「山河依然」 嶋田海南作   明治中期の日高川    PDFへ  

 

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      巻 末 に                                                          

     遊子あゝ己れ海南和 孤状飄然 今来し祖先    

     憤堆の地過きる 青苔緑滑かに 墓標に        

     落つる我影あわれ也津禮多里 秋風吹て共連し     

     荒草離した梨 あ者れこ々そわか家の跡       

     真妻の山 日發凌紂々昌劃垢美しき所(事ハ)    

     由かし は津可し ま多か奈志 我學成ら須        

     我筆空し 身につけたるは布濃衣 あるは人        

     阿ふまま乃 われを記せんも い可で乱頭弊衣の   

     我を知らんや されと忘れざるはわか心           

     有之 そ波の老たる母 当年の意氣                          

     旧識の山河 茅自ら負ふ丈夫須く驚事               

     業をかはす遍し刃生は わか素志にあら須                 

    正ニ天下の病を い屋さむ 意氣焔の如有之                 


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嶋田海南画((京都市立美術工芸学校(現京都市立芸術大学)明治三十三年卒・平岩為次郎氏妻ふみさん実弟)

明治中頃親戚の葬儀に土生来迎寺下実家に帰省(医師宅)滞在中に描く

山河依然に描かれている風景は、土生来迎寺から見た正面の野口、日眄郛緡江川・和佐・真妻山方面、また反対側の日眄遽Υ澆良景は、

藤井村・吉田村・嶋・御坊・濱ノ瀬・松原から日之御崎・鰹嶋・尾ノ崎まで克明に描かれている。川には筏・渡し船(藤井・岩内)・若野井堰とおぼし

きもの、護岸の堤防はなく、西川川口には帆船、海には地曳き網・帆掛け船、外洋には汽船の煙も見える。道成寺や八幡山・藤井村・御坊村・日

睚民 濱ノ瀬戎神社・松原・日御崎・鰹嶋・塩屋村・尾ノ崎の名も書かれ、まさに約百二・三十年前の日眄邯域のパノラマ画であると同時に、

嶋田海南にとっては故郷であり、巻末の詩の如くであったのであろう。

尚『矢田村誌』には

嶋田要賢 藩政時代の末期から明治初年にかけ、今の大字土生、来迎寺近くで開業してた医師。世間の人は「要賢さんが手を放したから駄目だ」

とか、「要賢さんが大丈夫と云うたから快くなる」とか云った位で、名医の評判があった。来迎寺の過去帳に要賢累代の嶋田の名があり、立賢・要

賢・精賢と医家であったことがわかる。子孫は村を出て今大阪市に在住するという」 とある。 嶋田海南は要賢の一族だろう。

今回『山河依然』を「日高郷土資料」ホームページに掲載するに当たり、資料提供に協力戴いた平岩昭氏・来迎寺様、『巻末に』の解読指導下さっ

た小出潔氏、パノラマ写真を担当したメル友のコボ様に感謝します。

平成十九(二〇〇七)年八月二十四日   

                                                                             清 水 章 博