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人生に美意識を持てば心に感動という栄養を与えて、視界が広がり、ポジテブな明るい未来が見えてくる。
 
  


 「他者愛と自己愛」

夫婦から地域社会、趣味のサークル、また広く全世界まで、この世はすべて他者とのつながり「コミュニティ」で生きています。従って繋がる他者を尊重することが基本になり、他者を活かしてこそ自らも生きられる社会環境が整うと言う考え方に至ります。
(他者=自分以外の自然や地域社会、他人を言う)人間の権力争いは宗教戦争や集団的抗争のように弱肉強食で、子供老人、病人等の弱者は無視されて虐げられます。
また強い弱いがはっきりと出る町のテニスサークルにも、人間関係まで上であるかのように命令的な指図をする人がいるが、スクールではないことと楽しく遊ぶ趣味の趣旨を共有できるサークル(平等)であるべきです。
さらに企業の過去にはNO1の利益追求を目的としてきたが、近年(2013)はその点の矛盾を指摘する企業家や学者がでてきました。

巻頭に記したように他者を活かすことは自分は2位で良いとする慎ましさですが、 慎ましさとは他人のためにある言葉で、広い視野と秩序ある継続的な発展の重要なコンセプトではないでしょうか。
自分を1位に尊重したがる人には考えつかない感覚です。
数字で示せば他者60=自分40
自分以外のすべての人が他者なので360度の広い視野が得られて、尊い地球や支え合う社会の成り立ち、他者の大切さががよく理解できます。

例えばいにしえの浮世絵を鑑賞すると生き生きとした庶民生活が描かれているが、当時の価値観が決してお金や物だけではなく、生活に習い事や風流、粋を尊ぶ他者との融和、コミュニテイを大切にしていたことが理解できて、先人の豊かな感性、美意識に感動します。
無人島で独りで生活している人には芸事を習ったり粋や風流に拘ることはありません。すべて他人とのコミュニティを大切にしていて、自分のスキルを高めて他者に合わせよう、仲間に入ろうとする行動です。コアサイトはそれを確信できるサイトです。

 
 
@☆ 他者を重んじる経済2014.10.月

 京セラの稲盛和夫さん「人として正しい生き方を貫かなければ、経営はうまくいかないとも言えますね・・・。 」「他を利するところにビジネスの原点がある」という言葉に触れ、従業員の職場環境の改善に乗り出す。社員食堂を食べ放題にしたり、妊婦のための特別メニューまで用意した。従業員にも変化が現れ始めた。「仕事が楽しくなった。まるで家族と仕事をしているみたいだ」と話す。
金儲けだけじゃ会社は成り立たない


稲盛和夫経営学 中国企業から熱烈歓迎 NHK クローズアップ現代
 
A☆名古屋大学からノーベ賞受賞 2014.10.月

 2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治さん(76)に始まり、今世紀の受賞者
十三人のうち旧帝大最後発の名古屋大関係者は半分近くを占める。地元志向が強く保守的とされる地域にありながら、今年の受賞者に決まった赤崎勇さん(85)や天野浩さん(54)をはめ、受賞者は各地から集まったり名大から出て活躍した人が多い。
浜口道成学長(63)が九日、本紙に名大パワーの「ヒミツ」を語った 。

−なぜ多くの受賞者が出ているのでしょう。
常々分析しているんですが、メディチ効果というのがある。 イタリアでルネサンスが
なぜできたか。メディチ家が才能ある人をフィレンツェに集めて競わせた。戦後の名大には共通点がある。

名大は門も塀も無い。若い人が自由にものを言っても、それを上が受け止める度量がある。それが坂田昌一先生や平田義正先生だった。自由な発想を支える対等な関係が、特に一九六〇年代、七〇年代にあった。彼らが若い人に自由に研究させたことが大きな精神的財産になった。
学問の前には平等だと坂田先生はおっしゃった。その文化を大事にしないといけない。

名古屋の芸どころ、ものづくりの基礎をもたらした江戸文化はこちら

 B☆他人を尊重しあえるコミュニティ2014.10.月

平成元年から始めたテニスライフで、サークル内の人間関係の難しさを知り(教えられて)、サークルにポリシーを掲げたり、このページをUPしたりしてきたが多くを学ぶことができた。
直近で科学者も、経済界までが、他者への配慮、思いやりによって共存共栄の道が開ける発言があり、我が意を得て「サークルの平等」やHPの「他者愛」の漠然としたフレーズを、より明確な「他人を尊重し自分を尊重するな」に修正した。2014.10逆引きで「自分を尊重する人」を引けば⇒「自己中心的で」⇒「他人を軽蔑し」⇒「上からの目線で自分を認めさせようと何かと口を挟むことになり」⇒「争いの絶えない性格」と出るだろう。
実に理解しやすいフレーズです。「自分」と「他人」の僅か二文字の違いだけで正反対の人生になる。
他人を尊重する気持ちはすべて良い結果に通じるが、自分を尊重するとどのような結果になるのだろうか?
数年前までは強い弱いがはっきりするテニスサークルにおいて「平等」を会の趣旨としたが、自分はテニスも人間性もNO1だと「他人を蔑視」思い込んでいる人は、他人「蔑視している人たち」が納得できるような建設的な意見は言えないことに気がつかない。
なので「自由平等」よりはっきりした「他人を尊ぶ」が良い。「礼儀、信義、善意、謙虚、良識、自戒」は他人を意識した言葉だが、人間を人間たらしめる(意見と暴言の違いも分からず)最も大切な言葉を理解できないで良い結果は生まれないだろう。

70歳を過ぎてから尚新たな人生の信条を得られたことは、長年ヒトと関わるコミュニテイに席を置いて学んでいたからで、独りで生活をしていたら思いもつかないことです。この事実は人間社会を成り立たせる重要なファクターと言えます。
私のコミュニティとは
@テニスサークルの運営AHPを10年以上更新して、その間文章を主とした推敲を繰りし行ってきた。B私の幼い(家族)コミュニテイの存在 C他人と1時間にわたり接する理容業という人とつながる生業を家業としてきたことなど、さまざまな人間関係の薫陶を受けて、より良い社会を願う結果が(理容人生)です。  

テニスの技術についてもは2014.10.月20日73歳で、6連続サービスエースができ、スクールへ行ったことがない26年間の自己流テイスライフで初の珍事。過去には4連続の経験があるが70歳を過ぎてもできたことに意義がある。
一般的には考えられない出来事でだが、バランスとか美しいフォーム、美しい人間関係に拘り、それを脳裏に描けてきた美意識の産物だと感じている。
近年テニスコートを開錠して朝一番に中に入ると、二つのコートが真っ白い画用紙に見え出した。一つ目は技のイメージ、二つ目はメンバーの融和のイメージを脳裏に描くためのキャンバスである。サークルのポリシーをHPで見て入会される人が増えて、以前より協調できて手ごたえを感じられ、その上70歳頃にサービスの小さな開眼をし、6連続はそのイメージの正しさの結果であることが、信条を得たことと共に嬉しいことです。

「他人と尊重しあえる社会」と「6連続」の二つの結果をもたらしたテニスは、「理容人生」のTopカテゴリーの一つ「
情感人間を育てる趣味」を実証できたのではと考えています。
テニスサークル仲よし会「」のポリシーはこちら
 

 エロス「自己愛」とアガペー「他者愛」
 
 
哲学的にはエロスは愛や恋を指すが欲望による自己愛とされアガペー「神の愛」とは区別される。芸術的にも愛は万国共通のキーワードになる。
画家トム.ロバーツの言葉 
愛するものを描き描いたものを愛する 私の追加する言葉。「礼節」を重んじることは他人を重んじる姿勢。「学ぶ姿勢」は重んじている他人に自己を合わせようとする礼儀的行動。「Art」は自然などの他者を愛してその大切さを訴えたい愛する価値観を共有したいという他者文化の創作行動。
他者と愛   他者「自然や人、動物、社会的弱者」を愛する行為が究極の自己愛であり、昔から信義を重んじたり習い事などの文化に親しむ礼儀深い日本人の特徴であった。

豊かな文化は自己愛を超越できる豊かな人を増やし、貧しい文化は自分のことし考えない貧しい国民を増やし、殺伐とした事件の起きる不幸な国家となる。

 B 私の「社会の役に立ちたい」という大層な目的の
きっかけになったことは,、自然に接する釣りで体感した自然との連帯感です。登山や自然と向き合うアーチィストも同じ感慨を持たれると聞いていますが、体感はそれまでの人生観や価値観を一変させる開眼、解脱というインパクトがありました。 例えばあまご釣りの渓谷は不浄なものは何もない澄んだ大気と清流に、多様な生命体が大集合している場所です。また生命が誕生た母なる海も同じですが、そこに夕霧、また夕刻の闇が迫るとまさに幽玄な水墨画の世界となり、自分がその世界のなかで消え入りそうなくらい頼りなく小さな存在であったことを体感できるのです。

 そして孤独な釣り師が雨宿りする足元の一匹の虫、一輪の花と、同じ生命体としての強い連帯感と、ここから「もののあわれ」の概念を理解できて生命の尊さや健康、愛、他者愛という価値観に目覚め、争いや望がこの上なくつまらなく感じます。
 我という自己の周りに築いてきた対立の柵から解放され、社会や自然全体に融合して全体は自分なのだという不変な概念です。ジグソーズルの小さな一片「スモールピース」の感覚ですが、この感覚は雄大悠久な山河が我が家の庭の内にあります。この感慨を知って欲しい、共有したいと俳句に詠みエッセイに綴り、絵に描いてきました。

 識者の言葉「Artがヒトを人間にする」は誤解されやすいですが、豊かな国とは豊かな文化を共有し合う国民性の国で貧しい国とは貧しい文化「自己愛を超越できない争いの絶えない国」と言えます。
ジャングルの奥地で暮らす原住民は雨がしのげるだけの住まいでありながら、飾りものやファッション、Art,行事などは、地域の自然や地域の人々を尊ぶ文化で、一人の子供の死に地域全体で悲しみを共有できる豊かな社会と言える。
社会の役に立ちたいという思いは地域情報の発信だけでも役立ちますが、文化面で潤滑油として癒しや他者愛を感じられるような創作がHPの目的となります。 
「文化」というカテゴリーは幅がひろく、スポーツや盆栽、花火大会や祭りなど地域行事などを写真で表現することも文化的活動ですから、「大層」ではなく多くの方と有きる概念「コンセプト」だと信じています。
  
 
 幸福を感じること。=他人と価値観を共有できたり気持を通じ合える、自然と連帯できたり愛する対象があることは幸せである。  
 新しいArt=Googleストリートビュー 2012.10.27

グーグルサイトにビュー可能な世界地図があります。ビュー範囲は今のところ西欧が多いが、中でもイタリア、フランス、クロアチア、チェコはほぼ全域がSビューエリアで、PCの写真保存フォルダは15を超えた。その上イタリアにはサブフォルダの「ナポリ、ローマ、シチリア島、ブローチア島、」があり、最近「マッターホルン」を新たに加えた。
 見慣れないイタリア側の南壁だが、スイス側の北壁と違い麓は明るい陽光に溢れて水彩の題材に向いている。また雄大な山脈と小さく見える人間の対照が良い。 ドイツとスイスは何故かSビュウエリアは少なく、北壁はなんとかエリア内で雪山のマッターホルンをゲットできた。現場は雪の山脈でSビューの住所検索は難しいが、前方にあの見慣れた北壁が現れたときは感動した。「陶器でもマッターホルンを作った」

 全域がエリアの4か国を足しげく周って感じたことは、陸続きの歴史の重みと構造物が大きく重厚な点が共通している。破壊と創造を繰り返してきた人類の歴史を感じない訳にはいられないが、そんな感慨からかビュー画面を進みだすと止められなくなるくらいだ。私のサイトに「自己愛と他者愛」があります。
哲学的にはエロスは愛や恋を指すが欲望による自己愛とされアガペー「神の愛、天上愛、他者愛」とは区別されるが。芸術的にも二つの愛は万国共通の題材だろう。画家トム.ロバーツの言葉 「愛するものを描き描いたものを愛する」 私の追加する言葉「礼節」を重んじることは他を意識した重んじる姿勢。「学ぶ姿勢」も重んじている「人様」の他人に自己を合わせようとする礼儀的行動。⇒敬意と自らの謙虚さを表す。
そして「Art」は自然や生物などの他者を愛してその大切さを訴えたい愛する価値観を共有したいという他者文化の創作行動と言える。昔から信義を重んじたり習い事などの文化に親しんだ日本人の行動は、他者への一つの礼儀であり礼儀深い日本人の特徴となる。
また他者愛 は究極の自己愛であり、自己愛は究極には争いを生む欲望の愛である。なので豊かな文化とは自己愛を超越できた、弱者や老人、子供や女性を労われる豊かな人を増やし、貧しい文化とは自分のことし考えない貧しい国民を増やし、殺伐とした争いの絶えない不幸な国家となる。

 人は日本も含めて災害や戦争に翻弄されながら生きてきたが、ストリートビュー画面は上から写されていて、儚い庶民のひとときの幸せを絵に描きたいと願った。もともとArtや哲学はこうした人間の不条理で不確実性に萌えるように出現するものだが、そこに共通する「愛」はArtの重要なコンセプトである。
 Sビューで他国の風景と風景のなかの人々に接すると、写真でありながら写真にない現場に居るような連続した臨場感があって、天から眺めるように情感深く感じられるのは私だけであろうか。その理由は撮影する角度が高いことと、さらに地球の表裏を簡単に行き来できるバーチャルでありながら科学的に進んだ世界だからである。これはまさに天上愛であり他者愛なのだ。そしてそれを感じさせる新しいArtの世界でもある。

 
 2011.6.15  日本の未曾有の大地震が世界の良識を震撼させた。「欠陥人類であることを知らしめた」
 3月11日の午後三陸沖でマグニチュウド9クラスの大地震が発生。その10数分後に見たこともないような巨大な津波が沿岸に押し寄せて、まるで爆撃後の焦土のように地域や家族、会社、学校の絆を消滅させました。
 そのすざましさをテレビで報道されて被害を目の当たりしたすべての日本人を打ちのめしたのです。その上原発が損傷して深刻な日本列島の危機が世界に伝えられて、良識ある外国の人々をも震撼させました。

 現在世界の原発専門家の協力を得て、手がつけられなくなった怪物を必死でなだめていますが、現状は手探りで綱渡りをしている状況です。
 この事故でイタリアとドイツが脱原発を宣言しましたが、日本では原発利権連合と目される人が首相を交代させる動きをしています。

 科学は1+1=2の進化する世界ですが、科学をいかに使うか役立てるかは進化しない感情の動物(人間)であることに深い憂慮を感じます。原発関係者の中にも想定の甘さを感じた人はいたと思いますが、大きな推進の流れに逆らうことは私を含めてなかなかできません。 家族愛や会社への忠誠心、また地元への安全を説明してきた手前だとか、勝つか負けるかの感情とかの自己愛を優先して、つい曖昧になってしまうことが人間の脆弱性です。

 今回の津波想定の考えられないような科学者や電力業界の甘さや、事故後の危機レベルが諸外国メデイアより低いなどの右往左往ぶりなど、言わば欠陥人間に世界は震撼したと言えます。

 この事実から人の手に負えないような利権怪獣を手懐けられるという妄想を描くこと自体が、自己愛に酔いしれている愚かさを証明していると言わざるをえません。
自らの欠点を知らない動物はもろいものですが、その昔に大きな天災で恐竜が死に絶えて小さなゴキブリやネズミが生き延びたと言われています。人類もゴキブリになれとは言いませんが、欠点を知る身の丈に合った対応をすべきだと思うのです。 
 こうした人間の脆弱性は1+1=?であって、原発そのものの危険度より感情「傲慢、怒り、妬み、勝ち組の優越感、ノイローゼなど」の欠陥があることを認識すべきです。
 恐竜(原発大量消費)+欠陥人間=2にあらず、?の日本沈没の恐怖を覚えます。 全生物は地震、噴火、台風、津波、隕石などマグマ活動する危うい地球で生活しています。日本が沈没するような巨大な怪獣を役に立たせようと飼いならすときは、日本の国や地球環境「他者愛」をまず第一に考えるべきで、その後に個人の幸せがある訳で、他者愛こそが究極の自己愛なのです。
欠陥人類が分不相応な恐竜を望む危うさより、スローライフやエコロジーに舵を切る選択肢に人類の明るい将来を感じます。

 欠陥人類における賢明さとは謙虚に慎重に生きることでしか得られないのですから。

  2011,2.7 名古屋市民の選択
 6日に 圧倒的大差でトリプル選挙が終わりました。県市議会側と応援した政党側の惨敗の釈明は一様に「予想外」でしたが、選挙のプロ集団として恥かしい敗因のコメントではないでしょうか。
 なぜなら市県民が何を望んでいるか、何を変えたいのかを理解ができていなかった訳で、政治家としての資格がないと言わざるを得ないからです。
 また市民の気持ちが理解できないことは、日本の悲しい現状に対する認識が欠如していることになります。

 戦後は政党派閥主導が日本の政治でした。しかし党利党略は「自分たちさえ良ければ」の自己愛者の考え方であり国民は二の次になります。
国民はそうした自民党「権力争いの政治に」に嫌気がさして民主党が歴史的勝利を得て政権が代わりました。
しかし民主党に任せてみても本質は自民党と大差はなく、将来に明かりのない不安や閉塞感は払拭できません。

 現在の日本の現状は親殺し子殺し、高校生も就職がままならずの弱肉強食の格差社会になっています。
これは老人や女性など社会的弱者を不安にさせて経済を萎縮させ、若者のホームレスを増やします。このような悲しい日本の現実は、自己愛型政治家たちがもたらしたと言いたくなります。

 河村さんは強引なところがありますが少なくとも改革を掲げています。今の時代に何かを脱却できるイメージがあるが、本来は常に改革を掲げるべき議員は、屁理屈を言って温室ら出ようとしない職業議員のイメージを市県民に与えている。
 いくら政党が後ろ盾になり応援しようとも1/3の票しか取れないような現実は、もはや政治に政党は無意味です。

 名古屋市民の選択の結果は後年に分かりますが、仮に正しくなかったとしても、一部の後援会や支持団体のためだけの、金と票につながる要領のいい自己愛政治は有権者は許さないことを名古屋市民は示したのです。
 真に弱者を思いやれる他者愛的社会を、誰に託せば成せるか名古屋の有権者は一縷の望みを持ち注意深く見つめています。
 09.3.5 母べい 
 先日民放テレビで放送された吉永さゆり主演の「母べい」をみました。
私が生まれた前後の時期の物語ですが、当時は国から「オイ、コラ、キサマ!」と国民が呼び捨てられていたんですね。
戦争に反する国民は投獄されて近所や親戚からも冷たい目線で見られる、そんな内容でしたが、現在は人権や主権が守られていてその点だけは幸せを感じます。

 話は飛びますが現在の日本では小沢問題が自由に議論されています。私も自由に参加して意見を述べます。

 政治家は国民の代表ですが代表の意味をよく考えると、国民が豊かで公正平等に暮らせる社会秩序をつくる代表と言えます。
 そのために選ばれている、また選んでいるという原則を国民と政治家は忘れてはいけない。
 
 今回の小沢さん問題を原則に沿って考えてみると三点のことに留意すべきです。
、第一には、政治家には国の舵取りを任せるために特別な権限を与えられいる。第二には与えられた特別な権限を私欲に利用した、金に関わる不祥事が過去に絶え間なく続いた事実。第三は権力に媚びる集団に担がれた権力者の傲慢さの三っつです。
 一とニについて言い換えると、政界とは国民から委ねられた特別な権限を利用して、個人的な利益をもくろむ恥ずべき偽善者が後を絶たない世界と言えます。
 第三を換言すると、この偽善者たちが私欲を遂げるために権力にべったり寄り添い、持ち上げて担いでいる邪悪な集団の存在です。
 担がれる方は「上から目線」になり、不遜な天皇発言などにみられるように、国家の中枢が集団ダイナミズムという強権的エネルギーにより、反論させないできない「ブレーキの効かない」集団になっていく不安、不信を感じます。

 多くの血を流した悲惨な戦争はまだ60数年前に終わったばかりですが、この時期の日本は集団ダイナミズムの大きな暴走の流れに国民の主権が押しつぶされた苦い教訓がありました。
 先日の世論調査では72%の国民が、小沢さんの説明が足りないと否定しましたが、ことの真偽より偽善者に担がれる権力集団に不信をもった数字だったのでは推察します。

 従って国の中枢に関わる特別な権限をもつ政治家は「疑惑をもたれない」ことを第一の責任として掲げるべきで、疑惑を招いた場合には国家の中枢にいる者としての潔さをポリシーとすべきです。
 またわれわれ国民も二度と主権が弾圧されることがないよう、党や地域エゴで政治家を担いできた過去の反省が必要です。
 
 映画母べいは権力者に擦り寄る偽善者と、その偽善者を担ぐ地元民と同じだったことを伝えています。
 2008.7 戒律
 当管理人が参加している「コミュニテイ広場」で友人Dさんの「イスラム教徒の戒律や敬虔さに鑑みて、現在の日本に信仰心は必要か否か」の日記に多くの賛否の反響があり、私も下記のようなコメントを記しました。

 「人間の根幹に関わる興味深い議論です。宗教は人々の心の拠り所になりますが、度が過ぎると弊害をもたらします。どのあたりが妥当か?手を合わせたり頭を下げる祈りは、自らを真摯にさせ自己を律する。この程度の信仰で良いのかも知れません。
 またこの問題は、「幸福論」という大きな命題につながって簡単には結論はでません。

 仏教の戒律は他の宗教にみられるように厳しくありませんが、それだけに社会の一員として法律で定められない社会道徳などのルールを、自戒して規範としなければならずこれが自らに課す戒律でしょうか。
 自由な民主社会のなかでは自戒は重要なファクターになります。自己愛を抑制して他人を意識した「礼節、信義、信頼、善意、謙虚」等の言葉に留意しなければなりません。留意することが他者「社会、地域、自然、他人」を重んじる「他者愛」につながります。

 他者愛はエゴなどの自ら律することで社会に規範となる秩序をもたらすものです。

 武士は命より信義、名誉を尊んでいたようですが、これは他者に真摯に対応していたことであり、庶民も他人のことを「人さま」と呼び、
人さまに迷惑をかけることを最も恥ずべきことだと考えていた時代がありました。”先生さま”とか”お巡りさん”も尊敬される立場でした。
 日本には日本の良いところが多々あり、昔は貴族社会にも庶民にも習い事を尊ぶ風流人が多くいて、その結果日本にはさまざまで豊かな文化が育まれて現在に至っています。「習う」という行動は「祈り」と同じ自らを律する謙虚さの表れです。つまり社会や他人を常に意識し、重んじて暮らしてきた現れです。

しかし近年他者を重んじる風潮は廃れて自分さえ良ければの自己愛者が増え、社会の退廃を憂う事態になっています。
識者はこの風潮を「活字文化の衰退」「Artがヒトを人間にする」「社会に美しい秩序を欲する美意識の欠如」と文化的衰退を指摘しています。

 つまり文化の衰退が自己愛を超越できない精神の貧しい人を増加させているのです。通りすがりに簡単に人が殺されたり、弱者からひったくりする社会に心の痛みや悲しみ、社会の不条理等に怒りも何も感じない我関せずな人「自分さえ良ければと傍観している自己愛者」が増えていることがなによりの退廃です。

高齢者の私が下記の信念でおこがましくも草の根で文化を訴えています。
1、仕事の定年はあっても社会の一員としての定年はない。
2、自己愛は結局は自らを滅ぼす愚考であり、
  他者愛が究極の自己愛である。
3、仏教の「因果応報」の教えで自己愛者は結局は、殺伐とした社会で自分や自分の子孫でツケ払わなくてはならない。
4、逆に他者愛者には広く愛する対象があり、その愛を他人と共有したい、知ってほしい、共に愛を分かち合いたいと、愛するものを絵画で描き、愛するものを土で捻り「陶芸」、愛するものを言葉で綴り「エッセイ」、俳句を詠み、キーボード「HP」を叩く喜びがあります。」

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  この投稿は私に一つの宝を与えてくれました。

「自由社会での戒律は自らに課すべきもの」という考えで、当初から持っていたものではなく、コメントを推敲しているうちにコロリと出てきたもので、改めてて活字文化の意義を感じました
文字は漠然としている事象を推敲して明文化して個々の思想にでき、さらに定義したり整合性を高めて法に定めることもできます。
 
従って時間を置いて「平常心になり」推敲を繰り返すことが大切で、文章のつじつまを合わせたり流れをよくすることに努め、ある流れが文章にできると、文章は一人歩きするように進み視界が開けてきます。
今まで見えなかったものまでが見え、自分の予期しない場所にまで到達することがある。こうしたものの積み重ねで人それぞれの考え方が「信条、思想」になり、目に見える活字で刻印しておく。

 社会から活字文化が衰退することを危惧する理由がここにあります。その上活字を含む習い事など、社会から学ぶことは何も無い考えの人の増加「文化の衰退」は、思想、信条、道徳観が貧弱になることは否めず、戒律をもつことまでは無理?ではないでしょうか。

 私はHPを管理するために検索エンジンで上位にヒットされるテキスト「文章」を重視してきましたが、これが結果的にさまざまなことを言葉で明文化できて、人生を前向きに定義できたことに喜んでいます。
昔書いたエッセイです。

「エッセイの勧め 1996,9」
文章を書くことは生活の折々の「感情の整理」や「論理の展開」「真実の思索」を文字で明文化することです。何でもないような生活の断片でも煮たり焼いたりしているうちに、思いがけない美味しい食べ物が出来上がることがある。文章の流れの悪い小石を取り除いたり、言葉を入れ替えたりしていると流れが良くなり一本の文章の道が出来る。これは文章がある意味を持つことでこの道に沿い言葉を綴っていると作者の思考を超えた思いがけない場所に出くわしたり、意外な人間の本性、自分の素顔を発見して驚かされることがある。
 ここからの文章は創作の楽しみとなって独り歩きするように成長して書くに値するものがポロリと産まれる。この時点で饒舌を慎み原稿用紙二枚以内の”小品”に収めることが大切です。気持ちが高ぶって文章が肥大化すると読み手に嫌われます。水墨画の世界に”筆を惜しむ”精神がありますが、これは「余情」としてエッセイでも大切な要素です。
 また「文は人なり」と言いますが、大上段に振りかざすのではなく控えめで謙虚な表現が好まれます。例えば故意に難しい漢字を使いたがる人がいますが原稿を見ただけで読む気を無くします。日常に使われている読みやすい漢字を控えめに使えば、柔らかな仮名が生かされて漢字も引き立つはずです。
 水墨画の余白「白」を生かすことで墨が生かされる真理と同じですね。そして実生活でも他人を踏み台にして自分を生かすのではなく、他者「他人や社会など」を活かしてこそ自分が生かされる、生きる場ができることに気づくのです。
 文章で人生を定義できたことは私の財産です。
 自己愛と他者愛の違いの表
 
自己愛者とは↓ 他者愛者とは↓
自分に甘く他人に厳しい。 自分に厳しく他人に優しい。
 自分を尊重する。 他者を尊重できる。
 自分はNO1で尊敬される存在だと考えているので他人に高圧的。上から目線。 自分はNO2という慎ましさを持つ。
 なので言動は自己中心的。 他者のための建設的な意見を言える。
 視野が狭い。上下の視野しか持てない。 自分以外は全て他者で360度の視野を持つ
社会の戒律に疎い。 自分で社会の戒律を定められる。
社会や他人を軽く見て真摯に向き合わない「自分に自惚れている」。 文字通り常に真摯に社会や他人と向き合う姿勢でいる。見返りを求めない奉仕の愛。
向き合わないから社会や本質的な人間の性などに無知な部分があり、短絡的な発想をしてしまう。 真摯に学ぶ姿勢で自己愛者より社会や他人に対して知恵がある。
自分に過信があるからマルチ商法などに騙されやすい。 社会に学んでいて騙されにくい。
自己に甘いことはボランテア「他者」などには関心がない。 ボランテア精神を理解でき他人のために汗をかける自己を律する厳しさがある。
自己愛者は自分が驕れる自己愛者であると感じていないため、その反対軸の他者愛の存在も意味もわからない。 他者愛者は反対軸に驕れる自己愛があることが理解できる。
自惚れは自分を立派だと過信することで、自我が強く些細なことにも口出しして自己主張する「文句が多い」。 他人を敬う謙虚さがある。「実るほど頭の下がる稲穂かな」。
また自分が正しいと信じているから人の陰口悪口が多い。他者を悪口でこき下ろせば自分は自動的に立派だと見られると思いこんでいる。 陰口を恥ずべき欠席裁判でアンフェアーな行動だという意識を持つ。
本人のいないところで卑怯な悪口を平気で言う人と、その陰口を聞かされて100%信じて怒る人がいるが、これは馬鹿と名のつく自己愛者だと断定できる。 物事はいい方にとるか悪い方にとるか二通りの取り方があることを知り、また言葉「悪口行動」の裏にある人の真理を考察する余裕がある。
自分が正しいと思いこんでいるから、他人に頭ごなしな強権的な言い方、叱責をする。 全て人間は一長一短あり、広い視界と長い目でいい悪いを判断できる。
社長が不祥事で釈明会見するときに、社員に事情聴取すればすぐにバレるのに、「社員に指示はしていない」などと平気で自分に甘い嘘をつく。 釈明はしない。
大小高低の価値観で生きていて人。高学歴、有名人、大会社、地位の高い人に弱く「自分もそうなりたいという強い欲望を持つ」、上に立てば「自分は立派な崇められるべき人物」とした権威主義的言動をとる。 社会の一員として平等であり、主権者を尊ぶ精神をもつ。また人の善意、信頼関係を社会の価値観とする。
金銭と権力に価値観をもつエゴイストは、反面社会や他者など人間性についての知識が欠落している部分がある。 非利己的自然人、常に地球や自然と人間社会との関わりに関心があり、学者、芸術家に造詣が深い人が多い。
パホーマンスを好んで演じる。またはパホーマンスに弱い「あなたを幸せにする。一年で倍の儲けがある」など新興宗教やマルチ商法の売り言葉、豪華なホテルなどの派手な演出と甘言詭弁に催眠誘導されやすい。社会や他人に短絡的発想しかできず、言葉の裏にある真理の分からない人も、自分に甘い自己愛者であることが多い。 パホーマンスを嫌う。当サイトの管理人は妻と結婚する前に「君を幸せにできない」と伝えたが、幸せは本人の心で感じるもの。どちら大切に思う真摯な言葉だろうか?。
社会や他人に関心がないことは、他人を意識した言葉「礼節、信義、恥」に無関心なこと。逆に言えば欲望のためなら手段を選ばない人。 他人を重んじることは他人を意識した言葉を重んじること「礼節、信義、恥」を意識した言動になる。
スポーツや習い事などのサークルでは「お山の大将」になりたがり、仕切るために強引な自己主張をする。 黒子を意識できて他人の善意や信頼関係を最優先できる性格。
識者はこのような性格者を「組織の中では(セクハラ、モラルハラスメント、賄賂)などの罪を犯しやすい人物」だと定義しています。 社会や他人を重んじるこころ、重んじる言葉をお互いが尊重できたら、少しは健全な秩序が回復できるのではないだろうか。

 両者は方向が正反対で水と油のように対立的なもの。自分の住む社会に真摯に向かっていると、他者を生かして自分が在る社会の真理はおのずから理解できます。人は常に自己以外の外的な自然、社会、地球、他人を尊べる関心をもたなければいけない。
 また千住氏「美しさと醜さ」の意識欠乏。佐賀氏の「金銭だけを追い求めると地獄に落ちる」の言葉が納得できます。

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 08,6,18 秋葉原殺傷事件
 6月8日に東京秋葉原で凄惨な通り魔事件が起きました。しかし起きるべくして起きた事件だと言わざるを得ません。「考えられない事件」だと言う識者がいたとしたら「もぐり」ですね。
 昨今の世情は金銭至上主義で禿げたかファンドによる燃料や食料への投資、企業に都合のよい派遣社員制度、それらを正すべき政官の役得や不祥事、すべて自分のことしか考えない「歪んだ自己愛者」たちの増加と無関係ではないからです。
 その結果人生を短絡的に自己が勝つか負けるか、勝者か敗者だけで計る人が増えてきたのです。老人や親の人情とか人の良さを悪用した振り込め詐欺が、今年1〜4月で111億円の記録更新、引ったくりなど弱者を狙う卑怯な犯罪が多発。利益追求のみで他人のことなどどうでも良くて、「負け組み」を意識すると、社会に恨みをもって自暴自棄な犯罪を犯すしかない。
 彼を擁護する気はさらさらないが、若者から夢を奪う企業に都合のよい派遣社員制度、余生を奪う後期高齢者問題、国民の血税を貪る政官の歪んだ感覚や不祥事など、あまりにも上に偏り下の庶民を虐げて社会を退廃させ、その責任は政官財界の「自分さえとければ」という自己愛者たにあるといえます。
 私たちがかつて共有していた、地球⇒自然⇒生物⇒人間⇒子孫⇒美しい秩序ある社会、という豊かな生存のシステムは崩壊してしまったのだろうか。勝ち負けではなく幅広い共有、協調する全体的な視野をもち、「他者愛は究極な自己愛である」精神を社会に育める政策を痛切に望まれる。
 
追伸 この事件後にネットの掲示板には犯人に対して「よくやった、加藤さんは弱き者たちの救世主 、極悪非道の派遣業者の株価を下落させてる 、われらの代表、加藤さんの振るった聖剣は闇を切り裂いた神」だという、社会に鬱積した不満をもつ人たりの書き込みがあった。

私の格言「自己愛とは究極には自己のためにならず、他者愛とは究極には自分のための自己愛行動である」
  道 1994,5
  自然の懐で遊んでいるとさまざまな生命の営みに直面して、その感動を他人に知ってほしい、伝えたい、訴えたい、感動を共に分かちあいたいとペンをとった。ペンは漠然としていた私の思いを飛躍させたり凝縮させたりせて一本の道筋をつけた。自然の雄大さと生命の尊さ,そして人間の儚さと愚かさ、またこうして得た人生観、そしてその線上にある水墨画や俳句の道に導かれた。
 エッセイ、水墨画、俳句道は共に「簡潔」「余情」「筆(ペン)を惜しむ精神」等で共通しており文画一体といえるだろう。その上描く(書く)ことは人や自然の観察に留まらず、関連してくる「茶道」「禅」「華道」「書道」「歴史」にも興味が湧いてくる。
 自然観とは自然を通して見た人生観のことであり、以後の私の生き方、考え方、人への接し方を変えた。他人との信頼関係を大切にして心の和むもの、美しきもの、爽やかなものを求め、自分に厳しく他人に優しくありたいと願うようになった。これは社会の悪や矛盾に対して過敏になることで、さらに美しきものへと私を駆り立てるのである。
 自然から得た一本の道はちょうど木の枝のように何本かの求道の道に繋がっていて、今日まで生きてきた私の人生の知識はほんの九牛の一毛であることを知った。
もののあわれ 1993
 雨脚が激しくなったので私は釣りを中断して岸辺の林のな
かへ雨宿りに入った。渓谷は山が迫っていて日暮れが早く、
まだ四時なのに辺りは谷間は消入りそうに薄暗い。
林の梢から落ちる雨粒が私の菅笠を音をたてて打つ。
雨具を着ていたが背中が破れ雨が滲みて背筋が寒い。
下半身も水の中に立ち込んでいたからずぶ濡れで、私は
濡れネズミのようにみじめな姿である。茂みのなかで
腰を下ろすと、むきだしの木の根が蛇のように這い、シダが
垂れて不気味だ。

こうして無人の川辺で寒さに震えていると、無性に人恋し
くて温かな食卓や家庭のぬくもり、人の和などが貴重に
思え、逆に争いや欲望、贅沢がつまらなく感じて健康や愛、
生命など人間の本質的な価値観に目覚める。雄大な大自然の
なかの孤独な釣り師は、人間のはかなさ、小ささがしみじみ
と身に迫り何が大切かを教えてくれる。対照的客観の
「もの」と、感情的主観の「あはれ」が一致して生じる調和
的情趣の世界である。寂しさとみじめさで無限の豊かさが
あることを知った。
私の足元には同じように雨宿りする一匹の虫がいた。この
心寂しい時に出会う一匹の虫、一輪の花は命の仲間として
私に強い感動を与えた。悠久な自然と私が連帯し同化した
瞬間で、静かに辺りを見回すと私の周りは私の仲間 
たちで一杯であった。
     万緑の なかの一なる 釣り師かな    順風
 夏祭り 1992
 「ヘアーサロンツツミ」のある仲田本通り商店街は長年夏祭りが開かれている。車道は夕刻から遊歩道となり金魚すくい、盆踊り、神輿が練り歩き、各商店の店頭は夜店の裸電球が点いて祭りを盛り上げる。当店も理容に関するヘアーブラシやシャンプー、業務用の整髪料などを売ってきた。また繊維会社にお勤めの顧客に婦人服を借りたり、駄菓子店を営む顧客にお任せしたりして夜店が歯抜けにならないよう続けてきた。
  ツツミの客A『私は最近この辺りに越してきたんですが、夏には毎年お祭りがあるそうですね。子供たちが楽しみにしています』
  客B『うちの外孫たちも毎年祭りに合わせて泊まりに来ますよ』       店主『先日一人の青年が来店した折に「おじさん僕誰だか分かりますか、子供の頃に町内の子ども会でお世話になった神谷です。この春に就職して日進町に住んでいるんですが、この辺りが懐かしくて来ました」といって、それから日進から車で何年も来てくれますよ』 
 ことなかれ主義の現代社会は地域の行事や子供会の運営などを疎む風潮にあるが、大人や親が子どもたちの楽しい夢や思い出づくりに汗することは大切なことです。
 なぜなら大人の背を見て育つ子どもたちは大人になった時に自分の子供にも楽しい思い出を作ってやりたいと、地域の連帯など他人のために汗する健全な社会づくりをするようになる。そしてそれらが代々伝わっていく社会になれば、理想的な人間社会に近づくと言えるのではないだろうか。 1993.7

       
 踊る子は 子なりに低く 手をかざす                        
   夜祭に 朝から響く 子ども下駄 
     順風  
                                  
 お膳たての集会  
 

気分が悪くなった人は休憩室 か非常口へm(__)m;

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