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小さな人間の勧め
 

小さな人間を自覚できることは、雄大な大自然の一員という大きなものを手にすること。壁紙の浮世絵の人物は小さく「視覚的,精神的」に描かれている
世界に広がる座禅
 
     



「小さな人間」でGoogle検索すると 9,400,000 件のTopページに表示されます。


 人は一般的に大きなもの「車、家屋」、高いもの「地位、学歴」の大高に憧れます。
換言すれば金銭と名誉を欲することですが、そうした欲望を強く持つ人は派閥の数を力としたり、大高の反対軸にある小低「低学歴な庶民」なものを見下す過ちを犯します。
 外見で人間性を測ることで、上から目線で他人を見下すと同時に、自分は他人から崇められて当然だという驕れる自己愛者になり、社会の常識や道徳は疎かにされ、謙虚さを失い自己中心的な視野の狭い強者の権力的行動をとることになります。

 
 逆に視野の広さは全体の一員として自分の小ささや未熟さを良く知り、自分の周りに築いてきた窮屈な自我という柵が解けて、驕りを戒める自戒ができて謙虚な素養が身に付きます。つまりジグゾーパズルの1ピースとして、他者「全体」を活かすことで「他者愛」自らが生きられる社会であることを知ります。これは対立、競争社会のなかで大きな豊かさへの開眼です。


わが背丈 野花に合わす 花むしろ」拙句。
 管理人はここで小さな人間になりました。

エッセイ もののあわれ昭和54年

 雨脚が激しくなったので私は釣りを中断して岸辺の林のな
かへ雨宿りに入った。渓谷は山が迫っていて日暮れが早く、
まだ四時なのに辺りの谷間は消入りそうに薄暗い。
林の梢から落ちる雨粒が私の菅笠を音をたてて打つ。
雨具を着ていたが背中が破れ雨が滲みて背筋が寒い。
下半身も水の中に立ち込んでいたからずぶ濡れで、私は
濡れネズミのようにみじめな姿である。茂みのなかで
腰を下ろすと、むきだしの木の根が蛇のように這い、シダが
垂れて不気味だ。


こうして無人の川辺で寒さに震えていると、無性に人恋し
くて温かな食卓や家庭のぬくもり、人の和などが貴重に
思え、逆に争いや欲望、贅沢がつまらなく感じて健康や愛、
生命など人間の本質的な価値観に目覚める。雄大な大自然の
なかの孤独な釣り師は、人間のはかなさ、小ささがしみじみ
と身に迫り何が大切かを教えてくれる。対照的客観の
「もの」と、感情的主観の「あはれ」が一致して生じる調和
的情趣の世界である。寂しさとみじめさで無限の豊かさが
あることを知った。

私の足元には同じように雨宿りする一匹の虫がいた。この
心寂しい時に出会う一匹の虫、一輪の花は命の仲間として
私に強い感動を与えた。悠久な自然と私が連帯し同化した
瞬間で、静かに辺りを見回すと私の周りは私の仲間 
たちで一杯であった。

    
 万緑の なかの一なる 釣り師かな    順風


 自分の小ささに目覚めたときが他人を尊重できるときで、他人を意識した「礼節、信義、信頼、善意、謙虚、自戒」等の言葉に留意でき社会に規範となる美しい秩序を求めます。リニューアル2018.1

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 この時の年齢は36歳で老人の趣味と言われていた俳句と水墨画の先生に師事し、その後関連するその他の趣味が増えて、現在のホームページ
のコンセプト「
他人を敬ういにしえの文化」に行き着く。 

  

2
017,12,15. NHKTVで世界中に広がった日本の座禅が放送された。青い目の剃髪で袈裟姿の禅僧が、単に惹かれるだけでなく禅の精神で自分ファーストな人が増えている現在の世界に、平和を願う姿が印象的だった。禅の精神とは?座禅へ

人はさまざまなラベルを身に着けて生きている。国籍、性別、仕事、家庭、などの人間関係に縛られているが、瞑想で心に空をつくり無になる修行が座禅と言われている。
空が生じるとそのスペースに新たな無垢な人間、大宇宙のなかの奇跡のような偶然に生まれた小さな生命体を自覚できることで、争いや欲望が堪らなく空しく感じられ、共有連帯意識が芽生える。

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 集団的ダイナミズムの恐ろしさ 2015.8

 
文章を書くことは、第一に相手に理解されることを願って言葉を綴ります時間を置いて読み直すと文章の不出来が良く分かり、文章の前後を論理的につなぎ直したり流れを良くする必ずしなければいけない推敲です。

  「文は人なり」と言われるように、その人の信条や美意識、考え方が文章に投影されて、その人の発言や行動となり人となりになります。 具体的には句読点の打ち方や段落の取り方があり、句点「。」は区切りで比較的簡単、次につなげる読点「、」は難しい。「段落」は一つのユニットで上の5行に相当し改行した行の頭は一桝空けます。
推敲は2〜3日空けた方が頭が冷静に働き、書いた直後は気分が高揚しているので推敲は避けます。推敲は文章の体を成す作業だが、推敲により文体に流れやリズムが生じると、自分の思考を超えた領域まで運んでくれることがあり、自身の見識を豊かにできる文章の優た部分です。 

科学は一方通行的に発展しますが、人間の本質は何年経ても変わりません。日本人として忘れていけないことは軍部と内閣が本土空襲の焦土なかで「最後の一人まで戦え」と、民間人を80万人も無駄死にさせた事実です。国民を言論統制で盲目にして原爆を二発も落とされなければ終われない、おぞましくも恐ろしい人間の集団的ダイナミズムによる国家の暴挙です。

歴史は戦争を望まないのに感情に流される人間の愚かさ表していていて、この愚かさを前提とした反省が正しい推敲です。国家を導く中枢にいるような政財界の皆さんの、「政治とは」「平和とは」「幸せとは」等について、推敲を繰り返し行うことをお勧めしたい。


  エッセイ 小さな人間
  
 雄大な自然という言葉は一般的によく聞きますが、これは小さな人間「儚く存在」と対照させることにより大自然の雄大な感慨が深まる表裏一体の意味が存在します。若いころは「小さな人間」は理解できませんが、歳を重ねて挫折、悔恨、反省、老化等を経験すると人の儚さがよく理解できるようになります。
 しかし世の中には強者の自分を信じて疑わないワンマンな人もおられるようです。「自分の弱点を知らない獅子より弱点を知るネズミのほうが強い」という言葉がありますが、換言すれば「小さく弱い存在」を知ることはつかの間の生命や健康を尊び大切にすることですから、その価値を知らない人は知っている人よりお気の毒で弱い理屈になります。

 自然を破壊したり社会の頂点に立とうという強者の論理ではなく「人は自然や社会の中の一員」という意識、他人や自然が在って自分が在る自然観、他人や社会、自然を活かして自分も生きられる和の精神です。ジグゾーパズルの小さな片にすぎないのですが、しかしそれは全体に融合一体した大きな存在になることで、悠久な自然や宇宙と連帯感、一体感を持つに至ります。この考え方は日本人の美意識として日本文化の根幹を成しているように思います。若いころは頑なに自分の周りに築いてきた「自我」という柵を取り払ったら逆に解
放された大きな自分を感じる。マッターホルンの山も揚子江の大河も我が庭の内にある。仏教にも「一如」という言葉がありますが永遠不変の真理です。

 2011.3月の未曾有の地震と原発事故で多くの専門家が右往左往しましたが、専門的になるほど上から目線で視野が狭くなります。小さな人間は謙虚な下からの目線だから雄大な自然は目の前に広がります。津波や原発の危険性も上から目線では正確に測れません。また謙虚さは自己の欠点と他人の長所がよく分かり争いも起きません。逆に自分の不徳や未熟を恥じて学びすとになります。「実るほど頭の下がる稲穂かな」ですね。
 私は家の仏を守っているだけで信仰者ではありませんが、このような生命を尊べる
他者愛的
人生観、自然観は芸術上だけでなく生きる上での大切なルールになります。
 若い人の自殺、犯罪の多い社会、戦争などに心を痛める多くの人々のな一員として、当サイトは生あるものを愛しむ句をひねり絵画を描いてHPの更新をしています。2005,11,4

       

  

 
 善男善女
 
 無信心の私が娘の合格祈願に妻にひかれて熱田神宮に参った。正月とあって境内は人で埋まり寒いなかをじっと参拝の順番をまっている。その神を頼る人の多さと熱意に私は「人間とは」を考えた。商売繁盛、家内安全、私のように困ったときの神頼みなど、なかには真剣に病の快癒を願う人もいるだろう。しかしどの顔も晴れがましく穏やかで深刻な人は見かけない。
 着物姿のアベックも、幼児を肩車した若夫婦、息子に手をひかれる老婆など、どの顔も遊園地へきたような和やかな表情である。
 私はたぶん正月と神聖な社のせいだと考えた。それとも人々は案外冷静で気休め程度にしか思ってないかもしれない。神を信じる信じないより「参ろう、お願いしよう」という人間の謙虚な気持が善男善女、家庭的、平和という好ましいイメージを抱かせるのだろうか。神前では少なくとも「今年こそ銀行強盗をして大金を手にいれたい」とか「友人に恨みを晴らしたい」などとは頼まないはずだ。
手を合わせることは人間を真摯にさせる。それが表情を晴れやかなものにする信仰のよいところかも知れない。

 お参りが済むと妻は縁日にならんで鯛焼きを四個買った。「哲也とお父さんが大好きだったから仏さんに供えるの」と言って大切そうに抱えて帰りだした。    
      1989,1、
 故郷
 
 夏のお盆休みは郡上の妻の実家で過ごさせていただくことが多い。周りは緑真っ盛りの山々で静寂のなかに虫や小鳥の声が澄んで聞こえてくる。山の樹木で冷やされた風が開放的な田舎造りの住まいを素通りして心地よい。

 実家から徒歩10分ほどで長良川に着く。「宮の下」と呼ばれる淵は村の水泳場になっており、父兄の監視のなかで田舎の子供たちは黄色い声をだして、岩から飛び込みをしたり、素もぐりして魚を追っている。自然の川はプールと違い流れに強弱、川底に起伏、水中の石に大小、川幅に広い狭い、川岸に岸壁や砂地、河原、藪などの変化に富んでいて、子供たちはその変化の過程を冒険ゲームのように遊ぶことが楽しいのだろう。
 少し離れたところに鯉が悠然と泳いでいた。浅瀬には小魚が群れていて人間と動植物が共存調和した平和な光景であった。

 夜は八幡の郡上踊りに出かけた。会場は哀調を帯びた節回しにあわせて浴衣姿の人々が陶酔したように踊り、観光客がそれを眺めている。その雰囲気に私も呑まれるように輪に入った。単調なようでルズムがあり次第に輪は和になって一匹のうごめく生命体、催眠状態になって人間の原始的、感情的興奮を呼び起こす。何百年まえの農民や庶民の踊りに対する気持が、また生きている喜びが理解できて乗り移っくる。

 都会育ちの私には故郷はないが、郡上の山河と土地の風俗風習、人情などは行きずりの旅人にとっても心休まる故郷となるだろう。         1975,8
        
 エッセイ 学びすと
 
 文章を書くことは文字で生活の折々の「感情の整理」や「論理の展開」「真実の思索」を行うことです。何でもないような生活の断片でも煮たり焼いたりしているうちに、思いがけない美味しい食べ物が出来上がることがある。文章の流れの悪い小石を取り除いたり、言葉を入れ替えたりしていると流れが良くなり一本の文章の道が出来る。これは文章がある意味を持つことでこの道に沿い言葉を綴っていると作者の思考を超えた思いがけない場所に出くわしたり、意外な人間の本性、自分の素顔を発見して驚かされることがある。

ここからの文章は創作の楽しみとなって独り歩きするように成長して書くに値するものがポロリと産まれる。この時点で饒舌を慎み原稿用紙二枚以内の”小品”に収めることが大切です。気持ちが高ぶって文章が肥大化すると読み手に嫌われます。
水墨画の世界に”筆を惜しむ”精神がありますが、これは「余情」としてエッセイでも大切な要素です。また「文は人なり」と言いますが、大上段に振りかざすのではなく控えめで謙虚な表現が好まれます。

 例えば故意に難しい漢字を使いたがる人がいますが原稿を見ただけで読む気を無くします。日常に使われている読みやすい漢字を控えめに使えば、柔らかな仮名が生かされて漢字も引き立つはずです。水墨画の余白「白」を生かすことで墨が生かされる真理と同じですね。

 そして実生活でも他人を踏み台にして自分を生かすのではなく、他者「他人や社会など」を活かしてこそ自分が生かされる、生きる場ができることに気づくのです。
  

 
エッセイ 勝ち組
 
 5月1日の中日新聞サンデー版に開業医で作家の佐賀純一氏の文章が載っていました。「30歳そこそこで何百億の資金を動かせる人がいて、自分はほとほと負け犬だと思い憂鬱だ」という問いに氏は「キリスト教、仏教、儒教でも金銭だけを追い求める人は最低の種類に分類されて地獄に落ちると教えられている。

ではどんな生き方がよいか?昔は琴棋書画を愛する人が多く存在して、それは詩、音楽、書画などに親しむことが一番人間らしく大切で最高だという認識を当時の人々は持っていた。そうした世界を愛することは貧しくとも迫害されても自分の信念を通せる人で、渡辺崋山は幽閉されても絵を描き必要とあらば権力を批判した。いつの世もそうゆう人がいて本当の人生の勝ち組とはそんな人のことだよ。」

 フランスの哲学者パスカルは「良識」を「ボンサンス」と言った。英訳すれば「グットセンス」。佐賀氏が言わんとしたことは、芸術や文化に親しむ人はバランスの良い生き方、学びすととしての幅の広い考え方、センスの良い対応ができてそれが長い人生の一番の幸せ、勝ち組だということでしょうか。
 鉄道事故は会社側が目先の営利ばかりを追求してきた結果、乗客の安全という大切なことに目が届かずに社員にも近視眼的でセンスの悪い教育をしてきた因果応報であることを見せつけられたような気がします。「なにごともほどほどが肝心にして極意なり」で、先鋭化すればするほど土台は細く不安定で選択肢は狭くなります。
良き鉄道マン、社会に貢献する企業理念、良識ある人間などへの教育やマニュアルが欠落して、まさに乗客への礼儀と節度を忘れていたと言わざるを得ません。

 経営者はついつい数字を深追いしがちですので社内にブレーキ役の「良識課」を設けることも真面目な考え方ですね。
 人間はいろいろなことに興味を持ち、美しいものに触れたりサッカーや野球に感動し、謙虚に真実や人生探求をして幅の広い選択肢を持った生涯を目指すことが、結局は心豊かな人生となるということでしょうか。2005,5,7

 エッセイ 小さなこと 1993.10
 
 一つのことをいい加減に済ますと全てがいい加減になりやすく、結局その人はいい加減な人間になってしまう。例えば待ち合わせに5分ぐらいの遅れはたいしたことではないと考えている人は、5分にとどまらず10分、15分と遅れる人である。

 逆に言えば5分ぐらいのわずかな時間はどうにでも都合のつけられるわずかな時間であり百円や二百円ぐらい、一度や二度ぐらいの感覚は三度四度につながって知らず知らずに自分をダメにする。
 自分を大切にすることは自分に厳しく生きることで、自分の家族や友人に対しても大切に接していることに他ならない。

 逆に自分に厳しくない人は自分という人間を粗末に扱うだけでなく、自分に接する全ての人をいい加減に扱っていることに他ならない。例えば友人がずるい行動をしたとき@何も感じないA不快を感じるが傍観するB友人をいさめる。の三つのうち友人を粗末に扱っているのは不正を傍観する罪を背負うAであり、真に友人、地域、社会を大切に思い真摯な付き合いを望んでいるのはBである。@は欠陥人間として論外。
 堅実に暮らしてきた人がある日に突然殺人者に変貌することは稀で、大部分は日頃の”いい加減さ”が、例えば会社の金をくすめて少しずつ膨れ上がり、返済のためにサラ金で借りたり競馬で元をとろうとさらに墓穴を掘り、追いつめられて銀行強盗をしたり、豪邸に押し入り家人に見つかり、慌てて殺人を犯していまう。
 また日常的なイジメや暴力も、始めは小さくても次第にエスカレートしてレベル二になり、それで変化がなければ三が死になる過程を踏む。そのダイナイズムを押さえることは加害者には無理で、それが集団となればオウムのようにモンスターのような暴走を生む。まさに人格崩壊、自分で意識できない転落の構図をたどる。

  人間は小さくて弱い愚かな存在です。だから五分とか百円というどうにでもなる小さなことを大切に考える。それは決して小さなことではなく簡単にできて大きな結果を生むことと言えるでしょう。
 
03.10.24独りごと  暴力はダイナミズムを持ちエスカレートする。
 >
 児童虐待のシグナルを大人が受け取りながらまたもや悲劇は繰り返された。母子家庭+愛人+児童の生傷=虐待の危険は高いという認識は、繰り返されてきた過去の同類事件から関係者には自覚をすべきなのに無責任極まりない。

 学校のいじめも同じだが、加害者には被害者がどれくらいのダメージを受けているかの判断ができない心理状態でいる。その結果暴力や虐待はパワーを持ちエスカレートする構造になる。例えば加害者の初めの力加減を数字のレベル0〜5とすると、被害者に深刻性がなければ次は6〜10の加虐性も持ち、そうして暴力は階段を上がるように破滅するまで進む。

 限界とか理性に盲目で時間のない危険な精神状態にあることを、周りの冷静な関係者、給料をもらっている専門家に求めることは無理なのだろうか。
 これは暴力が
ダイナミズム【dynamism】を持つことで、オオムや学校の複数の生徒が集団的に関わると「集団ダイナミズム」というさらに危険な状態になることを
知らねばならない。二人の若い罪人を作ってしまった罪も合わせて,何とかしろと言いたい。


05,12,9「五歳児虐待で母逮捕」「中日新聞」

 愛知県で付近の住民からたびたび児童相談所に通報があったにもかかわらず夫の連れ子を足で踏みつけ肺や肝臓が破裂して失血死させた母が逮捕される。県や児相の職員は陳謝していたが、何回でも陳謝すればそれで許されるのだろうか?いい加減に人間の真理や暴力の定義をプロとしてしっかりと学ぶべきだ。! 


 相撲界の暴力2017.12.
 
 大相撲の暴力事件で日本は被害者側と加害者側に意見が二分されているが、暴力やいじめは強者が弱者を「組織が数的パワーで個人の権利を犯す、虐げる」行動で法律では罰っせられるし、人間としても恥ずべき行為になるのに、理事として協会側に協力的ではなかったと処分を科すことは、協会の善悪の捉え方が甘い。

2008年の名古屋場所で17歳の少年が暴力死したが、親には心不全と報告して生傷を隠すため親に無断で火葬を急ぐ衝撃的事件の反省ができていない責任は協会に有るはずだが、それを貴乃花に転嫁することは協会のガバナンスの無さ、利益や効率だけを優先する組織のおぞましさである。
 私たち国民は日本の民主的社会や人権をどのように定義づけるか、社会に求めて望むのかの判断を、貴乃花親方は提起されたと考えたとき、答えは絞られるのでは。
 
 スポーツ界に限らず組織は上からの指示や教育、鍛錬を新人に課すのだが、上役が感情的になるとしごきや虐めになり暴力が加わりやすい。さらに常習化すると、節度なき感情の暴走になりダイナミズムを得て階段を上がるようにエスカレートし、ついには個人を破壊させるまで続く。

暴力の推移を想定すると加害者の力加減が一回目0〜5だとすると、二回目は0〜6の心理ではなく加虐性により倍の6〜10の力が加えられる。それは相手を変えることが大前提だから同じレベルはあり得ない。それが正しいと判断してしまうので危険を認識できない状況にある。

このように普通の人が単純な心理で悪鬼と化す現実、怖さ、加虐の心理、人間の脆弱性等が連なって膨張する暴力の心理を、上に立つ人が知らない点が大きな問題で、例えば各土俵の壁に亡くなった青年の遺影を掲げて、稽古前に犠牲者に黙とうする。簡単な意識改革、危機管理ではないか。


人の上に立つ人の落とし穴=自分ファースト&協会ファーストで盲目的。上から目線で高圧的、なので自己反省や自分を戒めることができない。 従って人の上に立つ人ほど謙虚であれ、他人ファースト&自分セカンドであれ、小さな人間たれ、他者愛者たれ 自己を常に省みる謙虚たれ。

日本のいにしえの時代には他人を敬う自分セカンド的な文化があった。Web siteで訴えている管理人です。

http://www.geocities.jp/oiroy61okeus/
フェースブック=facebook.com/yorio.tutumi

子供俳句
夜祭に 朝から響く 子供下駄 遠目にも 花びら付けし 1年生
泣きべそで 散髪せし子 卒業す 理容刀 つかみ来し児に 冷や汗す 
かなかなや 唇青し 水浴子 吾子の墓 傘さしかけて 洗ふなり
手花火や 継ぎ火しあふ子 肩寄りぬ 少年の 冷たき夕刊 受け取りぬ
踊る子は 子なりに高く 手をかざす 子や孫を 連れて連れられ 夏まつり

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