八甲田山雪中行軍遭難事件に思う
↑ 八甲田連山 2006年4月撮影
これは1902(明治35年)1月、陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬期訓練中に遭難死した事件である。
隊員210名中199名が死亡、軍訓練史上最も多くの死傷者が出た事件であった。
 後に新田次郎が執筆した小説『八甲田山死の彷徨』や、その小説を基に映画化された『八甲田山』・・・
創作部分が加えらているとは言え大まかな粗筋を把握することができる。
事件の詳細は小説や映画からも知りうる事ができるし、今ではウェブサイトから幾らでも情報が得られるのでここでは割愛しておく。
 そもそも遭難事故とは呼ばずに遭難事件として山岳史にも残る、、、
これは偶々起きた事故ではなくて、起きるべくして起った事件ではなかったのかと、、、



←映画「八甲田山」より
今年(2009年7月)に起こった大雪山系での遭難事故、多くの登山者が夏山で低体温症となって次々と倒れ10名が亡くなった、、、
関係機関や警察などからの情報を纏めると『八甲田山遭難事件』と非常に似た要因が見られる。
 
 大部隊で雪中における軍の展開、物資の輸送の可否を訓練の目的とした青森5連隊210名と少数精鋭で雪中行軍に関する服装、行軍方法等の研究が目的だった弘前第31連隊37名、、、小説や映画では共に競争していたかのような表現を用いているが実際はそうではなく、双方が別々に計画を立案、行軍の日程が偶々同時期になったそうだ。八甲田山踏破を行軍の最初に行い2泊三日の強行軍計画を立てた青森隊と10泊11日で最後に八甲田山を踏破する計画を立てた弘前隊、、、この違いが生死を大きく分けたようでもあった。
しかし、軍の上下関係・指揮命令系統の混乱が発生した第5連隊は210名中199名もの隊員を失い、第31連隊は37名全員が無事に行軍を果たしていた。
 
勿論、八甲田山行軍と大雪山トムラウシ遭難事故を同じ目線で見る訳にはいかない、、、明治時代の1月という厳冬期で気象条件は比べようのない時期でもあるし、現在のアウトドアーウェアーとの比は大き過ぎる。
八甲田山関連の各ウェブサイトから抜粋した当時の遭難に至った要因を下記に列挙してみた。

○ 当時は日本各地で観測史上における最低気温を更新した日でもある(旭川で日本最低記録である-41.0℃を記録した)。
○ 青森でも-20℃以下だったとの推測を青森5連隊が報告書の中で残している
○ 雪中行軍時、将兵の装備は、特務曹長以上が「毛糸の外套1着」「毛糸の軍帽」「ネル生地の冬軍服」「軍手1足」「長脚型軍
   靴」「長靴型雪沓」
   下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト生地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1足」「短脚型軍靴」
   といった服装で当時としても冬山登山の防寒対策としては貧弱なものであった。
○ 着替えや替えの軍手・軍足は無く、濡れてしまった衣服が低体温症に拍車を掛けた。
○ 食料の凍結対策が施されいなく、暖を取る炭や燃料等も殆どが使い物にならなかった。
○ 物資運搬隊(ソリ隊)が初日から遅れだし隊の編成が乱れた。
○ 冬山の認識不足、特に青森隊の殆どは岩手県南部農家の出身者が多く、冬山の知識が乏しかった。
○ 弘前隊は地元民間人の道案内人を雇用、、、青森隊は民間人には頼らず地図とコンパスだけでの強行軍を慣行、、
   しかし青森隊の装備していたコンパスは初日から凍結により機能していなかったとの記録がある。 

 上記の様に稀に見る最悪の気象条件や装備の貧弱さが要因とも言われるが大部隊内での指揮命令系統の混乱が最大の要因とされるのではと私は思う、、、
また、隊員の中には冬山登山とは認識せずにハイキング程度の認識でいた者が多かったとも、、、軍靴を履かずに地下足袋を履いていた者もいたくらいである。
これらに類似する事は近年における山岳会やツアー登山の中でも耳にする話である。
リーダーの意見や先輩格の意見が最重視され、下位レベルの者の意見が通らない、、、そこにリスクを回避する能力が薄れる事態が発生しているようにも思える、、、個々の装備は個人任せでリーダー格が点検する術はない、、、
また、限られた日程の中で登山を終了しなければならないと言った今日の移動手段や有料ガイドによるツアー登山の在り方にも同じような思いを抱くものである。(全てのツアー登山に対してでは無いが)


 青森第5連隊で無事に生還出来た者は全員山間部出身で、ある程度冬山を習熟している者だった。足に唐辛子を擦り付けて、足温を安定させる。足に油紙を巻いて水分の浸入を防ぐ。肌着と衣服の間に新聞紙を仕込んで、体温の安定化、寒気の遮断をする。食料(握り飯)に油紙を巻いて凍結を防ぐ、、、等の独自の耐寒対策をしていた。
また、将校の生存確率が高いのも、兵卒より防寒機能が高い装備が一因と言われている。(大雪山トムラウシの遭難事故でも着衣の差によって生死が分かれている)
   
青森第5連隊は1月23日早朝出発、、、翌2日目にして死者行方不明者40名、3日目更に死者30名、4日後の1月27日には生存者が30名余り、、
本隊との連絡が途絶え救援隊が出動したのは26日、しかし悪天により本隊を見つける事ができず救援隊は一旦戻る。
翌27日、大滝平付近雪中に仮死状態で直立したままの後藤房之助伍長を発見、大遭難事故と判明する。
後の遺体捜索には延べ1万人が投入され北海道からもアイヌ人やアイヌ犬が捜索に参加し遺体捜索に貢献したそうだ。
最後の遺体発見は4ヶ月後の5月28日、、、 

生存者の一人、
後藤房之助伍長の銅像→
他にも生存者で上級幹部の大尉や特務曹長もいたが下から数えた方が早い伍長が後に銅像として立てられる。
記録によれば発見された当時の後藤房之助伍長は直立したままの仮死状態で雪に埋もれてはいたが見開いていた目
は本隊の進んでいった方向に向いていたそうだ、、、救援隊はその方向を捜索して次々と雪中から遺体を発見している。
改めて映画を見、ウェブサイトで一連の記録を調べると昨今の登山全般、特に冬山登山に於いての教訓となる事が多く感じられる。
映画『八甲田山』は実際に冬期間の八甲田山でロケが行われた、、、映画史上最も過酷なロケとしても記されており、余りの過酷さにロケ中に脱走する俳優やエキストラがいたそうだ、、、


この夏に起こった大雪山トムラウシ山での悲惨な遭難事故の後、再び見直す事のできた映画『八甲田山』、、、
私の中では映画を見ている時も常に大雪山での遭難事故がオーバーラップしていた、、、

 余談ではあるが現在建設が進められている青森の駒込ダム(2018年竣工予定)が完成すると八甲田山行軍隊が目指した田代元湯がダム湖に沈んでしまうそうです、、、

 
                               映画「八甲田山」より↓