新編武蔵風土記稿の岡上に関する記述です。

 新編武蔵風土記稿は徳川幕府編纂の武蔵国に関する地誌で大学頭林述斎が昌平坂学問所に地理局を作って編纂作業の指揮にあたった。1810(文化7)年に編纂作業に入り、1830(天保元)年に幕府へ献上された。全266巻(うち付録1巻)。岡上に関する項は巻八十八都筑郡之八領名未勘として1816(文化13)年に完成。後、1828(文政11)年に改正。

岡上村
 岡上村は本郡の西にありて、東西北の三方共に多磨郡に接せり、古への事は伝へざれど、正保の頃は多磨郡に属し、元禄に至ても猶多磨郡に属せしと云、されど村内の東光院慶安年中の御朱印には都筑郡の内とあれば、両郡接地なるゆへに未だ本郡に入らざる前に、たまたまかく唱へしことをありしなるべし、土人の伝へは多磨郡にも属すといへば、慶安中は多磨郡に属せしやもしるべからず、或は本郡にも随ひ、近き頃は又当郡に附せしと伝、村名の起こりは詳にせずといへども、岡上氏の住せし所などにや、岡上系図に、岡上豊前藤原景行武蔵国に生る、北条左京太夫氏政に仕へ、其子甚右衛門景親天正十八年御打入の後、大久保石見守長安に属し、御代官をつとむとあり、多磨郡小安村に岡上次郎兵衛が屋敷などもあり、天正の頃此辺には、十八代官として大久保石見守を始としておかれぞ、岡上甚右衛門も其一なり、又【小田原北条役帳】には、三十七貫二百八十文小机奈良岡上大普請の時、半役可致之福島四郎右衛門とあり、且村内里三郎兵衛が家に、天正十九年水帳の写を蔵せり、旧き村なること知べし、村の広さは多磨郡三輪村に接し、西も同郡金井村にて、北も同郡熊ヶ谷(能ヶ谷?)村に続き、南の方のみ本郡奈良村に及べり、此村も山林高低ありて土性は黒土なり、陸田多して水田少しく、用水は谷々より出る清水を引用ゆ、民家五十軒は処々に散住せり、※場村の南僅かなる処にして、奈良村と入会へり、今地頭は大久保弥九郎なり、(※はノ木辺に朱)

高札場
 村の中央にあり、

小名

 自性寺谷
  村の西にあり、自性寺は天正十九年の水帳にしるてたれば、正しく古き寺なりと見ゆれど、いかなる故にて、いつ頃廃せしといふことを伝へず、

 せいの堂
  同じ辺りにあり、この名も天正の水帳に見えたれば、旧き名なるべけれど、文字は詳ならず、

 関村
  北の方にあり、堰ある故に此名ありと伝ふ、

 川井田
  西の方鶴見川の辺なり、

 阿部ノ原
  南の方にあり、多磨郡三輪村に城山と伝あり、其辺を三輪の台と唱ふ、いかなる人のまもりし城なることを伝へず、ただ此城に居住せし人の家老を、阿部某といひしが、其人ここに住せし処なればかく唱ふとぞ、

鶴見川
 西北の方多磨郡熊ヶ谷、金井の両村境より来り、村内北の方を流るゝこと十三丁余にて、東の方多磨郡三輪に達す、川幅七間許、

剣明神社
 除地、三段程、西の方田畑の間小高き所にあり、前に石段をなせり、社は一間半四方、拝殿二間四方東方向なり、もと剣を神體とせしにや、今は神體なし、本地不動を置きたるは、近き頃村民宮野某納めしよし、村の鎮守にて、例祭九月二十八日なり、村内東光院の持、

諏訪社
 除地、二段許、村の南にあり、僅かなる祠を北向に立、例祭七月二十七日、これも同寺の持、

東光院
 境内御朱印地、村の北にあり、新義真言宗、京都三宝院の末、岡上山宝積寺と号す、本堂十一間に七間東向、本尊不動立像長三尺許なるを安置す、開山開基を詳にせずと云へど、天正の頃まで十一代に及ぶといひ、又天正十九年の水帳にも載たれば、いづれ古き寺なることを知べし、尢猷院殿より寺領十五石の御朱印を賜へり、

 仁王門
  堂の正面にあり、五間に二間半、

 鐘楼
  門を入て右の方にあり、近き頃鋳し鐘なるに似たれど、其鋳し年月をしるさず、

 天神社
  堂の右にあり、

 疱瘡神社
  これも同じ辺にあり、


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