対するまず第一の解答は、動物が人に先行したという事実は、種の進化、変化、変革を立証するものでもなく、また人間が動物の世界から生じたということを立証するものでもないということです。これらのあい異なる存在は、個々に出現したことは確かであるとしても、人間が動物の後に存在するようになったことはあり得ることです。植物界を調べてみると、異なる木々の果実は同時に熟すことはありません。あるものは早く、他のものは遅く熟します。

この先行性は、遅く結ばれたある樹の果実は、早く実を結ばれた樹の実から生み出されたものであるということを証明してはいません。

第二に、こうした器官のほんのわずかな徴や痕跡には、まだ解らない何か大きな理由があるかも知れないということです。今だに、存在理由の解らないものがどんなにたくさんあることでしょう。器官の組成に関する学問である生理学は、動物の色の違い、人の髪の色の違い、唇の赤さ、小鳥の色の多様さの理由と原因は今だに分らず、かくされた秘密であると書いています。しかし、目の瞳は太陽の光線を吸収するために黒い色をしていることが知られています。

もしも他の色、たとえば、一様に白い色であるとすれば、瞳は太陽の光線を吸収しな.いでしょう。ですから、今まで述べたものの存在理由はわかりませんから、これらの器官の痕跡が動物のものであろうと人間のものであろうと、存在することの理由と英知も同様にわからないことはあり得ることです。たとえそれが分からなくても、何か理由があることは確かです。

第三に、ある動物、あるいは人間でさえも、今は失ってしまった器官を持っていた時があったと想像してみましょう。このことは、種の変化と進化の十分な証拠ではありません。人間は胎児期の始まりから、成熟の段階に到達するまでにさまざまな形や姿を経過します。その姿、形、外形、色は変化します。ある形から別の形になり、ある外形から別の外形へと変わって行きます。それにもかかわらず、胎児期の始めからそれは人間の種です。―つまり、人間の胎児であって動物の胎児ではありません。しかしこれは初めははっきりしませんが、後にはっきり目に見えるようになります。例えば、かつて人間は動物に似ていた、そして今や進化し、変化したと仮定してもなお、それは種の変化の証明ではありません。それは違います。前にも述べたとおり、それは人間の胎児が理性と完全性の段階に到達するまで変化し、変革していくことに似ているにすぎません。もっと分かり易く言いましょう。人間が手足で歩き、尾を持っていた時代があったと想像してみましょう。この変化、変革は母親の子宮の中にいる胎児の変化に似ています。それはいろいろに変化し、完全な形になるまで成長、発達しますが、それは初めから特別な種です。

要約します。母親の子宮の中の人間は、ある形から別の形へ、ある姿から別の姿へと変化し発達しますが、それは胎児の始めから人間です。―同じように、人間は宇宙という母体の中に存在するようになったその始めから、はっきりとした種―つまり人間―であり、ある形から別の形へと序々に進化してきたのです。ですからこうした外形の変化、器官の進化、成長発達は、成長と発達の実態を認めたとしても、種が独自なものであることを妨げるものではありません。人間は初めからこうした完全な形、組成をしており、肉体的、精神的完全性を獲得する能力と素質を持っており、「我は、我のかたちに似せて人を作ろう。」(創世紀1"26)という言葉の現れでした。人間はますます魅力的になり、ますます美しく、ますます優美になるばかりです。文明は人間を未開の状態から連れ出しました。それはちょうど、庭師によって栽培された野生の果実がますますみごとに甘くなり、ますます新鮮さとおいしさを獲得するのに似ています。

人間世界の庭師は、神の顕示者です。

 

 

五十、人間の起源に関する精神的証明

 

人間の起源に関してこれまで提示してきた立証は、論理的立証でした。さて、ここで欠くことのできない精神的立証をしましょう。既に、論理的論法によって神を立証しました。また人間は人間としての起源と基礎から存在し、人間の種は永遠の昔から存在していることを立証しました。ここで、人間の存在−−つまり人間の種−−は必然の存在であり、人間がいなければ神の完全性は現われ得ないという精神的立証をしましょう。しかし、これらは、精神的立証であって、論理的立証ではありません。

人間は、存在物のうちで最も高貴なものであり、あらゆる完全性の総和であり、すべての生物、存在物は、神の栄光が輝きでる中心であることーつまり、神の神性の徴が存在物や創造物の実体にあらわれていることをたびたび示し、立証しました。ちょうど地球が太陽の光線を反射する所であるようにーその光、熱、影響が地球のあらゆる分子のうちにはっきり見えるように存在物の分子はこの無限の空間の中で、神の完全性の一つを宣言し、立証しています。いかなるものもこの恩恵を奪われることはありません。それは神の慈悲の徴であるかまたは、神の力、神の偉大さ、神の正義、神の成長を促す摂理の徴です。あるいは、神の寛大さ、神の視覚、神の聴力、神の知識、神の恩寵等々の徴です。

疑いなく、おのおのの存在物は、神の栄光が輝き出る中心です。―つまり、神の完全性は、存在物からあらわれ、その中に輝き渡っています。それは、砂漠や、海の上、木々、果実、花、その他あらゆる地上の存在物の中に輝き渡る太陽のようなものです。この世界、もちろんひとつひとつの存在物も、神の御名の一つを宣言しています。しかし、人間の本質は集合的本質、総体的本質であり、神のすべての完全性の輝き出る中心です。―つまり、私たちが神について確認する神の御名、属性、完全性は、人間の中に徴が存在します。もし、そうでないとすれば、人間は神の完全性を想像し、理解することはできないはずです。それゆえ、神はすべてを見給うお方であり、目は神の視覚の徴であると言われるのです。こうした視力が人間にはないとすれば、人間はどうして神の視覚を想像することができるのでしょうか。なぜなら、生まれつきの盲人は見ることを想像できません。生まれつき耳の聞こえぬ人の人は"聞くことを想像できません。死んでいる人は、命を理解できません。ですから、あらゆる完全性の総和である神の神性は、それ自身、人間の本質に反映しているのです。―つまり、一体性の精髄は、あらゆる完全性の集合したものであり、この一体性から、神は人間の実体に反映を投げかけます。その時、人間は真理の太陽へ向いている完全な鏡となり、輝きの中心となります。真理の太陽は、この鏡に輝いています。神の完全性の反映は、人間の実体に現われます。ですから、人間は神の代表であり、神の使者です。もし人間が存在しなければ、この宇宙は空しいものであるでしょう。なぜなら、存在の目的は、神の完全性の出現にあるからです。

ですから、人間が存在しない時があったとは言えないのです。ただ、この地球は存在していなかった時があり、地球が存在し始めた時には、人間は地上には出現していなかったと言い得るだけです。しかし、始めなき始めから、終わりなき終わりまで、「完全な顕示者」は常に存在しています。私の言っているこの人間とは、一人、一人の人間のことではありません。「完全な人間」のことです。木の最も高貴な部分は果実です。それは、木の存在理由だからです。木が果実をつけないならば、意味がありません。ですから、星であれ、地球であれ、存在の世界にはかってロバ、牛、ねずみ、猫が住んでおり、しかも人間はいなかったとは想像できません。この想像は誤りであり、無意味です。神の言葉は太陽のように明らかです。これは、精神的立証の一つです。しかし、唯物主義者のためになるように、はじめにこの精神的立証を論じることはできません。まず論理的立証を論じ、その後に、精神的立証をしなければなりません。

 

 

五十一、人間の精神と心意は初めから存在していた

 

質間 人間は初めから心意と精神を持っているのですか。それとも、それらは、人間の進化の結果現われたのですか。

答 この地球上における人間の存在の始まりは、母親の子宮の中における人間の形成に似ています。母親の子宮の中の胎児は序々に成長発達して出生し、出生してから後も、分別と成熟の年代に到達するまで成長発達し続けます。幼時の人間にも、心意と精神の徴が現われますが、それらは完全な段階に達しません。それらは不完全です。人間が成熟の域に達した時になってようやく心意と精神はこの上なく完全に現われ、はっきりするのです。

そしてまた、世界という母体の中における人間の形成も初めは胎児のようでした。それから、しだいに完全さを得て進歩し、成熟の域に達するまで成長発達します。その時、心意と精神はこの上ない大きな力となって現われてきます。人間の形成の初期にも心意と精神は存在しましたが、隠されていました。後になってそれらは現われました。世界という子宮の中でも心意と精神は存在しましたが、それらは隠されていました。しかし後に現われました。種子の中に木が存在するのですが、それは隠され秘められているのと同じことです。種子が成長発達して完全な木が現われます。同じように、万物の成長発達は序々に起こります。これは普遍的な神の組織であり、自然の方式です。種子は一瞬のうちに木にはなりません。胎児は一瞬のうちに大人にはなりません。鉱物は突然石にはなりません。いいえ、それらは序々に成長発達して、完全の域に到達するのです。

すべてのものは大小七かかわらず、始めから完全に、完成されたものとして創造されました。しかし、その完全性は序々にそれらの中に現われます。神の組織は一つです。存在の進化は一つです。神のシステムは一つです。すべてのものは大小にかかわらず、一つの法則と方式の支配下にあります。一つ一つの種子には、初めから植物としてのすべての完全性が備わっています。例えば、種子の中には、初めから植物のすべての完全性が存在しますが目には見えません。後に少しずつそれらが現われてきます。種子から最初に現われるものは新芽であり、次に枝、葉、花、実が現われます。しかし、その存在の初めから、これらすべてのるのははっきりとは見えないのですが、潜在的に種子の中にあるのです。

同じように、胎児も初めから精神、心意、視覚、嗅覚、味覚1ひと言で言えばすべでの能力といったあらゆる完全性を備えているのですが、それらは目に見えず、ただ、序々に現われてくるのです。

同様に、地球は始めからそのあらゆる要素、物質、鉱物、原子、有機体とともに創造されました。しかし、これらは序々に現われました。始めに鉱物、次に植物、その後に動物、そして最後に人間が出現しました。

始めからこれらの種類や種は存在していたのですが、地球の中で未発達だったのです。それからごくゆっくりと現われたのでした。なぜなら、神の至高の組織や宇宙普遍の自然の方式は万物をとりまき、すべてのものは、この法則の支配下にあるからです。この宇宙の体系を考えてみるならば、万物のなかには存在し始めたときから完成の域に達していたものは一つもないことがわかります。絶対にそのようなことはありません。万物は序々に成長発達し、やがて完成の段階に到達するのです。

 

 

五十二、肉体における精神の出現

 

質問 肉体に精神を出現させる英知は何なのですか。

答 肉体に精神を出現させる英知はこうです。人間の精神は神の信託物です。精神はあらゆる状態を通過しなくてはなりません。なぜなら、精神が生存上のあらゆる状態の中を経験し運動することによって、完全性を獲得する手段が得られるからです。そこで人が系統だった方法で、さまざまな地方や、多くの国を旅行し通過すれば、それは彼が完全性を獲得する手段であることは確かです。なぜなら、彼はいろいろの場所、景色、国々を見、そこから他国の状態、様子を知るからです。こうして彼は国々の地理、不思議、芸術を知り、人々の風俗、習慣、しきたりに慣れ、その時代の文明や進歩を見、各政府の政策、それぞれの国の力、許容能力を知るようになります。人間の精神が存在の状態を通過する場合も同じです。人間の精神は、それぞれの段階、地位の所有者となります。それは肉体という状態の中にあっても必ず美徳を獲得するようになるでしょう。

そればかりでなく、この創造された世界が限りない成果を生み出し、この世が生を受け、神の恩恵を現わすために、精神の完全性の徴がこの世に現われることが必要です。例えば、太陽の光線は地上を照らさなければなりません。そして、太陽の熱は地上の生類を成長させます。もし太陽の光線と熱が地上を照らさないならば、地球には何も住まないし、意味がなくなります。そして、その発達は阻害されるでしょう。同じように、もし精神の完全性がこの世に現われないならば、この世界は啓発されず、全く野蛮になるでしょう。肉体の形の中に精神が出現することによってこの世は啓発されます。人間の精神が肉体の命の根源であるように、この世界は肉体であり、人は精神です。もしも人間が存在しないならば、精神の完全性は現われず、心意の光はこの世に輝かないでしょう。この世は魂のない肉体のようになってしまいます。

この世はまた、果実をつける木とも言うべきです。人は果実であり、果実のない木は意味がありません。

その上、人間という有機体に見られるこうした器官、元素、組成は、精神に対する引力であり、磁石です。精神が人間の中に現われることは確かです。澄んだ鏡は確かに太陽の光線を引きつけます。それは明るく輝き渡り、すばらしいイメージがその中に現われます。一つまり、こうした現存の元素が完全な力で、自然の秩序に従って集められれば、それらは精神に対する磁石となります。そして精神はあらゆる完全性を持ってその中に現われます。

これらの状況のもとでは、「どうして太陽の光線が鏡に降下する必要があるだろうか。」ということは問題になりません。なぜなら、物事の実体相互の関係は、それらが精神的なものであろうと、物質的なものであろうと、鏡が澄んでいて太陽の方へ向いているときは、太陽の光は鏡の中に必ず明らかになることを必要とするからです。同じように、元素がこの上もなくすばらしい体系、組織、有様に配列され、結合されると、人間の精神はそれらの中に現われ明らかになります。これは全知全能なる御方の御命令です。

 

 

五十三、神と創造物の関係

 

質問 神と創造物の関係1つまり、独立しておられるお方である至高のお方と、他の存在物との関係はどのようなものなのでしょうか。

答 神の創造物との関係は、創造主と創造との関係です。それは、太陽と依存している存在物の暗い物体との関係、製作者と彼の製作物の関係のようなものです。太陽はその本質において、太陽が照らす物体とは独立しています。なぜなら、太陽の光はそれ自身の中にあり、地球とはかかわりなく独立しています。ですから、地球は太陽の影響下にあってその光を受け取ります。一方太陽とその光は地球とは全く独立しています。それにしても、もし太陽が存在しなければ、地球も地上のあらゆる存在物も存在できません。

創造物が神に依存することは、放射による依存です。―つまり、創造物は神から発するのであって、神を現わしてはいません。その関係は放射の関係であり、顕示の関係ではありません。太陽の光は太陽から発します。それは太陽を現わしてはいません。放射による出現は、世界の地平線にある天体からの光線の出現のようなものです。―つまり、真理の太陽の神聖な本質は分割されませんし、創造物の地位に下降することもありません。同じように、太陽の球体も分割状態にはなりませんし、地球にまで降りて来ることもありません。そうではなく、太陽の恩恵であるその光線は、太陽から発して暗い物体を明るく照らすのです。

しかし、顕示による出現は、種子から枝、葉、花、果実が現われることです。なぜなら、種、子はその本質の中で、枝、果実になり、その実体は枝、葉、果実の中に入ってしまいます。顕示による出現は、最も高遠なる御方である神にとっては、単なる不完全になり、このことは全く不可能です。なぜなら、その意味するところは、「絶対的先在」が、現象的な属性を具えているということになってしまうからです。しかし、もしそうだとすれば純粋な独立は単なる不毛となり、真の存在は不在となってしまい、こうしたことはあり得ません。

ですから、全ての創造物は神から発します。―つまり、あらゆるものが実現するのは、神によるのであり、神によって万物は存在するようになりました。神から生じた最初のものは、宇宙の実体であり、古代の哲学者たちはこれを「第一の心意」と言い、バハの人々は「第一の意志」と呼びました。神の世界におけるその作用に関するものにおいて、この放射は時間や空間に制約されません。それは始めも終わりもありません。神に関する限り始めも終わりも一つです。神の先在は本質の先在であり、また時間の先在です。そして、依存しているものの現象性は、後で述べるように、本質的なものであり、束の間のものではありません。

「第一の心意」は始まりがありませんが、それは神の先在における共有者にはなりません。なぜなら、神の実在から見れば宇宙の実体の存在は無であり、そしてそれは、神と同列になる力、先在において神と同等になる力は持っていません。この問題は後で説明します。

あらゆる生物の存在は合成、死、分解を意味します。しかし、宇宙の物質や元素は、完全に絶滅され、破壊されてしまうことはありません。そうではなく、それらが存在しなくなることは、単なる変形です。例えば、人が死ぬと塵になります。しかし、彼は完全になくなってしまうのではありません。彼は塵の形でなお存在しますが、変形が起こり、この組成は偶然に分解されるのです。その他の存在が滅亡するときも同様です。というのは、存在は絶対的無にはなりませんし、絶対的無が存在するようになることはありません。

 

 

五十四、人間精神は神から生じることについて

 

質間 聖書に、神は精神を人間の肉体に吹き入れられたと述べられています。この一節の意味するものは何ですか。

答 発生には二種類あることを理解しなさい。すなわち、放射による発生と出現、顕示による発生と出現の二つです。放射による発生は、俳優から演技が出るようなもの、作者から著作が生じるようなものです。さて、著作は作家から生じ、講演は演説者から生じます。同じように、人間精神は神から生じます。それは、人間精神は神を顕示するということではありません。

―つまり、神の実体から一部が引き離されて、人間の肉体に入るということではありません。そうではなく、演説が話し手から生じるのと同じように精神は人間の肉体に現われます。

しかし、顕示による発生は、あるものの実体が別の姿となって現われることです。ちょうどこの木は、この木の種子から生じ、あるいはこの花がこの花の種子から生じるようなものです。

なぜなら、枝、葉、花の形になって現われるのは種子そのものなのですから。これが顕示による発生と呼ばれるものです。人間の精神は、神に関する限り、放射に依存しています。あたかも講演が演説者から生じ、著作が作家から生じるように。1つまり、演説者自身は講演にはなりませんし、作家自身が著作になってしまうのでもありません。そうではなく、放射による発生です。演説者は申し分のない能力と力を持っており、講演は彼から生じます。ちょうど演技が俳優から生じるようなものです。「真の話し手」、「一体性の精髄」は、常に一つの状態にあり、変化、変更もなければ、変形も移り変わりもありません。彼は、永遠なるお方、不死のお方です。ですから、人間精神が神から生じることは放射によります。聖書に、神は神の精神を人間に吹き入れたと述べられている場合、この精神は、演説のように、「真の話し手」から生じ、人間の実体に効果を及ぼします。

しかし、先に述べた顕示による発生(神の出現はこうした意味であり、部分に分割されないものであるとすれば)は、「聖霊」と「言葉」の発生と出現について当てはまります。それは神から来ます。ヨハネの福音書に、「始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。」と述べられているように、「聖霊」と「言葉」は、神の出現です。「聖霊」と「言葉」は、キリストの本質に現われた神の完全性を意味しており、これらの完全性は神と共にありました。ですから、太陽はその全ての栄光を鏡に現わします。なぜなら、「言葉」は、キリストの肉体を意味しません。そうではなく、神の完全性が彼の内に現われたのです。キリストは、「真理の太陽」に向いている澄んだ鏡のようでした。そして、「真理の太陽」の完全性―つまり、その光と熱―は、この鏡の中にはっきりと見えました。もしこの鏡を見れば、私たちは太陽を見て「ああ、太陽だ。」と、言います。ですから、神の完全性を意味する「言葉」と「聖霊」は、神の出現です。これが「言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」という福音書の一節の意味です。なぜなら、神の完全性は「一体性の精髄」に外ならないからです。キリストの持つ完全性は「言葉」と呼ばれます。なぜなら、万物は文字の状態にあり、一つの文字は完全な意味を持ちません。一方、キリストの完全性は、言葉の力を持っています。というのは、一つの言葉から完全な意味を推論できるからです。キリストの本質は神の完全性の現われでしたので、それは言葉のようでした。なぜか?彼は完全な意味の総和だからです。これが彼が「言葉」と呼ばれる理由です。

顕示による発生と出現である「言葉」と「聖霊」の神からの発生は、「神の本質」が部分に分割し、あるいはいくつにも増え、あるいは神聖さと純粋さの高みより降ってきたということを意味していると理解してはなりません。絶対に違います。もし、清浄で立派な鏡が太陽に向いているならば、-太陽の光、熱、形、像は鏡の中に輝き渡り、見る人に、鏡の中で輝いて見える太陽を「これこそ太陽だ。」と、言わせるでしょう。それは正しいことです。それにもかかわらず、鏡は鏡であり、太陽は太陽です。「一つの太陽」、たとえそれがたくさんの鏡に現われようと、それはただ一つです。この状態は留まったり、入り込んだりするのでもなければ、混合したり、下降したりするのでもありません。なぜなら、侵入、滞在、下降、流出、混合は肉体の必然性、特徴であって、精神に関わることではないからです。まして、それらは聖別され、清浄な「神の本質」からどれほど離れていることか。神は、神の清浄、神の崇高な神聖さに従わない一切のものとは、何の関わりもありません。

「真理の太陽」はすでに述べたように、常に一つの状態にあり、変化も変更も変形も移り変わりもありません。それは永遠不滅です。しかし、神の言葉の聖.なる本質は、清浄でみごとな、輝く鏡です。熱、光、イメージと姿、つまり、「真理の太陽」の完全性がその中に現われます。それがキリストが福音書の中で「父は子の中にあり。」(ヨハネ14111721)と言ったことの理由です。ーつまり、「真理の太陽」がその鏡に現われます。この聖なる本質の上に輝くお方に誉れあれ!そのお方こそ万物の中で聖別されています。

 

 

五十五、魂、精神、心意

 

質問 心意と精神と魂の相違は何ですか。

答 精神は、一般に五つの部類に分けられることは前に説明しました。つまり、植物の精神、動物の精神、人間の精神、信仰の精神、聖霊です。

植物の精神は、他の存在の影響を受けて種子の中に引き起こされた成長力です。

動物の精神は、あらゆる感覚力のことです。感覚力は元素が紐成され、混合されることによって現われます。この組成が分解するとその力も失われ、絶滅させられます。それはこのランプにたとえることができます。油、芯と火が結び合わされると光を放ちます。そしてこの結合が解けると−つまり、結合体の各部がそれぞればらばらになると−ランプもまた消えます。

人間を動物から区別する人間精神は、理性的魂です。この二つの言い方―人間精神と理性的魂―は、同じことを指します。哲学者の用語法で理性的魂であるこの精神は、万物を包み込み、人間の能力の限界内で、物事の実体を発見し、それらの特殊性や影響力、ものごとの性質や特性を認めます。しかし、人間の精神は、信仰の精神によって援助されなければ、神の神秘と神の実体を理解するようにはなれません。それは鏡のようなものであり、鏡はどんなに澄み、磨かれ、輝いていても、なお光を必要とするのです。太陽の光線が鏡の上に反映してはじめて、神の秘密を発見するのです。

しかし、心意は人間精神の力です。精神はランプです。心意はランプから輝き出す光です。精神は木です。そして、心意は果実です。心意は精神のもつ完全性であり、精神の欠くことのできない特質です。太陽の光線は、太陽に欠くことのできない必然であるのと同じです。

この説明は短いですが完全です。ですからこれを深く考えて下さい。神が望まれるなら、その詳細が解るようになるでしょう。

 

 

五十六、肉体的な力と知的な力

 

人間には五つの外的能力があります。それらは知覚の媒体です。―つまり、これらの五つの能力によって人間は物質的なものを理解します。目に見える形を知覚する視力、耳に聞こえる音を知覚する聴力、匂いを認める嗅覚、食物を認める味覚、体全体に広がっていて触れることのできるものを知覚する触覚です。この五つの能力は、外部の存在を知覚します。

人間にはまた精神的能力があります。物を考えつく想像力、実体を熟考する思考力、実体を理解する理解力、想像し考え、理解したものを覚えている記憶力です。その五つの外的能力と内的能力の間を媒介するものは、両者が共通に持つ感覚です。つまり、外的能力と内的能力の間の媒介をする感覚は、外的能力が認識するもの全てを内的能力に伝えます。それは共通の機能と呼ばれます。それは外的能力と内的能力の間で情報を伝え合い、それゆえに、外的能力と内的能力に共通のものだからです。

例えば、視覚は外的能力の一つです。視覚がこの花を見て知覚すると、この知覚を内部の能力―共通機能―に伝えます。共通機関は、この知覚を想像力に伝達します。この想像力は、今度は自分がこのイメージを描き、形作り、思考力に伝えます。思考力はよく考え実体を把握して、それを理解力に伝えます。理解力は、それを理解すると知覚された目的物の像を記憶力に伝達します。そして、記憶力がそれを保管場所に保存します。

外的能力は五つあります。視力、聴力、味覚力、嗅覚力、触覚力の五つです。

内的能力もまた五つあります。共通機能、想像力、思考力、理解力、記憶力の五つです。

 

 

五十七、人間の性格に相違のある原因

 

質間 人間には何種類の性格があるのでしょうか。人間にある相違と多様性の原因は何ですか。

答 人間には生まれつきの性格、つまり先天的性格と教育によって得られる後天的性格があります。

生まれつきの性格について言えば、神の創造は全く善であるにもかかわらず、人間の生来の素質の多様性は程度の相違から生じます。全ての人は優れていますが、程度によってより優れたり、劣ったりします。ですから、全ての人類は知性と才能をもっていますが、人々の知性、才能、価値は相違します。これは明らかです。

例えば、同じ家族の者で、同じ場所に住み、同じ学校に学び、同じ先生に教えられ、同じ食物で育ち、同じ気候の中に住み、同じ衣服を与えられ、同じ勉強をしている子供たちを考えてごらんなさい。ある者は学問に優れ、ある者の才能は普通であり、またある者はぼんやりしているということは確かです。ですから、生まれつきの性格には程度の相違と、価値と才能の多様性があることは明らかです。この相違は善悪の意味を持つのではなく、単に程度の相違を意味しているだけです。ある者は最高の程度であり、ある者は中位であり、ある者は最低の程度です。人間も動物も植物も鉱物も存在しますが、この四つの存在の程度は相違しています。人間の存在と動物の存在の間には何と大きな相違のあることでしょうか。それにもかかわらず、両者は存在するのです。存在には程度の相違のあることは明らかです。

遺伝した素質の多様性は、体質の強弱から生じます。―つまり、両親が弱いと、子供たちは弱いでしょう。両親が強ければ、子供たちはたくましいでしょう。同じように、血統の純粋さは大きな影響を及ぼします。なぜなら、純粋な胚種は植物や動物に存在する優秀な血統のようなものです。例えば、弱々しい虚弱な両親から生まれた子供は、おのずから弱々しい体格と弱々しい神経を持っていることが知られています。彼らは悩まされ、忍耐力も、持久力も、決断力も、不屈の精神もなく、短気でしょう。その子供は両親の弱点と虚弱さを受けついでいるからです。

また、ある特別な祝福が、ある家族、ある世代の人たちに授けられています。アブラハムの子孫から、イスラエルの人々の全ての予言者が出たということは、そのような特別の祝福です。

これは神がこの家系に与えられた祝福です。アブラハムの血を引く父母から生まれたモーゼ、母の系統から生まれたキリスト、マホメットとバブ、そしてイスラエルの全ての予言者と聖なる顕示者に祝福が与えられました。「祝福された美」(バハオラ)もまたアブラハムの子孫の系統です。アブラハムには、イスラエルとイサクの他にも息子たちがおり、その当時、彼らはペルシャやアフガニスタンヘ移住しました。「祝福された美」は、その子孫の一人なのです。

ですから、遺伝した性格も存在することは明らかです。そして、ある系統に肉体的に属してはいても、その起源の性格に一致せずに、精神的にはその家族のメンバーとは考えられないという程度までいろいろあります。ノアの一族とはみなされないカナン(創世紀9.25)のように。

しかし、文化による特質の相違もたいへん大きなものです。教育は大きな影響力を持っていますから、教育によって無知な者が物を知るようになり、臆病な者が勇敢な者になります。栽培することによって曲がった枝はまっすぐになり、山や森にあるすっぱく苦い果実は、甘く、おいしくなります。五枚の花びらをした花は、百枚の花びらを持つようになります。教育によって野蛮な国家は文明化し、動物さえも馴らされます。教育は最も重要なものとして考えられなければなりなせん。肉体の世界の病気は極めて感染しやすいものだからです。教育は広大な影響力を持っています。そして、それが及ぼす相違は実に大きいのです。

一部の人たちは、人間の才能や価値はそれぞれ相違している、だから才能の相違が性格の相違をもたらすというかもしれません。

しかしそういうことではありません。なぜなら、才能には生まれつきの才能と後天的な才能との二種類があるからです。神の創造である前者は全く善です。―神の創造においては、悪はありません。しかし後天的な才能は、しだいに悪を出現させる原因になります。

 例えば、神は砂糖や蜂蜜によって利益を受け、毒によって害され、破滅させられるように人間を創造し、そういう肉体と才能を授けました。この性質や肉体は生まれつきのものであり、神はそれを全人類に平等に授けました。しかし、人間は日々ほんの少しの毒を取って徐に自らを毒に慣らし、しだいにその量を増し、ついには毎日一グラムの阿片がなければ生きていけなくなります。生まれつきの才能と肉体が変化して、ついにはさまざまな習慣や訓練によってどれ程大きくゆがめられてしまうか考えて下さい。人は誰しも、生まれつきの才能や性ゆえに、悪人を非難するのではなく、むしろ彼らの後天的な才能や性質ゆえに非難するのです。

創造には悪はありません。ある人々の中にある生まれつきの明らかに非難すべき、ある素質や性質は、実際には悪ではありません。例えば、乳児の内に、人生の最初から欲望や怒りや間癪の徴候が見られます。そこで、善悪は人間の本質に生まれついているのであり、こことは創造と性質の完全な善に反すると言われるかもしれません。この質問に対する答は、もっと欲しいと求める欲望が適切に使われるならば、賞賛すべき特質であるということです。ですから、もし人が科学や知識を習得しようとして貧欲になるとか、あるいは情深く、寛大に、正しくなるために貧欲になるならば、最も賞賛すべきことです。もし怒りや憤怒を寧猛で野獣のような血に飢えた暴君に対して行使するならば、きわめて賞賛すべきことです。しかし、こうした特質を正しく用いなければ、非難すべきことです。

そこで、創造と自然においては、悪が全く存在しないことは明らかです。ですけれども人間の生まれつきの特質も違法に用いられると、非難すべきものとなります。そこで、裕福で寛大な人が、貧しい人に彼の要り用のお金を与えたとして、もし彼がそのお金を不法なことに費すならば、それは非難すべきことです。人生の資本ともいうべき人間の自然の特質についても同じです。もしそれらが不法に使われたり、むき出しにされれば非難すべきことです。ですから創造が全く善であることは明らかです。すべての悪の根源をなす最も悪い特質、最も嫌悪すべき属性は、嘘であることをよく考えて下さい。これほど悪い、非難しようもない特質が他に存在することを想像することはできません。それは人間のあらゆる完全牲を破壊し、無数の悪の原因となります。これ以上に悪い特質は他にありません。それはすべての悪のもとです。それにもかかわらず、もしも医師が患者を慰めて、「神様のおかげで快方に向っている、回復の見込みがあります。」と言うならば、その言葉は事実に反してはいますが、患者を慰める言葉となり、病の転機になるかもしれません。これは非難すべきことではありません。

この問題はいまやはっきりしました。ではごきげんよう。

 

 

五十八、人間の持つ知識の程度と神の顕示者

 

質間 人間世界の理解はどの程度のものですか。またその限界は何ですか。

答 理解は一様ではないことを知りなさい。理解の一番低い階段は動物の理解です。―つまり、五官の力を通して現われる生まれつきの感情であり、感覚と呼ばれます。この感覚は、人間も動物も共に持っています。それどころか、五官の感覚に関しては、ある動物の方がより強い力を持っています。しかし人問の場合、理解は人間のさまざまな状態に従っていろいろに変化します。

自然界における理解の最初の状態は、理性的魂の理解です。この理解とこの能力においては、すべての人間は共有者です。怠惰な人であろうと、用心深い人であろうと、信者であろうと、否定者であろうと。この人間の理性的魂は神の創造です。それは他の創造物を包み込み、それより優っています。それがより高貴であり、顕著であればあるほど、万物を包含します。理性的魂の力は、ものごとの実体を発見し、存在物の特質を理解し、存在の神秘を見抜きます。あらゆる科学、知識、芸術、奇跡、制度、発見、事業は、理性的魂の訓練された知識から生じます。それらがかつて未知であり、保存された神秘であり、かくされた秘密であった時代がありました。理性的魂は、徐々にそれらを発見し、目に見えない、かくされた世界から目に見える世界へ導き世しました。これは自然界における最大の理解力です。それが最高潮になると、依存しているものの実体、特質、影響力を理解します。

しかし、自然を超越している普遍的神の心意は、「先在する力」の恩恵です。この普遍的心意は神聖なものであり、存在する実体を包含し、神の神秘の光を受けます。それは意識であって、探究や調査をする能力ではありません。自然界の知性の力は探究の力であり、その探究により、存在の実体や特質を発見します。しかし、自然を超えた天の知性は、万物を包含し、感知し、理解し、神秘や本質、神の意味を知っており、神の王国の秘された真理の発見者です。この神性の知性の力こそ、聖なる顕示者と予言者の夜明けの場所に特有な属性です。この光の光線が正しい人の心の鏡にさし込み、この力の一部と分け前が聖なる顕示者を通して彼らにもたらされます。

聖なる神の顕示者には三つの状態があります。一つは肉体的状態、一つは理性的魂の状態、もう一つは完全性の顕現と主の光輝の顕現の状態です。その肉体は、肉体の世界においては、その力の程度に従って物事を理解します。ですからある場合には、肉体的弱さを示します。例えば、「私は眠っていて、無意識だった、神の微風が私の上を吹いて目覚めさせた。そして、私に「言葉」を宣言するように命じられた。」または、キリストが三十才であった時、彼は洗礼を受け、聖霊が彼の上に降りました。それまでは聖霊は、彼の中に現われませんでした。こうしたことはすべて、顕示者の肉体的状態を物語っています。しかし彼らの神の状態は万物を包含し、すべての神秘を理解しており、すべての徴を発見し、万物を支配します。彼らの使命の後と同じように、それ以前もそうでした。これがキリストが「私はアルファであり、オメガである。始めの者であり、終わりの者である。」〈黙示録2213)と言った意味です。1つまり、我は、過去においても未来においても、何らの変化、変更はない、という意味です。

 

 

五十九、人間の持つ神の知識

 

質問 人間の理解力でどの程度神を理解できますか。

答 この問題は、十分な時間を要します。このように食卓を囲んでの席で説明することは容易ではありません。ですが、簡単にお話ししましょう。

知識には二種類あることを理解しなさい。物の本質についての知識と、物の特質についての知識の二種類です。物の本質は、その特質を通して知られるものであって、その特質によらなければ、それは知られず、かくされています。

存在物についての私たちの知識、そればかりでなく、創造物や限られた物の知識でさえ、それらの本質についてではなく、それらの特質についての知識です。ですから、限りない神の実在をその本質において理解することなどどうしてできるでしょう。なぜかといえば、いかなるものでも、その内なる本質は理解されるものでなく、たかだかその特質が理解されるにすぎないからです。例えば、太陽の内なる実体はわかりません。しかし、熱と光という特質によって理解されます。人間の内なる本質は計り知れないものであり、はっきりしたものではありません。しかし、その特質によって、特徴づけられ、理解されます。このようにあらゆるものはその本質によってではなく、その特質によって理解されます。心意は万物を包含し、外界の存在は心意によって理解されるのですが、それにもかかわらず、こうした存在もその本質については未知であり、ただそれらの特質を理解するばかりです。

そうであれば、一切の理解と概念から聖別されている永遠不滅の主を、その本質から理解することなどどうしてできるでしょうか。つまり、物事はその本質によってではなく、その特質によってのみ理解できるのですから、「神の本質」はその本質については理解できず、その属性について理解されるということは確かです。さらに、現象的実体が「先在する実体」を包含することがどうしてできるでしょうか。なぜなら、理解は包み込む結果である。―理解が成立するためには包含が必要である。―さらに「一体性の精髄」は全てを包み込むものであり、包み込まれるものではありません。

また、存在の世界における地位の相違は、理解の妨げとなります。たとえば、この鉱物は、

鉱物界に属しています。それがどれほどがんばっても成長する力を理解することはできません。植物、木がどれほど立派に成長しても、視覚力やその他の感覚力を考えることはできません。動物は人間の状態―つまり、その精神的能力を想像することはできません。地位の相違は理解の妨げとなります。低い階段にあるものは、高い階段にあるものを理解できません。だとすれば、現象的な実体が「先在する本質」をどうして理解することができるでしょうか。ですから、神を知ることは、神の属性を理解し知ることであって、神の本質について理解することではありません。こうした神の属性についての知識はまた、人間の力、力量に比例しており、絶対のものではありません。哲学は人間の才能、力量に従って存在する物の本質を、あるがままに理解することにあります。なぜなら、現象的実体は、人間の能力の程度でしか「先在するもの」の実体を理解できないからです。神性の神秘は存在物の理解から聖別され、純化されています。

なぜなら、想像できるすべてのものは、人間の理解するものであり、人間の理解力は神の本質の実体を包容できません。人間の理解できるものといえば、せいぜい神の属性であり、この世界や人間の魂の中に現われ、目に見えるようになった神の属性の輝きだけです。

この世と人間の魂を見つめると、そこに、はっきりとした神の完全性のすばらしい徴を見ます。なぜなら、物の本質は「普遍的本質」を証明しているからです。神の本質は太陽にたとえることができます。それは威力の頂上から、すべての地平線上に輝き渡り、それぞれの地平線、すべての心がその輝きの分け前を受けます。もしこの光や光線が存在しなければ、あらゆるものは存在しないでしょう。すべての存在は何かを示し、この光や、この光の一部を受けるのです。神の完全性、恩恵、属性の輝きは「完全な人間」―つまり「特別なお方」、神の「至高の顕示者」の本質から輝き出るのです。他の存在物は一つの光線を受けるのみですが、至高の顕示者は、この太陽の鏡です。太陽はそのすべての完全性、属性、徴、奇跡を伴ってはっきりとその鏡に現われ、明らかになるのです。

神の本質について知ることは、不可能であり達成できません。しかし、神の顕示者を知ることは、神を知ることです。なぜなら、その恩恵、光輝、神性の属性は彼らの中にはっきり現われているからです。ですから人が神の顕示者の知識に到達すれば、神の知識に到達するようになるでしょう。もし人が聖なる顕示者の知識を無視するならば、神の知識を得られないでしょう。ですから、聖なる顕示者は神の恩恵、徴、完全性の中心であることは、確立され、証明されています。光明の夜明けの地点からさすこの神の恩恵の光を受けとる者に祝福あれ!

私は神の友人たちが引力のように、こうした恩恵をその源から引きよせ、真理の太陽の明らかな証拠となるような輝きと徴と共に立ちあがるように希望します。

 

 

六十、精神の不滅性()

 

人間の精神が存在することを示しましたので、次にその不滅性を立証しなくてはなりません。精神の不滅性はあらゆる聖典に述べられており、神聖な宗教の根本的基礎です。さて罰と報酬には二種類あると言われています。第一は、この世における罰と報酬、第二は来世にお

ける罰と報酬です。存在する界堺の天国と地獄は、この世であろうと精神的天の世界であろうと、神の全世界に見い出されます。これらの報酬を得ることは永遠の命を得ることです。キリストが「永遠の命を見い出し、水と霊から生まれるように行動しなさい。そうすれば、神の王国に入ることができます。」(参照ヨハネ35)と言ったのはこの意味です。

この世の人生における報酬は、人間の実体に精彩を添える美徳と完全性です。例えば、彼は暗かったが明るくなった、無知であったが賢くなった、怠慢であったが注意深く成った、眠っていたが目覚めた、死んでいたが生き返った、目の見えぬ人であったが見る人になった、耳の聞こえぬ人であったが聴く人になった、俗人であったが聖人になった、物質的であったが精神的になったなどです。これらの報酬によって、人は精神的に生まれ変わり、新しい創造物になります。

彼は、福音書で弟子について述べている一節(ヨハネ113)、「彼らは血すじによらず、肉の欲によらず、人の欲によらず、ただ神により生まれしなり。」という言葉どおりになって現われます。―つまり、彼らは人間の特質である動物的特徴と特質から解放されて、神の特徴を与えられます。それは神の恩恵です。これが第二の誕生の意味です。そうした人々にとっては、神からべールでさえぎられていることより大いなる苦しみはなく、肉欲の悪徳、暗黒の性格、たんできかこく低級な性質、肉欲に耽溺することほど苛酷な罰はありません。彼らが信仰の光によってこうした悪徳の暗黒から解放され、真理の太陽の輝きによって照らされ、すべての徳によって気高くされるとき、彼らはこれを最大の報酬と考え、それを真の楽園と理解します。同じように、彼らは精神的罰1つまり、生存の苦しみと罰は、この自然界に属すること、神からべールでさえぎられていること、動物的で無知であること、肉欲に耽溺すること、動物的無節操に陥ること、虚偽、残虐、残忍、世俗への執着、悪魔のような思想に没頭するというような暗黒な性質で特徴づけられることであると考えます。彼らにとってはこれらのことがとてつもなく大きな罰であり、苦しみなのです。

同じように、来世の報酬はあらゆる聖典にはっきり述べられている永遠の命と、神の完全性、永遠の恩恵と不滅の幸福です。来世の報酬はこの世を去った後の精神界で獲得する完成と平和です。一方この世の報酬は、この世で実現される真の輝かしい完成であり、永遠の命の根源です。なぜなら、それこそ、存在の進歩に他ならないからです。それはちょうど人間が胎児の世界から成熟の状態になり、「もっともすぐれた創造者なる神が崇められんことを。」(コーラン2314)という言葉の現われとなることと同じです。来世の報酬は、神の国における平和、精神的美点、さまざまな精神的贈り物であり、心と魂の願いを獲得し、永遠の世界で神と会合することです。同じように来世での罰1つまり、来世での苦しみーは神の特別な祝福と絶対的恩恵から締め出され、最低の存在段階に落ちることです。これらの神の恵沢を奪われている者は、死後も存在し続けるとはいえ、真理の人から見れば、死んだものとみなされます。

精神の不滅性の論理的証明は次のようです。存在しないものから徴が現われることはありません。―つまり、絶対的不在から徴が現われることは不可能です。なぜなら徴は何か存在するから現われるのであり、結果は原因が存在することにかかっています。ですから不在の太陽から光は輝かず、不在の海に波はたたず、不在の雲から雨は降らず、不在の木から果実は生まれず、不在の人間は何も顕示せず、何も生み出しません。ですから存在の徴が現われる限り、それらは徴の所有者が存在することの証拠です。

現在、キリストの王国が存在することを考えて下さい。そのように偉大な王国が王なしでどうして現われることができるでしょうか、海が存在しないのにそれほど高い波が立つでしょうか、花園が存在しないのにどうしてそのような香り高い微風が漂うのでしょうか、鉱物にしろ、植物にしろ、動物にしろ、その器官がばらばらになり、元素が分解されれば、その結果も痕跡も影響も残らないことをよく考えて下さい。人間の実体と精神のみが、肢体の分解、構成分子の離合、組成の崩壊の後も、生存を続け、働き、力を持ち続けるのです。

この問題は極めて微妙です。注意深く考えるべきです。賢明な人は理性と正義がつり合うようによく考えるであろうと思い、この論理的証明を試みました。しかし、人間精神が喜ばされ・神の王国へ引きつけられれば、また、内なる視力が開かれ、精神的聴力が強まり・精神的感情が優勢になれば、彼は太陽を見るようにはっきりと精神の不滅性を理解し、神の吉報としるしが彼を包むでしょう。

明日、別な証明をいたしましょう。

 

 

六十一、精神の不滅性()

 

昨日は精神の不滅性についてもっぱら論議しました。人間の精神の力と理解力には二種類あることを理解しなさい。―即ち、それらは二つの異なった方法で知覚し、働きます。一つは、器官によるものです。精神はこの目で見、この耳で聴き、この舌で語ります。それが精神の働きであり、器官を使った実在の人間の知覚です。つまり、精神は目を通して見・耳を通して聴き、舌を通して語ります。

精神の力と働きのも三つの現われ方には、道具、器官はいりません。例えば、眠っている状態では精神は目を使わずに見、耳を使わずに聴き苦なしで語り、足なしで走ります。要するに、これらの行動は道具、器官を全然使いません。眠りの世界で精神が夢を見、それが二年後にそれに対応した出来ごととなって意味がはっきりわかるようになるというようなこがいかにしばしば起こることでしょう。同じように、目覚めの世界で解決できない問題が夢の世界で解決されることがいかによくある事でしょう。目覚めている時には、目はほんのわずかな距離しか見ません。しかし夢の中では、東洋にいる人が西洋を見ます。目覚めている時は速い輸送機関を使ってもせいぜい一時間に八十マイルを旅することしかできません。眠っているときにはほんの一瞬のうちに東洋と西洋を横断します。なぜなら、精神は二つの異なった方法で移動するからです。手段を使わない精神的移動と、手段を使う物質的移動です。ちょうど飛ぶ鳥と、運ばれる鳥のように。

眠っている時には、この肉体は死んでいるかのようです。見もしなければ聴きもせず、感じもしません。意識も知覚もありません。―つまり人間の能力は不活発になります。しかし精神は生きて活動しています。それどころか、その洞察力は増やされ、その飛躍はより高くなり、その知性はますます大きくなります。肉体の死後、精神も滅びると考えることは、篭がこわされると篭の中にいる鳥も滅ぼされてしまうと想像するようなものです。篭がこわされたからといって、鳥には何も恐れるものはないのです。

私たちの肉体は鳥篭のようなものです。そして精神は鳥です。篭がなければ鳥は眠りの世界を飛びまわります。篭がこわれても鳥は存続します。その感情はますます強くなり、その知覚力はより大きくなり、その幸福は増大します。実際、それは地獄から歓喜の楽園にたどり着きます。その感激に満ちた鳥にとっては篭から自由になることよりすばらしい楽園はないのですから。殉教者がこの上もない喜びと幸福感に満ちて犠牲の荒野へ急ぐのもこういう訳なのです。

目覚めている時、人間の目はせいぜい一時間の距離しか見ません。なぜなら、精神の力は肉体の器官によってこのように限定されているからです。しかし、精神は内にある視力や知的な目によってアメリカを見、そこにあるものを知覚し、ものの状態を発見し、ものごとを組織します。そこで、もし精神が肉体と同じようであれば、内にある視力の能力も同じ比率になっていることが必要でしょう。ですから、この精神は、肉体とは別のものであり、鳥は篭とは別のものであり、精神の能力と洞察力は、肉体という媒介がなければより強くなるということが明らかになります。さてそうした道具が放棄されても、その道具の所有者は活動し続けます。

例えば、ペンが捨てられたり、こわされても作者は生きています。家がこわされても持ち主は生きています。これは霊魂の不滅性の論理的証拠の一つです。

別な証拠もあります。この肉体は弱くなったり、重くなったり、病気になったり、また健康になったりします。疲れたり、休息したり、ある時には手や足が切断されたり、あるいはその肉体的力が麻痺させられます。目の見えぬ人、おし、耳の聞こえぬ人になったり、手足が麻痺するかも知れません。つまり肉体はあらゆる不完全さを持つ可能性があります。それにもかかわらず、精神はその本来の状態とそれ自身の精神的知覚において永遠です。精神は不完全な状態にもならず、不具にもなりません。しかし、肉体が病気や不幸ですっかりうちのめされると、肉体は精神の恩恵を奪われます。ちょうど鏡がこわされたり、汚れ、ほこりだらけになると太陽の光線を反射することもできなくなるし、太陽の恩恵を示さなくなるのと同じことです。

人間の精神は肉体の状態である入場とか退場とかいうことから解放され、聖別されているので、肉体の中にあるのではないことをすでに説明しました。精神と肉体の関係は太陽と鏡の関係と同じです。簡単に言えば、人間の精神は一つの状態にあります。それは肉体の病気によって病気になるものではなく、肉体の健康によっていやされるものでもありません。それは病気にもならず、弱くもならず、みじめにもならず、貧しくもならず、軽くもならず、小さくもなりません。1それは肉体の虚弱さゆえに傷ついたりすることもなく、肉体が弱くなっても、手足や舌が切断されても、聴力や視力を失っても、精神には何の影響もないでしょう。ですから、精神は肉体とは別のものであり、その存続期間は肉体の存続期間とは無関係であり、反対に精神は肉体の世界をこの上もない力強さをもって支配しており、その力と影響は鏡の中の太陽の恩恵のようにはっきり目に見えるということは明らかで確かなことです。しかし鏡がほこりにまみれたり、こわれたりすれば太陽の光線を反映しなくなるでしょう。

 

 

六十二、完成には限りがない

 

存在の状態は、しもべの状態、予言者の状態、神の状態の三つに限定されますが、神聖なものと依存しているものの完成には限りがありません。深く考えれば、外面的にも存在の完成もまた限りがないことに気がつきます。なぜなら、ひとは完全なものを見つけても、もっと優れたものを想像しないではいられません。たとえば鉱物界のルビー、植物界のバラ、動物界の夜啼鳥を見ても、必ずもっと良いものがあるかもしれないと想像します。神の恩恵が限りないものであるように、人間の完成もまた限りありません。もし完成の限界に到達できるとすれば、存在する実体のうち、ある一つのものは、神より独立したものの状態に到達し、依存するものが、絶対の状態に到達することになってしまいます。しかしあらゆる存在物には乗り越えることのできない一点があります。−つまり、しもべの状態にある人は限りない完成を得られるように、どれほど進歩したとしても、神の状態に到達することは絶対にありません。その他の存在物についても同じです。鉱物は鉱物界でいかに進歩したとしても、植物の力を得ることはできません。花が植物界でどんなに進歩したとしても、感覚力は花の中に現われないでしょう。ですから、この銀の鉱物も聴力や視力を得ることはできません。それはその状態の中でのみ、良くなり完全な鉱物になるばかりです。成長力、感覚力を得たり、生命に到達することはできません。ただそれ自身の状態の中でのみ進歩するばかりです。

例えば、ペテロはキリストになることはできません。彼のできることは、しもべの状態の中で限りない美徳に到達することのみです。なぜなら、あらゆる存在の実体は進歩することができるからです。人間の精神がこの肉体的形を離れて後に、永遠の命があるように、確かにあらゆる存在物は進歩することができます。ですから人の死後、進歩、寛恕、慈悲、恩恵、祝福を求めることが許されています。存在するものは、進歩できるからです。バハオラの祈りの中で死者の為に罪の寛恕と許しが求められているのは、こういう理由からです。さらに言うならば、人々がこの世において神を必要としているように、来世においてもまた神を必要とするでしょう創造物は常に神を必要としています。そして神はこの世においても、来世においても、完全に独立しています。

来世の富は、神に近くにあることです。したがって、神の宮廷近くにいる者たちは、とりなしをすることを許されています。そして神はこのとりなしを承認していることは確かです。しかし来世でのとりなしはこの世におけるとりなしとはちがいます。それは別のものであり、異なった実体であり、言葉で現わすことはできません。

もしも富める人が死ぬとき、貧しく不幸な人たちに贈り物をし、財産の一部を彼らの為に使

われるようにするならば、多分、こうした行為は、許しと寛恕のもとになり、神の王国での彼の進歩のもとになるでしょう。

また、父や母は子供たちの為に非常な苦労、困難を耐え忍びます。そして多くの場合、子供たちが成熟の年代に達すると両親はあの世へ行きます。父や母が現世において、子供たちの為に受けた苦労、苦難の報酬をうけることはめったにありません。ですから、子供たちはこの世話や苦労のお返しとして、両親の為に、慈善と善行を示し、許しと寛恕を懇願しなくてはなりません。父が示した愛と親切に対するお礼に、父のために貧しい人々に与え、大きな服従心とけんそんな心をもって罪の許しと寛恕を懇願し、至高の慈悲を求めなければなりません。

罪深く、無信仰のまま死んだ人の状態が変化することも可能です。ーつまり彼らも、神の正義によってではなく、神の恩恵によって許しの対象となり得ます。―恩恵はそれを受ける価値のないものにも与えることであり、正義は受ける価値あるものに与えることだからです。私たちはここで、こうした人たちの為に祈る力を持つように、神の王国であるあの世でも同じ力を持つでしょう。あの世の人々も神の創造物ではありませんか。ですからあの世でも彼らは進歩できます。この世においても切に祈ることによって光を得られるように、あの世でも人々は許しを乞い願い、切に祈り求めることによって光を受けることができます。そういう風に、現世の人々は切なる祈りや嘆願の助けと聖なる者の祈りの助けによって進歩することが可能であり、死後においても同様です。自分自身の祈りや嘆願によっても進歩できます。まして聖なる顕示者のとりなしの対象となったときは格別です。

 

 

六十三、来世における人間の進歩

 

存在するもので静止の状態にとどまるものは何一つないことを知りなさい。―すなわち万物は運動しています。すべてのものは成長するか衰えるかのどちらかです。万物は無(不在)から有(存在)へ向うか、有から無へ向っています。ですから、この花、このヒヤシンスはある期間、無の世界から、有の世界へやって来て、今、有から無に向っています。この運動の状態は必然のものーつまり、自然であると言われます。それは、存在するものから引き離すことはできません。ちょうど燃えることが火の本質的必要条件であるように、それは、存在するものの欠くことのできない必要条件だからです。

そういう風に、成長するにしろ衰えるにしろ、この運動は、存在に必然的に起ることは、既定のことです。さて、精神は死後も存続しますからそれは必然的に成長するか衰えるかです。来世においては成長がとまることは、衰えることと同じです。しかし、それはそれ自身の状態から決して離れず、その状態の中で発達し続けます。例えば、ペトロの精神の本質はそれがいかに進歩しても、キリストの本質の状態には到達しないでしょう。それはペテロ自身の環境の中でのみ進歩します。

この鉱物を見て下さい。これがいかに進化しようとも、それ自身の状態の中で進化するのみです。水晶を、視力を持つ状態にまで持ってくることはできません。それは不可能です。ですから、天にある月がどれほど進化しても輝く太陽にはなれません。が、月自身の状態には遠地

点と近地点があります。弟子たちがいかに進歩しても絶対にキリストになることはできません。なるほど石炭はダイヤモンドになれます。しかし両方とも鉱物の状態にあり、その構成元素は同じです。

 

 

六十四、人間の地位と死後の進歩

 

本質を見抜く目をもって存在物を考えると、それらは三種類に限られていることがわかります。―すなわち、全体としてそれらは、鉱物か植物か動物のいずれかです。その三種類のそれぞれに種があります。人間は最高の種です。なぜなら人間はその三種の完全性の所有者からです。―つまり、人間は成長し、ものを感じる肉体を持っています。鉱物の完全性、植物の完全性、動物の完全性ばかりでなく、他の存在物にはない特別の優れたものーつまり、知的完全性も持っています。ですから人間は存在物のうちで最も高貴なものです。

人間は最高の物質段階にあり、精神性の始まりにありますーすなわち、人間は不完全さの終わりにあり、完全さの始まりにあるのです。人間は暗黒の最後の段階にあり、光明の始まりにあります。それゆえ人間の状態は、夜の終わりであり、昼の始まりであると言われているのです。つまり、人間はあらゆる不完全なものを合計したものであり、完全性のさまざまな度合を持っているということです。人間は天使のような面を持つと同時に、動物的な面を持っています。教育者の目的は、人間の魂を、天使の面が動物的な面に打ち勝つように教育することにあります。そこで人間の中にある人間の本質的完全さである神性の力が、絶対的不完全さである悪魔の力に打ち勝つならば、人間はすべての創造物の中で最も優れたものとなります。しかし悪魔の力が、神性の力を圧倒するなら創造物の中の最低のものとなります。そういうわけから人間は不完全さの終わりであり、完全さの始まりにあるといわれるのです。存在の世界のどの種をみても、人間の種ほどにそうした相違、対照、矛盾、対立があるものはありません。そのように、人間にはキリストにおけるごとくに、「神の光」が反映していました。人間は何と深く愛され、大きな名誉を与えられていることか理解して下さい。同時に石や土くれ、あるいは、樹木を礼拝する人を見かけます。その礼拝の対象といえば、最低の存在物―つまり、石や粘土、精神のない山や森や木といったものであるとは何と情けないことでしょう。人間にとって最低の存在物を礼拝すること以上の恥があるでしょうか。同じように、知識は人間の特性であり、無知もまたそうです。正直は人間の特性であり、嘘をつくこともまたそうです。信頼と不信、正義と不正、等は人間の特性です。簡単に言えば、あらゆる完全性と徳、あらゆる悪徳は人間の特性です。

個々の人間の相違も同じように考えてごらんなさい。キリストは人間の姿をしていました。

カヤパ(訳注ユダヤの大祭司で昔リストの死刑を判決した。)も人間の姿をしていました。モーゼとファラオ、アベルとカイン、バハオラとヤーヤも人間でした。

人間は、神の代表の最大のものであると言われます。人間は「神の創造の書」です。なぜなら存在物のすべての神秘は人間の中にあるからです。もし人間が「真の教育者」の下に来て、正しく教育されるなら、人間は本質中の本質、光の中の光、精神の中の精神となり神の顕われる中心、精神的特質の根源、天なる光の昇るところ、神性の霊感の貯蔵所となります。もしこの教育を受けなければ悪魔的特性のあらわれ、動物的悪徳の総計、あらゆる暗黒の状態の根源となるでしょう。

予言者の使命の根拠は、人間を教育することです。その結果、この石炭の魂はダイヤモンドなり、この実のならない木はつぎ木され、この上もなく甘く、おいしい実をつけるようになります。人間が人間世界で最も高貴な地位に到達すれば、地位は変わらずに、完全性の状態の中でさらに進歩することができます。なぜならそのような地位は限られており、神性の完全性は無限だからです。

この物質からできている形を離れる以前も以後も、地位は変わらずに、完全性の中での進歩があります。ですから存在物は完全な人間において完成します。完全な人間より高い存在はありません。しかし人間はこの地位に達したのちも、地位があがることはないが、完全性の中でなお進歩することができます。なぜなら、完全な人間がみずからを移行させることのできるより高い地位はないからです。人間は人間の地位の中で進歩するのみです。人間の美徳は無限だからです。そういうわけで、ある人がどんなに学問があったとしても、それ以上に学問のある人を想像できるのです。

ですから、人間の美徳が無限であるように、人間はこの世を去ってからも美徳の中で進歩することができるのです。

 

六十五、キタビ・アクダスの一節についての説明

 

質問 キタビ・アクダスに述べられている一節「…彼はあらゆる善行の主であるとは言えどもそれ(神の知識)を奪われている者は、誰でも皆道をはずれている。」この意味するものは

何ですか。

答 この聖なる一節は、成功と救いの基礎は神を知ることであり、神を知る結果として善行がなされ、善行は信仰の果実であることを意味しています。もし人問がこの知識を持たなければ、彼は神から引き離されるでいよう。そしてこの隔離が存在するなら、善行は完全な効果をもたらしません。この一節は神から離れている人々は善行をなしても悪行をなしても同じであるということを意味しているのではありません。それは単に、根本は神を知ること、そして善行はこの知識から生じることを意味しているのです。それにもかかわらず、ヴェールで神からおおい隠されている善人、罪人、悪人の間には、相違のあることは確かです。神からおおい隠された者でも善い信条と性格を持つ者は、神の許しに価するからです。一方、罪人で悪い性質と性格を持つ者は、神の恩恵と祝福を奪われます。ここに違いがあるのです。ですから、この聖なる一節は、神の知識がなく、善行だけでは永遠の救い、不滅の成功、繁栄をもたらし得ず、神の王国へ入ることはできないということを意味しているのです。

 

 

六十六、肉体の死後における理性的魂の存在

 

質問 肉体が捨てられ、精神が自由を得たのち、理性的魂はどのように存在するのでしょうか。仮に精霊の恩恵によって援助された魂は真の存在、永遠の命に到達するものとしておきましょう。そうであれば、理性的魂―つまり、べールでおおい隠された(信仰心のない)精神@はどうなるのでしょうか。

答 ある人たちは、肉体は物質であってそれ自身によって存在しており、精神は偶発的なものであり、肉体の物質に依存すると考えています。実際はこれとは反対に、理性的魂が本質であり、肉体はそれに依存しているのです。もし偶発的なもの―つまり肉体―が滅ぼされても、本質である精神は存続します。

第二に人間精神を意味する理性的魂は、肉体に降りてくるのではありません。―つまり、精神は肉体に入るのでもありません。降下したり、入ったりすることは肉体の特徴であり、理性的魂には、こうしたことはないからです。精神は決して肉体に入ったのではありません。ですから肉体が失くなっても、居場所を必要としないでしょう。逆に、この光がこの鏡につながっているように、精神は肉体につながっているのです。鏡が澄んで完全であれば、ランプの光は鏡の中にはっきり見えるでしょう。鏡がほこりだらけになったり、こわされたりすれば、光は消え失せるでしょう。

理性的魂―つまり人間精神―は、この肉体に入ったのでもなければ、肉体によって存在するのでもありません。ですから、肉体の組成が分解したのちも、精神が存在するための実体を必要とすることなど、どうしてあり得るでしょうか。逆に、理性的魂は、肉体が存在するために依存する実体です。理性的魂の個性は、始めから存在するのであって、肉体の媒介によるのではありません。しかし理性的魂の地位や個性は、この世において強化され得ます。それは進歩し、完成の段階に到達することもできるし、あるいは、無知の深淵に沈み、ヴェールをかけられ神の徴を見ることができなくされることもあり得ます。

質問 理性的魂である人間の精神は、この死を免がれない世界を去ってから、どんな手段によって進歩するのでしょうか。

答 人間の精神が塵の肉体との結合から分離したのちに、神の世界で進歩するには、主の恩恵と恩寵のみによるか、あるいは他の人のとりなしや誠実な祈りによるか、あるいは、その人の名のもとに行なわれる慈善や、重要な善行によるのです。

 

「子供の不滅性」

質間 分別のできる年令に達する以前や、出生予定日前に死ぬ子供の状態はどのようなのですか。

答 こうした幼児は、神の恩恵の保護のもとにあります。彼らは、何の罪も犯さず、自然界の不浄さにも汚されていないので、恩恵の顕現の中心となり、神のあわれみの目は、彼らの上にそそがれるでしょう。

 

 

六十七、永遠の命と神の王国への入場

 

あなたは永遠の命と神の王国への入場について質問されました。神の王国に対して使われる外面的表現は天国です。しかしこれは、たとえであり、似たものであって、真実でも事実でもありません。なぜなら神の国は物質的な場所ではなく時間と空間から聖別されているからです。それは精神的世界であり、神の世界であり、神の統治の中心です。それは肉体や形のあるものから解放されており、人間世界の想像から浄化され、聖別されています。場所が限定されることは、肉体の特性であり、精神の特性ではありません。場所と時間は肉体を取りまいていますが、心意と精神を取りまいてはいません。人間の肉体は小さな場所にとじこめられていることに気づいてください。それは地上のほんのたたみ一枚(2u)をおおうばかりです。しかし、人間の精神と心意は、あらゆる国や地域へ旅します。−天界の限りない空間を通りぬけても行へきます。−存在するすべてのものを取りまき至高の領域と無限のかなたで、さまざまな発見をします。精神は場所を持たないからです。精神には場所がありません。精神にとっては、地上も天国も一つです。精神は、その両方において、さまざまな発見をするからです。しかし肉体は場所に縛られており、肉体を超えているものを理解しません。

命には二種類あるからです。肉体の命と精神の命です。肉体の命は物質的な命です。しかし精神の命は、神の王国の存在を表わしており、神の精神を受信し、聖霊の息吹きによって活気づけられることもあります。物質的な命は存在していますが、神聖な聖者からみれば、完全な無であり、絶対的死です。同様に、人間が存在し、この石も存在しています。しかし、人間の存在と石の存在との間には何と大きな隔たりのあることでしょう。石は存在していますが、人間の存在に比べれば石は存在しません。

永遠の命は聖霊の贈り物であることを意味しています。ちょうど、花が季節の贈り物や空気や春のそよ風を受け取るように。考えてごらんなさい。この花は、始め鉱物の命のような命を持っていました。しかし春の季節の到来、春の雲の恩恵や輝く太陽の熱の到来によって、それは、この上もなく新鮮で、優雅で芳わしい全く違った命に到達します。この花の始めの命は第二の命からみれば死です。

このことは、神の王国の命は、精神の命であり、永遠の命であること、また、人間の精神が場所を持たないと同じように、それは場所から浄化されています。人間の肉体を調べてみても、精神のとどまる特別な場所や部分を見い出せないでしょう。精神には決して場所がありません。それは非物質的なものです。精神は、この鏡と太陽の関係のような肉体とのつながりを持っているのです。太陽は鏡の中にはありません。しかし、それは鏡とのつながりを持っています。

同じように、神の王国の世界は、目やその他の感覚-聴覚、嗅覚、味覚、触覚によって知覚されるあらゆるものから聖別されています。人間の中にある心意、その存在は認識されますが、―それは一体人間のどこにあるのですか。目や耳、あるいは、他の感覚を使って肉体を調べてみても、見つからないでしょう。それにもかかわらず心意は存在します。ですから心意には場所がありません。しかし脳につながっています。神の国もまたこれと同じです。同じように愛には場所がありません。しかし心とつながっています。そのように神の国には場所がありませんが人間とつながっています。

神の王国への入場は神の愛を通して、世俗を離れ、神聖と貞節、誠実、純潔の徳をなし、不動の信仰心を持ち命を犠牲にすることによります。

これらの説明は、人間が不死であり、永遠に生きるものであることを示しています。神を信じ、神を愛し、信仰を持つ人々にとって、命はすばらしいものです。つまり、それは永遠です。しかし、神からヴェールでおおいかくされている人々にとっては命があるとはいえ、それは暗く、信仰を持つ人の命に比べれば無です。

たとえば、目も爪も生きています。しかし爪の命は、目の命に比べれば無です。この石も、この人間もともに存在しています。しかし、石は人間の存在に比べれば無です。それは命がありません。なぜなら人間が死んで肉体が滅びると、それは石や土のようになります。ですから鉱物は存在しますが、人間に比べれば存在しません。

同じように神からヴエールでおおわれている人々は、この世と死後の世界で存在するとはいえ、神の王国の子供の聖なる存在に比べれば無であり、神から引き離されています。

 

 

六十八、運命

 

質問 聖典の中で述べられている運命とは、定められたものでしょうか?

もし、そうであるならば、それを避けようとする努力は無駄なのではないですか。

答 運命には二種類あります。一つは定められたものであり、もう一つは、条件つきであり、

今すぐにでも起り得るものです。定められた運命は変化したり、変更されたりするものではなく、条件つきの運命は起るかもしれないものです。そこで、このランプについて言えば、定められた運命は油が燃え尽されてしまうということです。ですから、火が結局消えてしまうということは、定められた運命なのですから、変更したり、変化させたりすることのできないさだめです。

人間の肉体の中の力が創り出され、それがこわされ、終わりになると、肉体は確かに分解されます。そのように、このランプの中の油が燃え尽されてしまうと、ランプは疑いもなく消えてしまうでしょう。

しかし、条件付きの運命は、このように、たとえることができます。まだ油があるとき激しい風がランプに当り、それを消してしまうというようなことです。これが条件つきの運命です。それを避け、それから自分を守り、用心深く慎重であることは賢明なことです。しかし定められた運命は、ランプの中の油を使い果たしてしまうようなもので、変更されたり変化させられたり、遅らせたりすることはできません。それは必ず起ります。ランプが消えてしまうことは避けられることではありません。

 

 

 

六十九、星の影響

 

質問天の星は、人間の魂に何か影響を及ぼすのでしょうか。それとも及ぼさないのでしょ

うか。

答 天にある星のあるものは、地球と地球上の存在物に、はっきりとした物質的影響を及ぼしており、説明する必要はありません。太陽を考えてごらんなさい。太陽は神の摂理と援助によって、地球や地球のあらゆる存在物を発達させています。太陽の光と熱がなければ、地球のあらゆる創造物は全く存在しないでしょう。

星の精神的影響について言えば、人間世界に星の影響があると言えば奇妙に思えるかもしれません。ですが、この問題について深く考えてみれば、それほど驚かれないでしょう。しかし、私の言いたいことは、昔の星占い師が星の運動から推論した宣言が実際に起ったということではありません。なぜなら、そうした昔の星占い師たちの宣言は、エジプト、アッシリア、カルディアの僧侶たちによって始められた想像の形式でした。と言うよりは、ヒンズー人の空想やギリシア人、ローマ人やその他星を礼拝する人たちの神話によるものでした。しかし、この無限の宇宙は人間の体のようなものであり、体の各部は相互に大きな力によって結びつけられ、つながりあっているということを言いたいのです。人間の体の器官や手足その他の部分は、相互に助け合うために、どれほどしっかりと混り合い、つながりあい、いかに互いに影響しあっていることでしょう!同じように、この無限の宇宙の各部も、その部分や要素を互いに結び

つけ、精神的にも物質的にも影響しあっています。

たとえば、目がものを見ます。すると体全体が影響を受けます。耳が聴きます。すると体中の部分が感動します。このことについては、疑問の余地はありません。そして宇宙は生きている人間のようなものです。さらに言うならば、存在物間にあるつながりは、必然的に、物質的にせよ、精神的にせよ、影響や印象を及ぼしあいます。

物質的なものに及ぼす精神的影響を否定する人たちには、こんな簡単な実例をあげてみましょう。すばらしい音や調子、メロディーや魅力的な声は空気に影響を及ぼす出来事です。1音は空気の振動を表わすことばだからです。―この振動によって耳の鼓膜の神経は影響をうけ、聴くことが起ります。

さて、ここで何でもない出来ごとである空気の振動が人間の精神をひきつけ、うきうきさせ、大きな影響を及ぼすことを考えて下さい。それは、彼を泣かせたり、笑わせたりします。もしかしたら、自らを危険にさらすほどに影響するかもしれません。

人間の精神と大気の振動の間にあるつながりを理解してください。そこで空気の運動は人間を一つの状態から別の状態へ動かし、完全に圧倒して、忍耐と平静さを奪ってしまいます。何と不思議なことでしょう。歌手から聴く人に入ってくるものはありません。それにもかかわらず、大きな精神的影響を及ぼし合う大きなつながりのあることは確かです。

人間の器官や部分は互いに影響しあうことを述べてきました。たとえぱ、目がものを見ると、心が影響されます。耳が聴くと精神が影響されます。心から安らいでいれば、思考は静かになり、体全体に楽しい状態が感じられます。これは何とすばらしい結びつき、何とすばらしい呼応、一致でしょう!

無数にある有限の存在物のほんの一つのものに過ぎない人間の体の各部分の間には、このつながり、この精神的効果、この影響力があるのですから、ましてやこの宇宙普遍の無限の存在物の間にも、精神的、物質的なつながりのあることは確かです。現存の法則や現在の科学では、こうしたつながりは発見できませんが、あらゆる存在物、の間には、そうしたつながりのあることは確かであり、絶対的なことです。

結論を申します。万物は大きなものも小さなものも、神の完全な英知によって互いにつながり合い、相互に影響を及ぼしあっています。そうでないとすればこの宇宙の体系と存在物の全体の配置には、混乱と不完全さがあることになります。しかし存在物は、大きな力によってお互いにつながり合っているのですから、万物は、それぞれの場所にあって秩序を保ち、しかも完全なのです。

この間題は、吟味する価値があります。

 

 

七十、自由意思

 

質問 人間はあらゆる行為において自由に行動するのでしょうか。それとも強制されたり束縛されたりしているのですか。

答 この間題は神に関する問題の中で、最も重要で難解な問題です。もし神が望まれるならば、別の日に食事の始めにこの間題について、詳しく説明したいと思います。ですが今簡単に説明いたしましょう。ある事柄は人間の自由意志でどうにでもなります。たとえぱ、正義、公正、残虐と不正、言いかえれば善行と悪行です。これらの行為は、大部分、人間の意のままにできることは明らかです。しかし、人間が強制され、服従させられている事があります。たとえば、睡眠・死・病気・力の衰え・けが・不幸といったものです。これらは人間の意のままにならず、人間の責任ではありません。なぜなら人間はそれらを耐え忍ぶようにしいられているからです。しかし善い行いをするか、悪い行いをするかを選ぶ上では、人間は自由です。人間は自分自身の意志によってそれらをするのです。

たとえば人間は、自分が望むなら、神を賛美することに時間を費すこともできるし、あるいはほかの考えに没頭することもできます。神への愛の火によって燃えたたせられた光になることもできれば、世界を愛する博愛主義者になることもできます。あるいは人類を憎悪し、物質的なものに夢中になることもできます。正しい者にもなれれば、残酷な者にもなれます。これらの行動・行為は、人間自身の意志の制御の支配下にあり、したがって人間に責任があります。

ここで別の問題が生じます。力は特に神に属するものですから、人間は絶対的に無力であり、依存しているものです。最高の名誉も屈辱も共に「最も高遠なるお方」の善意と意志によっているのです。

神は、一つの容器を名誉あるものに作り、他の容器を不名誉なものに作る陶工のようなものであると、新約聖書に述べられています。さて、不名誉な容器は、陶工の過失を見つけて「なぜあなたは私を人の手から手へと持てはやされる貴重なカップに作らなかったのか。」という権利はありません。この一節の意味は存在物の地位はそれぞれ異なっているということです。鉱物のような、存在の一番低い地位にあるものは、「神よ、あなたはなぜ私に植物の完全性をお与えにならなかったのですか。」と不平をいう権利はありません。同じように植物は、動物世界の完全性を奪われていることについて不平をいう権利はありません。また動物が人間の完全性がないといって、不平を言うこともふさわしくありません。そうではなく、これらのあらゆるものは、それ自身の段階において完全であり、それぞれの段階の完全性を得るように努力しなければなりません。すでに述べたように、劣っているものは、優位のものの完全性の地位になる権利もなく適性もありません。いいえ、それらの進歩は、それら自身の地位の中でなされなければなりません。

人間の不活動、怠惰あるいは運動もまた、神の援助に依存しています。もしも神によって援助されていなければ、人間は善も悪も成すことはできません。しかし「寛大なる主」から存在の援助が来れば、人間は善でも悪でもなすことができます。しかし、援助がなくなると人間は完全に無力になります。いろいろな聖典に、神の援助について述べられているのはこうした理由からです。この状態は、風や蒸気の力で動かされる船の状態に似ています。もしこの力がなくなれば、船は全然動けません。それにもかかわらず、船のかじは船をどの方向へも向け、蒸気の力は船を望む方向へと動かします。もし東へ向けられれば東へ進み、西へ向けられれば、西へ進みます。この運動は、船から生み出されるのではなく風や蒸気から生み出されるのです。

同じように、人間はあらゆる活動、あるいは不活動において、神の援助による力を受けています。しかし善悪の選択は、人間自身に属しています。そこである王がある者をある都市の長官に任命し、権力を授け、法律によって正義と不正の道を示したとすると−この長官が不正を犯す時には、王は不正の責めを負いません。しかし彼が正義をもって行動する場合にも、また王の権威によってするでしょう。この場合王は喜び、満足するでしょう。すなわち善悪の選択は人間に属していますが、どのような状況の下にあっても、人間は「全能なるお方」から生まれ出る生命を持続させる援助に依存しています。

神の国は誠に偉大であり、万物は神の偉方の掌中に捕らわれています。しもべは、自分自身の意志で何一つすることはできません。神は力にあふれ、全能であり、万物の救助者です。

この質問は明確に説明されました。ではごきげんよう。

 

 

七十一、幻と霊の交わり

 

質間 一部の人々は、自分たちは精神的な発見を達成すると信じています。つまり、彼らは霊と語り合うということです。これはどのような交わりなのですか。

答 精神的な発見には二種類あります。一つは想像によるもので、ごく少数の人々の言い分にすぎません。もう一つは霊感に似ており、これは真実です。-例えば、イザヤ、エレミア、ヨハネの啓示のようなもので、これらは真実です。

人間の思考力には二種類あることを考えてください。一つはそれが、決定的真理に一致するとき真実です。そうした概念は外の世界で実現します。たとえば、正確な意見、正しい理論、科学的発見、発明といったようなものです。

概念のもう一つは、実も結ばず、結果も生じない空しい思考や役に立たない観念から作られるものであって、現実性はありません。それは想像の海の波のように押し寄せてくるのですが、はかない夢のように消え失せます。

同じように精神的発見にも二種類あります。一つは予言者たちの啓示であり、選ばれた者たちの精神的発見です。予言者たちの幻は夢ではありません。いいえ、それらは精神的発見であって現実性があります。たとえば彼らは言います。「私はある人がある形をしているのを見た、そして私はあることを言い、彼はそのように答えた。」この幻は目ざめている世界のものであり、眠っている世界のものでありません。いいえ、それはあたかも幻の出現であるかのように表現された精神的発見です。

精神的発見のもう一つは、純粋な想像から作られています。しかしこうした想像は、多くの単純な心を持った人々が現実性があると信じるからこそ具体化するのです。このことは、そのような精神のコントロールからは、いかなる結果も果実も、これまで生み出されて来なかったことによって、はっきり証明されます。いいえ、それらは、たんなる物語にすぎません。

人間の本質は万物の実体を包み込み、万物の真理・特質・秘密を発見するものであることを知りなさい。あらゆる芸術・奇跡・学問・科.学・知識は、人間の本質によって発見されました。かつてこれらの学問・知識・奇跡・芸術はかくされた秘密でした。それからしだいに人間の本質がそれらを発見し、目に見えない世界から目に見える世界へもたらしました。ですから人間の本質は万物を包み込むことは明らかです。そういうふうに、精神的発見はヨーロッパにあってアメリカを発見しました。それは地上にあって、天界の発見をします。それはものごとの秘密を見い出し、存在するものの本質を知ります。真実に一致しているこれらの発見は、精神的理解、神聖な霊感、人間精神の交際である啓示に似ています。たとえば予言者は言います。

「わたしはそのようなことを見た、言った、聞いた。」ですから精神は目や耳のような五感の媒介なしに、大きな知覚力を持っていることがはっきりします。精神的な人々の間には、精神的な理解や発見、想像や空想から浄化された心のつながり、時間や場所から聖別された交際があります。福音書に、タボル山上で、モーゼとエリアがキリストの許にやって来たことが書かれていますが、これは物質的会合でなかったことは明かです。それは肉体的な会合として表現された精神的状態でした。

もう一つの精神の会話・存在・交わりは、想像と空想にすぎないものであり、実在性を持つものと思われるにすぎないものです。

人間の心意と思考は、時々真理を発見し、この思考と発見から徴や結果が生み出されます。

この思考には基礎があります。しかし想像の海の波のように、人間の心意に浮かんでくる多くの事は、そこから果実も結果も生まれて来ません。同じように人問は、眠りの世界で必ず実現する幻を見ます。またある時には、絶対に実現しない夢を見ます。私の言いたいことは、いわゆる精神の対談・交わりという状態には二種類あるということです。一つは単なる想像であり、もう一つはヨハネやイザヤの啓示、キリストのモーゼとエリヤとの会談といった、聖書に述べられている幻のようなものです。これは真実のものであり、人間の心意や思想に驚くべき影響を与え、人間の心をひきつけるものです。

 

 

七十二、精神的方法による治療

 

質問 ある人々は病気を精神的方法−つまり薬なしで治療します。これをどう思われますか。

答 薬によらない治療・治癒には四種類あることを知りなさい。二つは物質的方法により、

他の二つは精神的方法によって治療します。

二つの物質的治療のうちの一つは、人間においては健康と病気はともに伝染するという事実によります。病気の伝染は猛烈で急速ですが、健康の伝染は極めて弱くゆっくりしています。もしも二つの肉体が接触するならば、微生物的粒子は一方から他方へ移行することは確かです。病気が一つの肉体から他の肉体へと急速で強烈な伝染力をもって移行するのと同じように、健康な人間の強力な健康は、病人の病気をごくわずか軽減するでしょう。つまり病気の伝染は、猛烈で急激な影響を与えます。一方、健康の伝染は非常にゆっくりしており、小さな影響しかありません。しかも、それがこうしたわずかな効果を及ぼせるのは非常に軽い病気のみです。健康なからだの強力な力は、病気のからだの軽いひ弱さを克服することができ、健康がもたらされます。これは治療の一種です。

薬を使わない治療のもう一つは、一つの肉体から他の肉体へ働きかけ、治癒のもとになる磁力によります。この力もまたほんのわずかな効果しかありません。時に自分の手を病人の頭や心臓の上におくことによって、病人の役に立てる人がいます。なぜか。磁力の効果と病人に及ぼされる精神的感銘の効果のために、それが病気を消滅させるもとになります。しかし、この効果もまたわずかであり、弱いものです。

残りあと二つの治療法は、精神的なもので−つまりそこでは治癒の手段は精神的な力です。−その一つは、強健な人の心意が病人に完全に集中することによって生じます。その時病人はその強健な人の精神的力によって治癒がもたらされるという強い集中した信念を持つので、強健な人と病人の間には、心暖まるつながりができます。強健な人は病人を治療するためにあらゆる努力をし、そして病人はたしかに直ると確信します。これらの精神的感動の結果、神経の興奮が生み出され、この感動、この神経の興奮が病人の回復のもとになります。ですから、病人があることに強烈な欲望と強い希望をもっており、それが突然実現されるという吉報を聞くと、神経の興奮が生み出され、それは完全に病気を消してしまうでしょう。同じように、もし恐怖の原因が突然起ると、強健な人の神経にもある興奮が起こり、それが直接病気の原因となります。その病気の原因は物質的なものではありません。なぜならその人は、何か食べたのでもなければ、害を及ぼすものに触れたのでもないのですから。その場合、神経の興奮だけが、その病気の原因なのです。同じように、主だった望みが突然実現されると、それによって神経が興奮させられるほどの喜びがもたらされこの興奮が健康を生じます。

結論づけますと、その精神力を使う医師と病人の完全な関係−すなわち、その精神的な医師は完全に自分自身を集中し、病人の全注意力は、健康を実現してくれると期待しているその精神的な医師に払われる。―それが神経の興奮をもたらし、健康が生まれます。しかしすべてこうしたことは、ある程度の効果があるばかりで、いつもそうであるとは限りません。なぜならもし誰かが非常に重い病気に冒されたり、あるいは重傷をおった時には、これらの手段は病気をとり除いたり、傷口をとじ、癒すことはないでしょう。−つまりこうした手段には、体力の助けがなければ、重病を直す力はありません。というのは強健なからだはしばしば病気を克服するからです。これが第三の治療法です。

しかし第四の治療法は、聖霊の力によって生み出されます。この治療は接触したり、見たり、面接したりすることに依りません。どんな状態にも依存しません。病気が重かろうと軽かろうと、身体の接触があろうとなかろうと、病人と直す人の間に個人的関係が確立されていようといまいとかかわらず、この治療は聖霊の力によって起こります。

 

 

七十三、物質的手段による治療

 

昨日は食事の席で、治療上の手当と精神的力によって病気を扱う精神的治療について話しました。

さて、物質的治療についてお話しましょう。医学は今だに幼稚な状態にあり、成熟の域に達していません。しかしそれが成熟したならば、治療は人間の嗅覚や味覚を不快にしないものによってなされるでしょう。―つまり、人間の味覚や嗅覚に心地よい栄養物、果物、野菜によって。なぜなら、病気を起す原因(人間の体に病気が入りこむ原因)は肉体的なものか、神経の興奮の影響であるかのどちらかだからです。しかし病気の主な原因は肉体的なものです。なぜなら人間のからだは、無数の元素から構成されており、特別な均衡の中にあります。この均衡が保たれる限り、人間は病気から保護されています。しかし肉体のかなめであるこの基本的な均衡が乱されると、人体の秩序は乱れ、病気が次々と起ります。

たとえば、人体のある構成成分が減少し、あるものが増加すると、均衡の度合が乱れ、病気が起こります。たとえば、ある成分は千グラムの重さで、またあるものは五グラムでなくてはなりません。それによって均衡が保たれます。千グラムの部分が七百グラムに減少し、五グラムの部分が均衡の基準を乱すほどに増加すれば、病気が起ります。治療や処置によってその均衡が元に戻されれば、病気はなくなります。ですから、もし糖分が増加すれば、健康は損なわれます。そして医師が甘い澱粉質の食物を禁じ糖分が減れば、均衡が回復して、病気は追い払われます。さて人体のこうした構成成分の再調整は、二つの方法-薬によるか、栄養分によるか−によって達成されます。そして人体がその均衡を回復したなら病気はなくなります。人間のもっているあらゆる元素は植物にも存在します。ですから人間のからだを構成する成分の一つが減少するならば、その減少した構成成分をたくさん含む食物をとれば、均衡は回復し、治癒します。その目的が人体の構成成分の再調整であれば、薬によっても、食物によっても果されます。

人間をおそう病気の大部分は、動物もおそいます。しかし動物は薬によって治療されません。山々においても、荒野におけるように、動物の医師は味覚と嗅覚です。病気の動物は荒野に生育する植物の香りを嗅ぎます。そしてその嗅覚と味覚にとって甘くかぐわしい植物を食べ、治癒されます。動物の治癒のもとはこのようなものです。動物のからだの中で糖分が減少すれば、甘いものをほしがるようになります。それで甘い味のする草を食べます。なぜなら、自然が動物を促し、導き、その香りと味が彼を喜ばせ、動物はそれを食べます。そうしてこの動物の自然状態の糖分が増加し、健康が回復するのでしょう。

ですから、食物や栄養物や果実によって治療することは可能であることは明らかです。しかし、今日医学は不完全なので、この事実はまだ充分に理解されてはいません。医学が完成の域に達するならば、治療は食物や栄養物、芳しい果物や野菜、さらに低温や高温のさまざまな水によってなされるでしょう。

この話は簡単にしました。ですが神が望まれるなら、別の機会に適当なときに、この問題をもっと詳しく説明しましょう。

 



即ち、例えば、人間は以前四つ足であったとか、尾を持っていたということを認めたとしても・ということ。

 

 この発生と顕現の問題は、次の章でさらにくわしく説明する。

280頁「真の先在」参照

即ち、人々は性格ゆえに非難されるものではないということ。

 「人間と動物の相違」参照

ペルシャでは、距離を時間によって数える習慣がある。

ミルザ・ヤーヤ・スブヘ・アザール、バハオラの異母弟であり、バハオラの妥協できない敵。

「べールでおおい隠された精神」はここでは、信仰の精神を持たない魂の理性的魂を意味する。