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日本映画・問題視された作品及び其周辺史年表

(2005.9.25)

〔緒  言〕
昭和32年公開の松田定次監督作品『任侠清水港』が成人指定からはずされ、
制作公開元の東映が、興行収入増収を見込め、ほっと安堵という資料を読んだとき、首をかしげたものだった。
敗戦までの検閲では削除や上映禁止されたということはよく知られているものの、
昭和32公開された年に片岡千恵蔵の次郎長映画が
成人指定≠ウれるされないなど゛いう騒ぎがあったなど初めて知った次第である。
このことは、個々の作品に関する研究にはほとんど見られない。
映画史に関するもの、映倫史に関する資料にわずかに触れられているようである。

このように資料をあたってみて、
そもそも、成人映画とは何なんだろうと、調べてみたものを年表形式に記してみたものが以下年表作製の発端であった。


当初、劇映画関連からはじめたので、プロキノ関連、戦前のエイゼンシュタインらのソ連映画については触れていない。
個人映画、記録映画も敗戦以前は検閲対象だったが、今回は触れていない。


成人指定≠ゥらの興味であったが、戦前の政治的な検閲や、CIEの方針など備忘録的に記してもみた。

また、活用した資料の半数は公共図書館の蔵書のため、いつでも参照できるわけでもないので、
興味ある記述はできるだけ書き出してみた。

事例は何であり何れの研究は資料を実見するのが基本だが、
なにせ、映画とは光と影の瞬間体験なのでありってそう容易に実見できないものもあり、
また、切り取られたりジャンクされたりして、
特にここにあげた作品の多くは実見の機会は現実として少ない。
したがって、引用ばかりの年表になってしまったが、通史の雛形の一つになるのならばと、
作製してみた所存である。

永田ラッパの大映周辺、大蔵貢の新東宝去就。日活、東映のポルノ≠フアウトラインなど、
今まで自分自身がとらえておきたかったと思っていた流れも、どうにかまとめて記すことができたと思う。

裸体問題、ヘア問題、いずれも現在からみれば他愛もないことだ。
しかし、そんな争いがあったことも記録してもよいかも知れない。
だが、その争いから映画に対しての有益な結果が生まれたかというとよく分からない。


また、この年表により舌足らずながら、
映倫≠ネるものの歴史的立場も鳥瞰できるようになったといくらか示せたと考える。



成人映画といえば、昭和中期以降からは、ポルノ≠竍ピンク映画≠セが、この資料は
公私にかかわらず、いろいろな場所に随分あるものの、
その消長に大きくかかわったビデオ≠ノついての資料があまりにないのには正直いって驚いた。
ここで必要となるビデオ≠フ資料は、公共機関に納められていなくともいたし方がないが、
ネットの検索でも資料的なものにはあまりたどり着けないようだ。
また、性的なものだけでなく、オリジナル撮りおろしビデオというものもよく分からないので、
最近の事例については後の研究事項とさせていただく。

また、比較検討としてTVにおけるハダカ≠ノついても言及したかったが、
資料不足のため現実に至らなかった。



内容、誤記等の訂正がありましたら、ご叱責、資料提供のほど、よろしくお願いします。


1897(明治30)年

大阪、稲荷の彦六座でアメリカ映画『メイ・アーヴィンとジョン・C・ライスのキス』公開。キスシーンのアップがあるが、上映禁止になった記録は伝わっていない。《21》
アメリカ本国では、話題紛糾、製作者サイトと当局の間では大きな議論の的になったという。《21》
アメリカ映画は1966年のプロダクション・コード♂訂まで、性描写はどの映画先進国より保守的だった。
この頃の映画の一編は数十秒から数分と短いものであった。

1908(明治41)年
1月
神田錦輝館で上映された仏映画『仏蘭西大革命ルイ十六世の末路』が、皇帝のギロチン処刑を映像化していることで神田錦町警察署長の命により、わずか一日で上映禁止。だが、この作品は『北米奇譚岩窟王』と題名を変更し、設定も「豪華な山賊の末路」と変えられて再上映された。《4》

この題名変更は即日、この場合はつまり上映禁止の翌日との説もある。《21》

1911(明治44)年
11月
浅草金龍館で公開された仏国のエクレール社製犯罪映画「ジゴマ」が大ヒット。それを模倣した日本映画「ジゴマ大探偵」「続ジゴマ大探偵」「日本ジゴマ」「ジゴマ改心録」「新ジゴマ」などが公開され、これらに影響されたといわれる少年犯罪が多発。よって警視庁は翌年の10月以降、ジゴマ≠ニタイトルについた映画の上映を一切許可しなかった。この頃はまだ警官の劇場臨検は任意だった。《5》
1939年発行の雑誌「日本映画」掲載になる往時の検閲官による回想「聞くところによると、学校の生徒が人を殺したという事例もあったと思う」とか。《21》
期を一にしてカタカナによる映画の題名も禁止。《21》
だか、その後、カタカナによる映画作品は数多く公開されているようだ。

映画『ジゴマ』を摸倣した犯罪は実のところ皆無であったとの説もある。《21》
『ジゴマ』は大正13年12月に解禁、上映再許可。《21》

大正のはじめ頃
西脇英夫引用の帰山教正『映画の性的魅力(S3)』によると、当時、桜夜会という組織が、会員制という名のもとに、性的にあけすけすぎる秘密映画(後にいうブルーフィルム)を上映。前後3回上映のあと検挙。西脇説では、この後、言い伝えでは、戦前だけでも、和製第一号作品、時代劇仕立て、漫画映画、スパイ活劇仕立てなどの作品がある。《20》
だが、これらの作品が現在まで保存されているとの説はないようだ。

1917(大正6)年
8月
警視庁は活動写真取締規則を発令し、本庁内に活動写真閲覧室を設けて、専任官を置く。規則の内容は、15歳未満観覧禁止映画の選定。男女別観覧席の実施(夫婦用の同伴席も設置)。弁士の免許制、等。
削除及び上映禁止された内容は、一、国体及び君主の尊厳を侵す場面。二、姦通、自由恋愛等、わが国の良風美俗に反する場面。三、接吻、寝室等に於て見物に猥褻な観念を起させる場面。四、放火、殺人、強盗等、見物に犯罪の動機を与えるような場面。だが興行主らの抵抗にあい直ぐには徹底しなかったが、各都道府県もこれと同等の規則を定めるようになり、大正14年の内務省令として統一されることになる。《5》

以下は大正14年までの内務省令の統一検閲までの実例。各年別のリストはそれによる。しかしながら、これらは二次資料であり、この資料を集めた牧野守氏も、これからの以後研究に期待している。《21》
これ以外に、忌避、削除、改訂された映画は数多いはずだろうが、この期において牧野守氏の資料が群を抜いているのは誰もが認めるところである。

イタリア映画『火 "Il Fuoco"』、恋愛場面が現実的過ぎるとして公開禁止。1922年の項まで《21》
イタリア映画『オデット "Odette"』、姦通に関する場面を変更して公開。
アメリカ映画『堂銭劇  "Tte War of Tongs"』、賭博シーンが忌避に触れ公開禁止。監督、キャストは中国人であるとの事。

1918(大正7)年
アメリカ映画『戦時の女 "Wars Woman"』、一旦公開されるが、戦乱の残虐行為、処女凌辱のシーンのため、上映禁止。
アメリカ映画『ツェッペリン最後の侵入 "The Zeppelin Last Raid"』、戦争の残忍性のため、東京で上映禁止。名古屋、京都では公開。
アメリカ映画『怪僧ラスプーチン "The Black Monk Rasputin"』、ロシア革命の危険思想を含み公開禁止。
イタリア映画『ロベスピエール "(原題不明)"』、革命をテーマにしていると公開禁止。
アメリカ映画『火の海  "The Warth of the Gots "』、一旦公開後、日本人の描き方が幼稚で邦人の体面を汚すと上映禁止。
アメリカ映画『カインの輩 "(原題不明)"』、二重人格による犯罪シーンが残虐だと東京で公開禁止。地方によっては『魔の血』の題名で許可になったところもある。
アメリカ映画『海の娘 "The Painted Lips"』、少女が魔窟に誘拐されるストーリー。当日突然上映禁止。
アメリカ映画『異郷の人 "Alien Souls"』、日本人の体面を汚すとして上映禁止。
アメリカ映画『好戦将軍 "Kaiser"』、カイゼルの名が侵略主義者を意味するものとしてドイツに対する配慮から題名を変更して公開。
アメリカ映画『神の娘 "The Daughter of Got"』、裸体シーンが多く一時保留されたが、該当場面削除のうえ公開を認可。
アメリカ映画『旅の女 "The Door Between"』、姦通をテーマにしているため一時禁止。改訂の上公開許可。(年表製作者注、制作はブルーバード映画との事。ブルーバード映画といえば、松竹の大船調に繋がる、アメリカの大らかな人情味をテーマにしていると記録は伝えている。主に日本のかつての検閲は全体の流れより、個々の事例に関心が向けられていたといわれているが、これがその一例かも知れない。)
イタリア映画『恐ろしきイワン "Ivan the Terrible"』、惨忍な場面を削除しての公開だったが、それでも直ちに上映禁止。

1919(大正8)年
アメリカ映画『ヴィナスの勝利 "The Triumph of Venus"』、女神らの裸体が多く、該当箇所を削除の上、公開。
アメリカ映画『クロイツェル・ソナタ "Kreutzer Sonate"』、姦通をテーマにしているため認可保留、1921年に改訂の上、公開許可。
アメリカ映画『お雪さん "The Japanase Nightingara"』、日本人が悪役であることから不許可。一部削除、改訂の上、公開許可。
アメリカ映画『ウーマン "Woman"』、ローマ時代の姦通をテーマにしてるとして一時公開禁止。一部削除、改訂の上、公開。
アメリカ映画『青春の炎 "The Flame of Youth"』、テーマの恋愛問題が風教上不適当だと公開禁止。

1920(大正9)年
アメリカ映画『幸福 "The Right to Happiness"』、労働問題を扱っているため東京では禁止。関西地区では一部削除して公開。
フランス映画『戦争か? 平和か? "J'Accuse"』、アベル・ガンス原作。幻想シーンの中の戦争の凄惨さの箇所を削除して公開。
アメリカ映画『赤灯籠 "The Red Rantan"』、中国北清事変の内乱、西洋人の東洋人に対する侮辱などにより、一時認可保留、半年後に削除による改訂公開。
アメリカ映画『ローンウルフの娘 "The Daughter of Lonewolf"』、姦通に関する場面を削除して公開したものの、上映館が派手な宣伝をしたため当局を刺激し浅草での公開は絶対禁止。翌年、赤坂で上映許可。
アメリカ映画『A街の貴公子 "Prince of Astreet"』、社会問題が人心に悪影響があると、一時上映禁止。内容を変更して許可。
アメリカ映画『正邪の兄弟 "Brothers Divided"』、労働及び社会問題で一時公開禁止。内容を変更して公開許可。
アメリカ映画『燃ゆる世界 "World Aframe"』、労働問題で一時公開禁止、内容を変更して上映許可。
アメリカ映画『過激派 "The Dangerous Hours"』、過激派の残虐性を示し、思想風教、国家の秩序上、公開を禁止。
アメリカ映画『霊魂の競売 "The Auction of souls"』、トルコ人のアルメニア人虐殺を描き、惨忍な暴行、凌辱シーンのため公開禁止。

1921(大正10)年
アメリカ映画『サロメ "Salome"』、サロメがヨカナーンを誘惑するシーンが風俗に害あり切除の後、公開許可。
アメリカ映画『世界と女 "World and the Worman"』、過激派による暴虐シーンが封切当日に劇場で検閲官により切除の後、公開許可。
アメリカ映画『神々の呼吸 "The Breath of God"』、主演・青木鶴子。国際親善を害するシーンのため一時認可保留、のちに公開許可。
アメリカ映画『幸福 "The Right to Happiness"』、ユダヤ人虐殺シーンや過激思想のため公開禁止。削除改訂ののち公開許可。
関西では通検したところもある。

松竹キネマ、ヘンリー小谷監督『電工と其妻』、検閲で改訂され公開。
松竹キネマ、ヘンリー小谷監督『トランク』、東京で上映禁止、大阪では公開。
松竹キネマ、帰山教正監督『愛の骸』、東京では公開禁止、大阪では公開。

1922(大正11)年
フランス映画『ジゴレット "Gigorette"』、邦題『巴里の暗黒面』が不健全な影響を及ぼすと、上映中に原題と同じタイトルに改題され、上映許可。
アメリカ映画『虎狼の巷 "Fantoma"』、邦題『ファントマ』が、兇賊の名であり人心に悪影響を及ぼすとして改題。また、具体的な犯罪場面等を削除改訂し、二週間後に公開許可。

1923(大正12)年

1924(大正13)年
(この年については検閲留保作品として記録?されている雑誌から)《21》
アメリカ映画『暴君ネロ "(原題不明)"』、実在したネロの扱いについて紛糾し留保。
アメリカ映画『王様万歳 "(原題不明)"』純粋な喜劇であるが革命を扱っているため留保。
ドイツ映画『賢者ナータン "(原題不明)"』、人道主義をテーマに非人道主義の場面があるからと留保。
アメリカ映画『ホリウッド "(原題不明)"』、女優の海水着があまりに身体にフィットしすぎてと留保。

1925(大正14)年
2月
永田雅一、日活入社。昭和9年日活退社、第一映画社創立。昭和11年9月第一映画社解散。松竹の白井松次郎の肝煎りにより、スタッフ70人とともに、松竹傘下の新興キネマに乗り込み京都撮影所長になり積年の赤字を解消する。(このあたりにはスタア引き抜きブローカーとしての永田への松竹からの牽制もあったらしい)。昭和16年映画会社が当局による二社統合案に対し、永田案から三社統合案が提案。結局三社統合案が採用され、日活、新興キネマ、大都映画が統合され翌年、大日本映画制作株式会社が誕生。専務に選任。昭和22年3月、大映社長菊池寛勇退、永田雅一が社長となる。《23》


5月
内務省は活動写真フィルム検閲規則を発令、7月実施。検閲の狙いは皇統護持≠ニ民族確認=B民族確認とは警視庁の取締規則の二、三にあたる。《5》
(乙)の風俗、淫蕩、卑猥に関するものでは、接吻、抱擁、裸形、舞踊、痴態、性的暗示、遊興、その他(淫卑、其他)。《21》

6月
上記の検閲を迎えて民間の対応機関として大日本活動写真協会が設立。《5》

(この年については雑誌資料から)《21》
東亜キネマ『或る兄弟と城主』、乱倫の城主がついに正義の刃に倒される筋書き。その乱倫描写がいけないと削除。
東亜キネマ『盗』、犯罪シーンの具体的描写が削除。
東亜キネマ『断雲』、誘拐の場面がいけないと兵庫県では削除。東京では禁止。
東亜キネマ『死よりも悲し』、大阪府で強姦の場面が削除。
東亜キネマ『笞は鳴る』、女が男を盲にするところがいけなかった。
松竹キネマ『灼熱の恋』、カルメンの翻案。ヒロインがホセに身を任せる場面が削除
松竹キネマ『受験者』、現代受験制度を呪詛しいてるというので各地で上映不許可
帝キネ『続籠の鳥』、ヒロインが山男による獣欲の犠牲になりそうなシーンで、敵役のニタニタと舌なめずりする描写が削除。
帝キネ『山の悪魔』、兄弟姉妹が殺しあう乱倫シーンが削除。
日活『無銭不戦』、支那兵を侮辱しているとして日支親善上面白からずと禁止。

(他の資料から)《21》
東亜キネマ『乱刀 後篇』、兄弟二人が一女性に恋をし畜生道に落ちる場面が風俗上障害があり検閲拒否。改訂の後、『続乱刀』と改題して検閲再申し、大きくカットされようやく公開。
アメリカ映画『女護の島 "(原題不明)"』、男のみ死亡する流行病が終ったあと、ただ一人残った男に女が群がる筋書きのため検閲拒否。
アメリカ映画『吉原花魁道中 "(原題不明)"』、浅草吉原に取材した米映画。遊里吉原の広告にあたるとして検閲拒否。

1926(大正15/昭和1)年
この頃
当時、人気弁士で映画館主であった大蔵貢は、『お産の映画』をヒットさせる。「内容は、性病や遺伝の恐ろしさ、帝王切開等を扱ったものだが、モルモットの実験シーンを、人間のものと間違え卒倒する客さえ現れ、事務室に医者と看護婦を当直させて興行したのだから、たいへんな大入りであった。」《19》

マキノ映画、衣笠貞之助監督『日輪』、残酷場面削除のみならず卑弥呼≠扱うことが神話に通じるとして大幅改訂のうえ認可。《21》
神戸中外教育研究会『我等の叫び』、女優雲井浪子が演じる天照大神が皇室の威厳を失墜させるとして検閲保留、天の岩戸シーンを削除し検閲認可。《21》


10月
連合映画芸術家協会、伊藤大輔監督『京子と倭文子』公開。原作は菊池寛の『第二の接吻』だが、当局からの意思で改題せざるを得なかった。《21》
新聞の連載小説であり、改造社から同題名で単行本化されているのに映画の題名としては許されなかった。また、原作者の一文によると、当時は演劇の『死の接吻』などは何のお構いもなく上演されていたという。《21》

アメリカ映画『女王懺悔 "(原題不明)"』、王位王権を蔑視しているため検閲拒否。《21》

鬼熊事件≠フ映画化多数制作。その多くが土地的制限を受ける。《21》

1927(昭和2)年
日活大将軍、阿部豊監督『彼をめぐる五人の女』、風俗条項の制限のため六ヶ所削除。《21》

1928(昭和3)
フランス映画『カサノバ "(原題不明)"』、道義の廃頽、皇室に対する国民信念に悪影響を及ぼすため検閲拒否。《21》
アメリカ映画『押しかけ花嫁 "(原題不明)"』、有夫の継母と継娘による色魔的な男との性的闘争がいけないと検閲拒否。《21》


この年に制限された作品。(この年だけ制限されたのではない。)
土地的制限『呪われし乙女』(理由公安)、『村に照る陽』(理由公安)。
場所的制限『性病の危害』(理由風俗)、『哀残の秋』(理由風俗)、『続哀残の秋』(理由風俗)、『医薬地獄』(理由公安、風俗)。(地域的制限は上映会場の所轄所の判断に基づき、場所的制限は衛生講和会などの特定の会場での上映を認めた措置。)《21》

1929(昭和4年)
ドイツ映画『侮辱者 "(原題不明)"』、風俗上好ましからぬ影響を与える虞ありと検閲拒否。《21》
アメリカ映画『愛国者 "(原題不明)"』、暴君の暴虐とその暗殺の筋書きと描写が、わが国の君主制を暗に諷刺する危険に通じると検閲拒否。《21》
アメリカ映画『憧れの国 "(原題不明)"』、王位継承問題に陰謀をからませた喜劇。王位を揶揄し王権を愚弄していると検閲拒否。《21》

日活、溝口健二監督『都会交響楽』、多くのシーンが削除。《21》

12月
古海卓二監督『日光の円蔵』検閲で槍玉にあげられる。《21》

検閲制度が軌道にのるこの頃から、製作者輸入者が、検閲拒否、上映禁止、削除等の処分を受けると、結局。時間と資金を無駄にすることに気づき、作品の自己規制や、当局の顔色を窺い、申請を取り下げて自己改訂を行って許可をねらうようになる。したがって、検閲にパスしない作品の数は少なくなってゆく。《21》

1930(昭和5)年
9月
日活、村田実監督『この太陽』公開。出演は峰吟子と小杉勇。これが日本最初のベットシーンのはしりといわれる。内容はあくまでベットシーンを連想させる程度のものだった。《4》
当時人気の長谷川海太郎の原作か。

溝口健二監督『暴風時代』、三分の一まで撮影の後、検閲問題で撮影中止。《21》
溝口健二監督『しかも彼らは行く』、検閲で受難。《21》
古海卓二監督『戦線街』『剣』など検閲で槍玉にあげられる。《21》

アメリカ映画『底抜け大騒ぎ"The Wild Party"』、初期のトーキー映画。初めて音声も削除。《21》

1931(昭和6)年
1月
松竹、野村貴彦監督『私のパパさんママが好き』公開。伊達里子の露わな太腿が大いに宣伝効果を果たす。《4》

4月
日活、内田吐夢監督『ミス・ニッポン』、入江たか子と小杉勇ベットシーン削除される《4》。
群司次郎正原作作品『日本嬢』だったっけ?

?月35-10
日活、伊藤大輔監督『侍ニッポン』、梅村蓉子と大河内傳次郎のからみが武士にあるまじき事と削除される。《4》
群司次郎正原作作品。

6月
松竹、佐々木啓祐監督『女はいつの世にも』、結城一朗と川崎弘子の接吻シーン。結城が検閲官と顔見知りだったことから、問題のシーンの検閲時に検閲官の気をそらして検閲をパス。上映四日後に、見回りの警官により発見され、作品は没収。《15》

?月
F.W.ムルナウの遺作米国パ社映画『タブウ』日本公開。本国に残るバージョンは南の島を舞台にし、女性の豊満な胸を露出したダンスや着替えシーンがある。これが当時、日本でどう検閲されたか資料は未見だが、興味は深い。
帝国主義に反発したためか、一人のスター(登場は先住民と混血人と中国人)も音声もトーキングスーパーも無い内容でありながら、米国最大手で制作された作品。大国の矛盾の一例として記憶に残したい。

1933(昭和8)年
6月
日活、山中貞雄監督『盤嶽の一生』、親子三代の浪人の生涯を通して、社会の矛盾を描くが、ずいぶんとカットされる。《28》

1934(昭和9)年
5月
新興キネマ、石田民三監督『おせん』。主演の鈴木澄子の太腿まで見せた両足と、湯上りの半裸シーンが削除される。《4》
9月
日活、溝口健二監督『愛憎峠』公開。主演の山田五十鈴が劇中劇で弁天小僧を演じ、もろ肌脱いだ背中に彫られた刺青のスチール写真が、非合法のものとの伝聞で夜の巷に流布されたという。《4》

1935(昭和10)年
7月
チェコ・スロバキア映画『春の調べ』日本公開。セックスが主題で全裸シーンもあったため、内容が大幅にカットされた。《1》
戦後、この事を知った占領軍は、『春の調べ』の再公開を促すが、ネガが往時に他国に売却されていたため、実現に至らなかったという。《15》
この作品は近年DVD化もされ、比較的容易に鑑賞できる。

1936(昭和11)年
10月1日
稲垣浩監督『股旅千一夜』公開。沢村貞子の入浴シーンがある。監督は、削除されたら作品が成立しないように演出し、削除はまぬがれる。担当した検閲官の手元には、これまでの削除された映画のシーンをつなぎ合わせた2時間にわたる総集編≠ェ存在していた。稲垣はそれを見せられたと回想。《7》

10月4日前編、29日後編公開
松竹大船、野村将樹監督の『人妻椿』に日本最初の女性による入浴シーンが現れる。演じたのは川崎弘子。《4》

この2作の公開日の検索はWeb上の『日本映画データベース』による。このサイトはとても利用価値が高い。

1937(昭和12)年
6月
新興キネマ、溝口健二監督『愛怨峡』。お座敷ストリップシーンが削除される。《4》

1937(昭和13)年
この頃
松竹営業部検閲課にいた高岩肇の回想。〔検閲課といえば何やらいかめし気に聞こえるが、実情はまったく正反対で、東西の撮影所で完成した作品が本社に運び込まれた時から仕事がはじまる。新しいフィルムの缶と一緒に入っている一綴りの原稿─トップシーンからエンドマークまでのタイトル、ダイヤローグ、エフェクト、音楽などすべての音響を書き込んだスクリプターの記録なのである。フィルムを一巻ずつ映写して、原稿と照合し、違っていれば訂正し、不足していれば補い、フィルムと寸分違わぬものにし、ガリ版印刷にして、検閲台本なるものを作製し、翌日内務省に提出して検閲を受ける。それが検閲課の仕事なのだ。〕《22》
映画会社の事前の準備も大変だったようだ。

1939(昭和14)年
4月
日活、内田吐夢監督『土』。風見章子の露天風呂入浴シーンは削除されるも、着衣で髪を洗うシーンでの汗に濡れた彼女の脚線美は削除されず、観客の興味を誘った。《4》

10月
映画法施行。内容は二十六カ条からなり、「劇映画脚本の事前検閲」「外国映画の上映制限」「年少者の観覧制限」などが強制された。《4》

外国映画の上映制限とは輸入制限との意味でもあるらしく、児玉数夫の回想によると、明朗快活なアメリカ映画が上映されなくなったことはとても寂しいが、ハロルド・ロイド、バスター・キートンなどの過去の傑作、イタリア史劇のアンコールが苦肉の策として上映され、時に懐旧的な映画ファンには好まれた。との事。《24》

1940(昭和15)年
夏頃
脚本検閲の前段、つまり企画調査の段階で、または原作などについても当局の下検閲による内諾を得て準備をすすめるといった三重検閲が行われる。《21》

1943(昭和18)年
10月
稲垣浩監督『無法松の一生』、車夫主人公が戦争(将校)未亡人を思慕する点がいけないと全体の約一割が削除。このころから検閲官やその上司による常軌を逸した言動行動が顕著になる。《21》


1945(昭和20)年
9月
敗戦により、映画検閲は連合軍情報頒布部に権限が移行。実際の指導はCIE(民間情報教育局)が行った。《4》

10月
CIEは映画の企画と脚本の事前検閲する旨を通達。そのため映画制作会社は企画書と脚本を英訳(最初期だけ日本語で提出)してCIEに提出し制作の許可を取り、完成した作品もCIEの検閲の後、米太平洋陸軍総司令部の対敵諜報部のもとにあった民間検閲支隊(CCD)の検閲を受けることになった。この二重検閲は1949年4月に映倫が設立されるまで続き、作品完成後のCIEによる検閲は1952年4月の占領終了まで続けられた。CIEはによるものは民間検閲、CCDによるものは軍事検閲。ときにCIEとCCDで意見が相違することもあった。《15》

11月
GHQは日本政府に対し、「反民主主義映画の除去に関する件」を通達。225本の旧作日本映画が上映禁止となる。《4》

他の説によると1931年から1945に制作された中から236本が上映禁止焼却処分。焼却は翌年の4月から5月にかけて。この指令以前に、映画会社が自主的に処分した例もあり、指令に反して隠匿した例もある。ただ、この通達を知らなかった巡回映画業者の手で地方上映されこともある。上映禁止映画236本は総司令部の要請で最低限の本数が文部省に保管されるが、1952年8月に各映画会社に返還。さらに1967年12月米国に戦中戦後に没収された日本映画483本が、東京の国立フイルムセンターに収められた。《15》

敗戦後に公開された時代劇映画。大映、丸根賛太郎監督『花婿太閤記(8.30)』同監督『狐の呉れた赤ん坊(11.8)』稲垣浩監督『最後の攘夷党(12.20)』

1946(昭和21)年
1月
松竹映画、川島雄三監督の『追いつ追われつ』に日本映画最初のキッスシーンが現れる。ただしロング・ショットで後姿にかくれて唇は見えない。《1》

5月
松竹映画、『はたちの青春』(佐々木康監督)が日本映画で最初の本当のキッス・シーンがあるという評判でヒット。《1》

12月
松竹映画『歌麿をめぐる五人の女』(溝口健二)に、川崎弘子などのスター女優の背中の肌をむき出しにさせ、絵師歌麿にいれずみの下絵を描かせる描写がある。《1》

この年に公開された時代劇映画。松竹、溝口健二監督『歌麿をめぐる五人の女(12.17)』マキノ正博監督『満月場の歌合戦(12.31)』。大映、丸根賛太郎監督『殴られた殿様(3.21)』木村恵吾監督『お夏清十郎(7.11)』松田定次監督『国定忠治(8.17)』森一生監督『槍をどり五十三次(11.26)』。《18》

1947(昭和22)年

1948(昭和23)年
この頃の稲垣浩による回想。
「私はCIEに九本のシナリオを提出して八本まで却下され通検しなかった。時代劇の製作本数は月三本に制限され、その三本も剣戟場面(チャンバラ)は一切禁じられるし、侍を主人公とすることはできなかった。侍はすべて悪人にしたて、殿様はすべて名君であってはならぬという通達をうけていたのだった。」《7》

1月
永田雅一、7日に公職追放。同年3月21日に追放解除。《23》

1949(昭和24)年
6月
映連(日本映画製作者連盟)、GHQの要請で自主規制を意図した映画倫理規定管理委員会(いわゆる映倫)を発足させる。《2》
映倫の管理規定は(一)国家及び社会、(二)法律、(三)宗教、(四)教育、(五)風俗、(六)性、(七)残酷醜汚。劇映画は通常、脚本段階と完成作品の二段階で審査を受ける。《4》
この年の6月から1953年6月の四年間の脚本審査における改訂あるいは削除の総計は2.921件。そのうち国家及び社会の項に関するものは1.041件。また、風俗の項では410件、性の件では317件であった。《3》

当時は拳銃の描写はよくて日本刀による活劇は駄目であった。CIE委員の見解では「西部劇にはフロンティア・スピリットがあるが、日本の剣劇にはそれがない。だから日本刀とピストルでは映画倫理規定上の取り扱いにおいては、それだけの差を認めざるを得ない」ということだったという。《3》

11月
日本映画製作者連盟は時代劇の制作数の上限を決める。各社年間12本を上限とし、ただし1ヵ月に2本配給した場合、翌月は配給できない取り決め。《15》

1950(昭和25)年

新東宝、『青春デカメロン』、編中にストリップ・ショウのシーンあり。こういった風俗描写としてのストリップ・ショウが描かれた作品は多々あったという。《3》

3月
性典映画のはしり、松竹の『乙女の性典』(大場秀雄監督)公開。《4》

6月
朝鮮戦争勃発。映倫審査はそれまで完全に戦争否定の立場であったが、朝鮮戦争中には親米軍的な改訂希望が見られた。《3》

8月
シネアート、『裸の天使』公開、ストリップ・ショウだけを内容とした映画。《3》
上記の作品は、ネット検索によると松竹配給で、監督は中川順夫、出演は島崎摩子、石黒達也、本郷秀雄、園はるみ、ヒロセ元美、吾妻京子で、モノクロ作品、一時間程度の上映作品だったようだ。その他この傾向の作品は、東映配給秀映社作品、沼波功雄監督『東京十夜(とうきょうてんや)』、富士映画『裸になった乙姫様』、『ストリップ東京』などがある。《4》

この頃から翌年にかけてバスコン映画が流行。政府から助成金を貰って制作された産児抑制PR映画を小劇場やストリップ劇場へ横流しされ上映された。情欲を誘う場面はないものの、性器の描写や性行為の説明等があったため、各種の物議を醸し出した。元来こういった映画は、厚生省の推薦マーク付で、職場や学校にど特定の場所で上映されるべき代物であった。また、バスコン映画は劇映画ではなく、本来は興行を目的としない教育映画だったため、当時の映倫審査対象ではなかった。が、外部に流失してしまえば、映倫の審査対象となるのだが、それらのシーンを削除してしまえば作品自体が成り立たなくなってしまうので、苦肉の策で。映倫は審査未了、結局ノーマークにせざるを得なかった。これら流出作品は、『堕胎か避妊か』『美しき本能』『愛の巣箱』『産児制限』『処女膜の神秘』『処女膜の解剖』『優生保護法と人工妊娠中絶』『若人へのはなむけ』『裸体』『性の本能』『花ある毒草』『産児制限の知識』など20数本に及よんだ。《4》
これらの性衛生映画≠フ審査は1952年頃までCIEが行っていた。《12》

1951(昭和26)年
3月
新東宝、総芸プロ提携『中山安兵衛』。戦前作品に比して、肝心の高田馬場のシーンは極めてあっさり描かれるのみ。仇討ちという言葉は仕返しと改められた。《3》

9月
日米講和条約締結。これにより時代劇の配給制限撤廃。これまではGHQの検閲のもと、1社につき月間1本、年間12本と、時代劇の制作が制限されていた。《6》

1952(昭和27)年
3月
東映、萩原遼監督『忠臣蔵』。CIEの意向を考慮して脚本には討入りシーンの無いことにして制作。が、しかしながら、その結末は討入りを想定していた。《3》
これの実際の上映は『赤穂城(4.23)』、『続・赤穂城(5.29)』二部作というタイトル作品に変更されたと見られる。
3月
東宝、谷口千吉監督『霧笛』。原作では悪役がドイツ人として書かれていたが、外国人と改められる。また被占領地だった満州上海などは外地と改めなければならなかった。《3》

映倫、東和、映配、新外映などの協力により外国映画の一部に対して審査開始。1953年8月の新外映配給仏映画『浮気なカロリイヌ』、1954年5月の映配配給『ボルジア家の毒薬』など、映倫と配給会社の折衝は難航の末、日本映画よりも大胆な映像描写が上映されるようになる。《3》
その他、この時期、新外映配給『巴里千一夜』、デンマーク映画『私は子供が欲しい』、イタリア映画『OKネロ』、フランス映画『パルテルミーの大虐殺』など税関や映倫とトラブルをおこした作品がある。《4》
だが、アメリカ映画協会(MPAA)傘下の大手10社は、輸入作品を本国で審査済みであるとして映倫審査を拒否。《4》
4月
サンフラシスコ講和条約(同時に日米安全保障条約)が発効。

この年
ショー映画と称するストリップの記録フィルムが公開されはじめる。《27》

1953(昭和28)年
4月
東映、佐々木康監督『女間者異聞・赤穂浪士(4.1)』、CIEを慮って、仇討ちを幕府の裁量の失敗と改めて映画化。《3》
大スター片岡千恵蔵主演作品である。
7月
朝鮮戦争休戦協定調印。
このころより、映倫審査で処理されるものは邦洋画問わず、ほとんど性及び風俗の項に限られるようになる。《3》

この年
昨年から顕著になっていた若い女性の思春期を扱った性典映画ブームが頂点を向かえる。昨年制作公開された作品は、東宝、市川崑監督『若い人』丸山誠治監督『思春期』、東映、青柳信雄監督『水色のワルツ』阿部豊監督『ボート八人娘』、新東宝、野村浩将監督『若き日のあやまち』、松竹、川島雄三監督『娘はかく抗議する』など。本年の作品は、大映、島耕二監督『十代の性典』佐伯幸三『続・十代の性典』小石栄一監督『続々・十代の性典』、松竹、佐々木啓祐監督『乙女の診察室』田畠恒男監督『女だけの心』、東宝、本多猪四郎監督『続・思春期』蛭川伊勢夫『あぶない年頃』、新東宝、内川清一郎監督『半処女』中川信夫監督『思春の泉』など。PTA、マスコミから抗議が殺到する。《4》

1954(昭和29)年
この頃でも
サンフランシスコ講和条約の締結に合わせて占領軍による検閲は終ったのだが、検閲時代の名残がまだあり、GHQへのおうかがい≠ェ存在していたという。《6》


8月
映倫、映画と青少年問題対策協議会設置。青少年向き映画と成人向き映画を選定するとした。《2》

映倫による成人向映画第一号は東京映画東宝配給『若夫婦なやまし日記』。つづいて、同社同配給『渡り鳥いつ帰る』、東映『弥太郎笠』が指定される。《11》

18歳未満の観覧を禁止する成人向け指定の実施は1955年5月から開始。映倫は成人向けに指定する際、映画の質は一切問わなかったが、成人向けイコール有害映画だと思い込む団体が少なからずあった。《4》
世界の溝口であっても、著名な作家の原作による男女の機微を主眼としている映画も、性的地域≠舞台としていれば、成人向映画に指定された。

成人映画指定作品の上映の際は「今週の映画は成人向映画でございますから、、十八歳未満の方はご観覧を御遠慮ください。(保護者同伴の方はさしつかえりません)」と表示が義務付けられた。が、完全には徹底されていなかったらしい。
この表示は、1956年の新映倫でも同内容の表示だったが、各地で新たに制定された条例等により、保護者同伴云々の文字は消え、1964年に至って「ただいま上映中の映画は映倫管理委員会が成人映画として指定したものでありますから十八歳未満の方の入場をお断りします」となる。《12》

年度別成人向(後の成人映画)指定本数。《12》

年度   邦画 邦画内の独立プロ作品 洋画   合計
1955 14   5   19
1956 30   11   41
1957 26   6   32
1958 19   5   24
1959 8   3   11
1960 19 (7) 3   22
1961 13 (6) 3   16
1962 15 (12) 6   21
1963 37 (29) 25   62
1964 98 (63) 22   120
1965 233 (216) 12   245
1966 207 (188) 7   214
1967 182 (167) 9   190
1968 265 (244) 15   280
1969 256 (243) 32   288
1970 219 (206) 34   253
1971 263 (232) 50   312
1972    389 (247) 71      460



1955(昭和30)年
5月から12月まで成人向映画≠ノ選定された日本映画は5作品。東京映画、田尻繁監督『若夫婦なやまし日記』久松静児監督『渡り鳥いつ帰る』、東宝、青柳信雄監督『芸者小夏』、東映、小石栄一監督『魚河岸の石松シリーズ・石松故郷へ帰る』同監督『魚河岸の石松シリーズ・マンボ石松踊り』。《4》
11月
内閣映画審議会が発足。その答申にアメリカ映画映倫審査対象との答申があり、結果、アメリカのメジャー系10社は条件付きで新規の映倫審査に参加すると、アメリカ映画輸出協会(MPEA)の会長が来日表明。《4》

12月
大蔵貢、新東宝の社長に就任。大蔵は貧しい生まれから少年弁士となり、青年期は富も蓄え有名館の主任弁士として女性客に大いに喜ばれた(喜ばれすぎたとか)第一線の弁士と評される。続いて多くの常設館を買収し、その利益から各製作会社の株券を買い続け各社の大株主になる。その金融的手腕と、興行作品を見極める眼力を買われての社長就任だったようだ。《19》
青年期の大蔵による映画説明は淫≠ニいう意味で特別、婦女子が何時も下半身をモジモジさせていたと、何かで読んだ記憶がある。
大蔵はこれ以前にも弱小プロダクションのオーナーだったようだ。

1956(昭和31)年
3月
大映東京、溝口健二『赤線地帯』公開。この後、赤線映画≠ェブームになった。《4》
その傾向の作品とは、中央文化映画社『売春』、大映、木村恵吾監督『屋根裏の女たち』、日活、川島雄三監督『洲崎パラダイス赤信号』滝沢英輔監督『無法一代』川島雄三『幕末太陽伝』、東宝、丸山誠治監督『憎いもの』、東京、松林宗恵監督『ひかげの娘』、宝塚、稲垣浩監督『女体は哀しく』、大映、木村恵吾監督『屋根裏の女たち』田中重雄監督『赤線の灯は消えず』、松竹、内川清一郎『女だけの街』同監督『淑女夜河を渡る』、新東宝、小森白監督『女の防波堤』など。《4》

5月
日活、古川卓巳監督『太陽の季節』が大ヒット。太陽族映画のはしりとなる。この傾向の作品は、大映、市川崑監督『処刑の部屋』、日活、中平康監督『狂った果実』古川卓巳監督『逆光線』中平康監督『夏の嵐』、東宝、堀川弘通監督『日蝕の夏』など。《4》
その性描写が各種団体やマスコミから攻撃され、また、上映禁止などの権限を持たぬ映倫にも、権力行使を求めるなどのお門違いの抗議か山積した。そして、この太陽族映画流行が映倫の改組となる大きな要因となった。

7月
新東宝、志村敏夫監督『女真珠王の復讐』公開、ハダカ女優とよばれた前田通子主演で遠景の後姿ながらオールヌードシーンがある。ハダカ女優と呼ばれたのは他に、松竹の泉京子、日活の筑波久子らがいる。海女の衣類から透けて見える乳首や黒々とした腋毛などは映倫規定に抵触しないため削除されなかった。《4》

11月
東映社長大川博を委員長に、45社からなる映倫維持委員会発足。《4》
映倫維持委員会とは、映画制作サイドからなる対折衝映倫組織である。

12月
映倫管理委員会、いわゆる新映倫#ュ足、スタッフは第三者的文化人(新業務は翌年当初から開始)。《4》
新映倫のわいせつ関係の暫定的具体的解釈の一部は、原則的に混浴描写、女性の乳房、腰部を隠さない全裸半裸の描写、性器の露出、肉体的交渉を暗示する寝室場面。過度の凌辱描写、肉体的交渉を意味する同衾描写。放尿放屁の描写など。
映倫では「映画宣伝広告規定」を定める。《4》

新映倫、映画館で上映される全外国映画も審査する。《12》

映倫とは、加盟各映画社と、外部との軋轢が予想される表現を小さくして、当局からの介入をなくするための機関であったようだが、太陽族映画などが問題化される中で、映画会社と審査する側に馴れ合いがある、映画会社の社員等がスタッフに集中しているなどとの非難もあって、映倫の第三者機関化が推進された。

1957(昭和32)年
1月
これまでやくざ映画は成人指定が通常であったが、片岡千恵蔵主演『任侠清水港』(松田定次監督)は、制作の東映側からの運動もあり、青少年映画審議会の審議を経て、一般映画として公開される。《1》
この場合のやくざ映画≠ニは江戸末期を舞台とする着流任侠映画を意味するものだろう。

2月
新映倫の成人向指定の具体的解釈は(1)著しく性的感情を刺激するもの。となる。《4》

3月
いわゆるチャタレイ裁判。最高裁で有罪確定。この判決が後々までわいせつ裁判≠ノ後を引くようになる。《1》

この年から成人向映画は成人映画という呼称に変更される。この年の成人映画日本映画19本外国映画5本。《4》

1958(昭和33)年
5月
新東宝が輸入した性衛生映画=w母と娘』が映倫マークなしのまま、映画館以外の公会堂等で会員制度(会員券の購入)により公開。映倫は、かねてからこの種の作品は審査せずとの態度を表明。興行者たちの団体・全国興行環境衛生組合連合会(興連)も、映倫マークのない作品は上映しないとの申し合わせがあったため、本来なら上映不可能なはずなのだが、作品を通関させた東京税関に映倫が善処法を依頼した結果である。だが、興連としては不満が残った。《12》

1959(昭和34)年
8月
映倫の新しい倫理規定が制定。特に充分注意する「性及び風俗」描写は (イ)裸体、着脱衣、身体露出及びそれらによる舞踏 (ロ)全裸 (ハ)混浴 (ニ)性器 (ホ)排泄行為。 《4》

1960(昭和35)年
この年の映倫指定成人映画のエロティックな作品は大映、木村恵吾監督『痴人の愛』同監督『お伝地獄』瑞穂春海監督『すれすれ』同監督『熱い砂』、松竹、酒井辰雄監督『こまつなんきん』、東宝、豊田四郎監督『墨東綺譚』、新東宝、木本健太監督『性と人間』柳沢勇監督『続・性と人間』土屋啓之助監督『肉体の野獣』渡辺祐介監督『少女妻・恐るべき十六歳』。《4》

5月
新東宝最後の配給作品、第一映画、監督曲谷守平『北上川悲歌(5.25)』公開。新東宝制作の最後の作品は、公開が一つさかのぼる、監督武部弘道『火線地帯(5.31)』
新東宝の系列館は大手に吸収されるか、既存の大手直営館や系列館とバッティングしてしまった場合には、輸入ピンク映画を上映することが多かった。


1961(昭和36)年
3月
イングマイル・ベルイマン監督の『処女の泉』、そして10月に公開されたアラン・レネ監督『夜と霧』が部分削除、残酷が理由という。《3》
ベルイマンの『処女の泉』の強姦シーンは随分と前(四半世紀前)に観たが、女の子が惨殺されるシーンは確かに鬼気迫るものがあった。しかしながら、それがなけれぱ、タイトルにあるテーマは描けなかったはずである。
『夜と霧』はナチス・ドイツによるユダヤ人強制収容所を舞台とするドキュメンタリー。

1962(昭和37)年
1月
大蔵貢、大蔵映画を設立。のちにピンク映画の最大手となる。大蔵は最後の新東宝の社長だったが、資金難のため新東宝は昨年6月に制作を中止。《1》
新東宝は新東宝興業としてこちらもピンク映画の大手となる。《29》
3月
大蔵映画配給、協立映画、小林悟監督の『肉体の市場』(浅見比呂志、香取環)、成人映画指定を受けて公開され、二日目に警視庁から摘発される。これをピンク映画第一号と呼ぶ人が多い。《1》
再編集版が1963年に公開。《29》
(ピンク映画呼称については1963年夏を参照)
『肉体の市場』摘発の際、映倫への通達は無かった。《4》

11月
日本シネマ、本木荘二郎監督『肉体自由貿易』公開、これをピンク映画第一号と考える人もいる。《2》

1963(昭和38)年


3月
売春防止法の発効を前に、こういった映画への風当たりが強くなり、大映映画『芸者小夏』が、売春を肯定する聾唖者を侮辱すると国会の婦人議員からの抗議があり、一般映画から成人映画に変更された。例外的な事例だという。《12》

5月
映倫審査済みの独立系配給上映の『セクシールート63』が警視庁により摘発。この摘発も映倫通達は無きに等しかった。
が、問題視された作品は、映倫審査後に第三者によって露骨な改変か行われていたものだった。《4》

6月
サリドマイド禍を描写した和洋2つの映画、警察が介入し映倫は厚生省と協議しようとするが埒があかず、なぜか、制作と輸入サイドが問題箇所を削除することで問題は終る。《12》


関孝二監督、沼尻真奈子主演『情欲の洞窟』を取材した内外タイムスの村井実が、ピンク映画という呼称を考案。またエロダクション≠ネる造語は同紙のデスク藤原つとむによるものであった。《29》
これらは、ピンク映画≠ニいう言葉以前には、お色気映画∞エロ映画≠ネどと呼ばれ、作り手は当時市場が狭まりつつあった記録映画会社であった。ちなみに『情欲の洞窟』は女ターザン映画だったと伝えられているが、それは制作会社が動物を使った記録映画を多く作っていたことに起因する。実際は、犬、猿、雉を仲間にした女桃太郎♂f画だったという。《29》

関孝二は新興キネマの美術から助監督に転身、大映成立の後、華北電影公司に職を得る。戦後帰国し新興時代の制作部長だった今村貞雄とともに目黒区柿の木坂でラジオ映画撮影所(現・目黒スタジオ)を設立。ここで動物を使って記録映画を製作していた。今村は大蔵貢が経営していた教育文化映画を製作する富士映画にもかかわっており、関はそこでも撮っていた。《29》



松島利行の回想、新潟の場末の映画館で見た、内外フィルム、北里俊夫監督の女ターザン映画『野生のラーラ』。上映後に主演のニーナ・ウォーガンスカヤが舞台に全裸でただ単に左右に歩くだけのパフォーマンスがあり、歌うわけでもなく踊るわけでもないのだが、観客は大興奮《29》


11月
日活、今村昌平監督『にっぽん昆虫記』の左幸子による大胆な乳房露出シーンが話題になる。

この年のピンク映画の製作は24本。《4》

この年度の成人映画指定を受けた五社制作配給の日本映画は、大映、富本壮吉監督『温泉芸者』増村保造・吉村公三郎・衣笠邸貞之助監督によるオムニバス映画『嘘』、佐野芸術プロ・松竹『日本の夜──女・女・女物語』、松竹、小林正樹監督『黒い河』、にんじんくらぶ・松竹、篠田正浩監督『乾いた花』、東映、田坂具隆監督『五番町夕霧楼』、日活、今村昌平監督『にっぽん昆虫記』。《4》

1964(昭和39)年
6月公開
松竹配給。武智鉄二、『白日夢』映倫の審査の前から、権威への抵抗などと発言し結果的に審査を紛糾させる。審査終了後、作品(路加奈子、花川蝶十郎、石浜朗出演)は公開されとすぐに大ヒットするが、各所から映倫や配給会社へクレームが相次ぎ、また警視庁保安課から5ヶ所に対し削除という善処を求められる。このため、9月の再公開では該当の5ヶ所が削除されている。再上映を期に自民党成長文教調査会、同文京部会は二回にわたり映倫を呼びつけて厳しい懇談会を開く。第二回目の懇親会に呼ばれた警視庁防犯部の面々は、映倫が責められる様子を楽しんで傍観しているようだったが、警視庁サイドからの5ヶ所に対し削除という善処に承服という、映倫及び配給の松竹の立場が明らかになると、俄然、警視庁サイドヘの議員による攻撃が突如湧き上がる。結果的に警視庁サイドの面目は潰されたこととなり、その感情のしこりが後の『黒い雪』事件≠ヨ繋がると考えられる。《3》
また、『白日夢』事件∴ネ後、マスコミの猥雑報道を利用して、自作を宣伝しようとする独立プロ作品が頻出する。《3》

8月公開
松竹配給、武智鉄二監督『紅閨夢』。『白日夢』事件≠鑑み、映倫の審査折衝は配給元の松竹とだけ行い、審査結果を武智監督へ伝えることを松竹は承諾。削除された部分は空前絶後の長尺で映画の呈をなさないほどであったともいわれている。武智監督は松竹の処置に絶望し、次回作の配給を日活に変更。また、氏は映倫に削除等の処置に抵抗し、再審査を請求するものの、再審査は決定以前のトラブル回避の規定であったため、『紅閨夢』の場合は時既に遅かった。《3》
『紅閨夢』は映倫により約二割の内容が削除された。《4》


この年、東映セックス路線から小川真由美と緑魔子がスターダムに伸し上がる。作品は渡辺祐介監督『二匹の牝犬』『悪女』『牝』。《4》
小川は後にテレビ映画の女ねずみシリーズ≠ネどで、緑は伴侶・石橋蓮ニ司と共に主催する舞台の劇団第七病棟≠ナ活躍し、女優として名を残す。

7月
宝塚映画制作東宝配給、堀川通弘監督『悪の紋章』の映画館に貼られたスチル写真にある裸女の写真がわいせつだと、愛知県警が押収、配給の東宝本社を家宅捜索。《4》

東宝配給、近代映画協会・東京映画提携、新藤兼人監督『鬼婆』に音羽信子と吉村実子の全裸シーンが削除されずに公開。《4》
新藤兼人の作品は鬼気迫るものはいくらでもあるが、いずれも情欲を催すものではないので、この場合も映倫の審査を通過したのではなかろうか。

この年のピンク映画制作は69本。《4》

この頃、ピンク映画製作会社急増。製作本数が百本を超える。一般映画から転出する監督も相次ぐ 。また、初めてパートカラー作品が登場。《27》

日活映画、鈴木清順監督『花と怒濤』、久保菜穂子の背中一面に彫られた唐獅子牡丹があっという間だが登場(本人だか代役だか不明)。お約束とおり、臀部の大半は着物によって隠れている。

日活映画、鈴木清順監督『肉体の門』、野川由美子が演じる私刑シーンでは胸部が露出しているが、性的シーンでは胸部を隠すよう撮影されている。

この頃からキネマ旬報は好例のベストテン発表号に付された年別封切一覧表に、ピンク映画の項(実際は1965年から)が新設される。それまでは大手配給以外はその他≠ナ一括されていて、昨年の大蔵映画『明治大帝一代記』が9分通りのピンク映画と肩を並べているのは納得のいかない向きもあろうが、それ以外に、弱小プロの場合はスタッフ名も記されていないことが間々あり、記録映画も混在してリスト化されているようなので、後々の記録という意味では一考を要する分類だったようだ。
ちなみに1964年の封切評もその他の項に入れられているのだが、たまたまピンク映画以外の大手配給にたよらない一般映画がなかったため、この年からピンク映画の一覧表がつくられたことになる。

1965(昭和40)年
6月
日活配給。第三プロ、武智鉄二脚本監督の『黒い雪』が警視庁から「わいせつ図画陳列罪」容疑で告発される。裁判の結果1969年に控訴審判決で、一審判決を支持、検察側の控訴を棄却し無罪確定。《1》《4》
この判決の後、取締側は本作品を上映するなどという団体の強気な姿勢に苦慮し、映倫も、審査を強化することになる。《4》
告発された個人については玉虫色の無罪判決だったが、この『黒い雪』がわいせつであるとの内容の判決は、後の事例で何度も取り締まる側から発言されるようになる。

映倫では、審査に時間がかかる成人映画を志向した作品、つまりピンク映画等が年々増加し、審査が紛糾して映倫スタッフも多忙を極め病人も多出するようになる。また、こういった作品は作品の撮影時点では音声が作成されていない(アフレコ)ため、映倫の審査は二度三度と行われ時と労力を浪費した。また、映倫の経済的な危機や、独立プロを排除したい大手の意思も問題として浮き上がってきた。《3》

7月
若松プロ、若松孝二監督の『壁の中の秘事』、ベルリン映画祭に出品され、スキャンダルとして報道される。《1》
これは同作品を購入した西ドイツのバイヤーが勝手に出品したもので、これまでの日本映画が外国映画祭に出品する場合、日本映画製作者連盟の推薦を受けるという慣例を無視するものだった。《2》

10月
映倫はポスターやスチール写真の検印制度を徹底実施。これまでも五社作品のものはゲラ段階では一応チェックしてきたが、以後は五社で配給される独立プロ系作品の宣伝材料も審査するようになった。《4》
審査済の宣材にも映倫マークがつけられる。《12》
こういったポスター等の審査は、上映館で使用されるものだけであり、新聞雑誌に掲載される広告などは映倫とは無関係。だが、扇情的な作品のものについての非難は映倫に寄せられた。《12》

この年の五社系の成人映画は、東映、関川秀雄監督『ひも』村山新治監督『いろ』、日活、鈴木清順監督『春婦伝』井田探監督『処女喪失』、松竹、五所平之助監督『恐山の女』篠田正浩監督『美しさと悲しみと』、東宝、須川栄三監督『けものみち』など20本。《4》
この年のピンク映画制作は218本。《4》

昭和40年頃までは映画に女性の裸体が出てくれば、若しそれが全裸に近いものであれば成人映画と指定せざるを得なかった。《12》

この頃から
ピンク映画の配給チェーン網が形成され始める。年間製作本数も二百本を超える。《27》

1966(昭和43)年
9月
アメリカ映画のプロダクションコードが大改訂。それまで1930年代に制定されたものを使用。新しいコードは性描写に対する規制が大幅に緩和。《16》

1967(昭和42)年

この頃
性描写で女性の胸部露出が可なりとなる。《12》

7月
東映は、中島貞夫監督『大奥まるひ(○に秘)物語』公開。後の異常性愛路線や東映ポルノの先鞭となる。(○に秘)文字は、当時の東映社長岡田茂が発案。《4》

この年度のピンク映画は138本。映倫による審査が厳しくなったので、題名だけは扇情的になった。『好色妻』色罠『変体魔』『後家ごろし』『多情な乳液』『悶絶』など。《4》

この年
ピンク映画、初めてのオールカラー映画公開。《27》

1968(昭和43)年
この年、アメリカやヨーロッパからポルノ映画が続々上陸。その発端となったのは性科学映画と銘打った西ドイツの『女体の神秘』。《4》
2月
大映、新人女優(第18、9期生)を登用し高校生セックス・シリーズを展開する。水木正子、南美川洋子、矢代順子、津山由起子、渥美マリ、ら。作品は、弓削太郎監督『あるセックス・ドクターの記録』同監督『ある女子校医の記録・妊娠』なと゜。《4》

大映、1971年まで、高校生シリーズ£ハ算9作が公開。水木正子、矢代順子、渥美マリ、八並映子。関根恵子などが出演。《8》
この頃から東映は異常性愛路線に力を入れる。石井輝男監督の『徳川女刑罰史(9.28)』『残酷・異常・虐待物語/元禄女系図(69.1.9)』『異常性愛記録ハレンチ(69.2.21)』(後二者は翌年の作品)等。《1》

12月
総理府総務長官と青少年問題対策副本部長は、映画諸団体に対して、低俗映画と広告物に関する自粛要望書を送付。《4》


この頃
広島県あたりから、一時、成人映画のポスターは写真やイラストを使用せず、文字だけの文字ポスター℃g用が広がり、かなり広い地域までひろがった。かえって猥雑な印象となったとの回想も。《12》

1969(昭和44)年
5月
警視庁が各県警に「いかがわしい成人映画、有害広告物などの強化」を通告。映倫には非通知。《4》
4月
東映京都撮影所の助監督24人が「エログロ映画批判声明」を発表し、労組もそれを支持。紛糾の末に異常性欲路線は中止となる。《4》

8月
大映、渥美マリ主演の軟体動物シリーズ<qット。『いそぎんちゃく』『続・いそぎんちゃく』『でんきくらげ』『夜のいそぎんちゃく』『しびれくらげ』など。《4》

1970(昭和45)年
日活。〔ビデオは七〇年三月ごろ本社音響部にVTR室ができ、五月に鈴木が室長になる。当面有望な市場はやはりポルノであり、始めは他社製作の劇場用成人映画のビデオ化からはじめた。その限りではビデオの方が映画よりポルノ路線は早かった。そして当時この市場で最大のシェアを誇っていて東映ビデオに決戦を挑むべく採用したのがオリジナルポルノの製作であった。七一年三月から月二本、九月からは月四本をリリースした。〕《25》

〔ここで、いわゆるポルノビデオのそれまでの経過を簡単にふりかえっておこう。
その歴史はVTRの歴史とともに古いといっていいが、最初は劇場用成人映画のビデオ化から始まった。大蔵映画や新東宝作品などの権利を買い取り、30分に分割・編集した。この分野ではテイチク、日本ビデオシステムやアジアビジョンなどが早かったが、七一年ごろになると東映ビデオ、つづいて日活(洋画系ではジャパン・ビコッテ)の進出が目立った。〕《25》

4月
大阪フェスティバル・ホールで、日本初の国際映画祭が開催。スウェーデン映画『私は好奇心が強い女』が出品。検閲で紛糾したものの、翌年、苦肉の策の新しいボカシ方法を開発し、公に公開する。《4》

6月
ダイニチ映配スタート。日活は当初松竹に共同配給を打診したが、その頃、松竹の城戸四郎の外遊のため、連絡が付かず、大映との共同配給会社設立となったという。《23》

大映、資産を小佐野堅治らに売却。《23》


大映はレモンセックス路線≠スタート。関根慶子の『高校生ブルース』、その流れの松坂慶子による『夜の診察室』など。《4》


警視庁は民間から学識経験者を数名選任して「性風俗問題懇談会」を設置。

9月
警視庁防犯部は映倫と懇談会を開き、ピンク映画12作品の猥褻性について牽制。指摘された作品は「女体なで切り」「性教育裏口入門」「畜生道」「女学生極秘日記」「青い暴行」「初夜権」「娘の性道徳」「壷あらそい」「連れ込み天国」「処女乗っ取り」「激情の宿」「セックス開放地帯」。作品名は某新聞記者の調査により、映倫の阪田英一に連絡されたもの。《3》
警視庁から摘発はされなかったものの、追々、映倫の審査基準は厳しくなり、ピンク映画業界は大打撃を被る。《5》


〔また、初期の成人ビデオが、劇場用映画のビデオ化に際して「映倫マーク」をそのまま残し、はなはだしい場合には三十分に分割した複数のテープに「映倫マーク」(番号)を重用するなどのことがあったため、映倫は七〇年十月一日付けで、「当方の審査対象は『興行場で公開される映画』であり」「公開方式が普通上映と異なる場合は、映倫審査マーク、番号は無効である」として、「映倫マーク」の抹消を求めたいきさつがあり、側面的協力はしても、ビデオの自主規制機関とは一線を画す姿勢をくずさなかった。〕《25》

この頃
ピンク映画上映専門館で実演≠ネるアトラクションが上演される。この実演≠ニはベッドと簡単な背景だけの舞台上、男女2人が、ベッドシーンを演じるというもの。アドリブを交えたストーリーがあるものの、男女の全裸シーンはない。《11》

1971(昭和46)年

1月
加盟30社で日本ビデオ協会が設立。加盟の各社は放送系、映画系、レコード系、出版系に大別できる。《25》


7月
東映、鈴木則文監督『温泉みみず芸者』公開。池玲子と杉本美樹のドル箱スター誕生。《5》
この作品で初めて東映ポルノ≠名乗る。2人の女優は初の国産ポルノ女優ということになる。《9》

7月
大阪府警はヨーロッパ製ポルノ映画のスチル写真に猥褻として府下の二つの映画館に警告。そこからスチル写真を任意提出させる。
《4》

〔夏ごろ、東映ビデオのポルノが横浜の戸部警察に挙げられていたのだ。
挙げられたのは長尺のビデオではなく、8ミリ(フィルム)だった。その頃8ミリで「のぞき」式の機械があり、呑み屋などに売られていた。十円で一分程度のサイレントの画を見せるのだが、その機械に東映ビデオが提供したソフトが、「ストップするとヘアが見える」という客の訴えで挙げられてしまった。〕《25》

10月
警視庁は東映、大蔵などピンク五社を猥褻図画販売幇助容疑で家宅捜索。これはさきに猥褻図画販売の疑いで摘発した雑誌『映画エロチカ封切館・PINKY』が映倫審査で劇場宣伝を忌避されたスチール写真が掲載されていたからだという。《4》

11月
日活、ロマンポルノ路線に移行、1988年まで続ける。《1》
女優陣はピンク映画から引き抜いたり、日活の大部屋や、新劇からの採用。《29》
ロマンポルノの制作費は7〜800万円程度。ちなみにそれまでの日活一般作は他の大手に比べて低かったとはいえ3.000万、ピンク映画が2〜300万だったという。《4》
日活ロマンポルノ団地妻シリーズヒット。《8》
団地妻とタイトルにある作品は30近くまで及んだ。

11月
大映、制作中止、翌月倒産。同社は倒産を前に、制作費の安いエログロ映画≠量産。《4》
太田昭和監督『秘録長崎おんな牢(5.26)』、田中重雄監督『悪名尼(11.20)』、太田昭和監督『蜘蛛の湯女(11.20)』など。《10》
前年に公開された、国原俊明監督『女牢秘図』の禁止されたスチル写真には、乳首は隠していながら陰毛まで写っている。《4》
が、成人映画に造詣が深い、元スポーツ紙の記者である村井實によると、ピンク映画の撮影では陰毛がスタッフや記者に見られるかどうかなどと、かまってはいられないほどの流れ作業的なスケジュール。氏は、何度も女優の陰毛を目撃している。《14》

12月
大映、破産宣告。《23》


この年
パゾリーニ監督『アポロンの地獄』、実相寺昭雄監督『無常』に描かれた近親相姦=A翌年の夫婦交換≠扱った作品の倫理面≠ヘ議論されることはすくなく、世間の話題は裸体≠ノ終始する。《12》


この年
日本ビデオ倫理協会(ビデ倫)発足。大手映画会社が中心となり「表現の自由を確保しつつ、成人ビデオの倫理的基準を堅持することにより当局との摩擦を避け、安定的な業務の継続を図るため、業者の自主規制による審査機関としてスタート(ビデオ倫理事務報告書)」する。《17》

本年度の映倫審査作品は邦洋あわせて533本、内成人映画は278本。《4》

この年の輸入ポルノ作品は43本に増加。映倫の審査スタッフはなおも疲弊する。《4》

1972(昭和47)年
1月19日
日活、モテルや喫茶店向けに制作販売したカラービデオ『ポルノ・コンサルタント』『ワイルド・パーティー』『火曜日の狂楽・赤坂の女』『ブルーマンション』の4本が猥褻図画販売罪に問われた。映画館とは違い年齢制限のできない場でのこれらの上映はよろしくないとのこと。1975年11月に東京地裁で無罪。検察側の控訴により1978年に罰金20万円の逆転有罪判決。《4》

1月
日活ロマンポルノ作品、山口清一郎監督『恋の狩人』藤井克彦監督『OL日記・牝猫の匂い』、日活買い上げのプリマ企画制作、渡辺輝雄監督『女高生芸者』が警視庁に「わいせつ物」として押収される。《1》《4》
堀久作社長時代の組合委員長でロマンポルノ発足に大きく関わり、後に社長まで上りつめた根本悌二は共産党系の人物で、この摘発が、〔国家公安委員長の藤井丙午が堀雅彦(久作の息子で久作の次の社長)の義父であることと無縁ではないと信じていたフシがある。〕《29》
映倫この処置に対し猛反発。《4》


日活買い上げになる併映ピンク映画は、一般のピンク映画よりは予算が多かった。《27》

2月29日
〔「成人ビデオ倫理自主規制懇談会」が発足。日活と東映ビデオ、それに洋画のポルノビデオを出していたジャパン・ビコッテの三社が集まって「懇談会」を結成になった。(「懇談会」は七三年五月「成人ビデオ倫理審議会」に、七七年六月には「日本ビデオ倫理協会」と名称を改めて、内容も次第に充実した)〕。《25》


4月、警視庁は公開中の日活ロマンポルノ、近藤幸彦監督『愛のぬくもり』を猥褻図画に該当するとして、日活本社などを家宅捜索。《4》

5月
1月の事件の取調べが終了、日活社長ら137人が書類送検。9月、監督や映倫の審査員が起訴。《4》

5月
映倫、相次ぐ日活ロマンポルノ摘発を受け、性及び風俗の<これまで以上の厳しい新基準を定める。

5月
東宝、熊井啓監督『忍ぶ川』公開。栗原小巻の全裸シーンが話題に。

11月
日活ロマンポルノ、曽根中生監督『色情姉妹』が、警視庁と映倫の要請によってわずか3日で上映打ち切り。《4》

この年から
成人雑誌に造詣が深い、元内外タイムスの記者・村井實により9年間にわたり『成人映画』を発行。《14》

1973(昭和48)年
2月
警視庁、墨田区の映画館に陳列中のスチル写真を摘発。この事件をきっかけにポルノ映画のポスターやスチル写真に対する映倫の審査が一段と厳しくなる。《4》

2月
東宝、中平康監督『混血児リカ・ひとりゆくさすらい旅』が、地方自治体から成人指定を受けたことから、映倫の再審査へ。地方自治体からの突き上げから映倫の再審査ケースは初めて。《4》

4月
松竹、山根成之監督『同棲時代・今日子と次郎』公開。由美かおるの全裸シーンが話題になる。《4》

5月
警視庁、日活ロマンポルノ6作品にわいせつだと警告。日活側応諾し改訂。《4》

5月29日
警視庁、日活ロマンポルノ3作品にわいせつだと警告、映倫再審査。《4》

6月
当月13日から上映予定だった日活ロマンポルノ、田中登監督『女教師・私生活』自主的公開延期。《4》

6月
仏伊合作、ベルナルト・ベルトリッチ監督『ラストタンゴ・イン・パリ』公開。芸術かポルノかと、大いに話題になるが、さほどヒットせず。《4》

10月
東宝、熊井啓監督『朝やけの詩』公開。関根恵子の全裸シーンが話題になる。《4》

12月、日活ロマンポルノ、神代辰巳監督『四畳半襖の下張り』公開。原作が前年に雑誌掲載、猥褻文書販売罪で摘発され係争中だったため話題をよぶ。《4》

この年
ピンク映画、すべてオールカラー化。《27》

1974(昭和49)年
7月
日活ロマンポルノ、秘本シリーズ♀J始。西村昭五郎監督『秘本・乱れ雲』、加藤彰監督『秘本・袖と袖』、西村昭五郎監督『秘本・むき玉子』など。《4》

12月
仏映画『エマニエル夫人』、女性客を集め大ヒット。《4》

1975(昭和50)年
7月
日活ロマンポルノ、加藤彰監督『東京エマニエル夫人』公開。前年の洋画模倣作品。こういったヒット作等のタイトルを摸倣した作品に藤井克彦監督(1977.8.20)『東京チャタレー夫人』、小原宏裕監督(1981.3.6)『東京カリギュラ夫人』がある。

8月
米ハードコアポルノのソフト版『ディープ・スロート』日本公開。ソフト版とはハード・コア未解禁国に向けて再編集された穏やかな性描写が描かれた版だが、それでも削除部分が多く、辻褄が合わなくなり、日本人監督向井寛が追加撮影し「完成」。《4》

12月
東映セントラル、向井寛監督『東京ディープスロート夫人』公開。この頃の東映ポルノは東映ニューポルノ∞ラブ・ポルノ≠ニ称していた。日活が『エマニエル夫人』の亜流『東京エマニエル夫人(7.01)』を制作したことをヒントにして制作。《26》

1976(昭和51)年
4月
ソニー、ベータ方式の1/2インチカセットVTR発売。1/2インチカセットVTRの先鞭は東芝、三洋による前年9月発売のVコード方式。VHSの発売は同年10月で、松下がVHS表明をするのが翌年1月(発売は6月)。《25》


10月
日仏合作、大島渚監督、阿部定事件≠ノ取材したハードコア作品『愛のコリーダ』公開。日本の現像所ではハードコア作品の現像が禁止されているのでフランスで現像が行われた。《1》

1977(昭和52)年
4月
シナリオ写真集『愛のコリーダ』が「わいせつ物」として、発売元の三一書房社長竹村一と、著者大島渚が起訴される。が、1979年に無罪判決。《1》

1978(昭和53)年
3月
日活、警視庁の注意で一部の作品をカットあるいは上映中止する。《1》

日仏合作、大島渚監督『愛の亡霊』がカンヌ映画祭で監督賞受賞。同作品の日本公開は10月。《1》

1979(昭和54)年
日活、この頃から賞シーズンに、話題作の再試写≠行い、普段ロマンポルノを観ない評論家の需要に応え、自社作品の普及につとめる。《29》

1980(昭和55)年
7月
日活ロマンポルノ裁判。8年の係争の末、東京高裁で一審支持され全員に無罪判決。翌月、検察は控訴の理由が見つからないと、控訴断念し、被告9人の無罪が確定。《4》

11月
超大型ポルノ『カリギュラ』日本公開。東京現像所はコンピューター処理が可能の工学処理機で問題箇所をぼかす。《4》

1981(昭和56)年
5月
販売目的としてのオリジナルポルノビデオが誕生。後のアダルトビデオのはしりである。第一号作品は日本ビデオ映像の『ビニ本の女/秘奥覗き』『OLワカメ白書/熟した秘園』(TJムック「アダルトビデオ全作品録・スピードブックス022」宝島社による)。《Web情報

1984(昭和59)年
この頃
アダルトビデオ業界は大手五社の作品が主に消費されていた。宇宙企画、VIP、KUKI、芳友舎、ジャパンホームビデオを五社といい、その多くがビニール本や自販機販売の成人雑誌の制作販売会社から転身したもの。《13》
ビニ本時代のKUKI、当時は九鬼だったというが、そこからカセットテープ付のビニールで覆われたポルノグニフィーが発売されていたと記憶する人もいる。
VIPの旧社名は群雄社《17》

1983(昭和58)年
この年
にっかつがロマンポルノ併映用ピンク映画の買い取りを中止。《27》

1984(昭和59)年
この年
にっかつが1000万の低予算ロマンポルノの製作を開始。ピンク映画の監督が起用される 《27》

1985(昭和60)年
2月
新風俗営業法施行。取締り強化でピンク映画など打撃を受ける。《4》

にっかつロマンポルノの場合、5月の配収が前年比36パーセントの落ち込む。《4》

・成人映画の題名に、
 未成年者(例えば女高生、セーラー服等)、聖職者(例えば女教師等)は使用しない。
 みだらな字句、動詞は使用しない。
・性表現に暴力表現を加重するものは使用しない。
 場外に掲示するポスター、スチール写真に、
 女性の全裸、女性の乳房、下着姿でも腰部、両体のからみは使用しない。
・捨て看板は一切使用不可。等。《4》

6月
東京国際映画祭で、性行為以外の描写で初めて陰毛の映る映像が上映される。陰毛のみにこだわる傾向は先進国にはなく、強制的にぼかしをいれた場合、制作サイトに対して礼を失するだけでなく、作品引き上げも考えられ、映画祭自体が成立しなくなる場合も考えられたための一時的措置であった。あくまでも特例という措置で、これらのフィルムはこの映画祭以外では上映されなかった。《1》
英映画、マイケル・ラッドフォード監督『1984年』(この作品がヘア映画第一号といわれている)など。《4》

7月、6月の映画祭出品作品、ニール・ジョーダン監督『狼の血族』が一般公開。特撮合成シーンで2秒程度下半身のヘアが見えるという。《4》

10月
永田雅一没。

この頃
アダルトビデオは、アダルトビデオ専門の問屋を通じて、レンタル・ビデオ店に納入されるのが通常だった。そのビデオメーカーが問屋に卸す金額は定価の40から50パーセントである。《13》

1986(昭和61)年
6月
アダルトビデオの監督村西とおる、職業安定法違反容疑で警視庁保安一課と昭島署により逮捕。
容疑が立証できないまま、拘留期限か切れた村西監督、昭島署を一歩出た途端、児童福祉容疑違反で再逮捕。《13》

7月
にっかつ、ロマンX路線(ハードコア撮影したものに修正を加えた作品)の、瀬川栄一監督『ザ・破廉恥』の原版が流出。裏ビデオとして出回り、その販売業者が警視庁保安一課に逮捕される。映倫は協議の結果、性行為のみに焦点を当てた作品は今後審査をしないと、邦画7社に通達。この結果、ロマンX路線はあっけなく終焉。《4》

12月
アダルトビデオの監督村西とおる、ハワイで旅券法違反で逮捕。半年後に司法取引によって釈放。もろもろの経費を含めて1億円がかかったという。《13》

この年
東映セントラルがピンク映画から撤退。《27》

1987(昭和62)年
2月
先年、クリスタル映像制作のアダルトビデオ、村西とおる監督『SMぽいの好き』に出演した、横浜国大生の黒木かおるのに文化人が注目し、「平凡パンチ」「週刊ポスト」誌に対談スペースのメインとして登場。ゲストを向かえるホステスだったという。《13》

1988(昭和63)年
4月
にっかつ(1978年9月に日活から改名)ロマンポルノ路線中止。《1》

4月
村西とおる監督、児童福祉法違反容疑で、警視庁少年二課により逮捕。《13》

1991(平成3)年
1月
朝日出版社、樋口可南子の、一般的には日本初と称されたヘアヌード写真集『Water fruit』刊行。警視庁は摘発せず。《4》

1992(平成4)年
5月
前年の第四回東京国際映画祭で、映画祭内部と限る条件付きでノー・カット上映された、フランス映画の『美しき諍い女』が一般公開されることになり、輸入会社は性毛の写っている場面を全部ぼかしたらこの作品の芸術性は台なしになると主張。映倫もこれを認め、大幅にぼかしなしの公開が行われる。映倫は「性器、恥毛は描写しない」という規定に、「原則として」という言葉をつけることにする。《1》
実質的なヘア解禁映画。《4》

ピンク映画業界は、映倫の審査に対し厳正化を要望する向きもあった。ピンク映画は成人映画に指定されて初めて扇情的な内容だと受け止められる。そうでないと、観客を呼べないからとの理由による。《4》

2004(平成16年)

この年公開された映倫の公式 Webページより。
 現在の審査の実務は、委員長を含む 5 名の管理委員のもとに、映画界の各分野からの出身者 8 名の審査員によって、年間約600 本の長篇映画をはじめとする劇場用映画・予告篇・ポスターなどの審査を行っております。そして 、その運営の費用のすべては、これらの映画の審査料によってまかなわれており、外部からの補助は一切うけておりません。
 わが国における映画館での上映は、全国興行生活衛生同業組合連合会(全興連)との申し合わせにより、映倫の審査を終了したものでなければ上映しないことになっております。
 したがって、映倫の審査を経なければ、映画館での上映は事実上できないことになりますので、作品の審査に当たっては常に謙虚な態度でのぞみ、表現の自由を最大限に尊重しつつ、映画が健全な娯楽として大衆に親しまれ、社会の倫理水準を低下させることのないよう、十分な配慮を行っております。また、表現の自由の保障のため、審査結果に異義のある場合、管理委員による再審査委員会を設置して再審査を行なう制度も実施しています。
 特に青少年に対しては、映画の与える影響を重視して、作品を主題・題材とその表現の仕方に応じ、年齢別に 4 段階に区分し、作品によっては青少年の劇場への入場を制限したり、保護者の同伴をうながすなどの措置を講じております。また、映倫管理委員長の諮問機関である「青少年映画審議会」は、青少年や家族向きの優れた作品を選んで、これを積極的に推薦する一方、映画と青少年に関する諸問題について管理委員長の諮問に応え、必要な助言をあたえる役目を負っています。

2005(平成17年)年
10月
日活ロマンポルノ、初販売DVD化。



《1》『日本映画史4』(佐藤忠男)1995.9.27岩波書店
《2》『日本映画史・世界の映画作家31』S51.7.1(S57.4刷)キネマ旬報社
《3》『わが映倫時代』(阪田英一)S52.9.1共立通信社
《4》『切られた猥褻 映倫カット史』(桑原稲敏)1993.11.13読売新聞社
《5》『日本映画発達史T〜X』(田中純一郎)S50.12.10〜51.7.10中公文庫
《6》『悔いなきわが映画人生』(岡田茂)2001.6.30財界研究所
《7》『ひげとちょんまげ』(稲垣浩)S41.8.5毎日新聞社
《8》『日本映画作品全集』キネマ旬報増刊S48.11.20キネマ旬報社
《9》『映画秘宝・悪趣味邦画劇場』1995.7.15洋泉社
《10》『ガメラ画報』1996.7.19竹書房
《11》『ベッド・シーン楽しからず』(阪田英一)S47.1.25私家版
《12》『栄冠なし涙あり』(阪田英一)S49.1.1私家版
《13》『アダルトビデオ 村西とおるとその時代』(本橋信宏)1998.3.14飛鳥新社
《14》『エロティシズムグラフティ ポルノEIGA学入門』(村井實)S56.11.25実業之日本社
《15》『天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲』(平野共余子)1998.1.20草思社
《16》『キネマ旬報増刊 世界映画事件人物事典』昭和45.6.6キネマ旬報社
《17》『別冊宝島174 威風堂々! ワイセツ大行進』1993.4.8JICC
《18》『キネマ旬報増刊 日本映画前後18年総目録』昭和38.10.5キネマ旬報社
《19》『わが恋と金』(大蔵貢)昭和34.10.10東京書房
《20》『幻のブルー・フィルム 満州映画協会秘史〔創作〕』(宮城賢秀)1994.6.15創現社出版
《21》『日本映画検閲史』(牧野守)2003.3.20パンドラ/現代書館発売
《22》『新興キネマ 戦前娯楽映画の王国』(佐藤忠男、登川直樹、丸尾貞=編)1993.3.30山路史子文化財団/フイルムアート社
《23》『ラッパと呼ばれた男 映画プロデューサー永田雅一』(鈴木晰也)1990.8.8キネマ旬報社
《24》『活動狂日記 私の映画史昭和6年〜22年』(児玉数夫)1988.1.14勁草書房
《25》『検証ビデオソフト史』Web版。http://www.jva-net.or.jp/jva/history/index.html
《26》『偏愛キネマ館』。http://www12.ocn.ne.jp/~nacky/henai.html
《27》『ピンクリボン』http://www.uplink.co.jp/pinkribbon/bangai.html#1
《28》『千恵蔵一代』(田山力哉)1987.4.30(1987.6.30 3刷)社会思想社

《29》『日活ロマンポルノ全史 名作・名優・名監督たち』(松島利行)2000.12.20講談社

《29》から第二稿


阪田英一による資料は年ではなく、年度£P位で書かれていることが多いので注意が必要。
氏が関わった裏話は貴重な記録ではあるものの、自費出版のためか、誤記誤植が少なくなく、数字年度の間違いは要再検討。

〔〕内は直接の引用。

各良識£c体による各メディアへ向けた抗議は多々あるようだが、現実に刑事事件として当局が動いたもの以外は採用しなかった。



○資料館本館 〇資料館別館