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06.9.12
冥王星の名付け親は御坊ゆかりの人
 近頃、太陽系の惑星の規定から外された「冥王星」の名付け親は野尻抱影(1885〜1977)。抱影の本名は正英(まさふさ)、英文学研究者で天文に関する造詣が深く、星や星座に関する著述が多く残されている。長兄は「鞍馬天狗」シリーズで有名な大仏次郎、二人の父親は御坊市藤田町出身の野尻政助氏。
 冥王星は1930年に見つかりすぐに抱影が命名した。天王星、海王星はすでに中国人が名付けていたが、冥王星は1933年から中国や東アジアで広く使われていると云う。

06.9.30
道成寺書院数年後に修理
 
和歌山県文化財研究会の勉強会がこのほど道成寺で開かれ、講師をされた県の文化遺産課の山本新平氏の話によると元禄15年に建てられた道成寺書院が、近年中に解体修理される予定であると話された。書院は藩主庇護の元に建てられているので、お成り門や上段の間が設けられている。濡れ縁からは幹周り4mを越すビャクシンと築地塀越しに三重塔をバックにした庭も見応えがある。書院の屋根は本来は本瓦葺きであるが、ほぼ半分近くが応急のくトタン葺きになっている。
 この修理に伴い、発掘調査も行われるので創建時の東部分の廻廊が明らかになるとのことで楽しみである

 07.1.19 産経新聞より
九州産小形佇製鏡が出土
 
有田川町の旧吉備中学校校庭遺跡の第3次発掘調査で弥生後期の「九州産小形佇製鏡」1点が出土し、有田川町教委は「近畿では数例しか出土がなく近畿南部で初めて出土したことに意義がある」話している。
 同鏡は内側の花の文様が鮮明で保存状態は良好、復元すると直径約6cm。中央にひもを付ける部分があり、祭事用に使われたと見られている。表面は緑色でスズの成分が多く使われており、九州北部で石製の鋳型で生産されたと考えられているという。同鏡は弥生時代後期の縦穴住居跡で破棄された状態で発見された。

 07.4.19
印南八幡神社祭礼、県無形文化財に指定  
 
印南八幡神社の祭礼は400年以上の歴史があると伝えられている。東山口地区の太古や笛を使わず無音で舞う「重箱獅子」や屋台が川に入って渡る「川渡御」など全国的に見ても珍しく、「川渡御や獅子舞など、祭り全体が古くからの伝統を残している」として、この度県文化財審議会から答申を受けて、4月17日開かれた県教育委員会で指定が承認された。
 尚、印南祭りは印南八幡神社と山口八幡神社の2つの総称で今回指定されるのは、印南八幡神社の祭礼のみ。山口八幡神社祭礼も非常に古い伝統が残っているので、今後地区住民からの要請があれば申請したいと町教育課では話している。 

 07.6.15 日高新報より
丹生神社旧社務所、屋根瓦謎の「菊の御紋」
 
使用禁止の皇の紋章「誰が何のために」と話題、県に調査依頼中と1面トップで報じている。
 日高川町江川、丹生神社旧社務所は「拝殿」と呼ばれ江戸時代前、中期に境内中央に建立され、安政年間現在地に移築された入母屋本瓦ぶき。この建物大棟「のし」の部分を覆っていた漆喰が、長年の風雨ではげ落ち皇室の紋章「菊の御紋」の瓦紋が見えてきた。「むねぶすま」下に横一列に並んだ紋瓦は、完全に現れているものや漆喰で隠れている部分を含め約300枚。誰が何のために作り隠したのか多くの謎に包まれている。
 本年度版「丹生神社だより」によると、近世以前は一般的に使うことが禁じられ、神社の紋章としては徳川家の「葵の御紋」同様に極限られたところにしか用いられなかった。そんな権威ある紋を漆喰で塗りつぶされたのは、皇室をはばかってのことと伝わっているが、確かな伝承や記録はない。県文化財保護指導委員で町文化財保護審議会委員の玉置俊久氏は「手取城跡でも菊の紋瓦が出土している。いずれにしても貴重なもの、拝殿を文化財に指定してもらえれば」と話している。玉置氏はこの旧社務所の調査結果を県教委に報告し本格的調査を依頼している。

 ※掲載されている写真は皇室の紋章”16弁菊紋”ではなく”17弁菊紋”のように見える、この記事は歴史資料としてではなく、話題としての記事か(yu-)
  ※『日高路の碑巡礼』p.398 「江川平助の墓」から想像すると、享保11年に建てられた墓石に薄肉彫りの菊花紋があることから、江川八幡の社務所新築の際、庄屋江川家が瓦を寄付した記念の瓦と思われる。明治二年に皇室以外使用禁止令が出たので漆喰で隠したのだろうか(清) 

07.9.7 産経新聞より
藤原宮大極殿南門跡が見つかる
 伝承で道成寺を建てた文武天皇の祖母持統天皇が開いた藤原宮跡で、大極殿の南門跡がみつかったと奈良文化財研究所が発表した。南門跡は大極殿跡の50m南、東西39m、南北14mで、前期難波宮の南門(東西35m、南北15m)や平城宮の大極殿院南門(東西28m、南北16m)を上まわる規模で階段の幅は約25mあったという。。南門は高さ1.5mの基壇の上に建てられていたと推定される。基壇は土を盛りながら棒で突き強固にする「版築技法」が採用されており、同時期に築かれた高松塚古墳の築造方法と共通している。日本書紀には、大宝元年(701)年元日、文武天皇が「朝賀の儀」で大極殿に出御し、南門に幡を立てた」記述されているが、今回の調査により儀式の様子が浮かび上がった。

07.9.30 日高新報より
日高平野最古の竪穴住居発見
 
美浜町田井ロマンシティーの西100mの町道建設現場では日高平野最古の縄文時代後期〜晩期初め(3500年前)の竪穴住居跡が見つかった。同時代の住居跡は山間部ではよく見つかるが平野部では全国的にもめずらしく、当時の生活を知る上で貴重な資料として注目されている。
 今回の調査では、紀南地方で初めての石刀も発掘された。このほかにサヌカイト石で作った斧や鏃も見つかっている。


08.7.19 紀伊民報より
 
牛馬童子壊される 首から上を切断
 
 18日午後5時ごろ、田辺市中辺路町近露の熊野古道沿いにある市指定文化財の石像「牛馬童子」の首から上が切断されているのを、通行人の男性が見つけた。切り取られた頭部は見つかっていない。何者かが壊したとみて、田辺署は器物損壊の容疑で捜査している。世界遺産に登録されている熊野古道のシンボルとして親しまれている石像で、関係者は「誰がこんなことを」と落胆している。
 現場は、国道311号沿いにある道の駅「熊野古道中辺路」近く。牛馬童子像は頭部を含めた高さが約60センチ、幅約20センチ、長さ約40センチ。童子の頭部約10センチが切り取られている。像のある場所は世界遺産登録地に当たる。
 田辺市たきない町の元小学校長堀口誠吾さん(60)と長男の慎太郎さん(18)が18日午後5時ごろ、牛馬童子像を見学しようと立ち寄ったところ、壊れているのを見つけた。
 慎太郎さんによると、発見した際、像の前面に石の白い粉が付いており「後ろからもぎ取ったような感じだった」という。誠吾さんと慎太郎さんは中辺路町近露の道の駅の従業員を通じて田辺署や中辺路行政局へ連絡した。
 道の駅の従業員によると、18日は団体の利用客が少なく、個人のグループ客が何組か立ち寄った程度だった。同日午後1時ごろ、JA紀南の職員が滝尻王子から近露王子までの熊野古道を歩いた際には、牛馬童子像に異常はなかったという。
 誠吾さんは「中辺路町や熊野古道のシンボルなのでとてもショックだ」、慎太郎さんは「初めての牛馬童子見学をとても楽しみにしていたのに残念」と話した。
 19日は午前9時前から、田辺市教委文化振興課や中辺路行政局の職員、地元住民、熊野古道の語り部ら約20人が、現場近くの山林で頭部を捜索した。今後の対応策については、県などと協議しながら検討するという。
 真砂充敏田辺市長の話 連絡を受け今朝現場を見てきたが、全く残念だ。熊野古道のシンボルがこういうことになるとは、何とも言いようがない。
 牛馬童子 史跡名「箸折峠の牛馬童子」。箸折峠の歌仙堂と呼ばれる小丘に建つ、牛馬2頭に童子「花山法皇」がまたがった石像。1891年ごろにつくられたとされる。作者は不明。熊野古道のシンボルとされ観光ポスターやガイドブックでもよく使われ、童子と牛馬のかわいらしい表情や造形が人々に親しまれている。


08.7.28 紀伊民報より
安珍清姫ゆかりの4市町村が合同慰霊祭
悲恋に終わった安珍と清姫を追悼しようと26日、日高川町の道成寺で合同慰霊祭があった。田辺市中辺路町や福島県白河市など二人の伝説にゆかりのある地域から関係者が集まり、一千年の時を経て初めて営まれた合同慰霊祭で、祈りを捧げた。
 日高川町観光協会を中心につくる「おいでよ!日高実行委員会」の主催。日高川町と、安珍の故郷と伝えられる福島県白河市、宮城県白石市、清姫生誕の地の田辺市中辺路町の関係者や一般参拝者、計約130人が参加した。
 これまで慰霊祭は各地域で行われてきた。今年は物語の発端となった平安時代中期、928年から1080年を迎えることもあり、各地域が協力して合同慰霊祭を企画した。
 宝仏殿で慰霊法要を営んだ後、隣接する縁起堂で式典を開いた。式典では実行委員会の玉置俊久会長が「安珍、清姫の二人の悲恋が形となった道成寺の伝承を世界に知ってもらえるよう今後も活動に励みたい」とあいさつ。地域の代表が手を取り合い、今後の交流を約束した。
 その後「安珍歌念仏踊」(白河市)「ジャンジャカ踊り」(日高川町)など、安珍清姫伝説にちなんだ各地方の踊りが披露された。中辺路町からは清姫音頭保存会(藪脇幹代表)が出演し「清姫音頭」を踊った
 中辺路町観光協会の倉尾伊佐男会長は「合同慰霊祭を開催できたことは本当にうれしく、ありがたい。一つの伝説を通じて広域に交流できることは全国でも珍しいのでは。今後も発展させていきたい」と話した。


08.7.28 読売新聞より
清姫堂全焼
 
27日午後3時20分頃、田辺市中辺路町真砂の仏堂「清姫堂」から出火、木造平屋建て60平方メートルを全焼した。現場は無人だった。
 田辺署の発表によると、現場近くの河川敷で同日夜に予定されていた「清姫まつり」の準備中、市職員が煙に気付き、119番した午後1時頃、まつりの関係者が清姫堂を訪ねたが異常なかったという。現場の真砂地区は「娘道成寺」などの物語で知られる清姫の生誕地とされている。清姫堂のそばには清姫の墓と伝えられる石碑が残っており、毎年命日に当たる4月23日には、供養がおこなわれる。清姫堂の老巧化に伴い2001年、五十年ぶりに建て替えられた。
 お堂は清姫の菩提寺、福厳寺が所有している。中には清姫の座像や、両親の位牌、薬師如来像が安置されていた。同市などが指定した文化財はなかったが、いずれも焼失したという。

※前日、道成寺に於いて安珍清姫合同慰霊祭が行われた。主催者の挨拶で「安珍と清姫が今日初めて一緒になれ、いわば目出度く結婚できたようなもの・・・」と言っていました。道成寺縁起に書かれているのは、焼かれた安珍は死んだ後も清姫に夫にされたが、法華経の力で「清浄の善根を修したまへるによりて、われ等二人、忽たちに蛇身を棄てて善所におもむき、女は功利天に生まれ、僧は都率天に昇りぬ」と、それぞれ別れることが出来て目出度く天上界に昇って行くことが出来た事になっている。それが1000年余りしてまたまた挨拶の中とはいえ、一緒にされたのでは清姫も心乱され、今回の火事事件となったのでは・・・・・・・・(騒ぎたがり〜記)