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私の好きな万葉秀歌〜

 

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     楽しみ方

望外の幸せ

「たまきはる」の歌

撮影者から見た「日めくり」

1300年の時を「越えず」して

 「熟田津に」の歌

デビークロケットの歌

 「町でいちばんの美女」

ちょっとしたスクープ

 太宰が愛した万葉秀歌

 もう一つのスクープ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朗読と語り

 

    檀ふみさん

女優

東京生まれ、父は作家の檀一雄。1994年「わが愛の譜・滝廉太郎物語」で日本アカデミー助演女優賞受賞。99年阿川佐和子さんとの共著「ああ言えばこう食う」で講談社エッセイ賞受賞。著書に「檀ふみの茶の湯はじめ」など。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

選者

大矢鞆音さん

奈良県立万葉文化館総合プロデューサー、安野光雅美術館館長、美術評論家。

1938年、東京都生まれ。日本放送出版協会(現NHK出版)時代に、「現代日本画家素描集」シリーズを編集。著書に「もっと知りたい田中一村」など。

 

 

 

 

 

 

 

 

      (はず)の音」

故・高山辰雄さん

1912年大分県生まれ。松岡映丘画塾に入門し、東京美術学校(現東京藝術大学)に学ぶ。日本芸術院賞、芸術選奨文部大臣賞、日本芸術大賞など受賞。79年文化功労者、82

文化勲章受章。幻想的な画風で独自の境地を開いた。2007年死去。

 

 

 

 

 

 

撮影監督

 河村正敏

セイビン映像研究所代表       

1947年 山梨県生まれ、1970年日本大学芸術学部映画学科卒業、渡邊プロのCF企画部門でフィルムの撮影助手として始まりCF、ミュージシャンのプロモーション、ライブなど音楽的映像を多く撮影する。

74年 キャンデーズ 解散コンサートを、撮影監督として手掛ける。87年テレビ朝日「世界の車窓から」の始まりから16年間撮り続ける。98年「世界の車窓から」北京〜モスクワ9173kmの旅で日本映画撮影監督協会よりJSC賞を受賞、以後多くのテレビドキュメンタリーなどを手掛ける。

 

カスパー・D・フリードリヒ

       (17741840

ドイツのロマン主義絵画を代表する画家。神や宗教的含意が込められた風景画で知られる。

   「雪の中の修道院の墓地」

    「山上の十字架」

 

 

 

チーフ・ディレクター

増田浩

1965年生まれ。主な企画制作作品に「シリーズ 流転 〜中央アジア朝鮮人の20世紀〜」「野生動物オークション 〜南アフリカ・市場経済は自然を守れるか〜」「アメリカ・魂のふるさと」など。

 

    選者 高阿香さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          台北 

 

 

 

 

 

 

 

     選者 王源さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロデューサー

 松井和男

1947年、東京生まれ。立教大学経済学部卒業。ディレクターとしての仕事。TBSの「新世界紀行」など、民放の海外取材番組を手がけたのち、もっぱら、NHKの番組を手がける。

思いつくままに挙げれば・・・

黒澤明特集「七人の侍はこうつくられた」

隔世の感があるが、美女のオンパレードで一部の顰蹙を買った「香港女星図鑑」ユーゴの内戦を扱った「サラエボの冬」沖縄への関心から生まれた「母なる言葉・沖縄(うちなー)(くち)

その他、「世界・わが心の旅」シリーズ、「司馬遼太郎『アメリカ素描』を行く」

思いがけず科学番組の賞をもらった「人類よ 宇宙人になれ〜立花隆VS小学生」など多数。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        選者 矢島稔さん 

 

 

 

 

          ジバチ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロデューサー

 小河原正己

1940年山梨県生まれ、64年NHK入局、主に、教育、教養、ドキュメンタリー番組を担当。83年から「日曜美術館」や「ルーブル美術館」シリーズを担当。

2004年から、フリー・プロデューサーとして、ハイビジョン特集、「日本の100冊シリーズ、07年から「日めくり万葉集」の制作を担当。「日めくり」では、ディレクターとしても番組を制作。「ディレクターほど、素敵な商売(?)はない!」ことを、改めて実感した。

 

 

     太宰治

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   選者の太田治子さん(国府津館)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  太宰治が愛用した国府津館の部屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         法隆寺境内

 

 

 

 

 

 

    法隆寺の境内にある因可の池

 

 

 

 

 

100数十人もの選者の方々とお付き合いし、お話しを伺っていると、それまで全く知らなかったことを見聞したり、思いもしなかったことに遭遇することが、時にあります。これこそ、仕事の中での「望外の幸せ」であり、テレビ番組を企画制作する仕事の役得と言ってもいいでしょう。もちろんそれらを番組の中に取り込むことによって、番組のクオリティは上がり、より一層充実、かつ面白いものになるのですが、必ずしも、それらを全て番組に盛り込むことができるわけではありません。ましてや、「日めくり万葉集」は、5分のミニ番組ですので、なかなかそこまでお伝えすることはできませんでした。

そこで、檀ふみさんを始め、監修の先生方や私ども番組の制作スタッフが、取材等の過程で、出会い、感じたことなど、番組制作上の逸話や裏話等をご紹介したら、毎日の「日めくり万葉集」の放送に、ひいては「万葉集」そのものに、もっと身近に親しみ、楽しんでいただけるのではなかろうか、と考えました。そこで、それぞれ番組に関係した方々に、「日めくり万葉集」のもう一つの「楽しみ方」として、まとめてもらうことにいたしました。

まずは、番組の「朗読と語り」をお願いした女優・檀ふみさんの、文字通り「望外の幸せ」から始めることにします。これは、檀さんが、「日めくり万葉集」のガイドブックに書かれたものを、一部転載させていただいたものです。

 

 

 ◇望外の幸せ◇

 

「日めくり万葉集」のおかげで、「望外の幸せ」をたくさん味わうことができた。その極め付きともいうべき素晴らしい出来事があって、みなさまにお伝えしたくてたまらなかったのだが、番組の宣伝めくのが申し訳なくて、いままでかたく秘していた。しかし、ちょうど第1シリーズが終わることもあり、やはり書き留めておこうと思う。

さる夏の夜、なんと、天皇皇后両陛下から、「お茶をごー緒に」と、お招きを受けた。 

私ごときを、いったいなぜ? 一瞬、首を傾げたが、ともに宮中にお招きにあずかったのが、リービ英雄さんと聞いて、「わっ!」と思った。ひょっとして、天皇皇后両陛下は、「日めくり万葉集」をご覧なのではないかしら。リービさんは、選者として何度も番組に登場されている。

あまりの恐れ多さに胸がふるえる。じつは「万葉集、はじめまして!」の私なのである。ご造詣の深い両陛下に、あれこれご下問を受けたらどうしよう。

 だが、謙虚さと厚かましさと、どちらが私のなかで幅をきかせているかといえば、圧倒的に厚かましさのほうなのである。ま、万葉集についてのご進講は、リービさんにおまかせして……、私は、全国民を代表して、天皇皇后両陛下のお好きな歌を伺ってこよう。

 当日、広く長い廊下を歩いて、通された部屋は、意外と簡素で、飾り気がなかった。

 しかし、「こちらを、お見せしたかったんですの」と、美智子皇后が柔らかく微笑まれつつ、示された窓の外には、庭園灯に照らされて黄色い花の群れが揺れていた。

「陛下がむかし、軽井沢から移植されたユウスゲ。こんなに増えたんですのよ」

「さっきまで、月も見えていたけどね」

かたわらで天皇陛下もおっしゃった。

 いきなり、万葉の世界に迷い込んだような気がして、私は言葉を失った。「ユウスゲ」は、万葉集でも詠まれている花だろうか。寡聞にして知らない。

 「あの番組、いつからやっていらっしゃるの? 気づいてからは、朝の散歩から走るようにして帰って拝見していますのよ」

 ニコニコと陛下も頷かれる。

 「私は、本日、使命を帯びて参りました」

 厚かましい私は、蛮勇をふるって伺った。

 「両陛下のお好きな歌を、ぜひともお教えくださいませ!」

 美智子さまが陛下のほうをご覧になる。

 「うーん」と、ほんの少し問を置かれて、陛下が小さく歌うように呟かれた。

  東の 野に炎の 立つ見えて 反り見すれば 月傾きぬ

 拍手喝采したい思いだった。私も大好きな歌だったからである。

 「むかしは、野を『ぬ』と言ったけどね」

陛下はおっしやった。

美智子皇后はいくつもお好きな歌がおありのようだったが、ためらわれつつ、皇后が天皇をお慕いする歌を二つあげられた。そのうちの一つをご紹介すると、

たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野

 「とてもきれいでしょ。中皇命の歌なの。なんだか男の人の名前みたいだけど……」

 番組ではいちども登場していない歌だった。教えていただいたお礼に、「その歌にふさわしい、ステキな選者を見つけて、ぜひ番組でもご紹介させていただきます!」と、お約束してきたのだけれど、とうとうかなわず、申し訳なく思っている。

 

 

 ◇「たまきはる」の歌◇

 檀ふみさんが、皇居に招かれて、天皇皇后両陛下と親しく「万葉集」について語り合う機会を得られたことは、番組関係者にとっても何物にも勝る快挙だった。言うまでもなく、万葉集には、代々の天皇や皇后の秀歌が数多く収められており、皇室と万葉集は切っても切れない関係にある。それだけに、皇室の関係の方に、選者として出演していただくべく鋭意お願いしたのだが、残念ながらかなうことはなかった。まして、両陛下に、万葉集のお話を伺うことなどは思いもよらないことだった。それだけに、檀さんが、私たち番組関係者の代表として、いや、檀さんによると、「全国民の代表」として、両陛下にお尋ねしてくれた「万葉集の中で、お好きな歌は何ですか?」という質問は、私たち番組担当者にとっても、「望外の幸せ」だったのである。

 そして、そのお答が、天皇陛下が、人麻呂の「ひむがしの」(巻148番)、皇后陛下が、中皇命の「たまきはる」(巻14番)の歌だった。

 「ひむがしの」の歌は、それまで、番組では、2人の選者が選び、話をしてくれていたが、「たまきはる」の方は、檀さんも言う通り、それまで、番組には登場していない歌だった。そして、檀さんが、「ステキな選者を見つけて、ぜひ番組でもご紹介させていただきます!」とお約束した通り、その後の第2シリーズで紹介することになる。

 そのステキな選者が、奈良県立万葉文化館を企画立案し、現在同館の総合プロデューサーである、大矢鞆音さん。そして大矢さんのお話にはもうお一人が関わってくるのだが、それが、日本画の巨匠、故・高山辰雄さんだったのである。

「日めくり万葉集」の番組からそのくだりを紹介しよう。(小河原記)

 奈良県の飛鳥にある万葉文化館には、百五十四人の日本画家が万葉集をテーマにして描いた絵が所蔵されています。日本画の巨匠たちは、千年以上前に詠まれた歌の世界をどのように描いたのかを探るシリーズ「描かれた万葉歌」。

案内役の、同館総合プロデューサーで、美術評論家の大矢鞆音さんが選んだのは、日本画の巨匠、故・高山辰雄さんの「(はず)の音」です。高山さんは、中皇命の「たまきはる」の歌を、180×130僂梁膾遒防舛上げました。

たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野

 宇智の大野に馬を並べて、この朝、踏み立てていらっしゃるであろう、その草深い野よ。

舒明天皇が宇智の野で狩りをしたときに、中皇命が奉った歌です。天皇が行う狩りは、国を治めるための儀式でもありました。その狩りの豊穣を祈る、重厚な響きを持つ歌です。

大矢さんは、今は亡き高山さんが、この絵にこめた思いを語ります。

まず、盪海気鵑蓮△海硫里法宇宙的な広がりを感じていた、と言います。

「先生は、天文学がお好きだったせいで、太陽、月、星。それがきらめく大宇宙の中の、人間の営みといいますかね、そういう大きなテーマの中でいつも作品をお描きになっているということで。この歌も、その大きな営みの、大きな宇宙の中の一場面ということでお描きになっていると思います」

この作品ができあがった時の盪海気鵑慮斥佞忘れられないと、大矢さんは言います。

「非常に嬉しそうに、『大矢君、百年後が楽しみだね、百年後はどうなのかな』という、そういう思いで考えましょう」というようなことをおっしゃっていました。だから、百年後、ご自分の作品がどう残っていくのか。大宇宙の中のアメーバのような人間。そういう中で、非常にスケールの大きい、お考えなのかな、そんなふうに受け取りました」

勇壮な万葉の歌と、画家の心が響き合って生まれた一枚の絵。この歌と作品は、これからも長い悠久の時を刻んでゆきます。

 

 

 

 ◇撮影者から見た「日めくり万葉集」◇

 

 

万葉の光と影

 

「日めくり万葉集」の撮影は、2007年8月、奈良県明日香の地から始まりました。

それまでの制作会議で、歌の世界をどのような映像にするかについて様々に論議されましたが、机上ではなかなか明確なイメージは出ませんでした。

そこでまずテスト版を作ることになり、撮影をまかされることになりました。私はミニ番組を多く手掛けてきた経験から、短い番組は情報を詰め込むのではなく印象的な映像と音楽で見せていく事が大切だと感じていました。今回も歌を説明するのではなく歌の世界を感じ、万葉時代を体感できないか・・・そんな思いで撮影に臨みました。

1300年前の世界を感じるためにはどのような映像が相応しいかと考えた時、光が重要な要素ではないかと思いました。 

そして、ある画家が心に浮かびました。19世紀ロマン派の画家カスパー・フリードリヒです。

彼は「神はどこにでも存在している」と信じて自然と向き合い、畏怖の念を持って風景を見つめました。描かれた光は、遥か彼方から差し込んでくるようで、精神性、象徴性を感じさせます。

 

 

河村さんが、フリードリヒに魅せられた最初の作品は何ですか?

―フリードリヒの作品で、最初に印象に残った作品は「雪の中の修道院の墓地」です。一枚の絵から様々な物語が浮かんできます。コントラストが強く細部は良く見えないのですが、見る側の想像力をかきたててくれます。それからフォルムですが、物のかたちが生々しい曲線で描かれていて今にも動くのではないかと思わせます。また、「山上の十字架」もいいと思います。自然に対する畏敬の気持が伝わってきて、自然の中に神を見ているように感じます。

 

 

私の中でフリードリヒが描いた世界は、自然と共に生きていた万葉人の世界に重なりました。光は遥かかなたの万葉時代から現代を照らす象徴ととらえ、光を主題にして日本の自然を画に切り取ろうと考えました。

風景は出来るだけ逆光で浮かび上がらせ、必要なところのみ光があたり、それ以外はかすかに見える程度にしました。光と影の風景に、視聴者が想像力を膨らます事が出来る映像を目指しました。

選者のインタビュー撮影の照明も、彼方から差し込む光に人物が浮かび上がるというイメージを意識し、照明機材を多用して出演者が美しく光輝くように心がけました。仕上がりは明暗のはっきりした画調に統一して短い番組でも目立つ印象的な映像を心がけました。

〜 風景には感情がある 〜

万葉の風景を求めて、撮影は関西を中心に、南は九州から北は盛岡まで回りました。移動には殆んど車を使い、その走行距離は延べ95000キロにもなりました。

長年、世界の国々で自然を撮影してきましたが、万葉集の撮影では、見慣れた日本の風景が、私の心を強く揺さ振ってくるような不思議な感覚を覚えました。行く先々で出会う風景が、私の魂に何か訴えかけてくるように感じたのです。何千年という歴史の中で、人々の喜び苦しみ悲しみを受け止めてきた自然、撮影した風景にはそんな人々の感情が乗り移っているように思えたのです。

風景には感情があり、かつて生きていた人々の思いが刻まれている。そして、私達の人生もまた風景の中に刻まれていくのだと思うのです。

 

 

  1300年の時を「越えず」して◇

万葉集をTV番組にするという希有な企画なだけに、21世紀の初めにそれに挑戦するという意味を考えていた。「1300年前の」歌集―という常套句を超えたい。ではその1300年間の時間は何だったのか? 例えば西暦2200年代ではなく、2000年代の制作でしか作り得ない番組は何か?―そう考え、模索していた。

その答えの1つとして、台湾にいまも健在の日本語話者の方々から、万葉集体験を聴くことに挑戦した。「1300年」間の終わりに近い20世紀前半で、万葉集は日本列島の範囲を越え、帝国の拡大とともに広がる―という異常な時代を迎えた。中でも台湾は、半世紀もの間、「日本」だった。そこで万葉集はどう触れられていたのか? 先行研究のない問い。いろいろなツテを頼りに、か細い糸をたどっていき、ついに2人の方に巡り会った。

台湾の歌人たちが編んだ歌集「台湾万葉集」にも参加した、歌人の高阿香さん(85)。戦時下の女学校時代、気候・植生が日本(本州)とはだいぶ違う台湾で教わった万葉歌。気に入った歌でも、詠み込まれた花で台湾に無いものは想像するしかなかった―という高さんは、いま植物図鑑を繙き、「60年経ってようやくわかった」と改めて歌を味わいながら、いまは専ら川柳・俳句を詠み続けている。

地質学者の王源さん(86)は、科学者として短歌とは無縁の半生を送ってきたものの、戦前の旧制台北高等学校に入学後まもなく、若き日の万葉学者・犬養孝から受けた最初の「国語」の授業を、いまも鮮やかに覚えている。そこで犬養から「入学を寿ぐ」と贈られた万葉歌や、戦時下にあっても「将来、指導者になるべき諸君は、人格を高めなければならない。万葉集はそのための素晴らしい教材だ」という教えの感動を語ってくれた。

台湾の日本統治時代というと、政治的な思惑絡みで語られがちだが、その時代を生きた個人の体験は、狭い定式化を超えて、豊かな滋味に溢れていることを改めて感じさせられる。

近現代史に絡んだドキュメンタリーをいくつか作ってきた中で、「体験者から肉声で証言を拝聴できる範囲が『同時代』」と感じ、ミッドウェー海戦もスターリンの粛清も「体験」してきた番組制作者にとって、この2人との出会いと、証言を番組の形で後世に残せた―ということもまた、かけがえのない大きな喜びである。

 

 

 ◇「熟田津に」の歌◇

 「日めくり万葉集」に登場してもらった168人の選者の内、前述したように、外国の方が15人にも上ったことを見ても、万葉集は、国籍や海を越えてファンが多いことが分かります。取材上の制約もあり、今回登場いただいた選者の方々は、そのほとんどが日本在住で、日本文学の研究者となりました。しかし、1つだけ例外がありました。台湾です。

 増田ディレクターが言う通り、台湾は、1895年から1945年の50年間にわたって、日本統治下に置かれ、日本語教育を受けるという特殊な状況下にありました。母国語を奪われ、植民地教育の一環として強制的に学ばされた日本語で短歌を作る人が、今も少なからずいることも知られています。

当時、王源さんと同じく、若い時代の万葉学者、犬養孝から、万葉集の講義を受けた孤蓬万里氏(本名呉建堂、19261998年)が、1993年、約2000首の歌を集めて「台湾万葉集」を編纂し、話題となりました。

 そこで、台湾については、他の国のように、日本文学の研究者ではなく、一般の市民の方に、万葉集の話を聞きたい、いや聞くべきだと、増田ディレクターは考えたのです。

「日めくり万葉集」は、5分のミニ番組ですので、制作のための予算は極めて安価です。もちろん海外取材のための経費は見込まれていません。そこで、増田ディレクターは、制作費を切り詰め、格安航空券を買い込んで、カメラマンと2人だけで、台湾に飛んだのです。

その努力は、無駄ではありませんでした。前述のように、高阿香さんと王源さんのお二人に会うことができたのです。お二人の万葉集への熱い思いは、2本の「日めくり万葉集」になって実を結びましたが、紙幅の関係から、王源さんのインタビューの一部を紹介します。(小河原記)

王源さんは1944年、台北市にある台湾師範大学、かつての旧制台北高等学校に入学しました。そこで万葉集を教わったのが、万葉集学者である、若き日の犬養孝でした。王源さんは、犬養先生の最初の授業の時の様子を、今でもはっきりと覚えていました。

「先生の御年三十何歳の時ですよ。三十五、六。非常にお元気で、駆け足でね、クラスに入って来られたんだ。これにはビックリしたね。バ、バアーと入ってきてね、そしてすぐ、万葉集の歌をうたったんだ。で、それが、いわゆる有名な『にぎたづ』のだ。今、漕ぎ出さなけりゃいかんぞ、今から行くぞ。この歌をね、君たちの入学を寿いでね、君たちに贈ると言うんだ」

それが、額田王の「熟田津に」の歌でした。

熟田津に 舟乗りせんと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな

熟田津で、船出しようとして月の出を待っていると、月も出、幸い潮も満ちて来た。さあ、今こそ漕ぎ出そう。

この歌は、額田王が、朝鮮半島での戦いに漕ぎ出す船団に向かって詠んだ歌と言われています。犬養孝は、新入生に、この歌を送って、厳しい戦局の中でも、万葉集を学ぶことの意義を強調したのです。

「中学ではね、あの頃の中学生相手では軍歌しかない。勝ってくるぞー、とかだ。♪勝って来るぞと勇ましく♪、なんて、こればっかりだ。他の歌なんかないですよ。だから先生はね、教練や愛国軍歌じゃ君たちは日本のリーダーになれんぞ、リーダーになるにはね、もっと大らかな気持ちになれ、もっと人を思いやる心を養わんといかん。で、万葉はね、非常に大らかで、思いやりの歌、相聞相愛の歌、これがたくさんあるから、非常にいいテキストになるはずだ、っていうような、ご主旨ですよ。それには私どもはみんな、ビックリしましたね」

終戦後、王さんは地質学の研究者となり、万葉集とは、以来六十年以上離れていますが、犬養孝の講義は心に深く刻まれていると、流ちょうな日本語で話してくれました。

 

 

 ◇ デビークロケットの歌 ◇

 誰にでも、その歌によって万葉集に目覚めた一首というものがあるではないだろうか。目覚めたというのは、その歌に出会うことで、万葉集が自分にとって身近になったというほどのことだが、ぼくの場合、『日めくり万葉集』の仕事をはじめて間もなく出合った、巻16の作者未詳のこの歌がそうであった。

 射ゆ鹿を 認なぐ川辺の 和草の 身の若へに さ寝し子らはも

                                                            (163874)


弓で射られた鹿のあとを 追って行く川辺の 柔らかい草 

私は思い出す その草のように 私が身も心も若かった頃 抱いた乙女を

 ぼくは、この歌を詠んだのは屈強な猟師だと勝手に思っている。傷を負った鹿は水辺を目指すのだという。男の眼差しがとらえた映像が目に浮かぶ。暗い森のなか、ところどころ木漏れ日が差している。その下を通るたび、一瞬、白い斑点を浮かべた鹿のつややかな肢体が光る。と、突然、視界が開ける。きらきらと陽を反射して小川が流れ、若草の明るい緑が輝く。おそらく男にとって、繰り返し見てきた光景である。鹿の習性も熟知している。しかし、今日は、なにかが違う。風景が違って見える。男は、雷に打たれたようにその場に立ち尽くす。なぜか。いままで経験したことのない「感慨」にとらわれたからだ。それをもたらしたのは何か。「老いの自覚」というべきかもしれないが、男の頭は、それを「老い」と考えるほど整理されてはいない。ただ、突然、「時の推移」つまり自分の中に流れた時間を突きつけられて戸惑っているといったほうがいい。

 時は立つ、時は過ぎる。それによって人間は老いていく。当然のことには違いないが、それを人間はどのように自覚してきたのだろう。その「原初の気づき」とでもいうような新鮮さを、ぼくはこの歌から感じたのだ。人間はさまざまな感情をもち、その感情を名づけてきた。しかし、言葉以前、あるいは言葉が生まれる瞬間、その原初の世界に、なぜか、限りないロマンを感じる。ぼくにとって、万葉集の魅力の一つは、その原初の世界への夢想を誘ってくれることにある。

ところで、ぼくは、密かにこの歌を「デビークロケットの歌」と名づけている。もちろん、ぼくの勝手なデビークロケット像にもとづく連想である。事典風にいえば、デビークロケットはアメリカの軍人・政治家で、「アラモの戦い」で玉砕した国民的英雄ということになるらしい。しかし、ぼくにとって、彼のイメージは、「デビー、デビー、クロケット、西部の快男児」というテレビ・ドラマの主題歌の一節と、テネシーの山中で野生児として育ち、3歳で熊を退治したというエピソードから成り立つ「森の王者」である。

 3歳で熊を退治したのなら、金太郎でもいいじゃないかという人がいるかもしれない、が、そうはいかない。深い森、逃げる鹿、明るい日差しを浴びた川辺、それは、足柄山というよりは、テクニカラーが描く西部劇の舞台を思わせるではないか。おそらく、『動物記』のシートンがそうであったように、デビークロケットが狩猟の技術を学んだのは、森林インディアンからだったのではないか。そんな野生児が成長して立派な猟師になった。多くの娘たちとも懇ろになったろう。それがある日、突然、自分の中に流れた時間を知る。本人は、それが悲しむべきことか、どうかもわからない。鹿革の服に包まれたがっしりした後姿を見せて、ただ、戸惑っている。もてあましている。その風情がいいのだ。

 アメリカの無頼派の作家・チャールズ・ブコウスキーに『町でいちばんの美女』という小説があるが、万葉集のなかにも「『町でいちばんの美女』の歌」というのもある。もちろん、ぼくが勝手に名づけたのだが、まさに、万葉集の楽しみはインターナショナルである。グローバルである。時空を越えている。

 

 

 ◇ 「町でいちばんの美女」 ◇

 いかにも海外の文化、それも幅広い海外の文学に造詣の深い、松井プロデューサーの「万葉秀歌の楽しみ方」である。

 「射ゆ鹿を」の歌は、「日めくり万葉集」では、伝承料理研究家の奥村彪生氏が取り上げている。「射ゆ鹿」は、単に鹿を射止めたのではなく、かつて射止めた彼女と愛し合った想い出を詠った恋の歌である。もちろん、奥村さんは、この恋歌に惹かれ選んだのだが、奥村さんの関心は、もうひとつ別の方向に向かう。鹿の肉、そのものである。奈良時代の食文化を研究する奥村さんは、当時の日本人は秋から冬にかけて、よく鹿や猪の肉を食べたと言って、当時の料理法を再現してくれる。

 「鹿の肉は脂肪分を含んでいませんから、火を通し過ぎるとまずいんです。衛生的に食肉処理して生で食べるのが一番おいしい。手もまな板も、すべて洗い清めてから調理にかかります。自然に食の知恵をつけていた万葉の時代、生肉には、殺虫殺菌効果のあるニンニクが添えられました。鹿肉は、当時の日本人の貴重なエネルギー源でした」

 こうして、鹿狩りの万葉秀歌から、奥村さんは、鹿肉から当時の食生活に思いを馳せ、松井プロデューサーは、アメリカの鹿革の服を着た西部男をイメージするのである。

 さらに、松井プロデューサーは、文章の最後のところで一言、万葉集のなかにも「『町でいちばんの美女』の歌」というのもある、と書く。

 確かに、万葉集には、いくつか、各地の美女伝説が詠い残されている。真間の手古奈や菟原処女など、万葉時代の「町でいちばんの美女」と言っても間違いないだろう。彼女たちは、多くの男たちから求婚され、複数の男たちに愛されることに悩み、男心を惑わすわが身に愛想を尽かして、処女のまま、身を投げて命を絶つ、きわめて純粋な乙女たちである。

 しかし、松井プロデューサーがイメージする「町でいちばんの美女」は、一筋縄ではいかない美女である。アメリカの詩人で、肉体労働者で、放浪者で、酔っ払いの無頼派作家、チャールズ・ブコウスキーが描く『町でいちばんの美女』は、酒場で売春婦まがいの暮らしをしているが、世の男たちの心をとらえて離さない。20歳という若さで、自ら命を絶つところは、真間娘子や菟原処女と同じだが、人物像から言うと、どうやらこの二人とは全く違うようだ。

 そこで、松井プロデューサーに聞いてみると、その美女の名前は、「珠名」……

 そうか、そうだったのか、それで思い出さなかったのか、と自分にひとりごちをしたのだった。確かに、「珠名」の歌は、「日めくり万葉集」でも、ある選者の方が、取り上げて、独自の楽しい読み解きをしてくれたのである。

 その選者は、ラジオの子ども電話相談などで知られる昆虫博士・矢島稔さん。そして、矢島さんにとって、この歌の読み解きのテーマは、「美女」というよりむしろ「蜂」だったのである(もちろん、矢島先生、「美女」にも、強い興味関心があったようだったが、「蜂」の方が上回っていたということだろう)。それもあって、すぐには美女の「珠名」に思い至らなかったことが分かったのである。矢島先生の、この万葉秀歌の解説を、以下にピックアップしてみよう。(小河原記)

各地に残る伝説を歌に詠んだ、高橋虫麻呂。今の千葉県の南部、安房国の周淮郡にいた、ある娘を詠んだ歌です。

しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 末の珠名は 胸別の 広き我妹 

腰細の すがる娘子の その姿の きらぎらしきに 花のごと 笑みて立てれば

 矢島さんが注目するのは、この中で詠われる「すがる娘子」である。「すがる」は「縋る」で、「すがりつく」とか、「まとわりつく」で、「腰の細い乙女が、男にすがりつく、その姿」とでもいう意味なのだろうか(?)

 ところが、違うのです。

矢島先生は、こう説明している。

 「スガルっていうのは、ちょっと前まで使われていたハチの呼び名。これ、スガルとかスガリとか言うんですけれども。今でもあの、ジバチというのがあって、よく巣を掘り出して食べるなんていう習慣があって、今でも長野県あたりは沢山やってます。あれスガルって言うんですよ。で、要するに、胸広で、柳腰で、こうくびれてるんですが、そんな美女のことです。(略)スガル娘子、つまり、美女の表現の一つと思うわけですよ。それが、ズバリ出てる」

 歌の口語訳は次のようになります。

「安房の地につづいている周淮の珠名は、胸幅の広い豊かな娘、腰の細いすがる蜂のような娘子で、その姿は輝くばかりな上に、花のように微笑んで立っていると…」

 と、ここまでは、輝くばかりに、美しい肢体をもった乙女が、にこやかにほほ笑んで立っていて、ブコウスキーが描く「美女」とはちょっと様子が違うように思える。

 ところが、ところが、歌の後半は、次のように続いているのである。

玉桙の 道行き人は 己が行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ

 さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻離れて 乞はなくに 鍵さへ奉る

 人皆の かく惑へれば 顔よきに 因りてそ妹は ( )はれてありける

 「道を行く男たちは、用事を忘れて、呼びもしないのに、娘の家の門に吸い寄せられて行きます。隣りのご主人は、さっさと妻と別れ、頼まれもしないのに娘に家の鍵を渡します。男たちの誰もが、もう珠名に夢中。美貌をたよりに、彼女は遊び戯れていたと言います」

 矢島先生の解説は続きます。

 「恐ろしいんですよ、ハチは。刺されたら痛いし、恐いし。だけど食べる物にもなる。で、姿も美しいと思う人もいる。そのぐらいきっと、ハチ、色んな種類がね、身の回りにいたんですよ。その時代はね。だからその美女にしても、そのパッと見た瞬間にハチを思い出すっていうぐらい、人の周りに色んなハチがいっぱいいたんだろうと思います」

 矢島先生、美女伝説に惹かれてこの歌を選んだだろうとは思うのだが、それ以上に、ハチに魅せられて、熱く思いを語っている。

 矢島先生はハチに、松井プロデューサーはブコウスキーに思いを馳せて、この万葉秀歌を読み解くのも、万葉集の持つ魅力の一つである。

 ちなみに、万葉集を愛する、日本を代表する詩人大岡信さんは、この歌を次のように評している。

 「生々として淫奔な美女ぶりをうたった詩は、日本の詩歌の歴史において、もちろん画期的なものであり、その後もまず類例をみない。万葉集最盛期の長歌は厳かで人間離れしているところがあり、詩歌は神と人間の中間にあった。ところが天平時代になると歌は人間的になり、生活感覚が匂いたってくるところがある」

 

 

 ◇ちょっとしたスクープ◇

 「日めくり万葉集」の選者のお一人である、作家の太田治子さんとは旧知の間柄だった。太田さんは、昭和51年に、NHK教育テレビで始まった「日曜美術館」の初代の司会者で、その数年後、すれ違いではあったけれど、同番組のプロデューサーを担当したことが縁で、それ以来のお付き合いである。そんなことから、太田さんが、万葉集に興味関心を持っていらしたことは知っていたが、美術に造詣深く、独特の美的なセンスをお持ちの作家としての太田さんが、万葉集の中から、どのような歌を選ばれるか、とても楽しみだった。

 そして、太田さんに選者をお願いするもう一つの楽しみがあった。それは、若い頃から万葉集を愛読していたとされる作家太宰治と万葉集の接点を探ることにあった。言うまでもなく、太宰は、太田さんの父だが、万葉集を愛好したとされる太宰と万葉集のつながりが、これまであまり表に出てきていないのである。太田さんだったらそのあたりのことが、少し分かるのではないだろうかと思ったのだ。

 ただし、太宰と万葉集の関係で、ただ1つ分かっていることがある。

太宰というペンネームを、万葉集から取っていることである。 

 昭和235月発行の雑誌「大映ファン」の「女優・関千恵子の『太宰先生訪問記』」の記事の中で、「先生のペンネームの由来をお聴かせ下さい」という関の質問に、太宰はこう答えている。

 「特別に、由来だなんて、ないんですよ。小説を書くと、家の者に叱られるので、雑誌に発表する時本名の津島修治では、いけないんで、友だちが考へてくれたんですが、万葉集をめくつて、初め、柿本人麻呂から、柿本修治はどうかといふんですが、柿本修治は、どうもね。そのうち、太宰権帥大伴の何とかつて云ふ人が、酒の歌を詠つてゐたので、酒が好きだから、これがいゝつていふわけで、太宰。修治は、どちらも、おさめるで、二つはいらないといふので太宰治としたのです」

 ただし、「万葉集からいただいた」と、確かに太宰本人が話しているのにもかかわらず、太宰のペンネームの由来は諸説あって、どれが本当なのか分からないというのだ。本人が話していながら、「それは太宰特有の嘘で、面白がって言っているだけ」と言われるのも、いかにも太宰らしくて「面白い」のである。

太田さんも、この「太宰権帥大伴」は、大伴旅人のことで、酒が大好きだった太宰が、「太宰の帥・大伴旅人」の讃酒歌から、取ったのだろうということ以上は、分からなかった。

 監修の坂本信幸先生にも相談したところ、先生も、このインタビューで答えているのは、大伴旅人のことだろうと言い、さらに次のような話をしてくれた。「太宰のペンネームについてはいろいろ説があるようですが、中学時代の日記にちょっとエッチなころを書くところで万葉仮名を使っていたと云うことは有名ですね。大伴旅人は、晩年になってから堰を切ったように歌を作り始めますが、太宰の処女作は『晩年』というタイトルだし、大伴氏は新興貴族藤原氏に対して、斜陽の貴族で、太宰の作品に『斜陽』があったりと、偶然とはいえ面白いですね」

 いずれにしても、太田さんとの最初の打合せは、そこまでとして、次回の担当ディレクターとの打合せまでに、双方もっと調べてくることにした。

 担当のディレクターは、若手の小倉ディレクターで、その後、彼女にこれまでの経緯を含めて引き継いだ。彼女は、太宰はともかく、太田さんの作品を余り読んだことがない、ということで、何冊か、太田さんの著作を買い込み、それを片端から読み始めた(らしい)

その後彼女と顔を合わす機会がなくなったところを見ると、他の取材がない時は、家にこもって、それらを読みまくっているのだろう。

 それから、1週間位経って、久しぶりに彼女からメールが入った。メールの文面から、彼女の興奮が伝わってくるような文面だった。

 「あった!ありました!太宰と万葉集の接点が!」

 これから後は、太田さんに出演いただいた番組の記録に委ねるが、確かに、太宰治が、万葉集4516首の中から、自分の愛する恋人に捧げた1首が「あった」のである。それも、太田さんが書かれた「明るい方へ」という、父太宰と母太田静子の真実を描いた作品の中に「あった」のである。

 次回の打合せで、小倉ディレクターからこの歌が差し出された時、一番驚いたのは、太田さんだった。自分自身のペンで書いた中に、太宰が愛した万葉秀歌が1首眠っていたとは……

 ご自分の著書の中に、確かに万葉秀歌があることを確認した太田さんから、なぜそれに気がつかなかったかを聞いて、その理由が分った。

 この本の執筆時、この歌を書いたのは覚えていたのだが、太田さんは、この歌の余りに抒情的なところから、古今和歌集の歌と思い込んでいたのである。

 それは、大伴坂上郎女の切ないばかりの恋歌だった。

 

 

 ◇太宰が愛した万葉秀歌◇

 その歌とは、

 常人の 恋ふといふよりは 余りにて 我は死ぬべく なりにたらずや

 世の人がいう恋する想いを越えて、もう、私は死にそうになっているのではなかろうか

太宰がこの歌を贈ったのは、その恋人で、小説「斜陽」の原著者でモデルでもあった太田静子さん、太田さんのお母さんです。

太田さんは、こう語ります。

「太宰治から、私の母の太田静子に、速達がきて、開けると、原稿用紙にこの歌だけが書かれていて……母はびっくりして、この方は死ぬんじゃないかと思って、もう慌てて伊豆の旅館に向かって飛び出したということです。取るものもとりあえず、待っててください。死なないでくださいっていう気持ちで」

 一方、太宰は、この手紙を送ると、小田原に近い静子の家に向かいました。そこで、太宰が自殺するのではと思い込み、太宰が逗留していた伊豆の旅館へと急いだ静子と行き違いになるのです。太宰は、まさか、静子が伊豆の旅館に向かったとは思いもよらず、お向かいのお家に、このまま自分は小田原の国府津館に泊まるので、帰ってきたら国府津館に来るように伝えてくださいと頼んで、その晩は、国府津館に泊まります。太宰は、一晩中静子さんの来るのを待ちますが、いくら待っても静子は現れませんでした。

 太田さんに尋ねました。「太宰は、一体なぜ、この歌を選んで静子に贈ったのでしょうか?」

 「太宰は、太田静子の気を引くために、この歌を使ったんじゃないかと思います。それはとても、人の心を引く言葉を言うのが、大変にたけた人ですから。万葉集の中でもそれほど知られてはいないかもしれないけれど、これは人の心を動揺させますよね。私がこのような歌をもらうことは、今までもないし、なかったし、これからもないと思うけど……しかし、もし私にこうゆう歌が贈られてきたとしたら、やはり動揺しますね。早く会わないといけない、こちらも走っていきたいという気持ちにかられる歌じゃないですか。太宰という人は非常に自己中心ですし、クールな所があっただけにですね、万葉集の中のあけっぴろげな所、大らかな恋する心、そういうものに憧れていたと思いますね。その相手として、太田静子という人は非常に無邪気な、真っ直ぐな人でしたので、万葉集の歌の世界に通じるものを、彼女の中に見出していたのではない、というような気がします」

 

 

 ◇もう一つの「ちょっとしたスクープ」◇

 番組の監修にあたった、慶応義塾大学の藤原先生は、この番組を見てこう言う。

 「この番組は、万葉学会にとっては、ちょっとしたスクープです。太宰は、若い時から、万葉集を愛好していたことは分かっていたのですが、ペンネームのエピソード程度しか残っていなく、その作品に、万葉集の影響や痕跡が見られなかった。それだけに、万葉研究者には、ちょっとした衝撃を与えることになると思います」

この歌の作者の大伴坂上郎女は、言うまでもなく、万葉集の中でも1、2を争う女流歌人である。しかし、この歌の評価は、これまであまり高くなく、それほど知られた歌ではなかった。今回番組の制作を開始するにあたって、藤原先生に、監修者が推薦する800首の万葉秀歌のリストを作成してもらったのだが、そこにも載っていなかったのである。

 しかし、それを、太宰が選んでいた、という、今回初めて明らかになった事実。そこから、太宰は、かなり万葉集を読み込んでいたのではという推測が浮かび上がってくる。もしかしたら、それによって、この歌の評価が変わるくらいのインパクトがあったのでは、とも思われる。これこそ、太田さんしか、知ることができない事実であり、万葉学会にとって、スクープ的な価値があるというのもうなずけるところである。

 その藤原先生から、もう1つ、「ちょっとしたスクープ」と言われた「日めくり万葉集」がある。

 それは、奈良法隆寺の管長・大野玄妙さんが選んだ、法隆寺がある斑鳩を詠んだ歌だ。大野さんは、607年、聖徳太子によって建立された法隆寺の、129代目の管長にあたる。

 「日めくり万葉集」のDVDを再生してみよう。

 斑鳩の 因可(よるか)の池の 宜しくも 君を言はねば 思ひそ我がする

 斑鳩の因可の池の名前のように、「よろしい人、好ましい人だ」と、誰もあなたのことを言わないので、気をもんで、私はいます。

 万葉集では、斑鳩を詠んだ歌は、この1首だけである。池の名前の「よるか(因可)」と「よろしく(宜しく)」をかけて、「よく言ってくれない」と気をもむ、とても素朴で、微笑ましい歌です。

 いま斑鳩の地には、因可の池はなく、地元で聞いても、どこにあったものかも分かってはいません。万葉集の研究者の間でも、これまでその場所については特定されていませんでした。

 そこで、大野管長と打合せの際、何気なく(ほとんど期待しないで…)、「因可の池は、どのあたりにあったと思われますか?」と、管長に、水を向けてみたのです。

 すると、管長は、こともなげに、「ああ、今もありますよ。因可の池は、法隆寺の中にあります」と言うのです。

 思いがけない答えにビックリして、改めて問い返すと、管長は、次のように答えてくれました。

 「この法隆寺に東大門という門がありますが、その門の東側に聖徳会館という大きな建物を建てているんです。で、その聖徳会館の南側に、低い、湿地帯がありまして、私たちの子供の頃には、その辺には水が溜まったりしていたのですけれども、まあ、その辺りが、その因果の池の跡というふうに言われておりましたですね。聖徳太子さまがお住まいになっていた斑鳩の宮と、そしてこの法隆寺のちょうど真ん中辺りの、いかにもという場所に当たります」

 そして、斑鳩の地に生まれ育った管長は、万葉の時代の斑鳩の里の人々の暮らしに思いをはせます。

 「この因果の池という池ですね、これは、この斑鳩の人々を潤し、また、大変人々が頼りにしていた池であったと思われるんです。ですから、皆はこの池のことを『よいように言うけれども、あなたのことは、誰もよいようにいってくれない』と、まぁそういうふうな気持ちが、よく表れていますね。そうして、それでも、私は好きなんですという、その人の心情には、とても好感が持てますね」

 「因可の池」は、一般公開されていない法隆寺境内にあるため、万葉集の研究者を含め、外部の人には、ほとんどその存在を知られることはなかった。しかし、法隆寺が、昔からそのあたりにあったと語り継がれてきた場所を、「因可の池」として保存して来たことは、万葉集と同じ時代にその源を持つ、さすがに由緒ある寺ということだろう。

この「日めくり万葉集」を見て、監修の藤原先生が、万葉学者にとっては、「ちょっとしたスクープ」と言うのも、これまた肯けるところである。

 

 

「日めくり万葉集」

の楽しみ方