幸せとは 今自分が手にしているもので充分だと気づくこと
 「ブータンの農民の考え」
 
Top理容人生
モラルハザードTop
2006年9月> Morality collapse
 カーソルを追う子猫を自作の日本の原風景のなかで遊ばせてください。桜の木や屋根に登らせたり、土手の階段を駆け下りたり、農婦の背中から野菜の添え木を登らせたり、画中の猫と並ばせたりして遊んでいると、バーチャルな世界ながら長閑な平和を体感できて、命や健康という本質的な価値観に目覚めます。
 暗いコンテンツを活字だけでなくBGM,追っかけ猫、絵画、Webの技で社会の将来が明るくなるように訴えています。

    壁紙は空想で描いたWebマスターの理想郷。08.4黒猫の追っかけは美人猫の館へ

偽装、賄賂、裏金、詐欺、不正請求、マルチ商法、学歴詐称、ヤミ専従、着服、など毎日報じられる自己愛「利己主義、金銭欲」事件は、自分の住む社会を頽廃させて、自分が弱者の老人になったころ、または自分の子や孫が悲しい思いをする因果応報で、結局は自分にしっぺ返しがくる愚行である。 

 2006年9月、日本は聞きなれない「モラルハザード」が社会問題化しました。小泉首相の負の遺産「格差社会」「勝ち組負け組」「いじめ」子殺し親殺しの「家庭崩壊」などが増加して殺伐とした社会になり道徳の崩壊が危惧されだしたのです。
 
 以前は外国からも賞賛されていた日本人の礼儀「他人への和敬の念」はそれまでの日本の文化、日本人の美意識、「侘び、寂び」「もののあわれ」「謙譲の美徳」などに育まれたもので、現在の「我関せず社会」はそうした文化の衰退で日本人の豊かな情緒「思いやり、優しさ」は薄れてしまいました。
 情緒を育む場は学校より家庭に大きなものがあると考えます。親子夫婦の信頼が築かれればそれを礎として木の枝のように他人を意識した和敬や信義、愛国心につながっていく。社会全体が弱者をフォローできる信頼社会の形はコアとしての家庭から始まります。

 戦後日本は「自由」⇒「個人主義」になり、他人に与える「和敬の念」や「礼儀」「思いやりの情緒」がすたれ、こうしたなかで国は教育や日本人の品格、愛国心を高める「美しい日本」という政策を発表しましたが、核家族化、未婚離婚が増え「核分裂」、親を看取り子を育てて得る優しさを無くし、給食費や町費を払わない親など自己愛者が増えたことが、日本人を堕落させていると考えます。
 
 法律は「最後の防波堤」といわれていますが、法律以前に人間には守るべき大切なものがあるという意味です。親子夫婦が個人の権利を主張するだけでなく、恥を知る親として守るべき信義、果たすべき責任、弱者への思いやりなど、法に定めてない道徳を意識するのが情緒であり、制定された法より人間にとって大切だと認識すべきです。
 武士は信義を命より尊びましたが、これは一つの他人への和敬の念で社会の形を成していました。家庭は社会の核であり一員であると自覚できない現代は、道徳破壊という大きな代償を払わなくてはいけません。
道徳とはをWEB検索する。

なんとかしろ!  
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社会や自然の一員を自覚するエッセイ
 2010.7.15.清く正しく美しく 
 梅雨空のなかの参議院選挙では与野党お互いが相手の悪口を言い合って足の引っ張り合いをしていました。相手を悪く言うことで悪人に仕立てて、自分だけは国民のための善なる政治家であるという訴えですが、人間としての無節操で政治家としての品格のなさにむなしさだけを感じる選挙でした。
 当然街選車や街頭演説は意味のない迷惑な騒音にしか聞こえません。
 政治家や官僚が密かに自分たちだけは優雅に暮らせる制度をつくってきた事実は国民を裏切っていることですが、彼らに他人の悪口を言う資格があるのでしょうか?。
 その上こうした政治家の応援街頭演説に拍手する聴衆も疑問です。民主主義は民意がストレートに届きますが、民意が必ずしも正しいとは言えません。うっかりすると民主主義の欠陥「衆愚の選択」を犯します。
 従って候補者の軽薄な演説は衆愚に迎合した、人の良い爺さん婆さん向けの大衆演劇型演説を敢えてしていると言えるかもしれません。

 お隣の中国は一党独裁の強みで着々と長期戦略の布石を打ち経済発展していますが、日本はこのような権力争いに明け暮れて頻繁に政権が変わります。これは国民のための政治より自分の権力のための争いを税金
を使って延々としている国であり、その無駄と無策を衆愚の選択で容認している恥ずかしい国と言えます。
 政治の貧困は国民の貧困で先人が血の代償で得た民主主義は、主権者である国民が民主主義の責任を負っているのです。現在の日本の現状は新卒者の就職難、若者のホームレスの増加、自殺者の増加等の戦後最悪のなかで、主権者には「いい加減に地域エゴ、業界エゴで自己愛投票している場合か!。」
 また全政治家には「いつまでも権力金力争いをしている場合か!」と言いたい。

 伊藤忠商事の丹羽相談役は社長に就任したときの理念を「清く正しく美しく」が企業の基本姿勢だと言われたそうですが、清く正しくは理解しやすいですが美しくとはどのようなものでしょうか。

 美しいサッカーとは、サッカーを集約した勝利に導くシンプルで機能性の高い力強いバランスに美しさを感じます。

 利益を追求する企業も透明性や情報開示、また社会的責任や企業ポリシーなど美しくシンプルな体制が経営に必要だという意味に取れます。

 日本という国家は国家を集約した機能性に優れた力強さや、弱者に優しい社会体勢、私腹を肥やす偽善者を先生と呼ぶことを恥じるバランスのよい美しい日本と言えるでしょうか?。すべての国民が平等で洗練された社会秩序が整う美しい国家でしょうか?
 
 マイHPに識者の言葉「Artはヒトを人間にする」を冠しています。その他美談や美しい行為は他人を和ませます。
 また個人の美意識は、その対極にある醜さ偽善、恥、悪、我欲を戒めたり嫌悪する意識を育てます。
 美しい日本を求める前に一人一人が美を尊び醜を嫌悪する美意識が必要ではないでしようか。
 また「清く正しく美しく」の陳腐に思う言葉が、人の繋がる社会ではいつの世も原点にあったことが嬉しい。
 
 08.7.27戒律
  当管理人が参加している「コミュニテイ広場」で友人Dさんの「日本がイスラムの厳しい戒律のしたで暮らすことの是非」の日記に多くの賛否の反響があり、私も下記のようなコメントを投稿しました。

 「人間の根幹に関わる興味深い議論です。宗教は人々の心の拠り所になりますが、度が過ぎると弊害をもたらします。どのあたりが妥当か?手を合わせたり頭を下げる祈りは、自らを真摯にさせ自己を律する。この程度の信仰で良いのかも知れません。
 またこの問題は、「幸福論」という大きな命題につながって簡単には結論はでません。

 仏教の戒律は他の宗教にみられるように厳しくありませんが、それだけに社会の一員として法律で定められない社会道徳などのルールを、自戒して規範としなければならずこれが自らに課す戒律でしょうか。
 自由な民主社会のなかでは自戒は重要なファクターになります。自己愛を抑制して他人を意識した「礼節、信義、信頼、善意、謙虚」等の言葉に留意しなければなりません。留意「自戒」することが他者「社会、地域、自然、他人」を重んじる「他者愛」につながり、社会に規範となる秩序をもたらすものです。

 武士は命より信義、名誉を尊んでいたようですが、これは他者に真摯に対応していたことであり、庶民も他人のことを「人さま」と呼び、人さまに迷惑をかけることを最も恥ずべきことだと考えていた時代がありました。”先生さま”とか”お巡りさん”も尊敬される立場でした。
 日本には日本の良いところが多々あり、昔は貴族社会にも庶民にも習い事を尊ぶ風流人が多くいて、その結果日本にはさまざまで豊かな文化が育まれて現在に至っています。「習う」という行動は「祈り」と同じ自らを律する謙虚さの表れです。つまり社会や他人を常に意識し、謙虚に暮らしてきた現れです。何も習うことはないと考えている自己愛者には戒律は無縁なものでしょう。

 近年他者を重んじる風潮は廃れて自分に甘い自己愛者が増え、社会の退廃を憂う事態になっています。
識者はこの風潮を「活字文化の衰退は国の衰退」「Artがヒトを人間にする」「社会に美しい秩序を欲する美意識の欠如」と文化的衰退を指摘しています。

 つまり文化の衰退が自己愛を超越できない精神の貧しい人を増加させているのです。通りすがりに簡単に人が殺されたり、弱者からひったくりする社会に心の痛みや悲しみ、社会の不条理等に怒りも何も感じない我関せずな人「自分さえ良ければと傍観している自己愛者」が増えていることがなによりの退廃です。

高齢者の私が下記の信念でおこがましくも草の根で文化を訴えています。
1、文化は健全な社会のための潤滑油である
2、仕事の定年はあっても社会の一員の定年はない。
3、自己愛は結局は自らを滅ぼす愚考であり、
  他者愛が究極の自己愛である。
4、仏教の「因果応報」の教えで自己愛者は結局は、殺伐とした社会で自分や自分の子孫でツケ払わなくてはならない。
5、逆に他者愛者には広く愛する対象があり、その愛を他人と共有したい、知ってほしい、共に愛を分かち合いたいと、愛するものを絵画で描き、愛するものを土で捻り「陶芸」、愛するものを言葉で綴り「エッセイ」、俳句を詠み、キーボード「HP」を叩く喜びがあります。」
6、自由社会には厳しい戒律はないが、それだけに個々の自戒が社会の重要な要素になる。
 08,6,18 秋葉原殺傷事件
 
 6月8日に東京秋葉原で凄惨な通り魔事件が起きました。しかし起きるべくして起きた事件だと言わざるを得ません。昨今の世情は金銭至上主義で禿げたかファンドによる燃料や食料への投資、企業に都合のよい派遣社員制度、それらを正すべき政官の役得や不祥事、すべて自分のことしか考えない「歪んだ自己愛者」たちの増加と無関係ではないからです。
 その結果人生を短絡的に自己が勝つか負けるか、勝者か敗者だけで計る人が増えてきたのです。老人や親の人情とか人の良さを悪用した振り込め詐欺が、今年1~4月で111億円の記録更新、引ったくりなど弱者を狙う卑怯な犯罪が多発。利益追求のみで他人のことなどどうでも良くて、「負け組み」を意識すると、社会に恨みをもって自暴自棄な犯罪を犯すしかない。
 彼を擁護する気はさらさらないが、あまりにも上に偏り下の庶民に敗者を増やして社会を退廃させ、その責任は政官財界の国のトップにあるといえます。
 私たちがかつて共有していた、地球⇒自然⇒生物⇒人間⇒子孫⇒美しい秩序ある社会、という豊かな生存のシステムは崩壊してしまったのだろうか。勝ち負けではなく幅広い共有、協調する全体的な視野をもち、他者愛につながる精神を社会に育める政策を痛切に望まれる。
 
追伸 この事件後にネットの掲示板には犯人に対して「よくやった、加藤さんは弱き者たちの救世主 、極悪非道の派遣業者の株価を下落させてる 、われらの代表、加藤さんの振るった聖剣は闇を切り裂いた神」だという、社会に鬱積した不満をもつ人たりの書き込みがあった。
私の格言「自己愛とは究極には自己のためにならず、他者愛とは究極には自分のための行動である」
 08,4,20,後期高齢者制度とモラルハザード
 支払った金を社保庁職員に着服されて領収書がないからと捨て置かれ、その着服や入力ミスなどの体質的不祥事を政府は50年も前から把握しながら先送りして被害を増やし、今度は減らされたままの年金から75歳以上の新保険を断りもなく天引き「むしり取る」する。
 75歳以上といえば日本のために生死を賭けて戦地に赴いた人や、戦後の日本の復興に汗して働いてきた恩人です。現在は働くことのできない社会的弱者になられたとは言え、社会の邪魔者のような長寿を喜べない扱い方は、礼を尽くすべき先人になんという非礼な態度でしょうか。
 議員の先生方は靖国へ参拝されますが、ばんざいと叫んで国のために亡くなられた御霊に対してどのような説明ができるのでしょうか。マスメデアで「高齢社会では皆さんで負担しあい子供につけを回さない」と詭弁を弄していますが、政官の不祥事や無駄、自分たちだけの姑息な制度「贅沢」を正してから言うべきです。
 働くことができないリタイヤされた老人の年金は生活費として命綱ですが、健保も年金にリンクした国民にとっての基本的制度です。100年は安心とか3月までに解決と公約しながら、屁理屈をつけて恩人も弱者も関係なくむしり取る国家。この悲しい現実は国民にとって、特に戦中戦後の大変な時期に日本を牽引してきた「後期高齢者」にとっては国に裏切られたような不信感を感じられたでしょう。現在の国を信頼できない国民の不幸はまさに戦後最悪だと言わざるを得ません。
 制度反対のデモをしなければならない老人のニュースは、世界中に日本の恥をさらしている。弱者を粗末にする国に思いやりの風潮などできるはずばない。弱者をターゲットにしたひったくりや振り込め詐欺、親殺し子殺しが横行する
モラル崩壊社会の責任は、トツプの国にあると断定できます。人間にとり法律より大切な弱者を思いやりの心も知らないで、教育だの礼儀、モラルを唱える資格があるのでしょうか。
 何故このような道徳観の低い無神経な人物が国の中枢にいるのか。?
それは金力、権力の中枢には蜜を求める蜂のように集まってくる「歪んだ自己愛者」たちの存在があると想定できます。自己愛とは誰でも第一に考える自然な愛ですが、心より物に価値観を抱く人は歪んだ自己愛者として国民のための行動はできなくなります。他人の上に立ち崇められたいという出世欲、蜜を持つ組織内でうまく世渡りをする打算などが必然的に自己中心の「歪んだ自己愛者」を増殖させます。従って礼節や、モラル、信義、良心、思いやりなどの他人「国民」を尊重する言葉はないがしろにされることになる。
 国の主権者である国民のことより、自己愛者として天下り先や裏金などの無駄づくりに頭の切れる人が出世する環境なのでしょう。そのような反社会的人間を律儀にも「先生」とか「お上」と拝めることは止めましよう。かつての
礼儀深かった 日本人はもっと”努力”して怒るべきです!。
 2008,4,1,自己愛と他者愛エロスとアガペー
  Artは地球とか大自然に向き合うことですから、そのなかには地球環境から社会、生物、動物と人間などの他者生命とか愛が対象になります。自己中心の自己愛ではなく、見返りを求めない外にある大きく広いものに向けらた愛「アガペー」、または関心ということになり、他者を重んじる礼節や和に目覚めます。
 他者愛の反対軸である自己愛者とは誰でも持っている自然な愛「エロス」ですが、うっかりすると文字通り自分中心の歪んだ価値観として矛盾と邪悪性を抱えることになります。例えば「自分は又は自分の子供はよその子より優れている」という盲愛は過信や驕りとして⇒周りから崇められて当然だというわががまな権力志向者になり⇒そのために他人を踏み台「虐げる」にすることに躊躇も罪悪感も無くなります。その上そうした歪んだ価値観は、礼節や和に無関心で自己の運命を他人のせいにする「自己破滅」の過ちを犯します。
 つまり他者愛には過信や傲慢さ、他人のせいにする邪悪性はなく「あばたも笑窪の異性愛は別です(^-^;」、深めるほど広くて大きな世界と連帯できますが、自己愛に埋没すると共存する他者や社会を否定した邪悪で孤独なブラックホールのような自己破滅行動に向かいます。現代の親殺し、子殺し、自分の死刑を望んで無差別殺人に走る若い人たちは、自己「孤独」からの出口を見出せない歪んだ閉塞感や絶望感に押し潰さた姿ではないでしょうか。
 私の綴ってきたエッセイ「小さな人間」や「連帯感」「もののあわれ」等は「人は小さく弱くて儚い存在であり、それを自覚することで過信や驕りを戒めて自身を律っすることにより、他者への礼節に目覚めて大きなものを敬愛する豊かなこころを持てることが骨子であり、その姿勢が「豊かさ」として「本当の人生の勝ち組」といわれる所以なのかも知れません。
 当サイト内から他者愛を綴った私のエッセイを拾いだしてみました。
 06.11.20 いじめの責任は親か教師か国か
  いじめは昔からありましたが生きることに厳しく、復興する将来の希望と庶民的連帯があり今日のような深刻な問題に発展しなかった。貧しさは登るべき道をはっきり示すが、豊かさと自由のなかでは人は迷へる子羊となる。現代は豊かさの負の遺産「数字を追うあまりのモラルの欠如」が進行中。
①幼児に何万円もする殺人ゲームを買い与えて夢中にさせ、小学生には携帯を持ち頭は情報過多で仮想か現実か、生か死かの区別に疎くなり、人間関係や社会性が未熟でうまく対応できない。
②テレビで食べ物を粗末にしたり後輩をいじめて笑わせて喜んだりして品格と節度のないマスコミを黙認している社会。
③子どもたちは「跳ね返す強い相手」にいじめはしない。打たれ弱い子に優越感をもち自分の影響力を試す心理があることも知るべきです。わが子を打たれ強くすると同時に、一つしかない命の大切さ、ペットを飼うなどして家族で可愛がりその死を悲しむ情緒を育てる。「核家族化」で祖父母の愛情と死別を体験できない点などを考えると、家庭での情操教育がいかに大切か、それを自覚する親が少ない。
④子どもを守るのは親だという信念がない。その上教師に責任転化する無責任さ。親が子を守らずして誰が守るのか。人任せ、学校任せ、携帯をもたせて給食代を払わない親は五万といるなど、何かが起これば他人のせいにする無責任社会で、社会のコアになる家庭の形が崩れ、家庭崩壊⇒道徳崩壊につながっていく。子は親の背を見て育つもの。自殺する子の真理も他人のせいにしているとしたら悲しいことだ。
 またわが子がいじめられないかを心配するだけで、いじめる側を心配を親がいないことも問題だ。幼少のころから「人さまに迷惑をかけないこと」と「悪いことをしたら地獄に落ちる」「弱いものいじめをすることの卑怯さ」を身をもって教え、それを背中で示すくらいの父親が少ない。

 
④学校の「履修問題」にもみられるように受験志向だけの教育だったことが露呈した。企業、マスコミ、家庭も同じように数字だけを追う価値観を長年持ち続けてきた結果が、モラルハザード「道徳崩壊」と言われる今日の現状である。
⑤優秀な教師は生徒に目が向いているが、管理職志向「権力志向」が強い教師は校長や教育委員会に取り入り要領よく出世する。現実はこのような自己中心的な「自己愛管理職」に支配されている教育界、また日本ではないだろうか。だから「お詫び会見」などの不祥事が絶えない。
⑤弱者を思いやれる真の豊かな社会「道徳観や信義を重んじる社会」はどうしたらやってくるだろうか。
当サイトは「小さななモラルを大切にする」がテーマですが、それにしても政府は造反組を数合わせだけで復党させようとしていますが、国民への信義はそれで立つのでしょうか?。
 国のトップが言葉では立派なことを言いながら行動は国民を裏切る打算だけで、モラルハザードの元凶になっている。これで生徒の教育ができるのでしょうか。
 仲田夏まつり1993.7
 「ヘアーサロンツツミ」のある仲田本通り商店街は長年夏祭りが開かれている。車道は夕刻から遊歩道となり金魚すくい、盆踊り、神輿が練り歩き、各商店の店頭は夜店の裸電球が点いて祭りを盛り上げる。当店も理容に関するヘアーブラシやシャンプー、業務用の整髪料などを売ってきた。また繊維会社にお勤めの顧客に婦人服を借りたり、駄菓子店を営む顧客にお任せしたりして夜店が歯抜けにならないよう続けてきた。
  ツツミの客A『私は最近この辺りに越してきたんですが、夏には毎年お祭りがあるそうですね。子供たちが楽しみにしています』
  客B『うちの外孫たちも毎年祭りに合わせて泊まりに来ますよ』       店主『先日一人の青年が来店した折に「おじさん僕誰だか分かりますか、子供の頃に町内の子ども会でお世話になった神谷です。この春に就職して日進町に住んでいるんですが、この辺りが懐かしくて来ました」といって、それから日進から車で何年も来てくれますよ』 
 ことなかれ主義の現代社会は地域の行事や子供会の運営などを疎む風潮にあるが、大人や親が子どもたちの楽しい夢や思い出づくりに汗することは大切なことです。なぜなら大人の背を見て育つ子どもたちは大人になった時に自分の子供にも楽しい思い出を作ってやりたいと、地域の連帯など他人のために汗する健全な社会づくりをするようになる。そしてそれらが代々伝わっていく社会になれば理想的な人間社会と言えるのではないだろうか
。 1993.7
                                                                                   
 踊る子は 子なりに低く 手をかざす              夜祭に 朝から響く 子ども下駄      順風
 パンダの子育て2005
  テレビで「ムツゴロウのゆかいなパンダ物語」を見た。パンダは双子を産んだ時に母親は一匹だけを膝の上で育てる習性がありもう一匹は死ぬことになる。人馴れした飼育場のパンダが双子を生んだ場合は人の手により二匹とも育てて自然に返そうという記録の番組である。
 生まれた直後に捨てられる運命の子パンダを人間が拾い飼育室で育て、少し成長したころにその子パンダを連れて檻に入り隙をみて取り替えるのである。、
 目が見え歩けるようになると二匹の子パンダは初めに育てられた”親”を慕って「追い鳴き」をするようになる。母パンダが外の運動場出た時は育てられた弟パンダが追い鳴きし、人間に拾われた兄パンダは飼育人に追い鳴きをする。この時期を見計らって弟と母パンダの居る檻に兄パンダを置き去りにして飼育人は外へ出ると兄は飼育人を慕い追い鳴きをする。檻の中から飼育人の居る外へ出たがって鉄格子に顔を突っ込み激しく鳴く。するとその声に母パンダの遺伝子がうずくのか、膝の上の弟を傍らに置いてむっくらと起きて歩き出し鉄格子に頭を突っ込ませている兄の後ろから
身体を咥えて頭を出そうとする。
 この時の無理に引きずり出すことはせずに、角度を変えて頭が抜ける位置を探して慎重に取り出す親の行動は感動する。
 こうして兄弟はひとり立ちするまで母パンダに同じように育てられ野に返される。信頼できる飼育
人だけが成せる技だが二匹の子パンダの乳を欲しがる時の鳴き声は同じだから親は本能的に騙されるのだろう。
 ムツゴロウ氏は感極まった表情で「動物はすばらしいですね!」氏のこの「は」は動物より優れた知能を持ちながら愚かな行動をとる人間への悲しみが言外に込められているような気がする。
  人の環境エンリッチメント2005.
  イラクやアフガニスタン、東南アジアの貧しい国の子供たちをテレビで見ると、ゴミの中から金目の物を探しだしたり、幼い兄が幼い弟を抱き外に出て生きる糧を探すこと必死です。屋内にこもっていては生きられません。貧しい国は国民に生きることを厳しくして目の前に登るべき道をはっきりと示します。おそらく社会と断絶したような無気力なニートや親殺しなどの異常行動は少ないはずです。
 池を渡るゴリラは棒で深さをさぐりながら渡ったり、蟻塚の細い棒などはよく知られていますが、私も釣りの仕掛けや銀杏採りの道具を作って屋外の自然のなかで使うことは狩猟本能を刺激して興味と感動、楽しさを感じます。
  人間の営みとは本能「子孫繁栄」をより確実なものにする工夫や、そのための社会環境を良くする必要があります。それは個人だけの幸せを「求める行為」から、自然保護や恵まれない人々へのボランテア、癒しとなるような芸術表現、社会奉仕など「与える行為」に転換しなければなりません。自我を捨てる大転換ですが豊かさのなかで生きるための前向きで健全な精神として、社会の中での自分の居場所が定まり本能に沿った生きる目的を得られる万人の環境エンリッチメントとは言えないだろうか。
解禁日 鮎より強し 陣地取り
外「と」にも出よ 触るるばかりに 春の月
  中村汀女(1900~89)
秋の月に比べれば春の月は、手を伸ばせば届くような温かさと親しみがあります。外に出よという行動と、触れるばかりという感動で匂うような春の月を表わしている。
 まだ未熟会見 06.9
  毎日のように報じられる親殺し、子殺し、児童の虐待、小学校での児童の暴力事件が右肩上がりで増えているそうです。少し肩が触れただけで、また少し注意をしただけで激怒して暴力沙汰になる。こうした道徳の危機「モラルハザード」が若い世代に増えてきた責任は、大人社会のだらしのなさに関係が無いとは言えません。
 岐阜県庁の裏金、社会保険庁の不祥事、飲酒運転、経済犯罪、自分さえ良ければよいの自己中心的犯罪など社会のモラルは崩壊しつつあるようです。
 このような風潮を政府も「モラルハザード」として社会問題にしたように、社会の一員としての「信義」や「礼儀」を重んじる人は少数派になり、平気で”信号無視”をする傲慢な多数派の前に無力感が漂うような現実ではないでしょうか。
 信義の悲哀をストーリーにした映画「ラストサムライ」を思い出しましたが、私がHPで訴えている「礼節」、「信義」についてもラストサムライの末裔のような少数派の虚しさを感じます。
 そんななかで早稲田の斉藤君の「未熟だから進学する」さわやかな進学会見は一服の清涼剤でした。
 スポーツなどで常に努力をしている人「自分に厳しい人」は、努力している実感が少しづつなくなり、それが普通の生活になってさらに上を目指す余裕ができる。言い換えれば自分の未熟さを自覚できるステージを持っているのです。
 国民栄誉賞を辞退したイチローも「まだ発展途上」といっているように、トップアスリートたちのコメントは総じて謙虚で人間的にもしっかりした人が多いことでうなずけます。
 逆に自身に甘い人「自分に厳しくない人」は過信や驕りがあるだけで、少しぐらいの酒なら、裏金なら、賄賂なら、スピードなら分からないと傲慢になり、愚かな人間を決定づける原因になるんです。
 謙虚と傲慢の分岐点ではわずかな違いだけですが、積み重ねられた延長線上では、天地ほどの差がついてしまう。
 待ち人 1989.
 息子夫婦の悪口を言うことだけが目的のような老人客。動くことに少しも気をつかってくれない赤ちゃん。新興宗教に凝りその効能を熱く語って入信を勧める社長。店内で髪を切る切らないを言い争う親子など、理容室はモラリストを自認する私にはもってこいの学びの場である。
 春がきて山形から当地へ出稼ぎにきていた客人が「国へ帰る」とわざわざ当店に挨拶に訪れた。私は仕事の手を休めて入り口に立つ陸奥の国の客人に訊ねた。
「こちらではよく儲かりましたか?」
 するとその客人は嬉しそうに相好を崩して
「いえ儲かりません。儲かりませんがわたすの帰りを待つ家族がいるもんですから帰るんです」
 私は素朴な人の素朴な言葉に心を打たれた。遠くに離れていても人と人はお互いが心を通じ合えることができる。彼の職場には帰るあてのない仲間もいたのだろう。だが自分には自分の帰りを待つ家族がいる。安らげる家庭がある。
 このとき私は人間同士の信頼感は「幸せ」の原点であり家族はその基本にあることを感じた。
 家族たちへの土産を大事そうに抱えて帰る彼の背中に、まだ見たこともない彼の家族たちの笑顔が写っているように感じた。
口開けて 鮎釣る亭主 待つ家族--
花咲けば 転居を告げる 理容客
社会の形「家庭の崩壊」 2006. 
 小さなテニスクラブでも人間関係を学ぶことは多くありますから、他人が一つ屋根に暮らす夫婦や家族間の学びはそれ以上のものがあるはずです。夫として父親として祖父として、また妻であり母であり祖母であり姑であったり、それぞれの立場の違う礼儀と節度が求められ、そのための学びは日々経験できることが家族の良さです。
 私が小学5年生のころいたずらして学校の先生に殴られ前歯が折れて、教師に付き添われて帰宅し父に教師が侘びたところ父は「そんなこと気にせんでいい。言ゆことを聞かなんだら遠慮せず叱ってくれ」と答えていた。
 昔は父親と学校の先生、お巡りさん、町内のおばさんなど子供にとり怖い存在だった。それは「人さま」にみられるように他人を敬う日本人の情緒があり、親のそうした他人に対する態度が子供たちにそれとなく判り、信義を持って暮らせた時代だった。
 子をもてば「子が迷惑をかけるかも」と親は町内の人には頭を低くしたものだった。それがいつのころからか個人主義になり吾関せずで少しでも身に降りかかったことはすぐに訴訟で決着したがり、町内からは子ども会がなくなり、先生もおちおち生徒を叱れない孤独で淋しい社会になってしまった。 
 将来の日本を背負う人材を育てるという全寮制の学校を創る側と子供を入れる親の気持もわからない。休日の親子の触れあいや兄弟喧嘩と学び、海水浴や夏祭りの思い出、親の背を見て育つ子どもなどさまざまな情緒から隔離されて懐の深い国際人が育つのでしょうか。個人として豊かな情感を持つことが礼節をわきまえた懐の深い人間を育み郷土愛や愛国心につながっていくのです。
 社会の形というものが私には逆さまに写ります。
 六十路にて 青き教訓 夏惜しむ
 子どもを守れない社会の不徳2005, 
  抵抗のできない幼女を悪戯目的だけではなく、殺しを目的に誘拐する恐ろしい事件が続発しています。私たち大人はこのような昨今の世相(変質者はどこにでも居てしかも密室となる車を持ち普通の顔をして、その上欲望を満たさなければ生きられない猛獣より性質の悪い性格を持つ)を認識すべきです。頼りになるのは市民からの不審者情報ぐらいしかないのが現状で、地域、学校、父兄など周囲の連係が大切になってきます。
 ところが数年前から日本の社会は他人の不幸や社会の問題にも対岸の火を見るような個人主義的風潮になり、隣組みとか子供会などを疎む人が多くなっている。
  その結果として「健全な社会」を気にかける人が少なくなり、(これは小さな不道徳を犯していることです)知らず知らずのうちに今日の結果を招いたといわざるを得ません。見境なく金銭欲や性欲にすすむ人が毎日のように報じられて、結局は因果応報で我が身に降りかかり子孫が辛い思いをすることになるんです。
 ここで言えることはシニア世代は長い人生を経験して最も分別のできる世代です。比較的時間や金銭的な余裕もあります。堕落していく地域を傍観する不道徳を犯していてよいのだろうかと常に自問自答しています。
 
爆走の トラック揺らす 供花の菊
家族は社会のコア「核」2006. 
  人が結婚して夫婦となり子孫を残すことは生物の本能的行動です。またアダムとイブから始まった社会のように夫婦は基本的なコア「核」を成すもので、ここから分裂して子孫を残して地域町内の付き合いを学び、社会の一員として郷土を愛し、国を愛し地球を愛する形に進む。子を持って知る親の恩のように子供から教えられることも少なくなく、また子供を持たないと真に親の気持を理解するには無理があります。従って独身者が議員や識者として国民のための活動をされることに一抹の不足を感じます。
 例えばマンションの独身者は核となる家庭がないためか、ゴミの分別もいい加減になりがちです。町内の訃報の回覧などにも無関心で自分が住む地元への情感はありません。ゴミの分別ができないことは地域の草花や山河、桜や富士山、自然環境、弱者や子供たちの配慮、他人との連帯も薄いことになります。
 子をつくり親を看送るコアの生と死を知らずして人生観、自然観は語れません。自分の足元を礎として木の枝のように広がる情緒は、やはり家庭からの学びが必要ではないでしょうか。
 独り住まいの気ままな暮らしのなかで、町内付き合いもできないことは人間として大きな問題と考えるべきでしょう。
 中国には「三日幸せになりたかったら結婚しろ」の格言がありますが、私は「結婚は豊かな情緒の始まりであり本当の人生の始まり」と定義づけします。
          菜の花や 吾より若い 父母写真
  社会の一員に定年はない。05.10.10 
  日暮れが早くなりました。その秋の夕景「俳句では(秋の暮れ)」は感傷的で昔から洋の東西を問わず詩歌に詠われ画家が好んで選んだモチーフです。写真芸術でも頭上に太陽があるときの作品は平凡になりがちですが、斜めに差す朝日夕日はものの陰影、明暗をはっきりさせます。農夫に牛や羊を配した夕暮れの田園風景画などはいいですね。
 ひとときの平穏、愛おしく尊い生命、それらが自然のなかの落日時には輝くように人の心を惹きつけるんです。その心を動かすものを表現したい、他人に訴えたい、共に感動を分かち合いたいと写真や絵画等の創作に向かわせる。
 プロの芸術家は信念を持つて活動しておられますが、その何百倍ものアマチュアカメラマン、またホームページの管理者のHP更新も含めて、創作できる余裕、気力、環境を持ちあわせる人は、個人の趣味を超えて積極的に文化を育む創作活動をすべきだと思います。なぜなら「文化とは健全な社会のための潤滑油である」ことと、仕事の定年はあっても社会の一員としての定年はないからです。
 おこがましいかもしれませんが芸術の表現は「素朴、愚直、個性」で充分です。
            秋の暮れ 鍬持つ翁は 役者かな    落ち鮎や 淵にも棲めぬ 影暗し 
 信義と礼節 2006
 人と人との信頼関係「信義」は昔から武士道の一つとして社会のなかで重く受け止められてきた。換言すれば「道」として極めなければならないほど難しいことだということです。現代でも町内会や、趣味の会、スポーツクラブなどのグループ付き合いのなかで、つまらない誤解や錯覚、嫉妬、個性のぶつかりあい、ひがみや勝手な思い込みなどで仲たがいするのが人の常なのです。信義はガラスのコップのように簡単に壊れます。
 仲間うちに軋轢が生じたとき①相手に不満があるが自分も完璧ではないからと妥協する②どうしても妥協できないときは冷静に話してみる。「陰口で終わらせないで広くて明るいテーブルに着く」③それらを踏まえて判断し行動する。ところが大多数の人は②を省いて短絡的な③のそれぞれの生き方に進む。気の弱い人はこっそりと、短気な人は怒りを爆発させて去っていく。 
 残された方は原因が分からず、それまでの楽しかった思い出は不愉快な思い出に変わり、日の出と落日のように出逢いは別離を迎える。このような不本意な結果は人間として賢明とは言えず釈然としない。
 ②は火中の栗を拾うような勇気と正義心が必要だが、一度ぐらいは知性ある人間としてもつれた糸をほぐす努力をすべきではないか。 5~60代の人生で一番分別盛りの年代の人までが聞く耳を持たないような別れは恥かしい話である。「立つ鳥跡を汚さず」で、その後に決断しても決して遅くはない。
 しかしそこに妬みやひがみがあると話にはならない。何故なら「妬み、ひがみ」は正当化のできない人間の悪しき性、三角関係に多く心に持つだけで平常心を失った邪悪な人間に変貌してしまう。明るいテーブルに着こうとしないことが心が歪んでいる証拠だ。テーブルに着くべきだと言う人と着こうとしない人との両極端の差は、相手「信義」を大切にしているかいないかの差でもある。
 この他、人間関係を難しくしているものとして仲間の陰口がある。陰口は悪口でありそれ自体に道義性がないだけでなく、他人を悪人に仕立てることにより自己を善人にすり変える偽装家である。別名「欠席裁判」とも言い、反論する相手がいないなかで自分の都合の良いことだけを喋って他人を「悪人だ」と判決を下すのである。従って千時間を費やしても真理はでてこない。
 話には前後があることを知らず一部分の悪口だけを聞いて「乗せられて」しまう単純な人がいて、突然怒ってくると手がつけられないことになる。
 また陰口をアンフェアな行為として相手に諭す人は稀で、大部分はあいまいに陰口に調子を合わせ感情の火種を大きくしてしまう。これが人間本来の姿かもしれない。
  真善美を求めることは醜悪なものに嫌悪を催す欠点を背負うことになるがこのことは善なのか悪なのだろうか。
 

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