旅路・松田亮長


松田亮長(1800-1871)

姓を松田と称し飛騨高山の人なり、代々製箸を家業としたが、壮年になり彫刻を平田亮朝に学び、逐に彫刻師となった、奈良人形が彩色の為め刀力が隠れるのを惜んで、研究の結果、彩色に代えて一位の白味赤味を応用し、飛騨一刀彫を考案した。その後盛んに一刀彫を作り、高山の名産とした。文政以降幕末に活躍し、明治4年72才で没した。

山縣武編根付師人名録「江戸細密工芸の華(参考資料2)」より

亮長銘 金魚一位一刀彫


松田亮長とは、いかなる人物であったのか、そのあたりを探っていきます。

「亮長は、幼より松田家に養われ、高山生まれだというけれども、其の実家の名を今知る事が出来ぬ。・・・」と「根付の雫 日本根付研究会二十五周年記念出版」小峯大羽著「亮派彫工の系統と一刀彫(中)」に記述があり、また「亮派彫工の系統と一刀彫(下)」には彼は白川郷で生まれ11・2歳で親に従い高山に出てきたと記述があり、彼が白川郷に生まれ少年期飛騨高山に出てきたと小峯大羽氏が岡本利平氏より送付された「田中登作随筆まねび草一節」を載せ指摘されておられる、おそらくこれは間違いがない事実と思われる。

彼の生まれた近世の白川郷(白川村・荘川村)はどういった場所であったのか、この時代かなり特異な土地柄であったようです。白川郷及び隣接する五箇山(平村・上平村・利賀村)を昭和11年に訪れたドイツ人建築家ブルーノ・タウトは当時まだ白川村に残っていた大家族について
・・・平家の残党はこの地に逃れてきたのである。白川では、家長になるのは常に長男だけで、他の人たちは正式な結婚が許されないままに、家に止まって働かねばならなかった。そしてこの人達に私生児が生まれると、子供はみな母親の家へ引き取られるのである。こうして家族が次第に殖えるので、数階建の大家屋ができるうになった。・・・」
と記述されています。

白川郷の特異な家族制度について詳しい資料があるので抜粋します。

「誰でも大家族といえば、そこに幾組かの夫婦が寄り集まっているものと想像するに違いない。
そして実際に、東北あたりで大家族と称せられるものは、小さい幾家族かの寄合いで出来ており、その小家族の中には召使い夫婦も含まれているようである。
ところが白川村の大家族になると、その点がまるで違っている。まず主人夫婦がある。
主人すなわち戸主はトトと呼ばれ、ゴテともいわれる。主婦はやはりカカである。すでに隠居した老主夫婦がジジ・ババとして残っているのもある。それから長男夫婦がいる。
長男はアニであり、嫁は奇妙なことにオバと称せられる。
ところで大家族の中にはこれ以上にはけっして夫婦というものがない。
それとゆうのは、主人と相続人以外のものは、正式に結婚しないのがこの大家族の古い習俗であったから。
では、これらの外に、どんな家族が住んでいたかというと主人の弟妹がいる。老主の弟妹がいる。
兄の妹弟がいる。それから女たちは正式に嫁入りこそしないが、特殊な婚姻制度があって、つぎつぎと子供を生むからその子供たちがどっさりいる。
こんなわけで、ここの大家族はいずれも血のつながった同士の集まり、すなわち血縁家族なのである。
家族が多いから、下女や下男はいない。ある種の大家族には下男、下女を含み、また未婚の下女下男の大勢いるものがあるが、白川村の大家族はみんな血縁者ばかりで、召使いがいないということに大きな特色がある・・・・(中略)・・・・男は嫁をもらわないし、女は嫁にいかないのである・・・(中略)・・・しかし彼らといえども結婚生活をしないのではない・・・男は他の大家族の中にいわば許婚関係の妻をもっている。
だから女の側からいっても、他の大家族の中に許婚関係にあたる夫をもっていることになるのである。
ただ彼等は同居して、一つの家庭をもつことが許されないだけで、それぞれの夫婦関係を公然と持続しているのである・・・それでは、女たちの産む子供たちはどうなるのか。
女たちは家庭こそもたないがそれぞれ夫があるのだから、つぎつぎと子供が生まれる。
三人五人はもとより、中には遠慮なく一人で十人ぐらい生むのも珍しくない・・・こうゆう子供たちは、一般世間では父親の籍に入るのが普通であるが、この白川村では例外なく母親の家の籍に入る。
つまり女の家の主人が責任をもって養ってやるのである。
決して子供を父親に引き取れなぞといって、両家の間にいざこざなぞ起こらない。
それどころか、大家族で家族員の減る事を非常にきらって・・・女たちが赤ん坊の生まれることを喜んだらしい・・・」

江間三枝子著「飛騨の女たち」より


合掌造り


非常に変わった家族形態であったようです、これは他の地域と違い深い山間部ゆえ土地に限りがあり分家制度が成り立たちにくいこと、また養蚕また和紙製造、塩硝製造などの家内産業による人手の確保からの必要性がこのような特異な家族形態を作り出したようです。
とくに亮長が生まれた江戸後期は白川郷及び五箇山ではこれらの家内産業は特に盛んであり、少年亮長がどういった経緯で飛騨高山に養子として来たのか、これは私の憶測ではありますが、合掌造りの民家を建築したのは江戸時代においては高山の「飛騨の匠」を荘川村では招いて作ってもらっていたらしいです、
亮長の生家が白川郷としか伝わっていない以上、それが五箇山を含めた意で白川郷と伝わっているかそれは分からないが、荘川村も白川郷ではあることからも、鋳金屋であり養父であった松田屋吉衛門氏は合掌造りに頼まれて荘川村に来た「飛騨の匠」の一団の一人ではなかったのか、
あととりが出来なかった彼は白川郷で亮長を見つけ、たぐいまれな才能を発見し私生児であった亮長を生家に頼んでもらいうけ自分の養子にしたのではないのか、いずれにせよ憶測でしかないのではありますが、このような経緯であるならば、
松田家の養子になったいきさつ等の不明である実家との関係もすっきりするようにも考えられます。

ただこの五箇山を含めた白川郷は古くから北陸の影響が強く特に宗教においては、浄土真宗中興の祖、蓮如上人の北陸地方における精力的布教活動ということもあり五箇山(15世紀には蓮如上人が訪れ布教活動を行なったといわれています。)を含んだ白川郷は親鸞の弟子嘉念坊善俊が道場を開いたと言われ、非常に古くから浄土真宗信仰の盛んな地であったようです、
主力産業であった塩硝製造は、戦国時代、石山本願寺が織田軍との戦いにおいて鉄砲における火薬の供給から始ったとされ、松田亮長の生きた激動の時代(江戸後期)、何故かしら彼の生き様がひょうひょうと達観したものを感じるのは、少年期における大家族及び浄土真宗のもたらした他力本願日和見主義的価値観が、かなり影響をおよぼしていたのではないのか、同時代または後輩の山間部の彫り物師たち、たとえば美濃岩村の牛加こと上林景命(註)、又同じ飛騨高山の谷口与鹿らとは生き方自体というか、彼らとは根本的なものの考え方というか何かが違っていたと思われそれは彼の生き様そのものであり又彼が残した作品からもうかがいしれるところではあります。


(註)・・・松田亮長とは一つ違いの将軍家及び尊王攘夷派とも交流のあった人物、享和元年(1801)十二月美濃国岩村城下に生まれる。若年時は桂宮にも仕えた僧侶であったが文政十年(1817)に京都宇治上杉家の養子となり茶の古木にて茶摘女の彩色人形根付を製作、諸国大名らの人気を博す。尚、現在静岡県にて日本茶が多く生産されるのは、この牛加が宇治茶を静岡で栽培することを徳川幕府に進言したことが始まりといわれている。明治三年十一月十八日七十歳で歿する。


生けるがごとし松田亮長の蛙(註2)、日下部民芸館で常時見られます。

「筑摩書房 江戸時代図誌 中仙道二」より

白川郷の合掌造りは藁葺屋根の形からも、書いて字のごとく合わせた掌(てのひら)と読みます、彼が少年時代白川郷でたくさんの兄弟、家族と暮らし遊んだ思い出、好んで彫った、蛙、蛇などの小動物、又旅人や罪人が籠の渡しに乗せられ荘川を渡った様子(註)を谷から見ていた少年時代、合掌造りと掌(てのひら)で愛玩できる根付を重ね合わせ、白川郷での幼き日の数々思い出を己の掌から作り出される根付彫刻に形として残したかったのかもしれません。


(註)・・・亮長をはじめとする亮派による黄楊製の籠の渡しの根付は名品ぞろいで非常に有名です。
江戸期、荘川右岸の地は加賀藩の流刑地であり、ほとんどの罪人は籠の渡しにより荘川を渡り流刑地に流されたようで、普通の旅人は平生は安全な船で荘川を渡ったようです。

(註2)・・・この瓦に蛙の根付は筆者の調査による銘の確認が出来松田亮長の愛弟子であった広野亮直よるものです。2005/3/8に日下部民芸館で確認しました。


そして十一、二歳で松田家に養子に入った亮長の周りの環境はどうであったのか、

本居宣長(1730〜1801)によって国学という学問が大成し、それは平田篤胤(1776〜1843)また尊皇攘夷の思想的な背景となった後期水戸学の会沢正志斎(1782〜1863)藤田東湖(1806〜1855)に多大な影響を与え、蘭学に対抗した新しい時代の学問に幕末なっていきます。ゆくゆくはこの国学の教えを基盤とした尊皇攘夷派の若者達によって明治維新という革命が起こるわけです。

松田亮長(1800-1871)の生まれ育った飛騨は山林に囲まれた場所柄もあり、蘭学よりは国学的なイデオロギーが根ずきやすかったのか、「木曽路はすべて山の中である」でも有名な木曾を舞台とした島崎藤村の父を主人公のモデルとした「夜明け前」も国学というものが物語の大きなのテーマとなっています。又この岐阜・長野は地狂言といわれる農村歌舞伎がひじょうに盛んであり、それはこの山林に囲まれた地形が日本古来からの思想か゛娯楽と結びついていた証でもあるわけです。

飛騨では亮長と並び称される天才彫師谷口与鹿(1822-1864)などは当時の血気盛んな若者達同様この国学に傾倒したようです。日下部民芸館にある彼の紹介文を載せます。

谷口与鹿・・・文政五年(1822)高山の社寺番匠(宮大工)谷口権守典三郎延儔の次男として生まれた。与鹿は15歳で父を失い、中川吉兵衛を師として育ち工匠としても、彫刻家としても天禀の才を持ち、近世の飛騨匠の代表作家といわれ、特に屋台彫刻に神技をみせた。国学の田中大秀門筆頭の山崎弘奉について国学、歌道を学んだが、後年数々の名作を残して高山を去り、摂津伊丹に移住した。嘉永年中、孝明天皇に拝謁の栄をうけ。兎と木賊の香盒を謹製して献上したと伝えられる。元治元年(1864)九月十三日歿。墓は伊丹黒染寺にある。

高山在の商人田中大秀(1777-1847)は本居宣長の門人であり、飛騨高山にも国学という当時の最先端の学問が若者を中心に浸透していったようです。

レイモンド・ブッシェル氏も欲しがったであろう与鹿作の玉獅子置物 
日下部民芸館で見られます。

弘済出版社 旅の手帖情報版  飛騨路`97より


「夜明け前」の舞台となった木曾・美濃は中山道に面した土地であり、風土的にもよく似た亮長の住した飛騨高山は元禄5年(1692年)7月に幕府直轄の天領となる前までは町を流れる宮川が日本海に流れ出ることからも加賀藩をはじめとした北陸地方との交流がさかんではあったようです。
元禄期に幕府直轄地となり江戸、上方をはじめとした太平洋側との交流が主となり、また江戸の火事多発による木材の供給地となり、元々あった神岡をはじめとした鉱山産業もあり、現在でも小京都といわれる独自の文化は、この頃の潤った町人たちによって培われたものです。幕末の嘉永6年(1853年)には人口15090人を要し同じ頃の岐阜の人口7000人の二倍以上もあり、人口の多さからもその繁栄ぶりをうかがわせるものです。

松田家に養子に入った亮長は、20歳代になるとよく旅に出たようです。少年時代を深い山の中に育ったせいか高山の人の多さや上方、江戸からくる新しい息吹を感じさせる文化は彼をおおいに刺激したようでもあります。


亮長は生来、非常に旅行が好きな人でした。道中の愛用の水杓に、「近道によい事二つ、清水哉」の句が書きつけられています。20代に、伊勢、奈良法隆寺、四国金毘羅詣で。28歳の夏、高岡、金沢、白山登山。30歳の夏、諏訪神社、富士登山、岡崎、熱田神宮詣で。34歳の夏、善光寺、魚津、金沢へ、35歳の春、名古屋、伊勢神宮参り。41歳の春、下諏訪、江戸へ4ヶ月滞在。細工しての帰り中禅寺参り。45歳の春、和倉、輪島、富山、と常に彫刻道具と矢立などを持ち、滞在しては彫刻をし、又、スケッチをし俳句を作り、見聞を広めて技を磨いたと思われます。

津田亮定著「一刀彫の技法と歴史 一位一刀彫」より


分かっているだけでもこれだけあるようで、実際はかなり全国を津々浦々まわったようです。

ともあれ、一年の約半分は旅に出ていたと言われています。

松田亮長が使った道具u筑摩書房 江戸時代図誌 中仙道二」より


江戸にもよく立ち寄ったようです。

江戸では、同郷であった平田亮朝(1809-1847)の門に入っていたことは知られています。しかしこれは亮長が亮朝よりも9つも年長であることから、門人とゆうよりは旅好きな亮長が江戸に出た折に亮朝の元で彫刻の仕事をして小遣い稼ぎしていたのではないか、亮長が亮朝の門人と形式的になってはいるが、事実はむしろ逆ではなかったのか、もしかしたら飛騨高山時代から顔見知りであったのか、どちらが先に「亮」を名乗ったのかこれは後述いたします。

平田亮朝・・・文化6年(1809)高山に生まれる。若くして江戸に出て根付師山口友親の弟子となり浅草橋近くに住む。練達の技を以て根付彫刻師として名をあげたが、38才の短命であった。その消息は当時の江戸飛脚通称「三鉄」が亮朝と親しく、亮朝の家を宿として往来し、三鉄によりその消息が高山に伝えられたものと思う。日本橋通塩町の小間物問屋「日野屋」のお抱え根付彫師として仕事をしていた。作品としては我が家(江黒家)に狼とどくろの交合の根付(未完)がある。没年は弘化四丁未年三月十六日浅草竜谷寺に葬り、戒名「徹道良源信士」と記録にある。先年東京の友人とこの菩提寺を、台東区東上野の寺町に探し当てたが、関東大震災と此度の戦争と二度の災禍に遭い、過去帳等資料は焼滅して調べようがなかった。寺の境内には無縁の墓石墓碑が堆く積まれたり、地中に埋もれていて、探し出そうにも重い石でどうにもならず断念、寺に戒名をあずけてきて供養をお願いして来たが、寺門入り口に六角柱のレリーフ彫刻の見事な碑が立っていたのが印象的であった。亮朝の墓碑は、俳人小峰大羽が飛騨史壇に発表された一文によると、杜多岐山という人が作った追悼文を刻んだ立派なものであったようである。

江黒亮聲著「木つつき」より


この初代山口友親の門人であった平田亮朝の門には松田亮長の他に高山出身の江黒亮春(1831-1901)がいます。

江黒亮春・・・玉斎と号す。本名豊吉  天保二年(1831)生まれ。浅吉長男天保14年(1843)父浅吉に伴われて江戸に出て平田亮朝の弟子となる、時に十二歳、当時江戸通い商人であった父浅吉に伴われて江戸に出て三鉄飛脚の紹介で亮朝の門に入ったものと思う。亮朝の許で根付彫を修練したが、なぜか生涯を独身で過ごし晩年帰郷、既に江戸から帰ってきて高山で根付彫の仕事をしていた。末弟亮忠の八軒町の家の離れ家に住み生涯を送った。手許に遺された写生、図案、下絵のはり交ぜ帳を見て、その巧な筆勢、筆技に敬服する。一時期渋草窯で絵付けの仕事をしていたというが、その時の絵皿が残されている。作品として古下駄に蛙の根付が手許にある。明治三十四年六月歿。

江黒亮聲著「木つつき」より

そしてこの江黒亮春の弟が尚古銘で根付に幾多の名品が残る。江黒亮忠(1851-1915)です。

江黒亮忠・・・別号尚古。本名尚吉 嘉永四年(1851)生まれ。亮春の末弟、慶応三年十六歳の時兄亮春をたよって江戸に出て根付彫を修練する。明治六年亮春より先に高山へ帰り、八軒町に居を構えて彫刻に専念する。作品は主に京都山中商店、神戸の貿易商、岐阜の岡本商店等に納入していたが、明治十四年六月には第二回内国勧業博覧会に出品して褒状を受けているが、中央に金の菊花紋の入った大判紙に、格調高い手書きの文字で出品名「水松一刀彫」とある。水松とは一位木の別名で、添え書きに「杖頭及ヒ鉄筆柄各種刀法活気アリテ雅韵多ク把玩適スルヲ観ル錬熱ノ工頗ル嘉ス可シ」とあり、この時はもう尚古銘を使っている。明治四十三年英博覧会には鯉の置物を出品して銅賞を受けた。仕事は明治維新の大変革に遭い、生活様式も一変、根付の注文が減り彫刻も仏壇彫刻から印判彫まで手掛けたようで、また松倉絵馬も得意であった。代表作として桜山八幡宮の大神輿の彫刻、下二ノ町の屋台鳩峯車の双竜と獅子牡丹の彫刻、高根村大徳寺、郡上郡明方浄光寺の欄間彫刻などがある。八幡宮の大神輿は当時の高山の木工、漆工、金工、木彫等職人合同製作の傑作である。大正四年九月六十四歳で他界。

江黒亮聲著「木つつき」より

この尚古こと江黒亮忠の長男が初代江黒亮聲きょうせい(1883-1951)次男が江黒亮年(1887-1956)そして平成九年にここに引用させていただいた自伝「木つつき」を著された江黒亮聲氏は尚古の孫にあたり初代江黒亮聲のご子息です。

この他に平田亮朝門下には高山出身の中村亮芳が確認されています。


亮長にも一人だけ飛騨高山に弟子がいました。広野亮直(1844-1885)といい亮長に負けず劣らずの名工でした。そしてこの亮直にもただ一人の弟子がいました。津田亮貞(1857-1920)、彼の父は浅井一之といい、天才彫り物師谷口与鹿の弟子でもありました。津田家の養子になり11歳で広野亮直に弟子入りしています。

そして亮長の正当な系譜は亮貞の子、津田亮則(1888-1955)亮則の息、津田亮定(1924-1998)、亮定の長男津田亮友、次男亮佳と受け継がれています。


津田亮則には数人の弟子がいたそうですが、亮長から津田亮貞までは弟子は一人のみだったようです。

亮長の流れを今に受け継ぐ津田彫刻店


数々の伝説が残る亮長ですがその足取りがつかめる地があります。これは小峯大羽著「亮派彫工の系統と一刀彫」にも記されていますが、亮長五十代半ばの安永三年(1856)の八月から十二月の107日間、東濃の付知の田口家に女児と滞在したと記録にあるようです。

去年(平成十五年)津田家を訪問したさい、現在の田口家の当主と偶然から直接お話をお伺いする事が出来たのですが、その地の特産であった檜を使った幾つかの置物が現在でも当家に所蔵されているそうです、亮長は一宿一飯の義理からこれらの仕事をしたのではなく金銭を貰いうけ彫り物をこさえたようで、当時連れていた「梅」と呼ばれた10歳位の女の子にも幾らかのお礼を田口家から出したようでそれは記録にも残っているそうです。

この後還暦をすぎてから一男一女をもうけるのですが、もしかしたらこの時連れていた「梅」と添い遂げたのかそれは知るよしもありませんが、晩年に色恋に狂い咲きした流浪の僧であり元来が子供好きでもあった良寛和尚(1758-1831)のような心境であったのかもしれません。

幕末の動乱の中、亮長の生き様は、まるで世俗を離れた仙人のようでもあります。
彩色のある奈良彫りにヒントを得た一位一刀彫りは現在の飛騨高山の名産品となっており、おそらく数多い江戸時代の根付師中、松田亮長の知名度はトップクラスであり、飛騨高山に現在も活躍しておられる作家は若い世代も多くこれも亮長が考案した一位一刀彫があればこそであります。

美濃国出身といわれている円空えんくう(1632-1695)、甲斐国出身の木喰もくじき(1718-1810)彼ら山間部農民出身の流浪の聖ひじりと呼ばれた僧侶(註)が数多く彫った荒削りの仏たちと、晩年亮長が数多く彫った一位の染色を施さない木目の美しさを強調しデホォルメされた根付群はどことなく通じるものがあり、江戸期これら聖と呼ばれ自分の持つ特技を提供し一宿一飯の恩を受け全国を周った僧は数しれなく、亮長のめざし憧れていたのは良寛をも含めた彼らの仙人然とした生き様であったのかもしれません。


(註)・・・僧といっても彼らの信仰は民間信仰であり、大きな寺院は訪れる事も出来ず信仰より、自分の特技と引き換えに一宿一飯や布施を受けるその日暮らしのホームレスでもあったわけであり、特に江戸時代の中期から後期このような僧はかなり多く存在したようです。


小峯大羽著「亮派彫工の系統と一刀彫」には亮派の祖は平田亮朝なのか松田亮長なのかをかなりの行を使い記しておられる。
山口友親の門人であった平田亮朝が亮派の祖と定義したほうが収まりも良いのかもしれないが、数多く残る亮長銘の名品をみれば、おのずと答えは出てくるのではないのか松田亮長が亮派の祖であり、おそらく平田亮朝の亮の字は亮長から譲り受けたのではなかったのか、20代の頃より旅好きだった亮長が先に江戸にて山口竹陽斎友親と交流ができ、その後高山の自分の弟分であった九つ下の平田亮朝を紹介したのではないのか、可能性としてはこちらの方が説得力があるようにも考えられます、又残る作品の技量がそれを物語っているようでもあり、少なくとも現時点では私はそう考えてます。

現代の飛騨高山の作家による一位一刀彫り


若山牧水の有名な詩があります。

「幾山河越え去り行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅行く」

彼の生き様はこの詩そのものであったのではなかったのか、白川郷から始った彼の旅路は高山の地に一位一刀彫を残し、現在でもまだ続いているのかもしれません。


辞世の句が残されています。


「色も香もみな世にまかす桜木の 咲いてきれいに散り手てきれいに」

美しくも、はかない、桜の花が好きだったようです。


2004/2/24記す。

2005/3/8追記。


松田亮長の辞世の句は「桜」にまつわる句であったのだが、彼の故郷は荘川村ではなかったかとあらためて思う、今は御母衣ダムに沈んでしまい、その村の面影は残っていないが、移植された有名な樹齢450年の荘川桜が国道沿いに、今も季節になると壮観に咲き誇る。少年時代に見たであろうこの桜を思いつつあの世に旅立ったのかもしれない。そして辞世の句が彼の故郷を暗示していたのかもしれない。
「玩物喪志」根付狂の詩より2004/3/28


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