黄泉の国は何処にあったか

 

プロローグ

 

黄泉国(根の国)というと、イメージとして、地底にある国のイメージである。

伊邪那岐命が亡くなった伊邪那美命に会いに行き、妻の遺体を見てしまったために黄泉の国の軍隊に追いかけられ、ほうほうの態で逃げ帰った国である。
その国が、もしも現実にあったとしたら、どこにあったかが解れば、非常に面白い。それをを調べたのが本稿である。

その方法として、本説で提唱する「筑紫・豊王朝史」の視点から調べると、なんと、くっきりと「黄泉の国」が浮かび上がったのである。結局、神話の舞台とは、「筑紫・豊国」だったのである。


日本書紀 巻一 神代

伊耶那美尊> どうか、お帰りください。先ほど申しましたように、私はもう休みます。どうか寝姿を見ないで下さい。そして奥に戻っていった。しかし伊耶那岐尊はそれを聞き入れず、こっそりと爪櫛をとって、その太い歯を欠き、それを手灯りとして中を覗いた。中の伊耶那美尊は、膿が流れ、ウジがわいていた

伊耶那岐尊> 私は、思いがけず汚い国に、来てしまった。

そして急いで逃げ帰った。それに気づいた伊耶那美尊は怒り狂って言った。

伊耶那美尊> どうして約束を破られた。あれほど覗くなと申し上げたのに。

そして冥界の鬼女八人(注:原文には泉津醜女となっている)に命じて追いかけさせた。


「手灯りとして中を覗いた」、「膿が流れ、ウジがわいていた汚い国」、「冥界の鬼女八人」という表現など、真っ暗で、とてもこの世にあるとは思えないおどろおどろしい国である。現実にそんな国があったとは思われない。

しかし、もしもこの国が現実にあったとしたら面白いと思わないだろうか。

 

1.越根国

 

黄泉国(根の国)がもしもあったとしても、日本中の何処にあったのかさっぱり解らない。それを真面目に(?)調べた本にもお目にかかったことが無い。

まず、手掛りを見つけなければならないが、智導世津翁が「ホツマツタエ」という歴史書にそれを見つけた。

次の記述である。


ホツマツタエ 地の巻 24アヤ

 

(ニニギ命が)コエネノ国(北陸)に入り、アチハゼの館に宿った折りに、アチハゼが峰輿(みねこし・山岳地帯でも斜めにならず乗れる御輿)を献上し、早速これに召して、白山峯を巡り見ました。中略

 これを聞いた御孫は大変喜び、この奇遇を祝って、「今日からこの国の名をコシ(越)の国としよう」、「山の名は峰輿(みねこし・白山)とする」と、のたまい・・・・略


ニニギ尊が「コエネノ(越根)国」を「ミコシ」にちなんで「コシ(越)の国」と改名したとある。

したがって「越の国」と「根の国」とは、元々は別々の国で隣同士であったと思われる。それを一緒にして「越国」と改名したと書かれてある。

これには正直驚いた。ホツマツタエに「根の国」の記述があるとは! そしてこれが「根の国」調査の出発点となった。

 

上のお話はニニギ尊が葦原中つ国の高千穂の峰に降臨して、次に国内を「陸続き」に巡狩している時の記述であるから、高千穂の峰とは九州にあったから当然のことながら九州内のお話である。これは確定しておかなければ話があちこちに飛んでややこしくなってしまう。

 

ところで「越国」とは筆者の調査では、博多近辺である。(詳細は筆者のホームページを参照いただきたい)。ここまでは解っている。よって「根の国」とは博多の近隣ということになる。

そこでまずは博多近辺に絞って、重点的に調査してみることにしよう。

 

2.記紀の根の国

 

まずは、オーソドックスに根の国(黄泉国)の記述が多い古事記、日本書紀の記述を見てみることにする。これで解るなら話が早い。

ところで、2種類の記述の中で、同じ場面で同じ登場人物で同じストーリーの場合、出てくる地名の表記が異なっていても当然の事ながらそれは同じ地名であると考えることにする。

それでは、記紀の同じ場面の記述を比較してみよう。

 

第一表

古事記

日本書紀

上巻 伊邪那岐命より

そこで、その妹の伊邪那美に会いたいと思って、黄泉国を追い訪れた。・・中略・・しばらく黄泉神と相談してみます。私を見ないでください」と答えた。。・・中略・・

後には、その八雷神に千五百の黄泉の軍勢を従わせて追いかけさせた。そこで帯びていた十拳剣を抜いて、後ろを振り払いながら逃げ進んだが、なお追って来た。黄泉比良坂の坂の下に辿り着いた時・・・

死んだ伊耶那美尊は、伊耶那岐尊の悲しみように後ろ髪を引かれる思いを持ちながらも、黄泉の国へと旅だった。ついにある日、伊耶那岐尊は、伊耶那美尊を追って黄泉の国へ向かった。そして戸口で迎えた伊耶那美尊に言った

そして冥界の鬼女八人(原文では泉津醜女)に命じて追いかけさせた・・中略・・・

しかしこのとき伊耶那岐尊は、黄泉の国の境の平坂に着いていた

最後にその妹の伊邪那美:イザナミ命自身が追いかけて来た。そこで千引石をその黄泉比良坂に引き据えて、その石を間に挟んでそれぞれ向かい合って立った。そうして事戸を渡した時、伊邪那美命が、「愛しい我が勢命がそのようにするのならば、あなたの国の人々を、一日に千人絞め殺しましょう」と言った。そこで伊邪那岐命は、「愛しい我が妹の命がそのようにするのならば、私は一日に千五百の産屋を立てよう」と言った。このようなわけで、一日に必ず千人が死に、一日に必ず千五百人が生まれるのである

醜女達はこの川を渡ろうとしたが、千引きの磐でその平坂を塞ぎ、伊耶那美尊と向かい合って言った。

私はあなたの国の民を、一日に千人ずつ絞め殺しますよ。

伊耶那岐尊> 伊耶那美尊がそうなさるなら、私は人を毎日千五百人ずつ生ませることにしよう。

これによってこの国では、一日に千人が死に、千五百人が生まれることになった。

上巻 伊邪那岐命より

そして、その亡くなられた伊邪那美神を、出雲国と伯伎国の境にある比婆之山に葬った。

 

そこで、その妹の伊邪那美に会いたいと思って、黄泉国を追い訪れた・・・中略・・・

このようなわけで伊邪那伎大神は、「私はなんと恐ろしい、穢れた国を訪れてしまったのだ。私は体の禊をするべきだろう」と言って、竺紫日向の橘小門の阿波岐原を訪れて禊祓をした。

巻1より

死んだ伊耶那美尊は、伊耶那岐尊の悲しみように後ろ髪を引かれる思いを持ちながらも、黄泉の国へと旅だった。・・・中略・・・

そこで伊耶那岐尊は、筑紫の日向の川の落ち口の、橘の檍原に行って禊ぎはらいをすることにした

上巻 天照大御神より

 

そこで伊邪那岐大御神が速須佐之男命に、「どうしておまえは委任した国を治めず、泣きわめいているのだ」と言うと、「僕は妣国である根之堅州国に参りたいと思って、だから泣いているのです」と答えた。

巻1より

 

伊耶那岐尊> 素戔鳴尊よ。お前は、なぜいつも泣いてばかりいるのだ。

素戔鳴尊> 私は、母に会いたいのです。母のいる黄泉の国に行きたいと思って泣いているんです

亡くなった場所の記述なし。

巻1より

 

こう言い残すと素戔鳴尊は一人、黄泉の国へ旅立った。

上巻 大国主より

このようなわけで八上比売は八十神に、「私はあなたたちの言うことは聞きません。大穴牟遅神に嫁ぎます」と答えた。そこで八十神は怒り、大穴牟遅神を殺そうと思って共に相談し、伯伎国手間山の麓を訪れると

木の股をくぐらせて逃がし、「須佐能男のおられる根堅州国に向かいなさい

 そして、黄泉比良坂まで追いかけて遥かに眺め、大穴牟遅に・・・・

記述なし

 

第一表から解ることを列挙してみる。

 

@bSより、スサノオ尊が帰りたがっていた妣国とは、どれも同じ国の別の表記であるから、根之堅州国であり、黄泉の国である。つまり妣国根之堅州国黄泉の国

AbRの亡くなられた伊邪那美神を葬った「出雲国と伯伎国の境にある比婆之山」とはbUの「伯伎国の手間山」と同じ伯伎国であるから、比婆之山=手間山である。後で考察する

B日本書紀のbRとbTより、伊耶那美尊が旅だった黄泉の国と、素戔鳴尊が一人旅立った黄泉の国は同じ国である。よって二人は亡くなるとき、同じ黄泉の国で亡くなった。

CbUより、スサノオ尊は結局は母の国である根の国(黄泉国)に戻ってそこに居住していたと思われる。

DbQの千引石の話はまだ解説できないが後で考察する

E黄泉比良坂および竺紫日向の橘小門の阿波岐原はまだ、さっぱりわからない。黄泉比良坂は後で考察する。竺紫日向の橘小門の阿波岐原は別の稿で考察する

 

以上であるが、要するに記紀だけを頼りにしていたのでは、根の国(黄泉の国)についてはどこにあったのかさっぱりわからないということである。

それを調べるためには、また意外にもホツマツタエを頼りにして、スサノオ尊の生まれた所まで遡っていかなければならなかったのであった。

 

3.ホツマツタエの根の国

 

根の国とはスサノオ尊の生い立ちと非常に関係の深い国である。この国を調べるためにはスサノオ尊の生まれから遡って調べる必要がある。

それをホツマツタエから調べてみることにする。

 

第二表

ホツマツタエ記述

天の巻 1アヤ

イサコ(伊邪那美命)はヒタカミの国で育ち、タカヒト(伊邪那岐命)はネの国の出身です。

天の巻 1アヤ

先にイサナギ、イサナミはツクシ(筑紫)に行き、ツキヨミ(月読)を産み育てました。その後両神は、ここソサ(現・熊野)に来(キ)たりて宮殿を建造して静(シ)かに居(イ)ましたので、この地方をキシイ国(紀州)と言いました。中略

 先に捨てられたヒルコ姫も、今は母とともに睦まじく生活(くら)しました。頃は春、花の下(もと)で歌を教えてもらっている最中に母が出産し、男の子を産んだので名前をハナキネと付けました。成長して後のソサノオ(須佐之男)です。

 ここソサ(熊野)で成長したハナキネは、母譲りの美貌と歌の才に恵まれた姉に、歌について質問をしました。

天の巻 3アヤ

丁度花の季節の頃、ソサ(現・和歌山)で末子として生まれたのが、真名(イミナ)ハナキネ、称名(タタエナ)ソサノオです。イサナミは、息子ソサノオがこの様に荒れて世間に隈(くま・災い)をなすのも全ては自分の汚穢(おえ・穢れ)によるものと深く悩んだ末に、民に降りかかる災害の責任を全て我が身に引き受けて民を守るために、息子の厄を除く祈りからクマノ宮を建てました。

天の巻 5アヤ

このように民の安全を心から願って熊野三宮を建てて、災害がこれ以上及ばないようと神祭りもねんごろに行いました。この後、あまねくお触れを出して諸民に与えた損害をくまなく償いました。

 本宮の名をクマノ宮(熊野)と呼ぶようになったのも、息子のクマ(災い)が民に及ばぬようにとの計らいからこの宮を建てたことによります・・・中略・・・母イサナミは勢いづく山火事をなんとか消火しようと、本宮(クマノ本宮)に籠って一生懸命に祈願を続け、火の神のカグツチ(迦具土)を生んで消化を願いますが、ついに火にまかれて焼死してしまいました。

 

第二表から解ることを列挙する

 

@       伊邪那岐命は根の国の出身である。したがってここで探している「根の国」とは、元はといえば伊邪那岐命の国である。

A       月読み命は筑紫で生まれ育った。

B       昼子姫(スサノオ尊の姉)はキシイ国で生まれた

C       昼子姫は母親譲りの歌の才能があった

D       キシイ国は「蘇刺国」の中にあった

E       スサノオ尊は「蘇刺国」で生まれ育った。

F       スサノオ尊は春、花の下で生まれた。幼名は「ハナキネ」であった

G       伊邪那美命は息子(スサノオ尊)のクマ(厄)を除く祈りからクマノ三宮を建てた

H       伊邪那美命はクマノ宮でスサノオ尊の放った火が元で火災で亡くなった

I       bRより、蘇刺国の中にクマノ宮がある

J       bSに伊邪那美命が亡くなった場所が「クマノ宮」と記述されてある。伊邪那美命が亡くなった場所は「根の国」である。したがって「クマノ宮」は根国にある。

 

以上である。

この他に筆者のホームページの調査で解っていることを列記してみる

 

@       昼子姫は成長するにしたがって和歌姫、下照姫と名を変えた

A       ホツマツタエにキシイ国を和歌国と改名したとあるので、キシイ国=和歌国となる。

B       昼子姫の生まれた和歌国は津屋崎の見える場所であった

C       和歌国は昼子姫の国であった

D       昼子姫は下照姫の名前を大国主の娘・高照姫に襲名させた

E       高照姫は「石川潟淵」の歌を詠んだ。石川潟淵とは津屋崎のことであった。

F       スサノオ尊の生まれた蘇刺とは、ニニギ尊が天孫降臨の時に通った「蘇刺の空国=宗像」の蘇刺である

G       「蘇刺の国」とは宗像を含む、津屋崎から古賀、新宮、カスヤ、博多にかけての大きな国である

H       スサノオ尊の「花」に関係する地名が「蘇刺の国」の中で集中的に残る場所が古賀〜新宮の付近に存在する

I       スサノオ尊の「クマ」に関係する地名が「筑紫の国」の中で集中的に残る場所が「カスヤ」に存在する

 

さてこれからが、智導世津翁の尊敬する迷推理探偵の出番である。以上の調査結果を基に、今から推理していただく。

推理を助けるため、先に博多周辺の地図を掲げておく。

 

第一図 根の国  koene01.png

 


やっとわしの出番が来たようじゃな。
それでは、推理していった順番に書いていく

 

(1)       蘇刺国の中に「キシイ国=和歌国=津屋崎」「蘇刺の空国=宗像」、筑紫の中に「根の国=黄泉国」「カスヤ=粕屋」が含まれる。

(2)       筑紫で生まれた「月読命=月黄泉命」という表現から、「黄泉国」とは筑紫にあり、古事記の「黄泉神」とは「月読命」と推理する

(3)       スサノオ尊とは「蘇刺の男」であろう。

(4)       スサノオ尊が生まれ育った場所は蘇刺国と推定される古賀〜新宮の中の「花*」「*花」の地名のつく周辺であろう。(第一図参照)

(5)       根の国の中でクマノ三宮のあった場所は博多の中で「クマ=隈」の地名の集中する周辺であろう。「粕屋」には月隈、ざっしょの隈、大隈、金隈などの地名が多く残る。(第一図参照)

 

この地図・第一図と推理により、根の国の大まかな位置関係が解ってきた。

そこで根の国を更に詳細に考察して見ることにする。

 

4.カスヤの宇美町・志免町・須恵町

 

次に、伊邪那美命の建てた「熊野三宮」があったと推定した、第一図のカスヤの「根の国」の部分を下図に拡大してみる。

 

第二図 カスヤ  umi.png

カスヤの宇美町・志免町・須恵町周辺にはスサノオ尊の「隈」に由来すると思われる地名「、ざっしょの、大、金」などが集中している。そこでカスヤの宇美町・志免町・須恵町周辺をもっと詳しく調査してみよう。

さて調査するための手掛りは次の文章である。伊邪那岐命が伊邪那美命に会いに行った時、伊邪那岐命の後をクマノ宮から伊邪那美命が追ってきた。そのときの様子が記紀に記述されている


古事記 上巻 伊邪那岐命
最後にその妹の伊邪那美命自身が追いかけて来た。そこで千引石【ちびきのいは】をその黄泉比良坂【よもつひらさか】に引き据えて、その石を間に挟んでそれぞれ向かい合って立った。そうして事戸【ことど】を渡した時、伊邪那美命が、「愛しい我が勢の命がそのようにするのならば、あなたの国の人々を、一日に千人絞め殺しましょう」と言った。そこで伊邪那岐命は、「愛しい我が妹の命がそのようにするのならば、私は一日に千五百の屋を立てよう」と言った。このようなわけで、一日に必ず千人が死に、一日に必ず千
五百人が生まれるのである。


日本書紀 巻一 黄泉の国
後から伊耶那美尊自身も追いかけてきた。
しかしこのとき伊耶那岐尊は、黄泉の国の境の平坂に着いていた。そこで伊耶那岐尊は大樹に向かい放尿をした。それが大きな川になった。醜女達はこの川を渡ろうとしたが、千引きの磐でその平坂を塞ぎ、伊耶那美尊と向かい合って言った。
伊耶那岐尊> 伊耶那美尊よ、今日限りでそなたとの縁を切ろう。
伊耶那美尊> 伊耶那岐尊よ、あなたがそんなに冷たい人だとは、思いませんでした。しかしあなたがそう仰るのなら、私はあなたの国の民を、一日に千人ずつ絞め殺しますよ。
伊耶那岐尊> 伊耶那美尊がそうなさるなら、私は人を毎日千五百人ずつせることにしよう。
これによってこの国では、一日に千人が死に、千五百人が生まれることになった。


 

この記紀の記述の中には暗号が沢山隠されている。地名の暗号と思われる「」「」「絞め」「据え」が第二図の中に出ているのがお解りだろうか。

地図中の「宇美」「志免」「須恵」である。

」「」→「宇美

絞め」→「志免

据え」→「須恵」と3つのセットになっている。

これが偶然とは決して言えないであろう。記紀の作者が文中に潜ませた暗号としか考えられない。

また、「千引石を間に須恵て、宇美と志免で向かい合って」と記述されているから、配置までぴったり同じである。

したがって、根の国とは現在の地名で言えば「カスヤ」である。

 

もうひとつある。「よってこの国では、一日に千人が死に、千五百人が生まれることになった」と書いてある。一見とりとめのない話とは正にこのことで、このエピソードはお話の筋と何の関係もない。これも誰が考えても暗号であろう。そこでまた暗号の解読である。

 

まず、「千五百」=「チホ」というと思い出されるのは葦原中つ国の別名の「千五百秋瑞穂の国」である。よって「千五百」とは葦原中つ国のことである。

 

「千」というと普通「チ」と読むが「千」という国は思いつかない。しかし何故だか伊邪那美命の「櫛」が不自然な形で登場したことを覚えておられるであろう。本稿のプロローグで登場した日本書紀の「伊耶那岐尊はそれを聞き入れず、こっそりと爪櫛をとって、その太い歯を欠き、それを手灯りとして中を覗いた」である。爪櫛とは「ツクシ」であり「千」と合わせて「チ・クシ」=筑紫である。解ってみれば単純である。

 

「千五百」引く「千」は「五百」である。「五百」=「イホ」というと思い出されるのは魏志倭人伝の己百支國(五百城国=イホキ国)である。つまり、この国は「五百国」=己百支國ですと言っているのであろう。やっと魏志倭人伝の「己百支國」が見つかった。

 

以上をまとめると、葦原中つ国で千五百人産み、筑紫で千人殺し、カスヤで五百人増えるというわけで、結局伊邪那岐命・伊邪那美命のお話の舞台は、葦原中つ国・筑紫・カスヤの3つの国という暗号である。

このように、わずか数行の間に暗号を6個も潜ませている。

 

5.カスヤ考察

 

伊邪那美命のクマノ三宮のあった粕屋の地図を見ていて、「酒」に関連した地名が集中しているのに気がつくであろう。例えば「粕屋」も「堅粕」も「酒殿」も、「船石(槽石)」も酒に関連した地名である。宮の傍には清酒を造る酒殿があったと思われる。

ところで、ホツマツタエにも酒の由緒を記述した部分がある。


ホツマツタエ 天の巻 2アヤ

 モモヒナギとモモヒナミが人(ヒト)として立派に成人されたある年の弥生三日のことでした。この時初めて御神酒(おみき)を造り両神に奉りました。このお酒を造った神はイノクチという所のスクナミ神で、庭の竹株に雀がたくさん集まって籾(もみ)を入れるのを見ているうちに、ふと閃いて、籾を醸してにごり酒を造り、桃雛木(モモヒナギ)と桃雛果(モモヒナミ)神に、竹筒に入れて献上したところ、モモヒナギの神は大層このお酒をお誉めになり、スクナミ神ササナミという神名を新たにくだされました。このササナミ神は後にササケ山に祭られて、サケの語源となりました。この両神に捧げたお酒を、の木(キ)と実(ミ)にちなんでお神酒(ミキ)と名付けました。


このホツマツタエの中に出てくる酒に関連した地名が、驚くことに黄泉国の粕屋の地に多く存在することに気がついた。それを地図上に表してみる。

イノクチ=井野口、スクナミ神=敷縄神、ササケ山=篠栗山である。

さらに驚くことに、次に掲げる日本書紀の文中にもこのスクナミ神が登場してくる。

 

第三図 カスヤ

 


日本書紀 巻九 神功皇后紀

治世13年春2月8日、武内宿禰に命じて皇太子に従わせ、敦賀の笥飯(けひ)大神に参らせた。

17日、皇太子は敦賀から戻った。この日、皇太后は太子の為に大殿で大宴会を催した。皇太后は盃をささげ、お祝いの言葉を述べ、そして歌を詠んだ。

「此の御酒は 吾が御酒ならず 神酒(くし)の司(かみ) 常世に坐す いはたたす 少御神(すくなみかみ)の豊寿(とよほ)き 寿(ほ)き廻(もと)ほし 神寿(かみほ)し 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ あさず飲せ ささ」


 

スクナミ神とは上の文章の中の少御神(すくなみかみ)のことである。

上の日本書紀とホツマツタエの記述に表れる酒の神「スクナミ神」の神名が一致している。したがって両記述は同じ場所(カスヤ)でのお話である。

今まで書紀の少御神(すくなみかみ)のことが解らなかったが、やっと解った。つまり神酒の司「酒の神様」のことだったのである。

 

してみれば、上の日本書紀に書かれている神功皇后が宴会を催した「大殿」とは、「酒殿」の傍である。カスヤに「酒殿」という地名があり、池の向かい側には敷縄という地名がある。スクナミ神(敷縄神)を祀る「小殿」があったと推定される。この周辺の地名を智導世津翁のホームページで調査した結果、中殿、甲殿、乙殿など、「*殿」のつく地名がカスヤに多く集中していることが解った。

 

また筑紫の磐井の子葛子の屋敷があったとも言われている。葛子とは勝子であり、カスヤ大宰府を開設していたが磐井が殺された時に幕府を返上した。これについては別稿で考察する。

 

そこの「敷縄」からササケ山(篠栗)の方に登ったところに伊邪那岐命の太祖宮がある。この太祖宮は博多平野を挟んだ西の高祖山の伊邪那美命の飯盛宮と一対になっている。これについては別稿に詳しく考察する。

 

上のホツマツタエの文中に、ササケ山(篠栗)にスクナミ神が別名「ササナミ神」として祀られたという記述があるから、篠栗に行く道を「ササナミ道」と言ったのである。

「ササナミ道」はその後も日本書紀応神天皇紀に登場し、応神天皇の歌にも登場するからよく利用された道である。

迷探偵は、実はこの道は応神天皇が神功皇后のショウケに負われて登った道で、通称「ショウケ越」であると推理している。

 

そして、上の日本書紀の文の「神功皇后治世13年春2月17日」とは、もっと大きな意味を持つ大変な日なのである。

何かというと、神功皇后が熊襲と新羅を制圧して邪馬臺国を統一し、わが子応神天皇を皇位につけ、事実上大日本帝国の建国宣言をした日なのである。そのお祝いの式典を催したのがカスヤの大殿である。したがって日本の事実上の第三回目の建国の日(大日本帝国の建国日)とは「神功皇后治世13年春2月17日」であると言える。

 

「神」名のつく天皇は建国宣言をした天皇である。

神武天皇は葦原中つ国を(第一回目)、崇神天皇は邪馬壹国を(第二回目)、応神天皇は「邪馬臺国」の建国宣言を(第三回目)したと思われる。それぞれの日付は記紀に記述されている。

この件は智導世津翁のホームページで詳細に考察しているのでご覧いただきたい。

 

6.黄泉津比良坂と桃と八雷神

 

記紀に再三登場する「黄泉津比良坂」とはどこにあった坂なのかを知りたいが、これについて詳細に調査した文献を読んだ記憶が無い。やはり現実にあった坂ではないのか。弱気が頭をもたげてくる。

ところが、この文を書いている内に「桃」が気になった。「黄泉津比良坂」というと、桃が登場してくる。伊邪那岐命が登場する年代というと西暦では一世紀にあたる。果たしてこの時代から桃が存在していたのか。一体この「桃」とは何者かと言うところから調べを開始する。

まず、「黄泉津比良坂」別名「ササナミ道(峰輿道)」と「桃」とが両方登場する場面の記述を抜き出す。

 


古事記

黄泉比良坂の坂の下に辿り着いた時、その坂の下に生っていたの実を三つ取って、待ち受けて投げつけると、ことごとく逃げ帰っていった。

 

ホツマツタエ 天の巻 2アヤ

スクナミ神ササナミという神名を新たにくだされました。このササナミ神は後にササケ山に祭られて・・・中略・・・弥生三日 桃の木(キ)と実(ミ)にちなんでお神酒(ミキ)と名付けました。

 

ホツマツタエ 地の巻 24アヤ

(ニニギ尊が)コエネノ国(北陸)に入り、アチハゼの館に宿った折りに・・・中略・・・峰輿のお返しにミチミノ三千寿)を賜い


 

一つ目の記事は伊邪那美命が黄泉国の軍隊に追いかけられる場面、二つ目はササナミ道の説明と酒の由来について、三つ目は峰越道の説明である。

この3つの文章は相互に関連していないと言う方が無理である。

 

古事記の「の実を三つ」、ホツマツタエの「弥生三日 桃の木」同じくホツマツタエの「ミチミノ三千寿)」というように、「桃」とおまけに「三」まで共通である。

苦労して編纂した記述をキチンと呼んでくれていますかと試されているようである。

 

「黄泉津比良坂」とは、ホツマツタエと記紀の編者にとっては共通の認識があり、それを「桃」と「三」という二つのキーワードで同じものであると読者に伝えているものと思われる。

よって、「黄泉津比良坂」とは、「ササケ山」を越える「ササナミ道」であり、「峰越道」にある坂であると推理する。

 

そうとわかれば話が早い。篠栗山を越えて下りたところの場所は飯塚である。「黄泉津比良坂を今にイフヤ坂と言う」のイフヤ坂とは「黄泉津比良坂」を越えて降りた場所の「飯塚=イヒツカ」のことであると解る。飯塚とはイフヤ坂が訛ったものである。

今までイフヤ坂というからてっきり坂だと思っていたが、それこそ潜入観念に囚われていた。

 

飯塚の場所とは、筆者の調査では、出雲であり、高千穂であり、イワレであり、葦原中つ国である。正に記述とぴったり整合する。これらの国について知りたい方は、智導世津翁のホームページをご覧いただきたい。

 

第4図 黄泉津比良坂

 

 

また、坂を下りた場所は神功皇后が命名した「穂波」である。稲の千穂が高く青々と平野一面に実っている様をみて名付けた、と郷土史にある。出発点が篠栗(ささくり)で終点が穂波(ほなみ)であるから「ささなみ道」である。これもピッタリ整合する。

 

さらにもうひとつ、イフヤ坂が飯塚と解れば、「千引石」とは飯塚の立岩の熊野神社の岩のことである。

社伝に「昔々、神武天皇がこの地を訪れた時の事。神武天皇が休んでいたら、いきなり空が真っ暗になって雷鳴がとどろき、大きな岩が山頂に降り注ぎました。何事かと思っていたら、神様が現れて『我は手力男神なり!この地に潜む、熊のようで熊でなく、蜘蛛のようで蜘蛛でない、手足が八本ある怪物が害をくわえようとしていたので退治した!』と言いました。」とある。

「手足が八本ある怪物」とは、まさに黄泉の国の軍勢の「八雷神」である。いかなる歴史書を読んでも「八雷神」以外に「手足が八本ある怪物」の記述はない。よって「手足が八本ある怪物」=「八雷神」である、故に千引石」=「飯塚の立岩の熊野神社の岩」である。

 

7.比婆の山

 

比婆の山とはまたおどろおどろしい表現である。

しかし、第一表から「出雲国と伯伎国の境にある比婆之山=手間山」という暗号を導き出した。これを基にすれば現実に存在した山であることが解る。それをこれから調べていく。

 

最初に出雲国とは北九州から筑豊平野の全部を含む大きな国であることが解っている。伊邪那岐命は高千穂(筑豊平野)の高千穂宮に居住していたことも解っている。詳しくは、智導世津翁のホームページをご覧いただきたい。出雲=伊都国=葦原中つ国である。

伯伎国とは筑後平野の杷木である。出雲からは秋月を越えればそこが杷木国である。

 

図5 麻氐良山

 

 

杷木に麻底良山がある。倭国が解体する原因となった白村江の戦いの前夜、斉明天皇が志波に朝闇宮を建てた場所である。中大兄皇子もこの時確かにここに居まして歌を詠んだ。

何故、このような大事な時期にこの場所にという答えがここにある。

麻底良とはアマテルとも読める、アサクラとも読める。アサクラとは天子の居ますところである。並べ替えれば底良麻山=手間山(テルアマ山)である。麻底良山とは杷木の志波にある。志波とは比婆が訛ったのである。

 

この麻底良山に伊邪那美命が葬られていると推理する。

斉明天皇は倭国の解体を報告に参ったのであった。位を降りられた年が大化元年、言わずと知れた大化改新の年である。再び位につかれ皇極天皇として重祚された。「皇が極まる」とは意味深である。

 

杷木は浮羽にある。浮羽とは景行天皇が九州巡狩の時に最後に立ち寄った場所である。

瓜二つの語源であり、狗奴国の祖であったアチスクタカヒコネの美濃国でもある。

神功皇后に滅ぼされた羽白熊鷲の国でもある。
以上で迷探偵の推理を終わる。後は智導世津翁に宜しく頼む。

8.最後に

以上で、迷探偵のご協力を得て、黄泉の国の考察を終わる。
詳細に考察した文献にお目にかかった事がないのでまったく五里霧中であったが、なんとか結論にまでたどり着くことができた。
この結論についてなるほどと納得する方はほとんど居られないとは思うが、余分な先入観念は除いて純粋に考察したつもりである。
私の場合、黄泉の国が全くの作り話だとか、神話の世界のお話だとかいくら説得されても信じないであろう。何らかの史実があってそれに基づいて作られていると信じている馬鹿だからである。
今後もこの馬鹿に基づいて、稿を起こすつもりである。つまらない話にお付き合い有難うございました。

9.参考文献

当文中に以下の方々のホームページより引用させていただきました。有難うございます。お礼申し上げます

1.ホームページ「私本日本書紀」
(URL)http://www2.loops.jp/~asukaclub/syoki.html#chapter21
2.ホームページ「日本神話の御殿」
(URL) http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/index.htm
3.ホームページ「ホツマツタエ」
(URL)http://www.hotsuma.gr.jp/index.html
4.Googleマップ
(URL)http://local.google.co.jp/
5.ホームページ「神話伝説」
(URL)http://nonbiri.boo.jp/sinwa48.html

10.著者のホームページ
「古代史の謎を解く旅U」
(URL)http://www.geocities.jp/oden1947/



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