
熊鰐と日本国のルーツ
プロローグ
著者と同じ北九州在住の古代史研究家安田氏という方がおられる。その方の「九州倭国東遷の謎(日本三国史)」という本を書店で見て買って読んだところ、その研究態度が従来の古代史研究家にない、文献に忠実な研究態度だと思われた。
そこでその方の本に興味を持ち、その中の「熊鰐」という人物が日本の建国に大きな役割を果たしたと言う部分を読んで、著者もホームページの中である程度考察しているので、それを交えてここで再度考察してみることにした。
結果を先に申し上げれば、安田氏の結論と同じく、日本国のルーツが「熊鰐」という人物に集約されていたことが解った。
それらについて考察したことを、今からアマチュアの特権としてかなり大胆に述べさせていただきたいと思う。
第一話 熊鰐
仲哀天皇が治世二年に神功皇后と豊浦宮で落ち合い、五年の間を置いて、その後治世八年に一緒に香椎宮へ移動する時の記事が、何故か事細かに日本書紀に記述されている。
何故こんなに詳しく記述する必要があるのか不可解であるが、誰もそのことについて言及するのを見たことがない、ということもまた、著者にとっては不可解である。
その不可解な文章の中で「熊鰐」という人物が登場し、仲哀天皇と神功皇后を周芳の沙麼(さば)の浦から岡田宮まで長い行数をとって案内する様子を事細かに記述している。
何故このような長い文章が必要なのか?
著者はこの稿の結論としてその理由は、日本国のルーツを述べるためと、魏志倭人伝の伊都国と奴国を紹介するためであると推理した。
ところで、熊鰐について考察するためには北九州に関する土地勘が必要である。それは本文を読んでもらえば解る。そこで今から著者が北九州に住んでいると言う地の利を生かして考察してみよう。
ただし、熊鰐に関しては北九州在住の安田氏が既に研究を進めておられるのでそれを参考(著書:九州倭国東遷の謎(日本三国史)にさせていただく。まず、熊鰐が登場する場面からである。
資料1 日本書紀
「仲哀天皇治世二年9月、宮を穴門に建てて住んだ。これを穴門豊浦宮という」・・・中略・・・
治世八年1月4日、天皇(仲哀天皇)は筑紫に行き、岡県主の先祖の熊鰐(わに)が、来たことを聞いて大きな賢木を根こそぎにして、大きな船の舳に立てて、上枝に白銅鏡をかけ、中枝には十握剣をかけ、下枝には八尺瓊をかけて、周芳の沙麼(さば)の浦に迎えた。
御料の魚や塩が採れる土地を献上し言った。
熊鰐> 穴門より向津野大済(むかつのおおわたり)に至るまでを東門とし、名籠屋大済を西門とし、没利(もとり)島(六連島)、阿閉(あへ)島(藍島)を限って御筥(みはこ)とし、柴島を割いて供養の魚を捕るための地とする。逆見の海を塩地としたい。・・・熊鰐は海路を案内し、山鹿(やましか)岬からめぐって岡浦(おかのうら)に入った。
ところで上の文章中の仲哀天皇の治世二年から治世八年といえば間が中5年であり、地元にある伝説の「仲哀天皇は5年余りの歳月を掛けて関門海峡を自軍の舟が通過できるように開鑿(かいさく)工事を行った」とピッタリ年数が合っている。誰でも日本書紀を読んでいたわけではないであろうから、ここまで正確であるということは地元に伝わる伝説もただの伝説ではない、事実に近いということを表してはいないだろうか。
さて、上の資料1の熊鰐が賢木の枝にかけた「白銅鏡、十握剣、八尺瓊」といえばどこかで見たような気がする。
著者のような頭の悪いものでも頭の片隅にあったのでこれを調べてみることにする。
同じく日本書紀の景行天皇の時代の次の文章をご覧いただきたい。
資料2 日本書紀
(景行天皇)治世12年秋7月、熊襲がそむいて貢物を納めなかった。そこで天皇は8月15日、筑紫に向かった。
9月5日、周芳の娑麼に着いた時、天皇は南方を眺めて群卿に言った。 南方の方に煙が多くたっているな。・・・神夏磯媛(原文では「一國之魁帥」)は天皇の遣いが来たことを聞いて、磯津山(北九州小倉の貫山)の賢木を抜いて、上の枝に八握剣を、中枝に八咫鏡を、下枝に八尺瓊をかけて素幡を舟の軸先にたててやってきて言った。
資料2の神夏磯媛が熊鰐と同じように賢木の枝にかけたのは「八握剣、八咫鏡、八尺瓊」であるから、上の資料1の熊鰐と同じ三種の神器である。しかも、場所もどちらも同じ「周芳の娑麼」である。
つまり、神夏磯媛も熊鰐もまったく同じ場所で同じ三種の神器を示したと言うのであるから、二人が見知らぬ他人と言うことはありえないであろう。少なくとも夫婦、親子、でなければ一族であろう。この二つの文章が全く関係がないと言う人はいないであろう。
この二つの文章の関連性をどのように解釈すればよいのか、全く不思議な文章同士である、著者が何日間か頭をひねるけれど解らない、ここは著者専属の迷探偵の出番であろう。いつもながら宜しくお願いします。
どれどれまたわしの出番が来たとな。うれしいのー。張り切っていこうぞ。この二つの文章は不思議の世界への入り口であるぞ、それをまず言っておこう。
さて、資料2の神夏磯媛とは著者のホームページ「古代史の謎を解く旅T」の論文「稲葉の素兎」の考察結果から、「一國之魁帥=邪馬壹国の女王」すなわち卑弥呼であると解っておるな。
また神夏磯媛とは稲葉の素兎であり、アカル姫(アメノヒホコの妻となり、ヒホコに追いかけられて日本国に戻り、比売碁曾社に祀られた神)であることも解っている。このことを本稿では「仮説1」としておこう。
仮説1 神夏磯媛=一國之魁帥=邪馬壹国の女王=卑弥呼=稲葉の素兎=兎神=アカル姫=アメノヒホコの一族
検証はしたつもりであるが、もしも矛盾が生じたらその時点で仮説を訂正すれば良いのじゃ。この仮説1をしっかりと覚えておいて欲しい。
ところで、神夏磯媛は周芳の娑麼で景行天皇を出迎え、稲葉の素兎は鰐(ワニ)に欺かれて困っているところを大国主に助けられて豊国企救の稲葉川の河口に着いた、アカル姫は最初関門海峡の難波に着き北九州小倉の「比売碁曾社=卑弥呼宮=朝日アガル宮=アカル宮=葦一騰宮=兎神の宮」に到着した事も解っているな。素兎には鰐が登場して、同じ「鰐」というキーワードで繋がっているから、記紀の編者も意識して同じ人であると伝えているわけである。
ならば稲葉の素兎=卑弥呼=アカル姫の到着した北九州の「朝日アガル宮」のある場所が必然的に神夏磯媛が景行天皇を出迎えた「周芳の娑麼浦」ということになる。稲葉の素兎=卑弥呼=アカル姫の到着した場所とはすなわち北九州小倉の日明りである。よって小倉の日明かり=周芳の娑麼浦である。
これまでの「周芳の娑麼浦」が周防の防府であるという常識とは異なる場所であるが、資料2では景行天皇はそもそも筑紫に向かったと記述されていて筑紫に上陸しており、資料1では仲哀天皇・神功皇后は穴門豊浦宮を出て岡田宮に向けて西に行く途中で周芳の娑麼浦に着かれたのであるから周芳の娑麼浦とは穴門と岡田宮の中間になければならない。
他の研究書を読んでも周芳の娑麼浦を周防の防府に比定していることを皆不思議がっている。それを何故あえて「周芳の娑麼浦」を中国地方に比定するのかそれを逆にお聞きしたいものであるな。同じ地名があるからと言って根拠もなく、矛盾をもっているのに比定するのならば日本中にいくらでも存在するであろう。
古代史の地名の比定の仕方については今までのやり方はかなりの部分間違っているのではないかと考えており、原点に戻って最初からやり直した方がよいのではないかと迷探偵は考えておる。
元に戻って、上の資料1と資料2は「鏡、剣、八尺瓊」の三種の神器と「周芳の娑麼浦」が共通である。
したがって、どう考えても熊鰐と神夏磯媛は同じ一族であり、同じ「周芳の娑麼浦」の場所で仲哀天皇、神功皇后、景行天皇を出迎えたと言う以外に考えられない。故に
仮説2 熊鰐と神夏磯媛は同じ一族である
時代的にも資料1と資料2はほとんど同じ時代すなわち魏志倭人伝の時代であろう。後でもう少し詳しく考察するぞ。異なるのは賢木を抜いた場所が熊鰐の場合は記述がなく、神夏磯媛は磯津山(北九州小倉の貫山)の賢木であると記述があることである。しかし、熊鰐が賢木を抜いた場所は伝説で解っているぞ。
資料3 枝光八幡宮由緒
今から二千数百年の昔、第一四代仲哀天皇、神功皇后、熊襲征伐の砌、この地に立たれ県主熊鰐が真榊の枝に鏡、剣、瓊の三つの宝を掛けてお迎えしたが、この真榊は熊本山(現在の高炉台公園)で採られたもので、このことから以降「枝光(枝三)」と称されるようになった。
すなわち賢木を枝光(北九州市八幡東区)の熊本山で抜いたとある。小倉の貫山も枝光もすぐ近くであるからほとんど同じ場所である。どちらも北九州市内である。北九州に住んでいない歴史専門家にはこういう情報を得るのは難しいであろう。このことから、次のようなことが解る
仮説3 熊鰐の本拠地は北九州市八幡東区枝光であった
枝光とは岡田宮があったといわれている場所とほとんど同じ場所である。小倉日明り=周芳の娑麼浦の西隣である。つまり、資料1の文章は、次のような記事に読みかえることができる。
仮説4 八幡枝光の岡田宮に本拠を構える熊鰐が東隣の小倉日明りの葦一騰宮で仲哀天皇・神功皇后を御出迎えした
なんのために資料1および資料2の記事が必要なのか?これを解説するためには多くのページ数を必要とするが先に結論だけをいっておく。驚くでないぞ。
つまりじゃな、資料2で卑弥呼が三種の神器を持っておった、しかしその後卑弥呼は亡くなった、卑弥呼の後を神功皇后が継ぐことになった、そこで資料1で卑弥呼の一族の熊鰐が葦一騰宮で三種の神器と土地を神功皇后に献上し、受け渡したのである。土地の広さとは資料1に記述してあるように東は穴門から西は遠賀川河口までじゃ。国名は「豊国」、魏志倭人伝では「奴国」という名前じゃ。
わしの先生の安田氏も似たような考え方で「奴国」を比定しておられるが、先生のお考えとわしの考えた位置は若干ずれておるがの。
第一話の冒頭で言ったように何故、仲哀天皇と神功皇后が豊浦宮から香椎宮へ移動する途中のお二人の行動を事細かに記述しているかと言うと、魏志倭人伝の主要な部分の説明と魏志倭人伝に登場する国々と人物を紹介しておるのじゃ。従ってそれを対比して特定することは可能なのじゃが本稿ではとてもページ数が足りないので別稿で考察することにして本稿ではターゲットを熊鰐に絞る。
ということで、以上の考察を基にすると迷探偵も自分で推理したにも関わらず驚いたのであるが、自動的に次のようになる。
仮説5
・アカル姫の卑弥呼が韓から帰って来て到着した場所がアカル宮の「葦一騰宮」
・神武天皇が豊国の宇佐でウサツヒコ・ウサツヒメに接待された場所が「葦一騰宮」
・仲哀天皇・神功皇后が熊鰐から接待を受けた場所が周芳の娑麼浦の「葦一騰宮」
この中で神武天皇の「葦一騰宮」についてはまだ言及していなかったのがであるがこれは古事記に記述がある。
資料4 古事記 神武天皇紀
日向を発って筑紫に進んだ。そして豊国宇沙に着いた時、その土人の、名は宇沙都比古と宇沙都比賣の二人が足一騰宮を作って大御饗〔おほみあへ〕を献上した。その地より移って竺紫之岡田宮で一年を過ごした。
資料4の中で「豊国宇沙の足一騰宮」とあるが古代史上の「豊国」とは著者の調べでは北九州の小倉門司から行橋田川に限定された地域と解っているな(著者のホームページ「古代史の謎を解く旅T」の論文「豊国とは」参照)。万葉集に読まれている「豊国」の歌10首もすべてこの地域を指すと解ったな。よって「豊国宇沙」とは従来言われている大分の宇佐ではないと推理したな。
また不思議なことに神武天皇と仲哀天皇、神功皇后は宇沙から岡田宮へと全く同じルートを辿っているのである。これも後で何故だか解るぞ。
なんと歴史上重要な神様が皆、「葦一騰宮」にお出でになった。これは大発見であろう。いくら迷探偵でも今までこんなことを解説した文章にお目にかかったことはないぞ。自分でもびっくりじゃ。是非発表したいもんじゃのー
ところで迷探偵、神武天皇は何故「葦一騰宮」にお出でになったのですか?
それはじゃのー、葦一騰宮とはここで稲葉の素兎が登場し、素兎が宇佐神宮の御神託の神となった起源と関係があってのー、後で第三話の冒頭で説明するぞ。
フーム、なんだかジグソーパズルがピッタリ隙間なく埋まったような気がする。ひとつの美しい絵の出来上がりみたいな気がします。
こういう風に平易に解説してくれた解説本でもあれば、迷探偵も苦労して解説してくれなくても済むはずなのにと思いますがね。どこかにないものでしょうかね。
第二話 アメノヒホコ
ところで先生、周芳の娑麼浦は解りましたが肝心の熊鰐と神夏磯媛が同じ「鏡、剣、八尺瓊」を所有しており、同じ熊鰐の一族とはどういう風に解釈すればいいのでしょうか。
おお、そうであったな、熊鰐が主題であったのー、大発見に喜んですっかり忘れておった。それではいこうか。
仮説1では、神夏磯媛=卑弥呼の祖先はアメノヒホコであるということであったな。では同じ三種の神器を掲げておった熊鰐の祖先も同じアメノヒホコであるということである。
仮説6 熊鰐の祖はアメノヒホコである
熊鰐の祖先については安田氏の調査があるのでそれを引用させていただこう。
資料5
1.熊鰐氏は実在する。福岡県遠賀郡岡垣町 西円寺第94代住職 熊鰐氏
2.豊玉姫は熊鰐の一族である。何故なら日本書紀に「時に豊玉姫、八尋の大熊鰐に化為りて・・・」とある。
3.豊玉姫が熊鰐ならば、その父豊玉彦も熊鰐である。
4.熊鰐の名の由来は日本書紀に「是に火火出見尊を大鰐に乗せて、本郷に送致りまつる」とあるから、大鰐とは大型の船舶のことである。よって鰐=船である。
5.豊玉姫の妹の玉依姫は山幸彦(火火出見尊)の后として五瀬命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命(神武天皇)を産む。よって神武天皇もその兄達も皆、熊鰐一族である。
この貴重な情報を持って次ぎの考察に移ろうかの。
第三話 神武天皇と東征のルート
1.難波の宇佐神宮
熊鰐の考察の中で安田氏は神武天皇の東征のルートを検討しておられる。それに沿って本稿でも再考察してみることにするぞ。
神武天皇はまず日向を出発される。この日向を氏は宮崎県日向に比定しておられるが、著者のホームページでは筑豊平野の鞍手の六ヶ岳を中心とする国のこととしているな。著者のホームページ「古代史の謎を解く旅T」の論文「天孫ニニギ尊が居住した国」に日向を詳細に考察しているではないか。したがって神武天皇は鞍手から出発されたのである。
次に神武天皇は宇佐の足一騰宮に寄られる。これを氏は現在の大分の宇佐に比定しておられるが著者のホームページでは北九州の企救(小倉門司)にあったとしているな。何故ならば、資料4で「豊国の宇佐の足一騰宮」と表記されているが、この神武天皇の時代の豊国とは限定的な小倉門司から行橋、田川の北九州であるからである。著者のホームページ「古代史の謎を解く旅T」の論文「豊国」に詳細に考察しているな。また先ほどの考察で仮説4として足一騰宮とは小倉日明りにあったと解っているからである。
ここで先ほどの疑問の答えを説明しよう。
神武天皇が宇佐に立ち寄った時のウサツヒメ、ウサツヒコの「足一騰宮」とは卑弥呼が韓から帰って来て日本に到着した難波穴門のヒメコソ宮(卑弥呼宮)のことである。足一騰宮とは葦干上がる宮=葦日アカル宮=朝日アガル宮=アカル宮(アカル姫の宮)でもある。
また稲葉の素兎の宮=兎神の宮=難波の宇佐神宮でもある。
故にちとややこしいが次の等式が成り立つ。
仮説7
足一騰宮=難波のヒメコソ宮=卑弥呼宮=朝日アガル宮=アカル宮=難波の宇佐神宮
アカル姫は最初難波に着き、次に豊国国東に移動したと記述されておるから、足一騰宮=アカル宮=宇佐神宮とは難波と国東の2箇所あったのじゃ。
つまり、神武天皇が足一騰宮に来られたのは戦に勝てるかどうか、難波の宇佐神宮の兎神の御神託をいただくためであったのじゃ。これ以降も、どの神も皆、大事な戦の前には戦に勝てるかどうか必ず御神託をいただいておる、先ほど資料1で仲哀天皇が熊襲との戦いの前に足一騰宮に寄られたのも同じ目的じゃ。資料2で景行天皇が周芳の沙麼に来られたのも同じ目的かも解らん。負けるとハッキリ御神託が下ったのに戦をして負けた例が白村江の戦いじゃ。こんなことを言えるのもアマチュアの特権じゃな、専門家はこんな恐ろしいことは決して口にできないぞ。
これの裏づけとして、この記事以降は神功皇后が自ら祭主となって御神託を下す神になられたシーンが出てくるじゃろう、それが証拠じゃ。
2.岡田宮
神武天皇はその次に岡田宮に寄られる。岡田宮とはそれこそ今までの検討結果から、北九州市八幡東区枝光の熊鰐一族の本拠地そのものであるから次のようになる。
仮説8 神武天皇は熊鰐族の兄達とここ岡田宮で合流した
日本書紀は先の難波の宇佐神宮と同様このことをわざと漏らしている。このことを安田氏は次のように著書の中で表現しておられる。
仮説9
八尋熊鰐から生まれた兄弟同士がその母親の故郷で再会するという重大事がこの記述の裏にあることを知らねばならない。
その後、神武天皇は安芸の国、吉備の国に寄られている。安芸国の埃宮(えのみや)とは祖父ニニギ尊の居住した鞍手六ヶ岳(可愛山)の麓の可愛宮(エノミヤ)のことである。吉備とは「エビ」と読み遠賀川下流の海老津(エビツ)のことである。
こういう風に考えてくると、神武天皇は要するに熊鰐一族の領地の中で軍備を整えるために時日を費やしていたことになる。
3.神武天皇が征服した国
神武天皇が征服した国の事を考察しなければならないであろう。
ナガスネ彦の登美国とは冨美国であるから、魏志倭人伝の不弥国と名前が同じであるし、位置も北九州東海岸である。これから考えると日本書紀の編者は魏志倭人伝の不弥国を富美国として日本書紀に記述していると推理される。
ここでは不弥国と冨美国(登美国)が限りなくイクオールであるとしておこうぞ。
同じような例が例えば邪馬臺国を「山代国」、投馬国を「妻の国」、伊都国を「五十迹手の国」、奴国を「豊国」、邪馬壹国を「一国」と表記するなどの例がある。
その例から類推すれば、征服した大和の国とはもちろん邪馬臺国であろう。
これらの件は別稿でさらに考察する必要があろう。
4.神武天皇の后
安田氏は次に神武天皇の后、姫蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)について考察しておられる。
姫蹈鞴五十鈴媛命とは、次のように記述されている。
資料6 日本書紀神代上
事代主神が、八尋の熊鰐に化為りて、三島溝橛耳神(みしまみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛との間に生まれた
事代主神が「熊鰐になって」とは、安田氏の説のように、「事代主神が熊鰐一族になって」と言っている以外に解釈の仕様がないであろう。つまり、つぎのようである。
仮説10 神武天皇の后の姫蹈鞴五十鈴媛命は熊鰐一族であった
ということである。このことを安田氏は次のように表現しておられる。
仮説11 天皇家とは天孫家と熊鰐家の連立政権であった。
つまり言い換えれば、次のようになる。
仮説12 天皇家の后は熊鰐家の出身者が選ばれた。
神武天皇は日本国の初代天皇であるから、これは日本国の起源にかなり肉薄した内容であろうと思われる。しかし、姫蹈鞴五十鈴媛命と資料5の豊玉姫・玉依姫の2例のみをもってここまで言い切ることは出来んぞ、あくまで仮説であってもっと多くの例を見つけて検証せねばならんが後でその例を考察するとしようぞ。
いずれにせよ、次のような考察結果が出た。
仮説13
豊玉姫、神武天皇およびその兄弟、事代主、神武天皇の后の姫蹈鞴五十鈴媛命も、熊鰐を祖とする岡県主も皆熊鰐の一族である
先に第二話で熊鰐族はアメノヒホコを祖先とすることが解っておるから要するにアメノヒホコを祖先とする神々であるということになる。解ったかな。
なるほど、先生の解説は解り易いですね。でもアメノヒホコとはなにかがさっぱり解らないのですが。それについてあまり解説している本もないし、どういう風に歴史と関わっているかさっぱり解らないのですが。
そうか、君達の知能程度に合うように話をして聞かせなければならんのじゃのう。疲れるのお。それでは次ぎは熊鰐の祖のアメノヒホコとはなにかという疑問を解説しようぞ。
第四話 アメノヒホコと熊鰐
1.アメノヒホコが到着した難波の穴門
第二話で熊鰐の祖先がアメノヒホコであると推理したな。アメノヒホコについてもう一度おさらいをしてみようぞ。
まずアカル姫と、彼女を追って日本へ来たアメノヒホコ(ツヌガアラシト)の、二人の行動を古事記、日本書紀両書をよりどころにして追ってみてくれたまえ。
資料7 古事記 応神天皇紀より
また、昔、新羅の国主〔こにきし〕の子がいた。名を天之日矛(アメノヒホコ)と言い、この人が渡って来た。・・・中略・・・
(アカルヒメは)すぐに麗しい嬢子(をとめ)になった。それで結婚して本妻とした。・・・中略・・・
「私の祖先の国に行きます」と言って、すぐに密かに小船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。これは難波の比売碁曾社に鎮座しているアカルヒメという神である。
そこでアメノヒホコは、その妻の逃げたことを聞いて、すぐに追い渡って来て、難波に進もうとしたところ、その海峡の神が遮って入れなかった。
資料8 日本書紀 垂仁天皇紀より
先帝の御間城入彦五十瓊殖天皇の御世に額に角が生えた者が、船に乗って越国の筍飯(けひ)の浦に流れ着いた。そこでその地を角鹿(つぬが=著者のホームページで博多と推理)という。
大加羅国(おおからのくに)の皇子で名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と申す。日本国に聖王がおられると聞いてやって来ました。穴門についたとき、その国の伊都比古という者に会いました。その者は私に言ったのです。
伊都比古> 自分はこの国の唯一の王だ。自分の他に王は二人とはいない。その私が命じる。他の所に勝手に行ってはならぬ。
都怒我阿羅斯等> しかし私は伊都比古の人となりをよく見て、この人物は王ではないと思いました。そこで、その地を出たのだが道がわからず島浦を伝い歩き、北海から回って出雲の国を経てここにたどり着いたのです。
・・・中略・・・
また次のような話も伝わっている
都怒我阿羅斯等は娘(アカルヒメ)を捜して海を越えて日本までやって来た。探し求めた娘は難波に行って比売語曽社(ひめごそのやしろ)の神となった。また豊国の国前郡に行って比売語曽社になったとも言う。だからこの2カ所で祀られている
おおありがとう。さて資料7の古事記の「アメノヒホコ」の話と資料8の日本書紀の「ツヌガアラシト」の話は入り組んでいるように見えるがふたりは同一人物であり同じ物語である。
何故なら、追っていった娘(古事記ではアカル姫、日本書紀では娘)が同じ表記の「比売碁曾社の神」で同一人物だからである。このことが肝心なところじゃぞ。しかも追って行って着いた場所が古事記では難波の海峡、日本書紀では難波の穴門とどちらも関門海峡だからである。この難波を近畿とするのはちと無理があろう。たまたま同じ地名があったからといってそこに比定するのであったらいくらでもあるぞ。
これまで著者がホームページ上で色々調べてくれた多くのデータがある。それから読めることは、古事記・日本書紀・ホツマツタエその他の魏志倭人伝といった文献は皆しっかりとした共通の事実の上に立って、しかも共通の地図を使用して、さらに共通のキーワードを使用して記述しているということであるぞ。そのことは著者のホームページ「古代史の謎を解く旅Tの論文『三書同根説』で証明しているな。
解りにくいのはひとつの物語が各種文献に断片的に時代も名前も変えて記述されており、それらをどう繋ぎ合わせるかが難しく、それにはキーワードと土地勘と推理と先入観念にとらわれないことが必要だということであろう。それをわしが頭の悪い著者に代わってやってあげているのじゃ。
さて上の資料7と資料8を両方検討して重要なことのみ述べるぞ。理由等については著者のホームページ「古代史の謎を解く旅T」の論文「稲葉の素兎」で考察しておるな。
仮説14
・難波とは海峡=穴門=関門海峡、
・ヒメコ(卑弥呼)の到着した国は豊国=日本国=卑弥呼の祖先の国、
・日本国王=先帝の御間城入彦五十瓊殖天皇=崇神天皇、
・比売語曽社の神=アカル姫=ヒメコ=卑弥呼
・比売語曽社は難波の穴門と、豊国の国東の2箇所ある。
・伊都彦=海峡の神=伊都国の王であるが王ではない=では将軍?=一大率?
資料7および資料8の記述が正しいとしてそこにある事柄をつなぎ合わせるとこのようになる。このように読むべきであろう。何故なら解説すると次のようになるからである。
ポイントは「難波=穴門」であろうか。古事記には「難波の比売碁曾社」、「アメノヒホコは、・・難波に進もうとしたところ、その海峡の神が・・」日本書紀には「ツヌガアラシトと申す。・・穴門についたとき」、「娘は難波に行って比売語曽社の神となった」と記述されており、総合して解読すると難波=海峡=穴門である。どちらか一方の書物だけではこうはならない。総合・解読が必要である。今までこういう解読方法を見た覚えがないが。
もう少し解説するとアカル姫=卑弥呼とはヤマトトモモソ姫であり崇神天皇の姉である、とホツマツタエに記述されている。魏志倭人伝に卑弥呼を補佐する男弟と記述があるのは崇神天皇のことである。崇神天皇は初代日本国王となって建国宣言を行った。日付は崇神天皇治世8年冬12月20日である。西暦では239年頃である。詳細は筆者のホームページに載っておるな。
伊都彦とはその名前から伊都国の王であろう。しかし、ツヌガアラシトの言からすると「王ではあるが王ではない」と微妙な表現がされている。これを解読すると魏志倭人伝の一大率=将軍のことだと考えられるが暇な時にさらに考察する。
要するに仮説14より海峡の神=伊都彦に通せんぼされた場所は関門海峡であるぞ。
2.アメノヒホコの定住した田島とは
アメノヒホコは穴門すなわち関門海峡を通過させてもらえず、やむなく引き返した。そして日本に定住する。これからその定住した場所を特定しよう。
資料9 古事記 応神天皇紀より
そこでアメノヒホコは、その妻の逃げたことを聞いて、すぐに追い渡って来て、難波に進もうとしたところ、その海峡の神が遮って入れなかった。そこで、また戻って多遅摩国(たぢまのくに)に停泊した。
そして、その国に留まって、多遅摩のマタヲの娘、名はマヘツミを妻として生んだ子は、タヂマモロスクである。
中略
そして、上に述べたタヂマヒタカが、その姪のユラドミを妻として生んだ子は、葛城のタカヌカヒメ命である。これはオキナガタラシヒメ命(神功皇后)の母親である。
まず、難波とは関門海峡付近のことである。著者のホームページ「古代史の謎を解く旅T」の論文「難波の矛盾」で考察している。韓からやってきて関門海峡を通過できなかったのであるから定住した場所は日本海側である。では記述された本当の「田島」とはどこであろうか。
それを考察する前にまず最初にアメノヒホコ=ツヌガアラシトが日本に渡って来た場所を知らねばならないが、それは「ツヌガ」=角鹿であった。
これは著者のホームページで詳細に考察して志賀の島(鹿の島)のある博多に比定しておるな。
韓からまず博多に着き、そこから穴門(関門海峡)を通してもらえず、引き帰したのであり、現実にその末裔の熊鰐は北九州八幡に本拠を構えたのであるから、田島とは常識的には穴門と博多の間であろう。それを何故これまでわざわざ田島を近畿地方に比定したのか不思議である。無理にこじつけようとするとジグソーパズルにならなくなってしまう。たまたま同じ読み方の但馬があったから、そこに比定すると言うのであれば日本中にもっと沢山比定地が存在するであろう。
このことをわしは「ジグソーパズル理論」と呼んでいる。はまらないものを無理やり折り曲げたり切ったりしてはめていたのがこれまでの古代史考察のやり方であった。これからは、誰がみても隙間なくきれいにはまっている、出来上がりのきれいな美しい仕上がりのジグソーパズルを作らなければならないぞよ。
で、田島の候補地であるが、それは宗像であろう。宗像大社のある「田島」である。これこそきれいなジグソーの出来上がりになるはずである。
何故か。
宗像大社の3社、沖ノ島、大島、田島がキーである、この三つで「三島」である。第三話 の資料6の中の「事代主神が八尋の熊鰐に化為りて、三島溝橛耳神の娘の玉櫛媛との間に生まれた」の熊鰐の住んでいた「三島」である。
「三島」について安田氏は宗像大社のある3つの島、沖ノ島、大島、田島を指すと既に指摘しておられる。
アメノヒホコはまず博多に到着し、それから穴門に行ったが通してもらえず戻り、宗像の「三島」の「田島」に定住したとすれば全て整合するのである。
つまり、次のようになる。
仮説15
アメノヒホコは宗像の沖ノ島、大島、田島の三島の田島に定住し、その子孫が熊鰐であり、熊鰐一族の三島溝橛耳神の娘の玉櫛媛と事代主の間に生まれた姫蹈鞴五十鈴媛命は熊鰐の一族である。
田島とは宗像の三島の田島だという仮定が正しいとすると、資料9の文章は次のように読める。
仮説16
アメノヒホコが宗像の田島に留まった時の子孫は田島に定住し、その子孫が神功皇后の母である。故に神功皇后はアメノヒホコの子孫である。ならば、魏志倭人伝より「卑弥呼の宗女壹與」であるから、卑弥呼の祖もアメノヒホコである。
どうじゃな、ピッタリはまったではないか。これこそ隙間のない美しい出来上がりのジグソーパズルである。この推理が正しいかどうか、それは第六話でさらに検証しようぞ。
近畿一元史観ではこんなにきれいな出来上がりは望めないであろう。どこかに隙間ができて無理やりはめ込んでできている感じであろう。出来上がりが絵にならないであろう。矛盾だらけであろう。隣のピースとの関連性がまったくなく、ストーリーにならないであろう。いい加減に本当の日本の古代史を知りたいものである。
第五話 伊都国とは
1.魏志倭人伝の伊都国
ここで視点を変えて伊都国について調べてみよう。
日本書紀の中で仲哀天皇が神功皇后と一緒に岡田宮から香椎宮へ向かう途中で熊鰐に会った後、次に五十迹手に会った時の記事に伊都国が登場する。
資料10 日本書紀
(仲哀天皇)治世八年1月、天皇は筑紫に行き・・・皇后は別の船に乗って・・・岡津に泊まった。また、筑紫の伊都県主(いとのあがたぬし)の先祖で五十迹手(いとて)が天皇が来たと聞いて、大きな賢木を根から引き抜き、船の舳先に立てて、上枝には八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけて穴門の引島(ひこしま)(彦島)に迎えて言った。・・・中略・・・「よくぞ申した。そちは伊蘇志じゃ。」時の人は五十迹手の本国を名付けて伊蘇国といった。いま伊都というのはなまったからである。
一方、ホツマツタエに同じ五十迹手と思われる人物が登場する。
資料11 ホツマツタエ
(ツノガアラシトは)やっとこの地(ツヌガ)に着きました。(崇神天皇)五十八年八月、君はツノガアラシトを召して仕えさせて見ると、忠義に厚く勤勉で、大変有能である事も解り、五年目には君ミマキイリヒコの名前の頭の二音をつけてミマというナ(名)の新国名をミマナとして賜いました。
上の資料10の日本書紀の文章の「伊蘇志」と資料11のホツマツタエの「忠義に厚く勤勉で、大変有能」とはまったく同じ意味であり、伊蘇国もツヌガも同じ博多である(著者のホームページ参照)。したがって両者は同じ人物かもしくは同じ人物と思わせる設定であることになる。
また、資料10に「賢木を根から引き抜き、船の舳先に立てて、上枝には八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけて」とあるから第一話で考察した通り、五十迹手もまた熊鰐の一族である。熊鰐の祖先はアメノヒホコであり、アメノヒホコとツヌガアラシトは同一人物である。したがって五十迹手とツヌガアラシトが同一人物であっても問題がないぞ。故に次のことが言える。
仮説17 五十迹手も熊鰐一族であり祖はアメノヒホコである。
では五十迹手は何処で出迎えたかというと、神功皇后が岡の津に停泊した時、「伊都県主の先祖の五十迹手が迎えて」とあるから伊都県主の国、「伊都国」の岡の津で出迎えたのである。岡の津とは、神功皇后が洞海湾から遠賀川に侵入し、仲哀天皇は遠賀川河口の山鹿から侵入したと記述されているから要するに「伊都国」は遠賀川河口にあった。先ほど考察した八幡の奴国(=豊国)の西隣であるから魏志倭人伝の記述と合っておる。
つまり、魏志倭人伝の伊都国とは遠賀川河口の「岡の津」にあったと記述されているわけである。これで魏志倭人伝の「伊都国」の場所も見つかった。
仮説18
魏志倭人伝の「伊都国」は五十迹手が仲哀天皇・神功皇后を出迎えた遠賀川河口の岡の津にあった。「奴国」の西隣である。
次に資料10の「五十迹手の本国は伊蘇国という、今は伊都となまっている」の意味は、伊都国王の本国は伊蘇国(博多と推定)にあり、日本書紀の編纂された時点つまり8世紀前半以降は「伊都国」と呼ばれた国であるということであるから、要するに前原・糸島地区である。三雲・井原遺跡など、最古の発掘品が多く出土する地域であるからピッタリ符合する。
この五十迹手の本国を岡の津にあった「魏志倭人伝の伊都国」に対して五十迹手の「本国伊都国(日本書紀の伊蘇国)」と名付ける。
資料10の日本書紀が資料11のホツマツタエの後から書かれたわけであるから、書紀の作者はホツマツタエのこの部分を知っていて、「忠義に厚く勤勉な」五十迹手のことを別の表現で「伊蘇志じゃ」と記述したことになる。五十迹手とは本国が伊蘇国とあるから、五十猛の末裔の可能性が高いと思われる。
五十猛は韓神とも呼ばれ、伊蘇タケル、磯タケルとも書かれ、ツヌガアラシトの本国が「ミマナ」であるのですべて整合している。
「伊蘇志=イソシ」と言う表現はまた、「イソイソと仕える」と「五十」「伊蘇」「磯」をかけているのは明白である。
つまり五十迹手=ツヌガアラシトの末裔=五十猛の末裔である。
このことを安田氏は、次のように言われている。
資料12
・筑前風土記に「天皇、誰の人ぞと問いしに、五十迹手奏しけらく『高麗国の意呂山に天より降り来らし日矛(アメノヒホコ)の末裔、五十迹手是なり』と臼しき」とあるから、要するに伊都国王はアメノヒホコの子孫である。
・また、魏志倭人伝には、伊都国王は女王国を統属したと記述してあるから、本来は伊都国王のほうが女王国より格が上の国である。
・また、伊都国とは西暦57年に金印を授与された委奴国に近いのではないか
上の様に考えるならば、金印が博多志賀の島で発見されたこととも符号する。
そうとするならば、邪馬壹国女王国よりも伊都国のほうが格が高いことも納得できる。
いかがかな美しい推理じゃろう。
うーむ。先生、しかしですよ、資料10の五十迹手と資料11のツヌガアラシトが仮に同一人物とした場合同じ人物に会った仲哀天皇と崇神天皇がほぼ同時代人ということになりませんか。つまり、仲哀天皇治世八年と崇神天皇治世五十八年が約50年差でほぼ同時代ということになることになりますよね。日本書紀に記述されている親子関係がしっちゃかめっちゃかになりませんか。
おお良いところに気がついたのー。たまには冴えることもあるのじゃのー。今からむずかいしい事を言うから良く聞くのじゃぞ。
魏志倭人伝から行くとこれはありえないことではないぞ。何故なら崇神天皇とは姉ヤマトトモモソ姫(=卑弥呼)の弟であり、一方卑弥呼と壹與(=神功皇后)の年代は239年と266年の30〜60年くらいのひらきであるから仲哀天皇と崇神天皇が約50年の差をもって同時代人ということはありうることじゃ。
問題は、日本書紀の記述から行くと幾世代も離れていることになり、同時代と言うことはありえないのではないかと思われ、書紀の記述の中に年代のトリックがあると思われるが、わしもまだすべて見破るところまではいっていない。これについては、「天皇同時代複数存在説」として、本来「倭国女王卑弥呼」の下に「官」として複数王家が存在し、その官の長が後に天皇と贈り名されたと考えておる。これについてはいずれ別稿で考察しなければならないであろう。こういう風に一応整理しておいて先に進もう。
2.伊都国のルーツ伊蘇国
次に五十迹手(=アメノヒホコの末裔)の本国が「伊蘇国」と記述されている。そここそがアメノヒホコの本国であり、日本のルーツであるぞ。
その伊蘇国とは何処にあったのであろうか。しかもその伊蘇国とは日本書紀、古事記が編纂された時点つまり8世紀初頭では「伊都」と呼ばれている。それを調べていくとするぞ。
それに関する資料が古事記に記述されておる。
資料13 古事記 仲哀天皇紀
その御子の生まれた地を名付けて宇美と言うのである。その(神功皇后の)衣裳に巻きつけた石は筑紫国の伊斗村にある。
上の資料13に記述された神功皇后の「石」は鎮懐石八幡宮(福岡県糸島郡二丈町深江子負ヶ原)に祀られており、万葉集にも歌われており、他に名乗っている場所もないことから、神功皇后の鎮懐石は伊斗村にあったと思われる。
つまり、いま伊都といっている「伊斗村」とは元の名前は伊蘇国であるから、結局「伊蘇国とは糸島郡にあった」事になる。古事記は日本書紀と連動して伊蘇国の位置をわざわざ記述してくれていたのである。
この伊蘇国と五十猛に関しては著者のホームページ「古代史の謎を解く旅U」の89項から92−1項にかけて詳細に考察しているな。その結果は、博多から前原地区にかけて伊蘇国があり、伊邪那岐命の生地であり、五十猛=韓神こそが前原の高祖山(皇祖山)・雷山に天下ったアメノヒホコその人ではないかという推理である。故に次の事が言える。
仮説19
アメノヒホコの本国伊都国(日本書紀の伊蘇国)は糸島の前原〜博多にあった。
アメノヒホコと五十猛の関係については別稿で考察することにする。そしてここまで考察してくると先ほどの五十迹手の言葉『高麗国の意呂山に天より降り来らし日矛の末裔、五十迹手是なり』が重大な意味を持ってくる。つまり、「高麗」とは博多平野の西にそびえる高祖山・雷山を合わせた「高雷」「皇来」であるということである。(著者ホームページ「古代史の謎を解く旅U」92−1項参照)
博多に住んでいる人なら誰でも知っている、壱岐、長垂という地名もあり、神功皇后の名前「壱岐長垂姫」の名前の由来にもなっている。
有名な飯盛山とは伊邪那美命を祀り、博多平野の東側にある伊邪那岐命を祀る太祖神社と向かい合っており、神功皇后が太祖神社をそのような位置に建立したと伝えられる。つまりじゃな、伊邪那美命から母国・奴国に昇る朝日の方向を拝むと伊邪那岐命の太祖神社の方向にあたるのじゃ。
その他この地域は日本の起源と関わりの深い遺跡が集中した地域であり、著者ホームページ「古代史の謎を解く旅U」の89項から92-1項にかけて考察しているな。
意呂山とはなにか今の時点では解らない、今後の課題である。
第六話 熊鰐一族の居住地・宗像とは
先生、先ほど第三話で「天皇家の后は熊鰐家の出身者が選ばれた」という仮説11について、2例のみであるから、もっと多くの例を見つける必要があるとおっしゃっていましたが、それについてはいかがですか。たまたまだと言うことも考えられますが。
おおそうじゃったな、これまで熊鰐を中心にして考察してきた結果、熊鰐一族が皇后を輩出する家柄であったと推理し、さらにその熊鰐一族が宗像の三島の田島に定住していたのではないかとも推理したな。
それを基に五十迹手の伊都国について調べたが他の記述や歴史的事実と整合していることも解った。
それらの裏づけをさらに取るために、もう少し調査の網を広げてみよう。
まずは熊鰐一族が皇后を輩出する家柄であったという例が他にもあるかどうかである。
第二話では豊玉姫、玉依姫の例を、第三話では姫蹈鞴五十鈴媛命の例を計2例のみ取り上げて仮説としたが根拠的には弱い、もう少し同じ例がなければならない。それを調べてみる必要があるがわしはもう歳で疲れた。後は著者にまかせるから調べてくれんかのー。
1.宗像三女神
ということでバトンタッチして調べることになったが、まずは誰でも思いつくトップバッターはやはり、宗像三女神であろう。誰が考えても宗像出身であろう。大国主の后、宗像三女神の多岐都比売(タケ子)も宗像に居住する熊鰐一族である。天照大神の神勅「汝三神、道の中に降りて居まして天孫を助け奉まつりて、天孫の為に祭られよ」とはまさに仮説11と同じ言葉である。
2.木花之佐久夜毘売
次にニニギ尊の后、木花之佐久夜毘売を取り上げてみよう。
資料14 古事記
この地は韓国に向かい、笠沙の岬に真来通て、朝日のまっすぐ射す国、夕日の日が照る国である。・・・中略・・・
このようなわけで、天津日高日子番能邇邇芸能命は笠沙の岬で麗しい美人と出逢った。そこで、「誰の娘か」と尋ねると、「大山津見神の娘で、名は神阿多都比売またの名は木花之佐久夜毘売」と答えた。
上の記事に内容については著者の論文「天孫ニニギ尊が居住した国」で詳細に考察しているが、「韓国に向かい、笠沙の岬に真来通て、朝日のまっすぐ射す国、夕日の日が照る国」とは空国(むなくに)の宗像のことである。射す国とは「蘇刺の王の蘇の刺国」、照る国とは「下照姫の照国」、笠沙の岬に真来通てとは沖ノ島、大島、田島の三島を結ぶと笠沙の岬(草崎)に当たること、韓国に向かいとは宗像から韓国まで海北道中が通っているという意味である。しかも宗像の国名「空国(からくに)」と「韓国(からくに)」が同じ国名で対応している。よって木花之佐久夜毘売とは宗像の阿多都(吾田津、赤田津)に居住していたと推理した。したがってニニギ尊の后は宗像に居住する熊鰐一族である。
3.神功皇后、卑弥呼
神功皇后の母について仮説16で検討した。
その結果、神功皇后の母、葛城のタカヌカヒメは多遅摩国=田島=宗像に居住していたと記述されている。そしてアメノヒホコを祖とすると記述されている。ならば神功皇后も宗像に居住しアメノヒホコを祖とする一族である。神功皇后とは仲哀天皇の后である。
卑弥呼の祖もアメノヒホコであった、ただし卑弥呼は倭国女王ではあるが、天皇の后ではないので例に含めるかどうかは微妙である。
4.尼子娘
胸形君徳善の子である尼子娘は、天武天皇と結婚し、654年高市皇子(たけちのみこ)の母となった。胸形君とは宗像の君で宗像に居住していたから熊鰐の末裔であろう。その娘が天武天皇の后となっている。
5.まとめ
以上、著者の少ない知識の中で宗像三女神、木花之佐久夜毘売、神功皇后、(卑弥呼)、尼子娘の4例4神(5神)について調べたがいずれも天皇(または国王)の后であり、豊玉姫、玉依姫、姫蹈鞴五十鈴媛命を含めて計6例の7神(8神)が皆、宗像出身または熊鰐一族であったことが解った。他の例については暇な時に調査することにしよう。
「熊鰐一族が皇后を輩出する家柄であった」という仮説12は今のところ間違ってはいないようである。
先生いかがでしょうか。
まあまあじゃの。本当は全ての例を調べるべきじゃがそんなに暇な人はおらんじゃろうから仕方がないのー。ただし、全ての例が当てはまった時は、以上の仮説が証明されたことになるのじゃ。まだ課題は沢山残っておるがぼちぼち行くとして疲れたから本稿はこれでおしまいじゃ。今回はわしも興奮したぞ、又是非呼んでくれたまえ。
第七話 最後に
ここまで考察するのにはすべて仮説に立脚しており、仮定の連続の結果として仮説12「天皇家の后は熊鰐家の出身者が選ばれた」が導き出された。熊鰐家とは言い換えればアメノヒホコの末裔である。
その仮説が正しいかどうかを確認するには、検証と言う作業が必要である。
そして得られた仮説12について第六話で6例7神(8神)検証したが、検証した例がすべて仮説に適合することが解った。つまり、仮説12「天皇家の后は熊鰐家の出身者が選ばれた」が正しいと言うことが立証されたのである。
これだけを見る範囲では仮説は正しいように見えるが、暇がなくて反証はまったく検証していないからあくまで、まだ仮説でしかない。
ただし、もしこの仮説に対する反証が見つからない時は自動的に仮説が正しいことになり、仮説12は証明されたことになるのである。
さらに、これが発展すると邪馬臺国が近畿にあったか、九州にあったかは議論するまでもなくなってしまうから大きな問題を含んでいると言わねばならない。
当文中に以下の方々より引用させていただいております。有難うございます。お礼申し上げます
1.ホームページ「私本日本書紀」
2.ホームページ「日本神話の御殿」
メール:oden_1947@yahoo.co.jp
kumawani.html