〜私の好きな万葉秀歌〜

 

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エピソード

「片倉もとこさんを偲ぶ」 new

「萬葉集物語」 

万葉の舞台「磐余の池」か 

「合歓の孤悲」誕生ものがたり

天皇・皇后両陛下の「朝の番組」

 天皇・皇后の歌会始の歌

 

 

 

 

 

  毎日新聞(200111216日朝刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

砧公園ネムノ木広場に立つ

ネムノ木(東京都世田谷)

マメ科ネムノキ、インドから東南アジア、中国、朝鮮、日本等温帯に広く分布する。夜になると葉が閉じ、6月から7月頃花が咲く。

 

 

 

「この木なんの木」のネムノ木

電機メーカーのCMソングで知られる「この木なんの木」の木は、アメリカネム。正式名称は、モンキーポッドといい、日の出とともに葉が開き、午後には閉じて、5月と11月、年2回花が咲く。広く亜熱帯に分布し、CM用に撮影された木は、ハワイにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クミコ

シャンソン歌手

1978年「世界歌謡祭」日本代表。82年シャンソンの銀座「銀巴里」で、プロ・デビュー、以来大人のポップスを提唱。“美しい日本語”にこだわり、ジャンルを問わず唄いたいものだけを唄ってきた。2002年アルバム「愛の讃歌」に収録した「わが麗しき恋物語」が大きな反響を呼ぶ。09年、「届かなかったラヴレター」、10年、「INORI ?祈り?」、USENチャートで総合1位、NHK紅白歌合戦に初出場した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

CD「最後の恋」

 

 

 

 

 

週刊現代(20081139日号)から転載

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         歌会始

 万葉の舞台「磐余の池」か

 20111216日、朝刊各紙は、現在奈良県橿原市で発掘調査が進められている遺跡が、これまでその所在が不明だった「磐余(いわれ)の池」の堤跡とみられることを報じました。毎日新聞の朝刊によりますと、次の通りです。

古代史の舞台「磐余池」か〜奈良・橿原

 日本書紀や万葉集に登場するも所在が確定しない「磐余池」の一部であることが有力視される6世紀後半の堤跡が奈良県橿原市東池尻町で見つかり、市教育委員会が15日、発表した。堤跡の上に大型建物跡も見つかり、池のほとりにあったと日本書紀に記される聖徳太子の父用明天皇(?〜587年)の「磐余池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)」の施設とみる研究者もいる。

 川の流れをせき止めた「ダム式人工池」の堤とみられ、同形式の池では国内最古。 幅2055メートルで東西約300メートルにわたって延びる尾根の東端81メートル分が盛り土などで整形されているのが見つかった。尾根全体が川をせき止める堤(高さ34メートル)を構成していたとみている。池の推定面積は約87500平方メートル。堤は、建物跡や周囲で見つかった土器などと同じ6世紀に造られたとみられ、同形式の最古とされてきた大阪狭山市の狭山池(7世紀前半)より古い。

 堤跡の西端に建つ歌碑には、「ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」と刻まれている。「磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日を最後にして死んでいくのか」という意味で、天武天皇の息子、大津皇子が686年に謀反の罪で処刑される前、池の堤で涙を流して詠んだとされる。

 

 ◇「磐余の池」の歌

 

 巻3-416 (大津皇子)

百伝ふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

(磐余の池に鳴いている鴨を 今日を限りと見て私は雲に隠れ去って死んで行く)

毎日新聞の記事にもあるように、大津皇子が、謀反の疑いで処刑される直前に読んだ歌です。大津皇子は、天武天皇の3番目の皇子でした。しかし、686年に、天武天皇が亡くなると、謀反の疑いで処刑されてしまいます。これは、皇后が自分の子である草壁皇子を即位させたいがための謀略だったとも言われています。

大津皇子については、万葉集に歌が収められているほかに、「日本書紀」や日本最古の漢詩集「懐風藻」にも、次のように記述されています。

「立ち居振る舞いは際立って高く、言辞は優れて明快」、「身体容貌が大きく、度量人品が高潔で奥深い(訳)」など、文武両道に優れ、人望も厚く、次の天皇にと期待する声も多かったと言われました。そして、大津皇子が処刑された時、皇子のお妃、山辺皇女が「髪を振り乱して、裸足で駆けより、殉死した。それを見たものは全員すすり泣いた」という情景も記録されています。文字通り、万葉の時代の悲劇のヒーローだったと言っても過言ではありません。

「日めくり万葉集」では、2人の選者の方が、この歌を選び、大津皇子への思いを語ってくれました。

その一人が、作家の浅田次郎さんです。

「万葉集を通して読んだ時、これは僕らが考えていた歌集というより、歴史を背景とした壮大な叙事詩であることに気がついたのです。その中で、大津皇子というのは、言わばスーパー・ヒーローです。この歌を読んで直観するのは、大津皇子の無念さというより、むしろ、死を命じられたのだから死ぬほかはない、というような潔さを感じます。その潔さが、いかにもこの大津皇子のスーパー・ヒーロー像とピッタリと重なるんです。この一首によって、大津皇子という人の人格がきれいに表現されたことに意味があるのではと思うのです」

もう一人が、写真家の井上博道さん。井上さんは、半世紀以上にわたって、奈良を拠点に万葉の風景を撮り続けています。

「大津皇子は、壬申の乱が起きた際の日本の危機を知っていました。文武両道に非常に秀でた人だったので、また壬申の乱のようになりかねないことも感じていたはずです。この歌を読むと、自己犠牲をしても国を守っていこうという悲しくも壮大な気分を感じます。大津皇子の精神には益荒男(ますらお)ぶりがあり、自分を消滅させてでも国家を守り、都造りを進めたいという大志を抱いていたのでしょう。偉い人ですよね。磐余の池の近くで惨殺された時の歌には心に突き刺さるほど、感銘を受けました。それに近い水辺を見つけると必ず撮り、この歌を写真に入れます。少しキザですが、益荒男の池と思い、厳かな気分になります。歳がいっても、このような風景を見ると元気が出ます。自分も頑張って写真を取り、このような歌を人に伝えて行きたいですね」

井上さんが探し求めている「磐余の池」の原像が、今こうして掘り出され、その堤跡が私たちの眼前に現われ出てきたのである。

 

 

 「合歓の孤悲」誕生ものがたり

 それは、NHK文化センター青山教室から始まりました。

 その教室とは、作詞家の東海林良さんが講師を務めるNHK文化センターの東海林良作詞教室です。東海林さんは、柳ジョージや萩原健一等のロックや渡辺真知子「唇よ、熱く君を語れ」、石川さゆり「沈丁花」、近藤真彦「無頼派」等ヒット曲を作詞し、自ら「新無頼派」を宣言する一方、「100年残る抒情歌作り」運動を提唱するなど、プロデューサーとしても積極的な活動を展開しています。この作詞教室も、その運動の一環ですが、この教室では、5年前から、一般の受講生に「心に残る抒情歌づくり」を指導し、優秀作には、東海林さんの友人の作曲家が曲をつけ、それをプロの歌手に歌ってもらい、作品として完成させる等、受講生の間で人気になっています。

 東海林さんは常々、「日本の艶歌の原点は、万葉集だ」が持論で、そこで、東海林さんに、「日めくり万葉集」の選者をお願いしたのです。そして、東海林さんが、「一番好きな万葉秀歌」として選んでくれたのが、まさに「艶歌の原点」というべき恋歌でした。

 それが、紀女郎の「合歓木の花」の相聞歌だったのです。

昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ

(巻81461

 「主人(あるじ)の私だけが見るものではない。下僕(しもべ)のそなたも一緒に見なさいな」

年上の女が、若い男を誘っている歌で、年配の紀女郎が、当時まだ若く、年下の大伴家持に向けて詠んだものです。

合歓の木は、夜になると葉を閉じることから、一般的には、「合歓の木の子守唄」のように、眠りをイメージする花とされています。しかし、万葉の時代は違っていました。もともと中国から入ってきたとされていますが、「合歓」という文字が示す通り、「歓びを合わせる」、つまり、男女の交合を象徴する花として詠われているのです。どのような状況で詠まれたのか定かではありませんが、かなり大胆な歌と言って間違いではないでしょう。

「美しい艶歌」を作りたいという東海林さんは、4516首の歌の中から、他にはほとんど歌われていないこの「合歓木の花」の歌を、東海林さんの「一番好きな万葉秀歌」として選んだのです。

「さすがに作詞家、目の付け所が違う」と舌を巻いたものでした。

そして、東海林さんは、作詞教室の講義で、この歌を取り上げ、この万葉秀歌を、現代の流行歌に改題してくれたのです。「日めくり万葉集」は、その模様を収録させてもらい、放送しました。

東海林さんがつけた歌のタイトルは、「合歓の孤悲(こい)」

 歓び合わす 夢を見て 櫛も通さぬ 朝寝髪

乳房も熱く 手枕に 一輪指しに 合歓の花

日陰の花の美しさより いっそ一夜の花でいい

来るの来ないの 来ないの来るの

夢があるならこの恋に 花の命と競いたい

 

東海林さんは、この歌について、こう語っています。

 「これはね、作曲家が弦哲也とか三木たかしなら、いいメロディーが付きます、こういうフレーズは。あの言葉は悪いけど下世話、下世話なとこに、いいメロディーが付きます。いいメロディーが付かないと残らない。大体、今の演歌は、女の気持ちを、男の作者が、こういう女性がいて欲しいと思って書いてますから、嘘が多いんです。ところが、この歌のように、女性側からストレートに、こういう投げ方をされたら、もしかしたら一番新しい流行歌に、流行歌を変えるぐらいの歌になると、私は思います」

 そして、この歌に曲をつけて、楽曲として完成させて、コンサートやCDにのせてもらおうということになりました。

 作曲は、弦哲也さんとか三木たかしさん(2009年に逝去)ではなく、青山一さんにお願いすることになりました。

 作曲家の青山一さん……多分、どなたもこの名前を耳にされたことはないでしょう。インターネットで検索しても出てきません。「青山一」と打ち込んで、インターネットで検索して、真っ先に出てくるのは、作曲家の「青山一」ではなく、「青山一丁目」です。

 そうです、この「青山一」さんは、作曲家ではなく、ある音楽家のペンネームです。それもとても高名な音楽家ですが、全くジャンルが違う上に、作曲をされるのは初めてのことでした。

 詞は、NHK文化センターの青山教室から始まったことは前述しました。そして、この曲作りの方も、同じくNHK文化センターの青山から始まったのです。

 青山さんが、青山一丁目にあるNHK文化センター(地下鉄「青山一丁目駅」の駅ビルの中に、文化センターはあります)すぐ近所に住んでいたこともあり、作曲の打合せは、毎回文化センターのロビーで行っていたのです。そして、曲が完成して、作曲者名をどうしようかという段になって、ご本人の希望もあり、ペンネームにすることになったのです。そこで、ペンネームは、「青山一丁目」を略して、「青山一」とすることにしたのです。「一」には、「一丁目」という意味と、作曲は「初めて」という2つの意味が込められています。

 青山一さんの本名は、まだ伏せたままになっていますが、いずれ、NHK文化センターの講座やこのサイトで、ご本人から披露していただくことにしたいと考えています。

 さて、この歌を誰に歌ってもらったらいいのか、東海林さんとの打合せが繰り返されました。もちろん演歌の女王と言われる歌手の方の名前も出てきました。しかし、この歌は、「艶歌」ではあっても、「演歌」にはしたくない、ということで、「思い切ってジャンルの違う歌手の人に頼んでみたら」、という、ある人からのアドバイスもあり、出てきた名前が、クミコさんでした。一般的なジャンルで言えば、シャンソン歌手です。1982年シャンソンの銀座「銀巴里」で、プロ・デビュー。2002年アルバム「愛の讃歌」に収録した「わが麗しき恋物語」が大きな反響を呼びます。09年に「届かなかったラヴレター」、10年には「INORI ?祈り?」等、シャンソンにとどまらず、“美しい日本語”にこだわり、ジャンルを問わず唄いたいものだけを唄ってきました。そんな実績から、知る人ぞ知る実力派の歌手として活動してきましたが、一般的には、まだその名前を知る人は、それほど多くはありませんでした。

 正直、私も、そして東海林さんも、名前は聞いたことはあるけど、これまで歌は聞いたことがありませんでした。そこで、早速ベスト・アルバムを買い込み、クミコさんの歌を、初めて聞いたのです。まさに、「愛の言霊」を紡ぐ歌手、という形容がぴったりの歌い手でした。私たちは、即、クミコさんに歌ってもらいたいということで、伝手を頼って、申し入れに行ったのです。まさに、万葉の「愛の言霊」を、現代の人に向けて歌い紡んでいただきたい、というお願いでした。そして、クミコさんからは、すぐに快諾の返事をいただいたのです。

 それからでした。その年のNHK紅白歌合戦に初出場し、一躍その名が全国に知られるようになったのは……

最初の音楽録音は、11313日夜、都内のスタジオで、と決まりました。

そして、311日のことでした。言うまでもなく、東日本大震災の日でした。メールの記録を見ると、この日昼過ぎ、13日のスタジオの件で、レコード会社から連絡を受けています。その直後のことでした。東京も、震度5強の激震で大揺れした後、テレビで見た、息を飲み、目を疑うような光景の連続に打ちひしがれていました。そんな時、再度レコード会社のディレクターから電話があり、クミコさんが、石巻市で、大津波に遭遇したらしい、というのです。たまたまこの日夜、石巻市民会館でコンサートが予定されていて、石巻に滞在中だったのです。いずれにしても、携帯も繋がらないし、連絡不能というのです。私も、クミコさんにメールをしたのですが、打ち返しはなく、メールが届いた気配はありません。その後、やっと連絡がつき、どうにか命からがら逃げ延びて、無事だったらしい、、、いずれにしても、13日のスタジオは中止という連絡が、レコード会社からあったのです。

実際、クミコさんは、この日リハーサルの直前に、市民会館地下の楽屋で大地震にあい、かろうじてスタッフとともに裏山に登って逃れ、その逃げる途中後ろを振り向くと、市民会館が濁流にのみ込まれていたというのです。

クミコさん一行が、なんとか東京に帰りついたのは、13日の夜になりました。

その間、中止になった13日の音楽録音をどうするか、ということの話し合いが行われました。実は、この「合歓の孤悲」は、ラジオ深夜便の「深夜便の歌」に採用されて、41日から3カ月間、毎晩放送されることになっていたのです。従って、3月中には、楽曲を完成させて、深夜便に引き渡さなければならないのです。

そこで、東海林さん、青山さんと協議して出した結論は、「残念だけど、収録を断念せざるを得ない」でした。理由は、大震災に被災したクミコさんのショックは大きく、しばらく歌を唄える状況にないだろう。さらに、このような状況の中で、「恋の歌」を歌ってもらうことは、クミコさんに対して残酷だし、被災者の方々に対して不謹慎なのでは……と考えたからです。そして、レコード会社を通じて、録音をしばらく中断、従って「深夜便の歌」については、一時返上したい、ということで相談したのです。

しかし、クミコさんの結論は、違っていました。

「どうしてもやる、こんな時だからこそ歌う」というのです。

月末ギリギリのところで、クミコさんの歌録りをしたのですが、クミコさんのショックは大きく、まだ夜も眠れないということで、スタジオに来られた時は、これで本当に歌えるのだろうかとすら思えるような様子でした。しかし、マイクの前に立った瞬間、クミコさんは、ガラリと変わったのです。見事に「合歓の孤悲」を歌い上げたのです。3回の録りで、ディレクターからOKが出たのです。

この日夜、クミコさんから、次のようなブログが発信されました。

レコーディングしている

こんな時だけど こんな時だから

ちゃんと やる

5月に出す予定のシングル

恋の歌

こんな時だけど  こんな時だから

恋の歌だ

人恋しい 恋の歌

恋とかなんとか  そんなのって

余裕のある時のもんだよね

そうかもしれない

でも

そうじゃないかもしれない

石巻の避難所で

みんなに運ばれてきたおじいちゃん

呆然として 服脱がされて

全身濡れてた

その  おじいちゃん

次の日 いなくなってた

流されたおばあちゃん 探しにいった

おじいちゃんとおばあちゃん

恋の歌 唄いながら  思いだしてた

なんだか 思いだしてた

 完成した「合歓の孤悲」は、予定が早まって、330日のラジオ深夜便から放送が始まりました。とてもしっとりした、だけどとても力強い恋歌でした。リスナーの方々の反応も上々だったようです。

 この曲は、526日、エイベックスから、あの有名なシャンソンのスタンダード、「哀しみのソレアード〜最後の恋」とカップリングされて、CDとなり発売されました。

 「合歓の孤悲」の歌詞は、最終的には、次のように書き換えられ、完成したのです。

 このような経緯で、この楽曲は、NHK文化センター青山教室から生まれた「日めくり万葉集」の副産物となったのです。(小河原記)

「合歓の孤悲」

              作詞・東海林良

一 あなたに逢いたい  全て捨てて

千年過ぎても 尽きせぬ願いよ

ア〜一番好きだった男 (ひと)

青春の 溢れる想い出

ア〜退屈な人生は  欲しくない

ときめきたいの  輝きたいの  朝・昼・夜と

女はいつも満たされたいの

薄紅色の花  合歓の花陰

二 ドキドキするような 男(ひと)ではないが

静かに流れる 日常が愛しい

ア〜二番に  好きだった人

結ばれて  女は幸福

ア〜美しい人生は  欲しくない

何か足りない  何かが欲しい  昨日・今日・明日

震える愛よ  眩しい恋よ

薄紫の花  藤の花房

ア〜退屈な人生は  欲しくない

ときめきたいの  輝きたいの  朝・昼・夜と

戸惑う心  何処に誘う

薄紅色の花  合歓の恋唄

 

CD発売中(IOCD-20327  avex io

「最後の恋〜哀しみのソレアード」カップリング「合歓の孤悲」

 

 

 天皇・皇后両陛下が欠かさず観る「朝の番組」

1110日、スペインのファン・カルロス一世国王夫妻が来日すると、昼は歓迎行事に、夜は宮中晩餐会に相次いで出席した天皇・皇后両陛下。高齢にもかかわらず多忙な日々を過ごされていることに、心配の声は尽きない。だが、宮内庁関係者によると、そんな両陛下には、毎朝迎える“安らぎのひととき”があるという。それはある5分間のテレビ番組だったー。

 年間300日を超える公務に励まれている両陛下。健康を維持するために、早朝から散歩をされているという。

「両陛下は、皇居にいらっしゃるときで天候の良い日には、一般には公開されていない皇居の中の散歩道を、30分ほどかけて歩かれています。皇居は自然の宝庫といわれ、カシの大木やヤマユリなどの花々、タヌキやハクセキレイといった動物や野鳥の姿も観られる。昭和天皇もお好きだった皇居の散歩を、両陛下も楽しんでいらっしゃるようです」(宮内庁関係者)

散歩で清々しい汗を流されたあとは、両陛下揃って居間に移動し、テレビの前に腰を落ち着ける。

 「散歩が終わってから、NHKデジタル衛星ハイビジョンで放送されている『日めくり万葉集』という番組を観るのを、両陛下は毎日とても楽しみにされておられます」(前出・宮内庁関係者)

 両陛下が習慣的に視聴されているという『日めくり万葉集』は、今年1月から放送が始まった、平日の毎朝6時55分から始まる、5分間のミ二番組。

 雅楽師の東儀秀樹氏(49歳)や書家の武田双雲氏(33歳)、作家の浅田次郎氏(56歳)など、各界の著名人が出演、毎回一人が一首ずつ万葉集の中から歌を選定し、歌の内容に沿った自身のエピソードを語る。

歌を解説するのは、女優の檀ふみ氏(54歳)だ。

 「万葉集をご存じない方にもご興昧を持っていただけるような番組作りを目指し、いまでは、男女問わず、ご年配の方を中心にご好評をいただいております。檀ふみさんの、温かく心に染み渡る語りも人気です。

 番組は1年間(全240回)で終了しますが、元旦には、『万葉集への招待』という番組名で特番が放送される予定、来年1月5日からは、教育テレビで再放送が決定しております」(NHK広報局)

 視聴者の中に両陛下が含まれていることは、檀氏にとっても励みとなっているようだ。

 「陛下がご覧になっていらっしゃることは、存じておりました。これからも、より一層、みんなで良い番組を作るべく頑張らせていただきます」

万葉集は、7世紀後半から8世紀後半に編まれた、現存する最古の和歌を集めた歌集。番組もさることながら、万葉集と天皇家は、歴史的にも繋がりが深いと話すのは、皇室ジャーナリストの松崎敏弥氏だ。

 「万葉集には歴代天皇が詠まれた和歌がたくさん入っているし、日ごろから勉強をされるためにも番組をご覧になっているのかもしれませんね。もともと両陛下は和歌に対してご熱心で、年始に行われる宮中行事の歌会始(共通のお題で歌を詠み、披講する会)では、両陛下ともご自身で作られた歌を詠まれています。

 また、東京都庁職員の黒田慶樹さんとご結婚された黒田清子さんの旧名である、『紀宮清子』というお名前は、万葉集の第6巻に収められた、山部赤人が聖武天皇のお供をして紀伊の国に旅をしたときの長歌から選び取られたものです」

 来年は即位20周年、ご成婚50年など、今年以上の激務が予想される。そうした状況を踏まえ、年明けの歌会始で、来年のお題である「生」という文字を用いて、両陛下はどのような歌を詠まれるのだろうか。

 

 ◇天皇・皇后両陛下が歌会始で詠まれた歌◇

歌会は、すでに奈良時代から始まったことが、万葉集によって知ることができます。天皇が催す歌会を「歌御会」といい、「歌会始」のもととなる「歌御会始」は、鎌倉時代の中期から始まったとされています。

さて、2009118日、宮中で行われた歌会始で披露された天皇・皇后両陛下の歌は、ちなみに、次のものでした。兼題は、前述のように、「生」です。

天皇

生きものの 織りなして生くる 様見つつ 皇居に住みて 十五年経ぬ

皇后

生命ある もののかなしさ 早春の 光のなかに (ゆす)()の舞ふ

 

 

 

 

 

 

 

「日めくり万葉集」にまつわるエピソード