続源内幻影
北斎外伝・北曜(ほくよう)と北嶺(ほくれい)


プロローグ

ある朝、老人葛飾北斎の住む貧乏長屋のある風景


「せんせーっ 北斎せんせーっ」

「大きな声で、誰かと思ったら重三郎じゃないか。どうしたんだい」

「北斎先生 おはようございます。実は竹陽斎先生より皆伝のお許しをいただき さっそく三日三晩寝ずにこしらえ私の銘で根付ほりをし、先生に見ていただこうと、こうして跳んでまいりました。」

「どれどれ ほーっいい塩梅に出来たじゃないか。ところで北曜はどうしている」

「本間殿は、おれには根付彫りは向かないなどと申して、近頃では竹陽斎先生のところにも顔を御だしにならない、そのくせ拙者は北斎と竹陽斎の門人だ、などといって女人の尻ばかりおっかけております。」

「がはははははっ・・・北曜らしい。」


葛飾北斎1760-1849(宝暦10-嘉永2)

飯島虚心著「葛飾北斎伝」より


1997年世界の歴史上の重要人物100人をアメリカの写真誌「ライフ」が選び特集したさい彼のみが唯一日本人で取り上げられました。


どんな人物であったのか、門人であり友人であった小布施の高井鴻山が半年あまり滞在し北斎が小布施を去った時こう詩をよんでいます。
「来るときも招きによらず去るときも別れを告げない。
行くも来るも自分の意思のままで他人の拘束をうけることはない。
自在の変化を手中にし、心の欲するところに生者死者が出現し鳥獣もむらがる。
画道はすでにぬきんでて富貴も座してまつことができるが七度は上に浮かび、
また、八度は下にしずむ。
なぜ窮乏の身となるのか。
あなたは見るであろう、冷たい冬を迎える者は、またよく盛りの夏をむかえる者であることを。
冷冬も盛夏もみずからえらんで世間にかかわらない。
先生の心のおおらかさはまことに計り知れず、
人の熱意によらずわれのためだけにわれのことをする。
おちついた顔が笑いをふくんでいる観音の面 
風にさかまく波濤は岩に砕けて魚や龍が舞っている。
筆力は年が老いるにしたがってますますつよく巨大な障壁画にも気がみなぎりみなぎった気は雲霞をつらぬく。
紙本絹本の絵の需要の多さもいとうことがない。
ただ一幅の唐代太宗の故事の絵が絵具のまだ乾かぬままにのこされている。」
諏訪春雄著「北斎の謎を解く」より


飯島虚心の「葛飾北斎伝」の出だしは「画工北斎は奇人なり。年九十にして居を移すこと九十三所。酒を飲まず、煙茶を喫せず。其の技大いに売れるも 赤貧洗うがごとく・・・・」とあり

はじきれんばかりの才気をまっとうしながらも常に貧乏なのは、おそらく金銭感覚がまったくなかったのか、映画「北斎漫画」でも大きなはりぼての唐辛子を背負って、娘(田中裕子)と「とんとんとんとんとうがらしーっ」と緒形拳演ずる北斎が町じゅう大声をあげて売り歩いてましたが、実際とうがらしの売り子をしていたようで金を無心する北斎に友人の曲亭馬琴(西田敏行)が困っていました。

北斎が最初に蘭学とかかわったと考えられるのは、幼少の頃、貸し本屋のつかいっぱしりをしていたと考えられる5歳から10歳ごろの好奇心旺盛な時期、日本橋の近辺を走り回っていたと思われ、毎年日本橋石町の長崎屋には紅毛人ご一行が20日から一月滞在していました。

実は北斎はこの長崎屋の絵を描いてまして、この長崎屋を描くことは恐らくご法度(註)であったのか、何故か長崎屋に関しては江戸時代この絵のみが残されています。

「絵本東都遊」北斎

五人ほどの紅毛人が室内にあり、子供が肩車されのぞいています。1802年に出版されいているもので、北斎はこの時42歳自分自身を子供に投影していたのかもしれません。この長崎屋における紅毛人すなわち長崎オランダ商館長カピタン(ポルトガル語Capitao長崎出島の商館長の呼称)ご一行の将軍家ご挨拶は毎年3月から4月の春頃に寛永年間(1624-1644)から寛政3年(1801)まで行なわれその後は5年に一度となりました。

平賀源内が1761年、北斎が深川あたりで産声を上げた次の年、この石町三丁目の長崎屋に森島中良(二世風来山人1754-1809)の父桂川甫三(1728-1783)に頼んで連れて行ってもらい1765年からは毎年(ちょうど北斎が貸本の小僧をして日本橋あたりを駆け回っていた頃)オランダ人がくると頻繁にここに来ていたようで、有名な逸話、知恵の輪をかんたんに解いてオランダ人を驚かせたり、また西洋の知識をいち早く得ようと熱心に通っていたようです。、

もしかしたら北斎もこんな感じで窓からのぞき、有名な平賀源内を羨望の眼差しで見ていたのか、大人たちの
「源内さんがまた来ているぜ。」
なんて言葉をのぞかないまでにしてもこの日本橋界隈で貸本の小僧をしていたのなら必ず聞いていたと思われます。


(註)・・・ご法度というかタブーではなかったのか、
オランダ人はプロテスタントであり十字架などの装飾の服装を着ていたと思われ、
幕府の上層部はカトリックとプロテスタントの区別はしっかりとついていたが庶民らはこれらの区別はつかず、
またこの頃の庶民のほとんどが上方文化圏(九州から伊勢)出身者であり17世紀に行なわれた京都(1619)、長崎(1622、1628)のかくれキリシタンの火あぶり処刑を父母等から伝え聞き異人と関わるととんでもない事があるのではないかと潜在的にあったはずで、
これらを描くことは禁止はされてはいないと思われ書く事をほとんどの絵師がしないし、
また頼まれることも無かったと考えられます。

浮世絵師でこの長崎屋の紅毛人を書いた北斎は江戸市民にとって稀有の存在であった証明かも。

また、根付で多い18世紀紅毛人根付にかんしては、ほとんどが無銘です。
これらは長崎みやげであったものでは、とゆう推理がありますが、芸術性の高い紅毛人根付は、
上方の根付師による18世紀後半のものでおそらく吉村周山の彫った道教系の立ち根付の流行を受けて名のある工房(友忠クラス)で作られたものであり、銘がないのは、周山根付の流れかとも考えられるが、おそらく京都市民が17世紀のキリシタン火あぶり刑を目のあたりにしていたことからも、依頼主または根付師の暗黙の了解で無銘であったのかいずれにしろ憶測の域をでません、
紅毛人意匠の京都正直の銘がまるで16,7世紀に彫られた南蛮人の印のようになぜか足の裏にあるのですが、
このようなタブーを犯す正直も北斎同様、奇人て゛あった証明かもしれません。

根付研究会発行の「根付 江戸細密工芸の華」の渡辺正憲著「江戸の根付師」の項、如文銘の紅毛人根付が紹介されてます。
文中からマイナーッハーゲンは如文を龍珪の兄弟弟子としているところからも、龍珪(根付の研究では、天保1830-1844以降慶応1868-1868の頃の人とあり)が舟月三代の項で三代目舟月(1826ー1899)と同世代と考えれば、如文も同世代と思われ、京都正直の紅毛人の銘の位置が足の裏にこそっとあり、如文のものはおしりのあたりにあります、時代は舟月の年齢から19世紀の後半頃幕末に作られた根付ではないかと推測でき、庶民らも紅毛人がキリシタンではないと認識していた証拠ともいえます。
ここから推理すれば、舟民の達磨根付、玉珪(おそらく龍珪の兄弟弟子あるいは弟子)のたまじじ根付は幕末、明治の品がほとんどで上田令吉氏の舟民及び玉珪は寛政(1789-1801)の人ではなく嘉永(1848-1854)・安政(1854-1860)以降の人で長寿であれば明治まで現役であったはずです(大正時代まで現役ではないかと考えても無理はない・幕末期活躍した公家出身の政治家西園寺公望゛1849-1940゛は、昭和15年まで生きて政界に影響力をもっていました。)
そう考えれはたくさん現在でも残っていることもうなずけます。


馬尽くし・駒菖蒲 不染居為一(葛飾北斎)文化5年(1808)

冬樹社「浮世絵と喫煙具選」より

飯島虚心著「葛飾北斎伝」の中に北斎とオランダ人のエピソードがあり、カピタン某(長崎出島のオランダ商館キ)に絵を以来され、求めに応じ絵を収めたとあり、仕事の打ち合わせ等、納品も含め何度も長崎屋に通ったと思われます。

このカピタンはあの有名なドイツ人でありながら日本を探るためなのかドイツ政府がオランダにかけあい、オランダ人になりすまし日本にきた医師フィリップ・フランツ・シーボルト(1796-1866)です。時期は文政9年(1826)でした。

シーボルトが1832年より51年まで合計22冊刊行した著書「日本」の中には「北斎漫画」からの図柄の転載が見られ、ヨーロッパ印象派が最初に「北斎漫画」を見たのが1850年代といわれていますが、それより20年も早くヨーロッパの限られた人々の眼にはふれていたようです。

シーボルトがなぜ北斎に頼んだのか、北斎と蘭学者が深く交流していたと考えられます。


やはり北斎といえば根付に多大な影響を与えたと考えられる「北斎漫画」をぬきにしては語れません。
「根付の研究」にも参考文献の中日本語の書では一番最後に記され、
また北斎の弟子葛飾為斎の「花鳥山水図式」「萬物図解」これも弟子の葛飾載斗の「萬職図考」も記され、
本文には「葛飾北斎が北斎漫画其の他の絵本を公にするに及び、
之が大いに根付製作に利用さるるに至ったのである。」とあり葛飾一門と根付の関係を示唆されてもいます。


飯島虚心著「葛飾北斎伝」の上巻に「浪花に、懐玉斎といへる彫刻の名手ありしが、此の人、北斎翁が大阪に来たりし時、面会せしといふ」とあり
懐玉斎正次が大阪に北斎が訪れ滞在したさい面会したと伝えているのですが、
「葛飾北斎伝」が刊行されたのは明治26年、懐玉斎正次が歿したのは、明治25年です。
これは虚心が直接懐玉斎に聞いたのではなくおそらく北斎の門人筋から伝え聞いたと思われますが、これに関しては北斎が大阪に滞在した年が文化15年(1818)が判明していて、
この年懐玉斎は数え五つとなり、話としては信憑性に乏しく、
これは後日作られた逸話かあるいは、
有名な富嶽三十六景を描く15年前のこの時期北斎は載一と号し工人用に絵手本と呼ばれる「北斎漫画」(1814初編刊行北斎死後も弟子等により明治まで15編刊行)をはじめ「略図早指南」(1814)「三体画譜」(1816)「画本早引」(1817)「北斎画鏡」(1818)「北斎画式」(1819)を精力的に執筆その天才的なデッサン力はヨーロッパ印象派にまで影響をあたえるのですが、絵手本中心の怪物的仕事量からも全国の職人、工人に多大な影響を与えたのはまちがいなく、このとき初めて北斎によって命名された漫画と言う言葉はいまは、世界レベルの日本の文化になっています。
大阪に滞在したさい当時の懐玉クラスの根付師が北斎を訪ねたことは事実としてあったのか、それがいつのまにか入れ替わり逸話として伝わるうちにわかりやすく一番有名な懐玉斎となってしまったのかもしれません。

饅頭根付あるいは鏡蓋をはじめとする饅頭型根付というものの台頭とこの北斎のえがいた「北斎漫画」をはじめとした絵手本類の大流行はかなりの因果関係があると思われ、現存する図録、博物館等の煙草の提げ物、あるいは印籠にある根付が饅頭根付及び鏡蓋根付が非常に多いのは、この19世紀前期の「北斎漫画」の流行を受け「北斎漫画」のような絵手本を他の絵師らも描き出し(註)、いろいろな工人が挽物師に根付の型を轆轤で作ってもらい内職がわりに根付製作に参入したことと、注文主と根付師の意思疎通がこれら絵手本をカタログがわりに使用したことと轆轤による大量生産の実現により工程の省略化ができたはずです、
このような要因から「北斎漫画」の刊行を境に根付の主流が饅頭型にうってかわったのではないかと考えられ、
19世紀前期を饅頭型根付の台頭と重ねれば、初期の作家のほとんどが、形彫り根付しか彫っていないと言う事実又後期の作家である懐玉や光廣や法実の饅頭根付の製作が客からの受注と考えたら、巷の風潮(流行)をうけたオーダー(有名作家による饅頭型の需要がその後増加)ととれ、この19世紀前期にひとつの根付の分岐現象が行なわれ、
現代の車にたとえれば高級車(セルシオクラス・ベンツ)に相当する愛玩用あるいはお守り代わりの高級形彫り根付と一般大衆車的実用本位の安価な饅頭型根付(大衆車)と二分化されたのではないのかと考えます。


(註)・・・1814年名古屋で刊行された「北斎漫画」はものすごいヒットですぐに贋作本(似せて作られた本)がだされ、それらも現存しているようです。

北斎漫画から写した図柄の鏡蓋根付

江戸東京博物館「葛飾北斎展」より


また巣鴨に住した竹陽斎友親の項「根付の研究」には「彼は多く北斎漫画風の根付をつくり・・・・」とあります。友親は象牙による形彫りの根付が多いことから高級な根付専門の工房としてステイタス高い根付彫りとしての地位を確立し兄親正が源内の門人ということからも、源内派の流れをくんでいたのか北斎とは交流があったと思われます。

二股大根と大黒図 葛飾北斎筆

江戸東京博物館「葛飾北斎展」より

  友親が彫ったかどうかは確認していませんが、根付の意匠によく見られます、春画あるいは子孫繁栄の意味合いのある図です。北斎をはじめ葛飾派の絵師が好んで描きました。

「・・・しかし大黒が二股大根を背負うといった構図は、北斎とその傘下の絵師たちに極めて多く遺例がみられるが、他の画派の絵師にはあまり作品のないものである。」永田生慈著「葛飾北斎論集」より

追記・・・この大根に大黒の意匠は、江戸の根付師山口友親一門に好まれた意匠だったようです。2004/11/2


友親と北斎の関係については、根付の意匠に友親が北斎漫画をよく取り入れたということと、もう一つこんな人物が実在していました。

本間北曜

文政5年(1822)-慶応4年(1868)

永田生慈著「葛飾北斎論集」より

出羽国(山形)酒田出身あの有名な清河八郎とは同郷であり年は八郎より8つ上で、彼も幕末の佐幕派、尊皇攘夷派の嵐に巻き込まれ薩摩藩と交流した事実から庄内藩内部からスパイ容疑をかけられ毒殺され47歳で非業の死をとげます。

また 清河八郎は北曜が毒殺される5年前(文久3年1863年)に江戸麻布において会津藩出身幕府講武所教授方の佐々木只三郎(註)に暗殺されています。

遊び好きな秀才であったようで、彼が江戸に上ったのは、20代の前半に蘭医の坪井信道、平野元慶に師事、そしてなぜか北斎と初代山口竹陽斎友親に弟子入りしています。この事実からも蘭学者と北斎の交流がうかがい知れ、この時期北斎は80歳代、友親は40歳代二人の年代からおそらく北斎が北曜に頼まれ友親を紹介したと考えるほうが自然と思われ。平賀源内の流れを受けた友親と北斎の絆ともとれます。
北曜は浮世絵師としてはそれほどめだった活躍はなく、北斎にはずいぶんかわいがられていたようで、1848年の最晩年「鬼図」を北曜の名を落款に記し送っています。

清河が1847年江戸に上ったことも影響があったのか、北斎が死した1849年を契機に芸術よりも国事に興味を向けだし、清河らとも交流、勝海舟に乞われ1855年勝塾の蘭学教授になり、また長崎では外国人宣教師より英語を学び1862年には、パリ、ロンドン、ロシア、アメリカのニューヨーク、中国と約五ヶ月も洋行、島津斉彬の依頼により西洋学館(鹿児島開成所)の英語教授となり、西郷隆盛らと交流「薩州商社」という今でゆう株式会社の設立の資金調達のため1867年出羽国帰国、当時佐幕派による奥羽同盟が結ばれつつあったことから薩摩藩と深くかかわっている北曜にスパイ容疑がかかり、幽閉そして毒殺。
庄内藩士であったが為の悲劇でした。  

彼が根付を彫ったかは不明ですが、修行時期もないことから北曜が根付に興味を抱き、北斎に頼んで友親を紹介してもらい趣味の範囲で根付製作したのではなかったのか年も20過ぎ身分もばりばりの武士だったことから北斎の門人、北曜の号で浮世絵の仕事は残していますが、友親の門人としての号の記録もないことからも根付としての作品は今のところ確認されていません。


(註)・・:慶応3年(1867)京都見廻組組頭の職にあった只三郎が坂本竜馬(1835-1867)の暗殺者であったともいわれています。


一流の蘭学者であり、北斎の門人であり、また友親の門人であった北曜の人生がある意味、北斎の蘭学しいては、源内とのかかわりを暗示しているとも受け取れます。


北斎の90歳という長寿といい19歳のデビューを考えれば作家生命70年という、この時期の浮世絵師の中でもずばぬけての長い作家人生であり、風景画、美人画、絵手本、肉筆画とレパートリーの変化もいちじるしく門人の数は永田生慈氏によれば、直弟子、孫弟子180名を確認され、まだ記載もれなどの門人いるようです。

彼らの中に根付彫りをしたものが時代を考えれば必ずいたと思われ、北曜にしても友親の工房で彫っていたはずであり、そのほかに根付を彫った門人はいなかったのか、カード・インデックスと永田生慈著「葛飾北斎論集 ・葛飾派の門人たち」を見比べ調べてみました。卍銘、為一銘などもありますが、怪しそうなものは除外して、可能性がありそうなもの二人ほどあり、まず「根付の研究」に北亭という根付師が紹介されています。

北亭・・・「木刻をなし至って巧なり、中期の人なり」

「葛飾北斎論集葛飾派の門人たち」には北亭を号した人物は三人確認できます。
北亭・・・「文化6年(1809)-安政6年(1859)一月二十日歿 伊藤氏で名を寛 、字は子栗といい 深谷宿の出身であった・・・」

墨僊ぼくせん・・・「安永4年(1775)-文政7年(1824)四月八日歿 尾張藩士で、牧氏・・・・号は歌政、北亭、画狂人・・・」・・・有名な名古屋の門人です。中京地方の銅版画の創始者と言われています。時代が少しずれる感もありますが、根付師北亭が中京派の作風が見られることから、もしかしたら関係があるかもしれません。

山・・・北斎の関西旅行の折の門人で、別号に北堂、または北亭があるという。作画期は、文化(1804-)から文政(-1830)年間いわれ文化14年(1817) 刊行の「丹州鬼嬢」の挿絵はこの墨山である。

号の売り買いがものすごくあった葛飾派、この北亭という号を金銭で買った彫り師であったかもしれませんし、根付彫りと絵師としての号の使い分けがあることが普通であるとも考えられ、信憑性は薄いです。

もう一人は、カード・インデックスに写真が二点とほかに銘の写しが掲載されています、北嶺という号を用いた根付師です。普通根付師は銘のあとに花押をほるのが通常ですが、なぜか絵師の落款風に彫られ、意匠も葛飾派が好んだ鐘馗、大黒、おかめであり前記の北亭よりもこちらのほうが、北斎の門人の可能性はあるようです。

この根付彫師の銘は「根付の研究」には記載はありません。
「葛飾北斎論集・葛飾派の門人たち」には

北岑ほくしん・・・文政7年(1824)4月1日-明治9年5月9日(1875)府川氏で、通称は重三郎、のち重次郎といい、父は、十返舎一九の門人で五返舎半九といった。天保6年(1835)、十二歳の折に北斎の門人になって北嶺また北岑と号し、また九々蜃とも号した。嘉永5年(1852)以前より下絵を依頼されていた金工の大家、東益常の門に入り、翌2年には常行(後に一則)と号して目貫を造って世評を得た。さらに文久通宝の母銭を製作したことでも知られる。別号には、巨外史、蛟、蛟竜斎、蛟斎などがある。永田生慈著「葛飾北斎論集」P286より

この北岑が25才頃までの北斎の門人時代から北嶺銘で木彫りの根付を彫り、1853年29才以降は一則銘で根付彫りをした人物とほぼ特定してもいいと思われます。

一則(かずのり)、北嶺(ほくれい)・・・上田例吉「根付の研究」根付研究会「根付 江戸細密工芸の華 参考資料2人名録」にも記載がありません。
カード・インデックスには、金工の系譜から抜粋したのか上巻P316一則の項に4名記載あり二人目bの欄にFukawaとあり、没年1875年とあります。

同ページに一則銘の木彫の大黒と恵比寿が米俵の上に載って下で鬼二匹が潰されている意匠の写真があり北嶺銘の2点のもの作行きも銘の書体も酷似しています。間違いなくこの府川重三郎が唯一確認できる、北斎の門人であり、北嶺銘あるいは一則銘で木彫りで根付を彫った工人です。

2品とも木彫です。根付に絵師の落款は、絵師である証明ともとれます。いずれも哀歓を感じさせる北斎漫画風

カード・インデックス上巻P183より

こちらもユーモア溢れる北斎漫画風、向かって右の写真bに注目してください、歿年1875年と府川重三郎の名があります。

こちらの「蛟一則」銘は金工の技による金属製の鏡蓋根付

すぺてカード・インデックス上巻P316より

葛飾北斎の門人(直弟子)の根付師を発表します。2003年11月17日 okeya

 北嶺(ほくれい)・・葛飾北斎の門人。文政7年4月1日-明治9年5月9日(1824ー1875)本名府川重三郎、のち重次郎、父は、十返舎一九の門人で五返舎半九といった。
天保6年(1835)、十二歳の折に北斎の門人になって北嶺と号し、絵の修行のかたわらの木彫で北斎漫画風の根付を彫る(根付彫りはこの頃同門であった本間北曜(1822-1868)が初代竹陽斎友親に師事していたところから、初代竹陽斎友親に師事したと推測できる。)。
絵師の落款風の花押を銘に入れることもある、北岑また九々蜃とも号し絵師としても活躍。その後、嘉永5年(1852)以前より下絵を依頼されていた金工の大家、東益常の門に入り常行と号す、又この頃から、一則銘または蛟一則銘(金工の鏡蓋根付在銘あり)で根付を彫る。
金工家としては、文久通宝の母銭を製作したことでも知られる。
別号には、巨外史、蛟、蛟竜斎、蛟斎などがある。

参考文献 永田生慈著「葛飾北斎論集」ジョージ・ラザーニック編「The Meinertzhagen Card Index」

尚、もう一人北嶺と号した、北斎の門人ともいわれている絵師がいます、函館出身入江氏。名を貫、字を交長、俗称善吉。江戸深川新地に住したと伝わり、天保12年(1841)に浅草寺へ奉納した「予譲刺衣図」の絵馬がありこの人物とは、同時代の人なれど別人と考えられる


明治まで生きた北嶺は、晩年は金工師として名をなしました、北斎の門人でも異色の存在だったのでしょう、本間北曜とは、二つ違いの年下、北曜が北斎の門に入った年は1845年頃、北嶺は20才、おそらくこれだけの腕前から北嶺は友親の工房に通っていたと思われ、北曜は北嶺が年がほぼ同じところからも、北嶺と知り合い、彼が作り出す根付に興味を抱き、北嶺といっしょに友親工房に通っていたのではないのでしょうか。本間北曜は遊里が好きで若い頃は放蕩の限りを尽くしたようです、遺品からはこのころの遊女からの恋文なども見つかってるそうです。仲良く連れ立って吉原や岡場所で一緒に遊んでいたのかもしれません。


北斎には、娘阿美与(おみよ)と弟子の柳川重信との間に生まれた孫があり、この孫がかなりの放蕩者で北斎はこの孫を恐れ逃げ回っていたといわれています。北曜と北嶺はこの孫と同世代と考えられ、北斎も彼ら二人は本当の孫を嫌う反面とくにかわいがっていた形跡がうかがえます。

本間北曜には最晩年の1848年、有名な「鬼図」を送っているし、又北嶺には、北斎が死亡したさい、北斎の娘阿栄が、死亡を知らせる書簡(この手紙により北斎の死亡時刻が判明した。)が現在でも子孫によって保管されています。


エピローグ

春、日本橋石町長崎屋の近くの風景


゛きっと今日も来るはずだ゛と鉄蔵は祈っていた。
`今日ぜったい見てもらうんだ゛

昨日貸本を届けるためこの長崎屋の前を通った時、紅毛人見物に人盛りがあり、知らない旦那が
「また、源内さん来ているぜ。まったく紅毛が来ると毎日通うんだから。この調子じゃ明日もくるぜ」と言っていた。

゛きっと今日も来るはずだ゛
`今日ぜったい見てもらうんだ゛

゛あっ源内せんせいだ゛源内の元にかけよる少年

「びっくりした。なんだいお前さん、・・・・この絵はお前が描いたのか・・・・・・・・名前はなんて言うんだい」

「てつぞうってゆううんだ・・」

「そうか、鉄蔵ってゆうのか、  お前は天才だ。毎日がんばって描き続けるんだ、きっと日本一になれるはずだ。」


貧しい家にうまれ、幼い時から奉公に出され、生き馬の目をぬく男社会の江戸八百八町、生まれてこのかた優しい言葉をかけてもらったことの無かった少年葛飾北斎の絵の才能を最初に見つけ、褒めた大人は必ずいたはずです。


2003/11/17記す。


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江戸の煙草屋

元禄文化、17世紀後半から18世紀前半にかけ井原西鶴をはじめとした庶民向け出版物が上方で多いに摺られ、江戸でも下りものとしてそれらはもてはやされましたが、18世紀の後半になると逆に江戸での出版物も多く摺られるようになり、19世紀前半には、完全に江戸出版界が上方を陵駕します。
この江戸出版界の繁栄には、平賀源内の存在もかなり関わっていたようです。
源内の浄瑠璃本「神霊矢口渡し(しんれいやぐちのわたし)」(1769)はゆうに及ばず、大ヒット談義本「根南志具佐(ねなしぐさ)」「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」(ともに1763)と立て続けにヒットを飛ばします。
この頃の若者知識層の多くは蘭学というものが流行の最先端の学問であったわけで、その時流に源内の持っていた才能がマッチし若き蘭学者らも彼に影響をうけ蘭学の書物のみならずいろいろな分野の書を書きます。
また江戸市民文化の中心人物といわれる幕臣大田南畝(1749-1823)も源内と深く交流した人物の一人です(註)。
名門蘭医桂川甫周(1751-1809)の弟、森島中良(1754-1808)などは源内の門人筆頭というべき存在であり、数々の浄瑠璃、洒落本などを手がけ、また蘭学についての書物を多く書いた杉田玄白(1733-1817)、前野良沢(1723-1803)も源内の影響を受けた親友でした。


(註)・・・明和4年(1767)大田南畝の超ヒット狂詩集「寝惚先生文集」に源内は福内鬼外の号で序文をよせ、南畝は21才年上の源内にはかなり影響をうけていたようで門人の一人のような存在であったようです。また源内の門人筆頭森島中良とは終生中の良い友人であったようです。

元々が蘭学者であった源内の世界観からくる読本は荒唐無稽な面白さもあいまって上方からの草子といわれた風俗小説にかわり、江戸庶民の心を掴んだのではないのか、安永4年(1775年)に源内ブレーンの恋川春町の「金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)」が出版、表紙が萌黄色(註)だったことから黄表紙と呼ばれ。
この通称黄表紙と呼ばれた読み物は全盛を極め、式亭三馬(1776-1822)、山東京伝(1761-1816)が出現、大田南畝、森島中良は、黄表紙洒落本の分野を確立し源内のエッセンスが浮世絵における葛飾北斎とほぼ同世代の若者らに注ぎ込まれ読み本の世界にも平賀現象が繰り広げられたと私は信じています。
源内風文体の読み本を当時平賀風(ひらがぶり)と二代源内といわれた森島中良に私淑した式亭三馬は定義ずけています。

特にこの森島中良は9才になるかならないかの幼少で源内の門人となり、この幼少より門人になりえたのは、父であった蘭医桂川甫三(1728-1783)や兄である桂川甫周((1751-1809)が源内と深く交流していたこともあったのですが、早くからより源内に心酔していたようで、それは終世変わらなかったようです。
その後江戸戯作界の大御所といわれる存在となり源内の号した二代目風来山人を襲名、また晩年には二代目福内鬼外をも襲名、その親分肌の人柄もあり彼の周りにはたくさんの人が集まり(東海道膝栗毛の十返舎一九や浮世風呂の式亭三馬などなど)、また源内筆頭門人と自他ともにみとめられるべき存在であったがゆえ存命時より彼の業績が源内のものと混同され後世に幾つか伝わっており、「根付の研究」の親正の項の
「平賀源内の門に入り、其の薫陶をうけ・・・」とあるのですが、親正が山口友親の兄とすれば、初代友親は寛政12年(1800年)の生まれであり親正が平賀源内の門人であったのならば、源内の没年が安永8年(1779年)です。この年親正が少なくとも15才と仮定しても、親正と友親の年齢差は36才以上となり、いくら異母兄弟と仮定しても年の開きがありすぎることからも、親正はこの二代目風来山人こと森島中良(1733-1817)の門人であった可能性がありうると考えています。

また「根付の研究」では親正の活動期を文政年間(1818-1830)としていることからも平賀源内の門人ではなく森島中良と関係があった戯作者であったのかそして後々工人となった人物と考えられます。森島中良は源内死後エレキテルの製作もしたようで親正は、これらの製作を助けた工人の一人であったかもしれません。

参・・・十返舎一九、式亭三馬は葛飾北斎とも深く交流していたといわれています。映画「北斎漫画」ではこの三人が風呂屋で与太話をするシーンか゛見られます。
また森島中良は喜多川歌麿(1753−1806)とも交流があったようです。


また江戸出版界にも逸材が現れます、吉原生まれの蔦重こと蔦屋重三郎(1750-97)。
黄表紙をはじめとした読本と挿絵師としての絵師と作者の関係から蔦重の周りにはたくさんの芸術文化人が集い、江戸文化の発信地となっていきました。
蔦屋重三郎にたいして鶴屋喜右衛門という出版元も出現し、江戸出版界は全盛を極めます。

北斎をはじめとした絵師らも、またこのころの読本界の巨匠的存在の大田南畝、森島中良、式亭三馬ら作者も源内の影響を受けていたことは間違いのない事実であり、浮世絵師、歌舞伎役者、吉原の花魁、講釈師そして一流国学者、蘭学者が次々と出現江戸の町はまるで坩堝(るつぼ)の中の解けた金属素材のように沸騰し燃え滾りはじめます。

「江戸の想像力」の中、田中優子女史は源内を江戸小説の濫觴と位置ずけられています。

もちろん吉村周山の項で記した黄檗宗もこれら読本の世界にはかなりの影響を与えていると思われます。


(註)・・・この時代に活躍した江戸根付の祖三輪の紐穴及び象眼につかった萌黄色の染めはこの時代の流行色ではあったようです。


平賀源内の影響を多分に受けた浄瑠璃、洒落本、黄表紙作家の中にあっても森島中良は大きな存在であったようです。そしてその森島中良のあと彼の存在を十分に意識して登場したのが七つばかり年下の山東京伝(1761-1816)でした。

山東京伝

江戸の人気者 相当な女好きだったらしい、スケールは小さくなるが、現代のコメディアンに喩えれば北斎がビートたけしで京伝は明石家さんまといったところか・・・・

山東京伝・・・1761-1816(宝暦11−文化13)江戸後期の戯作者・浮世絵師 伝左衛門の子、母は大森氏、京山の兄。江戸深川木場生まれ。本名は岩瀬醒(さむる)幼名甚太郎、のち京屋伝蔵、別号を菊亭、画号を北尾政演(まさのぶ)、狂号を身軽織助。父は伊勢国一志出身で19歳で江戸へ下り木場の質屋伊勢屋に奉公し、主家の養子となった。母大森氏は尾張屋の御守殿に奉公し、ともに晩婚であった。この両親の許で甘やかされ耽美的な生活を送ったことが将来の京伝に大きく影響した。14-5歳の頃から長唄、三味線を習い、北尾重政の許で浮世絵を学び、19歳頃から遊里に通い、22歳で「御存商売物」(黄表紙)を25歳で「息子部屋」(洒落本)を出し、20歳代の終わり頃には様々な種類の作品を創作し、名声は不動のものとなった。1790年(寛政2年)秋には後年のライバル曲亭(滝沢)馬琴が弟子入りを懇請。翌年秋、洒落本3部作により手錠50日に処された。1793年秋、煙草入店を開店。1799年頃から読本創作に方向転換し「忠臣水滸伝」前編を出版。1802年(享和2)読書丸を発売。30歳代の終わり頃から近世風俗の研究を手がけ、「近世奇跡考」「骨董集」などを出版した。江戸後期最大の作者であり、ほとんどの分野に創作の筆を染め、それぞれ好評を博した。1816年(文化13)9月7日に歿した。戒名は弁誉智海京伝信士 墓は東京本所の回向院 
コンサイス日本人名事典より

この山東京伝もかなりアクのあった人物のようで、北斎はなぜか京伝の読本の挿絵だけしなかったようです、同じ深川生まれでほとんど同い年(北斎は1760年生まれ)の子供の頃から金持ちのぼんぼんだった京伝を知っていたのかもしれません。
通説では仲が悪かったといわれていますが、真相はわかりません。
彼の生き方は北斎にも通じる源内のような物事に対しての探究心は皆無でしたが、源内及び源内門人がその基盤を作った洒落本、黄表紙の世界からの文壇デビューということからも源内の存在なくしては戯作者山東京伝は生まれなかったともいえます。

山東京伝が自身宣伝用に描いた京屋の店先、奥に座っているのが店主の京伝

また彼は京橋銀座に京屋という屋号の煙草入れ屋を営んでおり、源内の発明した偽金唐革の煙草入れも販売していたはずです、また弟の山東京山(1769-1858)も戯作者であり、篆刻の心得があったようで、もしかしたら京伝の店で売られていた根付に弟が篆刻し注文に応じ客に対応していたかもしれません。
煙草入れを売っていた事は事実であることからも店を開店した1793年頃なら江戸根付も作られていたはずであるし、上方からの下りものの根付も店頭に置かれていたと思われ、今でゆう流行の最先端の商品が並べられていたはずです、客の好み又煙草入れとのコーディネートを手がけるセンスのいい売り子もいたであろうし、「形彫りの根付はやっぱり上方物ですよ。」なんて声が聞こえてきそうです。

タイムマシーンがあれば、京伝の店をぜひ訪ねてみたいものです。


18世紀後半、前記した版元蔦屋重三郎の稼ぎ頭の両輪はこの京伝と喜多川歌麿でした。こんな頃上方から一人の男が蔦屋重三郎の許に身を寄せます。1802年から「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ」を執筆する十返舎一九(1765-1831)です。弥次郎兵衛と喜多八のずっこけ旅日記は21年も続き、この頃の人々にとっては映画「男はつらいよ」に似た国民的な娯楽読本であったと思われます。

もともとこの弥次・喜多のずっこけ漫才師のようなコンビは古くは狂言の「シテ・アド」にあるとも言われ、後に黒澤明が「隠し砦の三悪人」で藤原鎌足と千秋実に演じさせ、その黒沢映画に影響を受けたジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」でC−3POとR2-D2というロボットで登場させたのは有名です。

話がかなり横道にずれましたが、この十返舎一九も晩年は「北斎外伝 北曜と北嶺」で記した北嶺の父親五返舎半九(1782-1858)とともに日本橋石町で煙草屋を営んでいたようです。

この五返舎半九はかなり十返舎一九に可愛がられた弟子であったようです。その後煙草屋をやめ深川六間堀で「小倉煎餅」の店を開き商売は順調にいったようです。この半九には三男二女がありこの長男が北嶺こと府川重三郎です。

彼が本間北曜と竹陽斎友親の工房で根付を彫ったのではないかと「北斎外伝 北曜と北嶺」で示唆したのですが、実はもう一つ気になる事がありここに記していこうと思います。

則重という根付師がいます。「根付の研究」にはこうあります。

則重・・・江戸の人にして木刻及牙刻をなす意匠奇抜にして巧なり、天保頃の人なり。(竹内久一の説に従えば安永天明の人なり)
上田令吉著「根付の研究」より

天保は1830-1844年竹内説では安永・天明は1772-1789年

実は私は則重銘の根付を一点持っていまして、染めやその他の雰囲気またマイナーッハーゲン・カード・インデックス記載の絵図など考慮しても上田説が正しいと考えています。

そして府川重三郎は後年一則を多く号したようで、息であった二代府川一則が実は一則を襲名する前に則重を号しているのですが、時代的に考えてもまた二代目が牙彫り作品は手がけなかったようであり、初代一則すなわち北嶺がこの則重銘を「一則」を名乗る前の北斎が死んだ嘉永2年(1849)から安政5年(1858)まで号していたのではないのかと考えています。
もちろん則重銘を北斎存命中も用いた可能性は十分にあります。

府川重三郎の号した「一則」の「一」は葛飾北斎の為一からきているといわれ、「則」に関しては彫金の遲塚久則(1725-1795)を尊敬していたらしくここから「則」をとったといわれています。

府川重三郎(1824-1876)は北嶺銘でも則重銘でも晩年は一則銘でも根付を彫ったのではないか、マイナーッハーゲン・カード・インデックスの則重の銘における「則」の字が一則の「則」の字とほとんど同一なのです。
意匠も似通っていますし、友親に習ったのなら牙彫りは出来るはずですし事実金工師初代府川一則は牙彫りもなぜか得意であったようです。

左上のみ私所有の根付、他はカード・インデックスより


「則」の字に関して言えば同一人物による筆跡と考えても無理はないと思われる。
よって「則重」は府川重三郎といえるのではないのだろうか。


北斎の門人に関して言えばもう一人北水という門人が、煙管屋(キセルや)を営んでいたようです。

北水・・・生没年不詳 北斎門人 本間光則「増補浮世絵類考」に「横山町一丁目池田屋久三郎という煙管屋也産業を廃して浅野右衛門と改む後に北水と号し天文暦学十日の内に指南すと云て諸国遊行せし由終をよくせさりと北斎翁の話也」とあり。作画には葛飾を画姓とし、戯作には自惚山人、十文字舎自惚などと号した。作画期は文政から天保(1818-1844)にかけてといわれている。永田生慈著「葛飾北斎論集」より

煙管屋也産業とあるところからも工人であったと思われ、活躍期が江戸根付全盛時でもあることからも根付を彫っていたかもしれず、「根付の研究」にある「北水・・・木刻及牙刻をなし力あり、初期の人なり(彫銘 北水)」と同一人物の可能性もあります。


平賀源内の江戸文化読本における浸透性を論ずるところから、また北斎の門人の話となってしまいましたが、絵画、文筆は源内の言霊がハードとなって現れたものであり、ソフトとしての影響力は、計り知れないものがあったのではないのか、探れば探るほど源内という人物は底知れない男であったようです。


2003/12/26記す。


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